市民ひとりひとり」 

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2000.10・12・木曜日


第31弾 「新たな学校たたき 教師たたき」なのか
          
――その後半部分――

プロ教師は、第4部『マスコミが学校崩壊に与えた影響』――『新たな学校たたき 教師たたき』後半部分の一つ、『金属バット事件――署名記事を批評する』(p179〜)と題して、論説委員の朝日新聞署名記事を批判している。

「暴力をふるう十四歳の長男を父親が金属バットで殺した事件」である。論説委員の記事と、それに対するプロ教師の解説は次のようになっている。

「――殺された少年は、幼い頃からくり返し学校へ行きたくないというサインを出していた。初めて保育園に連れられていった日は、頭をかきむしって泣いた。小学校に入学した当初は、家のドアにしがみついて行くのをいやがり、そのあとも、六年生の姉に引きずられるようにして泣きながら登校した」

「父親は、なぜ学校へ行かなくてはならないか、息子に語って聞かせ、その後、この少年は六年間無欠席で通す」

「行きたくないと言葉や態度で訴えたのに受け入れてもらえなかったとき、子どもには自分の気持を抑える以外、どんな方法があったろうか。
 中学一年生の秋、家庭内暴力が突然はじまった。これは不登校の子どもが起こす暴力の典型的なものだった――」

「――中二から登校拒否してフリースクールに通っている少年は、『登校拒否している子どもの多くは、自分を許せないと思っている。さまざまな苦しみから、いちばん認めて欲しい人に暴力をふるってしまう』。同じく十三歳の少女は、『学校がすべてと思っていたから、親からそんなにがんばって行かなくてもいいと言ってもらえたときはうれしかった。事件の父親は自分の導く方向に行かせたかっただけではないか』ときびしい見方をする。
 息子が暴力をふるい、事件の父親と似た状況にある父親は、『子どもを支配できない自分が不安で、息子から離れられない。家の恥を外に出さず、なにもかも自分で仕切ろうとするところも彼とそっくりだと気づいた』と打ち明けた――」
(p180〜181)

平日の雨の早朝、合羽を着て、たった一人で釣り糸を垂れているからと言って、釣りが大好きな人間とは限らない。家に居場所がなくて、釣りしか時間をつぶす方法を知らず、雨にも関わらず朝から仕方なく釣り糸を垂れているといった場合もあるだろう。

テストを解くための学校での学びからはを人間や心学ぶことはできない。それはいじめ校内暴力、そして成績の良い子でも、目立つといじめられるからと努めて口をつぐんでいるようにしているといった言わざる・聞かざる・見ざるのいじめの傍観者に共通する態度、その他の状況が証明している。

親は幼い子どもと一緒に遊ぶとき、サッカーボールがうまく蹴れたとか、野球のキャッチボールで、うまく投げることができたと技術の成長(=成績)をその子の成果とするだけなら、学校・教師がやっていることを先取りしているに過ぎない。通りで見かけた人間を、どのような職業に従事しているのかな、といった会話(質問ではない)から始まって、どんな人生を送っているのだろう、あの人の世界はどのような世界なのだろうといった会話、あるいは実際に起こった事件を例に取った人間の弱さや狡さについての会話を積み重ねることで、子どもは学校では学べない人間やそれぞれの世界を学ぶことができる。

結果的な成果ではなく、目的として行った「無欠席」ほど無益なものはない。ましてや親が自分の価値観を押しつける形で「無欠席」を望んだとしたら、最悪である。なぜなら、欠席・無欠席も、どのような学校生活を送るか、送らないかといった実質を問題としない、プロ教師の言う「かたち」でしかなく、そのような「無欠席」という「かたち」を一種の価値として、それに自分の生活を合わせることになるからだ。

生活とは何かに合わせるものではなく、その都度その都度、自ら作り出していくものである。勤務時間は朝の8時から夕方の5時までだからと言って、その時間に合わせていたのでは、同調・従属の惰性以外、何を為すことができるだろうか。

特に「無欠席」に自分の生活を合わせた場合、自分で自分に心の余裕をなくすよう仕掛けることと変わらない。もし子どもが寝坊してしまったなら、親は、「いい、いい。たまには遅刻を経験するさ。遅刻を経験する、先生に叱られることも経験する。色々と経験するさ」と言ってやれば、子どもは心に余裕をつくることができるだろう。車のラジエーター用のファンベルト、ハンドル、各連結部分は遊びが必要である。遊びがないと。回転摩擦などで早くに破損してしまう。遊び≠ニは、「余裕」であり、「ゆとり」である。

日本人が得意とするモノ作り分野でつくり上げた工業製品の各連結部分には遊びがあるのに、人間に関しては集団や上位権威者に支配された状況にあるために、日本人は心に余裕のない人種となっている。

金属バット事件は推察するに、獲得した学歴を含め、自己の社会的経歴・社会的経験に絶対的価値を置き、それ以外の価値を認めない父親の姿勢に添った子どもに対する支配・強制が、それへの子どもの同調・従属との間にズレが生じていたにも関わらず、そのことに無感覚に絶対化した自己性をなお子どもに実現させようとした不条理に対する子どもの側からの復讐が、家庭内暴力の形を取り、父親の個々の価値観に対する否定衝動を超えて、父親の存在そのものへの否定衝動となって現れたのと、それに対する父親の側からの分裂意識(消し難い自己絶対性へのしがみつきと、それへのあまりにも惨めすぎる自己否定意識、その葛藤と混乱)が、子どもに対する一種の復讐として働いた結果、いわば相互の復讐性が(父親にしても自分の子どもでありながら、自分に似ない子どもを憎む意識はあったはずである)、あのような悲劇的な終止符を打たざるを得なかくしてしまったのではないだろうか。

殺してすべての解決を図ろうとする意識は、子どもに対する支配意識なくして不可能なもので、殺人は究極の支配行為以外の何ものでもない。この場合は支配を認めない者に対する決定的・最終的支配の確立を意図した有形力の行使だったのだろう。そこに憎悪や復讐の感情が介在していなかった保証はない。

もし父親が学歴もなく、社会的地位もたいしたものではなかったなら、父親にとってだけではなく、子どもにとっても学校の意味は変わったはずである。自己の社会的経歴・社会的経験に絶対的価値を置くとき、それぞれが持つ可能性や価値観――いわばそれぞれの人間性への視点を欠いて、自己に同等か、自己以上の人間になってほしいと願うことになる。例えば他者に優しい人間になって欲しいと父親が願った場合の意識には父親を絶対とする意識は含まれないはずであり、他者への視点を育む。

いわば、その子にとっての他者は常に父親を基準とした絶対他者であり、自己の内部に当たり前の他者を存在させることができないまま不特定多数の他者の中に放り込まれることになったことが、「小学校に入学した当初は、家のドアにしがみついて行くのをいやがり、そのあとも、六年生の姉に引きずられるようにして泣きながら登校」するといった対人恐怖症となって表れたのではないだろうか。

だからと言って、子どものありように学校は責任ナシとはいかない。当初は自己の内部に一応の他者を存在させることができてさしたる拒絶反応もなく登校したとしても、いじめや暴力によって学校への拒絶反応を植えつけるのは、学校・教師の生徒に対する他者存在意識の育みが不十分なことも一因(どころか、主たる原因)となっているだろうからである。

「私は、不登校の生徒の状況と家庭内暴力に発展する経過について、川名氏のとらえ方をほとんど支持する」(p181)

それは至極当然だろう。家庭、あるいは親子関係が問題となっていることで、「学校・教師教育荒廃無罪説」に利用できるからである。

「問題は川名氏の結論部分にある。・・・・
『学歴社会の土台をなす明治以来の「学校」は容易には解体されない。むしろ社会の「学校化」はいっそう強固に私たちを取り囲み、子どもたちを窒息させている』
 川名氏は不登校、家庭内暴力の根本的な原因は
『明治以来の学校』であると考えているようだ。現状分析はいい線をいっているのに、残念ながら犯人を学校に求めるこれまでの学校たたきの思考法から抜けられないようだ」(p181)

「現実には、学校は大きく自由化しつつある。川名氏は、現実の学校をじっくり見学した方がいい。生徒たちのあいだには、好きなことは何やってもいい、厭なことはやらなくてもいい、なによりも自分が第一だという気分が広がっており、『明治以来の学校』は大きく崩れているのである。その意味では『社会の学校化』ではなく、『学校の「社会化」』が進行しているのである」(p181〜182)

「ただし、川名氏が指摘しているように、親も社会も、自由と個第一を強調しながら、容易に学校を休む自由を認めない。それは勉強ができる≠アとが絶対的な価値として強まったことが原因だ。川名氏はこのような『学歴信仰』を学校がつくり出していると考えているようだが、それは違う」(p182)

「もともと日本の学校は学力をつけるためだけにあるわけではないし、実際に勉強¢謌黷ナ学校を運営しようとしても、それは無理なことである。勉強という価値を基準とした競争には、ほんの一握りの生徒しか参加できず、大多数の生徒の反乱を引き起こすことになるのは目に見えている。教師はふつう、勉強以外の価値を強調し、それによる評価に力を入れる努力をしている。時間を守る、掃除をしっかりやる、自分の役割を果たす、他人を思いやる等々」(p182)

「しかし、社会の『学歴信仰』は根強く、年々大きくなっている。親と子もそれに流されており、残念ながら学校もまたそれに巻き込まれて流されている。勉強以外の価値は苦戦を強いられており、なかなか生徒にとどかない。教師のなかには、勉強第一で学校を運営しようと思う人もふえている。『学校の「社会化」』はここでも起こっていると言っていい」(p182)

「学校の責任も大きいと言わざるをえないが、問題の根は、現在の社会そのものであり、社会の世論形成に朝日新聞などのマスコミが大きな役割を果たしていることを忘れてほしくない。『明治時以来の学校』を解体したとしても、問題の根本的な解決にはならない」(p182)

すべてが矛盾と綺麗事の満載である。

「生徒たちのあいだには、好きなことは何やってもいい、厭なことはやらなくてもいい、なによりも自分が第一だという気分が広がって」いるとしても、それは「学歴」首枷(くびかせ)となったその範囲内の生徒状況でしかないだろう。

だからこそ、「親も社会も、自由と個第一を強調しながら、容易に学校を休む自由を認め」ることができないのであり、子どもも、「またそれに巻き込まれて」、学校を自由に休めないでいるのである。譬えて言うなら、子ども・生徒たちにとっての「学歴」は、孫悟空における、そこから脱け出せないお釈迦様の掌(てのひら)に当たるだろう。孫悟空はお釈迦様の掌の中では自由に雲(きんと雲)に乗って飛行することができた。いわば刑務所の塀よりも高い、「学歴」という逃げたくても逃げられないに高い塀に囲まれて、その中での「好きなことはなにやってもいい・・・・」に過ぎないのではないのか。

中学校で、「八割くらいの生徒が塾へ行」(p94)っている状況も、「学歴」首枷とされて生徒の生活が組み立てられていることの証明となるものであろう。そしてそのように子ども・生徒を「塾」に駆り立てる状況と、「生徒たちのあいだには、好きなことは何やってもいい、厭なことはやらなくてもいい、なによりも自分が第一だという気分」が渦巻いている状況とは、プロ教師の解釈通りに受止めるとすると、正反対に矛盾することとなる。

この矛盾に辻褄を合わせるとしたら、婚姻関係はそのままに家庭内離婚状態にある夫婦のように、「勉強ができる≠アとが絶対的な価値」とする「学歴信仰」「子どもたちを窒息させている」にも関わらず、そこから脱け出せない焦燥・苛立ちの代償行為、あるいはバランス行為としての「自由と個第一」とする以外に、答を見い出すことは不可能だろう。

そして、例えそれがインフルエンザ予防のワクチンであっても、そのワクチンを注射するのは医者であるように、「勉強ができる≠アとが絶対的な価値と」とする「学歴信仰」日本社会全体のものであっても、テストの成績を手段に子ども・生徒に直接的に吹き込んでいるのは学校社会においてであり、それを実際に接種しているのは学校・教師である。

ところがプロ教師は相も変わらずに、「勉強という価値を基準とした競争には、ほんの一握りの生徒しか参加できず、大多数の生徒の反乱を引き起こすことになるのは目に見えている」などと、かつて一度も学校社会に「反乱」がなかったかのような罪逃れの虚偽証言を繰返して平然としている。

「どの教師も、四十人のうちざっと六割ぐらいの生徒がわかればいいという前提でやっている」「授業」(160〜161)状況は、「一握り」とまではいかなくても、授業が理解できる生徒のみを対象とし、それ以外は切り捨てる「勉強という価値を基準とし」た選別であることに変わりはないはずである。例えそれを補って、「時間を守る、掃除をしっかりやる、自分の役割を果たす、他人を思いやる等々」「勉強以外の価値を強調し、それによる評価に力を入れる努力をし」たとしても、学校社会は元々「勉強という価値を」優先的な「基準とし」て成り立っているのである。その優先性を絶対的なもとしているために、「強調」とか、「努力」とか、「勉強以外の価値」は常に目標状態から抜け出れないのである。

いわば一方に「勉強¢謌黶vという動かしがたい現実があり、それを動かしがたいままにしているために、あるいはそのような現実と馴れ合って放置したままにしているために、「勉強以外の価値」はいつまで経っても動かしがたい現実とはならない無力を強いられているのである。

「社会の『学歴信仰』」「巻き込まれて流されている」対象を「親と子」の後に「学校」を持ってきて、しかも、「残念ながら」とするのは、薄汚い罪逃れでしかない。学校においてテストの成績で生徒を直接的に評価づけているのは教師をおいて他にはなく、「親と子」こそ、「それに巻き込まれて流されて」きたのである。生徒を学歴獲得戦争の戦場に駆り立て、有名進学高校の合格者数を最大の戦果として誇るために、「社会の『学歴信仰』」に率先垂範して同調・従属して補習授業や内申書操作といったことを行ってきたのも、学校・教師をおいて他の者にはできないことなのである。

その証拠として、「教師のなかには、勉強第一で学校を運営しようと思う人もふえているという解説を挙げることができる。「勉強という価値を基準とした競争には、ほんの一握りの生徒しか参加できず、大多数の生徒の反乱を引き起こすことになるのは目に見えている」なら、減らしてこそ時代の趨勢とすることが可能であって、逆に「ふえているとするなら、「生徒の反乱」という名の地雷原に教師は自ら進んで足を踏み入れることになるからである。

但し、「ふえている結果としての地雷の爆発が学級崩壊いじめ校内暴力といった教育荒廃状況だとするなら、爆発の規模が大き過ぎるし、反応も早過ぎる。「勉強¢謌黶vが元々からのものとしたなら、それぞれの教育荒廃状況は延長線上のものとして受入れ可能となる。となれば、当然「犯人を学校に求め」ざるを得ないだろう。「勉強以外の価値は苦戦を強いられており、なかなか生徒にとどかない」などと、プロ教師の自己を飾る詭弁に過ぎない。集団主義的・権威主義的強制・支配と同調・従属の教育構造を基本としている点で、「明治以来の学校」は依然として「崩れてはい」なのであり、「不登校、家庭内暴力の根本的な原因は『明治以来の学校』(が延々と引き継いできた集団主義的・権威主義的人間関係秩序)だとする川名氏の指摘は間違っていないのである。

もしそうではなく、「問題の根は、現在の社会そのもの」にあるとするなら、生徒をそのような「社会」に無定見・無批判に同調・従属する人間としてではなく、批判的に立ち向かうことの可能な自律的・主体的人間に育み、送り出すことによって、「現在の社会」を少しずつ変えて行く方向に向けることも可能となるはずである。

そうするためには、学校社会に関しては従来の集団主義的・権威主義的人間関係秩序を排除することが絶対条件となる。排除しない場所からは自律的・主体的人間は育たないからである。

学校・教師こそが「社会の『学歴信仰』」に同調・従属して「巻き込まれて流されている」からこそ、生徒も「巻き込まれて流され」同調・従属人間に育て上げられて社会に巣立って行くために、以前のままの社会が継続することになっているのである。

プロ教師の現実を表面的に切り取って表面的に解釈する能力は宿命的なものであるらしい。30年間以上現場教師していながら、何ら本質を洞察することも、認識することもできないのに、「川名氏は、現実の学校をじっくり見学した方がいい」などとおこがましい限りである。

次は、「学校棄民四割――吉岡忍氏のエッセイを批判する」(p183)と題した批判の展開である。

「まず吉岡氏は最近の学校の状況について、次のように述べている。
『すでに起きている学級崩壊は、現在の教育の低下が臨界点に近づいていることを暗示しています。それでもかろうじて授業が成り立っているのは、いささかシニカルに言えば、受験制度のおかげではないでしょうか』
 私はこの現状分析にはまったく同意する。
『いささかシニカルに言えば』などと遠慮することはない。今の中学校から高校受験をなくせば、授業だけではなく、学校そのものが一挙に崩壊の危機に直面することは明らかだろう。それだけ学校は崩れていると言っていい」(p183)

相変わらず自己都合の薄汚い誤魔化しを平然とやらかしている。「高校受験をなくせば、授業だけではなく、学校そのものが一挙に崩壊の危機に直面する」のは、「今の中学校」に限ったことではなく、従来通りからのものである。学歴社会は「今」に始まった社会現象ではないからである。封建時代以来から、学歴を権威とする社会意識はあった。但し、学歴を上回る権威が存在し、しかも学歴は一部の人間の所有物とされていたために、社会的に目立たなかったに過ぎない。

しかし、誤魔化しは誤魔化しとして現れる。プロ教師は、「授業が成り立っているのは」「受験制度のおかげ」なのに「同意」している。いわば戦後のと言う広い意味での現在の「中学校」「高校受験をなくせば、授業だけではなく、学校そのものが一挙に崩壊の危機に直面する」程にも「受験」支配的地位を占めていることを意味している。

言い換えるなら、「受験制度」に助けられて、学校・教師は授業可能となっていると言うことである。とすると、「社会の『学歴信仰』を学校がつくり出していると考えているようだが、それは違う」とする主張と異なることになる。当初は「学校がつくり出し」たものではなくても、同調・従属して補強している姿を自ら暴露するものであろう。

さらに言い換えるなら、プロ教師の自らの主張に矛盾して、「勉強¢謌黷ナ学校を運営し」ているということになる。「勉強¢謌黷ナ」ある以上、当然「時間を守る、掃除をしっかりやる、自分の役割を果たす、他人を思いやる等々」「勉強以外の価値を強調し、それによる評価に力を入れる努力」は、先に証明した通りに、単なる目標に過ぎない。意地の悪い言い方をするなら、学校教育者を装うための見せかけのポーズで終わっていことの暴露でもある。

もっともプロ教師は、「社会や親の要求することを完全には拒否する力はありはしない」(p173)と言い逃れてはいるが、その言い逃れは学校教育者としての主体性の放棄の暴露ともなるでもある。いわば教師は学校空間において自らの存在性で立っているのではなく、社会的価値観に強制・支配された状態で存在しているに過ぎないことを証明している。

塾の教師ならいざ知らず、学校教師でありながら、その存在が「受験」に関する事柄以外は無力であるということはどのような逆説なのだろうか。教師の言葉(想像力、さらに思想・哲学)「受験」にのみ適合し、集約されたものとなっていて、それ以外に関しては力を失っている、いわば無価値なものとなっている状況が、「高校受験」(=学歴信仰」)一辺倒状況を生み出していると言えるだろう。ゆえに最初から「学校は崩れている」状態にあったのである。その崩壊が年々ひどくなっていっただけの話なのである。

『ともかく目の前の入学試験を突破していかなければ、そこそこの就職試験もできないし、快適な生活も保証されない、と子どもたちは分かっています。少し先の読める生徒であれば、ムカツキやキレそうな気持やストレスを我慢するほうが得だと知っています』
 これも同感である。ただし私は、生徒たちが先のことを考えて、目の前のつらいことに耐えたり、自分を控えめにしようとするのはいいことだと考えているから、
吉岡氏とは見方が違う。
 しかし、学校と生徒との状況についての氏の分析は、全体として私とそんなにちがうわけではない。問題は、その原因と解決する方法についてである」
(p184)

プロ教師は我慢・忍耐に関して、単細胞にも、その経緯・内容を問わずにすべてをプラスの価値で把えているが、何度でも言うように、本人の納得・了解を経た自発的必要性からのものではない、強制・支配に対する同調・従属を構図としたものは無意味であるばかりではなく、かえって自分のあるべき人間性や人格の自らによる否定につながるものとなる。

例えば陰湿ないじめにあっていても、教師から自分が意気地なしの人間に思われたり、問題を起こさないでくれよと面倒臭く思われたりして生徒評価に撥ね返る怖れを計算した我慢・忍耐がかえって相手を付け上らせ、今さら誰にも相談できないようなにっちもさっちも身動きできない局面に自分で自分を追い込んでしまった場合でも、「いいことだと考えている」のだろうか。

カネを貸せと万単位のカネを強請(ゆす)られたとしても、相手が番長だからと中学生活の安全無事だけを願って長いものには巻かれろ式に言われるままにカネを渡して、結果的に相手の悪事を黙認することになったとしても、「いいことだと考えている」のだろうか。

友だちがいじめられているのを知りながら、教師に知らせて、それがチクリだと自分までいじめが及ぶのを怖れて、傍観的態度を取るのも、「いいことだと考えている」のだろうか。

もっとも、教師の目の届かない場所でのいじめや暴力を生徒の誰もが教師に知らせなければ、教師は永久に平和でいられる。それを狙ってのプロ教師の我慢・忍耐のススメなのかもしれない。

吉岡氏は『学級崩壊』や受験のために我慢するだけの学校をつくり出している原因は、教科教育が本来の役割を果たしていないからだと主張する。
 
『しかし、だからこそ、と私は思うのです。ではいったい、一般の授業――国語や算数・数学や英語や社会や理科や音楽や図工は何をしているのか、と。学校でもっとも中心となり、教育と言えば誰もが真っ先に思い浮かべる教科学習、あれは一体何なのかと思うのです』
 しかしこれはまったく見当違いである。原因は教科教育のひどさ≠ェつくり出したものではないし、
吉岡氏の考えるようなすばらしい°ウ科教育がおこなわれれば問題が解決されるわけではない」(p184)

「私は、失礼だが吉岡氏は日本の学校についてよく理解していないのではないかと思う。日本の学校の一つの中心が教科教育であることはたしかだが、それと同じ程度に、生活の仕方や社会性、やっていいことと悪いことなどの道徳の教育などももう一つの柱としてきた。日本の学校は、欧米の教会の役割も担ってきたし、家庭教育の分野まで抱え込んできたのである。学校=教科教育と考えているとすれば、それはまったく違うと言わざるをえない」(p184〜185)

政治家の誰もが「国民のための政治を行います」と宣言したからと言って、「国民のための政治」が行われるとは限らない。その多くが自己地位の確保・維持とそのための権益確保を目的とした政治が行われているに過ぎない。

それと同様に、「日本の学校」「生活の仕方や社会性、やっていいことと悪いことなどの道徳の教育などももう一つの柱としてきた」としているが、実効性を伴わない形式で終わっているのは、高度の大学教育を受け、高度の社会的地位を獲得した人間たちの会社ぐるみ・官公庁ぐるみ・警察署ぐるみ等の組織犯罪の日本社会での多さが証明している。

それは既に繰り返し指摘してきたように、日本の学校がプロ教師の言うように「社会的自立教育」「役割」としてきたとするのは自己体裁でしかなく、実際は「社会的同調教育」「教科教育」、さらに「生活の仕方や社会性、やっていいことと悪いことなどの道徳の教育など」を通して行ってきたことの成果としてある、集団や組織の場面では個人性・自己性を麻痺・抹殺させて、集団性に自己意志を同調・従属させる集団主義・権威主義の行動様式が反社会的な最悪の状態で表れたものである。

学校社会での教師対生徒の人間関係は集団主義的・権威主義的上下関係で秩序づけられている。そのような人間関係を反映させて、吉岡氏の言う、「学校でもっとも中心となり、教育と言えば誰もが真っ先に思い浮かべる教科学習」自体が、言葉の闘わせもなく、教師が教えることをほぼ鵜呑み状態に暗記形式で受容する、教師から生徒への一方通行形式の構造(強制・支配に対する同調・従属形式の集団主義的・権威主義的構造)となっているのである。そのような構造の人間関係からは、「生活の仕方や社会性、やっていいことと悪いことなどの道徳の教育など」にいくら時間を掛けたとしても、個人として行動する自律性(自立性)も自発性・主体性も育むことは不可能である。

ゆえに、「日本の学校は、欧米の教会の役割も担ってきたし、家庭教育の分野まで抱え込んできた」とするのは身の程知らずな思い込みに過ぎない。あれをするな・これをするな、あるいは、こうしろ・ああしろと言葉だけの命令・指示を行ってきただけのことで、それに対して生徒は「かたち」だけ従って取り繕ってきたのである。

なぜそうしなければならないかの問いかけと、それに対する相手の納得・了解を介在させない人間関係・教育だから、「かたち」だけ整わせることとなっただけではなく、そのような「かたち」の伝承が日本人の精神文化として伝統化したのである。プロ教師が底浅にも「かたちは文化」だとするゆえんである。

大体がプロ教師みたいな浅底の人間「生活の仕方」だ、「社会性」だ、「道徳」だといくら口を酸っぱくして言ったとしても、生徒の信用を獲ち得るどころか、せせら笑いのネタにされるだけだろう。

『学校は四割の子どもたちを取りこぼしているというのも、各教科が全然面白くないからです。子どもたちの日常的な経験や感覚から遊離し、学ぶことの動機形成にまったく役立っていないからです』
 
・・・・・・・・・・
 学校というところは、地域の子どもたちをまるごと受け入れるようになっている。そこには、勉強に限っても、できる生徒もできない生徒も、好きな生徒も嫌いな生徒も、努力できる生徒もできない生徒もいる。しかも、私の経験から言っても、勉強が好きでできる生徒はせいぜい五パーセントである。好きでないが努力できるという生徒が一〇パーセント、あとの八○パーセント以上の生徒たちは、勉強は好きではないし、努力もなかなかできない生徒たちである。そのうえ、勉強はみんながみんなやればできるようになるわけではない。授業はだいたい半分から少し上の生徒たちを基準にしておこなわれるものだが、生徒全員が理解したとか、テストをやってみんなが百点を取れるようにすることなど不可能なことである。これは学校の勉強(教育)の限界であり、最近特にそうなったわけではない。
 むしろ問題は、やり方を変えれば、すべての生徒が理解できるようになるはずだという考え方である。それは他方で、やればできるという考え方を生み出し、生徒を追い込むことになるだろう。
 私は教科教育は学校教育の一部だと思っているから、教科教育を十分に理解できない生徒たちを『取りこぼしている』などと考えてはいない。勉強ができるか否かも一つの個性だと考えているからである。義務教育の役割の一つは、社会に出たときに必要な基礎学力を身につけさせることだが、それは、教科教育のすべてを身につけることとイコールではないのだ。『学校棄民四割』などという発想は、学力第一、知識第一の『学力信仰』から出るのではないのか」
(p185〜186)

「いまの中学校」「高校受験」に負ぶさって成り立たせなければ、「授業だけではなく、学校そのものが一挙に崩壊の危機に直面する」(p183)程にも「受験」教育の支配に任せているとしたなら、「勉強ができるか否かも一つの個性だと」するプロ教師の「考え」は生徒にしたら格好づけの綺麗事としか映らないだろう。中学校は少なくとも高校まで行き着かなければならない単なる途中駅となっているのである。いわば終着駅としてはならないし、そのチケットはテストの成績なのである。「勉強ができ」ない生徒は当然チケットは買えない。「勉強ができ」ないことを「個性」とする余裕は中学校は与えてくれないはずである。

また、中学校が「高校受験」を存在理由としている以上、「教科教育は学校教育の一部だ」とする解説は綺麗事を通り越して、妄言(もうげん)と言わざるを得ない。「一部」ではなく、大部分を占めているはずで、そうと言わないのは不正直さの表われ以外の何ものでもない。当然、「教科教育を十分に理解できない生徒たちを『取りこぼしている』」ことになる。

「教科教育」の理解度を中学校社会における生徒の最重要の可能性に限定している間は、「勉強ができるか否かも一つの個性だと考えている」はウソそのものから抜け出ることはできない。中学校が多様な可能性を機会均等に試す場となって初めて、言える言葉である。いわば、「勉強は好きではないし、努力もなかなかできない」「あとの八○パーセント以上の生徒たち」にも勉強以外の居場所(=活躍場所)を提供し得る空間になってこそ、ウソから抜け出ることができる。

プロ教師は自分の「経験から言って」生徒の授業理解度を分析するのはいいが、「教科教育を十分に理解できない」「八○パーセント以上の生徒たち」「理解できない」ままに教室に坐らせておくことが、私語や席立ちといった学級崩壊現象に発展していると考えないだろうか。そのような生徒の態度が授業外でのいじめやケンカ・暴力につながっていると考えないのだろうか。そういった態度を「強面教師」「怖」さで抑え込もうと願望しているが、それはなおさらのこと「理解できない」状態のままに強制的に教室に坐らせておくことであり、ヘビの生殺しに近い拷問を与えることにならないだろうか。

それともプロ教師は、教室の表面的な静けささえ維持できればそれでよしということなのだろうか。教師から生徒へ、生徒から教師へと双方向性のものではない、常に教師から生徒への一方通行形式の教育には都合のよい教室状態ではある。

私語や席立ち生徒の側からの意思表示だと把えるなら、一方通行形式の教育を破って、わずかながら双方向性が顔を覗かせた教室と言える。だが、「怖い教師」の登場によって、そのわずかな双方向性をも影を潜めてしまったとしたら、考えようによっては、それは恐ろしい教室風景ではないだろうか。

「教科の授業が生徒の現実から離れていて『面白くない』という批難について」(p186)反論している。

「もともと、義務教育の小・中学校でおこなっている教科教育は、きわめて基礎的なもので、どんなやり方をしても『面白くない』と思ったほうがいい。
 教師たちは、授業をやるときに、生徒に興味を持ってもらいたいと動機づけをし
、やり方を工夫し、生徒との現実生活とのかかわりを考えてやろうとしている。教師だって
『面白くない』授業はいやだし、うまくいかなくて授業が騒然となるのも困るからである。教師が努力をしていないと考えているのなら、それは違うと言わざるを得ない。
 しかし、それでも『学級崩壊』がふえ、授業が成り立たない状況は確実に増えているのだ。それが一方的に教師の責任だと言われると、ちょっと待ってくれと言いたくなる。授業が
『面白くない』から『学級崩壊』になるわけではないからだ」(p186)

プロ教師はここでも御都合主義をヌケヌケと出没させている。自分の授業を例に取って、「工夫次第で生徒は真剣になる」(p100)と言っているのである。それとも、プロの俺だからできることだと思い上がっているのだろうか。

「教科教育」というものが「どんなやり方をしても『面白くない』もの」なら、「生徒に興味を持ってもらいたいと動機づけをし」たり、「やり方を工夫し」たりするのは無駄な抵抗・無駄な努力というもののはずなのに、「教師だって『面白くない』授業はいやだし、授業がうまくいかなくて騒然となるのも困るから」「『面白く』する)努力」をするのは矛盾行為のはずである。教師が授業を『面白く』する「努力」をしているという事実を取るなら、「授業が『面白くない』から『学級崩壊』になる」が正解となる。

「きわめて基礎的なもの」だから、『面白くない』とは決まってはいない。50年近く前に中学校に入って英語の授業で「ABCD・・・」を習ったときは楽しかったし、「THISIS A PEN.」を、「これは一本のペンです」と覚えたときも、喜びはひとしおであった。「きわめて基礎的なもの」がまだ未知の知識であったなら、未知であることが原因となって、好奇心や関心を否応もなしに惹くものである。かえって中間的以上の知識の方が機械的に裸のまま出されたのでは味も素っ気もなく、好奇心を駆り立てるためのそれ相応の味付けや飾りが必要となる。いわば、『面白くない』」「『面白』いは裸の知識を豊かに彩る言葉が問題となってくる。

ところが、教師から生徒への一方通行形式の教育では、言葉の闘わせ(議論・検討)を経た上の納得・了解のプロセスは排除され、ストレートに暗記に持込む構図のため、それが教師の言葉の貧困と重なって言葉の着飾りは無視され、一方通行形式の教育から抜け出れない悪循環要因となっている。

ゆえに授業が『面白くない』背景には教師の言葉の貧困の問題がある。そしてそのことが「学級崩壊」の原因となっているものであろう。

「生徒たちが授業になかなか乗らないのは、自分の好きな世界についてはものすごい関心を示し熱中して取り組むが、外の世界のこと、社会的なことには、いたって関心がなくなったということが大きい。教師ががんばればなんとかなると考えているとすれば、事態の深刻さがわかっていないと言わざるをえない」(p186〜187)

もし生徒が、「自分の好きな世界についてはものすごい関心を示し熱中して取り組む」と、そこまで分かっていたなら、授業が理解できないままに教室に坐らせておくことはやめて、「自分の好きな世界」を通して、プロ教師の言う「社会にて出、一人前の社会人として生きていくのに必要な基礎的な力を身につけさせる」(p11)ことができるようなクラス編成・授業編成としたらどうなのか。

例えば、テレビゲームに熱中すると、朝まで続ける生徒がいるとする。そのような生徒を集めてひとクラスに編成し、共同して好みのゲームのシナリオを文章で作らせる。出来上がったところで、コンピューターグラフィックスに詳しい教師の指導を受けて、やはり共同して画像化する。共同作業が例えうまくいかなくても、創作やコンピューターグラフィックスに関する知識、そして想像力や技術だけではなく、意見の一致と衝突を操作を通して、自己認識や他者認識(=社会性)まで学ぶはずである。「八○パーセント以上の生徒たち」を授業が理解できないままに教室に坐らせておくよりは、活躍の機会を与えることで、学校を居場所とさせることの方が有効ではないか。何よりも、彼ら「八○パーセント以上の生徒たち」を人間扱いすることにもなる。授業が理解できないままに教室に坐らせておくことは決して人間扱いとは言えないからである。

言葉を変えて言うなら、プロ教師は実際には生徒を人間扱いしていないということである。「最近の生徒たちは放っておくと何をするかわからない」(p167)「最近の生徒は」「ひ弱」(p176)だ、「生徒を疑いの目で見て対応しなければやっていけない」(p174)――例を挙げたら、キリがない。このような人間がプロを名乗って、学校教師を務めている。「事態の深刻さがわかっていない」のはプロ教師の方だろう。

吉岡氏が次に問題にするは『学歴信仰』についてである。
 『学校に通うことが受験の難関を突破し、いい企業に勤め、豊かで安楽な暮らしをしたいと言う打算的欲望を刺激するだけなら、そこに教育はない』
 誰が、『打算的欲望を刺激』している犯人なのかはっきりしないのだが、『学校に通うことが』『打算的欲望を刺激するだけ』という現状認識はまちがいである。生徒たちは友だちといっしょに生活し、行事に取り組み、そして授業のなかで、大人になるための力を着々とつけている。たしかに、学校の教育力は低下し、教育は難しくなっていることは事実だが、中学校が高校受験のためにだけ動いているという事実はない」(p187)

相変わらず御都合主義の綺麗事を並べて、「学校・教師無罪説」の補強衝動を露骨に見せている。「生徒たちは友だちといっしょに生活し、行事に取り組み、そして授業のなかで、大人になるための力を着々とつけている」風景からは、プロ教師が大袈裟に騒ぎ立てている『学校崩壊』現象は見えてこない。いじめも暴力もない、日本の学校ではない生徒風景を描いて見せたようだ。

先に「外の世界のこと、社会的なことには、いたって関心がなくなった」と書いているが、「大人になるための力を着々とつけている」ということは、それと矛盾して社会的関心を平行して育んでいるということのはずである。その場、その場で矛盾したことを平気で言い、自己主張を取り繕っているに過ぎない。さすがプロ中のプロである。

プロ教師は質の悪い三流ジャーナリストがオハコにしているのと同じ遣り口で、最近の子ども・生徒をエサに、彼らをセンセーショナルに取り立てて世間にショックを与え、カネ儲けのネタにする目的で『学校崩壊』なる書物を世に出したのではないかと疑いたくなることが何度となくあるが、今回も同じ疑惑に駆られざるを得ない。

「中学校が高校受験のためにだけ動いているという事実はない」とする主張も、「高校受験をなくせば、授業だけではなく、学校そのものが一挙に崩壊の危機に直面する」(p180)とする、まだ舌の根が乾く暇もない程のほんの少し前に触れた主張と真正面から矛盾するものである。私利私欲で政治家を成り立たせている人間にしても、落選したら私腹を肥やす機会を失うために、票と選挙区の住民の福祉をギブアンドテークの秤にかけた政治を行いもする。だからと言って、「俺は私利私欲のためにだけ」「動いているという事実はない」と主張しても、通らないだろう。その政治家にとって私利私欲が政治を行う支配的動機となっているのと同じく、日本の中学校は「高校受験」を支配的目的としている事実に変わりはないのである。

「ひょっとすると、吉岡氏が、『打算的欲望を刺激し』学歴による上昇志向をつくり出しているのは学校だと思っているといけないので、つけ加えておきたい。前にも述べたが、『学歴信仰』は学校がつくり出したものではない。学校にはいろんな生徒がいるのだから、すべての生徒をいい学校≠ヨ行くために勉強せよ!と追い込むことなどできることではない。そんなことをすれば、あっというまに学校が荒れてしまうことを教師たちは充分に知っている。しかも日本の学校は教科教育だけで成り立っているわけではないから、学力だけで生徒を評価するようにはなっていない」(p187)

自分の主張を正当だと結論づけるために都合のいい前提を持ってきて論理を進めるトリックは相変わらずの冴えを見せている。さすがプロである。

神様・仏様がこの世にいればの話だが、神様・仏様でなければ「すべての生徒をいい学校≠ヨ行くために勉強せよ!と追い込むことなど」逆立ちしたって「できることではない」。軍国主義が猛威を振るった戦前でさえも、徴兵年齢に達したすべての国民を戦場に「追い込むことなど」できなかったのである。身体障害者・体質虚弱者・病弱者――彼らは天皇のため・お国のために役立たない非国民と白眼視された。

プロ教師は「できることではないこと」――いわばしていないことを持ってきて、学校・教師には責任はないとする誤魔化しを行っているに過ぎない。「いい学校=vに入れない生徒は「進路指導」の名の元にそれぞれの学力に応じたランクの高校に振り分け、内申書の点数を操作してまで押し込むといったことをしてきているのである。プロ教師自身、「親と子の要求を無視して学校は成り立たない」と言っている。「『学歴信仰』は学校がつくり出したものではない」としても、少なくとも、学校・教師は同一歩調を取って「学歴信仰」詣でを行ってきたのであり、現在も行っているはずである。

言葉を変えて言うなら、『打算的欲望を刺激し』学歴による上昇志向をつくり出」すことに学校・教師は充分に手を貸してきたのであり、今なお手を貸しているのである。

「日本の学校は教科教育だけで成り立っているわけではないから、学力だけで生徒を評価するようにはなっていない」とする何度も繰返している主張も、相変わらずの薄汚い鉄面皮な誤魔化しに過ぎない。そのような性懲りもない誤魔化をやめさせるために、当方も同じ反論を繰返して、それが誤魔化しであることをその都度証明しなければならない。保護者会で「学力だけで評価することはやめる」(p111)と宣言したのはプロ教師自身なのである。

「ただし、教師が親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっているということもある。親と子の要求を無視して学校は成り立たないのだが、教師は本来の学校の役割を自覚して、流されることを抑える努力が必要だろう。義務教育の目標は、子どもたちの社会的自立をはかることだからだ」(p187〜188)

綺麗事と誤魔化しと矛盾のオンパレードである。

学校が「親と子の要求を無視して」「成り立たない」構造のものなら、「本来の学校の役割」は、「親と子の」どんな「要求」も受入れて「学校」「成り立たせる」ことにあるはずである。だからこそ、「親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっている」はずである。

いわば「教師は本来の学校の役割を」十分に、あるいはそれ以上に果たしているのだから、今さら「本来の学校の役割を自覚」する必要もなく、「流されることを抑える努力」「必要」ないはずである。また、「義務教育の目標」も、「子どもたちの社会的自立をはかること」ではなく、「親と子の要求」を(それは同時に社会の要求でもあるはずである)受入れることにあることになる。

「親と子の要求」を受入れ、学校教師は学歴獲得の戦場に指導者・指揮官の立場で生徒と共に立ち、生徒を叱咤鼓舞して生徒と共に直接の戦闘行為に参加していたのであり、銃後に位置して戦勝の報告を今か今かと待ち望んでいる親の期待をも背に受け、数々の戦果を上げることができた。

言い換えるなら、学校・教師はこれまで十二分に「本来の」「役割を」果たしてきたのである。そしてその成果としてあるのが、学力低下と教育荒廃の数々なのである。

大東亜の聖戦が侵略戦争だと化けの皮が剥れたように、学歴獲得戦争が犯罪に類する戦争だとするなら、それが例え国民挙げての意志表示の反映であるとしても、学校・教師は直接的な戦闘において主導権を握った主たる共犯行為者であることを免れることはできないだろう。

「最後に吉岡氏の主張の核心に迫りたい。神戸の事件を引き起こした少年Aに関連して次のように述べている。
 
「しかし『人の世の旅路の半ば、ふと気がづくと、俺は真っ直ぐな道を失い、暗い森に迷い込んでいた』という、ダンテの言葉がリアルな内的体験として当時十四歳の少年の心をとらえたという事実を見逃すことはできません。教科としての国語、それを教える教師は少年の内部の経験に拮抗できなかった。そこに踏み込むどころか、かすりもしなかった、と私は思います。
 もちろんこれは、国語だけの問題ではありません。少年の内的経験に気がつきもせず、何も手を打てなかったという点では、すべての教科が敗北したのでした」
 
私はこの部分を読んでビックリしてしまった。吉岡氏は、義務教育の学校や教師、そしてそのなかの教科の教育が、心をつくり人間をつくり、生き方を形成すると理解しているとすれば、過大評価もいいところである。しかもそのような理解のもとに、現在の学校や教師を攻撃するとすれば、錯覚によるないものねだりであり、たんなる学校たたきの一種にすぎないと言っていいだろう。
 小・中学校でおこなう教科教育は、基礎的な学力を身につけさせることがその目標である。それは結果として、子どもの人間形成の一部を担うことはあると思うが、そのことが第一の目標として設定されているわけではない。
吉岡氏には『学力信仰』があるのではないか。学問をしっかり身につければ立派な人間になると思っているのではないか。教科をしっかりと教えれば人間は変わるものだという考えは、勉強はできないと人ではないという考えにつながるのではないか。
 はっきり言おう。少年Aに拮抗できる教師などいやしないのだ。それができなかったからといって、
「すべての教科が敗北した」などと言われても困ってしまう。少年Aの登場に私たちがたじろいだのは、彼に拮抗できる人間がこの世に何人いるだろうという恐れだったと私は思っている」(p188〜189)

テストの設問に解答として当てはめて、それで完結する、日本の学校教育の主体となっているコマ切れの暗記「学力」の獲得とその活用のプロセスには人間性や人格は必ずしも必要としないが(カンニングでも賄えることがそれを証明している)、「学問」「身につけ」る過程では人間性や人格の獲得をも伴うものでなければ、単なる知識の獲得(知っているというだけのこと)で完結してしまう。

プロ教師はテストの解答能力が主体となっている「学力」の獲得過程を「学問」とする操作を行っているが、日本の学校で教科書の教え「学問」にまで高め得る教師はどれほどいるだろうか。さらにプロ教師が言う通りに日本の学校社会で「勉強ができるか否かも一つの個性」であることが事実として確立されていて、それを前提とするなら、「教科をしっかりと教えれば人間は変わるものだと」考えたとしても、あくまでも「教科」を自らの可能性とする生徒に限った場合であり、「教科」以外を可能性とする生徒にそれ相応の居場所(=活躍の機会)を与えていたなら、「勉強はできないと人ではないという考えにつなが」らないはずである。

裏返して言うなら、「教科をしっかりと教えれば人間は変わるものだという考え」「勉強はできないと人ではないという考えにつながる」としたら、「勉強ができるか否かも一つの個性」だとする価値観が学校社会に根づいたものとして確立されていないことを示すものであろう。いわばプロ教師は自分では気づかずに、「勉強ができるか否かも一つの個性」口先だけで言っている綺麗事だと自分から証明しているのである。

人それぞれの人間性や人格は日常普段の言葉や態度に反映される。「日本の学校の一つの中心が教科教育」であり、「それと同じ程度に生活の仕方や社会性、やっていいことと悪いことなどの道徳教育などをもう一つの柱として重視してきた」(p184)としても、「教科教育」における教師の言葉・態度からも、生徒はその教師の人間性・人格を嗅ぎ取り、信頼が置けるか置けないか、ウソっぽいかホントっぽいか嗅ぎ分け、様々に学んで、自らの人間形成へとつなげていくものである。

いわば、生徒の「心をつくり人間をつくり、生き方を形成する」のは何も「生活の仕方や社会性、やっていいことと悪いことなどの道徳教育など」を通してと限ったことではなく、「教科教育」における教師の言葉・態度を通しても学んでいくものである。吉岡氏が言うように、「教科教育」「学校でもっとも中心となり、教育と言えば誰もが真っ先に思い浮かべる」程にも最も時間と労力を掛けているものである以上、生徒は「教科教育」における教師の言葉・態度からこそ、「心をつくり人間をつくり、生き方を形成する」影響を一番に受けることになるはずである。

ゆえに、「教科教育」「結果として、子どもの人間形成の一部を担う」構造のものではなく、また、「そのことが第一の目標として設定されてい」るいないは関係ないことなのである。それを関係あることとしているのは、一重にプロ教師の認識能力の貧困からきているものであろう。

また、既に述べたことだが、日本の学校教育が「生活の仕方や社会性、やっていいことと悪いことなどの道徳教育などをもう一つの柱として重視してきた」としても、「重視してきた」だけの成果が上がるかどうかは、教育する教師自身の人間性や人格を表現することになる言葉や態度に左右される。いわぱ問題としなければならないのは、教師の言葉・態度であって、態度は生き方や考え方、さらに思想や哲学と関連しあって形作られる言葉に対応する身体動作であるゆえに、言葉こそ第一に問題にしなければならない。

大部分の時間が費やされる教科授業で単に教科書を解説し、それを暗記させる一方通行形式の意思伝達に必要な最小限の教師の言葉からは、そのような言葉を自らのものとして、それを当たり前としているなら、生徒はコマ切れ知識以外、自らの「人間形成」の倍溶液となるどのような生き方や考え方、さらには思想・哲学が学べるというのだろうか。

教師の人格と一部化した無内容な言葉が、「生活の仕方や社会性、やっていいことと悪いことなどの道徳教育など」の時間には何ら手を掛ける必要もなく内容豊かな言葉へと変身して、生徒の「心をつくり人間をつくり、生き方を形成する」力となるとでも思っているのだろうか。「生活の仕方や社会性、やっていいことと悪いことなど」を教える言葉を、その言葉通りに機械的に伝えるだけで終わることになるだろう。

それでも「かろうじて授業が成り立っているのは」吉岡氏が言うまでもなく「受験制度のおかげで」であって、「いささかシニカルに言えば」「などと遠慮することはな」く声を大にして皮肉るべきだろう。

吉岡氏『教育は心に届くことなく成り立つだろうか」とも述べているが、氏は、学校教育にものすごく過剰な期待を抱いており、教師に対してできもしないことを要求していることに気づいていない。文部省が『心の教育』をいうのと一脈通じているようだ。
 
吉岡氏には、日本の学校教育の役割について、冷静に考えた上で問題を限定的にとらえてもらいたいと思う。そして、教科教育は特別活動(生活や行事など)と並ぶ二つの柱の一つであり、その役割についても過剰な期待は捨ててほしい。そのうえで、現在学校が直面している問題を冷静に見て欲しい。そして少なくとも教科教育がだめだからクラスが荒れるのだ、などと単純に考えないで欲しい」(p189)

「単純に」結論を言えば、「クラス」「荒れるの」は教室空間において、生徒の可能性・価値観をテスト解答能力(「学力」)に限定していることに起因している。その上、教師の言葉が退屈でつまらないから、「教科教育」「特別活動」も退屈でつまらないものとなっていて、「クラス」「荒れ」を加速させる原因となっているのである。

但し、「受験制度のおかげで」進学を自己利害としている(=自己可能性の全体となっている)生徒は教師の言葉が退屈で詰まらなくても、テスト解答能力(「学力」)の獲得に関しては教師と利害が一致するために、原則的には「クラス」「荒れ」に加わることはせず、我慢して授業を受けることになるだろう。

原則的にと言ったのは、受験科目に関係しない教科の場合は、自己利害から外れるために、その限りではないという意味である。

教師の言葉が通り一遍のもので、生徒の感性・想像力を何ら刺激しないとなったら、刺激の先にある、生き方や考え方、さらに思想・哲学等の獲得に裏打ちされる人間形成・人格形成に向かうことはないだろう。こういうことを吉岡氏「心に届く」「教育」と言っているのではないだろうか。

教師が言葉を獲得するためには、何も「ものすごく過剰な期待」は必要としない。殆ど教師が喋るだけで終わらせている、生徒が大部分の時間を費やしている「教科授業」での教科書を解説するだけの言葉を、生徒になぜと問い、あるいはなぜと問わせる言葉に変えて、相互的な言葉の闘わせを行い、その過程で教師・生徒双方の感性・想像力を刺激し合い、刺激し合うことで相互の言葉を高めていく作業を、「教科授業」「柱」に据えるだけのことである。

これは「教師に対してできもしないことを要求」することにはならないだろう。

「私たち教師が直面している混乱は、社会の変化とそのなかで起こった子どもの変質が根本原因であり、それは教科教育だけでなんとかできることではないのである。私たち教師はできることは精いっぱいやるつもりだが、残念ながら、現在の子どもの問題は学校だけではどうしょうもないところにきていると言わざるをえない」(p189)

この主張は、「社会の『学歴信仰』は根強く、親と子もそれに巻き込まれており、残念ながら学校もそれに巻き込まれてい」たとする主張と矛盾する。それは戦争犯罪人を子どもに特定した責任転嫁以外の何ものでもない、虚偽の自白だからだろう。もし虚偽でなかったなら、「教科教育だけでなんとかできる」間に何か手を打ったはずだからである。

実態は、「社会の『学歴信仰』」に率先垂範して無定見・無考えに同調・従属して、それを子ども・生徒に押しつけ、吹き込む、戦前犯したのと同質の社会と肩を並べた戦争犯罪を犯したのである。ところが敗戦後、国家の軍国主義に加担した自らの戦争犯罪の責任を無視して、国家のみになすりつけたように、現在も再び、「社会」「社会の『学歴信仰』」に罪をなすりつけ、「学歴信仰」に関わる直接的仲介者たる学校・教師は「残念ながら」「巻き込まれ」ただけの罪軽き存在となさしめ、それを飛び越えて「学歴信仰」の被害者たる子ども・生徒に直接加害者の濡れ衣を着せる卑怯・卑劣な歴史の歪曲を終わりのない再犯性で演じているのである。

学校教師の中でも、プロ教師はA級戦犯中のA級戦犯に位置づけなければならない。そのような位置づけが,プロ教師流の浅底な認識への決別宣言となって、過去との新たな向き合いと向き合うことで新たな学びを可能とし、その学びにこそ、新しい教育の創造につながる芽を見い出すべきであろう。

 

              今回はここまで。
              次回は、
       第四部『マスコミが学校にあたえた影響』の最終章、
       「NHKの報道番組『広がる学級崩壊』を批評する」
              への全面否定・全面批判。

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