市民」 

       教育を語る ひとりひとり 政治を社会語る そんな世の中になろう

   第47弾   part7
       
                      

                         2001.11.20(火曜日) アップロード      



MENUE

◆原則なきカメレオン的マスメディア
民族を前面に押し出すことの危険性
◆有害なものとしての民族優越意識
日本人性としてある単眼的視野
自立していない日本、米国の属国・植民地――その原因は?


◆原則なきカメレオン的マスメディア

 メリカのアフガニスタン空爆が長引く気配を見せると、誤爆による一般市民の死傷に対して、多くのマスメディア報道はそれまで以上に人道的正義感の立場からの批判的なニュアンスを強めた。しかしそういった批判的なニュアンスは、タリバンが放棄した首都カブールを北部同盟が占拠して市民が街に出て踊り出す、タリバン政権時代禁止されていた音楽が流れ、女性が彼女たちへの抑圧の象徴だったブルカを外して顔をさらす、化粧をする、同じく禁止されていたテレビが、すべての就労を禁止されていた女性キャスターを職場復帰させて放送を再開するといった一連の自由回復一辺倒の報道の背景に退く形で影を潜めた。
 そしてカブール市民の歓喜の光景がひとしきり報道され尽くすと、再び舞台を回転させて、タリバン追撃に向けたアメリカの空爆を主役に引き戻して、迎えた
ラマダン(断食月)に絡ませて、人道的正義感を蘇生させた。例えば、モスク(イスラム教寺院)を誤爆すると、「米政府はあくまでもアルカイダを壊滅まで追い込む必要性を強調し、始まったばかりのイスラム教のラマダン(断食月)中も作戦を継続する方針は変えていない。その矢先に、最も反感を呼びそうな誤爆を起こしてしまった恰好だ」(「朝日」2001.11.18.朝刊)といった具合に、空爆の必要性よりも「反感」を重視する、もしくは憂慮する報道となっている。
 
ラマダン(断食月)とは、イスラム月の9月を言い、その一ヶ月間、イスラム教徒は日の出から日没まで断食を行なうよう義務づけられている。アルコールもタバコも禁止されて、貧しい者の貧しさ・苦しさを身を以って味わい、その労苦を分かち合うことを主旨としていると言う。しかし、日没から日の出までの間は自由に腹を満たして、日中の空腹に備えることができるのだから、いくらでも融通を利かすことはできる。日の出前に腹持ちのいい食事で断食に備えるのが、人間の自然なのだから、どのくらいの人間が自己試練として、あるいはすべての人間との連帯感を再確認し合う機会と把えて真摯に断食に向き合うのだろうか、疑わしい限りである。
 社会的な現実問題としても、
ラマダン(断食月)が過ぎても、持てる者と持てない者の生活の格差は開始前と変らずにラマダン(断食月)を飛び越えて残るのだから、分かち合う気持が呼び覚まされたとしても、焼け石に水の効果もないだあろう。世の中の変化にはラマダン(断食月)があってもなくても同じだということである。
 
ラマダン(断食月)が貧富の格差の是正に実際の効果があるなら、すべてのイスラム国家は金持も貧乏人もない完璧に平等な世界となっているはずである。しかし現実は大違いなのだから、ラマダン(断食月)も信仰に忠実で敬謙なイスラム教徒であることを示す儀式で終わっているのだろう。
 世界は他者よりも自己という自己利害優先の、それゆえに絶対正義など存在しない、いかがわしさと矛盾に満ちた人間社会空間でしかない。それはイスラム世界においても同じである。タリバン政権が国民に対して、特に女性への就労と就学の禁止という偏狂的抑圧を含めた人権侵害と不平等・難民・飢餓を生み出している誤謬と、それを正し、国民を解放することになるかもしれないアメリカの軍事攻撃がもたらす誤爆によるモスク破壊・一般市民への殺傷といった誤謬とを量的に差引き計算して、答が少しでもプラスの道を選択する以外に、人間の可能性は存在するのだろうか。
 勿論、アメリカの攻撃がベトナム戦争時のように長引けば、アフガニスタン国民に対する人道的・経済的損失量は当然増加する。だがアメリカの攻撃がなかった場合、民族融和に光を見い出せない現状においては、タリバン政権と内乱の二重の長期化による経済的・人道的誤謬の全体量の危険な増加をも招く。
 もしアメリカの攻撃がアフガニスタン国民の人権と平和の回復に少しでもプラスと見なすなら、誤爆によるモスク破壊も一般市民への殺傷も、さらに
ラマダン(断食月)中の作戦継続も、人権と平和の回復のための代償と見るべきだろう。何事も犠牲を伴わずに、事を成すことはできない。そして事を成したとしても、新たないかがわしさと矛盾が覆うことになるだろうが、それでもプラスを比較善として、毒を以って毒を制す犠牲だと受止めることが、人間にカメレオン的ではない原則≠与えることになるのではないだろうか。
 もしこの原則≠ノ則るなら、タリバン壊滅後、どのような政権の枠組みであっても、再び民族対立と軍事抗争を再発して、国民の人権と平和への期待を裏切ることとなったなら、それらがもたらす人権抑圧と難民・飢餓が再度の軍事攻撃による一般市民の犠牲を上回ると予測されたなら、その犠牲を排して、国連は自らの主導で多国籍軍を編成して、アフガニスタンを軍事的に占領してすべての民族軍兵士の武装を解除し、軍事支配のもと、民主義と人権の植えつけを行なって、植えつけの成功を確認後、占領を解除して独立を許可する、戦後期の日本で行われたような間接統治を選択すべきだろう。
 民族抗争で難民が生じた、飢餓が発生したと、他国政府やNGOが人道支援の名のもと、食糧と衣料援助、あるいは医療援助を施したとしても、民族抗争が続く限り、痒いところをかくだけのその場間に合わせの一時的な解決策にしかならないだろう。いわば、これまでのように飢えない難民状態を維持するだけの努力に終わるだろう。飢えない難民状態というのは、真に人間的な状況だと言えるだろうか。

                        2001.11.19                           


民族を前面に押し出すことの危険性

 本人は現在、自信を失っている。自信を取戻すために日本人だという意識、日本民族としての誇りを持つべきだという人間がいる。そして、そういった心の持ち方は、日本民族を他民族に対して上位に置こうと意図するものでもなく、全体主義(集団主義)で括ろうとすることでもない。民族とはそれぞれが異なる考えを持った一人一人の集まりであると同時に、共通の生活様式・共通の文化を持った運命共同体でもあるのは否定することのできない事実なのだから、運命共同体としての自覚を持つことで、逆に個人個人の存在のモチベーションを高めることが可能になるという主張である。
 しかし、個人の考え方は共通の生活様式・共通の文化に常時支配・影響されて、その枠内に閉じ込められてしまう傾向にあるのだから、別個の様式と把えること自体、二律背反の矛盾を抱えていることに気づかない主張である。
 そのような主張の一つとして、かつての自身の
学生運動の経験を例に出して、全体主義で行動しているかのような報道がなされていたが、セクトに属していたごく一部を除いて、殆どの学生は「個人個人の意識で参加」していたという文章に出会った。果たしてそうだろうか。

 時の「学生運動」への参加は社会的に支配的な(ということは優越的な位置を獲得していた)現象としてあった一種の<流行り>で、そういった支配的(優越的)現象に乗り遅れまいと同調した全体行為としてあったものではなかっただろうか。実際に「個人個人の意識」で行動していた反体制行為だったなら、彼らが社会人となって、その殆どが一様に会社人間化した(=体制化した)事実が説明不可能となる。社会の支配的な優越的傾向に対する全体的な同調行為(横並び行為)だったからこそ、会社世界で支配的な意識としてある大人たちのいわゆる<常識>に同調する(横並びする)ことで会社人間化することができたのであって、その行動に一貫性が出てくる。日本の高度経済成長の上昇気流を受継いで、中核的な前線部隊要員の役目を担いバブルという戦果を日本にもたらしたのは、いわゆる全共闘世代の会社人間化の結果としてあるものだろう。
 そして現在の若者も同じ行動様式を受継いでいる。ただ単に別の面に発揮されている違いしかない。現在の社会で若者にとって支配的・優越的現象としてあるのは「学生運動」ではなく、
ファッションや男女交際へと変化しているからである。<みんなから外れるのが恐い>という同調(横並び)意識から、同じファッションを纏い、特に性に関しては、自分だけ経験していないのは恥ずかしいという強迫意識から、みんなと同じであろうとして初体験を急ぐ。仲間の体験話に経験していない自分だけがついていけないと、焦り、仲間に未体験者がいると、早く大人になれよとか、いい子ぶってとかプレッシャーをかける。<全体と同じ>を求め、<全体が同じ>を求める。会社の仲間から飲みに行こうと誘われても毎度毎度断っていたら、あいつ変っていると扱われるようになるのも、横並びを求める同じ同調意識からのものであろう。
 このように時代や社会の変化にも関わらず何も変らない
同調意識(横並び意識)も、日本人に共通の文化としてあるものである。日本人が民族性として抱えている精神性だからなのは言うまでもない。全体が個人を覆っているのであり、全体と個人は切っても切れない関係にある。
 人間が自己の所属する民族や宗教を掲げるとき、何事も様々な矛盾を内包しているにも関わらず、それぞれが自分の考えを持てずに社会の支配的・優越的傾向や勢いに無定見に同調・横並びする
危険な負の面を捨象して、優秀なものと表現し勝ちである。そこが最も危険な点であろう。例え日本民族を他民族に対して上位に置こうと意図していなくても、表現された優秀性が、それぞれが持つ負の面を忘れさせて、個人個人をも優秀だと思い込ませる輻射作用を生じさせるからである。結果として、上位に置くことになる。

 争で民族を掲げ、民族に訴えるのは明らかに自己民族を他民族に対して上位に置こうと意図するものであろう。戦前の日本の権力者は大和魂を掲げることで、国民に他民族に対する自己民族の優越性を訴えた。戦後の日本単一民族説の主張は優越性の訴えとなっていないだろうか。単一民族だから、民族抗争を経験しないで済んでるといった言い方には、他民族の仲間入りを許さない排他性と、日本人は優秀だと言う意識を明らかに潜ませている。

                2001.11.19.


◆有害なものとしての民族優越意識

 められた同じ国土に住み、生活しているという共同意識だけで十分である。同じ国土に住む――当然、移住してきた外国人も、生まれ育った外国人も含まれるすべての人間があらゆる人権を等しく保障され、争いもなく、経済的にも生活に困らないよう、安心して生きていける社会空間を協同してつくる。そのような社会空間の建設局面において、民族意識は必要とはしない。

 エーデンに住む日本人女性のメーリングリストにあった文章――「スウェーデンの人口の13%はもう既に外国人で、スウェーデンの場合は困窮度の高い人の入国を許すので、文盲の難民が五万とおります。日本だったら高級マンションに住んで、社会保障ででかい顔して生活しています。国民の5%は回教徒でアラブ諸国から来た難民および移民です。繁殖能力だけはあるので、ソマリア人とか、トルコ人、イラン、イラク、アフガニスタン、パレスティナ、その他から来た人々は鼠算式にふえ、そのうちスウェーデン人は金髪碧眼なんて言う人はなくなるでしょう。私がそのようなことを言いましたなら、職場のスウェーデン人は言いました。「それでもいいじゃないか。大切なことは、この国に住んでいる人が、生きてよかったと、思えるような、幸せな人生を送れることなのだから、100年後のスエーデン人が黒色であろうが、褐色であろうが構わない。一人一人が幸せな人生を歩めるようなそんな国にスウェーデンがなれればそれで十分だ」

 ブル時、「アメリカを超えた」、半導体に関して、「もはやアメリカから買うものはない」と傲り高ぶった、客観的認識能力のカケラさえ持たない独善意識には日本人は優秀であるという日本民族に対する優越心理が潜んでいた。そのような優越意識が有用なら、倒産とリストラと自殺が渦巻く現在の不況は存在しなかったはずだ。戦前の民族優越意識がかえって有害であったように、バブル時の民族優越意識も<ウサギとカメ>の寓話が潜んでいるとも気づかない有害のものだった。

                   2001.11.19.


日本人性としてある単眼的視野

 「日新聞」(2001.11.20.朝刊)の「ポリティカにっぽん」に朝日新聞東京本社コラムニストの早野透氏が「ごみの山の『神の子たち』の寓意」と題して記事を書いている。『神の子たち』は、日本制作のドキュメンタリー映画の題名である。「フィリピンのマニラ首都圏のパヤタスごみ集積場」「暮し」「金目のゴミを拾うことで生計を立てている500世帯」「昨年7月の」「豪雨で」山崩れを起こして埋没事故が発生した。「そこから、撮影カメラは動き始める」
 山崩れによる人災からか、
「フィリピン政府はごみ搬入を止めた。それでは人々は生活の糧を失ってしまう。妊娠中のノーラ(27)たちは議会まで『ゴミ捨て場再開』のデモをする。
 ノーラも、寝たきりの水頭症のアレックス君(5)の一家も、ニーニャ(12)姉妹の一家もとにかく食うや食わずである。ノーラが産んだ男の子は未熟児で死んでしまった。カメラは人々を濃密に追う。こんな暮しがこの地上にあるんだね。
 アフガニスタンの子どもは戦争しか知らないように、ここの子どもたちはごみ山しか知らない。・・・(中略)・・・だけど、子どもたちの目は澄んでいる。『人はみな一粒の種。偶然の土に落ちて芽を出す』。加藤登紀子の歌が流れる」
―― 

 傷にどっぷりと浸って、心地よい気分になれた早野透氏の様子が目に浮かぶ。「こんな暮しがこの地上にあるんだね」とは、ジャーナリストなのに、今さらながらに気づいたとは驚きである。映画のフィルムが写し出す現実≠、そのままの形、目に映ったままの姿で受止めて、それで完結していられる感性はジャーナリストには思えない高度のものである。これは単眼的視野の持主だからこそ可能な現実批判である。

 ィリピンの「こんな暮し」は、マルコス元大統領とその一派の独裁と富の独占、その構図を今もって引きずっている一部富裕層の富の独占と、そのことが原因の貧富の格差の社会的不公平の存在。さらに、軍人の社会上層への登用といった軍人偏重社会、社会的に構造化した汚職(エストランダ前大統領は大衆人気に支えられて大統領となりながら、汚職、愛人騒動で失職した)、機会の平等を奪う縁故主義――等々の現実≠フ成果としてあるフィリピンの「こんな暮し」という下層現実≠ネのである。日本からの援助も、富の独占と偏在に手を貸しているはずである。社会を覆っている不公平な、より大きな現実≠ノこそより多く目を向けるべきで、「加藤登紀子の歌」などは、糞食らえである。

 つの現実≠把えて、全体としての現実≠総合的に判断する複眼的視野の欠如は日本人全体のものとしてあるものである。もっとも、そのお陰で与えられた一つの目標に盲目的にわき目も振らずに突っ走ることができるのであり、農業や林業を置き去りにすることで可能となった工業分野に限った経済大国の地位を獲得できたのも日本人が特性としている単眼的視野に大きく負っているのだから、ゆめゆめ疎かにできない単眼的視野なのかもしれない。

                     2001.11.20.


自立していない日本、米国の属国・植民地――その原因は?

 001.11.19のテレビ朝日(「TVアッタクル」)で米軍のアフガニスタン軍事攻撃支援の自衛隊派遣問題に絡めて、世界第二位の軍事力の自衛隊の能力を面白半分に論じていた。最初から観ていたわけではなく、チャンネル替えの途中でほんの暫くの間目に留めただけだったが、自衛隊の先頭走行車両の戦車は方向指示器を装着しなければならない規則があって、緊急出動中の市街地走行時でも信号に従わなければならない非合理性。そのことを追及する桝添要一議員の国会質問の場面を流したが、方向指示器の許認可官庁である公安委員会が(だったと思うが)方向指示器の装着は後続戦車は先頭戦車に引き続いて走行すればいいのだから、先頭車両のみで十分と答えれば、中谷防衛庁長官は、確か、戦車隊列が途中で途切れた場合、方向指示器を装着していない後続戦車は赤信号で立ち往生することになる、方向指示器の装着自体矛盾しているといった答弁を行ない、食い違いを見せた。

 頭戦車に方向指示器を装着するといった感覚を罷り通らせているような自衛隊ではその戦力を十分に発揮し得ないという指摘。社会党の田嶋陽子議員と辻本議員は、アメリカは日本を守ると言って日本に来ながら、アフガニスタンで日本がアメリカを守ると言うのは主客転倒だと言った議論。湾岸戦争時の不評判が、今回の議論を十分に尽くさない、最初に派遣ありきの支援となったという批判。そして結論は、日本は自立していない、アメリカの属国みたいなものだ、いや、アメリカの植民地だ、属国の一流国であるよりも、自立した三流国の方がいい、四流国でもいいと、口々に言う。

 が最後まで、なぜ日本は自律的な対応ができないのか、閲兵時以外、非緊急時には輸送車両に積載させて移動させるだろうから、戦車が路上を自走するといったことはまずないにも関わらず、なぜ先頭戦車に方向指示器を装着させると言った滑稽な規則ができたのか、そういった議論はなされなかった。

 治家だけではなく、日本人全体が自律性に欠けるのは、権威主義的な上下関係の力学――上の者の指示・命令に同調・従属して、自己意志の発信を抑圧する、いわば考えるプロセスの介在が許されない関係性が生まれたときからの人間関係に作用・支配している影響から、想像したり、発想したりする習慣を自ら持ち得ないからに過ぎない。そういった人間関係と、その影響からの創造力(想像力)の未成熟こそが日本人の特徴的性格となっている横並び現象を生じせしめているのは言うまでもない。<横並び>は考えることをしないことによって可能となる思考と行動の様式だからである。

 威主義的な上下関係と、考えるプロセスの無介在の人間関係力学は、学校社会の教師と生徒の人間関係ばかりか、暗記教育にも逐一反映していることが、何よりも問題だろう。人間関係においても、暗記教育においても、考えるプロセスを省くことで成り立つ関係性だからである。考える力を養うべき学校が、何も考えずに権威主義的な上下の人間関係と暗記教育に流されている。政治家、官僚、教育委員会、教師が愚かしいばかりに無考えだからに他ならない。

 衛隊の先頭走行戦車に方向指示器の装着が義務づけられているといった滑稽な規則は、自衛隊が戦力を保持した軍隊そのものであるばかりか、朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争と基地や戦費提供・地雷撤去といった支援名目で参戦していながら、そのことが戦争の放棄と戦力の不保持を定めた憲法9条に違反している事実との整合性を正すことはせず、誤魔化しの積み重ねでその場しのぎしてきたことが原因なのは言うまでもない。戦争の道具であり、戦力を持っている戦車を戦力不保持に見せかけるために一般車両に準じさせようとしているからこそ、方向指示器を装着させる誤魔化しが必要になったのだろう。自衛隊に関わる誤魔化しが方向指示器にとどまらないのは世界的に周知の事実となっている。

 会党は村山首相時代に憲法9条との整合性を図ることもせずに、<自衛隊合憲>を打ち出して、自民党の誤魔化しに乗っかる誤魔化しを犯していながら、連立離脱したから、利害関係がなくなったとばかりに「平和憲法に徹する」(土井たか子)とは、新たな誤魔化しの上塗りに過ぎない。軍隊そのものである自衛隊の存在は、既に「平和憲法」を否定しているのである。死に体化させていると言ってもいい。

 のようにも、誤魔化し対誤魔化しが渦巻いているのである。そういった誤魔化しが消滅しないことには、未熟な政治性の象徴ともなっている自衛隊を巡るドタバタは息長くロングランを続けることだろう。結構なことである。

                        2001.1.20.


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