市民」 

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第33弾   5つの、なぜ

@「なぜ、人をいじめてはいけないのか」

人間はただ単に息を吸ったり、吐いたり、呼吸だけして生きているわけではない。その人なりの喜びや怒り、哀しみ、楽しさの喜怒哀楽の感情や考え、生き方を持ち、それらを土台とした自分独自の世界を築いている。いわばその人なりの自分を持ち、その自分を生きている。その人なりの世界を持ち、その世界を生きている

勿論、その世界は自分に独自のものでありながら、身近な複数の他者の世界と否応もなしに関わり、交(まじ)わっている。他者とその世界を自分と自分の世界に受入れながら、それでも自分とその世界がお互いに独自なものとして成り立っているのは、一人一人異なる自分を土台としているからである。

自分を生きるということは、自分らしさの維持に他ならない。誰もが、自分らしさを維持したいと願っている。常に自分は自分でありたいと願っている。そのように願わないのは、自分で自分であることを否定することになるからである。

いじめ(暴力・無視・悪口etc.etc.)は人それぞれが自分を生きることを歪めたり、妨害したりすることである。自分の世界を生きることへの邪魔立てに他ならない。自分らしさの維持への抑圧そのものである。人それぞれの自分を攻撃することでもある。

いじめを行った瞬間、いじめた人間は自分を生きることを否定されてもよいと宣言したのと同じことになる。自分の世界を生きることも、自分らしさを維持することも、歪められても、妨害されても、誰にも文句を言えないことになる。

相互に、自分を生きること・自分の世界を生きること・自分らしさを維持すること・自分が自分であることを認め合うことによって初めて、すべての人間が自分を生きることが・自分の世界を生きることが・自分らしさを維持することが・自分が自分であることが許される。

自分だけ許されて、他人には許さないのは不公平で一方的な約束事となる。

みんなが、それぞれの自分を認め合う関係となって、自分が自分であることの権利が生ずる。それなしに、社会の一員としての権利・資格は生じない。

言い換えるなら、自分が自分であることを尊重しあうことによって初めて、社会の一員としての権利・資格が生じる。さらに言い換えるなら、誰かをいじめる人間は自分が自分であることの権利・資格(=社会の一員としての権利・資格)を自分から放棄することになる。

いじめることが自分であることの一部、あるいはすべてだという自分とは、どのような自分なのだろうか。自分であることの一部、あるいはすべてとしてはならないはずである。教師はそのことを生徒に問うべきである。問うべき言葉を持つべきである。

A「なぜ、人を殺してはいけないのか」

答は簡単である。自分を生きること・自分の世界を生きること・自分らしさを維持すること・自分が自分であることは常にすべての人間の権利としてある相互性のもので、誰であれ、人を殺すことによってそれを侵してはならないからである。

いじめとの関連で言うなら、自分を生きること・自分の世界を生きること・自分らしさを維持すること・自分が自分であることの妨害・攻撃・否定がいいじめなら、人を殺すことはそれらの完全否定・完全抹殺であり、社会からの完全排除となるからである。それはその人間の存在と暗黙の社会的契約としてある相互性そのものへの完全否定・完全抹殺・完全排除に当たるからである。

教師は生徒に、常に常に、君たちはどのような自分を生きているのか、どのような世界を生きているのか、どのような自分なのか、問うことをしなければならない。自己認識能力・他者認識能力の獲得訓練となるからであり、それは当然、対人感受性の育みへと重なっていく。

B「なぜ、いじめるのか」

学校社会が授業においてはテスト解答能力が、部活においてはスポーツ能力がそれぞれに唯一絶対の活躍の機会・自己存在証明となっている閉鎖社会であるからである。それらの能力以外での活躍の機会・自己存在証明は無視されているために、少なくとも、過小評価されているために、そのような居場所から疎外された生徒が活躍の機会・自己存在証明の一つとしているのがいじめである。

いじめが如何に歪んだ、如何に倒錯した活躍の機会・自己存在証明だとしても、テストの成績で生徒の優劣の位置と距離を決定づけている学校慣習を見習った、それに替わる、いじめを手段とした優越的距離の確保に他ならない。いわば、いじめで補ったあいつよりも俺の方が上≠セという活躍の機会・自己存在証明なのである。

生徒の価値・可能性をテストの成績と運動能力で縛りつけ、それのみに限定している学校・教師の閉塞性へのアンチテーゼとしてある、活躍の機会・自己存在証明いじめであって、そのような生徒を、学校教師の誰もが批判・非難する権利も資格もない。

C「なぜ、テスト教育なのか」

教科書の内容をコマ切れに解説し、それを暗記させて、暗記の成果を同じくコマ切れにテストで問い、その成績で生徒の順位を決めるだけではなく、人間的価値まで決定することを学校教育としている。そのような一連の教育プロセスにおいては、機械的な事務的手続きのみで学校教師としての役割を自己完結させることが可能で、教師は言葉(思想・哲学)を必要とせず、その安易さに寄りかかさった落着き先がテスト教育(受験教育)なのである。

いわば、テスト教育(受験教育)が最も楽な教育方法だからである。言葉(思想・哲学)を必要としないテスト教育(受験教育)の機械性は、校則で生徒の行動を規制する管理主義と表裏一体をなす。規則は言葉を用いて納得・了解を求めるプロセス(=生徒の主体性・自律性に期待する姿勢)を排除する構図としてある。授業における教師の言葉の欠如・不在が生徒の行動管理にまで及んでいることの反映としてある、規則尽くめの、あるいは規則主体の校則なのである。

いわば、教師の言葉の欠如・不在が教師対生徒の存在関係を規定しているばかりか、教師が伝えるべき言葉を持たないことが、生徒の言葉の獲得を阻害し、相互に理解し合える共通語を構築し得ない根本原因を成していると言える。

例えば、一人の生徒を標的に複数の生徒がプロレスの技を一方的にかけて痛めつけていたとしても、これはプロレスごっこ≠セと強弁されると、何も追及できずに引下がるのも、教師の言葉の欠如・不在が前提となった共通語の不構築状況と、その結果としてある相互的な意志疎通の無力状況を示すものである。

「例え相手の生徒があとの仕返しを恐れてプロレスごっこだと口裏を合わせたとしても、誰か特定の力の弱い者を常に攻撃対象と決めて、複数の人間がかわるがわる一方的に技をかけ、一方的にやっつけて面白がる。これはもうごっこといった遊びではなく、いじめだ。なぜなら、頭数から言っても、体力差から言っても、強制力が働いているからだ。勝ったり負けたりで、初めてごっこと言える遊びとなる。それでも遊びだと言うなら、実力がほぼ互角の人間と一対一の闘いをすべきなのだ。そうではないのだから、プロレスごっこの振りをして、特定の人間を餌食に攻撃しているのと変わらない。もし自分たちのしていることがいじめではなく、正真正銘のただの遊びだと言うなら、立場を逆にして自分よりも身体が大きく、腕力も強い複数の生徒を相手としたプロレスごっこをしてみたらいい。一方的に際限もなくやっつけられてみれば、自分たちのプロレスごっこがただの遊びなのか、実際はいじめなのか、はっきりするだろう」

日常普段から、教科書を解説する以外の言葉の闘わせを行う習慣のないことが、いじめだとはっきり認識させる意志疎通の言葉を教師が持ち得ないと同時に、生徒にいじめと遊びの区別をつける自己認識と対人感受性の欠如・不在を招いている、そもそもの直接的原因なのである。

そのように言葉の闘わせ習慣の欠如・不在の結果としてあるのが、教師の、「今の子ども何を考えているのかわからない」というお粗末な対人関係状況なのである。何を考えているのか理解し合うためにこそ人間に付与されている言葉を闘わすべきを、学校教育者の立場にいながら、そのことに気づかない鈍感さを延々と引きずったままなのである。

D「なぜ、教師は言葉を持たないのか」

日本人の行動様式である集団主義・権威主義は言葉を必要としないからである。上位権威者が下位権威者に命令・指示し、下位権威者がそれに同調・従属する日本の人間関係社会そのものが、言葉の闘わせの習慣を本来的に欠如・不在としていることに起因している。

だからと言って、日本人の行動様式から出たものだから、教師だけに責任を押し付けるのは不公平だとは言えない。知識の授受に関しても人間関係にしても、言葉の闘わせを通して意思の疎通を双方向のものとすることが考えるプロセスを介在させることとなり、そのことによって知識はコマ切れを脱して深みと刺激性を獲得し、人間関係は相互理解の契機を獲得することとなるはずなのに、考えるプロセスを介在させない教師から生徒への一方通行形式の教育と人間関係を慣習としたままなのは、教育荒廃の数々の局面にうろたえるだけで、現状を打破する想像力を働かせることをしない学校教師の怠慢さが原因となっているからである。

結論を言うなら、現在の教育荒廃状況を打破するするためには、教師が言葉(思想・哲学)を獲得し、知識の授受と教師対生徒の人間関係が上から下への一方通行形式のものであることをやめ、言葉の闘わせを通して双方向のものとすることであろう。

 

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