「市民ひとりひとり」
教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
2000.9.7・金曜日
第28弾 プロ教師の「不登校といじめ」に関するマスコミ批判
プロ教師は最初に、「『みんながわかる授業』が生徒を追い込む」と題してマスコミ批判を開始する。
「不登校についてメディアが学校を攻撃した理屈は次のようなものだった。
まず生徒が学校へ行かなくなったのは、自由を抑えつけるからだ、という主張が登場する。しかし、学校たたきによって学校が全体的に自由・放任の方向に動いていくなかで、不登校の生徒がどんどんふえていったという事実がある。
そこで、それだけではまずいと思ったのか、つぎに主張されたのは、学校が生徒の個性を認めずみんな同じようにあつかうからいけないのであって、教師は授業も含めて生徒一人ひとりに合うような対応をすべきだというものがある。一人ひとりに合う教育を、というキャンペーンがものすごく強くなったのだ。そして、生徒が学校のなかで正当にあつかわれていないから学校が嫌になるのだという攻撃になっていった」(p160)
「一クラス四十人の生徒を相手にする場合、一人ひとりに合う教育とは何を指すのだろう。
一時間の課題を生徒に教えるとき、四十人の生徒は一人ひとり理解の度合いも違うし、授業に向かう姿勢も違う。科目の好き嫌いもある。さらに、その教師に対する個人的な思い入れも違うだろう。そうなると、四十人の生徒一人ひとりに合うような教え方というものは、現実的にできることではなく、何も言っていないと同じことになる」(p160)
「しかし、教師のほうは、この攻撃にたじろいでしまったのである。授業にしろほかのことにしろ、教師は四十人の生徒全体を見て、大ざっぱにやらざるをえない。その大ざっぱにしかやっていないということが問題になったとき、大ざっぱでいいのだと居直ることは、なかなかできることではなかったからである。」(p160)
「授業についていえば、どの教師も、四十人のうちざっと六割ぐらいの生徒がわかればいいという覚悟でやっている。四十人の生徒全部に課題をわからせるなどということは、昔もやっていなかったし、そんなことはできることでもないのである。そんなことをはっきり言うことなどとてもできないほど、みんな分からせなくてはいけないという圧力が強くなったのである」(p160〜161)
「一人ひとりにわかる教育という主張は、逆に生徒を、みんな勉強ができなくてはいけないという方向に追い込むことになるから、それは生徒にとって残酷なことである。一人ひとりにわかる授業をと言っている人たちには、たぶんこのパラドックスがわかっていないのだろう」(p161)
「できることでもない」のなら、どんなに「圧力が強くなった」としても、「でき」ないと「はっきり言う」のが学校教育を担っている教師の務めであり、それを果たすのが、責任ある態度と言うべきものであるはずである。「でき」ないことを「でき」ないと言えずに、国家の軍国主義に無定見・無抵抗に言いなりに同調・従属して、生徒たちに軍国主義教育をき込んだ戦前の過ちは歴史の教訓として何ら腹に据えたものとはなっていなかったということになる。
「自由」とは、自律性・自発性・責任・権利・義務などと決して切り離すことのできない行動形式を言う。いわば、権利の主張だけで成り立つものではなく、それがあるかないかの権利の有無・資格、さらに権利の主張・遂行に当たって、立場上の責任を逸脱しない範囲内(学校の生徒なら、生徒としての責任を果たせる範囲内)に自らを律する自律性と自分の判断で考え、行う自発性等を条件とするものである。
例え過剰な喫煙によって身体を損傷して家族に金銭的・精神的負担を掛けたり、吸い殻をどこにでも捨てて環境を汚したりしても、二十歳を過ぎれば誰にだってタバコを喫う権利はあるのだから、俺の自由だは通じない。年齢的条件と共に、喫煙そのもので他人や家族に迷惑をかけず、吸殻は環境を汚さない方法で始末するよう自らに仕向け、律する自発性と自律性――いわば社会的責任ある態度の維持を満たして初めてタバコを吸う自由と権利が生じる。
「放任」も当然、何をしても許すということではなく、権利の有無・資格を前提に、してもいい権利と同時に、立場上の責任を逸脱しない自律性・自発性の発揮を伴う制限付きの行動性を要求するものでなければならない。
もしも「自由・放任」が生徒に好き勝手な行動と受取られているとしたなら、それは学校・教師がその違いを厳密に教えることができなかった成果としてあるものだろう。
学校・教師は「メディア」の「学校たたき」が開始されたとき、以上のことを教えたにも関わらず、教えが不十分か間違っていたかして、生徒が好き勝手と履き違えたために、「学校が全体的に自由・放任の方向に動いてい」ってしまったのか、明らかにしなければならない。それによって責任の所在が異なってくるからである。
一方で好き勝手(=間違えた「自由・放任」)が横行している状況で、好き勝手に同調できない潔癖症から、そのような状況から自分を遠ざけるしか自分を維持できない場合がある。「不登校」がそういった構図から発生するケースもあるはずである。
憲法が「自由と権利」を保障していることを受けて、それをキーワードに社会全体の雰囲気をそれが人間生命のすべてであるかのように方向づけている情報を利用して、校内暴力・いじめ・不登校・私語・席立ちといった教育荒廃の原因を学校社会にも行き渡った「自由・放任」とすることで、学校・教師の責任とは無関係な場所で辻褄を合わせることが可能なため、それを原因説にしているに過ぎないのではないのか。
授業を教科書に従って一方的に教え、それを生徒が機械的に受入れていく、相互的な言葉の闘わせを省いた、教師の強制・支配に対する生徒の同調・従属を基本とする従来どおりの管理教育は、言葉の闘わせの不在によって生徒の自由な志向・自由な発想・自由な行動の機会を阻害する反「自由と権利」を構造としたもので、そのことに無感覚な学校・教師の人権意識・自由意識の欠如が不登校とかいじめとか、あるいは授業中の無秩序といった生徒との齟齬(そご)をきたしていると考えられないだろうか。
逆説するなら、厳密な意味での「自由・放任」が学校空間を支配していたなら、生徒はもっとのびのびと活動できるはずで、教育荒廃を象徴する逆の現象は起きにくいものとなる。そのように考えると、プロ教師の主張する学校社会の「全体的」な「自由・放任」化と「不登校の生徒」の増加との関連に整合性をもたせるとするなら、厳密な意味での「自由・放任」とは無縁のものとしなければならない。
「四十人の生徒一人ひとりに合うような教え方というものは、現実的に」不可能なのはプロ教師と自称するだけあって確かに鋭い指摘で、称賛するに値するが、だからと言って、「四十人のうちざっと六割ぐらいの生徒がわかればいいという前提」を基本にされたのでは、排除・切り捨ての対象となる残り4割の「生徒にとっては残酷なことである」だけでは済まされない。それを「四十人の生徒全体を見て、大ざっぱにやら」れたのでは、彼等にしたら、俺たちも同じ人間だと権利を主張したくなるだろう。
彼等4割は、例え授業が理解不能であっても、「我慢して」おとなしく教室に座っていなければならないとされたなら、ヘビの生殺しのような拷問を強いられるのと同じで、これも「残酷な」話である。私語・席立ちはそういった強制に対する正当な権利主張と言えないこともない。
「四十人の生徒全部に課題をわからせるなどということは、昔もやっていなかったし、そんなことはできることでもない」を基本姿勢に、授業理解不能の4割は排除・切り捨ての状態のまま放置しておくというのなら、義務教育などやめた方がいい。義務教育と名乗るだけでも、ペテンを犯すことになる。
排除・切捨ての代償に何らかの救済策を施すのが教育であり、そのような救済策を創出するのが教育的創造力というものだろう。プロ教師を自称するなら、そこまで思慮してから「前提」を口にすべきである。
その人間が置かれている今在(あ)る現在を人生というサイクルで把えたなら、貴重ではない瞬間は存在しない。例え30分でも、1時間でも、その積み重ねが人世そのものへの形成につながっていく。
そのように貴重な瞬間の連続であるべき人世の一コマ一コマを授業が理解できないままに教室に座らせておいて無駄にさせるのは教育的配慮と言えるのだろうか。あるのはナチス・ドイツのユダヤ人抹殺と本質的には違わない、ただ単に限りなく表面をソフトに装った選別の思想のみである。
最初からこの程度(「ざっと六割くらいの生徒」)理解できればいいという「前提」で「授業にしろ他のことにしろ」「大ざっぱにや」る姿勢にひたむきさの一カケラも感じ取ることのできる人間はいるのだろうか。そのような姿勢はひたむきさを無縁とすることによって可能となる態度である。
「授業にしろ他のことにしろ」すべての生徒に理解できるように全力投球しながら、「ざっと六割くらいの生徒」にしか理解されなかったとしたなら、教師自身は無力感に囚われたり、まあ、仕方がないかと結果に妥協することはあっても、理解できなかった残り4割の生徒の方は、教師の全力投球の姿勢――ひたむきさだけは伝わり、何かしら納得できるものを感じ取らないとは限らない。
いわば知識の授受の成功・失敗だけで終わらない、生徒の人間性を刺激する教師の人間性との遭遇の機会ともなるはずである。
裏返して言うなら、「四十人の生徒全体を見て、大ざっぱにや」るような教師にはどのような人間性も期待できないと言うことである。
大体が、「勉強ができる人、勉強が好きな人は、一生懸命勉強しなくてはいけない」とか、「勉強が嫌いな人で、たとえばトラックの運転手になっても、一生懸命その仕事をするのは社会的な役割を立派に果たすことになる」(p30)などと生徒には「一生懸命」を求めて、教師の役割は6:4の「大ざっぱ」な理解度でいいでは矛盾もいいとこどある。
言っていることに矛盾があるということは、言っていること自体が綺麗事に過ぎないと言うことである。
また、「日本の学校はこれまで基礎学力だけではなく、生活の仕方や社会性まで教育してきた」(p157)としているが、それも「ざっと六割ぐらいの生徒がわかればいいという」限定付きの「教育」だと断り書きを入れるべきだろう。残り4割の生徒は「生活の仕方や社会性」は身につけることなく社会に出て行きます、そのようなに社会人になった人間が結婚して親となり、子どもに自分が身につけもしない「生活の仕方や社会性」は教育できるはずもなく、そのような子どもが学校に入ってきても、学校・教師は4割の生徒には「生活の仕方や社会性」教育は無力で・・・・・その悪循環の中に教育荒廃があるということではないのか。
学校がテストの成績を優越的な可能性・優越的な人間価値尺度としている閉鎖的な可能性社会だからこそ、この程度(「ざっと六割ぐらい」)理解できればいいという「前提」で「授業にしろ他のことにしろ」「大ざっぱに」できるのであり、プロ教師の主張は日本の教育の実態を間接的に証明してもいるのである。
もし教師が「ざっと六割ぐらいの生徒がわかればいいという前提」で教科書の内容を解説するだけで終わらずに、自身の学問や読書経験から、あるいは直接的な様々な人生経験からそれなりに学び形成したそれなりの知性(それなりの感性・想像力、さらにそれなりの思想・哲学)と人間性をフル動員して、教科書の内容を解説する言葉を上回る人間関係の言葉を構築し、駆使したなら、生徒は教師の教科書を解説するだけで終わらないそのような言葉から教師自身の人間性や思想・哲学、あるいは感性・想像力を嗅ぎ取るか感覚的に感じ取るかして、あるいはほんの短い一言に深い感銘を受けるかして、授業は理解できなくても、それを補って生徒を何がしか納得させることも可能なはずである。
いわば残り4割の生徒に授業ができないまま無為に教室に座らせておくことは避けることも可能となる。
だが、何よりも四割の生徒の救済可能な方法は学校が一つの価値観・一つの可能性を試す閉鎖空間であることをやめて、どのように小さな可能性・価値観であっても、それを認知し、試すことが可能な場とすることだろう。
また、「一人ひとりにわかる教育という主張は、逆に生徒を、みんな勉強ができなくてはいけないという方向に追い込むことになる」のも、学校社会がテストの成績を優越的な可能性・優越的な人間価値尺度としている閉鎖的な社会空間・教育空間であることの当然の帰結としてあるものなのである。テストの成績で生徒を選別し、選別からもれた生徒を排除し、切り捨る学校秩序が招いている悪しき状況なのである。
そのことに気づかないプロ教師は「残酷」も「残酷」、プロを名乗るよりも、最大級の「残酷」教師と名乗りかえるべきだろう。
次は、「民主化という名の攻撃」(p161)と題したメディア批判である。それは「いじめ」を例にとって展開している。「いじめ自殺」の原因は学校の生徒抑圧の「フラストレーション」がより強い生徒のより弱い生徒攻撃となったものとか、「学校が生徒の居場所になっていない」からとするメディアの主張に対して、「いじめ・自殺の原因はそんなに単純なものではない」(p161)ときっぱりと否定している。
そして、「いじめ」の「残酷」化は「社会的な規制力の低下」や「ガキ集団」「体験の欠如」、「好きなことは何やってもいいという雰囲気などが複雑に絡み合っている」(p161〜162)と性懲りもなく馬鹿の一つ覚えの持論を展開している。
「いじめられている生徒が教師に話さないのも、単なる信頼のあるなしの問題ではない。昔も今も子どもは自分たち子どもの世界のことは大人にはなかなか話さないということがあるし、話せば仲間から排除されたり、ますますいじめられたりする怖さもあるだろう。そして自分がいじめられていることを話すのはプライドにも関わることである」(p162)と、例の如くに「いじめ」を学校・教師以外の問題としている。
集団主義・権威主義の行動様式は上位権威者の命令・指示と下位権威者の同調・従属を構造として成り立っている。そこには言葉の闘わせは慣習として存在しない。特に上位権威者の命令・指示を否定・批判する言葉は集団主義・権威主義とは相矛盾する意思表示となるものである。
ゆえに「昔も今も」「自分たち」の「世界のことは」他の世代の人間に「なかなか話さない」のは「子ども」だけに限った話ではなく、「大人」にしても同じである。同世代であっても、会話の不在な夫婦は珍しくない。妻が殺人を犯してから、妻が何に悩んでいたか全然気づかなかったと告白する夫もいる。その逆もあるだろう。
学校・教師が無知・鈍感にも学校社会における人間関係の秩序形成を言葉の闘わせへの配慮は何一つなく、集団主義・権威主義に任せたまま流されている怠惰状態にあるための日常普段からの会話の習慣のなさが、生徒が教師に話すのをためらわせている原因でもあり、「話」した場合の「怖さ」も「プライド」も、打ち解けて話し合った経験のない人間への告白の効果が皆目見当がつかないことからのためらわせが原因してもいるはずである。
言い換えるなら、深刻な悩みを打ち明けるには、一度でも打ち解けて話し合った経験と、一度でも頼りになるという信頼性を相手から与えられた経験を必要条件として初めて可能となる。もしプロ教師がそういった対生徒関係を日常普段から築いているとしたなら、生徒がいじめを受けた初期の段階で、いわばまだ深刻な状況に至っていない段階でも、例え直接プロ教師に話さなくても、生徒の態度・素振りから何らかの異変を訴えるサインを感じ取ることができ、一言声を掛けるだけで、生徒はプロ教師のアドバイスを仰ぐことになるだろう。
学校における教師の言葉が教科書の内容を解説する範囲内にほぼ限られ、親子の会話の場合は、勉強したか、宿題はしたのか、先生の言うことを聞いているかといった日常の表面に現れる行為に関する言葉を主体としているのみで、お互いの人間性に触れたり、揺さぶったり、あるいは衝撃を与えたりする会話(お互いの内面に関わる言葉の闘わせと、その成果としての人間という生きものの正直な実態の学習)を欠如させたまま推移していることが問題なのであって、「民主化という名の攻撃」とか、マスコミの「学校たたき」といった問題ではない。すべては教師の言葉(勿論親の言葉)にかかっているのである。
それを「昔も今も子どもは自分たち子どもの世界のことは大人にはなかなか話さないということがある」などと言っているようでは、プロ教師の対生徒関係はコミュニケーションも信頼関係も、円滑な相互性を持ち得ていない構造のものだと断言せざるを得ないばかりか、いじめを「生徒が教師に話さない」のは、子どもというものに固有な性格傾向からきているもので、教師には責任はないとする「教師無罪論」を展開しているも同然である。
「私は、学校を『民主化』することに必死になっている人たちがいるのではないかと思っている。この人たちは、日本のあちこちに自由と人権が行きわたったのに、学校のなかだけは遅れている。それはとんでもないことだ。学校を改革して『封建的』な場所を『民主化』しようと、学校に対して意図的な攻撃を仕掛けてきたのではないか。
学校が教育の場であることなどまったく考えずに外側から学校のなかをかきまわし、自分たちの基準である自由や人権という理念に照らして、だめな部分は全部壊そうとしてきたのだと思う。それが学校たたきの本質ではないか」(p162〜163)
何度も何度も言っているように、日本人は集団主義・権威主義の行動様式・思考様式に縛られたままでいる。集団主義とは自己意志を抑圧・抹殺して、集団の意志に同調・従属することを言う。権威主義とは上位権威者が権威によって下位権威者を強制・支配し、下位権威者はその強制・支配に対して無定見・無批判に同調・従属することを言う。
例え戦後憲法が基本的人権を保障し、戦後社会が民主化されたとしても、制度的なもので、人間関係の基本のところでは集団主義・権威主義を規範として日本の社会は秩序づけられている。
ゆえに、「学校だけが遅れている」わけでも、「日本のあちこちに自由と人権が行きわたっ」ているわけでもない。認識不足もはなはだしい。
もし「行きわたっ」ていたなら、日本の社会は学歴主義(=学歴差別主義)や職業階級主義(=職業差別主義)を骨組みとして調和を保つ社会とはなっていなかったろう。高い学歴や社会的地位の高い職業を権威とする社会的価値観とは正反対の極に障害者の人間的価値を置く社会意識(=障害者差別意識)も、あるいは日本民族優越意識の装置として黒色人種や褐色人種を日本人の対極に置く人種観(=人種差別意識)は完璧に消滅の運命をたどり、折りに触れて政治家の口からポロッと人種差別発言がこぼれるといったこともないだろう。
だが、「自由と人権」は集団主義・権威主義からのさまざまな制約によって正当な形で表現する方法は広く一般的に獲得していないものの、表現欲求は日本人の意識に根強く根づいてきている。アメリカ文化への憧れはその一つの現われであろう。
学校・教師がなすべきことは一方通行の授業として現れている知識の授受に関してだけではなく、人間関係においても、生徒の意志を支配・強制して教師の意志に同調・従属させる形式の集団主義的・権威主義的上下関係を排除して、「自由と人権」への欲求意識を満たす対等な相互性を築くことだろう。
具体的には教師と生徒との違いは単に社会的年齢に応じた社会的経験と、そのような社会的経験から得た知識や言葉が(実際には経験から自分独自の言葉を紡ぎ出している教師はどれくらいいるだろうか)生徒よりも豊富であるということと、それは先に生まれた者として当然なことだという立場に立って、地位や年齢を権威とせず、生徒を一個の人格と認めると同時に、自らも一個の人格と位置づけ、人間的に対等という意識で、授業においても生活指導においても、教師の意志を尊重させると同時に生徒の意志を尊重する、言葉を媒介とした相互性の関係構築である。
次は、「教育が福祉になってしまった」(p163)である。
プロ教師は、「子どもたちは、家庭のなかで王様になってしまった」と、子どもに対する「過保護」(=「お子様教$M仰」)を批判している。
それが事実だとしたら、子どもは傀儡(かいらい)の「王様」でしかない。プロ教師は、親(特に母親)は「自分の理想像に子どもをあてはめたいと必死になって」(p126)いると、親の意向を受けた子どもの存在であることを指摘しているからである。そして親はその意向は学校社会や一般社会における学歴を人間価値尺度とする価値観を受けた、その反映として色づけされたものである。
「学校が教育の場である」と言うなら、親の意向として現れている価値観の悪循環を断ち切る場を学校が引受けなければならないはずなのに、循環経路の一地点のままにとどまって、自らの義務・責任を省みずに親と子とマスコミを批判するのが。プロ教師流らしい。それはプロ教師が相変わらず現実を表面的に切り取るだけの認識能力しかないことからきているのだろう。
「学校というところは画一化するところである。子どもを社会化するためには一定の文化を同じようにみんなの身につけさせるところだ。義務教育というのは基礎的なものを身につけさせようとやってきたわけで、このことは私はすごく大切なことだと思う」(p163)
「四十人のうちざっと六割くらいの生徒が分かればいいという前提」(p160)の教育をタテマエとしながら、「一定の文化を同じようにみんなの身につけさせるところだ」とするのは相変わらずの矛盾再犯である。
学校が例え「一定の文化を同じようにみんなの身につけさせ」ようとしても、もし生徒の側が多様な価値観を持ち、多様な可能性を試行錯誤していたなら、共通項を抱えたとしても、不特定の割合で解釈を異ならせた「文化」を受継ぐことになり、決してすべての生徒が揃って「画一化」した「文化」の表現者足り得ることはないだろう。
「学校というところは画一化するところ」となっているのは、集団主義・権威主義の行動様式・思考様式を基本姿勢として、教師が押し並べて教科書をなぞるだけの解説者で終わっているからであって、いわば結果としてある状況なのである。教科書をなぞるだけの教育だから、教師の殆どが似たり寄ったりの言葉をしゃべることになり、生徒はそれら似たり寄ったりの言葉で解説されたコマ切れ知識を言葉どおりに暗記することによって、画一的思考・画一的発想を共有化することになるのである。
戦前の日本の学校の軍国主具教育がそのいい例であるが、これは日本人全体の、今もある支配的傾向としてある精神性でもある。
人間はそれぞれに異なる世界に生き育つことでそれぞれに異なる経験を積み、そこからそれぞれに異なる文化、あるいは精神を育む。そのような文化・精神を伝えるとき、必然的に伝達手段である言葉はそれぞれに異なるものとなる。異なるとは画一性とは正反対の独自性を意味する。
いわば解釈の基礎となる自己文化・自己精神が既にそれぞれに異なっているのだから、当然解釈も異なるものとなる。
ところが、集団や上位権威者の支配・強制に対して自己意志を抑圧・抹殺し、同調・従属する日本人の習慣的生き方が、一人一人が異なる世界を生き育ち、異なる経験を積みながら、その過程で学び取るべき文化・精神のそれぞれに独自な解釈を抑圧・抹殺する方向に作用し、一方の強制・支配に対して他方の同調・従属による相互的な画一性を形作る結果を生じせしめているのである。
そのような画一性によって、日本人は顔を持たない民族だとか、金時アメのような同じ考えばかりだと言われているのである。学校教師のプロと自己を位置づけている人間が、「学校というところは画一化するところ」などと言っているようでは、日本人に対する経済一流、政治・文化三流の国際評価は永遠のものとなるだろう。
もし学校教師が独自の文化・精神を備え、そこから独自の言葉を養っていたなら、例え同じ教科書を教えても、生徒に伝わる教師それぞれの文化・精神はそれぞれに独自なものとなるはずで、生徒の感性・想像力は教師によって微妙に異なる刺激を受け、そのことが生徒一人一人に独自な解釈の経験の機会を与えることとなり、それが習性化したとき、「画一化」は存在しないものとなるはずである。
例え教師が独自な言葉を養っていなくても、教科書と生徒との間に教科書の内容を解説する言葉だけを介在させるのではなく、生徒の意見・考えも聞く言葉の闘わせを常に介在させたなら、それは知識の授受の一方通行性(=集団主義・権威主義の教育秩序)を打ち破る契機となり、それは同時進行的に「画一化」回避を促す方法ともなるだろう。
「昔は多くの人が、学校というのはたかだかこの程度のことしかやらないんだよというふうに見切っていた。しかし、いつのころからか、考えちがいをしはじめたようである。最近は学校に対して、あれもやれ、これもやれというふうになっている。これは、国に対してあれもやれ、これもやれという要求を突きつける大衆的な気分と同じものかもしれない。そうなるともう、これは教育ではなく、福祉と言わなくてはならない」(p164)
「見切っていた」とすることと、「社会的自立」を目標に掲げて、「学校の役割は子どもが社会に出て一人前の社会人として生きていくのに必要な基礎的な力を身につけさせることにある」(p11)と大ミエを切っているのとでは、言っていることが大違いである。
「日本の学校はこれまで基礎的な学力だけではなく、生活の仕方や社会性まで教育してきたが、私はこの三つの柱は今後も学校教育の役割として残さなくてはいけないのではないと思っている」(p157)と立派な口をきいていることとも違っている。その場その場で「学校・教師擁護論」に都合のいい解釈を展開するプロなのは既に見てきたことだが、それにしてもなかなかのプロである。
昔は教師は聖職者とされ、人格者とされていた。教師と言うだけで、そう思われていたのである。いわば生徒は教師の高い人格の薫陶を受け、己の人格を養っていくと考えられていた。だが、教師なるものの実態は、夏目漱石の『坊ちゃん』を読めば分かるように、教師が聖職者であり、人格者だと言うのは職業や社会的地位を権威とする権威主義からきた先入観でしかなく、一般人とさして変わらぬ俗物的要素を多分に抱えた生きものだと言うことである。
『日本疑獄史』(森川哲郎著・三一書房)を読むと、明治25年に起きた教科書採用をめぐる全国的規模の贈収賄事件のことが記されている。贈賄側は勿論教科書出版会社であり、逮捕された収賄側は6人の現職知事、前知事、元県会議長・視学官、学校長、官吏、教授、県会議員、現場教師等々、152名も及んでいる。
地方政治家や地方役人が関与していたのは、「民間が作るものを文部省が検定して何種類か許可する。これを各府県の審査会で審査して、採用決定する」システムになっていために、県知事を籠絡(ろうらく)して、その影響力を利用する構図からのものだろう。「ワイロを取るのは決して政治権力者や役人ばかりではない。聖職という職についている教師がしきりにワイロを取込むのも、昔からの現象である」と書いている。
「贈賄側の手口として」、「宴席で接待した芸妓の名が四百人に達し」た状況に対する「金を与えて、その上女まで抱かせ、さらに春画まで贈るというのは、昔も今も変わらない贈賄手口の一つである」との著者の解説から判断すると、未成年の女子をホテルに連れ込んだり、着替え中の女子生徒をビデオで盗撮、あるいは学校のプールで水泳中の水着姿の女子生徒を肌が透けて撮れる赤外線装置付きのビデオで撮影(99年8月)するといった昨今の学校教師の生態は戦後の現象とは言えなくなる。
著者は次のように解説している。「教師は一般の善良な家庭には、神様のように思われている時代である。『三歩さがって師の影を踏まず』と生徒に教える時代である。それが神聖であるべき教育の庭の裏で、このように汚い取引きをしていたのである」と。
教師が張り子の聖職者であり、体裁だけの人格者でることに気づかずに、子どもの学力と人格の育成を託していたのである。現在では教師が聖職者であり、人格者だと思っている人間はいないだろう。
問題は教師が教育力を発揮できた理由としてプロ教師が主張してやまない「社会的なバック」だとか、「地域の支持」といったものが実際は教師はタダの人間でありながら、中にはまるっきりの俗物もいたろう、聖職者、あるいは人格者であると世間一般に信じられ、通用した虚構を土台として成り立っていたということである。
裏返して言えば、そのような虚構に支えられて発揮できた教育力というものは、教科書をなぞるだけの学力の植えつけにはさして支障はきたさないだろうが、人間性に関わる教育(人間の内面に関わり、社会的自律や自我の確立につながる教育)に関してはニセモノの教育しか期待できないということである。
いわば「見切っていた」とするのは、時代を遡るに比例して科学技術が未発達な段階を踏み、人々の生活もシンプルで、学力だけではなく、生活面に関しても教える知識が少なく済んでいた結果としてある「この程度」なのである。例えば交通手段として車が大量に利用されるようになると、登下校時の信号のある横断歩道とない横断歩道での交通事故に遭わない横断の方法はそれまでは教えなくて済んだものである。
もし必要のない「あれもやれ、これもやれ」なら、具体的にその理由を述べて断れは済むことではないか。
「自由を掲げて、自由が失われていくジレンマ」(p164〜)と題した次なる批判であるが、プロ教師の言う「自由」が「好きなことはなにしてもいい」の好き勝手を指している(混同している)ものなのは既に見てきているから、読む価値もないのは知れているが、プロ教師とその類をのさばらせないためにも批判しないわけにはいかない。
「この十数年、学校で管理が強まったという言い方がされ、管理はだめだと言われてきた。そして、これが学校たたきの中心的な論拠となった。これに対して、私たちは、基本的に学校というところは管理がなければ成り立たないと言ってきた。一つのシステムが成り立つためには、そのシステムのなかに入ることを了解してもらわななくてははじまらない。
私たちはこのようなことを言って、なんでも子どもたちの好きなようにさせるという意見に対抗してきたのだが、皮肉にことに最近、社会そのものの子どもに対する保護(=管理)が強まってきている」(p164〜165)
ここには自己正当化の意図的な薄汚い誤魔化しと混同がある。誰も「なんでも子どもたちの好きなようにさせるという意見」など述べたりしていない。「自由」と「好きなようにさせる」こととは似て非なるものである。
確かに「管理」は必要であるし、「管理」なくして組織は「成り立たない」。だが、「管理」される側の納得・了解を踏まない、あるいは批判や拒絶を許さない一方的な「管理」――一方的な同調・従属を要求する一方的な支配・強制型の「管理」――「はだめだと言」っているのである。
戦争中は国民は国家によって言論の自由が許されない、強権的で極端な「管理」を受けた。プロ教師は内容も種類も形態も様々にある「管理」の形を混同させて、すべて一緒くたに扱うインチキを行っている。もしインチキでないと言うなら、認識能力が粗雑な上底が浅いために、多角的に把握することができないのだろう。
また、プロ教師の「管理」が、「教師が何かいえば、生徒がそれを聞くという関係」を理想としていることから、集団主義的・権威主義的人間関係秩序を構造とした、いわばファシズム型の「管理」を指しているのは先刻承知のことである。
「最近、社会そのものの子どもに対する保護(=管理)が強まってきている」と言っているが、だとしても、その「保護」は人権擁護面からの内容のものであろうし、限りなく「管理」の色彩は薄まっているはずである。いわば、非人権的な要素の濃いファシズム型の「管理」であろうはずはない。
但し、学歴社会のため、勉強と言う一つの価値観・一つの可能性に子どもを縛りつけている(「管理」している)ということはある。だが、その手の「管理」は「社会」と言うよりも、学校・教師が率先して行っていることである。
プロ教師は意図してのことなのか、ただ単に認識能力不足からなのか、様々にある「管理」を混同させることで自己に有利な主張展開を行っているに過ぎない。
「自由と言う掛け声が強くなっているにもかかわらず、一方で、子どもを保護しなくてはいけない、あるいは面倒を見なくてはいけないという考え方が強まっているのである。子どもを放っておくと何をするかわからないということがわかってきたのだろう。そのために、自由自由と叫ばれているにもかかわらず、どんどん自由が失われている。これは明らかにジレンマである」(p165)
「子どもを放っておくと何をするかわからない」から、「放ってお」かないようにするのは規制、もしくは「管理」であって、「保護」、あるいは「面倒を見」るということには当たらない。真に「自由」が存在するなら、「自由自由と叫」ぶ必要はなく、存在しないから「叫ばれている」のであって、存在しない「自由が失われ」ることはない。プロ教師のオハコだから仕方がないが、言っていることに最初から矛盾がある。
何度でも言うように、教師と生徒との人間関係がその根のところで集団主義・権威主義を絡みつかせていて、生徒が自発性や自律性を育み発揮する機会、あるいは自由な思考・自由な発想を育み展開する機会を奪い取っている状態、裏返して言うと、それらを抑圧している状態にあり、そのことへの子ども・生徒の、一見「子どもを放っておくと何をするかわからない」状態に見える異議申立て・拒絶反応としてある教育荒廃状況を学校・教師側がなおさら抑えようと従来以上の、それしか方法を知らない集団主義・権威主義の人間関係秩序を強めた「管理」(校則の強化・部活の強制等々)で生徒の「自由」を抑圧している閉塞状況を打破すべく、「自由と言う掛け声が強くなっている」のだろう。
問題は、戦後軍国主義に代る民主主義を絶対的なものと受入れ、人権意識・自由意識を相互に植えつけ合いながら、その影響でかなりソフトな装いを見せるようになったが、人間関係のメカニズムは戦前と変わらない集団主義・権威主義を受継いで、本質的な力学としていることにある。
それはプロ教師が対生徒関係に関して、「管理」とか「保護」といった支配形態は言っても、言葉への視点(言葉の闘わせへの意識)が存在しないことにも現れている。
管理教育を主張するプロ教師でありながら、「私は最近、管理が必要だと言うことをあまり強調しないようにしている。自分で考え自分で行動し、結果に責任を持つ。つまり自由が大事だと発言しなくてはいけないのではないかという気がしている。 しかし、すべてに責任を持って行動しなければならないというのも言い過ぎである。
それにはまず一人ひとりの人間が、みんな独立した主体的な個人になれるという前提がなければならない。しかし、生徒の様子を見たり自分のことを考えれば、すべての人間が主体的に自分の判断と責任で行動できるようになれると思うのは、絵空事ではないかと思う。
私の現場感覚から言えば、あらゆる場面で主体的に自分の判断で行動できる人間は、ごく少数しかいないと思う。後の大多数は人に委ねるという部分を強く持つ人たちである。あの人がこういうふうにするからぼくもそうしようというように生きていくのが、ある意味ではふつうのことなのだ。そのような人たちに、すべておまえが判断しなくてはいけないと言うのはどうだろうか。一人ひとりがそんなに偉い人間になれないのではないか。だから、主体的に行動するということと、みんなでいっしょに行動するということとが調和しておこなわれることが現実的な方向ではないか。私たちは、自由と管理についてもっと深く考え、現実的な発想が必要なのではないかと思う」(p165〜166)
ここには詭弁のオンパレードとも言うべき薄汚い誤魔化しがある。人間は矛盾多き生きものであるということを大前提としなければならない。普段「主体的に自分の判断で行動できる人間」であったとしても、時と場合によっては、そのように行動できない場合も出てくるのが人間なのであり、またすべての人間が同じ内容と程度を備えた主体性を発揮できるとは決して限らない。下位権威者には「主体的」を超えて、独裁的に振舞いながら、上位権威者には情けないばかりに言いなりの非「主体的」態度を取る人間もいる。
ところが、プロ教師は、「一人ひとりの人間が、みんな独立した主体的な個人になれるという前提がなければならない」と、不可能を可能と見せかける誤魔化しを最初に持ってきて、言いくるめにかかる。授業に関しては、「どの教師も、四十人のうちざっと六割ぐらいの生徒」が理解すれば、それでよしとしながら、「主体的」存在であることに関しては「みんな」がそうならなければという「前提」を要求する不公平を犯して平然としている。プロ教師だからできることだろう。
「あらゆる場面で主体的に自分の判断で行動できる人間は、ごく少数しかいないと思う」というプロ教師の「現場感覚」にしても、「大多数は人に委ねるという部分を強く持つ人たちである」ことと併せて、日本人が集団主義・権威主義を基本的な行動様式・思考様式としていることからの当然な状況としてあるものなのに、そのことを見抜くこともできないもっともらしげな言説でしかないのだから、お粗末な「現場感覚」としか言いようがない。
親・教師・大人たちの集団主義・権威主義を受継いでの子ども・生徒の「あの人がこういうふうにするからぼくもそうしよう」なのである。主体性・自律性(自立性)を子ども・生徒にそのカケラさえも育み教えることができていないのに、自分たち自身が主体性・自律性(自立性)に無縁なのだから、当然なことでもあるが、「すべておまえが判断しなくてはいけない」とするのは過大要求以外の何ものでもなく、「どうだろうか」などと疑問を呈すること自体、お門違いなのである。
いわば「前提」としなければならないのは、親・教師・大人たち自身が子どもの手本となるべく、まず「主体的な個人」でなければならないということである。
また、「すべての人間が主体的に自分の判断と責任で行動できるようになれると思うのは、絵空事ではないかと思う」とする認識自体も、自分たちができないこと・していないことであることによって、既に「絵空事」なのだから、その実現を危ぶむのは二重の「絵空事」を犯すことでしかない。
大体が、「二十年ほど前から、学力だけで人を評価するという考え方が社会のなかで強くなり、これが学校の中にも入りこんできた」(p17)にしても、「みんな同じがいいという価値が、この十年ほどのあいだにものすごく強くなっていると言ったが、それは外から、つまり社会の側から、学校のなかに入ってきたものである。学校はそれに流されていることは明らかだが、それは学校が作り出した考え方ではない」(p134)にしても、学校・教師の非主体性・非自律性をプロ教師自ら証明しているのである。ただ「学校のなかに入ってきた(入り込んできた)」のではない。学校・教師が受入れ、それぞれの価値観を生徒に吹き込む率先垂範の実働部隊を演じたのだから、これほどの非主体性・非自律性の発揮はなかったのである。「自由と管理」の「調和」などと、学校・教師の誰もが口にする資格はない。
子どもは大人がつくる。子どもの総体的ありようは大人の総体的ありようの反映であり、そこから逃れられない。生まれた瞬間から大人と関わり、大人の様々な生態・ありようをなぞらされたり、吹き込まれたりして育っていく。例え見た目の姿はかけ離れていたとしても、子どもは、大人の生き方・考え方(=思想・価値観など)が否応もなしに映し出されることになる大人がつくり出した作品なのである。
子どもだけがこうだという言い方は、プロ教師みたいな物事の本質を見抜く力のない人間のすることである。
「すべて個人の責任に帰するような方向で教育改革をやったり、学校を解体していくというのは、やはり失うものが多すぎると思う。これは日本の場合、とくにそうである。教育には、強制と自由のバランスが必要なのだ」(p166)
プロ教師の頭にあるのは集団主義的・権威主義的「管理」と「強制」のみで、「自由」とか「人権」とかは世間体を考えた、あるいは社会的な批判を和らげるための見せ掛けの妥協に過ぎない。プロ教師が理想とする「教師が何か言えば、生徒がそれを聞くという関係」には、言葉の闘わせは一切ない、「管理」と「強制」の思想のみで、当然の帰結として、「自由」と「人権」への視点は不在のものとなっているからである。
体罰論者でありながら、「玉砕」(p157)を怖れて自らは体罰を体現しなかった自己保身と同じ文脈の、「管理」と「強制」のみの考え方への風当たりの強さに対する、あるいは「管理」と「強制」だけでは時代的にプロ教師を維持する「バランス」に不都合を感じての自己保身上のキバ隠し(=自己韜晦)に過ぎない。
「くり返しになるが、大人たちが、学校というところは基礎的なものを我慢して身につけるところなのだ、だから、つらくても我慢してやりなさいというサインを出す必要がある。そのうえで、自分で選択して自分の責任でやる力をつけなさいということをアナウンスすることが大切だ。いまは、子どもの自由とか人権とか言いながら、いつまでも子どもあつかいなのである。子どもの人生を、つまり自由を認めないのである」(p166)
なぜ「サイン」は「大人たち」ではなく、学校・教師が自ら「出」せないのだろうか。「大人たち」が「出」したからと言って、それが有効に働く保証はあるのだろうか。社会の情報が「大人」なるものの姿を暴いて、信用されていないのである。
勿論、その「大人」なるものうちには、教師も含まれている。もしかしたら、名誉にも「大人」の代表たる位置を獲得しているかもしれない。
また、テストの成績を優越的な価値とし、テストの成績で人間を価値づける価値観が支配的となっている学校社会で、生徒は何を「選択」できるというのか。
戦前の学校で、「お国のため・天皇陛下のため」以外に何を選択できたというのか。学校・教師は反戦や平和を選択させただろうか。腰痛治療のためにハリ治療を受けたとき、戦前に小学生の低学年時代を過ごした視力の殆どを失っている先生が、「戦争中は国賊だと散々いじめられた」と言っていた。「目が見えないから、お前は戦争でお国のために役立たないから」と言うわけである。「そのことは決して忘れられない」とも言っていた。
ああしなさい・こうしなさいという「管理」と「強制」こそが「子ども扱い」なのであって、責任と義務が伴う「自由」と「人権」こそが、「子ども」が一個の人格を持った人間として自らを表現する(「子ども扱い」から卒業する)方法となるものである。
論理に転倒と誤魔化しがあり、それが綺麗事によってまぶされている。
「社会全体の子どもに対する対し方が問題なのだと思う。大人が社会がの大枠をしっかりつくって子どもに示し、そのなかで子どもが自由に活動することを保障することが大切なのだ。枠を超えて極端ことをしたときは、大人の側がはっきり規制することが、まず必要なのである。いまは、大枠が崩れ、子どもがなんでもやれる状況になっているために、子どもの自由も制限されるという最悪の状況なのである」(p166〜167)
学歴主義(=学歴差別主義)・職業階級主義(=職業差別主義)という「大枠」が既に出来上がっているのではないか。その「大枠」を受継いで、学校・教師は受験勉強を生徒に強制し、テストの成績で人間を価値づけているのではないのか。そのことに対する異議申立て・拒絶反応としての生徒の無秩序状態を解消したいために、「学校というところは基礎的なものを身につけるところなのだ、だから、つらくても我慢してやりなさい」と言っているにすぎないのではないのか。
戦争中は「お国のため・天皇陛下のため」という「大枠」を強制させられた。「いまは、大枠が崩れ」たと言っているが、日本は学歴主義(=学歴差別主義)・職業階級主義(=職業差別主義)社会であることをやめたとでも言うのか。
親・学校・教師の対子ども・対生徒関係が集団主義・権威主義を基調としているために、真の「自由」を教えることも伝えることもできず、いわば最初から「自由」は「制限」状態にあるのであって、そのことへの異議申立て・拒絶反応が「自由」を履き違えた、「なんでもやれる状況」となって現れているに過ぎないのではないか。
最初から最後まで、すべてが粗雑な認識・自己に有利なこじつけ・自己を飾る綺麗事に彩られた論理展開となっている。
例えどのように誤魔化そうとも、プロ教師の本質が「管理」と「強制」を旨とする威嚇性を背景とした集団主義者・権威主義者であることに変わりはない。麻原彰晃とその本質性は限りなく兄弟の関係にあることに変わりはない。
「あっ、この先生はお母さんとちがう、怖いというふうに思わせる」「教師の共同性」(p130)を常なる衝動としているのである。
今回はここまで
次回はマスコミの「管理教育への批判」に対する
プロ教師の反論の否定・批判
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