市民」 

       教育を語る ひとりひとり 政治を社会語る そんな世の中になろう

 第48弾   part8
       
                      

                         2001.12.16(日曜日) アップロード      


Menue

模倣癖のルーツ
天皇制維持(国体護持)が原爆を招いた?
個人消費を刺激する景気回復策への提言
「純な鳩山氏、したたか小泉氏」
虚構としてある文化・民族
<持てば>の可能性・part@
文化・民族に関わる誇り
政治家・官僚の犯罪厳罰化運動を繰広げよう
皇位継承
天皇・200年の歴史・単一民族は何に役立っているのか
皇太子妃雅子さんの出産の経済効果


模倣癖のルーツ

 日本人のモノ作りの技術は世界的に優れていると、日本人自身、固く信じて疑わない。しかし、そのモノの原型は、殆どが自らの創造によるものではなく、既にあるものから出発して応用と改良の上に打ち立てられたトレードマークとしてある評価がその実態となっている。そして日本人の多くは認めたくない事実としてその実態から目を背けている。
 確かにモノマネの時代はあった。それから後は自らが創り出した技術であると。
 それが事実としたら、韓国・台湾・中国の製品に追い上げられ、日本の製造業自体が脅かされ始めている今の現実は存在しないだろう。確かに韓国・台湾・中国にしてもモノマネから入った。コピー製品でしかなくても、安価な人件費が低価格製品を可能とし、そこからの利益が技術改良・新技術購入、あるいは新技術開発への投資に向かう技術発展のスパイラル型循環を生み出し、そういった構造の技術の向上が品質面においても日本の製品に太刀打ちできる成果を作り出して、脅威となって現れている。いわば韓国も台湾も中国も日本が通ってきた同じ道を通ってきただけのことで、そのことが脅威を生み出している事実は、世界的に優れていると思い込んでいる日本の技術の正体がカネさえあれば、投資によってマネのできる技術に過ぎないことを暴露するものである。 
ということは、技術がマネを基本とした相互性のものである以上、あるいはカネと時間によって解決可能なものである以上、国際競争力は、低価格製品を生み出す必須条件の安価な人件費にウエイトが置かれることになり、事実そうなっている。
 
日本の技術のそのような絵柄が、韓国・台湾・中国といった後発技術国の追い上げを許し、日本の製造業の低迷を誘発した原因を成しているはずである。裏を返せば、佐々木正・元シャープ副社長をして言わしめた、「独創的原理はしばしば欧米発で、明治以来の模倣ぐせが身についた日本の限界」(2001.3.24.「朝日」朝刊)が実態の、世界的に優れていると思い込んでいた技術なのである。

 だがである。自ら創造し得ないためのモノマネはモノ作りの技術だけだろうか。社会という場で、人間が人間らしく相互に尊厳を持って生きるあるべき姿の追求・実現の思想・哲学の創造に関しても、モノ作りの創造に関してと同様に、無力に等しく、モノ作りと同様にモノマネからの出発を余儀なくされているのが実態の日本社会なのではないか。世界第二位の経済大国の力にものを言わせてカネで解決できる道路や学校・病院といった建物自体は優れているものの、生活していく人間が境遇の違いに関係なく、それぞれの尊厳を保障する生活機会の組立て(思想と制度)においても、その殆どは「欧米発」で、自前からの出発とはなっていない。しかも始末の悪いことに、組立てはマネできても、世界的に優れていると自負したモノ作りの技術と違って、人間の生活や活動を質高く成り立たせる運用に関しては、プラスアルファーの創造性すら獲ち取れず、当然世界的に優れていると自負できるどころか、その反対に政治に関しても、福祉に関しても、人権に関しても、後進国と格付けされている社会の現状を維持したままとなっている。
 
技術がカネと時間によってモノマネを出発点に解決可能なために、その優秀性を獲得できたが、人間を人間たらしめる社会の組立ては移入できたとしても、その運用に必要な、立場の違いによって相互に異なる人間利害を調整する創造性の構築はカネで解決不可能なため、モノマネ状態からさして歩を進めることができない障害となっているのだろう。

 では、何が原因の創造性の未構築なのだろう。

 社会は人間関係の場である。知識や創造力を獲得し、それらを発揮することも、人間関係の力学に影響される。日本人の人間関係は集団主義・権威主義の力学に支配され、本質のところでそこから逃れられないでいる。職業や地位・学歴・身体性といった諸々の位相に従って人間の価値の上下・優劣を決定する集団主義・権威主義の階級性が集団や権威の上位意志に下位意志が倣う(従う)行動様式を構造としているのである。下が上に倣う(従う)構図は、上の意志に如何に添うか考えを巡らすことはあっても、そのような忠実性の発揮自体が、創造力を巡らす機会を奪うメカニズムとなって働く。 人間関係におけるそういった創造力発揮のプロセスの省略が日本人の創造性の未成熟の主要因となっている。その結果として、モノ作りに関しても、社会の運営にしても、基本は「欧米発」の「独創的原理」の利用から出発して、カネの力で解決可能なモノ作りの技術に関しては一応の向上・発展を見たものの、人間利害が深く関わっているゆえに調整困難な上、カネでは解決不可能な機会の平等の発展・向上に関した場面では、必要な創造力は発揮されず、モノマネから脱しきれないでいる。
 
例えば、障害者の社会参加を例に取ると、「企業には従業員の1・8%にあたる障害者の雇用が義務づけられているが、この義務さえ果たせない企業が半数を超え、1000人以上の企業は77%が未達成」(2000.11.19.「朝日」朝刊)という欧米の充実度に後れた貧弱な後追い状況は、日本人の障害者に対する意識が社会的差別状態に踏みとどまったままで、身体性や精神性に応じた人間活用を創造し得ないことからの、整えた制度にさえ満足に追いつけない現実としてある不備・不全を示すものだろう。

 あるいは薬害エイズ問題やヤコブ病問題における政府の対応遅れは、人間の人間生命に対する創造力(想像力)の欠如・貧困が招き入れた危機管理不全を物語るものだろう。自分の方が地位が上だとか、学歴が上だとか、収入が上だとか、上下・優劣ばかりに目が向き、それぞれの人間の生きてある姿・生きてある命に盲目であることからの創造力(想像力)不全なのである。単一民族意識も、集団主義的・権威主義的上下・優劣思想からのものであるのは言うまでもない。

 例えば、2001年9月の狂牛病国内感染第一号発生以前に行なった、日本で狂牛病が発生する危険性に関するEUに対する日本の調査依頼で、EU側は常に最悪のケースを想定した調査を示しているのに対して、日本側は終始、そんなはずはないという態度を取り、最終的に調査を拒絶したのは、日本に限ってあり得ない、日本は大丈夫だという上下意識(優越感)からの過信であって、国民の生命や生活に対する万が一という危機感=生命意識、あるいは生活意識の差が出たものであろう。阪神大震災で高速道路が倒壊するという現実が控えることになるとは考えることすらできず、アメリカのロスアンゼル地震で高速道路が倒壊したのを受けて、日本の土木工学関係の学者が、日本の高速道路は大丈夫だと請合ったのも、単に技術的な優位性にしか目がいかなかったこと(=生命意識の欠如、あるいは生活意識の欠如)が原因した客観的検証の手抜きからのものだろう。

 モノ作りの技術は、人間の人間に対する創造力が欠如していたとしても、獲得可能ではあるが、人間が社会の場でそれぞれが人間らしく尊厳を持って生きる条件の構築には、常に人間に対する創造力(想像力)を不可欠とする。 集団主義・権威主義の人間関係意識が人間の人間に対する創造力(想像力)を育まない構造のものであるなら、そのような意識からの訣別を図らなければならない。

 創造(想像)のプロセスを欠如させた人間関係は、教育の場である学校社会に、当然のことながらそっくり反映し、踏襲されている。学校教育はテストの成績が至上命題となっているために、テストの設問に対応できる知識の受渡しが必要不可欠なものとなっている関係上、教師はその線に添って教科書の内容を解説し、生徒もその線に添うために教師が解説した知識を解説したなりに受止める暗記形式を相互に宿命づけている。いわばテストの設問に対応する範囲内で知識の受渡しに必要な思考は働かすことはあっても、テストの成績に束縛されない、人間の生命にまでわたる自由な創造力(想像力)の駆使は自ずから抑制される関係にある。結果的に固定的な知識のやり取りとなり、固定的な知識に支配されることになる。

 勿論、このことは日本人の人間関係の反映としてある結果性でもある。日本人の集団主義的・権威主義的人間関係性が教師を絶対とし、生徒を従とする関係力学を生じせしめていて、そのことが可能としている教師から生徒への一方通行の意志伝達は、そこに創造力(想像力)の介在を排除することによって成り立つプロセスだからである。いわば暗記教育は、集団主義的・権威主義的人間関係の力学(=意識伝達の力学)がつくり出している知識伝達方法であって、相互に重なり合って補強し合う関係にあると言える。逆説するなら、教師対生徒の集団主義的・権威主義的人間関係力学からしたら、理に適っている知識伝達方式(=意識伝達方式)なのである。

 日本人が集団主義・権威主義の行動様式・意志伝達様式から抜け出れない間は、モノ作りに関する「独創的原理」は勿論、社会の場での人間のあるべき姿に関わる思想・制度に関しても、欧米の後追いと追いつけない状況は永遠に変らないだろう。

                    2001.12.16.


天皇制維持(国体護持)が原爆を招いた?

 1999年8月5日の「朝日新聞」。要約すると、ドイツ降伏の翌日、対日諜報主任官のザカライアス海軍大佐は45年5月9日、サンフランシスコから「大統領の公式代理人として」日本向け短波放送を英語と日本語で開始した。7月21日の放送は、「『自らの政府の形態を選ぶ権利』を定めた大西洋憲章に沿えば、天皇制も保持できる」と示唆する内容の、「無条件降伏の場合には大西洋憲章に定める利益を享受できる」というものだった。その4日後、東郷外相が「米側が太西洋憲章に言及したのは値する」と、ソ連に連合国側との和平仲介の交渉を働きかけていた佐藤駐ソ日本大使に電文を送ったのを、アメリカは傍受している。しかし、7月26日に発表されたポツダム宣言(対日降伏勧告)は、天皇制の維持に触れないまま、日本に無条件降伏を求めた。7月28日、鈴木貫太郎首相は軍部の圧力で「ただ黙殺するのみである」との声明を出した。2日後の7月30日、広島に原爆投下。8月14日、ポツダム宣言を受諾。

 一連の対応から見えてくる構図は、天皇制維持(国体護持)を至上主義として無条件降伏を忌避した延長線上の原爆投下ということである。その底にあるものは、国家優先・国民後回しの思想である。同「朝日」新聞によると、東郷外相は8月9日、スイス公使へ電文を送っている。「6日に広島に新型爆弾。被害は甚大。米政府に抗議したい」「米当局は破壊力を承知していた。いまだに見たことがない残虐さだ」。一方、戦後ザカライアス海軍大佐は、「原爆を落とす必要はなかった。日本は降伏する用意があった。我々が(適切な)機会を与えさえすれば」という内容の論文を発表したとなっている。。しかし天皇制維持を至上主義としたのも、そのために無条件降伏を求めるポツダム宣言を無視したのも、日本であり、例えそれが正しい選択だったとしても、原因と結果を成したことは否定することはできない。東郷外相もザカライアス海軍大佐も、そのことを欠落させている。

 国家権力による国家優先・国民後回しは戦後も続いている構造的なもので、ヤコブ病・過熱血液製剤(エイズ)・肉骨粉(狂牛病)・ハンセン病等々における対策後れ=危機管理無能力に象徴的に現れている。中央・地方を問わない役人の、国民の税金を食う形の公金流用や裏金づくりでの卑しい飲み食い行為も、同質・同根のものだろう。


個人消費を刺激する景気回復策への提言

@消費税の一時凍結と、国民へのお願いメッセージ。
「1000円の買い物をしたら、消費税の5%に当たる50円分、何か余分に買って下さい。10000円だったら、500円。あるいは1週間とか1ヶ月とか、家計簿を付けておいて、合計の支出額に5%掛けた金額の買い物を改めてまとめ買いして下さい。そうして貰えたら、様々な会社の様々な製品の売上げと多くの人の雇用の確保につながり、最終的に日本の景気回復につながっていくでしょう。あくまでもみなさん自身にか使ってもらうために消費税の一時凍結をするのですから、貯蓄やタンス預金に回したなら、景気回復にはつながらないでしょう。但し、子どもを大学に進学させるために貯蓄に回さなければならないといった特別の場合は、貯蓄に回してください」
この方法は成功した場合、幅広い製品の売上増につながる。
消費税凍結による税収減を、増加するであろうと見込んだ法人所得から徴収する迂回方式で補填する。
Aパソコン購入に年代別に金額幅を設けて、国家補助を付ける。
IT革命は、国民が広くパソコンを所有することを前提として成り立つ。50代・60代・70代・80代・・・と、年代が上のほど、補助金の額を高くする。
パソコンの売上げを計ることで、IT産業の不況を救済する。
但し、景気が回復した場合は、国家補助分、売上げに応じて、パソコン製造会社から無利子の年賦方式で返還させる。
B住宅購入・自動車購入にも、購入者に何らかの方法で国家補助を付け、その分を購入会社から、複数年据え置き・無利子・年賦で返還させる。

※以上の方法は、公共事業による景気対策が特定の企業の利益獲得に偏るのを防ぎ、幅の広い企業の利益獲得につながる。
こういった方法はどうだろうか。

                      (2001.1.27)


「純な鳩山氏、したたか小泉氏」

     (ポリティカにっぽん・早野透/2001.11.27.「朝日」朝刊)

 「騙す方よりも騙される方が悪いのか」

 早野透氏は、『朝日新聞』に載せている自前のコラム『ポリティカにっぽん』(2001.11.27.朝刊)に、「純な鳩山氏、したたか小泉氏」と題した記事を載せている。その内容は、11月21日の党首討論で鳩山民主党党首が「『与党が阻害勢力になるなら、我が党が総理を応援したい』」と小泉首相にエールを送ったのに対して、小泉首相は実際は前夜のうちに自民党の抵抗勢力の主だった実力者との談合で妥協が成立していたにも関わらず、それに応えるような姿勢を示したその駆引きを、「小泉首相をけしからんとは言えない」と擁護した上で、「政治家の世界は、だます方よりだまされる方が悪いということになっている」とその理由づけを行ない、「鳩山氏こそいい面の皮だ」と批判している。そして、改革を「したたかに切り抜けていくだろう」との予測を前提に、その様子を「監視していくこと」が「メディアの役割」だとしている。

 自民党政治に国民は騙され続けてきた。騙される国民にも責任はあるが、それ以上に騙す政治家の姿勢をこそ問題にすべきだろう。「だまされる方が悪い」を原則とするなら、「メディアの役割」は政治を「けしからんとは言えない」とし、国民を「けしからん」とする論調に統一することだろう。もっとも、またまた騙された、お前たち国民はなんてバカなんだろうとはやし立てた方が、世の中の改革にかえって役に立つかもしれない。
 
官僚のなくなることのない怠慢・不正は、国民の信頼を裏切る卑劣な背信行為だとしても、メディアの「監視」は官僚にではなく、「だまされる方が悪い」国民に向けるべきだろう。
 
終戦時、国民の多くが国に騙されたと非難したと言う。無考え・無定見に軍国主義に乗っかった国民自らの責任を棚上げにする非難だったとしても、より多くの責任を問われなければならないのは、戦前の政治権力や軍部であり、それらに媚びて軍国主義を吹き込む役目を率先して担ったメディアのはずである。彼らの罪・責任が免罪されるとしたなら、「だます方よりだまされる方が悪いということになっている」という論理の正当化のみだろう。そういった論理を正当なものと認知することの方が,恐ろしいことだと気づくべきではないか。
 
実際は薄汚い開き直りに過ぎないことに気づくべきを、「だまされる方が悪い」といった論理に流される。そうではなく、政治家同士であっても、国民に対しても、騙すことのない政治をあるべき姿とすべきだろう。
 
現在の政治の腐敗も、官僚の腐敗も、世界に信用されない日本という国自体も、責任を取らない技術をも含めた、騙すことを政治技術、官僚技術としてきたことの成果としてあるもののはずである。

 ディアの監視≠ネどと、さも大層なことのように言うが、表面に現れた事象をそのままの形で切り取って解説するしか能のない想像力では、これまでと同様に何の「監視」の役にも立たないだろう。高速道路建設にしても、国費投入中止・償還期間の延長・民営化だけを問題にしていたのでは、何も変らない。談合を一切禁止する方法を考えて、高値安定止まりしている工事単価を下げること。特殊法人への天下りを厳禁して、各組織の人事と人件費を民間企業並みに適正化すること。その上で、必要な高速道路は採算可能な範囲内で(そのためには徹底した情報公開が必要だろう)建設を認めるというルールとすべきだろう。
 
現状のままでは、民営化されたとしても、公共事業獲得のために天下りを民間企業も利用していることで、なくならないだろうし、談合は民間企業にしても得意分野で、野放し状態は続くだろう。談合がうまい汁だからこそ、自民党も建設業界からたっぷりと政治献金をせしめることが可能で、官僚も接待に与ることができるのである。ゼネコンは自己の借金返済のためにも、談合で高値入札を狙うだろうし、政治家も票と政治献金獲得のために協力するだろう。最終的にはそれらはすべてコストに撥ね返っていくのは言うまでもないことである。

 最後に、「国民クーデターとも言うべき政治劇で首相の座をもぎ取った」と小泉クンを持ち上げているが、目が曇っているのではないのか。自民党政治家が選挙で自分の首をつなげるための便宜として、改革≠ノなだれ込んだだけ、その圧倒的支持に有権者が幻惑されたことと、責任を取らない・取らせないで首をつなげることができた自民党政治の、その本質的な実態に薄々気づいていながら、駄目な亭主だと知りながら、離婚することへの不安からなかなか別れられないように、野党に政権を任せた場合のあるかもしれない政治不安定に対する意気地のない取り越し苦労から(そのことが決定的には責任を取らせることができないできた原因だろう)、小泉首相の威勢のいい改革′調にすがったというのが実態の高支持現象≠フはずである。

                    2001.11.27・


虚構としてある文化・民族

 「日本の文化は優れている」と言うとき、常にといっていい程にそこに民族優越意識を付随させている。文化とは、社会の構成員に共通の行動様式、あるいは生活様式の総体を言うが、人間は如何なる文化に属そうとも、行動様式、あるいは生活様式のすべてにわたって正しいありようを示すとことはあり得ない。人間は完璧とは正反対の矛盾多き生きものである上に、それぞれの文化を超えて、自己利害優先を絶対条件としているからである。文化にも、プラス・マイナスの両面があるということである。

 なのに「優れている」とするのは、文化のマイナス面を隠すことによって可能となる。それも自己文化のみに限定するのは、それが意図して隠したものであろうとなかろうと、人間の現実に対する客観的認識能力の貧困に助けられた独善的な思い込みとしてある優越意識からのものだろう。勿論、他文化との比較対照を条件とした、他文化を下に置いた自己文化優越なのである。

 文化・生活様式を共通項とした人間集団が民族なら、文化を誇ることは、民族を誇ることと重なり合う。いわば、文化を誇って、民族を誇っているのである。常に文化優越=民族優越と考えなければならない。

 民族の優越は文化と同様、意図的・無意図的に人間存在の実態を隠すことによって可能となる虚構に過ぎない。と同時に、他民族との比較において成り立つのは自己文化優越と同じである。

 如何なる人間も、如何なる文化も、如何なる民族も、所詮同じ穴のムジナでしかない。生活の生きものであることから免れらることができないために、生活のためにいくらでも魂を売り渡す。人間を生かすも殺すも、生活を成り立たせることができるかどうかにかかっている。人間にとって、「貧すれば、鈍する」が絶対真理となっているのも、生活の生きものだからである。人間はカネ次第で紳士にもなれれば、乞食にもなれる。

 談合・贈収賄・買収・不作為・怠慢・脱税・不道徳・非倫理・無節操・妥協・無視・無関心等々、例を挙げたら切りのない、魂を売り渡すことによって可能となるそれらあさましい生きる文化・あさましい生きざまの文化を隠し、美しく装うものとしてあるのが、いわゆる優れているとしている文化≠ネのである。逆説するなら、あさましい生きる文化・あさましい生きざまの文化を抱えている民族の人間ほど、そのあさましさを隠すために文化・民族を優れていると装う虚構に迫られる。ウソつきが自分が如何に正直者であるかウソでしかない虚構の正直さを並べ立てるようにである。

                      2001.11.27・


■<持てば>の可能性・part@

 例え民族を前面に出しても、<個人であっても民族であっても、異なるものに対しての理解と敬意と尊重を相互に持てば、優越意識は存在しない>という一文に出会った。
 
まったくもって、その通りである。<持てば>の話である。一般的に持てているのだろうか。言葉通りにいかないから、問題が生じる。多くの日本人は学歴の上下で人間を評価し、職業・社会的地位・収入・家柄等の上下で人間の価値を決定付けている。何事も、上下に応じて権威づけを行なっていることから可能となる価値観である。学校でも、テストの成績の上下で生徒の優劣を決める。成績のよいグループ順に王様・貴族・平民と階級をつけて問題となった高校教師がいた。成績が一番悪いグループの生徒は何と、奴隷と呼ばれていた。極めて象徴的な価値付けである。一般的に行われている、成績を人間の価値尺度とする日本的な精神性が単に具体的な身分制度で表現されたに過ぎない。このような精神性は日本人だけのものではないにしても、日本民族に特徴的な傾向としてあるものだろう。上下意識が染み付いた日本人が民族を持ち出すとき、それを上下の価値意識で表現しない保証はない。表現することによって、かえってその精神性に一貫性が出てくる。勿論、上記の主張者は違うだろう。自分で言っている通りに<異なるものに対しての理解と敬意と尊重を相互に持て>る人間だろうから。人間の現実というものを見た上で、そこから割り出した日本人の一般性から判断していくと、到底<持て>るとは思えない。
 
マイナス面の日本人性・民族性は、維新後か、戦後のもので、歴史的な精神性とあるものではないと言う主張がある。保守系の人間の間に流布しているこの種の主張自体に、民族優越意識が潜んでいることに気づかない。維新後は、欧米列強と伍していくための欧化政策が、戦後はアメリカの占領政策がもたらしたアメリカナイズが日本の伝統文化・伝統精神を毒したのであって、本来的な日本精神・日本文化はもっと違った優れたものだという解釈である。
 
<異なるものに対しての理解と敬意と尊重を相互に持てば、優越意識は存在しない>と言っていた同じ人間の主張だが、<世間体を気にして横並び行動をとるのは、割合新しいもので、維新後、異なる文化を採り入れることが正しいとされてからと考えています。そして戦後、東京が正しいというマスコミの大攻勢によって助長され、ますますその意識が高まって文化のようになった>も、同列の線上に位置する解釈だろう。
 今ある日本人の姿はどう逆立ちしても、誇るべき民族性からはほど遠い。その証明とはなり得ない。矛盾した答の辻褄を合わせるためには、外部からの悪影響だとするのが最も納得させやすい。そのこじつけの生け贄とされたのが、維新後の欧化政策とここでは戦後のアメリカ軍の駐留ではなく、東京一極集中というわけである。
 個人で立つ≠ニは、民族をも含めて、学歴とか地位とかの権威への依存を排して、自分の生き方・考え方に自己の立脚点を置くことである。正反対の行動様式としてある権威への依存をベクトルとした横並び行動は、自分で考え、自分で決めるというプロセスを含まないことによって成り立つ。教師が教えた知識をそのまま暗記する暗記教育も、そのような知識と学びの方法を唯一の価値とすることによって、横並び行動と同じ構図を踏むもので、考えるプロセスは必要とされず、暗記の量は個人差が出ても、暗記した知識に関しては、横並び≠フ絶対性と等質性を宿命づけらる。暗記教育が横並び≠フ精神性を補強するものであることを考えると、江戸時代の寺小屋教育も書簡文集を書き写す暗記が主体の教育だったのだから、日本人の横並び$ォは「維新」前からのものだろう。そのようにも歴史的日本人性としてある横並び$ォなのではないか。
 
もし日本人が個人として立つことが可能な存在なら、例え民族を前面に出したとしても、懸念は生じない。もっとも個人として立つ≠アとができていたなら、民族をアイデンティティに用いる必要は生じない。民族と個人は対立概念として存在するものである。
 
国家権力が民族・宗教・歴史を持ち出すのは、個人を抑えて、国家という全体を優先させる意図からである。日本は無宗教国家だと言われているが、日本人にとっての究極の宗教は、天皇である。単に意識していないだけである。

 尾身浩次沖縄・北方担当相が、11月29日に東京都内のホテルで「日本は単一民族である。日本人といえばヤマト民族である。人種と国が、大体において、多少の例外はあるけれども、合っている、という意味において、日本の実情というものが、実は世界の基準から見れば全く、その特殊な国である」と講演したそうである。「多少の例外はあるけれども」「人種と国が、大体において」「合っている」という認識は「大体において」正しいと言える。しかしである。日本の人口に占めるアイヌ人・在日韓国・朝鮮人、その他の日本国籍を有した民族の人間が極端に少ないからとしても、例え世界的に見てそのような国が少ないのが事実だとしても、数少ない国、とはせずに、「特殊な国である」としたのは、日本民族に対する優越意識からのものだろう。そのことは「多少の例外はあるけれども」としながらも、その「例外」を無視、あるいは抹殺して、「日本人といえばヤマト民族である」としたことからも証明可能である。

 尾身氏は鈍感にも、価値にはプラスマイナスの両面があるということに気がついていないらしい。日本人の排他性・人種差別(=他民族に対する非寛容性)は、日本人を基準とした民族意識が日本民族優越意識や単一民族意識へとつながって、その裏返しとしてあるもだろう。そのくせ白人コンプレックスに苛まれているのだから、滑稽である。

 尾身氏は「経済社会の国際化の中で、日本が他の国に比べ、均質性の高い社会であることをどうとらえるかという問題提起をしたかった」と、発言内容を釈明しているらしいが、どのような事柄に対する「均質性」なのか、具体的説明がない。「均質」という言葉の意味は『大辞林』(三省堂)には、「どの部分もムラがなく、性質が同じであること。また、そのさま。等質」とある。裏返せば、「個性がないこと・変化がないこと」ということではないか。それは「高い」と言われている教育能力にも現れている。誰もが幼稚園から大学まで考えることを省いた暗記教育に慣らされる結果、例え高度な知識を暗記したとしても、それが暗記であるゆえに人によって知識に変化のない「均質性」は獲得できたとしても、同時に画一性も免れることができない宿命を背負う。暗記教育が基本的には知識の鵜呑みによって成り立ち、考えることを重要な原理とはしていないことからの画一性なのである。だから、「日本人は独創的原理に弱い」と日本人自身によって批判される情けない状況に見舞われることになっているのだろう。
 
日本が世界第二位の経済大国でありながら、政治小国から抜け出れないのも、尾身氏の言う「均質性」が問題解決の柔軟な考える力(=想像力)を育む障害となっているからだろう。
 
より多くの様々な民族と直接的に触れ合うことによって、人間関係に関しても、想像力に関しても、衝突や理解を繰返す相互的刺激によって相互理解、あるいは寛容性を高めあうことが可能となり、そのことの方が、日本人という身内だけの「均質性」よりも価値あることではないだろうか。少なくとも、「経済社会の国際化の中で」、単一民族意識によって阻害されて、いつまでも取り残されている人間の国際化には、他民族者の幅広い受入れが役立つはずである。

                     2001.12.1.


■文化・民族に関わる誇り

 「文化にも、プラス・マイナスがあります。民族を前面に出すとき、マイナスを隠して、プラスだけであるかのように装いがちです。そのこと自体が、既に優越性表現となっているのです。既に書いたことですが、『日本は2000年の歴史があるが、アメリカは高々200年の歴史しかないではないか』といった言葉も、相互にプラスもあればマイナスもあるという客観性を持てずに彼我の歴史を単純に優劣で評価するもので、そこには明らかに日本民族優越意識が働いています。そのような危険性を持ちやすいから、民族意識を超えて個人個人で立つことを訴えているのです」

 私のこの訴えに対して、<文化にはマイナス面があります。しかし私が誇りと申し上げているのは、それをも含めてのことです。誇りは優越感とは異なります>という返事が返ってきた。
 この言葉にウソはないだろうか。
 
人は誰でも、自己の身体的・性格的マイナス面にコンプレックスを持つ。<それらを含めて>自分なのだと<誇れる>のは『五体不満足』の乙武君みたいな特別な人間だけではないだろうか。テレビドラマのセリフとしたら、いくらでも考えられるが、普通の人間でもし<誇れる>としたら、独善的か鈍感か、そのどちらかだろう。
 
保守党政治家が、天皇・日本民族・日本の歴史、と言うとき、文化のマイナス面にも言及するニュアンスを、そこに込めているのだろうか。込めているとしたら、日本とアメリカの歴史の、単なる時間的長さを比較する言葉は出てこない。彼らにとっての歴史の長さが学歴や社会的地位と同様に、誇るべき権威としてある一つの形に過ぎないから、比較可能となる。
 
シベリアの日本人捕虜収容所では、抑留者同士助け合うべきを、軍隊当時の軍の上官は絶対服従の階級制度を収容所にまで持込み、特権意識を振り回して下級兵士に対する搾取・虐待をほしいままにしたという。サラリーマンの犯罪受刑者は、例え勤めていた会社が違っていても、会社にいた頃の各々の肩書に応じた序列が刑務所内に自然とできるという調査結果がある。これらも日本人の精神性に戦前・戦後を通じて上下で人間の価値を計る意識が染み付いている証拠としてあるものだろう。在日アフリカ人がアメリカ国籍だとウソをつくと、日本人の態度がころりと変るというのも、国籍や民族に上下をつけ、それに従って人間の価値を決めているからである。アメリカでは障害者の完全な人権と平等を実現するための障害者の社会参加に対するすべての差別を禁止した『アメリカ障害者法』ができたのは1990年である。勿論、いろいろな不備や矛盾を抱えてはいるだろうが、パソコンなどを利器に社会参加を可能とした障害者が一挙に増加したという。現時点においても、日本では大企業ほど障害者の採用率が低いのも、<異なるものに対しての理解と敬意と尊重を相互に持て>ていないことの結果性が社会全般の傾向として出てきたものだろう。こういったマイナス面も<含めて>、 <誇りと申し上げ>るのだろうか。

                     2001.12.1.


政治家・官僚の犯罪厳罰化運動を繰広げよう

 悪質交通犯罪を厳罰化する刑法改正案が11/28成立した。約5億円もの外務省機密費流用の松尾被告は、まれに見る悪質事件だと、10年求刑された、この厳罰要求が、他の外務省員の裏金プール行為、諸々の政治家・官僚たちの収賄や、接待を受けたり、ゴルフをタダでしたりといったタカリ行為を瑣末化するための生け贄の羊にならなければいいがと思う。悪質交通犯罪の刑法改正だけではなく、政治家・官僚の誤魔化す金額の些少に関係なく、国民の信頼に対する重大な裏切行為に変りはないものとして、松尾被告に求刑したのと同様の厳罰で臨める刑法の改正・強化を行なうべきではないだろうか。偉い人たちのちょっとした不正行為も厳しく罰することによって、世の中は少しは平等になるだろうから。

                     2001.11.29.


皇位継承

 皇太子妃の女児出産を受けて、妊娠時におけると同様に女性天皇を認める皇室典範の改正問題が再び持ち上がった。皇太子妃に関しては最初にして最後の出産のチャンスと見たことからの反応だろう。もっとも実力者を自任する政治家にとっては、事態に対応して何か一言することで、自己を印象づけようとする習性からの発言でもあるだろう。
 
改正論者たちの論拠の一つに、「現代は男女共同参画社会で、憲法上も男女平等社会だから」というものがある。
 
皇室典範は女子の皇位継承を認めていないだけではない。「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる」(「第三条」)と、条文に該当する「皇嗣」の皇位継承権を剥奪することも可能としている。では、天皇がこのような条項に該当した場合は、どう扱われるのだろう。

第十六条2 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為
     をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。

 
これら二つの条文は相矛盾した決定事項となっていないだろうか。
 男女平等、あるいは共同参画を言うなら、身体障害者や知的障害者に関する平等、あるいは共同参画に関しても言及があってしかるべきである。男女平等・男女共同参画から、男子であっても女子であっても、障害者を除いたなら、真の平等・真の共同参画とは言えない。見せかけの平等・共同参画で終わる。

 天皇の場合「摂政を置く」とするなら、「皇嗣」においても、「皇位継承の順序を変える」のではなく、「皇室会議の議により、摂政を置く」とすべきであり、そのことによって、二つの条文は整合性を獲得できるだけではなく、女子への継承と、「精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があ」った「皇嗣」への継承と併せて、皇室において初めて広範囲な平等と共同参画を実現することとなり、それは一般社会に範を垂れ得る先駆的な改正となるはずである。例えば筋ジストロフィーの天皇を摂政が車椅子に乗せて押して歩く姿を想像してみるがいい。障害者や障害者を抱えた親だけではなく、人類すべてにとって、希望の姿となるだろう。

 皇位継承に関する改正が女子にも権利を与えるだけで終り、「精神若しくは身体の不治の重患」に関する「皇位継承」問題にまで踏込まなかったなら、改正の論拠としている「男女共同参画」も「男女平等」も、皇太子家から皇位継承者を出す長子相続を死守するための便宜上の口実でしかないことを暴露するものとなるだろう。
 
最後に一つ付け加えると、もし男女共同参画社会・男女平等を根拠に女性天皇を認めるなら、日本の伝統文化であることを理由として、女性の大相撲の土俵に上がることを禁止している慣例は社会的に整合性を欠くこととなる。

 因みに、『皇室典範』の「皇位継承」に関する条文を掲載しておく。

皇位継承

第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

第二条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
 一 皇長子
 二 皇長孫
 三 その他の皇長子の子孫
 四 皇次子及びその子孫
 五 その他の皇子孫
 六 皇兄弟及びその子孫
 七 皇伯叔父及びその子孫
2 前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。
3 前二項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。

第三条 皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。

第四条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。 


「天皇・2000年の歴史・単一民族が何に役立っているのか」

 天皇や2000年の歴史・単一民族を日本民族の優越性を証明するシンボルとしている日本人の心の制度を批判するのは、優越性欲求に反して、それが日本人の生きる現実の姿に何ら役に立っていないからである。
 現在の日本社会を成り立たせている諸制度の殆どは欧米産(多くは米国産)である。特に、インフォームド・コンセントとかカルテ開示、臓器移植制度、生命倫理学、セカンド・オピニオン制度、情報公開、盲導犬・介助犬制度にしても、障害者の社会参加にしても、これら人間が人間らしく生きる権利に関わる社会的仕組みを後追いして取入れはするものの、それらすべてが欧米ほどには十全に機能せず、それぞれのあるべき姿に追いつけないでいる。いわば、人間が人間らしく生きる権利に関わる思想・哲学・諸制度の創造(想像)に天皇も2000年の歴史も単一民族だとしていることも、何ら役に立っていない。少なくとも2000年の歴史だと言うからには、2000年が役立っていいはずなのに、限りなく役立っていない。何をもって優越的なのか、全然見えてこない。
 これは制度や仕組みの取り入れは誰でも可能であるが、運用するのは日本人自身である。人間が人間らしく生きる権利は、人間対人間は平等であるという意識を基本とする考えによって成り立つはずなのに、地位が上の者・力ある者は偉くて、地位の低い者・力の弱い者は劣るとする日本人の権威主義的な上下意識、あるいは一般的なものを正常、一般的でないものを異常と区別する、権威主義的な差別意識が障害となって、人間関係に平等と寛容の精神を持込めないでいることからくる機能不全なのである。そのバロメターとなるのがやはり障害者問題であろう。制度を立派に構えても、障害者に対する一般人の閉鎖性が望みどおりの社会参加を困難とし、その結果として、社会参加の質自体が低いところにとどまっていることが(世界から福祉後進国だと言われている理由の一つでもある)、日本社会の質そのもの、日本人性そのものを物語っている。
  天皇・2000年の歴史、あるいは単一民族が日本民族優越証明装置としている以外、何に役立っていると言うのか。役立っているものがあるとしたら、ご指摘願いたい。


皇太子妃雅子さんの出産の経済効果

 テレビで、2兆円(?)とか言っていた。猛暑になると、エアコンが売れて、家電業界は一息つく。暖冬だと、冬物衣料品や暖房器具が売れずに、経済はなのこと冷え込む。夏熱く、冬寒い自然条件に頼り、今度は景気回復の起爆剤になって欲しいとか、暗いニュースばかりのとき、久しぶりの明るいニュースだとか、皇太子妃出産に頼る他力本願の景気回復願望の蔓延となっている。そのような状景の裏を返せば、政治家の景気回復政策が何の成果も生んでいない、何の頼りにもならないお粗末な現実が鎮座しているのだが、そこにこそ向けるべき厳しい目を、そうすることのできないたわいのなさが生じせしめている他力本願なのだろう。皇太子妃の出産を歓迎するのもいいが、それ以前に、何のために国民の税金から給料に当たる歳費を政治家に払っているのだろうかと厳しく問うべきではないだろうか。

 そう言えば、戦争で壊滅した日本の経済も、アメリカの援助と朝鮮戦争特需と言う他力本願に頼った経済回復だった。日本の恥・日本人の恥になるから、決して朝鮮戦争・朝鮮戦争特需を、神風が吹いたとは言わない。日本人自身の優秀性がつくり出した世界第二位の経済力だと固く信じている。

                   2001.12.13.


2002年、よい落しをお迎えください。

 

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