教育を語る・政治を・社会を語る《市民ひとりひとり》


第4弾! ―― 言葉の闘わせなき日本の教育  99.12.10.更新

プロ教師の反論・批判・否定・罵倒を首を長くして待っているのだが、何の反応もない
。金持ち、貧乏人を相手にせずの態度なのか、それとも大阪府知事のノックみたいに、決定的に不利になるのを怖れて、裁判を欠席状態にさせたままでおこうという魂胆なのか。いささか手応えなしである。だが、プロ教師には自分が書いたこと・自分の主張の是非を問われているのだから、反論する義務がある。

 

プロ教師は『いま学校で何が起きているのか』でさらに、「怒鳴りつけても反応しなくなった」(p24)と現在の生徒の姿に情け容赦のない新たなカウンターパンチを浴びせている今の生徒に何か恨みこもったトラウマでも抱えているのではないのかと疑いたくなるくらいの情け容赦のなさである校内暴力時代「それなり」にあった(と自分は思い込んでいる「意思の疎通」がすっかりと遮断された生徒像の提示である。

「校内暴力時代が終わったころから何かやりなさいと言ったときなどに、生徒がぽかーんとしているような現象が目立つようになった。こちらが怒鳴りつけても、それに反応しないのである。壁にものを言えば反響ぐらいはあるものだが、言葉が相手の体を通り抜けてむこうに行ってしまう感じなのである。これはひじょうに怖いことである」(p24)

「こんな女にだぁーれがぁ、したぁー」という歌があったが、生徒にしたら、「こんな生徒に誰がしたぁ・・」といったところではないのか。今どきの家庭が子どもにとって精神的なオアシスとはなり得ていないとしても、それを救済して学校がほんの少しでも何らかの形でオアシスの場であり得たなら、生徒が生きている人間である以上、そのような状況に反応する感情を示すはずである。いわば生徒の態度反応の少なくない一部分は学校という社会の状況をカガミに形作られているはずのものでもあり、それが「壁」以下というのであれば、学校においてもそのように強いる何かを抱えているということでもある。それを生徒の態度のみを問題としているプロ教師の意識の方がはるかに「ひじように怖いこと」ではないだろうか。

プロ教師は「怒鳴りつけても反応しなくなった」具体例を次のように挙げている。「一分間スピーチ」と称して「朝の会」「生徒に順番に前に出てしゃべ」(p24〜25)らせていると言う。一日に何人しゃべらせるのか書いてはないが、次の日の順番が誰と決まっていながら、立たない生徒を問題にしている。

「司会の生徒が、・・・・順番の生徒が出てこないと、『今日は誰ですか』と聞いて、それでも出てこないと、「きのうやった人は誰ですか」となって、やっと今日は誰君ですという話になる」

「その日は、そういうふうに言われても出てこなかったのである。名指しされた生徒は座ったままだ。もう一度司会の生徒が『○○君だよ』と言った。それでもピクリともしない。しかたがないから、私が出ていって、『言われているんだから、前に出なさい』と強く言った。ところがじっと座ったままなのである。少し大きい声を出して、怒鳴りつけても動かない」

「このままでは私の負けだと思ったので、時間をかけてまって、ついに前に出させた。しかし、彼は前に出たものの、なかなかはじめない。そこで、後ろの黒板に書いてあることを読めばいい。今日は何月何日です、一時間目の授業は数学ですとかと言えば一分で終わるよと例を示したが、それでもなかなかやらなかった。じっと待って、やっと朝の会が終わるころになってしゃべりはじめた

 人前に出ると緊張してまるっきりしゃべれないという生徒であれば、私はこんなことは絶対にしない。彼はそういう生徒ではなかった。また、一分間スピーチなんてくだらないからやるつもりはないというのであれば、それはそれでいい。校内暴力の時代の生徒たちとある意味では同じなわけで、ケンカの土俵ができるからだ。ところが彼の場合
、自分の世界から外へ出るのがいやで、じっと自分のなかに閉じこもろうとしたようだ
。私が引くのを待っていたのである」
(p24〜26)

プロ教師は気づかないままに自らの本質的な教育姿勢をここでも暴露している「一分間ス
ピーチなんてくだらないからやるつもりはないというのであれば、それはそれでいい」
と断っているが、何も話すことはない生徒もいれば、何も話したくない生徒もいるはずである。話したいことがあっても、話しても何も変らない、無益なことだと最初から受止めていて、沈黙を守っている生徒もいるだろう。あるいは特別に話すことはない、朝、家で厭なことがあった、クラスメートとちょっとした確執があって、みんなの前でしゃべる気分ではないといったそれぞれの理由や事情を抱えているということも考慮しなければならない。それを順番を決めて話させること自体も生徒の意志に対する強制・支配でしかないが、順番だから、何かスピーチの内容を考えなければならないと生徒に仕向けること自体も、自発性を無視した機械的な対応=機械的な同調・従属を誘発させて生徒の態度をプロ教師の意向どおりに強制・支配するものでしかない。いわば、権威主義的な強制・支配を基本とし、生徒に同調・従属を求める教育――プロ教師がしゃべったり、黒板に書いた言葉・文字を生徒に暗記させる一方通行の意志疎通を自らの教育の方法としていることの露見でしかない。 

自発的に「スピーチ」したい生徒にスピーチさせればいい。毎日決まり切った生徒しかしゃべらなくてもいい。但し、しゃべったことに対して、しゃべったままで終わらせないで、他の生徒に対して意見や感想を求めるシステムにする必要がある。意見・感想を述べる生徒がいなければ、最初の間は教師が手本を示せばいい。そのような毎日の積み重ねが、じゃあ、俺も何かスピーチしてみようかなという生徒を招き出す。また、日を重ねるごとに「スピーチ」に対する意見・感想が活発化するはずである。

言論の自由とは、しゃべらない自由も含まれているはずである。いわば思想・信条・意見の公表を留保する権利も認められているのである。しゃべりたくない人間にしゃべらせるのは生徒それぞれの自由であるべき精神に対する侵害行為でしかなく、プロ教師の自分はいいこととしてやっていることは実際は無神経な押しつけをやらかしているに過ぎない。強制・支配と同調・従属の関係は、威嚇とそれに対する屈服以外に、そうしろと言うから、言われただけのことはするといった表面的に義務的な形式性か、みんなと似たり寄ったりの態度・行為で済ますといった無難な演技性を構造として維持されがちとなる。そしてそのような関係を強いるプロ教師の側から言えば、形式的な態度性、演技的な態度性をよしとして生徒を判断することになる。

そのような関係の社会的延長線上にあるものが、既に指摘した会社人間なる集団的関係性であり、若者をも含めて日本人の精神性として抱えている集団的な横並び意識性であることを忘れてはならない。

プロ教師の本質的な教育姿勢が権威主義的な一方通行形式の意志疎通構造なのは、「後ろの黒板に書いてあることを読めばいい。今日は何月何日です、一時間目の授業は数学ですとか言えば一分で終わるよと例を示した」ことにも如実に顔を覗かせている。これはとても「スピーチ」と言えるものではなく、言論の形式に関しても自発性とも一切無縁の、プロ教師対生徒の強制・支配と同調・従属の関係が生徒をオウムかロボットに準(なぞら)える構図を取ってそっくり現れたものである。

さらに言えば、「それはそれでいい」と一応は言論の自由を留保してはいるが、そのことを伝えるのではなく、生徒に実際に示した態度は、「『言われているんだから、前に出なさい』」「強く言った」ことと、「少し大きい声を出して怒鳴りつけ」たことぐらいで、戦前の軍隊でもあるまいし、威嚇と強制(=権威主義的強制・支配)以外は何もないお粗末さである。いわば「一分間」であろうとなかろうと、「スピーチ」と言うからにはプロ教師自身が「スピーチ」を生きた形で活用しなければならない教育的立場に立っているはずなのに、立場上の役割さえ果たせずに、プロ教師を名乗り、教師歴30年とか何とか言う図々しさだけは立派に身につけているのである。これは一人プロ教師だけの問題ではないだろう。

伝えもせずに、「このままでは私の負けだと思った」とか、「ケンカの土俵ができるからだ」とか独り善がりのぬるま湯にどっぷりと首までつかっている。権威主義的な強制
・支配には独善性が付き纏う。言葉の闘わせがないからだ。相手の言葉を封じ、自分の言葉のみを成り立たせる構造だからである。犬は言葉を持たないゆえに吠えるとは前に言ったことだが、満足に言葉を持たないプロ教師に教育を受ける生徒は哀しき存在である。

「彼の場合、自分の世界から外へ出るのがいやで、じっと自分のなかに閉じこもろうとしたようだ。私が引くのを待っていたのである」と言っているが、「いや」なものは強制すべきではない。子どもの中にはプロ教師よりもはるかに素晴らしい、口には出さない豊かな言葉で脳裏に創造的な世界を広げている者もいるのである。その内の何人かは優れた芸術家や思想家に育っていく。そのような子どもにとって、他人との会話ではなく、自分が何役も兼ねてことばを交わし合うことの方が価値あることなのである。

「中学に入ってきたとき、とても素直でおとなしくて、先生が何か言うと。『ハーイ』と言ったりするので、ああねずいぶん素直ないい生徒たちだな、などと教師は思ってしまう。ところがねである。言うことをきくからということで、日ごろからはたらきかけをサボっていると、三年生ぐらいになって、『はい』と言いながらやらなくなる。・・
・・そして、限りなくだらしなく無気力になっていく。自分の世界に閉じこもる生徒をなんとか外へ引きずり出そうと思うのだが、これがほんとうにむずかしいのである」
(p26)

その「はたらきかけ」なるものが、「ああしなさい」「こうしなさい」、あるいは、「
そんなことをしては駄目じゃないか」といったことを
「強く言った」り、「少し大きい声を出して怒鳴りつけ」たりするだけの一方通行構造の強制・支配(命令・指示)で成り立たせたものでしかないから、下手に「はたらきかけ」を強化・維持したなら、逆に教育荒廃はもっと始末に負えない場所に追い込むだけのことである。そのような「はたらきかけ」が完璧に通用したのは生徒を奴隷状態に置くことのできた時代(「教師が何か言えば、生徒がそれを聞くと言う関係が成り立っていた」時代)であり、既に「成り立」たなくなっていることに気づかずにそのような「関係」を生徒との意志疎通方法としていることが様々な混乱を生み出している原因となっているのである。かえって「はたらきかけをサボっ」ている方が日本の教育の利益に適うはずである。

個人の権利意識が発達した時代に教育が旧態依然のまま言いたいことを抑圧・抹殺するだけの生徒の意志を無視した一方通行構造の強制・支配であればあるほど、生徒は「自分の世界に閉じこもる」傾向を持つのは当然の成り行きである。それを「なんとか外に引きすせり出そうと」することは権威主義的な強制・支配を二重に犯しているだけのことで、プロ教師みたいな鈍感な人間のみが行いうることで、その点に関しては立派だと褒めないわけにはいかない。

「校内暴力」「学力だけで人間を評価」することへの異議申立てを言葉で「うまく表現できなかった」ことの延長にある行為だとしながら、「一分間スピーチ」に関しても
、そういったことを順番で強制する
「くだらな」さを教師に「うまく表現できな」い結果として現れた「自分の世界に閉じこも」ろうとする生徒の態度ではないのかとすることができないのは、「校内暴力」は社会のせいにできても、「一分間スピーチ」は自分の発案による命令・指示で行ったもので、社会のせいにはできないからだろう。

一体全体教師というものは学校社会に何のために存在しているのだろうか。生徒が「限りなくだらしなく無気力になっていく」 ―― それを止めることができないとなれば
「はたらきかけ」の内容そのものの是非を問うべきであり、それが学校教育者としての位置を占める者の務めのはずである。プロ教師はただただ生徒の変化を言い立てるアナウンスを自らの務めとしているのみである。

次のプロ教師の訴えは、「学校行事が成り立たなくなった」(p26)である。

「いやなことはやらない」が、「ファミコン」とか、「音楽を演奏したり」といった
自分がやりたいことについては一生懸命やる」と批判している。

「学校というところは、生徒が好きなことばかりやれるような場ではないから、以前の生徒にくらべて、ひじょうに受け身になったと言っていいだろう。生きているのか死んでいるのかよく分からないほど反応がないということも多くなった」(p27)

大体が人間はそうありたいのが人情であり、元々そのような傾向にある。戦前の日本人は例え「いやなこと」でも、軍国主義に同調・従属しないと、「アカ」とか、「国賊」「非国民」と非難・中傷されるのを怖れて、「自分の中に閉じこも」ることもできずに引受け、侵略に加担していった。そういったことを考えると、現在の生徒の傾向は必ずしも頭から否定すべきだとは限らない。学校の勉強や「学校行事」「ファミコン」「音楽を演奏したり」に比べて「一生懸命やる」気も起こらないほどにつまらないことの証明でもあろう。

「ひじょうに受け身になった」のは、「いやなことはやらない」「自分がやりたいことについては一生懸命やる」という行動傾向に照らすと、「いやなこと」に関しては、学校・教師の強制・支配をこれ以上回避できないという土壇場まで回避して、やむを得ないところで受止めるという姿勢の現われと考えられないことはない。いわば「自分の世界に閉じこも」っていたいが、最後まで「閉じこも」らせてくれないから、仕方なくという構図が「受け身」と映っているのだろう。

どちらにしても、「受け身」は非自発的姿勢を言う。生徒が自発的な姿勢を持ち得ないことを問題とするか、学校・教師が生徒に対して自発的姿勢を持たせ得ないことを問題とするかである。プロ教師は前者である。常に常に生徒のみを問題とし、学校・教師に関しては問題としない。それは他の一般の教師についても同じことが言える。

同調・従属は元々「受け身」の姿勢によって可能となる行動様式である。歴史的に伝統的な一方通行構造の日本の教育は常に生徒に「受け身」の姿勢を習性化させてきた。過剰なまでに氾濫状態の種々雑多な情報が世界の出来事への参加を人々に求めている今の時代状況に逆らって、学校・教師は今もって生徒を「受け身」と非自発性の檻に閉じ込め、テストという一つの価値観に囚われた一方的な強制・支配で生徒の行動・意志をコントロールしようとしている。そのことへの異議申立てが学校・教師の強制・支配を逆手に取った土壇場までの回避としての最終的なまでにギリギリの「受け身」と非自発性なのだろう。結構なことではないか。

勿論プロ教師はそれでは困ると言うだろう。「学校は四十人の生徒が一つのクラスで生活している。いっしょに動かなくてはいけないことがたくさんあるのだ」(p12)と。「掃除にしても、小さなグループに分かれて、分担場所をいっしょに掃除しなければならない。ところが最近の生徒は、いっしょに動くのがとても不得意になった」

プロ教師は勘違いしている。ただ単に「いっしょに動」いたとしても、それが学校・教師の強制・支配に対する生徒のストレートで無考えな同調・従属でしかなかったなら、真正な意味での自発的な義務感、あるいは責任感を動機とした行為ではないのだから、生徒の人間形成に、特に自律性(自立性)の形成に役立たないばかりか、それらを阻害
、もしくは抑圧する要因となるだけである。学校というところは一つの社会であること
、学校という社会を成り立たせるには様々な条件が必要で、生徒それぞれが学校という社会を構成する一員である以上、そのような条件を満たすための義務を負うことになる
。掃除も学校という社会を成り立たせていくために必要な条件の一つであり、生徒はそれを当然な義務として行う責任を引受けなければならない、と順々に諭し、義務と責任を行動基準とした
「いっしょに動く」を内容としなければならないはずである。例え
いっしょに動」かない生徒が出たとしてもである。

戦前の日本社会を例に取るまでもなく、どのような社会においても、下位権威の位置に立たされている者が上位権威者の思い通りになるのは、プロ教師の言い分ではないが、それこそ「ひじょうに怖いこと」である。それはその社会の人間関係秩序が自由・平等の民主主義ではなく、権威主義を力学として機能していることの証明となるからである
。学校・教師が例えそれが間違っていないことであっても、物事の道理の説明を省いて
、「ああしなさい」「こうしなさい」といった権威主義的な命令・指示を生徒に対する意志疎通の基本としている間は、生徒は
「受け身」の姿勢(同調・従属)を強制されることになり、自らの権利意識との折り合いをつけるために問題行動を異議申立て行為とするか、同調・従属を可能な限り引き伸ばして、もはやこれ以上不可能という時点で最終的に妥協するギリギリの「受け身」でその場その場をしのいでいく優柔不断を異議申立てとするか、そういった選択から逃れることはできないだろう。

勿論大多数の生徒は学校・教師の強制・支配に素直でストレートな同調・従属を示し、学校社会の唯一の価値観となっているテストの成績の獲得に無考えな自発性で血眼になるだろうが、それは間接的には自律的な(自立的な)人間形成を平行して犠牲にしていく過程でもあることに留意しなければならない。そのような同調・従属は今世間で騒がれている「お受験」現象に見るように、幼児期から既に始まっているのである。

「たんに自分の興味のないことはやりたくないということだけでなく、行事をやるためには人とつきあわなくてはならないのが怖いようなのだ。人に対して言いたくないことも言わなくてはいけないし、そうなればお互いに傷つく。だから、行事は嫌いだということになる」(p27)

プロ教師はここでも日本の教育が言葉の闘わせを省いた、教師から生徒への権威主義的な一方通行構造なのを自ら暴露している。勿論本人は暴露していることに気づいていない。気づいていないことに対して、この男はバカじゃないのかという思いに駆られただけである。教室という空間で教師対生徒・生徒対生徒がお互いの言葉・考え・主張を闘わせ合うことを日常的な習慣としていたなら、教師がそのような習慣が教室に根づくよう努めていたなら、生徒は滅多なことでは、「人に対して言いたくないことも言わなくてはいけないし、そうなればお互いに傷つく」といったことはないだろうし、例え傷つくことがあったとしても、何かを学び取る糧とし、それは人間形成につながっていくものとなるはずである。

以上のように見てくると、今の生徒が他の生徒との会話を「お互いが傷つく」と怖れて回避する傾向にあり、「自分のなかに閉じこもる」のは、生徒自身に問題があるよりも
、学校教師の質、あるいは教師の生徒に対する意志疎通方法に問題があることが分かる

プロ教師は「みんなでいっしょにやることに価値を見いだせなくなっている」(p27)と言っているが、テストの点数の違いで生徒に対して選別と差別(個別化)を行いながら、いわば学校社会の支配的な価値観となっているテストの成績に関しては、「みんな」「いっしょ」でないことを突きつけておきながら、その他のこと、例えば「学校の行事
などに関しては「みんなでいっしょに」を強調しても、それは矛盾行為と言うものである。プロ教師は生徒に目を向けるよりも、自らを省みる必要があるようだ。

次は、「自分の頭で考えられなくなった」(p27)である。

「授業で教師の質問に述べる」といったことで、「物語を読んでその主人公の気持を考えるというようなことができないので、ごく簡単な質問でお茶をにごすようなことになる。じっくり考える力が不足しているのだろう」(p27.28)

「生きているのか死んでいるのかよく分からない」の次が「自分の頭で考えられなくなった」だから、今の生徒は散々である。どのような「物語」であろうと、「主人公」は第三者としての別の登場人物との言葉の闘わせ ―― 相互的な意見・考え・主張の闘わせによって自己の人間性を浮かび上がらせ、何者であるかが表現される。例えば食事の後ではなく、食事の前に歯を磨く習慣を持っていたとしても、それはその人間の何らかの考えや思想・哲学の反映であって、行為そのものよりも、そのような行為を仕向けている考え・思想・哲学が問題となる。いわば一人の人間を作り出すのは社会的な情報を含めた不特定多数の第三者との言葉の関わり(闘わせ) ―― 影響力という点では身近な第三者・身近な情報なのは当然である ―― が基本となっていると言っても過言ではないし、他者の「気持を考える」という対人感受性(共感能力)に関しても、言葉の関わりの習慣があってこそ、他者理解が可能となるはずである。自分を作り出すのも、他者を作り出すのも自己と他者との言葉の関わりであって、当然言葉の媒介が他者と自己との橋渡しの要件となるからである。

もし生徒が現実社会にあって学校だけではなく、入学前から現在時点に至るまでの家庭においても、親子関係・教師対生徒の関係が命令・指示と同調・従属を成立させる言葉の交換(闘わせではない)のみで、それぞれの意見・考え・主張を相互的に突きつけあう言葉の闘わせでないとしたら、自己を作り出すこと(=自分が何者であるかを知ること)も、自己の中に他者を作り出すこと(=彼がどのような人間であるかを知ること)も困難な作業となり、その結果として、「物語」の中の他者である「主人公の気持を考えるというようなことができない」のは当然すぎるくらい当然なことであるし、「お互いが傷つく」のを怖れて、「言いたくないことも言わなくてはならない」場合であっても、言うべきことを回避・抑圧してしまうのも自然なことと言える。

いわば「学校行事が成り立たなくなった」ことと「自分の頭で考えられなくなった」こととはつながっているので、その原因を作っている一方の当事者は権威主義の行動様式
・思考様式を意志疎通手段に生徒に対して一方通行構造の教育を当たり前としてそこから抜け出せないでいる学校・教師なのである。

プロ教師の次なる嘆き歎き節は「勉強に目的が見いだせなくなった」と題して、「"一人前になるため"が通用しなくなった」(p29)である。

「校内暴力が終わって少したって、私が三つ目の中学校へ転任したとき、いまから十五年ほど前だが、そのころはまだ、生徒の中に社会との接点を持とうという気分が残っていた。生徒はいろいろなことを考えて、自分で意見を言おうとした。その当時とくらべると、生徒が年々幼くなってくる感じである」

当時の生徒が「社会との接点を持とう」としていたとしても、それは学歴の視点のみからの「接点」であって、学歴が与えるであろう社会的な価値への認識に限られていたはずである。大学闘争にしても、「社会との接点を持」ち得たものではなかった。革命だ何だと他人の言葉を自分の言葉として声を張り上げただけであったために、社会的な広がりを持つこともなく、大方の一般大衆は迷惑な騒動と受止め、距離を置いて他人事としたのである。学生闘争家が集会の壇上でマイクを前に絶叫する言葉が仲間以外には何を言っているのか理解不能だったのは非常に象徴的である。彼らの無意識が一般大衆には響かない思想に過ぎないことを暗示するために、わけも分からない絶叫に勝手に変えてしまったのだろう。もしも一般大衆に届くような革命思想であったなら、穏やかさの微妙にこもった、地に足のついた力強い激しさで自らの思想を順々と説いたはずである

校内暴力は他人の言葉を自分の言葉とすることすらできなかった。もし当時の生徒が
社会との接点」を常に意志していたなら、「校内暴力」生徒にしても、自分の言葉を持ち、それは何がしかの社会的な共鳴を獲得することとなったはずであるし、後からの生徒はその思想を受け継いで自らの精神の糧とし、無考えな学歴主義への同調・従属に何らかの変革をもたらしたはずである。だが、学歴主義は強まることはあっても、弱まることはなかったのである。そして自分の能力を見極めて、学歴の戦場から早々に降りてしまう生徒がいる一方で、学歴主義は今もって日本の社会に根強く根を張っているのである。そのことは既に指摘したように、「お受験」なる言葉がよりよく象徴している。

生徒に「社会との接点」を常に心がけるように仕向けるには、親や教師が「社会との接点を持」った言葉を身につけていることが条件となる。それは単なる言葉ではなく、自分なりの考え・意見・主張にまで熟した言葉 ―― いわば自分なりの思想・哲学でなければならない。そしてそのような言葉を生徒に向けて発信し、生徒がそれに応えて自分の考え・意見・主張を述べ、さらに親や教師がそれに応えるという反復と発展が生徒の「社会」を理解したり表現したりする言葉の獲得につながり、そのような言葉の獲得そのものが「社会との接点をもとうという」意識そのものとなるものなのである。いわば自己を知るのも、他者を知るのも言葉の闘わせであり、「社会」を知るのも、言葉の闘わせが介在して初めて可能となるのである。

今の生徒が「社会との接点をもとうと」しないのは、親や教師の社会意識の希薄が原因か、学歴主義の高進が、「社会との接点」をますます学歴を通したものに狭めてしまっているかのどちらかだろう。多分、その両方に違いない。

「学校の授業は、基礎的な知識をまとめて教えるのが基本であるから、もともとたいして面白いものではない。関心のない生徒にとってはとくにつまらないだろう。そこを教師は、なんとか興味をもたせるためいろいろと工夫するのだが、それだけでは不十分である。そこで、たとえばテストをしたりして強制力をはたらかせ、しかたないからやるんだというところへ追い込んでいるのである。そうしたことをふまえて、学校へ行って授業を受けるのはたとえつまらなくてもやらなければいけないのだということを、親も社会も子どもにきちっとアナウンスしていないのが決定的な問題なのだと思う。これでは、仕方がないから我慢してやろう、というふうにならないのも無理はない。

 ただし中学校では、学校で勉強しなければならない理由が一つだけはっきりしている。高校受験である。いい学校へ入るために勉強しなくてはいけないというサインだけは出している。しかし、それだけなのだ」
(p29.30)

プロ教師がどれ程にお粗末な教育思想の持ち主なのか、語ってあまりある主張個所となっている。「基礎的な知識」「面白」くないのは、それを教える教師の言葉が内容あるものになっていないだけではなく、単に一方的に伝える形式の教えで終わっているからである。いわば口にする教師の言葉が言葉の闘わせに利用されることもなく、口にするだけで完結させてしまう類のものであるために、その言葉が発展する機会にも恵まれず、発展のない言葉だから、当然生徒の感性・想像力を直接的に刺激する性格のものとはなり得ないだけの話である。

だからこそだろう、「テストをしたりして強制力をはたらかせ、しかたないからやるんだというところへ追い込」むといった手を使わなければならないのだが、そのような教育方法は生徒の自発性の芽を摘み取り、「受け身」(同調・従属)の姿勢を補強する役目しか果たさない。授業が「面白」くない上に、学校・教師によって「しかたないからやるんだというところへ追い込」まれたとしたら、生徒が当たり前の人間だったなら、その強制・支配を土壇場まで回避して、最後の最後に受入れるという「ひじょうに受け身」の姿勢を見せたとしても、それはごく自然な勢いというものだろう。いわば学校・教師がそのように仕向けたいまどきの生徒のありようなのである。

「学校へ行って授業を受けるのはたとえつまらなくてもやらなければいけないのだということを、親も社会も子どもにきちっとアナウンス」すべきだとするのは、プロ教師がコチコチの権威主義者であり、教師という上位権威者の立場から生徒を言いなりに強制
・支配して同調・従属のタガにはめこもうとする意志の持ち主だということを自ら暴露するものである。これは麻原彰晃の信者に対する態度とその本質性のところで、何ら変りはない。

大体が「つまらな」いと感じ、受止めていることを生理に反して「やらなければいけない」というのは自己に対して不正直を働くことである。大人になれば生活のために厭な仕事を引受けなければならないこともあるだろう。だが、そこから何らかの発展を生み出すためにはその大人自身が自律的存在・自発的存在であることが前提条件となる。自律的(自立的)でもなく、自発的でもなく、まさに生活のためにだけ厭な仕事に同調・従属したその日暮らしを送っているだけなら、そこにあるのは不毛のみである。

だが、プロ教師の言っていることすべてが自律性(自立性)・自発性の抑圧・排除であり、自律性(自立性)・自発性とは正反対の同調・従属の要求のみである。

「学校で勉強しなければならない理由」として「高校受験」だという「サイン」しか
出してい」ないとは驚きである。プロ教師は29ページで「なぜ勉強しなくてはいけないのかがはっきりとわかっていない」と言っているが、例え「高校受験」を目指したとしても、自分の世界を広げるためという「サイン」も必要なはずである。自分の世界を広げるには他者との言葉の闘わせを介して(他人が書物の形で著した言葉との闘わせであってもいい)より発展させた言葉=思想・哲学を獲得することによって可能となる。それらの獲得が自己や他者、ひいては世界や社会を知るキッカケを準備し、社会的意識(「社会との接点を持とうとする気持」)や「社会的自立」(社会的自律)への育みをつむぎ出していく芽ともなるものである。

別の言い方をすれば、自分の世界を広げるためという「サイン」をも出さないことには
「社会との接点を持とうとする気持」とか「社会的自立」とか、プロ教師の言っていることすべてが永久に辻褄が合わないままに終わるということである。

「十五年ぐらい前の生徒たちに、私はこんな話をしたことがある。
 ―― 勉強ができる人、勉強が好きな人は、一生懸命勉強しなくてはいけない。それは、きみたちの役割というか使命なのだ。たとえば一生懸命勉強して、大学まで行って弁護士になるということがきみの役割だとしたら、その時一番大事なことは、いまいっしょにいる友だちのことを忘れてはいけないということだ。きみが弁護士になっていい生活をしたいと思うのは、それはそれでけっこうなことだが、それ以上にきみが弁護士になることが、いまいる友だちにとって意味があることなのかどうか、そういうことを考えて弁護士になることが大切だ。勉強することが社会的に意味があるかどうかということだ。弁護士になって思い上がって、いまいる友だちのことを忘れてしまったとすると、それはちょっとちがうのではないか。勉強が嫌いな人で、たとえばトラックの運転手になっても、一生懸命その仕事をするのは社会的な役割を果たすことになる。それは弁護士になるのと同じことなのだ ―― 
 当時はこういう話ができたのである。こういう話をすると、生徒たちは一生懸命聞いてくれた。もちろん、そうするかどうかはべつの話だ。しかし、最近はこういう話はほとんどできない。話したとしても白々しくなるばかりだ」
(p30.31)

これ以上ないといったトリッキーで見え透いた、胡散臭いだけの綺麗事の披露に過ぎない。まず最初に、「最近はこういう話はほとんどできない」理由が本人には分からないようだから、代って説明してみることにする。「十五年前くらい」は生徒との間の権威主義的人間関係の力学が現在よりもはるかに有効に機能していたために、例え理解できなくても、あるいはアホらしいと思っても、「一生懸命聞」く振りをしたことと、情報自体が現在ほど氾濫状態になっていなかったために社会的情報への関心度が現在よりも低かったことから、相対的に情報といったものから保護された状態にあった ―― 別な言い方をすれば、情報に現在よりも無知だったから、話のいかがわしさに気づくだけの知識(情報)をまだ手に入れていなかったことの二つの理由によるだろう。だが、今そんな話をしたら、当然あからさまにシラケた顔を見せる生徒も現れるだろう。

この話がなぜ胡散臭いばかりの綺麗事かと言うと、例に挙げたのが社会的地位と名声、及び金銭的な収入が高く、カッコイイ職業に見られている弁護士だからである。弁護士に関して美しい話を作り出しても怪しまれることは少ないし、美しい話の対象によりよくなりうる職種でもある。同じように例に挙げたトラック運転手になぞらえてみると、この話のインチキ臭さがものの見事に浮かび上がってくる。

トラック運転手なるということがきみの役割だとしたら、その時一番大事なことは、いまいっしょにいる友だちのことを忘れてはいけないということだ。きみがトラック運転手になって(それなりに)いい生活をしたいと思うのは、それはそれでけっこうなことだが、それ以上にきみがトラック運転手になることが、いまいる友だちにとって意味があることなのかどうか、そういうことを考えてトラック運転手になることが大切だ」

トラック運転手になるために、「いまいる友だちにとって意味があることなのかどうか
など考える人間はいない。弁護士にしても、例え「意味が」なくても、それが自分に選択可能な職業であったなら、弁護士になるだろう。多くは限定された中から、選択可能な職業を選ぶ。仕方なく選ぶ人間も多いだろう。「社会的役割」を前以って考慮に入れた上で、自分だけではなく、周囲の人間にも「意味がある」仕事に就ける幸せな人間はごく限られているはずである。殆どの人間が「社会的役割」を直接的な目的として働いているわけではなく、貢献度が自分にはどの程度かも分からない、あくまでも間接的で見えない成果としてあるものである。さらに言えば、日本のような地位・名声・職業
・学歴等で人間を差別し、人間の価値と結びつける権威主義社会では、
「社会的役割を果たす」点においてすべて「同じ」たと一般的には受止められることはない。言われても、素直には頷くことはできないだろう。

また、友達とした人間と未来永劫に同じ価値観を持ち続けるとは限らない。同じ価値観を共有できると思って結婚した男女でさえ、途中から異なる価値観に囚われ、別れることもある。一人の人間に限っても、人生の最終局面まで同じ価値観をまといい続けるとは限らない。コチコチの右翼思想の持ち主がある日突然左翼思想に転向することもあるし、その逆もある。友達同士が同じ職業を選んだとしても、常に利害を共にするとは限らない。お互いの利害に反する正反対の活動を強いられるケースもあるだろう。世の中は複雑である。まず第一番に自分を優先させなければならない。それが正直な姿である
。お互いが自分を優先させるために衝突が起きる。それに折り合いをつけることで、とにかくも社会が成り立つ。最初から折り合いを放棄して、殺人とかの方法で物理的に自己を優先させる人間もいる。だからこそ、言葉の闘わせが必要なのである。プロ教師は鈍感なまでになーんにも気づいていない。

「自分のためにいい高校へ行きたいと思うことはあっても、いい高校へ行って、いい大学へ行ってどうするのか、それがどういう意味を持つのかということはほとんど考えないようだ」(p31)
「学校へ行って勉強するのはいい高校へ行くためだということだけでは、つらいけど我慢して、しょうがないからやるか、というふうにはならないのである。結局、大人の側のサインの出し方がまちがっているのではないか。学校に行くのが、一人前の社会人になるためだという考え方がなければ、勉強なんて我慢できないだろう」(p31)

よく言うよ。一面的には、「いい高校」に望みどおりに受験できる成績優秀な少数の生徒を除いたその他大勢の生徒の、内申書の点数に下駄を履かせたり、飛ばしを行ったりの高等技術を用いた教師の振り分け・選別に志望校を委ねざるを得ない進学構造、そのような学校習慣が生徒をして、高校や大学に入ることだけを目的化させたのである。だが、何よりも、生徒それぞれの世界を広げる教育は置き去りにして、目先のテストの成績・点数のみを問題とする日本の学校教育の成果としてある、「それがどういう意味を持つのかということはほとんど考えない」思考の欠如なのである。高校・大学を学歴獲得のステップと位置づけたのは親も含めてのことだろうが、直接的に仕向け、指揮を取ったのは現場教師のはずである。

野球やサッカーの部活の練習はかなりハードで「つらい」ものもある。脱落する部員もいるが、殆どはその活動が好きで、「つらいけど我慢」」可能となっている。また、好きだからこそ、その活動を常に自分の人生の一部にしたいと願い、その線に添って自分の能力に応じた目標も持てる。いわば「我慢」や目標の基本は「好きかどうか」(興味
・関心の度合い)にかかっている。勿論、好きでなくても、目標は持てる。勉強は嫌いだけど、将来の豊かな生活を視野に入れて、大学という学歴に目標を持つといった場合である。そのために
「つらいけど我慢して、しょうがないからやるか」と受動的に自分で自分の尻をたたくこともあるだろう。

だが、「好き」でもない(興味や感心の持てない)事柄に人生の目標を設定しても、どれ程の意味があるだろうか。義務として引き受け、目標実現のため作業を事務的に一つ一つ消化していく表面性を自分に課すのみである。親やその他外部からの強制で好きでもない事柄に目標を設定したが、何かのキッカケである時期を境に好きになるといったこともある。それはその時点から義務ではなくなり、自律的・自発的関与へとステップを踏んだものとなり、そのような自発性・自律性はどんな「つらい」ことも「しょうがないから、やるか」といったふうにではなく、自分から引受ける形で積極的に乗り越えていくだけの力を与えるはずである。そしてそのような姿勢の獲得は自分の世界を広げる強力なエネルギーを自ら孕(はら)むことになる。

いわば、「授業」「つまらな」くて、「勉強」が好きになれないけれど、「我慢して
、しょうがないからやるか」
という姿勢からは、例えそれが「一人前の社会人になるため」という人生の目標を設定したものであったとしても、心からのものではないために
、自律的・自発的発展性を最初から遮断したところでのその場しのぎ、あるいはそのことだけの消化へと向かいがちとなる。そのような場所からは自己の世界を広げるための積極的な取っ掛かりは万が一つも望めないだろう。

大体が「一人前の社会人」とはどのような人間のことを言うのだろうか。さも立派そうに言っているが、プロ教師が「一人前の社会人」と口にするとき、漠然とではあっても
、生徒はマスメディア、その他が流す情報から学習した大人像を参考にしてイメージするということに気づいているのだろうか。プロ教師の粗雑な感性・想像力からすると、とても気づいているとは思えない。自己利益のためにのみ離合集散を繰返す政治家たち
、ワイロを取ったり、他人に飲ませたり、食わせたりする高級官僚(勿論その中にはノーパンシャブシャブ接待行為も入っているだろう)、覚醒剤使用や多額の現金強要といった重大犯罪を平気で犯す警察官、その事件を自己責任逃れから証拠隠滅と事件そのものの揉み消しを図った上司であるキャリア組の警察幹部、隠しビデオを使って女子生徒の下着盗撮に及んだり、テレクラを利用して知り合った女子高生をホテルに連れ込んで性行為に及ぶ学校教師等々 ―― その殆どが大学卒であり、最高学府中の最高学府出身者も含まれている。その内訳は、
「一生懸命勉強」した者もいれば、「つらいけど我慢して、しょうがないからやるか」といった者もいるだろう。例えどちらであっても、子どもたち・生徒たちは今の大人からその人間性に関してだけではなく、テストの成績も一つの重要な武器にして獲得したはずの、大人たちがそれぞれに担っている社会的地位や名声に関しても信用できない印象・胡散臭さを感じ取っているはずである。大人とはそういった類の人間ではないかと。そうでありながら、誰も彼もがと言っていい程、殆どの大人が「一人前の社会人」として存在しているのである。中にはプロ教師自身が「一人前の社会人」なら、俺は「一人前の社会人」などならなくてもいいと思っている生徒もいるに違いない。いわば「一人前の社会人」なるものは言葉自体に関しても実体自体に関しても、もはやプラスの価値基準や信念の対象とはなりにくいものとなっているのである。

そのことに気づかずに、プロ教師はノーテンキに「一人前の社会人」を連発している。概念自体が本来的に曖昧で、具体性に欠けている「一人前の社会人」という言葉を生徒に納得のいく内容を詰め込んで提示するのではなく、その言葉だけを提示して完結させているのだから、プロ教師の教育思想・教育哲学自体が曖昧で具体性に欠け、浅はかなもので終わっているからだろ。

生徒たちは「一人前の社会人」として存在している今の大人たちに信用できない印象・胡散臭さを感じ取っていたとしても、自分たちもあのような大人になるのではないのかと思っているのではないだろうか。なぜなら、今の大人たちがかつてそうであったように、自分たちもそれなりの地位・それなりの収入を目指して学歴の階段を必死になって駆け上ろうとしているからである。

事実そうであったなら、プロ教師の「一人前の社会人」という言葉は、いくら偉そうに振りまわそうとも、ますます見え透いた薄っぺらな言葉として受止められるだけのことだろう。現在の今の子どもたちは、「今のような大人にはなりたくない」といったことをよく口にする。ならない自信があったなら、「今のような大人にはならない」と言い切るはずである。だが、漠然とではあるが、成長というものが子どもから同じ大人への繰返しなのを知っているはずである。だから、反抗・反発が今という時期 ―― 大人になる前の今あるのである。「学級崩壊」行為も、「学校崩壊」行為も、そのような側面からもアプローチを試みる必要がある。それはプロ教師を全面的にアンチテーゼとすることによって可能となるだろう。

 

 

                      今回はここまで
      また2週間ほどのお待ちを。乞うご期待!! 
 

 

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