市民」 

      教育を語る ひとりひとり 政治を社会を語る そんな世の中になろう


第32弾 NHK報道番組への批判を批判する
                   
2000/10/22()

           『学校崩壊』全面批判・全面否定最終章

プロ教師は第四部『マスコミが学校崩壊に与えた影響』の最終部分で、NHK報道番組『広がる学級崩壊』(1998.6.19.放送)(p190)を批判している。同じ主張の繰返しに過ぎないが、全面批判・全面否定の関連上、当方も同じ文脈の批判になり勝ちであるが、一字一句を追って反論を試みることとする。

まず、NHKが新しい子ども≠スちの登場を示す学級崩壊の実態について報告した意味は大きい』(p190)と持ち上げている。それはそうだろう、「新しい子ども≠スち」(=未知の子どもたち)とすることで、「子ども・生徒悪者説」を完成させることができるからだ。

子ども(そのありようの全体性)大人の持つ意識がつくり出すものである。これは絶対真理である。いわば子どもは大人のミニチュアであり、「新しい子ども≠スちの登場」「新しい大人≠スちの登場」に呼応するものとしなければならない。

では、大人は以前と変化したのか。その変化は時代の変化に応じた、犯罪の凶悪化といった規模の変化――いわば表面上の変化であって、自らは本質のところで前々からの日本人性を引きずって、変化のない状態にある。

具体的に言うなら、戦後日本は民主化した。日本国憲法基本的人権を保障し、その意識を国民に植えつけた。そのために教育の機会均等を踏まえた教育基本法を初め、様々な法律・制度が整備された。だが、日本人は封建時代からの集団主義・権威主義の人間関係秩序・行動様式から抜けきれず、民主主義は表面的な約束事の段階での停滞を余儀なくされている。いわば、掛け声だけで終わっている。

政治家知識人文化人マスコミも、日々大量に民主主義を唱え、やれ表現の自由だ、思想・信条の自由だ、人権だと言い立てているが、日本人の人間関係は基本的には集団主義・権威主義からの上下の力関係に縛られているために、そのような人間関係に無縁な場所での民主主義であり、基本的人権となっている。

何度もの例示になるが、「共産主義が最も成功した国は日本である」と言われる所以(ゆえん)である。

そのような大人たちの無変化が経済的利害にまだ絡め取られていないゆえに人間の自然な状態にとどまることができていることから人権意識に敏感な子どもたちの人権に関わる自然な意識・欲求を有形無形に支配・抑圧して、年齢的未経験と大人の教育不在によるそれへの正当性を欠いた、変化への呻(うめ)きとして表れている反発・抵抗の中途半端な意思表示・態度表明が、「学級崩壊」の数々の諸現象となって現れているものだろう。

そのような子どもたちの変化への呻(うめ)きは成長して大人の仲間入りをすると、元々からの日本人性である集団主義・権威主義からの社会的な自己保身性に負けて、従来からの大人性に同調・従属してそれを自らに刷込んでいく大人に瓜二つと化す同一性を演じることとなり、その結果として大人となった子どもたちは次の子どもたちの変化への意識・欲求を支配・抑圧する循環性に陥り犯すこととなる。いわば、これまでの大人と次の大人の間には無変化が貫かれる状態となる。譬えて言うなら、「新しい子ども≠スちの登場」とは、思春期における性徴に似た一時的な変化に過ぎない。

それはかつての「校内暴力時代」の生徒が大人となって、その時代に培養し・培養された意識の痕跡を何らとどめず、単なる勲章、もしくは記念碑で終わったのと軌を一にする無変化だろう。このことは大学闘争時代の大学生についても同じことが言える。

「教師たちがカメラの前に生身をさらして、新しい事態≠ノ直面し、どうしたらいいかわからないことを率直に発言している姿に、共感し尊敬の念すらおぼえた。これまで十数年、激しい学校たたきのなかで、内にこもっていた教師たちが、事態の深刻さにやっと口を開きはじめたのである」(p190)

プロ教師はあくまでも、「事態」「深刻」になるまで「内にこもって」手をこまねいていた教師たちの責任とその非主体性は決して追及しない。そして、西日本の「ある四年生のクラスの状況」を次のように紹介している。

「四年生の新学期早々から、一人の男の子が荒れはじめた。三年生のときまで落ち着いていたこの子は、授業中に突然大声を出したり、教室を出ていったりするようになった。・・・・担任はこの子にかかりきりになった。
 担任の手にあまるので、他の教師の応援で、男の子が暴れはじめたら、隣の教室に連れ出して、おしゃべりしたり、おもちゃで遊んだりするようになった。
 しかし、他の子どもたちが、男の子が怒られもせず、別の部屋で遊んでいることに教師がえこひいきしていると不満の声を上げ、同じように授業を抜け出したり、担任を
『くそばばあ』とののしるようになった。
 担任は、他の教師にもっと助けてもらいたいと感じたが、他の教師からは
『自分のクラスのことは自分で』とか『同じ給料をもらっているのに』とかいう非難の声が聞こえてきた。
 七月、担任は、他の教師の応援はもう必要ないと申し出て、校長もそれを了承。
 二学期に入ると、子どもたちの行動はますますエスカレート。授業参観に来た親の一人は、
『一瞬立ちすくみました。まず机の上にノートとか本が出ていない。三人か四人がドッジボールのパスをしている。授業中にですよ。何か、血の気が引く思い。そんな状況でしたね』と話す。
 十月中旬、担任はクラスを立て直せないまま休職。
 校長は、荒れているのは数人の子どもだと考え、プライバシーの点からも、親たちにクラスの状況を伝えるべきではないと考え、担任の休職までくわしい状況を知らせなかった。
 新しい担任に交代したが、クラスの荒れはつづき、三学期になると、また担任が交代、子どもたちは自分たちのクラスはだめなんだ、と言うようになった――」
(p192〜193)

次にプロ教師の「気になった点」の紹介である。

「@一人の男の子が荒れはじめ、担任の手に負えないことがわかったとき、親にそのことを知らせ、協力を求めたのかどうか。ひょっとすると、この子は普通学級で集団生活をするのが難しい生徒かもしれないのである。そのためには、家での様子をふくめ、充分に情報交換する必要があるのだが、この小学校では、校長の発言にあるように、何もかも学校で抱え込み、親たちにはなるべく知らせないように、ということがあったようだから、仮に担任が言い出しても、無理だったのかもしれない。しかし、結果として学校だけでなんとかしようとして対処できなかった。手に負えない状況を隠すのは事態をますます悪くするだけである。
 A他の子どもたちがえこひいきだと騒ぎ出し、同じような行動をとりはじめたとき、私は、四年生であっても、事態をきちんと説明しなくてはいけないと思う。この子はこうだから、特別にこうしている。だから、他の子どもとは別な扱いをせざるをえないということを説明しないとまずいと思うのだ。特別扱いは差別に通じるという悪平等主義にとらわれているのだとしたら、それはまちがっている。何より大切なのは、先ずクラスの安定をつくり出すことである。
 B小学校ではクラスの担任の責任だという考え方が伝統的に支配的である。しかし、学級崩壊の原因は担任の能力不足にあるのではない。不安定な子どもたちがふえ、何かのきっかけで一挙に混乱がはじまるのが学級崩壊の特徴であり、それは担任一人で対処できることではないからである。しかし、校長をはじめほとんどの教師たちはそのような認識がないようだ。事態を甘く見ていると言わざるをえない。休職したこの担任に能力がないと言うレッテルをはられるとしたら、それは見当違いもはなはだしい。自分たちの首をしめるだけである。
 C親たちの協力を求めなかったのも、問題が大きい。私も校内暴力が吹き荒れた時代に、教師の手に負えなくなったと判断したとき、事態を親たちに説明し協力を求めたことがある。学校を一日じゅう公開し、PTAの役員には交代で授業を参観してもらい、教師と親がいっしょになって事態に立ち向かうことで安定をとりもどそうとしたのである。教師とかのメンツとかプライドにこだわっているときではないのだ」
(p193〜194)

相変わらずの矛盾と綺麗事と誤魔化しと認識不足の連続である。この「学級崩壊」状況から映し出される風景は、すべて学校・教師の問題であって、決して子どもの問題ではない。

「男の子が暴れはじめたら、隣の教室に連れ出して、おしゃべりしたり、おもちゃで遊」ばせたりは、親が欲しがるものを何でも買え与えて子どもの歓心を買い、自分の言いなりに支配しようとするのと同根の勘違いを学校教師が犯していることを意味するもので、学校教育者としての個人的な資質の問題――いわば「能力不足」の問題であろう。そのような支配は子どもの好き勝手を増殖させ、増殖していく好き勝手を延々と聞き入れていかなければならない倒錯した人間関係を誘発するのみである。

それを、「担任の手にあまるので、他の教師の応援で」行ったとなれば、「能力不足」「担任」だけにとどまらず、「他の教師」の問題としてもあるということを意味している。

生徒を迷惑だから排除し、隔離するだけの意味で「隣の教室に連れ出し」たのでは、教育空間としての体裁をなさなくなる。例えマンガであっても、最近読んだ一冊の感想文を書かせるとか、自分がマンガ家となったら、どんなマンガを作りたいかを書かせるとか、あくまでも他の生徒と授業に迷惑を与えた罰として、その子どもにも教育として役に立つことを科すことによって、初めて教育空間としての体裁を整えることができるはずである。

「他の子どもたちがえこひいきだと騒ぎ出し」たのは、「担任」との間の信頼関係の不在を示す。普段から「担任」に対する信頼とは正反対の不満が渦巻いていて、それが「担任」の一人の子どもに対する扱いをキッカケとして、不満を抑え切れずに態度に現れたという経緯を踏んだはずである。

「担任」との人間的な信頼性はクラスの子どもたちだけではなく、「他の教師にもっと助けてもらいたいと感じたが、他の教師からは『自分のクラスのことは自分で』とか『同じ給料をもらっているのに』とかいう非難の声が聞こえてきた」という状況から推して、「他の教師」との間にも存在しなかったことが窺える。

だが、「担任」が二度代っても、クラスの状況に変化はなく、「子どもたちは自分たちのクラスはだめなんだ、と言うようになった」のは、最初の「担任」だけではなく、すべての教師とまでは言わないが、多くの教師が子どもたちに信頼されていない、あるいはどう努力しても信頼されない状況を示すものだろう。

プロ教師が、「担任の手に負えないことがわかったとき、親にそのことを知らせ、協力を求めたのかどうか」を問題としているのは珍しく当然なことであるが、「ひょっとすると、この子は普通学級で集団生活をするのが難しい生徒かもしれない」ということを前提とした「情報交換」なのは、「子ども性悪説」から出たものだろう。「三年生のときまで落ち着いていた」のである。その子にとって何か問題が起きたと把えるべきで、それがクラスの中で他の生徒との間に起きたことか、あるいは「担任」との間に起きたことか、家庭内の人間関係の中で起きたことなのか、その線に添った「情報交換」でなければならないはずである。

それを行わなかったことも、教師の資質の問題としてあるもので、子どもの変化よりも優先させるべき問題としてあるものである。「何もかも学校で抱え込み、親たちにはなるべく知らせないように、ということがあったようだ」という情況にも、学校・教師の資質の問題が強く関わっている。

以上このように見てくると、最初に指摘したようにすべて学校・教師の問題であって、決して子どもの問題ではないことが分かる。例え「学級崩壊」「担任一人で対処できることではな」くなったとしても、学校・教師の問題である以上、学校全体・教師全体で対処すれば、解決可能となるはずである。

それを子どもの問題とするところにプロ教師の認識不足・見識不足を見ることができる。勿論、プロ教師に右に習えの教師はゴマンといることだろう。

プロ教師が、「私も校内暴力が吹き荒れた時代に」「親たちに説明し協力を求めたことがある」「教師と親がいっしょになって事態に立ち向かうことで安定をとりもどそうとした」とするのは、「協力を求めた」とか、「授業を参観してもら」ったとかは体裁のいい言い方で、授業中の生徒を「怖い教師」(p128)代りに「PTAの役員」「交代」で監視してもらって、生徒の行動を抑えようとしたのが実態だったのだろう。

だからこそ、「安定をとりもど」したと言わずに(言えずに)、「とりもどそうとした努力姿勢の表現となったのである。授業中は「PTAの役員」の監視は有効であったかもしれないが、授業外・学校外、あるいは学校内でも「PTAの役員」の目の届かない場所では、その手の監視は有効であろうはずはないから、「クラスの安定をつくり出」せたとしても、学校全体の「安定」(秩序)は必ずしも「つくり出」せるわけではないから、「とりもどそうとしたと努力を示す以外はなかったのだろう。いわば相変わらず綺麗事を述べたにすぎないと言うことである。

次にプロ教師は「堺市宮園小学校からの報告」(p195)と題して、「生徒の荒れに対して教師が何を考え、どう対応しようとしたのか、うまくいかない原因は何なのか。いくつかの問題にしぼって考えてみたい。勇気をもって現状を知らせようとした教師たちに批判的な発言をするのは心苦しいが、危機に陥っている学校を何とかしなくてはという一心から出たことである。許していただきたい」と、何ともまあ自分を美しく見せながら、批判を展開している。

「@言葉で説得し、納得させようというやり方
 ――四年の男性教師は、クラスの子どもたちに、一つの約束を守ってほしいと呼びかけた。いたずらをしても先生は怒らないから、注意は一回で聞こうという約束である。しかし、この約束に反して、授業中にマンガを読んだり、オモチャで遊んだりして、なかなか勉強に集中しない。四十五分間我慢して授業を受けることができない。授業開始から三十分、三人の子どもがトイレに行きたいと言い出し、代る代わるトイレに行く子ども。授業は何度も中断し、教室は騒がしい。子どもたちはそれぞれ勝手なことをしている。
 一年担任の女教師のことば。
『たとえ一年生でも、暴力は悪いことだと言って聞かせれば、わかってくれると信じてきました』――
 最近教師の多くは、生徒に押しつけたり抑えつけたりするのはよくないと思っている。ひょっとすると、教師―生徒という上下関係(権力関係)というきびしい関係に教師自身が耐えられないのかもしれない。だから、つい説得しようとしてしまうのだ。しかし、説得に踏み出したとたん、その関係は五分と五分の関係になってしまう。最近、小学校では、叱ってはいけない、褒めることが大切だ、怒鳴るなどもってのほかだという考え方が支配的である。しかし教師にある程度の怖さ≠ェなければ、生徒が言うことを聞くはずはない」
(p195〜196)

「最近の子どもたちは、自分の感情や欲望を抑える訓練をほとんど受けないで小学校に入ってくる。そうした子どもたちのふくれあがる欲望を言葉で説得して抑えるのは不可能である。力で抑えてやらなければいけないのである。
 一年生のときから、教師と生徒は違う。学校は自分の好きにならないところだ。学校には家とはちがう生活の形があるのだということを、教師がみんなで根気よく教え込む必要があるのだ。さらに、そこからはみ出す生徒には、厳しく対することが必要だろう。叱るだけではなく、ときには怒鳴ることだって必要になってくるだろう。それは生徒とのトラブルを生み出すかもしれないから、どこまで何ができるかは一律には言うことはできないが、状況を見ながらやっていくしかない」
(p196)

プロ教師はここでも、「言葉で説得し、納得させようというやり方」に批判的である。「叱るだけではなく、ときには怒鳴ることだって必要になってくるだろう」と。それで解決しなければ、次は体罰だと、体罰衝動を抱えているのだろうが、「体罰しても、生徒が言うことを聞くことはほとんどなくなったし、残るのは処分だけだから」(p154)自己保身優先で、自らの原則を抑え込んでいる。

しかし実際問題として、「叱るだけではなく、ときには怒鳴」って「説得し、納得させようと」しても、相手が言うことを聞かなかった場合、例え「処分」が待ち構えていようと、「残るのは」体罰以外ないだろう。体罰がなくならない理由がここにある。

プロ教師が体罰をふるうところまでいかずに、「叱」ったり「怒鳴」ったりして生徒を言うことを聞かせることができているとしたら、微妙なバランスの上に自己保身を成り立たせていると言える。

人間は言葉の生きものである。言葉をコミュニケーションの主たる道具とし相互の意志疎通を成り立たせている。なのに、「言葉の説得」に否定的なのは、人間が言葉の生きものであることに対する哀しい逆説でしかない。しかも、言葉を強力な武器としなければならない学校という教育空間において、学校教育者が言葉の力を信じないということの逆説もまた何を意味するのだろうか。

プロ教師は、「いたずらをしても先生は怒らないから、注意は一回で聞こうという約束」の言葉が守られなかったことと、『たとえ一年生でも、暴力は悪いことだと言って聞かせれば、わかってくれると信じてきました』という「一年担任の女教師のことば」「言葉の説得」の無効例と紹介しているが、基本は教師が日常普段から言葉によって生徒の信頼を獲得し、その信頼性を日々積み重ねることができているかどうかにかかっている。勿論、その言葉の中には教科書を解説する言葉も含まれる。

いわば、言葉が信頼されるかどうかは、それまでの言葉によってその人間が信頼を獲得できていたかどうかにかかっている。言い換えるなら、言葉の信頼性と人間の信頼性は常に相互関連し合っている。

生徒の信頼を獲得できていない内容と質の言葉をどのように駆使したとしても、駆使する人間への信頼性に変化はないはずである。その逆もまた真なりである。人間的に信頼されていない人間がどのような内容と質の言葉を駆使したとしても、その言葉への信頼性に変化はないはずである。

例えば、暴力を働いた生徒にただ単に、「暴力は悪いこと」ですと「言って聞かせたとしたら、子供騙しもいいとこで、それは言葉の信頼性を獲得するまでに至らない「かたち」だけのものであるばかりか、人間としての信頼性を獲得するまでに至っていないことの反映としてある言葉であろう。当然、暴力を働いた当事者だけではなく、他の生徒に対してもそれを聞いた場合、信頼どころか、不信を超えて、軽蔑する気持を募らせる役割しか果たさないこととなる。

もし、「人を殺すことは悪いことである」とされながら、どうしようもなく人間は人を殺す生きものあると同様に、「暴力は悪いこと」だとされながら、人間は「暴力」を働いてしまう生きものなのだとの認識に少しでも立つことができたなら、「暴力は悪いこと」単なるスローガンとしてなら役に立つ言葉だと理解することができるだろう。スローガンを叫ぶだけなら、どのような信頼も獲得不可能となる。

「注意は一回で聞こうという約束」にしても、「約束」というものが「約束」したとおりに絶対的に守られるものとの前提に立って「呼びかけた」言葉であったなら、人間というものを知らない認識の甘さの反映としてある言葉でしかない。「約束」が裏切られるまで、ほんのいっときでもそのような言葉に安住することができたとしたなら、言葉の主は当初から信頼を獲ち得る要素の全的に欠如した幼稚性を抱え込んでいなければできないことだろう。

なぜ「約束」を破って、「授業中にマンガを読んだり、オモチャで遊んだり」するのかを問う言葉を発するべきだろう。「約束したけれども、授業が面白くないから、マンガを読んでいるのだ」と答えたなら,「例え授業が面白くなくても、約束は約束だから、おとなしく授業を受けるべきだ」は生徒への不条理の強制となる。

面白くないと思っている生徒はどのくらいいるのか、現状でいいと思っている生徒はどのくらいなのか、どんなところが面白くないのか、どのような授業が面白いのか、生徒と言葉を闘わせ、「約束」の正当性を検証すべきだろう。理不尽な「約束」事は校則の中にも、会社の従業員規則の中にも、政治家の公約の中にも、各種法律の中にも存在する。また、愛の誓い結婚の「約束」も、如何に移ろいやすいもの、脆(もろ)いものとして世に存在していることかを知るべきだろう。

約束の絶対優先生徒への不条理の強制であることの証拠として挙げることができるのは、校則でパーマは禁じているからと、生まれつきの縮れ毛をストレートにしてこいとか、茶髪禁止だからと、生まれつきの茶髪を黒く染めてこいといった命令・指示である。このような言葉は永遠に生徒の信頼を獲ち得ることのできない言葉であり、そのような言葉を発する教師の他の言葉も、それがどのような正当性をどれ程に纏っていたとしても、やはり言葉の信頼性(=その言葉を発する人間の信頼性)を獲得することは不可能である。

このことは「叱るだけではなく、ときには怒鳴る」ことを生徒とのコミュニケーション手段としている教師にも言えることである。「叱」りにも、「怒鳴」りにも、言葉は付帯するからである。「教師にある程度の怖さ≠ェなければ、生徒が言うことを聞くはずはない」とした生徒関係の中での「叱」りと「怒鳴」りは自ずと威嚇が目的となって、その線に添ったイントネーションを演出することとなり、それは生徒の信頼よりも、敵意や憎悪、さらには軽蔑をも誘い出す危険性を抱えることになるだろう。

それがプロ教師の言う、「生徒とのトラブルを生み出すかもしれない」という「状況」を示すものであり、だからこそ、「教師にある程度の怖さ≠ェなければ、生徒が言うことを聞くはずはない」などと振り上げた拳を、「どこまで何ができるかは一律には言うことはできないが、状況を見ながらやっていくしかない」と、そっと降ろすような曖昧な成算を提示するしかなかったのだろう。

対人的「怖」さは立場や地位や状況に応じて異なった様相を見せる相対的なものである。いわば、「怖さ=v絶対的なものではない。別の言い方をするなら、「怖さ=vが生徒に対する教師の専有物として永久にとどまる保証はどこにもないということである。そのことに思い至らないプロ教師は幸せであるが、同時に鈍感のそしりを免れることはできないだろう。鈍感さはプロ教師の性格となっているもので、仕方がないと言えば仕方がないが、特に校内暴力時代に多く見られた現象として、その時代を経験していながら、少なくない教師が番長グループの生徒の「怖さ=vに負けて、彼らのやることに見て見ぬ振りをしたり、最悪の場合、おもねる態度を取ったりして、好き勝手を増長させた、現在にも続いている過去≠無視して、「怖さ=v生徒の所有物でもあることを健忘してしまったらしい。

いわば教師の「怖さ=vに対抗するものとして、生徒が同じ「怖さ=vを利用した場合、そのことが第二次校内暴力時代といった時代の出現を誘発しない保証はプロ教師と言えどもできない相談に違いない。

例え第二次校内暴力時代が出現しなくても、「怖さ=vが対抗上の「怖さ=vを誘発する相対的なものである以上、「怖さ=vの発揮には常に反撃への怖れが付き纏う。それは「叱るだけではなく、ときには怒鳴」ったりを向けた生徒が在学している間だけではなく、卒業してからも続く。卒業後、茶髪や金髪に頭を染め、一般的な常識からはまともとは言えない服装に変身したそのような生徒と街で出会ったとしても、顔を正面から見て、「やあ、久しぶりだな、元気でやっているか」と物怖じせずに言える教師が何人いるだろうか。

プロ教師の言葉による「説得に踏み出したとたん」「教師―生徒という上下関係(権力関係)」「五分と五分になってしまう」との認識は、「社会的なバックがなくなり、生徒が教師の権威を認めなくなって、五分の関係であると考えはじめたとき、体罰は教育的に意味がなくなったのである」(p154)と言っていることと矛盾する。

いわば、既に「五分と五分」の関係となっている以上、言葉の「説得」による「教師―生徒」の対等な関係(=非「権力関係」)以外に両者が関わる方法はないとしなければ、辻褄は合わなくなる。

教師の「怖さ=vを利用して「叱るだけではなく、ときには怒鳴」って言うことを聞かすためには、最大限の効果を上げるために、体罰(あるいは暴力)も辞さないぞという誇張した怒り(=威嚇)を言葉(イントネーション)と態度に表現する必要に迫られることは既に述べたが、「叱」ったり「怒鳴」ったりする先に教師からの体罰も暴力もないと事実されていたなら、どれ程に効果が見込めるだろうか。

だが、現実には教師の体罰はなくなっていない。いわば、「叱るだけではなく、ときには怒鳴る」教師の対生徒関係は体罰を前提として初めて有効なものとなり得る人間関係構造なのである。学校教育者でありながら、プロ教師はこのような関係を生徒に望んでいるのである。

別の方面から、「言葉の説得」(=言葉の力)について、述べてみよう。例えば、国語の教科書に載っている小説の一節を読んだとすると、一節の内容は生徒それぞれの間接経験となる。生徒それぞれの感性・想像力の影響を受けて、それぞれの間接経験は微妙に異なってくるが、知的想像力に特に恵まれた生徒以外は、一読の範囲内の浅い経験としかならないだろう。

もし教師が一方的に読み、あるいは誰か一人の生徒に読ませて、読了後、その生徒か別の生徒にどんなことを言っているのか質問して、その答が教師に妥当と思えた場合は、それで終わりとしてしまう、あるいは教師自身が先を急いで、これはこういうことを言っているのだと解説して済ましてしまう授業なら、一節から受ける生徒の浅い経験は微妙に異なっていても、誰か一人の生徒の説明や教師の解説に同調・従属する形に取って代られる危険性を抱えることになる。

例え他人の説明や解説に同調・従属しなくても、小説の一節から受けた間接的な浅い経験はそれぞれの感性・想像力に浅い刺激を与えたままで推移・終了しないとも限らない。もし教師が教科内容を自らの感性・想像力(それらが貧困なものだったら最悪である)の範囲内に限定した解説で終わらせずに、教師を挟んで殆どすべての生徒同士で、それぞれの意見・考えを闘わせる(言葉の闘わせ)訓練を小学校一年生のときから、いや、もっと早く幼稚園・保育園のときから行い、習性化していたなら、そのことによって生徒それぞれの感性・想像力はそれぞれの言葉・考え・意見に刺激されて、学びがより深い理解(=より深い経験)へと向かい、その結果として、それぞれの言葉・意見・考えはそれぞれに自分のものとしての独自性をより深めていく方向に進むはずであり、独自な言葉・意見・考えはそれ相応の力を持つに至るだろう。

いわば意見・考え・言葉の闘わせ自体がの言葉の力・言葉の価値を高めていく過程であり、そのような過程を踏まない者同士の間で、「暴力は悪いことだと言って聞かせれば、わかってくれると信じてきました」「言葉の説得」を行い、納得を得ようとしても、効果がないのはごく当然な結果だと言える。

最後に、「言葉で説得し、納得させようというやり方」に批判的でありながら、それを侵しているプロ教師の大矛盾を紹介しよう。「他の子どもたちがえこひいきだと騒ぎ出し、同じような行動をとりはじめたとき、私は、四年生であっても、事態をきちんと説明しなくてはいけないと思う。この子はこうだから、特別にこうしている。だから、他の子どもとは別な扱いをせざるをえないということを説明しないとまずいと思うのだ」と、「言葉で説得し、納得させ」ることを勧めているのである。これこそ、舌の根もかわかないうちにというヤツなのだろう。あるいは御都合主義というものだろう。

「A子どもたちの荒れの原因を探さなくてはいけないという考え方
 ――
『ちょっとしたことでも、キレて暴力を振るうし、ほんまに、なんでそんなんことでけるん、叩くん。なんでこうなるの』
『集中力は十分ぐらいしかない。叩いたり、蹴ったりしょっちゅうする、と。そこの原因、なんでそうなるかということ、そしてどうしたなら、というところに話をすすめなくては』
――

 結論から先に言えば、現在起こっている生徒たちの荒れの原因が自分たち教師にわかるはずだ。と考えているとすれば、それは思いあがりだと思う。教師は臨床心理の専門家でもないし、カウンセリングの専門的訓練も受けていない。生徒の問題の原因に迫る能力を身につけている教師がどれだけいるというのだろうか。さらに私たち教師が、社会の変化とそれが子どもに及ぼす影響など分析する能力などあるだろうか」(p196〜197)

「結論から先に言えば」「教師は臨床心理の専門家でもないし、カウンセリングの専門的訓練」「受けていな」くても、優れた人間洞察者とならなければならない。なぜなら、日々子どもという、一人一人が異なる多くの人間とそれぞれの人間に現れる様々に異なる場面、さらにそれぞれが抱えている背景(家族と生育環境)を見聞きし、否応もなしに人間というものを学ばされるだろうからである。

もし、その教師が優れた人間洞察者でないとしたなら、自らを担当教科の教科書の単なる解説者で自己完結させているからだろう。いわば教科書を解説し、生徒がその解説をどれ程に理解したかその成果をテストで問い、採点することをサイクルとして、その繰返しのみで学校教師としての役割を終わらせているからだろう。そしてそれは自らが学校の生徒であったとき、教師が教科書を解説する言葉を言葉通りに暗記し、その成果をテストの設問に当てはめて証拠立てていくことのみを学びとして年齢的成長(人間的成長ではない)を果たしていった姿勢の線上にある人間像なのである。

厳しく言い替えるなら、先に教師となった教師が優れた人間洞察者となり得ない教師を次々と再生産してきたのである。プロ教師にしても、再生産の循環の中途に位置した教師の一人であるはずだが、単なる一人で終わらせるわけにはいかないだけの戦争犯罪を背負っているはずである。

「現在起こっている学級の荒れは、社会の変化と、家庭の大きな変化によるところが大きい。学校の対応がそれに拍車をかけているのもたしかだが、原因が学校内外の複雑な状況がからんでいるとすれば、その原因を見つけて対策を立てるのは容易なことではない。私たち教師に要求されていることは、どうしたら生徒を安定させられるか、という具体的な取組みである。とにかくやってみて、生徒の反応のなかから有効な手段を見つけていくしかないのである。それが実践的な態度と言えよう」(p197)

「学級の荒れ」の犯人を、「社会の変化」「家庭の大きな変化」だと並べて名指ししているわけではない。「家庭」の場合は「大きく」と形容詞をつけ、「社会」よりも「家庭」の犯人度が高いことを示している。まさに「親子性悪説」なのである。それに対して、「学校の対応がそれに拍車をかけているのもたしかだが」と、相変わらず「学校」を殆ど罪がないとする単なる従属犯の位置に置いている。これを破廉恥と言わなかったら、言うべきものは世に存在しないことになる。

大体が、「教師が、社会の変化とそれが子どもに及ぼす影響など分析する能力など」ないなら、「学級の荒れ」の一方の犯人を、「社会の変化」だと名指しするのは冤罪を着せるに等しい犯罪行為である。プロ教師が常に自分に都合のいい論理展開を行わなければならないのは、「学級の荒れ」の犯人が「学校・教師」そのものだからであり、罪逃れのために自己都合の優先に追い込まれる羽目に立たされているからに他ならない。

「学級の荒れ」の解決のための「具体的な取組み」として、「教師に要求されている」「実践的な態度」「どうしたら生徒を安定させられるか」どうか、「とにかくやってみて、生徒の反応のなかから」「見つけ」「有効な手段」「怖いと生徒が思うような教師」(p130)の配置の制度化への願望というわけなのである。

「番組は最後につぎのようにまとめている。
『いまの子どものたちの不満やストレスはじつにさまざまな顔をもっています。暴力という顔をしていることもあれば、かまってほしいという甘えのかたちをとることもあります。・・・・・そうした多様な心の表情を一人の教師が読み取っていくことのむずかしさをあらためて感じます。・・・・・先生同士がきめこまかく連携することで、子どもたちの心に向き合おうとしています。ただ荒れを抑えるのではなく、なぜ荒れているのかを見つめることで、子どもたちの心の訴えに気づこうとしています』
 残念ながら、この番組のスタッフも、教師が(
連携することで)荒れの原因に迫れると考えているようだが、それが教師への大きなプレッシャーになることには気づいていない。できもしないことを要求することは、教師に自信をなくさせるだけではなく、ますます権威を引きずり下ろすことになるだろう。宮園小学校の取組みに好意的な評価を下すことによって、結果としてますます教師を追いつめることになるのである。実態の報告としてすぐれた番組なのに、残念ではある」(p197〜198)

ひとクラス四十人もいる子どもたちの「多様な心の表情を一人の教師が読み取っていくこと」「むずかし」くしているのは、あくまでも教師対生徒・生徒対生徒の頻繁で豊かな言葉を介したコミュニケーションと、そのことによる信頼性の確立が学校空間に日常的に存在しないからである。そのことによって、教師が優れた人間洞察者となり得ていないことが原因しているのである。

「実態の報告としてすぐれた番組なのに」「まとめ」の解説は的外れで「残念ではある」と批判しているが、プロ教師に好意的に評価されるようになったら、NHKは公共放送であることをやめた方がいい。

「Bクラスのことは担任の責任だと言う考え方
――
『教室が荒れるようなことがあったら、まず担任の責任だと、担任のところへあなたのやり方がいけないからこうなるんだって、まず言われるんです。それはたしかだと思うんです。器量のなさ、どこかが足りないからこうなってくるんだっていうことはわかっているんだけど、なかなかそれがうまくいかないんです』(教師の言葉)
『ひじょうに不幸なのは子どもらやと思うんです。担任は苦しんではるかもしれへんけど、もっとほんまに苦しんでんのは子どもやし、子どもの保護者だと思います』(校長)

社会と子どもの変化に学校(教師)がうまく対応できていないことはたしかだが、それが一方的に教師の『器量のなさ』にあると考えるのは、現状をきちんと見ていないと言わざるをえない。根本的な原因は、子どもが変わってきて、我慢しなくなったり、他の生徒といっしょに生活することがむずかしくなってきたことによる。それを担任の力だけで何とかなることではないのである」(p198〜199)

「この学校の同僚の教師たちの多くは、荒れる学級を抱えた教師に対して、共感し、ともに苦しみを、分かち合おうとしている。しかし職員会議での校長の発言は、自分の立場を棚に上げた一方的な担任攻撃となっている。担任の責任のみを追及し、自分が学校全体、生徒全体にどう責任を果たそうとするのかまったく考えていない」(p199)

「荒れる学級」の責任は一人「担任」にあるわけではないが、学校・教師全体にあるのは既に何度も繰返してきた。

生徒四十人の集団を直接的に指導・維持するのは担任である。いわば集団を指導・維持する務めは担任にある。間接的には校長・教頭、その他の教師も関わってくる。例えば全体朝礼での校長の話がいつもつまらなかったり、生徒に理不尽な要求を求めるものだったりした場合、子どもたちは権利意識から校長への軽蔑心や我慢して聞かなければならないことに対する反発の反動は、授業が同列の退屈なもので、なおかつ心理的な力関係において担任が生徒を下回っていたなら、授業時間中の私語や席立ちの形を取りやすくなるだろう。

授業が刺激的で面白ければ、全体朝礼での退屈さへの無意味な忍耐は帳消しされる。まだ映画が娯楽の主役として全盛時代を誇っていた頃の地方都市での封切りは常に二本立てで、大抵は面白くない映画との抱き合わせであったが、例え面白くなくてもそれが上映されている間我慢して坐っていられたのは、次にお目当ての見たい映画が控えているからであった。

教科によっても、授業が面白い・面白くないに分かれる場合もあるだろう。生徒それぞれの態度は一日の学校生活のそれぞれの場面の影響を受けて変化することとなる。基本的には与えられたものを我慢して受入れる時代ではなくなったのである。受入れるケースは金銭的打算(=経済上の都合)や人生上の利害(自分が置かれたいる地位や立場)から背に腹は替えられない境遇に立たされている者(特に大人)たちの場合だろう。まだ小学生である子どもたちは、有名私立幼稚園に入園する前からお受験≠ノ追われる子どもエリートといった例外を除いて、一般的には学歴と学歴に連動する将来のより豊かな生活の保障となる進学や受験といった金銭的打算や人生上の利害からも無縁な安全地帯に置かれている。当然、権利意識が優先して、選択する側に立っている。

そのことを認識せずに、プロ教師はバカの一つ覚えで、我慢のススメを念仏代わりに唱えるのみときている。

いわば「荒れる学級」は、子どもたちによる一つの選択だということである。当然、「教師の『器量』」が深く関わってくる。

一年生の教室でも「学級崩壊」現象が生じているということだが、入学早々に秩序を乱す生徒はいないだろう。入学から暫くの間は、担任がどんな人間なのか、自分にとって敵となる人間なのか、味方となってくれる人間なのか、クラスメートにどんな人間がいるのか、担任に対するのと同じように、自分の敵にまわる者がいるとしたら、誰だろうか、仲間となってくれる者は誰だろうか、あるいはこれからどんな世界・どのような明日が待っているのだろうかと期待と警戒と緊張と不安でおとなしく構え、ひそかに周囲を窺う姿勢でいるだろうから、担任の言うことも聞くはずである。。いわば、例え「子どもが変わってき」たとしても、「我慢しなくなったり、他の生徒といっしょに生活することがむずかしくな」るのは入学から一定期間を過ぎてからのはずである。

言い換えるなら、一定期間後に、子どもたちによって「荒れる学級」という場面が選択されたのである。だが、それ以前に既にその芽は醸成されていた。

プロ教師は、「この学校の同僚の教師たちの多くは、荒れる学級を抱えた教師に対して、共感し、ともに苦しみを、分かち合おうとしている」学校・教師無罪説の補強を行っているが、「ある四年生のクラスの状況」として、「学級崩壊」を選択された女教師が、「他の教師にもっと助けてもらいたいと感じたが、他の教師からは『自分のクラスのことは自分で』とか『同じ給料をもらっているのに』とかいう非難の声が聞こえてきた」(p192)ことを紹介しているが、これら両者を比較すると、プロ教師の言う教師同士の美しい助け合いの状況が必ずしも一般的ではないことの証明となるものであろう。

そして、「職員会議での校長の発言」を非難して、「責任を果」すことを求めているが、「荒れる学級」の原因の一つとして「社会と子どもの変化に学校(教師)がうまく対応できていないことはたしかだ」とするなら、すべての学校「教師」「社会と子どもの変化に」どう「対応」したなら、「学校全体、生徒全体に」「責任を果た」すことができるか「考え」るよう要求されるべきだろう。「考え」「考え」たことを実践し、学校教育者としての「責任を果た」せと。「荒れる学級を抱えた教師に対して、共感し、ともに苦しみ、分かち合」うだけでは、済まされないのである。

「C 一人ひとりにきめこまかな指導をすれば荒れはなくなるという考え方
――
五年生のときに荒れていたが、六年になって落ち着いている。六年になって担当教師を一人ふやし、三人で二クラスを見るようになった。一人ひとりにこまやかな指導を心がけたところ、去年のような荒れは影を潜めています。
 授業に頻繁に抜け出す子どもたちは、教師に追いかけられることを期待しているように見えました。つかまえて、抱きかかえると、うれしそうに体を寄せてきます。
『ゆっくり時間を掛けて聞いてあげたら、やっぱりぽつぽつと言うんです。自分の思いを・・・・』
(女教師)――

相手は6年生の子どもである。「授業に頻繁に抜け出す子どもたち」「追いかけ」て「つかまえて、抱きかかえると、うれしそうに体を寄せて」くるからと言って、その「期待」に応えることは、「教師に追いかけられることを」その生徒の可能性とさせることである。例え面白がってしたことでも、学校空間においては何かの学びを可能性とすべきであろう。学校・教師が何かの学びを可能性として生徒から引き出せないことの埋め合わせとしてある自己活躍のための「期待」と言えないことはない。としたら、何と倒錯した自己活躍であり、倒錯した自己存在証明なのだろうか。

そのことは、「『ゆっくり時間を掛けて聞いてあげたら、やっぱりぽつぽつと言うんです。自分の思いを・・・・』」との説明に表れている、日常的なコミュニケーションの不在(言葉の闘わせの欠如)を原因の一つとした学校・教師が仕向けた歪んだ可能性化(自己活躍化・自己存在証明化)であり、やはり教師の問題(「教師の『器量』」に帰することの証明としてある状況であろう。

「最近の生徒たちが、苦しいことに耐えたり、他の生徒といっしょに生活したりすることがむずかしくなっていることを考えると、集団を小さくして、教師の目が行きとどく(保護=管理)ようにすることは一つの解決策かもしれない。担任は母性的な対応を強めることができるからである。
 しかし、最近の子どもたちが、家庭で親から認められていず、家庭が居場所になっていないがために、家庭の役割まで学校が抱え込まざるをえないとすると、つまり、小学校が家庭の尻ぬぐいに追われていると、子どもを社会的に自立させるという学校本来の役割果たすことが困難になるのではないか。自立ということを考えるなら、教師は遅かれ早かれ母性的な対応だけではすまなくなる。そのときに、子どもたちがうまく自立の道へ歩き出すかどうか問題だ。母性的関係の中で認められ、やさしくあつかわれることから脱出するのは相当に覚悟がいるからである。最近、中学校に入ってくる生徒たちが年々幼くなっているのは、小学校での教師たちの対応に原因があるのかもしれない」
(p201)

自分で選択した部活における好きなスポーツ活動や文化活動では、「苦しいことに耐えたり、他の生徒といっしょに生活したりすることが」必ずしも「むずかし」いこととして立ちふさがってはいないことを既に指摘した。それが1時間とか45分間の授業では「むずかし」いこととしてあるのは、授業の進め方とか学校・教師の価値観が影響しているからだろう。

もしそうだとすると、「集団を小さくして、教師の目が行きとどく(保護=管理)ように」したとしても、生活指導面に関してだけではなく、教科書の教えに関しても「保護」とは異なる「管理」強化に役立つだけで、逆に生徒のストレスと、ストレスからの教師への反発を現在以上に誘発する方向に進むのではないだろうか。例えば小人数学級が勉強の指導に関しては一人ひとりの生徒に目が行き届く制度となったとしても、そのことが生徒の可能性をより強度に勉強に縛りつけて、そのことからの競争意識が中学・高校での受験と学歴競争をなお一層煽る先導役を果たすことになった場合、コマ切れ知識の学力の底上げに役立ったとしても、そこから生じるストレスはやはり現在のいじめや暴力によってカタルシス(精神浄化=欲求不満の解消)を獲得する形を取るのではないだろうか。

もしそうなったら、プロ教師はますます、「怖い教師」願望を強めることとなるだろう。

家庭や学校が子ども・生徒にとって「居場所」(=活躍場所)となるための基本条件は人間関係である。例えば野球の才能に恵まれていても、野球部内で良好な人間関係が獲得不能であった場合、そのことへの反発からの退部が自分を人生失格者と見なすに至り、自己嫌悪と自暴自棄から不良グループに入るといった例はいくらでもあることである。

逆に自分が目立った可能性や能力に恵まれていなくても、良好な人間関係に恵まれたなら、その場所は彼にとっての「居場所」となり、「居場所」となっている以上、何らかの自己活躍をも果たすことが可能となるだろう。

「家庭」で父親の女性問題で両親の喧嘩が絶えず、子どもが勉強もテレビゲームも、その他の何もかも落着いて手をつけることができないといった極端な例を除いて、両親が成績のことばっか言って、家にいるのは何となく面白くないといった程度に「家庭が居場所になっていない」としても、「学校」がそれに代って生徒それぞにそれ相応の「居場所」(良好な人間関係に支えられた活躍場所)を提供できたなら、子どもは学校を自分の世界とすることができて、教育と矛盾する諸問題はこうまでも起こらないはずである。

そのことは「荒れる学級」現象そのものが多くの子ども・生徒にとって学校が「居場所」となっていないことの証明として現れているものであることからも説明がつく。言い換えるなら、「家庭の尻ぬぐい」などおこまがしい限りで、先ずなすべきは学校の「尻ぬぐい」であって、学校・教師が学校を子ども・生徒の「居場所」としてこそ、そこを出発点として生徒の「自立への道」を切り拓くことが可能となるのである。

そのような認識を欠いた「子どもを社会的に自立させるという学校本来の役割」といった言説は口先だけの綺麗事でしかない事実を免れることはできない。自己を知り・他者を知る言葉の闘わせを経た社会性(自己認識能力と他者認識能力を土台とした人間関係性)の獲得が主体性や自律性(社会的自立)につながるのであり、「荒れる学級」教師対生徒の言葉の不在(意思の不疎通・コミュニケーション欠如)となっている状況を示すものである以上、子ども・生徒に通じる言葉の獲得こそを「具体的な取組み」として最初に持ってくるべきだろう。

言葉の闘わせ(言葉の交換)なくして、自分という人間を知ることも他人という人間を知ることも困難なのである。ところがプロ教師は「言葉で説得し、納得させるやり方」には反対の立場を取っている。言い換えるなら、プロ教師のそのような価値観は子どもたちの「社会的」「自立」を妨げる要因となっているということである。「最近、中学校に入ってくる生徒たちが年々幼くなっているのは、小学校での教師たちの対応に原因がある」だけではなく、中学・高校を経てもその「幼」さが消滅しないのは、中学校・高校「での教師たちの対応に原因がある」からだろう。その対応とは言うまでもなく、子どもたちの主体性や自律性(社会的自立)につながる言葉の闘わせの欠如の放置である。

「・・・・それよりなにより、学校が家庭の肩がわりをするのは、やはりまずいと思う。子どもの状況に合わせるだけでは教育は成り立たないからだ。学校が子どもの居場所だけということではまったく意味がないのである。
 とすると、社会や親に、最近の子どもの状況を知らせ、入学前に家庭がやっておくこと、社会がやっておくことをもっと強く要求すべきである。同時に不適応な子どもについては、親に実状を話し、具体的な協力を求めることが必要だろう。勝負は荒れはじめたときなのである」
(p201〜202)

「クラスの秩序は父性的な対応でつくられる。それができあがったところで、母性的な対応が有効になってくるだろう。まず一人ひとりの子どもに目を向けるのではなく、学校、クラスの安定をはかるため何が必要なかを考えることである。
 だから、先に述べたように、荒れる子どもの心に近づいて、心の病を治してやろうなどと考えるのではなく、まず集団を相手にし、集団をどうつくるかということを第一に考えるべきである。教師はその意味で、オルガナイザー(組織者)なのである。
 私の体験でも、生徒は教師との関係よりも、生徒同士の関係のなかで成長するものである。四十人の生徒を相手にし、教師対生徒の一対一の関係を基礎にするのは現実的に無理である。またそれは、生徒が自分で成長していく妨げにすらなるのである」
(p202)

プロ教師はいつまで経っても、学校が子ども・生徒の「居場所」になっていないからこその数々の「学級崩壊」「学校崩壊」現象(教育荒廃症状)だと気づかない。永遠に気づかない名誉あるプロなのだろう。そのような病状に対する原因治療(言葉の闘わせの日常的行使)ではなく、その場限りの対症療法にあくせくと取り繕ってきた結果の末期症状なのである。

ニワトリか卵か、どちらが先かを問題にするのではなく、学校と家庭がテストの成績を優先的価値観として相互的に影響しあっていることを考えると、学校・教師が「それよりなにより」なすべきことは何かを正確に探り当て、それを迷わない断固とした姿勢で試行錯誤することが先決で、その試行錯誤が家庭・親の価値観に影響を与えて、その線に添った後方支援を役割とする自覚を生じせしめ、それが試行錯誤を力づけるという相互性を生じせしめるはずである。

また、「不適応な子どもについては、親に実状を話し、具体的な協力を求めること」としているが、学校・教師が授業空間においてはテストの成績を絶対的価値としている間は、「不適応」生徒を不登校・自宅学習・フリースクールへ向かわせる流れを加速させる側面性を抱えることになるだろうし、決定的な「不適応」生徒の場合は、退学と同時に暴力団予備軍に連動させる危険を誘発しないとも限らない。そのような状況が支配的となったなら、学校は既に失いつつある教育空間としての意味を完全に失うことになるだろう。

もっとも教室の秩序さえ維持できればよしとするプロ教師にしたら、好都合とする状況かもしれない。学力もそれなりに底上げされはするだろうが、コマ切れ知識の暗記能力を育成するだけの教育からは考える力=iそれぞれに独自な感性・想像力)は育ちようもなく、相も変わらぬ横並び人間を再生産し続ける結果で終わるだろう。

「クラスの秩序は父性的な対応でつくられる」という認識にしても、「あっ、この先生はお母さんとはちがう、怖いと思わせることだ」(p130)とする父性性からは生徒のどのような主体性・自律性を育むことができるというのだろうか。「怖い」から言うことを聞く、「怖い」から宿題をやっていくといった受身の人間(同調・従属人間)を従来どおりにつくり出すだけで終わるのは目に見えている。もっとも同調・従属人間をつくり出すのはプロ教師の専門である。

さらに、「生徒は教師との関係よりも、生徒同士の関係のなかで成長する」としているが、生徒にとって生徒対生徒の人間関係は学校社会における生活面で重要ではあるが、それに劣らず、知識の授受と人格形成面においては教師対生徒の人間関係は重要な位置を占めているはずである。

「四十人の生徒を相手にし、教師対生徒の一対一の関係を基礎にするのは現実的に無理である」などとプロ教師ならではのたわけたことを言っているが、授業空間において教師の言葉は生徒全体に向けたものであっても、特定の生徒一人に向けた言葉であっても、その言葉はその場にいるすべての生徒がそれぞれの感性・想像力に応じて一人ひとりが微妙に異なった受止め方をする。いわば、例え四十人の生徒を相手にしていたとしても、教師は常に「一対一の関係を基礎に」しているのである。

生徒の側から言えば、教室に四十人の生徒が席を占めていたとしても、生徒一人ひとりの目と耳がそれぞれの方向性を持って教師に向かっているのであり、教師の言葉は生徒一人ひとりにそれぞれの感性・想像力に応じた響き方で届く「一対一の関係」を築いているのである。

さらに言うなら、生徒全体を相手にしながら、駆使する言葉次第では、教師は、「荒れる子どもの心に近づいて、心の病を治」すことも可能なのである。そのような言葉は「荒れ」ていない子どもにも「生徒が自分で成長していく妨げに」なるどころか、「成長していく」糧ともなり得るものであろう。

但し、教師が教科書の内容を単に表面的になぞり、テストの解答用に解説するだけの言葉しか駆使できないとなったなら、生徒一人ひとりの感性・想像力に関係なく、それらを刺激しない方向で一律的になぞり暗記する教師対全体の関係を生徒と結ぶことしかできないだろう。逆説するなら、授業においても、教師が教科書の言葉を離れてその教師独自の言葉を駆使しなかったなら、授業空間において生徒との「一対一の関係」は不可能だと言うことである。

不可能状況となっているからこそ、同調・従属人間の延々とした再生産が可能となっているのである。

もしプロ教師が「教師」というものが「オルガナイザー(組織者)」だと言うなら、生徒全体を相手にしながら、「一対一の関係」を築けるだけの言葉を駆使する能力を身につけるべきであろう。「先ず集団を相手にし、集団をどうつくるかということを第一に考えるべきである」とする考えは、「集団」一人ひとりの子ども・生徒によって成り立っている集合体であることを無視して、集団全体の秩序のみを優先させ、その秩序の中に一人ひとりを埋没させる思想を成すものである。

この点一つを取っても、プロ教師には学校教育者としての資格はない。

最後は、「校長が現場の指揮官でなくなった」(p202)と題した、自分の学校教師としての無能力を棚に上げた校長批判の展開である。

「最近では校長から学校現場の指揮官であるという発想がほとんどなくなった」を手始めに、「教育委員会のいちばん末端の役人」でしかないとか、「教育委員会」「事実」よりも「世論をすごく気にするようになり、それに左右されることが多くなった」と教育委員会まで槍玉に挙げ、「親やマスコミといった外からの力に動かされて学校を指導し、校長はそれを受けて教師を指導するようにな」り、「現場の教師の立場に立って、教師の悩みをいっしょに考える校長はほとんどいなくなったのではないか」(p202〜203)責任転嫁の大盤振舞いである。

大盤振舞いだと言う証拠の提示はごくごく簡単である。実際には学校・教師が一番の重罪を犯しているのだが、プロ教師の言う通りに学校・教師よりも「社会の変化と家庭の大きな変化」がより罪が重いとしても、学校・教師は「親や社会の要求することは完全に拒否する力は」なく、「残念ながらそれにのみ込まれて流されている」(p173)情けない状態にあり、「社会の『学歴信仰』」に関しても「残念ながら」「それに巻き込まれている」(p182)し、「学級の荒れ」「学校の対応が拍車をかけていることはたしか」(p197)で、そのような状況は教師「から」授業「現場の指揮官であるという発想がほとんどなくな」っていることを証拠立てているだけではなく、親や社会を「すごく気にするようになり、それに左右されることが多くなって」「現場の」生徒「の立場に立って、」生徒「の悩みをいっしょに考える」教師は「ほとんどいなくなった」状況をも示すものだとなっていることによって、校長だけの問題ではなく、教師の問題でもあるゆえに責任転嫁なのである。

特に、「荒れる子どもの心に近づいて、心の病を治」すような教師のやり方には批判的立場を取りながら、「現場の教師の立場に立って、教師の悩みをいっしょに考える校長はほとんどいなくなった」とは、自己都合もここに極まれりである。生徒の「悩みをいっしょに考える」ことをしている教師だけが、校長に対して「教師の悩みをいっしょに考え」て欲しいと要求する資格があるはずである。

「昔は、おまえ、ともかくもいまやりたいことをやってみろ、問題が起こったら俺が責任を取る、というような校長がいた。こういう校長は、いまはほとんどいない。だから、現場の教師は孤立無援なのである」(p203)

確かにそういった校長は存在しただろうが、例外としての存在者に過ぎなかったはずである。もし一般的に存在したなら、そのような存在様式は受継がれ、伝統的なものとなっただろうし、学歴信仰(=学歴差別信仰)はこうまでも日本社会に蔓延することはなかっただろうからである。だが、日本人の無責任性・責任の所在の不明は今に始まったものではない伝統的な民族性としてあるものである。現在の子ども・生徒を悪者視するために過去の子ども・生徒を美化するのと同列の過去の校長の美化に過ぎない。日本人に支配的なのは過去においても現在においても、比較上位権威者に対する言いなりの同調・従属の行動様式のみである。

「教育行政は、本来なら、学校という前線を支えることが基本的な役割だと思うのだが、教育委員会は、基本的には学校をたたく側にまわってしまったのである」(p203)

学校・教師は「本来なら」生徒を人間的に「支えることが基本的な役割だと思うのだが、」自己保身の強迫観念に駆られて教育荒廃の罪逃れの発作に見舞われ、「基本的には」生徒を「たたく側にまわってしまったのである」

ここでプロ教師の『学校崩壊』全編は終わっている。残るは「まとめ」であるが、プロ教師の教育に関する主義・主張が自分たち教師のありようを実質的には棚上げにした内容と構造を成したものであることが明瞭になったであろうから、「まとめ」まで批判・否定の手を伸ばすことはエネルギーの再浪費となるだけである。『学校崩壊』全面批判・全面否定はここで最終コースのゴングとしたい。

今後は一般的な教育問題に関する自分なりの考え・意見をぽつぽつと載せていきたいと思っています。今までアクセスしてくれた方、これからアクセスしてくれる方に感謝の言葉を述べます。今後ともよろしくお願いします!!
                     2000/10/22(日曜日)

トップページに戻る