教育を語る・政治を・社会を語る《市民ひとりひとり》


第6弾! 2000年時代の小学校授業改革  ――  1999.12.23.(水)

 

 学校教育に門外漢が偉そうに批判ばかりしてどうあるべきか、具体的な提案もできないじゃないかといった陰口が聞こえそうだから、かねてから温めていた改革のアイディアを披露に及ぶことに。アッと驚くほどのものではないが、少しは役に立つのでは。プロ教師批判は毎日が愉しくて愉しくて、カッパエビせん、やめられないといった状況ではあったものの、楽しみは年末ジャンボ宝くじが欲張りません、せめて3億円程度当たる夢に向けることにして、一時中断。プロ教師をホッと一息つかせることになるが、それもしばしの敵に塩である。

読み聞かせ育児

 十年ほど前に知り得た情報・知識に、親(特に母親)の習慣的な絵本・童話の読み聞かせで育児された子供は情緒豊かに育つばかりではなく、一つのことに耳を傾ける姿勢の積み重ねがその子どもの習性となって、幼稚園(保育園)・小学校と先生の話を長い時間聞いていられるだけではなく、よく本を読む子に育つという調査結果があった。それに反して、ビデオやテレビで育児された子どもは成長して耐性の面で劣り、多行動の傾向を示すと言われた。幼児期のまだ未熟な理解能力ではビデオ・テレビの人物の動きや場面転換、あるいは色の変化の激しさを追うだけが精一杯で、集中力を養うチャンスを与えられないままの成長が落ち着きのない性格へとつながっていくのだそうだ。

 これは母親や父親が子どもに対して読み聞かせの習慣があったかどうかと現在の子どもの態度傾向との関連性を調査した結果の結論ということで、なる程と多くの人を信じさせるだけの説得力があった。絵本や童話の内容豊かな言葉を親の声を通して耳に把え
、想像や夢をふくらませて自己の世界を広げる。物語に漂っている感性・情緒・善悪の価値観等が、例えその一部ではあっても、それを読み聞かせる親の感性・想像力・善悪の価値観等のオブラートに微妙に包まれて無意識的に、あるいは感覚的に子どものまだ幼い感性・想像力・美意識等を把えて、そこから身動きさせなくするといった光景は美しい。表面的には親の物語る声に目を輝かせ、身じろぎもせずに耳を傾ける。このような母(あるいは父)から子へのコミュニケーションの構図が育み作り出した子どもの静の姿が幼稚園や小学校での教師の話を落ち着いて聞く姿勢を可能とすると言うのだろう

 だが、いくら子どもが本の読み聞かせによって物事に集中する性格を養ったとしても
、どんな事柄にも退屈を感じない人間となれるわけではない。親が絵本や童話の読み聞かせから離れて、自前の言葉で何か子どもに語りかけたとき、その親が絵本や童話の豊かな言葉に匹敵する言葉を身につけていなかったとしたら、子どもは絵本や童話を読み聞かせられるときほどには目を輝かせ、耳をじっと澄ますことはないだろう。いわば子どもをその場に身動きさせずに置くことができたのは、母親や父親が絵本や童話の言葉
、さらにその言葉の持つ感性や想像力に助けられてのことで、自分自身の言葉の豊かさではないかもしれない。

 それは教師についても同じことが言えないだろうか。いくら教科書に立派なことが書いてあったとしても、教科書から離れたときの教師の言葉・教師自身の感性・想像力を土台とした言葉が教科書の持つ感性・想像力に匹敵するか、それを上回る豊かさを備えていなければ、成長したなりに世の中とか世界というものを知ってしまった子ども、あるいは知恵をつけてしまった子どもに、その子がいくら人の話に耳を傾ける集中力を養っていたとしても、退屈さやインチキ臭さを感じさせないままに済ますことは難しいだろう。第三者からの言葉に気持を集中させて耳を傾ける姿勢というものは、その集中の度合いに応じて、無意識的にその言葉の中身、あるいは真贋を嗅ぎ分けようとする作業を同時進行させるものでもあるから、なおさらのことにそれに耐えうる内容を持たせなければならない宿命を自ずから担うことにもなる。

 子どもがまだ幼いうちは感覚的に把えるだけだから、母親(あるいは父親)は自分なりの独自の言葉を持たなくても、他人の言葉をなぞるだけ、いわば読むだけでよかったのかもしれない。子どもの側から言えば、世界についてまだ無知であったから、例え借り物であっても、親の言葉を耳にするだけで珍しい世界や新しい発見を新鮮な形で目の前に広げることができただろうから、さしたる努力も必要なしに自然と集中することができたはずである。読み聞かせの年齢を卒業した子どもに父親・母親がただ勉強しろ、頑張れ式の、ああしなさい、こうしなさい、あるいはそんなこと・あんなことはしてはいけないといった強制・支配(命令・指示)の言葉しか発することができなかったとしたら、いわば自前の言葉が豊かさとは正反対の貧弱さを内容とした権威主義的なものでしかなく、その手の意思表示でコミュニケーションを構成していたなら、子どもは新しい発見も次なる新たな世界も目の前に広げることもできず、せっかく幼児期に養った集中力も帳消しの憂き目に会うことになる。

 言い換えれば、あれだけ新しい発見や世界を与えてくれた親が、今の若者言葉で言えば、ただ「ウザったい」だけの存在と化すこともおおいにありうることで、現実にも多くの親子関係がそのような状態を呈しているのである。ただ「ウザったい」だけの親に子どもは忍耐を発揮しうるだろうか。政治家や芸能人といった社会的著名人の人事や噂話といった、テレビや新聞・雑誌から得た情報を主体とした会話は活発に成り立たせることができても、そこから離れた会話はパチンコでいくら儲けたとか、この服はいくらしたとかいった内容でしか成り立たせることができないのは、絵本や童話から離れた場合の父親・母親の言葉が貧弱なのと軌を一にするものであろう。

 まだ幼稚園・保育園の子どもにはたいした言葉でなくても、それなりに誤魔化すことはできるが、小学校の年齢に達した子どもに例え教科書を読むことに関しても、学校教師となればそれなりの解釈、刺激的・創造的解釈がなければ、読み聞かせ育児によって集中力を身につけた子どもであっても、満足させることは不可能である。ましてや落ち着きのなさを特性とするとされているビデオ・テレビ育児された子どもを授業に惹きつけることは極めて困難なこととなる。

 教師の言葉がつまらなくても、生徒がおとなしく授業を受ける状況は人の話に耳を傾ける集中力を習性として身につけていたとしても、そのような習性からのものではなく
、そのような習性が側面的に持つ忍耐の発揮を受けた退屈さの抑圧によるものであろう
。ましてや集中力を身につけていない生徒にとっては、拷問にも等しい。いわばおとなしく授業を受けている状態をもって、生徒が集中力を発揮しているとは限らないのである。

 また生徒に退屈さを忍耐させる姿勢を強制している主な原因に教師の持つ威嚇性に対する恐れも含まれているはずである。私語や席立ちといった「学級崩壊」現象は教師の威嚇性さえ通用しなくなった状況を言うはずだからである。もっとも私語や席立ちがなくても、教師の威嚇性=怖さが教室秩序を維持しているのだとしたら、悲しい風景としか言いようがない。

 教師と生徒(子ども)との間に豊かな感情や思考・感受性の交流が何ら行われなければ、例え生徒(子ども)が耳を傾けていたとしても、単に耐性を強制されているに過ぎず、集中力も結果的に形式的な体裁として惰性で維持しているに過ぎない内容のものとなる。

 そういったことの例はいくらでも挙げることができる。小学校から中学・高校の入学式・卒業式、その他における校長や来賓の決まりきったありきたりの退屈きわまりない挨拶に対する生徒の、じっと我慢して終わるのを待つ忍耐の姿勢は惰性化した習性としてあるものであろう。

 もし幼児期の親の読み聞かせのときのように集中力を発揮して耳を傾けたとしたら、人間形成に関しても、将来的な自立(自律)に関しても、何ら役に立たない無駄な努力というものである。逆に彼らが言っていることをまともに耳を傾け、まともに受止める生徒がいたとしたら、かえって怖い話となる。それなりに人生経験・社会経験を積み、それなりに豊かな社会性を獲得しているはずの校長や市会議員・県会議員、あるいは市長や県知事といった人間たちの言葉がもっぱら内容空疎な奇麗事でしか覆われていないということは、それらの言葉を学校の公の場で許していながら、実際は自分たちも退屈だと感じていたとしても、社会的に似たり寄ったりのコースをたどっている一般教師や世間の大人たちの言葉も似たような範囲を出ないことを示している。このようなお粗末さに対する反動現象が、最近の若者たちのお笑いタレントに対する過剰な親近感であろう。

 長時間人の話に耳を傾けていることを可能とした姿勢を親の読み聞かせ育児で習性化した生徒が、例え教師の授業内容が面白くなくても、じっと我慢して聞く姿は自分を誤魔化すもので、自らの集中力という長所を無駄遣いすることでしかない。耳を傾ける行為は感情や思考の交流を期待してのもので、自己の感性や想像力・美意識を何ら刺激しない忍耐は無意味でしかなく、そのような無意味な忍耐を養うことを目的に集中力を育んだはずではないだろう。

ビデオ・テレビ育児

 ビデオ・テレビ育児のマイナス性が如何に説得力あるものであったか、記憶の底から引きずり出して、その内容を改めて検討してみることにする。

 @場面転換の目まぐるしさ A人物や事物の動きの速さ B強烈な色彩とその変化の激しさ、等の要素によって、幼児期の視覚やその他の感覚・意識が物語の持つ美醜・善悪・喜怒哀楽の感情を把えきれず、いわば未消化状態を常に強いられる表面的な把握に終始する、その結果、心の奥底深くに感動をとどめる機会が少なく、人格面に情操の裏打ちが施されないままに成長する、変化や色彩の劣る対象に対しては長時間関心を示していられない性格が自然と植えつけられ、それが落ち着きのなさ=多行動傾向につながる・・・ということだったように思う。

 テレビ・ビデオは与えられるものを受け取るだけの受け身のものだという批判もある
。だが、マスメディアや第三者が流す情報を受け手が自己の社会経験や知識に照らして独自に解読したものは心理面での新たな社会経験・知識につながり、どのような解読も介在させない情報は単になぞっただけの知識、ただ知っているだけのことで終わる。いわば受け身のものとするかどうかは、受け手が独自の解読を施すかどうかにかかっているのであって、テレビやビデオといった媒体自体が決定するわけではない。

 但し、マスメディアが特殊な偏った価値観のみを情報とし、受け手をして他の価値観への選択を狭めるような状況を作り出しているとしたら、そのような情報を流す媒体そのものに罪は帰す。戦前の日本は国家権力がマスメディアを意図的に操作して、そのような状況を強制していた構図を抱えていた。

何かの書物からの知識だが、ヒトラーは侵略支配した国家の子どもたちを将来ドイツ国家に奉仕させる労働者に限定育成する目的で、その教育は一通りの読み・書き・計算ができる程度の範囲にとどめたということだが、これなども意図的な情報操作によって価値観の選択の幅を狭めるものだろう。

 そして現在の日本の学校社会は意図的ではないが、上記とそっくりな構図を引き継いでいるのである。いわば学校・教師は強制・支配的に受験圧力一辺倒の情報を優先させ
、他の情報を軽視することによって情報の受け手である子ども・生徒に対して結果的に情報の選択能力を狭めているのである。その延長に、学校社会を離れた場合の子ども・生徒が価値観の面で受験情報とは異なる特殊な偏った情報のみを嗜好する状況があるのである。

言葉を言い換えて言えば、生徒が教師の教えを教師との言葉の闘わせによって独自の解読を経過させずに、ただなぞり、暗記するだけの、教師から生徒への一方通行構造の受け身のもので終わらせている日本の教育の現状は、教えの受け手である生徒自身に問題があるとするよりは、テストの点数(その結果の学歴)を人間価値尺度の重要な物差しとして、他の価値観を遠ざけている学校の権威主義構造(管理主義構造)にこそ問題があるはずである。

 人間は経験ということに関して、年齢に関係なく、それが特に初めてのものである場合は、それまでの社会経験や知識が役立つものの、試行錯誤の学習を繰返す時間の経過を必要とした上で熟練を獲得していく。いわば幼児が例えビデオやテレビの映像に表面的についていくだけが精一杯で、内容まで理解できなかったとしても、そのような経験の積み重ねと成長という時間の経過によって、ついていくことだけで精一杯であったことから卒業して、内容をも理解していく過程を踏むはずであり、それが身体的・年齢的なものだけではない、精神的・人間的成長というものであろう。

 私自身の経験になぞらえるなら、高校を卒業する頃まで日本映画しか観たことがなかったが、あることからアメリカ映画を観る機会を得た。たいして内容を理解したわけではなかったが、今で言うカルチャーショックみたいなものを経験し、それから外国映画にのめり込んでいった。特にジェームズ・デイーンの映画に出会ったときは衝撃的で、その反動でだろう、例外はあったものの、日本映画が色褪せたものとなった。いわば外国映画に接する機会を重ねることによって、それらの映画に表面的に目を奪われることだけから卒業していき、それがどの辺までのものかは不明だが、内容自体への理解を深めていくというプロセスを踏んでいったはずである。

 幼児においても同じだろう。ただ単にビデオ・テレビの画面の変化についていくだけが精一杯の状態のまま、そこから成長しない人間は例え存在したとしても、ごく少数派のはずである。となると、幼児期のビデオ・テレビ育児によって植えつけられた、表面を追うだけが精一杯で、集中力を養うチャンスを与えられないままの成長が落ち着きのない性格へとつながり、それが落ち着きのなさや多行動傾向につながるという半ば常識化された主張はどこかズレたものとなる。

 それともビデオ・テレビ育児の子どもの落ち着きのなさや多行動はそれらの人物や色彩の変化の激しさ・めまぐめしさが親から受け継ぐ血のようにそのまま刷り込まれて性格化するということだったろうか。

 どちらにしてもたいして違わない。人間は慣れるものである。慣れるということは当たり前の状態になるということで、それは刺激性の喪失を意味する。

 実際はこういうことではないだろうか。例えビデオ・テレビの映像を表面的に追うだけの状態で成長した子どもであっても、内容を理解するだけの時間的経過と成長を重ねた子どもであっても、映像の動きや色彩の変化の激しさとか強烈さの経験が教師に逆に災いして、教師の言葉がビデオ・テレビと同等か、それ以上に直接的な上、刺激的でなければ、そのような状況に対する拒絶反応は読み聞かせで育った子どもよりも強く現れる傾向にあるということではないだろうか。

 そのような拒絶反応が忍耐といった心的な状態にとどめる無意味な姿勢で自己を誤魔化すことはせず、何らかの身体的行動(多行動)となって現れるのも、ビデオ・テレビの登場人物の変化の激しい行動性から影響されたものと解釈できないことはない。

 テレビ・ビデオは退屈であればチャンネルを変えたり、別の物にセットし直せば済む。映画が期待に反してつまらないものであったなら、払った料金が惜しければ無意味に我慢もするが、惜しくなければ外に出れば退屈さから逃げることができる。読み聞かせ育児で育ち、読書の習慣を身につけた子どもであっても、いくら読んでも面白くもない本を最後まで投げ出さずに読み通すバカはいないだろう。だが、授業の退屈さから逃げる方法は相手が怖い教師なら、今まではじっと我慢するしかなかった。ところが個人の権利意識と社会的情報の普及が子どもを一段と巧妙にさせた。隙を狙って、相手の弱点や失敗をついて力関係を逆転させ、授業の面白くなさのしっぺ返しに言うことを聞かない態度を取る方法である。

 それでもまだ怖い教師は残っていて、無意味に我慢する苦痛、あるいは拷問を強いられるケースが残されている。

 このように順を追って考えていくと、多行動は落着きのなさや集中力の欠如が原因ではなく、教師の言葉・授業の退屈さに求めなければならなくなる。ビデオ・テレビ育児の子どもよりも、本の読み聞かせで育った子どもの方が本を読む習慣が身につくという調査結果から常識化された事実性も、ほんの少し検討すれば別に特別なことではないことが分かる。強制されて苦痛であったものではなく、慣れ親しんだ幼い頃の習慣は成長と共に引きずるのは殆どの場合ごく普通なことで、本の読み聞かせ育児の子どもよりも
、ビデオ・テレビで育った子どもの方がビデオ・テレビに親しむ習慣が強いと言い換えることも可能なのである。それを言い換えないのは多くの人間が読書を善とし、テレビ
・ビデオを読書よりも悪とする偏見に毒されているからだろう。

 ビデオ・テレビは書物と比較して、視覚的にも心理的にもより直接的で、より刺激的である。このことを踏まえて言えば、教師は自分の言葉の持つ感性・想像力を読み聞かせで育った子どもよりも、ビデオ・テレビで育った子どもによってよりストレートに試されていると言える。

 女性の社会進出が進み、勢い、専業主婦であった場合よりも子どもと接する時間が短くなる。それに応じて家庭で過ごす時間が狭められる。外食の機会が増え、スーパーで買い求めた惣菜で夕食のおかずを賄う機会も増える。当然親の気持とか愛情とか、形で表現されるケース自体が減少することになり、その延長に自分の時間が取られる読み聞かせ育児よりも、その時間を昼間の仕事の疲れを回復するための休養や最小限の家事に有効に振り向けることができるビデオ・テレビ任せの育児が幅を利かすことになったのだろう。ビデオ・テレビで育児された子どもが母親となったとき、自分にされたことを子どもに振り向けるのも、これもごく自然なことである。この流れは止めることはできない。その結果の読書離れ・活字離れなのだろう。

 授業中だというのに教師の話を聞かず、断りもなく席を離れるといったことまでして授業を成り立たなくさせている学級崩壊現象が常識的に考えられているようにビデオやテレビで育児された子どもが多数派を占めていく過程での多行動によるもので、それが悪貨、良貨を駆逐する類の社会の変化だとしても、学校教師が教科書の内容をなぞるだけといった旧態依然な空疎な状況に自己を置くだけで、情報化時代の情報を上回る自己自身の情報・自己自身の言葉・知性・想像力、あるいは思想・哲学を発しえない無努力
・怠慢からくる生徒の当然な反応だとも言える。

 教師の無努力・怠慢は学校でのパソコン事情にも現れている。パソコン操作を生徒に教える自信のある教師はごく少数に限られていて、政府は操作教員を育成するという計画を立てた。なぜ教師は政府の計画を待たずに、自分のカネと時間を掛けて、パソコンに熟練しようと努力しないだろうか。それは生徒の教育のための投資であると同時に、インターネット時代にふさわしい教師として自分を成り立たせるための自分自身への投資でもある。夏休みの一ヵ月も掛けて悪戦苦闘すれば、誰だってパソコンに精通するはずなのに、怠惰な状態に甘んじているのみである。夏休みを終えて全員が顔を合わせたとき、校長を筆頭に新任の教師までが一人残らずパソコンに精通していたなら、生徒は教師なるものを見直すだろう。

 何が問題なのか(常識のウソ)

 教育に関する常識のウソはビデオ・テレビ育児を悪と決めつけたことだけに限らない。現在の教育荒廃を招いた諸要因として挙げている、「地域の教育力」、「少子化・核家族化」、父親不在」といった社会的に常識となってしまっている教育学者の主張にもいかがわしさ・うさん臭さが潜んでいる。

 例えば教育学者の尾木直樹氏は彼の著作の中で、「『少子化・核家族化の進行』・・これが家庭における人間関係のトラブルを消失させてしまいました。兄弟関係のぶつかり合いの中で、自己表現力や他者認識能力の土台が形成されるのです」と言い、大方の教育学者も右へならえの発言や主張をしている。

 世の中には一人っ子で、友達もできず、その代償に読書に耽り、成長して立派な作家になった人間もいる。そのような人間が「自己表現力や他者認識能力」「形成」していないと言えるだろうか。自己を読書の世界に置くということは(勿論、ビデオ・テレビといった映像の世界であっても構わない)、その世界で思考し、喜怒哀楽の感情を発揮する。いわばその世界で生きるということでもある。当然その人間の感性・想像力に応じて「自己表現力や他者認識能力」「形成」していくはずである。

 また「人間関係のトラブル」「消失」に関しても、一人っ子は兄弟とのトラブルは経験不可能だとしても、両親の夫婦喧嘩といった「トラブル」まで消滅させてしまっている家庭は少ないだろう。子どもは例え一人っ子でも、夫婦喧嘩からも何かを学ぶものである。父親が会社でのトラブルで受けた不愉快を家庭まで持ち帰って、母親や子どもにまで不機嫌な態度で接するといったことからも、父親の会社での人間関係とか父親自身の人間性といったことまで、漠然とではあっても、何かしら学び取る。それが「他者認識能力」によるものではないとしたら、何と名付けたらいいのだろうか。子ども自身と親との間の「人間関係のトラブル」もこの世の中から決して消滅するものではない。

 尾木氏は子どもが寝てから会社から帰宅し、朝は子どもが学校に登校してから起床する猛烈型働きバチの、子どもと顔を合わせる機会の少ない「父親不在」も、子どもの成長・人格形成に悪影響を与えていると主張しているが、「父親不在」を心理的な意味合い(心理的・精神的接触時間)を抜きにした物理的接触時間の長短のみで把えた主張に過ぎない。この手の「父親不在」論も多くの教育者が似たような主張を行うことで社会的に常識となってしまっているものである。

 ところが、99.4.12号の週刊誌『アエラ』(朝日新聞社発行)には、「幼児期に母親との接触時間が短いと、子どもの精神的発育に悪影響があるのか?米国の心理学者グループは『特に関係なしし』とする研究報告を最近まとめた」とする記事を載せている。それによると、「母親との接触時間が短い子どもほど学業成績がやや劣り、話し言葉の語彙も少ないが、この傾向も7歳になるころには差はなくなるという」ことだそうだ。 「子どもの精神的発育には幼児期における母親との接触時間の長短よりは、保護者が精神的に安定していて成熟度が高いことの方が重要であり、子どもには『グッドケアー(適切な世話)』が大事と結論づけている」とし、物理的接触時間の長短ではなく、例え短くても心理的・精神的接触時間を重要視している。但し、「精神的に安定していて成熟度が高いこと」を必須条件としているが、それは当然なことだろう。いつも大酒を食らって酔った挙げ句に妻や子どもに暴力を振るう、「精神的に安定していて成熟度が高いこと」から正反対の父親から、子どもは精神的発育によい影響を受けるはずはない

 「成熟度が高いこと」ということは、豊かな言葉を備えているということの言い換えであろう。親がそうであれば、例え物理的接触時間が短くても、ほんの一言掛けた言葉から、子どもは安心や喜びを受け止めるはずである。その言葉は直接口から発する言葉ではなくても、時間的にすれ違いの生活を送っているなら、紙切れに子どもを気づかう短いメモを記しておくだけでも、子どもの精神に豊かな感情を呼び起こすものとなる。

 物理的接触時間の長短を問題とするなら、それは内容のあるものでなければならない
。ただ単に子どもの歓心を買うためにオモチャを一緒に買いに付き合ってやるとか、顔を合わせれば、勉強しているか、成績が下がったじゃないか、テレビばかり見ていないで、もっと勉強したらどうかといったことしか言えないなら、それは親の成熟度の低さを証明するものでしかないが、既に指摘したように、子どもにとって
「ウザったい」だけのことであって、その延長にあるのが中学高学年以上の子どもと親との、子どもの側からの口をききたくもない、口をきく気も起こらないといった社会的な家庭現象としての会話不在なのだろう。

 よく言われている「地域の教育力」についても一言言うと、昔は子どもが悪いことをすると、地域の大人の誰かが注意し、子どもはそこで善悪の価値観を身につけたといったことがまことしやかに信じられている。だが、大人が怖い時代だったから、その場だけ改めたということはなかっただろうか。大人が怖いということは大人の目を恐れたことを意味する。悪さをする場合は必要以上に大人の目を警戒したはずである。いわば現在みたいに誰も注意しなくなった社会ではない。見つかって自己に決定的に不利となるイタズラや悪さは人目につかない場所で行わないだけの用心はあったはずである。もっとも誰も見ていないと思ってしたことが、誰かが見ていたということもあるが、そういう偶然は少ないはずである。巧妙な人間なら、都合の悪い偶然を教訓として、次回からは一層の用心を働かすに違いない。いわば人目につく場所でのいたずらや悪さの殆どは厳しく咎めるほどに悪質なものは少なかったはずである。

 それを「善悪の価値観を身につけた」といった大袈裟な契機とするだろうか。もし悪質なイタズラや悪さを考えもなくやらかす人間なら、叱られてその場は改めたとしたら
、相手が怖いからで、陰にまわれば、性懲りもなしに考えもない同じ繰返しを行うだろう。

 「地域の教育力」の喪失が今の子どもたちを制御のきかないものとしているという常識はいささか怪しいものと見なさないわけにはいかない。大体が「善悪の価値観を身につけた」はずの、今は大の大人・老人となっている昔の子どもたちが、学歴も地位もあるのに汚職や脱税・不正献金・経理操作といったことをやらかしているのである。この矛盾はどう説明するのだろうか。

 TBSのニュースキャスターの筑紫哲也氏が番組で、「集団の中で一人一人がどう動くか、訓練できていない」と発言していた。

 「昔は地域の中で異年齢集団を形成し、そこで人間関係・社会性を学んだ」とか、「昔は家庭で兄弟ゲンカなどを通して、自分だけではなく、相手がいることを学び、そこから対人感受性などを自然と学んだ」といった主張が一方にあり、いいことずくめの「昔」を描いている。これなどもほんの少し検証すれば、ウソに近い常識だと気づくはずである。

 上記のことが事実なら、よく言われる「日本人の非自立性」、あるいは「自己未確立
はどこからきているのだろうか。「自己主張しない日本人」、あるいは「責任を取らない日本人」とも言われる。言われていることすべてが良好であるべき「人間関係」や「社会性」、「対人感受性」に背く価値意識である。「集団の中で一人一人がどう動くか」という秩序観念にも反する。日本の社会・集団は立場の強い者=上位権威者が立場の弱い者=下位権威者を支配し、下位権威者は上位権威者の命令・指示に無定見・無抵抗の言いなりに同調・従属する権威主義の行動様式を基準秩序としている。いわばお互いに自己主張し合い、意見や立場の一致点を見つけるという対等な人間関係や社会性とは無縁の社会であり、集団である。それゆえの「日本人の非自立性」であり、「自己未確立」であり、「自己主張しない日本人」、さらに「責任を取らない日本人」なのである。

 すなわち昔の人間は(現在も殆どの人間が引きずっていることだが)権威主義的行動様式(上下関係の行動様式)の範囲内でそれぞれの価値意識を学んだに過ぎないのである。

 その点を押さえることによって、今の子どもたちの、言葉の形にして主張するまでにはいっていない意識ではあるが、一個の人間であろうとする権利意識と、上下関係で動く旧来の集団主義・権威主義の集団性との衝突が、筑紫哲也氏の言う「集団の中で一人一人がどう動くか、訓練できていない」という現象となって現れていることに思い至るはずである。

 一個の人間であろうとする権利意識の中には、授業は愉しくなくてはいけない、愉しいことによって、授業中人間として存在していられるという意識も含まれている。プロ教師の「例えつまらなくても、我慢してやらなければならない」という考えは愚かしいばかりの時代錯誤なのである。

 プロ教師の『学校崩壊』の新聞広告の宣伝文句に、誰が考えたのか、「この十年間、子どもは根本のところで変わってしまった。少年Aや黒磯事件を見るまでもなく、生徒は大人の想像をはるかに超える存在となった。この本は三十三年間生徒と格闘してきた教師による危機に立つ学校の報告である」とある。

 子どもが大人と切り離されたところで、大人のありようとは無関係に変質することはありえない。なぜなら、子どもとて社会の一員であり、一員であることから逃れることはできないのは自明のことだからである。大人とは無関係に子どもだけが変わったとする見方は子どものみに責任を転嫁する薄汚い無責任性から出ているものである。子どもは常に大人とつながっている。それは不変の真理である。大人のありようを受けての、子どものありようであることを忘れてはならない。「誰が何といおうと、教育荒廃の戦争犯罪人は学校教師である」のホームページで既に指摘したように、敗戦後民主主義の洗礼を受けながら、それを表面につくろっただけで誤魔化し、戦前からの集団主義・権威主義を引きずったままの大人の無変化が(そのありようが)子どもをして、社会の情報によって否応もなしに植えつけられつつある権利意識や自由・平等意識と、大人が強制する集団主義・権威主義の狭間に立ち往生させているのである。そして大人の集団主義・権威主義の側についた子どもがいい子となることができるのである。

 現在の子どもに対する大人たち、特に教育関係者の総体的な認識そのものがズレているのである。ズレた認識を土台に正常な建築物=有効な教育改革を積み上げるのは至難の業であろう。

 ビデオ・テレビ映像の活用

 生徒との人間関係を権威主義的な上下関係としていることからの脱却と、ビデオ・テレビの映像が発する情報を含めた社会の情報、あるいは書物に散りばめられた情報を上回る情報(感性や想像力豊かな言葉、あるいは思想・哲学)を今の教師に期待できないとなれば、また活字離れが深刻な現況をも考慮に入れて、集中力のなさと多行動につながるとして排斥してきたビデオ・テレビを積極的に授業に取り入れ、教師の貧弱な言葉を補って生徒の感性・想像力を刺激する道具とする以外に生徒を席に踏みとどまらせる方法はないだろう。いわば、ビデオ・テレビの映像を旧来の教科書を廃止して、それに代わる主たる教材とするのである。幼児にとってはビデオ・テレビは表面的な理解しか与えないものであっても、その映像は書物と同じように内容の優れたものから、軽薄なもの、猥雑で、安っぽいだけのものと千差万別である。子どもたちが幼児期にビデオ・テレビとのコミュニケーションを嗜好化し、自己の感覚としてしまったなら、テレビ・ビデオを媒介としてその嗜好性・感性をより良い方向に持っていくよう努めるしかない
。ところが学校教育者も教育学者もビデオ・テレビの情報を子どもの人間形成に悪い影響を与えるものとしてのみ把え、排除の方向にスタンスを膠着させたままでいる。そして一方で、最近の子どもは本を読まない、活字離れがひどいと嘆くばかりの状況を長く続けている。施す手立てを何ら見い出せないから、嘆くことで誤魔化しているのだろうが、そのような態度は自分たちの無為無策を棚に上げた子どもへの責任転嫁以外の何ものでもない。

 もっともビデオ・テレビを全然利用していないわけではないが、単に視覚を通して理解を深めることを目的とした補助教材の範囲を出ないものだろう。

 優れた内容のビデオ・テレビは優れた内容の書物と同様に、人間の心に訴え、感動を誘う。優れた書物に出会ったとき、再読の誘惑に駆られるが、ビデオ・テレビ・映画も同じである。かつての若者の多くが私も含めて、ジェームズ・ディーンの『エデンの東』や『理由なき反抗』に感動し、二流館、三流館とその再上映を追いかけていったものである。映画に感動し、原作をひもときたくなって手にするといった人間も少なくないはずである。

 横道にそれるが、私はプレスリー世代で、プレスリーの映画も同じ映画を何度も見るという形で追いかけていった。と、まあ、プレスリーファンにエールを送ったとこで本筋に戻るが、

 フィクションを内容としたテレビ・ビデオだけではなく、障害を持った人間が家の中に閉じこもることをやめて、一個の社会人として社会の中で懸命に生き、自立していく姿、あるいは一つの仕事を生涯の仕事として貫いた人間がまるきり異なる職業を第二の人生とすべく初心者の立場から挑戦していく姿、あるいは盲導犬に支えられて自立した社会生活を送る目に障害を持った人間の生きることに挑戦していく姿 ―― そういった様々な人間の様々な人間模様を描いたドキュメンタリーに始まって、ジャングルの動物たちの冷酷で厳しい弱肉強食の世界、あるいは不思議な生命の摂理に支配された植物の世界を紹介するドキュメンタリー等々・・・・これらに類似する映像は人間性や人間的感情の育成に役立つだけではなく、社会や理科の授業として利用できるだろう。

 素材には事欠かない無限にあるビデオ・テレビの映像を教材として授業の中心に据える。勿論見せるだけで終わってはいけない。見たあと、教師を交えて生徒全員が感想や意見を交わす。ときには意見の衝突が生じることもあるだろう。だが、言葉の闘わせによって生徒は相互的に自己を知り、他者を知る道へ踏み出していくのである。それは同時に子どもたちの内容空疎な言葉・感性・想像力を高めていく道でもある。この方法は教師の内容空疎な言葉・教育を補って子どもたちの言葉・感性・想像力を高めていくだけではなく、人間関係能力や他者認識能力(共感能力)、あるいは対人感受性といったものを含めた社会性をも養う有効な手立てとなるはずである。

 どこからでも手に入る有り余る種類のポルノ雑誌やポルノビデオ、まだ子どもが眠りに就かない時間帯にテレビで流す裸の女やセックスシーンの氾濫はどう足掻いても阻止できようはずもないのに、子どもの教育によくないと悪書追放キャンペーンやテレビ番組からの性シーンの追放運動に意味もない抵抗だと気づかずに努力している親や教育者がいる。そのような無駄な抵抗が結果的に猥雑な性や大人のインチキを証明するうんざりするほど大量の情報が理解力が十分に養われていない子どもに伝わらないようにするのはもはや不可能なのに、選別能力が未発達で無防備な状態のまま無差別な情報の氾濫に子どもさらす愚かしさをにつながっているのである。

 悪書追放は密造酒をはびこらせた禁酒法と同じで、例え成功したとしても、隠れて手に入れる状況を作り出すだけである。となれば、子どもたちを露骨な性情報から遠ざけるのではなく、例えセックスシーンが含まれていても、優れたストーリーと豊かな情感をたたえた男と女のストーリーをビデオやテレビで親しませることで、セックスを単に性欲の面から把えるのではなく、人間的な感情(誠実さや愛情)や人間関係からも把える訓練とし、そのような価値意識を養わせることでただ単に女の肉体や性を売り物にした猥雑な情報からの影響を中和させ、性に関するバランスのとれた感性・想像力を形成させることの方が、間接的ではあるが子どもを守る近道となるはずである。

 優れた内容のドラマには、『チャタレー夫人の恋人』のように、そこにどんなにあからさまなセックスシーンが演じられていようとも、懸命に生きる男女の懸命なありようの一つとして、あるいは生きてあろうとする姿に当然なものとしてある営みとして、さらに人間の喜怒哀楽の一つの頂点にあるものとして自然に感受させる力を備えているものである。そのようなビデオ・テレビを小学校も低学年の頃から親しませることで、ポルノビデオやポルノ雑誌の無機的な刺激性と誇示のみを素材としたセックスの猥雑性を相対化させ、中和させる解毒剤の役目を持たせるのである。そのような配慮は子供に、セックスそのものを対象とするのではなく、セックスに至る過程 ―― 出会いと交際
、恋愛とその喜怒哀楽、生きてあること自体をも大切にする気持を育む方向にいざなうはずである。

 どんな映像であっても、人に感動を与える内容のものでありながら、セックスシーンが何箇所かあって子どもに鑑賞させることに二の足を踏ませていたものであっても、内容全体の理解が年齢的に可能に近ければ、積極的に鑑賞させるべきであろう。完全には理解できなくても、印象は残り、数年後に理解することもあるからである。セックスシーンそのものが理解不能であっても、鑑賞を重ねることによって、それが避けようのない人間の生きる営みの一つとして描かれていたなら、年齢にそれ程関係なく、漠然とは
、その悦び・愛・力、あるいは慈しみといったものを感受し、それらを知らず知らずのうちに自らの感性として積み上げていくはずである。例えそのセックスが愚かしさの行為として描かれたものでも、何とはなしに受け止めた雰囲気が成長によって人間が絶対的ではないことの認知につながる場合もある。そしてそのように感受し、積み上げていった感性・想像力はポルノ雑誌やポルノビデオの性的刺激と性的誇示のみを目的としてモノとして提示した性に例え関心を持つことがあっても、そこに生きることのどのような喜怒哀楽も感じさせない、また男として女として生きてあることのどのような関連性も何ら表現していない、いわば人間生命の不在と生活感のなさ見破るまでのものとなり
、そのような感覚的看取によって、教え子の女子生徒の下着姿をビデオで盗撮するといった愚かさを回避する良識として働く契機ともなるだろう。

 現在テレビを圧倒的に支配している、いわゆる「お笑い番組」に関して言えば、あの優れた黒人女優のウーピー・ゴールドバーグーの『天使にラブソングを』といった素晴らしいユーモアあふれる映画・ビデオの映像などを通して質の高いユーモアに親しませ
、学習させることで、テレビのお笑い番組でのお笑いタレントが他人の身体的欠陥や失敗をけなすか冷やかすかして、あるいはいわゆる「下ネタ」と総称されている下半身を卑猥な形で話題にして獲得しようとする笑いがどの程度の質なのか、推し量ることのできる認識力を植えつけることも可能とすることができる。

 教育学者の尾木直樹氏は、『いじめっ子 その分析と克服法』で、「『ふざけ・遊び
』型いじめの発生の原因で見逃せないのは」
、お笑いタレントが「テレビ映像を通してタレ流し、まき散らしている『いじめお笑い文化』の影響」だと言い、そのような「低俗番組」を制作しているテレビ局と共に責任があると批判しているが、これなどもポルノ雑誌追放キャンペーンと同様、柳に風の相手に犬の遠吠えを仕掛けている類の批判でしかない。どのような情報も受け手の選別能力の問題であり、取捨選択の問題である以上、子どもたちのユーモアのセンスを質の高いものに育むことを先決課題とすべきである。そのような教育を展開不可能としているのは、教師自身が教科書の内容をなぞるだけで、良質なユーモア感覚を身につけていないことが原因なのだろう。良質なユーモア感覚と豊かな言葉は相互作用の関係にあることを忘れてはならない。

 ビデオ・テレビの映像を教材とするさらなるメリットは、旧来の教科書が盛りあわせ寿司のように複数の様々な問題を取上げて一冊とした構成であるのに対して、内容・テーマが一つの事柄に的を絞って取上げられている形のものだということである。いわば映像の一編一編が一貫性を持った広い世界を提示していて、理解を表面だけで終わらせない、奥行きの深いものとする可能性を抱えている。理解が奥行きの深いものとなれば
、おのずと自己の世界も奥行きの深いものとなる。

 テレビばかり見ている、と言って、バカにしちゃいけない!!もし下らないテレビばかり見ているとしたら、表面をなぞるだけの日本の教育の底の浅さをストレートに反映させた低級なものへの指向性なのだから。

 

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