「市民ひとりひとり」
教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
2001.1.13(土曜日)21世紀初売り出し
第35弾 | ―新しい時代の新しい成人式― |
既にテレビ・新聞で報道されたように、21世紀に入って最初の成人式は散々な船出だったようだ。このような現象は去年辺りからマスコミが取上げるようになったものだが、今年と合わせて、たった2年程度の出来事だが、成人式における見慣れた光景となってしまった感がある。実際には前々から自覚症状もなくじわじわと増殖していたものが、少しずつ芽を噴き出し、苦々しい思いで眉をひそめているうちに、手の打ちようもなくここに来て一挙にその姿を爆発させたといったところだろう。
最初に学級崩壊を演出した世代が成人を迎えるようになって、学級崩壊をそっくり成人式の式場に持込んだのかどうかは分からないが、自分勝手な行動を取る、相互に共通する傾向で言えば、成人式の当たり前の進行に従わない若者は学級崩壊の小学生がそのまま成長した姿に重ねることはできる。とすると、成人式で攻撃の標的とした市長・県知事は学校の教師・校長の延長に当たる存在である疑いが濃厚となる。
いずれにしても、世紀が変わったから、物事すべてがよい方向に変わると見るのは甘い。すべては連続しているのであって、余程棹(サオ)を強く差さないことには流れを変えることは難しい。省庁再編にしたって、政治家・官僚の意識が旧態依然なら、同じ中身を引きずることになるだろう。
3000人の新成人が参加した高知市の成人式では来賓の橋本大二郎県知事の挨拶に対して、手拍子を打ちながらの、「帰れ、帰れ」のコールが起こった。知事は色をなし、「静かにしろ、出て行け」と怒鳴ったが、「お前こそ出て行け」と怒鳴り返される始末である。自民党最大派閥の会長である橋本龍太郎を兄に持っていても、その威光も今の若者には通用しない。成人式の場面だけを取ったなら、非難されて然るべき若者のように見えるが、知事自身の威光だけではなく、兄の威光にも恐れをなしてペコペコと頭を下げる、俗物な大人たちがゴマンといることから比べたなら、そのような威光をものともしない若者の方がはるかに健全ではないだろうか。
大二郎氏は後で、「彼らもこの日を恥ずかしく思い出す日が必ず来る」と言っていたが、若者の後悔を前提とすることによって、彼らを静めることができなかった自らの不面目が帳消し可能となるのだから、そのことを意図した願望的な断言なのだろう。例えそうであってもなくても、悪事や、不祥事と呼び慣わされている不正行為・職務怠慢からスキャンダル、ありとあらゆる負の行為を働いて恥じることのない政治家や官僚、企業人の跡を絶たない情況に日本人全体が打つ手もなく袖手傍観の状態なのだから、若者にだけ恥じることを求める資格は大人の誰にもないのではないか。
2000年9月14日の「朝日」夕刊には、「汚職防止に取組む国際NGO『トランスペアレンシー(透明度)・インターナショナル』」の調査報告として、「各国・地域の汚職度を指標化した『腐敗ランキング』」の記事を紹介している。それによると、日本のクリーン度は「調査 90カ国中」「23位と昨年の25位より『成績』を上げたものの、G7(主要7カ国)中では6位」という有り様である。記事は「アジアでは日本はシンガポール、香港に続く3位」と追い討ちをかけているが、クリーン度でも先頭に立ってこそアジアの盟主の資格を名実共に不動のものとすることができるのであって、実質的には単にアジア一の経済大国という地位を獲得していだけのことで、道徳的・倫理的には他国に範を垂れる資格はない後進国が正体ということではないか。
だからこそ、インドネシアやミャンマーの人権闘争にそっぽを向いて国家権力者一族のの不正蓄財や権力基盤の強化(=圧政)に手を貸すことができたのだろう。もしかしたら、現在の日本の国家権力層の汚職や腐敗は、戦前の従軍慰安婦や強制労働、あるいは虐殺や虐待、生体実験が今風に姿を変えて現れたものではないだろうか。戦前の倫理性・道徳性を未発達なまま、本質のところで受継いだままなのではないかという疑惑である。
いずれにしても大人たちの生態と現在の若者の生態を併せ考えたなら、恥じない大人があって、恥じない若者があるという、お互い様の関係にあるのは確かである。となれば、まず恥ずべきはそういった大人たちであろう。恥じない大人たちの恥じない行為に比べたら、成人式で騒いだり携帯電話をかけることぐらい、単純でかわいいものである。
要は成人式の壇上に立つ人間がテレビ・雑誌の情報に優る刺激的な言葉を若者に発し得ていないことが式場の外に立ちどませらせているのであり、中に入っても私語・携帯電話に夢中となる原因となっているのではないのか。体裁だけでありきたりの、退屈でその場をもっともらしげに取り繕う言葉を並べ立てるだけの人間が市長・県知事に収まっていることへの反発と面当てが酒を酌み交わしたり、クラッカーを狙い撃ったりといった行為となって現れているのではないのか。
高松市の成人式では五人の新成人男子がステージの際まで近づき、挨拶に立った増田昌三市長めがけて、クラッカーを破裂させる事態をテレビは映し出した。まさしく決定的瞬間である。去年はこうだったが、今年はどうかといった構図で来年も念入りに使われることになるだろう。市長自身は市のホームページで一連の経緯の説明と祝辞を改めて紹介している。経過説明は、「私語が絶えず厳粛な雰囲気の中での式典とは程遠いものでした」とか、「荒れる成人式として、マスコミの絶好の取材対象となり、全国にこのシーンがテレビ放映されたのであります」などと見当違いな釈明をしている。
なぜ成人式が「厳粛な雰囲気の中で」執り行われなければならないのだろう。式典が成人としての実感、もしくは自覚を参加者に等しく与え得るだけの力を持っているとでも言うなら、理解できる。これまでは単に成年に達したという印を与えたに過ぎなかったのを、実質的なものまで与え得ると誤魔化してきただけではないか。新成人も、形だけ大人になっただけのことを、式典によって、これで大人だと自分を誤魔化してきただけではないか。実感・自覚はそれぞれの社会経験の中から自らが学び獲得していくものであって、その獲得は人によって二十歳前であったり、二十歳過ぎてからであったりする。何ら実感も自覚もないままに年を重ねていく人間もいる。式典が単なる形式でしかないから、「厳粛」さでカラッポの中身を埋めなければならないのだろう。
さらに悪いことに社会の情報が大人なる存在の正体、そのまやかし性を日々垂れ流し状態で暴き立てていて、自分の行動に責任だ、自覚だと言っても、言う先から口先化してしまう時代情況となっているために、もはや誤魔化す力さえ失ってしまっているのである。そのことに気づかずに、「厳粛な」ものでなければならないとする発想・認識自体が既に大時代なズレた感覚てしかなくなっているのである。
そのような発想・認識からは決してマスメディアが流す情報の刺激性に優る言葉は生まれてこない。「荒れる成人式として、マスコミの絶好の取材対象とな」ったとか、「全国にこのシーンがテレビ放映された」とか、市の歴史に、と言うよりも自分の在職中の出来事に汚点がついたことの責任を半ばマスコミに転嫁するような恨み節を紡ぐのがせいぜいといったところである。
祝辞にしても、まとも過ぎて面白おかしくもない、ごくごく常識的人間の誰もが言っているもっともらしげな言葉をもっともらしげに並べただけの内容でしかない。どの言葉一つ取っても、繰返し引用し尽くされた、悪く言うと、何ら効果を見ないままに手垢のついた言葉ばかりである。いわばあちこちから集めて、つなぎ合わせ、体裁を整えたに過ぎない。先の『教育改革国民会議』の「最終提言」の言葉との類似性が多分に見られるが、そこからの引用が多かったからなのか、両者共に同じ程度の発想しかできないから、似た内容となったのか、そのどちらかだろう。特に、「社会の不正を憎み,不正を正す強い意志と行動力を,私たち一人一人が持たなければならない」とは、まず大人の「一人一人が持」ってから、若者に要求すべきことで、自らが体現していないことを要求するのは滑稽なだけである。そういったことができるのも、例え自分で書いたものであっても、多くの人間が何度も使っている言葉を借り物として用意し、それを単に読み上げるだけだからだろう。「大人はこうではあるが、大人の跡を追わないで貰いたい。君たちの世代から断ち切って欲しい」といった言葉こそが現在必要とされる、直接的に新成人に語り掛けるべき言葉ではないだろうか。
祝辞が毒にも薬にもならない月並みなものだという証明として、その全文をここに掲載しておく。
西暦2001年の新春の本日,晴れて成人式を迎えられた皆様,誠におめでとうございます。
皆様方には,21世紀最初の成人の日を,明るい希望と期待に燃えて迎えられたことと存じます。
皆様方は,成人されたことにより,日本国民としての様々な権利が与えられるとともに,また,果たさなければならない数多くの責任と義務も課せられることになります。これからは,自らの行動に責任と自覚を持っていただかなければなりません。
さて,20世紀は,「戦争の世紀」とも「科学技術の世紀」ともいわれ,人類の歴史において類を見ないスピードで変化した100年でした。とりわけ科学技術の進歩は人々を宇宙へ飛び出させるだけでなく,遺伝子操作をも可能にし,時間・空間を越えた世界のボーダーレスを急速に進展させています。
その20世紀が終わり,私たちが「未来」と呼んでおりました21世紀は,さらに激しい変化が予想されています。
その変化のなかにあって,平和で心豊かな世界を実現するためには,いつの時代にも存在する人としての普遍の価値観,すなわち,自己を律し,常に人に対するやさしさや思いやり,人の痛みのわかる豊かな情操と自然に対する畏敬の念,さらには人や自然への感謝の心,社会の不正を憎み,不正を正す強い意志と行動力を,私たち一人一人が持たなければならないと思います。
私は昨年秋,タイへ国際ボランティアの視察に行ってまいりました。そこには想像もつかない光景が現実として私を待っていました。都市スラムと貧困農村,その劣悪な生活環境の中では,孤児,エイズ感染者,薬物中毒者,虐待を受けている子ども達など,私達日本人では考えられない生活を送っている人が多く存在し,改めて平和,そして教育の大切さを実感したのです。
そのような中,国際ボランティアとして日本の多くの若者が活躍している姿に私は胸を打たれました。このような若者がいるかぎり,日本の将来は大丈夫だと心強く,また誇らしくも感じました。
世界は今,新たな共存と協力の時代に入っています。皆様方に,このように異国の地で活躍している多くの仲間がいるということを知っていただき,成人となったこの時から,身のまわりのどんな小さなことからでも,人に役立つ何かをしていただきたいと思うのです。
ところで,皆様が生まれ育った高松市は,市政を施行して今年で111年を迎えます。21世紀においても,この高松市が瀬戸内海圏の中核都市として一層発展していくためには,市民,とりわけ,あなたたち新成人の若い力と柔軟な思考がぜひとも必要です。どうかその若さ溢れるエネルギーをもって,高松市の発展のため,そして「笑顔あふれるひとにやさしいまち・高松」の実現のため,積極的に市政に参加していただきたいと存じます。
一度しかない人生です。今日のよき日を契機とされ,これからの人生において,それぞれが夢の実現を目指して日々努力されますことを心から期待申しあげます。
最後に,今,後ろで流れているジョン・レノンの「イマジン」の最後の1フレーズを紹介して,私のはげましの言葉といたします。
「想像してごらん
所有するものなんか何もないと…
果たして君にできるかな
欲張りや飢えの必要もなく
人は皆兄弟なのさ
想像してごらん
すべての人々が世界を分かち合っていると」
本日は,おめでとうございます。
最後の「ジョン・レノンの『イマジン』の最後の1フレーズ」などは、まやかしもいいとこである。物の「所有」を豊かさの証明・勲章として、カネ儲けのために人を騙すことも辞さず「欲張り」、自分さえよければと、「すべての人々が世界を分かち合」うのとは正反対の行動に駆り立てられ、執着しているのが今現在の人間の現実なのである。市長自身がそのような執着を断ち切って、「人は皆兄弟なのさ」を厳密に実践しているとでも言うのだろうか。美しい曲だから、人は口ずさみ、鑑賞もし、その間は詩と曲の醸し出す世界に感傷的に浸りもするが、現実世界に直接関わらなければならない状況に立たされたとき、何人の人間がその思想を自分のものとして自己表現し得るだろうか。哀しいことだが、人間の現実、世界の現実とは正反対だからこそ、『イマジン』は成り立つという認識を少しでも持っているのだろうか。
クラッカー騒ぎを起こした五人は市長が犯人を特定しないままに「威力業務妨害罪」で告訴すると、早々に警察に自ら出頭したが、大人のまやかしへの我慢ならなさを発端とした確信犯的行為ではなく、我慢のならなさは内心にモヤモヤとしたものがあったとしても、考えのないその場限りの突出行為に過ぎなかったことの暴露でしかない。大人のまやかしと対決するにはもう少し骨のある確信を自分のものとしなければならないだろう。
もっとも増田市長にしても、五人が騒いだとき、なぜ壇上に上げなかったのか。経緯説明によると、「二日早く実施した県内のある市の成人式で,酒を飲み始めた新成人に祝辞を読む気になれないと,退席した市長の記事が大きく載っているのを見た時,高松でも真似するような若者が出てくるのではと思った」と、懸念はしていたのである。不測の事態に備えて、理論武装しておくべきだったろう。「さあ、ここに来て、君たちの考えを聞こう。何が面白くないのか、どうして欲しいと思っているのか。新成人として既成の大人たちに向けた何かのメッセージなのか。それともただ単に面白半分にしたことなのか。そうだとしたら、他にこれといって面白いことが何もない、退屈な人生を送っていることになる。もっとましなことで、大人をアッと言わせるようなことで面白い何かを見つけるべきではないか。せっかく二度とない人生の青春期に立っているのだ。もっとましなことで自分を表現すべきではないか。もっと意味あることで自分を表現すべきだ」と、なぜ言えなかったのだろう。前以っての理論武装もせず、怠慢なまま、用意したものをそのまま読み上げることしかできないから、その場で必要とされる緊急的な言葉が何も出てこなかったのだろう。これも日本人の危機管理能力の幼稚さから来ているものである。
但し、意味あることで自分を表現しようと自覚的に人生を送っている人間だったなら、形式的な儀式でしかない成人式など目もくれないだろう。
現在の若者の多くは形式でしかない儀式の胡散臭さを嗅ぎ取ってしまっていて、そうであることを拒否し、成人式の式場を男女出会いの場か、かつてのクラスメートとの再会の場としている。例えそうであっても、大人から若者に向けた、祝辞や講演を通したメッセージが上辺を整えただけの綺麗事ではなく、彼ら若者の実質的で現実的な欲求を上回る精神的な利益を何かしら与え得る程にも内容あるものであったなら、私語や携帯電話での会話が会場を騒がすことはないだろう。もし成人式を中止してしまうのでなければ、若者の時代感覚に添う内容に変え、そこから大人への自覚を何がしか期待する方向に持っていくしかないのではないだろうか。
例えば会場を市民会館といった場所ではなく、何ヶ所かの運動広場とか、公園とかに設けて、来賓の挨拶もなし、講演もなしの男女出会いの場・かつてのクラスメートと再会の場とし、それと同時に、フリーマーケットとか大道芸とかに始まって、各種写真展、絵画展、世界の映画のポスター展といったものを露店の屋台形式といった簡単な設備で開いて、それらを通して、様々な生活の姿、様々な人間の姿、様々な自然の姿、様々な品や物の世界をほんのちょっとでも目に触れさせて、男女出会いの場・再会の場だけで終わらせない、彼らの世界を少しでも広げることに役立たせる装置のものとしたなら、形式では終わらない実質的なものを何がしか与えることができるのではないだろうか。
大型テレビを設置して、文部省選定といったものではなく、笑えて楽しめて感動できて、なおかつ人間と言うものを考えさせ、若者の世界が広がるようなドラマやドキュメンタリーのビデオ、一例として、障害者が懸命に生き、社会参加を果たしていく、あるいは自分自身を生きていく、その場合はNHKが金曜日に放映している『きらっと生きる』で紹介している障害者の様々に「生きる」姿は最適の教材となるだろう、そういったビデオも上映し、見たい者は見、見たくない者は素通りさせるといった自由とする形式で、意識させない自然な方法で彼らが関心を持った対象から何らかの世界を引き出すモチベーションの催しを加えるのもいいだろう。
絵画や彫刻、あるいは手作り木工オモチャや陶芸品などを制作している市民の中から、希望する者に会場に個展の開催の場を提供するのも一つの手である。こういった絵や彫刻、オモチャ、陶芸品を作っている人間がいるのだと思わせるだけでも、その時点で既に彼らの世界は広がっているのだから、言葉だけの祝辞や、即席の講演の類よりは有益というものである。あるいは一票獲得のための顔見せに過ぎない市会議員だ、県会議員だ、代議士だといった政治家たちの心にもない祝いの言葉や祝電から比べたら、例え微量であっても、確実に人間形成の糧となるはずである。何をやっているのだろう、何を売っているのだろうと覗くだけでも、世界は広がる。
複数の会場をハシゴする男女も出てくるだろう。ハシゴするだけ、世界は広がるはずだし、広がるような会場設定としなければならない。雨天の場合は延期としない方がいい。人生、いいことばっかではない、雨の日だってある。雨天の場合に備えて、そう書いた看板を用意しておいて、目につくところに吊る下げればいい。俺たちの(私たちの)成人式は雨だったと、それなりに思い出深いものとなるだろうし、思い出深いものにするくらいの創造力が求められる。晴れていた場合は、芝生に桜の季節の花見のようにシートを広げて軽い酒盛りをすることを許して、男女の出会いやクラスメートとの再会を盛り上げる場、ゆったりと寛げる場として提供するのも一考であろう。シートは貸し出す屋台を設けておけばいい。そのような場所から大型テレビを眺めることができる位置に設置したなら、ビデオ鑑賞に有効となるだろう。ひとときの語り合いの後、男女がラブホテルへ行こうと行くまいと、勿論自由である。
花見では泥酔して醜態をさらけ出す人間がいるが、それは新成人それぞれの自覚に待つしかない。
一人一人がそれぞれにそれぞれの方法で自分の世界を少しずつ広げていくこと、その用に役立つ、あるいはそのキッカケを提供するメカニズムを成人式に取り入れてこそ、式典が儀式であることから逃れて、人間形成の種火の一つとすることが可能となる。学校教育にしても、テストの解答技術の習得から離れて、生徒の世界を広げる教育への転換を図ったとき、成人式を待たずに、自分の頭で考え、自分の足で立つ創造性ある人間を社会に送り出すことが可能となるはずである。