市民」 

      教育を語る ひとりひとり 政治を社会を語る そんな世の中になろう

                          2001.3.23(金曜日) アップロード


38弾 日本の教育の体質総合学習
     
(次なるエッセーのための新聞記事からの資料)    

町村信孝文部科学大臣は、「はきちがえた個性の尊重・はきちがえた自由が不登校を生んでい
 る」
(2001/2/15「全国不登校新聞」)と発言したそうだが、日本の学校社会は生徒・子どもに
 対して、果たして真正な「個性の尊重」・真正な「自由」を保証したことがあるだろうか。「
 個性の尊重」・「自由」は言葉でとどまり、実際は
「個性」・「自由」の排除・抑圧がいじめ
 (暴力)や不登校を生んでいるのではないか。そのような問題行動とされている行為の分岐点は
 生徒それぞれの性格や資質に対応しているのではないか。以下は、そのことをテーマに解き明
 かす必要上用意した「新聞記事からの資料」を解説した一部で、参考のためにホームページ化
 するものだが、参考になるかどうかは、御判断願いたい。

MENUE

 @≪「不登校」に関する文部科学相・町村信孝発言≫
 A≪「ゆとり教育」に関する町村文部科学相の考え≫
 B≪「奉仕活動」に関する文部科学相・町村信孝発言≫
 C≪「総合学習」で「生きる力」育て、子どもは変るか≫
              (4人の小学校教師による座談会から)


@≪「不登校」に関する文部科学相・町村信孝発言
  
                 (2001/2/15「全国不登校新聞」)
「はきちがえた個性の尊重、はきちがえた自由が不登校を生んでいる」という発言に対する批判を受
 けて、「文部科学相ホームページで『不登校に関する私の考え』と題」して「公表した」「文書」に
 対する批判・感想である。
不登校の原因について
 @「いじめが原因で不登校になる場合もある。これには。学校全体でいじめの根絶に努め、場合によ
  っては問題児童に対して出席停止措置を含めた厳しい対策を取る必要がある」
 @に対する≪考察≫
    
「問題児童に対して出席停止措置」と言っても、学校・教師がいじめや暴力を見て見ぬふり
    する、あるいは、生徒は気づいているのに、鈍感にもまったく気づかない場合、あるいは、い
    じめを指摘しても、「いじめなどない」と否定・無視してしまう責任回避教師・自己保身教師
    が大勢的な状況にあり、そのことがいじめの蔓延を許している大きな理由となっていることを
    考えると、いわゆる「サインの届かないいじめ」が大部分を占めていることを考えると、表に
    現れた場合の数少ないいじめに対して「出席停止措置」を講じたとしても、暴力団の十八番と
    同じく、一時的に鳴りを潜める状況が生じるのみで、元の状態に戻るのに時間は掛からないだ
    ろう。いわば、イタチゴッコが続く可能性は高い。
 
A「心の悩みで不登校になる場合は、スクールカウンセラーの充実、心の教室相談員の活用で対応す
  る」
 B「授業が分からずに不登校になる場合には、個別指導、小人数指導、IT教育などを導入する」
 C「この他に、家庭や学校の教育の中で、自己統制力(セルフコントロール)を児童生徒に身につけ
  させることが不十分であったことが原因となっている場合もあるのではないか。戦後、日本の社会
  、教育においては、個人の自由や権利を強調してきたが、自己統制力なき自由や権利の主張は、好
  きなことだけをさせ、気に入らないことはやらなくてよいという結果をもたらす。大人になれば、
  自分の好きなことだけをやっているわけにはいかない」
 Cに対する≪考察≫
  
  「戦後、日本の社会、教育においては、個人の自由や権利を強調してきた」と言うが、果た
    して実際に
「自由や権利」が保証されたのか。「自由や権利」は馬の目の前に吊るしたニンジ
    ンに過ぎず、見えない形でのその抑圧が
「自由や権利」を求めて、その正統な主張方法を教え
    られなかったために、歪んだ形で噴き出している状態が、
「自己統制力」なき「自由や権利」
    の主張となって現れているのではないのか。いわば゛「自己統制力」のないものと見えるもの
    は、真の
「自由や権利」を求めて、求める方法も手段も見い出しえずに右往左往する、あるい
    は悶える姿なのではないか。


A≪「ゆとり教育」に関する町村信文部科学相の考え
                        (「朝日新聞」2001/2/19朝刊)
 @――ゆとり教育で学力が低下するという指摘があるが。
  「こまごまとした知識を記憶するよりも、自分でものを考え、行動できる力を育てることが大
   切」
  「『ゆとり』が『ゆるみ』 とか、基礎基本がどうでもいいといった誤った解釈も一部にあった
   。分かる授業で基礎学力を向上させると指導要領の考え方を説明した。そのために二十人学級や
   習熟度別学習ができるようにする」
 @に対する≪考察≫
   
 ◆「基礎学力」が暗記した学力なら、意味はない。なぜなら、与えられたもの≠与えられ
    た形なりに受止める形式の硬直性を否応もなしに体質とするからだ。逆説すると、状況に応じ
    た柔軟な発想構造を最初から含んでいないために、1+1を、3にも4にも持っていく形の、
    いわゆるくつかの基礎知識を有機的に組み合わせて、それを臨機応変に転換・発展させる想像
    性の発揮は期待しにくい欠陥を持つ。マニュアルにない危機発生に対する管理無能力も、想像
    力を使わない暗記教育を原因とした柔軟な発想構造の欠陥から来ているものである。

 A――小中学校は基礎で、ある程度きちんと身につけさせるべきだと。
  
「いや、徹底的にきちんとだ。・・・・急にそうするわけではないが、小学校で留年してもいい
   し、逆にどんどん進んでもいい。年齢と共に学年が進むという制度はもうやめてもいいのではな
   いのか」
 Aに対する≪考察≫
    ◆「留年」も「飛び級」も、暗記教育≠フ加速要因となるだけではないか。最悪の場合、
    暗記教育≠ノどうしてもついていけない者をして、教育を投げさせる結果をもたらさないだ
    ろうか。投げた者≠キべてが不登校となるなら、それでも学校の表面的な秩序は保てる。
    暗記教育≠ナ自己表現できない代償(暗記教育≠ノ生存機会を見い出せない代償)に、い
    じめや暴力で自己の優越的位置を確保する手段に出たら、現在と変らない学校状況を生み出す
    ばかりである。具体的に言えば、留年者=@が一つ下の学年に所属することによって、体力
    的、あるいは年齢的優越位置を現在以上に確保できる条件が整うのである。それを利用して、
    学力では果たせない自己の優越性をいじめや暴力に代えて実現させる可能性は否定できない。
    容易にクラスを煽動し、ヤジなど飛ばさせて授業妨害に走ることも十分に考えられる。

 B――学力より、学ぶ意欲が落ちたと指摘があるが。 
  「理科、数学が嫌いとか、関係する仕事に就きたくないとか、その方が問題が大きい。暗記科目
   にするから、面白くなくなる」
 Bに対する≪考察≫
    ◆
「暗記科目にするから、面白くなくなる」と言っているが、なぜ「暗記科目」になるかの考
    察がなければ、いつまで経っても直らないことになる。暗記教育≠ニ集団主義・権威主義と
    は密接に関連しあっている。そのことはまたさらに、自由・権利の抑圧≠ニも密接に関連し
    あっている。
 
C――体験重視の総合的学習を敬遠する教師もいるようだが。
  
「教材や教え方など、上から与えられた授業をするなら簡単。先生が生徒と一緒に考え、環境と
   か国際理解とかのテーマで一年間やるのは苦労だろう。だが、それをしないと自発性は身につか
   ない。
 Cに対する≪考察≫
 
   ◆
なぜ「上から与えられた授業」が日本の教育の形式となっているかの原因≠ヨの考察がこ
    こにもない。それを解決・克服しないことには、
「先生が生徒と一緒に考え」「自発性を身
    に」
つける教育の実現は不可能に近い。「上から与え」、それをそのまま受入れる暗記という
    メカニズムを取った知識伝達は、無批判・無条件の同調・従属を条件として成り立つ。いわば
    自己判断力の停止、あるいは排除を構造としている。
日本の政治家の自己判断力の停止・自己
    判断力の排除は暗記教育の成果なのである。その代表選手が森首相なのは言うまでもない。そ
    のような人間を密室で首相に選んだ政治家たちも同類なのは勿論である。

 
D――一律に英語を教えるという受止め方もあるが。
  
「それは誤解。横浜の小学校では国際化のテーマで街の歴史を調べ、その一環で英語に触れてい
   る。マレーシア人が先生で、決して文法は教えない。英語や外国人に接する楽しさを知れば、中
   学でも苦にならないだろう」
 Dに対する≪考察≫
    ◆
集団主義・権威主義に染まっている日本人教師が、「上から与えられた授業」形式から抜け
    出せるかは、
「マレーシア人」教師の例を持出すだけでは不適切である。集団主義・権威主義
    が一方通行で機械的な一律的・画一的暗記授業を生み出しているのである。そのような意志伝
    達構造そのものを問題としなければ、例え教師全員が
「マレーシア人」となったとしても、生
    徒に刷込まれた
「上から与えられた」ものを無批判・無定見にそのまま受入れる集団主義的・
    権威主義的精神性は一朝一夕に直るわけのものではないために、
「国際化」も、一律的・画一
    的な
「国際化」意識を生むだけである。
 E――学習指導要領を超えた授業をしてもいいのか
  
「個々の興味や理解度で、さらに先に進むことは構わない」
 Eに対する≪考察≫
    ◆
日本人教師が果たして「学習指導要領を超えた授業」が可能なのか。「ゆとり教育」が学習
    指導要領で決められたとき、学校側がどのような授業形式で行っていいのか、文部省にお伺い
    を立てた過去≠忘れている。結局は元の木阿弥に戻る形で、学習指導要領をなぞる授業し
    かできないだろう。いわば、従来どおりの流れを維持するだろうということである。富士通が
    「先駆的に採用した」と言う『成果主義賃金』は、「失敗を恐れ、『挑戦』不足」を招く結果
    となり、見直すことになった
という記事(「朝日」2001/3/19朝刊)は、日本人の本質性を象
    徴的に暗示するものとなっている。

 
F――指導要領が最低基準だと説明を変えたのか。
  「内容を厳選した結果、指導要領は最低基準だという性格が明確になった。先に進む子は進み、
   理解に時間のかかる子は何度も基礎をやる」
 Fに対する≪考察≫
    ◆
「指導要領を超える授業」が自由な発想・自由な創造性を構造としたものではなく、機械的
    な暗記教育を、理解優秀な生徒には
「先に進む」形で先行させ、「理解に時間の掛かる」生徒
    には暗記させることに時間をかける二極化構造の授業となるだろう。しかし、小学校は6年間
    、中学校は3年間と時間は限定されている。
「先に進む子」「理解に時間のかかる子」との
    格差は決して縮まることはなく、逆に拡大するだけとなるだろう。今までは、
「理解に時間の
    かかる子」
は最終的には放置してきた。結果的に、格差拡大の本質は変らず、かえってより悪
    い状況を生み出すかもしれない。
 G――私立中の入試で指導要領の範囲外を出てもいいのか。
  「私立学校の試験について命令を出す権限はないが、願わくば、高度なこと、難問奇問はやめて
   ほしい。英語を受験科目にするのもどうかと思う」
 Gに対する≪考察≫
    ◆
なぜ、「英語を受験科目にする」のがいけないのか。暗記教育をやめれば、問題はないだろ
    う。
 H――新指導要領で塾通いが増えはしないか。
  「いい点を取って、『いい学校』に入っても、一生幸せになるわけではない。社会が求めている
   のは学力だけではなく、実力。学力をつけるために塾通いさせるのはおかしい。親が変らないと
   いけない。
 Hに対する≪考察≫
    ◆
よりよい高校、よりよい大学入学のチャンス、よりよい企業入社のチャンスは学力≠ェ大
    きな力であることに基本的には変りはない。
「社会」においても、スタート時点では学歴で人
    間を判断する。学歴をチャンスの基準としている。
「社会が求めている」「実力」は、そのあ
    とで判明するものである。但し、学歴だけの人間の蔓延で、そのような人間を基準とした実
    力≠セから、結果的に学歴だけを追い求めていればいいという悪循環社会となっている。そう
    である以上、
「学力をつけるために塾通いさせる」流れに変化は望めないだろう。「学力」
    先に「
学歴」を常に見据えた塾通いの構造に変化はないだろう。
 I――一律三十人学級はできないか。
  「財政との兼ね合いもある。一律にやると、一兆円かかる。それで確実に教育成果が上がるとい
   う立証もない。ただ昔と違って、今はクラスが砂のようにバラバラで、四十人いれば四十通りの
   対応を考えないといけない。その意味で小人数学級も一概に否定しない。理解度に差がつきやす
   い科目とか小学一、二年生を20人にすれば目的はかなり達成できると思う」
 Iに対する≪考察≫
    ◆
確かに20人学級にすれば、「理解」に手の掛かる子への時間消費が相対的に低下し、授業
    の進行時間が早まる。だが、
「先に進む子は進」ませる教育は、「理解度に差」をつける教育
    に他ならないはずで、それを補うとしたら、理解度が同じ程度の生徒でのクラス編成となり、
    結果的にクラス単位での理解度に格差が生じることを招く。クラス内の
「理解度に差」をつけ
    まいとして、学校は常にテストで生徒の理解度を把握し、
「理解度に差」が出た場合、相対的
    に理解の低い生徒をそのクラスから外して、その生徒に見合った、より低い理解度のクラスに
    入れるという差別化が起こらないか。
 J――「奉仕活動」の具体的内容はどう考えるのか。
  「既に小中高、いろいろな学校で、総合学習や道徳の時間で行われている。活動すると必ず成果
   が上がるという。だから、学校のなかで全員参加でやることはまったく問題がない。ただ十八歳
   の奉仕活動は、中央教育審議会に諮問し、具体的なメニューを並べて、国民の判断を仰ぐという
   手順を踏みたい」
 Jに対する≪考察≫
    ◆
「教材や教え方など、上から与えられた授業」(A≪「ゆとり教育」に関する町村信文部
    科学相の考え≫
の構造とは、「与えられた」マニュアルをなぞり、それを生徒になぞったな
    りに受け渡し、生徒も
「上から与えられた」知識を教師同様の受容形式でそのままの形で頭に
    蓄積する「暗記教育」をプロセスとしている。そのような知識伝達を体質としている教師・生
    徒が、
「奉仕活動」でなくても、どのような「活動」でも、「上から与えられた」ものをなぞ
    る形式から免れられるはずはなく、
「自分でものを考え、行動できる力を育てる」A≪「ゆ
    とり教育」に関する町村信文部科学相の考え≫
)ことにつながることはないと断言できる。
    自律(自立)≠ニは正反対の同調・従属$ォをなおのこと育むだけのことである。そのよ
    うな同調・従属性≠フ線に添ったものとして、
「必ず成果が上がるとい」っているだけのこ
    とではないのか。
 K――小中高の活動は「奉仕」に限らないのか。
  「サマーキャンプも体験活動かもしれない。それもいいが、やはり人のために働くことが大切だ
    」
 Kに対する≪考察≫
    ◆
「上から与えられた」形式に支配された「人のために働く」構造の「奉仕」とは、判断力の
    停止・排除を介在させることによって成り立つ構造のものとなる。いわば無定見・無条件の言
    いなりの同調・従属を公式とすることにより、それを
「全員参加」に及ぼすことは、一種の全
    体主義を施すことに等しい。例えそうであっても、軍国主義を強制するわけではない、老人ホ
    ームで介助とか介護を通して
「人のために働くこと」を学ばせるのだから、不都合はないと言
    う者もいるだろうが、
「上から与えられた」ことを自己の判断を介在させずに無定見・無条件
    になぞる行動様式を日常的に一層色濃く習慣としたとき、例え会社が社会正義に反する不正行
    為を命じたとても、会社のため≠セけを正当化の理由に言いなりに従うことになるだろうし
    、例え国が誤った主義主張を掲げたとしても、盲目的に信じ受入れ、国の方針通りの行動を行
    うことになるだろう。具体的に言えば、会社ぐるみで総会屋や暴力団に不正利益供与を行って
    も、誰も異義も忠告も申立てないままに引きずられる従来の企業倫理を繰り返すだろうし、将
    来、どこかの国と外交上険しい関係となったとき、声高な強硬な声に付和雷同的に引きずられ
    、そのことだけがお国のためだと考えて、却って国の安全を危うくすることもあるだろうとい
    うことである。また、形式に支配された如何なる行動も、如何なる意思表示・自己主張も、「
    自分でものを考え、行動できる」主体性・自律性(自立性)とは如何なる場合でも相反する行
    動態様だと言うことである。
 L――不適格教員の配置転換が論議を呼んでいるが、何をどう評価するのか。
  「先生に不向きな人の存在は、校長や職場の同僚、本人もよく分かっている。判断基準を何か示
   したいが、法律に書くのは難しそうだ。逆に優れた先生には、表彰や特別昇級の基準を練ってい
   る。二年後から始めたい。、要は一生懸命にやる先生に報いたいということだ」
 Lに対する≪考察≫
    ◆
言葉を少し変えてみよう。「首相に不向きなのは、永田町の住人だけではなく、世間の人間
    もよく分かっているにも関わらず、、本人だけが分かっていなかったために森クンは得意満面
    で首相にまでなった」
かくかように、組織の中にあって出世する人間は一般的にハッタリや押
    しの強い人間、政治屋的立ち回りの巧妙な人間と大体において相場が決まっている。強面(=
    威嚇)を武器に生徒を威圧し、それで秩序を維持することで指導熱心とされる教師、上司にお
    もねり、後輩には何様態度で自分を押しつけるカメレオン教師――森首相の例を出すまでもな
    く、政界を見まわせば、納得のいく答をいくらでも見い出すことができる。強面と愛想のよさ
    を使い分けたハッタリ人間の、参院のドンと言われるまでに出世した村上正邦(KSD疑惑の
    露見により、所詮カネとハッタリを武器としただけの政治家と正体を暴露するに至った)、同
    じく強面と押しの強さと金銭的不透明を抱えた亀井何とか、状況に応じて平気で節度を変える
    野中広務、小渕入院時と森後継決定時の密室での不透明な対応の参議院議員青木何とかetc.etc
    .――みな知性や哲学に無縁の雰囲気の持主たちである。だからこそ、五人組≠ニかドン
    とかの名称が何よりも似合うのだろう。大体が学校校長からしていじめ自殺が起きると、「命
    を大切にしよう」と馬鹿の一つ覚えのことしか言うことのできないお粗末な知性と哲学人間が
    殆どである。そのような人間がトップに立つ組織で、教師評価がまともにできるだろうか。プ
    ロ教師と名乗る教師の、時代錯誤的で無思想な著作が売れ、プロでございますと世に憚ること
    ができる社会なのである。もって知るべしだろう。
 ≪新聞解説≫
 
 ゆとり教育――「文部科学相は1970年代後半以降、「詰め込み教育」の反省から、子どもにゆと
          りを与える方向で教育改革を進めてきた。
           2002年度から小中学校に本格導入される学習指導要領では、教科教育の内容を
          約3割減らし、完全週休二日制に変える。絞り込んだ内容の定着を図る一方で、
          
知識だけではなく、子どもが主体的に課題を見つけて、自分で考え学ぶ力を身に
          つけることを主眼に置いた。
「総合的な学習の時間」はその目玉で、一律の指導
          内容や教科書がなく、各校でテーマを決め、体験学習を中心に行う授業だ。
           新指導要領については当初、教育内容の削減ばかりに注目が集まった。大手進
          学塾は「学校では台形の面積の公式は教えない」などと宣伝に利用した。一方で
          、子どもの学習意欲の低下や、大学生の「学力低下」が指摘され始めた。
           文部科学相は一月、今後の教育改革の進め方を示した教育新生プランを発表し
          た。小人数指導などで基礎学力を向上させることを第一項目に掲げ、全国的な学
          力調査を計画し、指導要領の枠を超える授業も認めたことは変化である。
           こうした動きが
「ゆとり教育」の「抜本見直し」と一部で報道された。「知識
          より考える力」という路線そのものの転換かと、教育委員会から問い合わせが殺
          到。
           同省が「従来と何ら変らない」と説明に追われる事態も招いた。


 B≪「奉仕活動」に関する文部科学相・町村信孝発言(「朝日」2001/2/3夕刊)
  
「記者団との懇談で、大学への9月入学を一般化すべきでだとの考えを示した。その結果、高校卒
  業後に半年の余裕ができ、「3、4ヶ月奉仕活動をするのもいい」などと述べた。
   また、奉仕活動の例に自衛隊入隊を挙げ、「3ヶ月でぐうたら息子が変るという、日本にはそう
  いう場がない。体験入隊とは言わないが、もうちょっとソフトなプログラムがいくつもつくれるだ
  ろう」とも話した。
≪考察≫ ――(HP「市民ひとりひとり」第37弾「コラムAREKORE」を参照されたい)
   ◆
「体験入隊とは言わないが、もうちょっとソフトなプログラムがつくれるだろう」は、自衛隊
   体験入隊の枠内の「ソフトなプログラム」なのは、「3ヶ月でぐうたら息子が変るという、日本
   にはそういう施設がない」という言葉が証明している。大体が、軍隊を根性を叩き直す最良の空
   間とする考え方自体が、もはや時代遅れの想像力と言わざるを得ない。


C≪「総合学習」で「生きる力」育て、子どもは変るか
         (4人の小学校教師による座談会から)(「朝日」2000/12/22朝刊)
  @――子どもたちの「生きる力」を育てる・・・・そんな目標を掲げた新たな授業「総合学習
     の時間」が2002年に始まる。・・(中略)・・総合学習で、学校は何をするのか、子
     どもはどう変るのか。

  
「地に付いた学習にするために必死に模索中といったところ」
  
「ともかく始めて見て、方向性を見つけようという感じ」
  
「文部省の例示集とは違うことができるはず。子どもたちとの関わり合いの中で始め、失敗から
   学ぶことも大切だと考えている」
  
(女性)「学校独自の教育目標、地域に根差した学習など、これまで学校がしてきた様々な活動
   を結び付けて、総合的な学習にしたらいいのではないかと話し合っている」
 ≪考察≫
    ◆
「失敗から学ぶ」と言っても、時間は止まっていてくれない。失敗された子どもたちにと
    っては貴重な時間の浪費となる。
「与えられたもの」をなぞる一方通行形式の教育を悪しき教
    育慣習としているのである。
「総合学習の時間」に限って、そこから放り出されたとしても、
    悪しき慣習≠断ち切れるのだろうか。
97年導入の「新学習要領」における教科書のない
    
「ゆとりの時間」に何をしていいのかうろたえ、文部省に訴えて、「体力増進」とか「地域の
    自然や文化に親しむ」といった例を示してもらったところ、各学校とも
「上から与えられたも
    の」
の範囲内で画一化してしまったという戦争犯罪を侵しているのである。いわば学校・教師
    は一度、
「自分で考え学ぶ力」を試されているのである。そしてそれに応えることができなか
    った成果が、なお一層の教育荒廃と暗記学力の低下なのである。学校・教師自体が文部省に手
    取り足取り状態で面倒を見てもらわなければならないのだから、学校・教師が児童生徒に対し
    て自律(自立)教育の類はできようはずもない。自らの自律性(自立性)の欠如をまず時間を
    掛けて話し合うことから出発すべきだろう。
の見解は、役人のつくった文章そのままの、綺    麗事を内容としたものである。
     学校・教師は再び、
「自分で考え学ぶ力」を試されることとなった。それを解決しないこと    には、何も先には進まない。
     大体が最初から教師が、親も含めて、さらに政治家も含めて、世のすべての大人が
「自分で
    考え学ぶ力」
を身につけていたなら、そのような才能(能力)は自然発生的に子どもたちに伝
    わり、自然発生的に身についていくはずである。親や世のすべての大人を含めた教師の、
「上
    から与えられたもの」
をなぞり伝えるだけの一方通行の機械的な意思伝達を受けた、子どもた
    ちの機械的な受容があるのであり、それが暗記教育を可能としているメカニズムなのである。
    となれば、暗記教育の放棄を出発点としなければ、
「総合学習」は生きてこないことになる。
  A――みなさんが実際に総合的な学習を試してみて観じたことは。
  
「野菜のルーツが身近にあることに気づいてもらおうと、地域の荒川べりの野草を摘み、みなで
   調理して食べました。理科でも家庭科でもない、総合的な学習だとこんなこともできるのだと思
   いました」
 ≪考察≫
    ◆
様々な内容の授業が可能ではある。だが、どのような授業であっても、いや、「総合学習」
    以外の授業であっても、「自分で課題を見つけて、自分で考え学ぶ」プロセス(手順)を原理
    としなければならないはずである。それをわざわざ
「総合学習」の時間を設けて、「自分で課
    題を見つけて、自分で考え学ぶ力を身につけさせ」
ようと、学びにおける自発性と主体性の獲
    得・発揮を植えつけようとしなければならないのは、教育の自己矛盾でしかないのだが、
「総
    合学習」
の授業であるからには、その原則を厳密に採用しなければならない。「野菜のルーツ
    が身近にあることに気づいてもらおうと」
と、教師がお膳立てするのはいい。食用可能な野草
    の名前と、キャベツとかほうれん草といった野菜が品種改良され大量栽培される以前の昔の人
    、あるいは戦争中と戦後間近の食糧難の時代の多くの日本人がこういった野草を食用としてい
    たといったことについて、その調理法も含めて、生徒がその調べに教師から
「与えられたも
    の」
としてではなく、主体的にどれほど関わったかが重要なはずであるであるのに、ただ単に
    「何々しました」の説明で終わっている。大体が、
「理科でも家庭科でも」してもいい内容の
    ものである。想像力が働かなかっただけのことだろう。
     殆どの子どもたちにとっては初めてだったに違いない貴重な体験だったろうから、しかも教
    室という酸欠空間≠ゥら空気一杯の自然の中に解放されたのである。いつまでも許される性
    質のものではない、生徒の面白い、珍しい、楽しいを有意義だったと自己評価を下したなら、
    成果は覚束ない
「総合学習」とならないとも限らない。
  「昨年の五年生でサケを卵から稚魚に育て、父母の引率で福島県まで行き、川に放流した。子ど
   もたちの関心は、サケが本当に4年後、再び川に戻ってくるかということです。中学生になって
   も心にとどめてくれる活動ができたことがうれしい」
 ≪考察≫
    ◆
サケの生態がどのようなものか、またそれを調べる方法は生徒各自の才覚に任せて調べさせ
    、サケの回遊性・母川回帰性、生育範囲、年ごとの収穫量、サケを漁業とする国、あるいは日
    本や世界の国々の食用方法(新巻きなど日本独特の改良素材ではないか)等々、それぞれが提
    出した異なる内容のレポートを教師を交えて生徒が相互に検討・評価する――そういった
「自
    分で課題を見つけて、自分で考え学ぶ」
プロセスまでお膳立てしたのだろうか。しなかったと
    したら、表面的な体験で終わる。

  「一学期のプール清掃でヤゴがいることを発見したことから調べ、学習に進み、さらにトンボ池
   をつくることになった。学校全体を巻き込む活動に発展し、手応えを感じている」
 ≪考察≫
    ◆
卵から稚魚に育て」たサケを「放流」する学習≠ニ同様に、「自分で課題を見つけて、
    自分で考え学ぶ」
プロセスに生徒をどこまで介在・関与させたか、どれ程の成果を得たのか、
    そこに掛かっているはずであるが、そのことへの言及が何もない。
  「一、二年生の低学年では、生活科が総合的学習に移行する。担任する二年生では、祖父母との
   ふれあいをテーマにして、子どもたちのおじいちゃんおばあちゃんを音楽室に招待するなど、身
   近なところで展開することができた」
 ≪考察≫
    ◆
「招待」「自分で課題を見つけて、自分で考え学ぶ」ロセスと、どう結びつけたのか、
    その成果への手がかりを見い出し得たのか。「君たちの何年後の姿だよ」とでも指摘すること
    をしたのか。「何年後には、君たちはどんな生活を送り、どんな姿となっているか」、それぞ
    れに問いでもしたのだろうか。さらに、「どんな老後を送りたいか」、そういったことをそれ
    ぞれに発表させたりして、1人の発表に対して、他の生徒に感想を聞いたりしたのだろうか。
    教師のアドバイスで生徒同士が言葉を闘わせ、その過程で考えさせる習慣を身につけさせなけ
    れば何の意味もない。従来の授業とさして変らない。
 B――教科と総合的学習では、子どもたちの反応は違いますか。
  
「体験が土台にあるので、子どもはいきいきします。教科書だけでは、今の子どもを集中させる
   のは難しく、体験学習が不可欠なのですが、これまでは残念ながら時間が足りなかった。総合的
   学習はその不足を補ってくれる」
 ≪考察≫
    ◆
「総合的学習」で、「体験学習」を経験できて、生徒が「いきいき」したとしても、その分
    、一般の教科授業が相対的に一層退屈でつまらなくなる危険を抱えることになるだろうから、
    「教科書だけでは、今の子どもを集中させるのは難し」いなどと言ってはいられないはず。子    どもが、「総合学習」で生きいきするのは、教室(一方通行の暗記教育)からの解放が主な理
    由であるはず。外で生きいきできる程(野外授業で解放感を味わう程)、その反動として、教
    室の授業が閉塞的・抑圧的なもの――いわば現在以上に退屈でつまらないものと受止めたとし
    ても、ある種必然の成り行きといえる。
  「子どもが自発的に『ごみ拾いをしよう』と言って始めても、やっているうちに服が汚れたりい
   やな思いをすることが出てきますよね。実はそこから本当の総合的学習が始まるのではないでし
   ょうか」
  
「そう、『言われたからやっている』では困るわけで、あらゆる場面で子どもの声からきっかけ
   をつかむことが重要。それを待てるかどうか、教師の力量が問われています」
 ≪考察≫
    ◆
「子どもが自発的に『ごみ拾いをしよう』と言」い出したとき、なぜ、ごみ拾いをしようと
    思い立ったのか、なぜ、ごみ拾いが必要なのか、なぜごみ拾いをしなければならないのか、生
    徒に問い、生徒同士で言葉を闘わせたのだろうか。生徒の誰かが、誰かがごみを捨てるから、
    拾わなければならなくなると言ったなら、教師が、「なぜごみを捨てるのでしょうね」と新し
    く問題提起をするといったことをしたのだろうか。その上で、ごみ拾いに入る。勿論、
「言わ
    れたからやっている」
という生徒も、みんながやるから自分も仕方なくやる生徒も、「服が汚
    れたりいやな思いをする
」生徒もいるだろう。しかし、「いやな思いを」しない生徒もいるは
    ずである。
「あらゆる場面で子どもの声からきっかけをつかむことが重要」と言っているが、
    不平不満を抱えていたとしても、
「声」に出さない生徒もいるはずである。生徒それぞれの反
    応が異なることは既定事実として、
「きっかけを」待たずに「ごみ拾い」に対するそれぞれの
    思いを表明させることも教師の務めであろう。つまり、ごみ拾いを終えたあと、教師は、感想
    を訊ねたのだろうか。単に聞いて終わらせるのではなく、「今の感想について、何か意見のあ
    る人は」と、お互いに批評しあったりするよう言葉の闘わせを誘導することによって、それぞ
    れの考えを引き出し、相互にそれぞれの考えを知る自己認識・他者認識の訓練にまで意図的に
    持っていけたのだろうか。さらに、「拾ったごみはごみ集収日に指定された場所に出すけど、
    それからはどうなるのでしょう」と問い、詳しく分からないようだったら、調査方法は教えず
    に、自分で見つけるようにさせて、調べさせ、その調査事項を後日それぞれ発表させ、相互に
    検討させるよう持っていったなら、
「自分で課題を見つけて、自分で考え学ぶ」主旨に合致さ
    せることができる。「人は人目がたくさんあるところでは捨てないのに、人目がないと捨てる
    のはなぜなのだろう」と問い、検討させることも必要だろう。「すごくきれいになった、よく
    やったわね」、「たくさん拾ったわねえ。こんなにも落ちているものなのね」で終えてしまっ
    たのだろうか。「みんながやるから仕方なくやる」、あるいは、
「言われたからやっている」
    という人間は自分からそういう人間だと表明することはまずないだろうから、教師の方から、
    「そんな人いたかしら」とそれとなく訊ねることも必要かもしれない。

  「教師の自由な発想と子どもの興味が重なる部分でやっていけばいいんじゃないかと納得しまし
   た。25年教師をやってきて、やっと教科書に縛られない授業ができるようになった。とはいえ
   、自由にやるというのは、とても難しいことだ」
 ≪考察≫
    ◆
「教師の自由な発想と子どもの興味が重」ならない「部分」は例え重要なことでも、放置し
    ておくのか。暗記教育を専門としていて、
「教師の自由な発想」が期待できるのか。教師が重
    要なことだと思ったなら、適宜誘導することで
「子どもの興味」を引出し、知識としていくこ
    とも、教師の務めのはず。
「25年教師をやってきて、やっと教科書に縛られない授業ができる
    ようになった」
と言うのも、情けない話。どのような授業でも、必要に応じて臨機応変に教科
    書から離れ、子どもの知識と感性・想像力の育みに寄与するのも、教師の資質に必要な事柄の
    はず。「
25年」も「教科書に縛られ」る教師が一般的だから、日本人の創造力(想像力)の
    不足・欠陥が言われるのだろう。

  
「だから現状では、文部省の示した四領域や例示集に添ってやってる学校が多いんです」
 ≪考察≫
    ◆
五十歩百歩のことをしているのだから、他の例についてとやかく言う資格はない。所詮、
    上から与えられたもの」
をなぞる方法ででしか真似できないのだろう。
 C――他の教科との関連は?
  「総合的学習ができることで、教科が面白くなくなったのでは本末転倒です」
 ≪考察≫
    ◆
現在でも「教科が面白くな」いのである。私語・席立ちがなくても、暗記教育、あるいは学
    歴獲得のためという受身の、自分から学ぶ&向性を持たない、あるいは持てない教育であ
    ることに変りはないのだから、心の底からの達成感・意欲は満たしようもないのである。
塾に
    通うこと自体が、学校教育が学び≠ニなっていないことの証拠なのである。
「本末転倒」
    どと言う前に、自分たちがしている教育の実態に目を向けるべきだろう。
  「現場では総合的学習と教科を関連づける努力をしています」
 ≪考察≫
    ◆
当然のことだが、これまでの「教科」を暗記教育とするばかりで、そこに「総合的学習」
    加味できなかったのだから、
「指導要領」の主要な一部に用意されたからといって、「関連づ
    け」
に期待できるかどうか。
  「総合的学習の中に教科の要素があるとも言えますが、教科では算数の計算のようにきちんと順
   序を追わないとできないことも多く、手法も内容も違って当然でしょう」
 ≪考察≫
    ◆
だから、何だって言うのだろう。「総合的学習」にしても、一般教科にしても、生徒に興味
    を持たせ、生徒の
「考える力」を育むことを至上命題としなければならない。「考える力」
    伴わない、暗記学力はさして意味はない。活力を伴わない形だけの知識に過ぎない。
  「指導要領の改定で削減される部分に不安を抱いている。例えば、算数では三けたに二けたを掛
   ける掛け算ができません。いろんなパターンの計算をこなすためには、三けたまで必要なのに、
   その基礎もやらないまま中学に行くことになります。指導要領を改定した結果についての研究が
   必要です」
 ≪考察≫
    ◆
何けたの計算であろうと、掛け算の原理を覚えさせたら、問題ないのではないのか。あとは
    生徒が、「
自分で考え学ぶ力」を自分のものとしたなら、自分なりに考え、計算して見て、自
    分なりに答を見つけていくはずである。原理を教えておいて、「
三けたに二けたを掛ける掛け
    算
」を試しに出題して、「教えられないことでも、自分で考えてやって見て欲しい」と、すべ
    てを任すのも、
「自分で考え学ぶ力」を養う手助けとなるだろう。何から何まで教えるという
    のは、
「自分で考え学ぶ」というプロセスに反する。暗記教育だから、必要なパターンのすべ
    てを訓練づけなければならないことになる。
  「中教審は教養教育のまとめで、読み書き計算をしっかりやるべきだという方針を出した。総合
   的学習が子どもの生きる力を育て、日本を変えるとしてきたのに、その視点がぶれ始めている感
   がある」
 ≪考察≫
    ◆
この程度が学校教師の想像力なのだ。「読み書き計算」か、「子どもの生きる力を育て」
    か、二者択一というものではないはず。
「読み書き計算」教育を通して、「子どもの生きる力
    を育て」
る。また、その逆もあり。その相互作用と、相互作用を通した相乗効果を理想とすべ
    きだろう。二者択一としていることに問題がる。
基礎学力を暗記型知識で完成させていること
    が、
「読み書き計算」教育から「子どもの生きる力」につながらない大きな要因であり、その
    ことがまた、二者択一観を生じせしめていることに気づかない。

 D――最後に、具体的に取組む際の、自治体からのバックアップや地域の活用についてお話くだ    さい。
  「墨田区では伝統工芸師などボランティアで協力してくれる人の一覧があります。講師代5千円
   が10人分出るという支援もとてもありがたい。
  
「地域の人たちにゲストティーチャーになってもらうと、総合的学習に対する地域の関心が高ま
   るという効果もあります。保護者の方々は喜んで協力してくれることも分かりました」
  
「学区を自由に選べる学区の自由化が進むと、公立でも特色を出せない学校は生徒が集まらなく
   なるが、特色づくりに総合的学習が利用される現象が出ている。実際に1年生の入学が多い学校
   と少ない学校の偏りが出て、問題になっている地域もある」
 ≪考察≫
    ◆
ボランティアで」何人「協力してくれ」ようと、「保護者の方々は喜んで協力してくれ
    ようとも、生徒が
「自分で考え学ぶ力」を身につけるという方向に添った実践が行われなけれ
    ば、意味はない。地域の人間が自分の専門について話し、話す方も聞く方も、専門の話だから
    間違ったことは言っていないという思い込みのもと、その範囲内で質問を求め、あるいは感想
    を書かせる。いわば、最初から批判や提案を排除・無視した、話し、話したものをそのままの
    形で受入れる形式の、質問も感想も、役に立った、面白かったレベルの肯定一方のさしさわり
    のないコミュニケーションなら、今までの一般教科教育と本質的には変化はないことになる。
    
「自分で考え学ぶ力」も、「生きる力」も、身につけることができるかどうかも覚束ない。
    自分で考え学ぶ力」「生きる力」は自己対自己、自己対他人が徹底的に言葉を闘わすことに
    よって獲得できる自己認識能力・他者認識能力から生まれるという原則さえつかんでいない。
  「公立の役割は、学校が家の近くにあって、平等に教育が受けられることにあるはずですが・・
   ・」
 ≪考察≫
    ◆
まだそんなことを言っている。いくら「平等」でも、内容が貧弱なら、家からの距離は問題
    ではなくなる。程度の低い自己正当化(自己擁護)でしかない。
  「総合的学習の時間があることで、どこの学校に行っても、子どもの個性を尊重し人格を大切に
   してくれるという方向に道が開けるといいんですがね」
 ≪考察≫
    ◆
綺麗事を言っている。「総合的学習の時間」があって初めて、「子どもの個性」「尊重」
    され、「人格」「大切」にされると言うことになる。「子どもの個性」「人格」「尊重
    」
は、「総合的学習の時間」とは無関係であるし、無関係でなければならないはずである。そ
    ういったことも気づかずに教師している。子どもはたまったものではない。上から一方的に押
    しつける暗記教育で、子どもの意見表明や疑問表明の発散を抑圧する人権侵略(
「子どもの個
    性」
「人格」の抑圧・無視)の戦争犯罪を犯してきて、いまだ総括できないのである。「総
    合的学習の時間」ができようができまいが、戦後の日本を民主主義でどう飾ろうとも、戦争を
    きちっと総括し、謝罪すべきは謝罪すべきを、そうできずに自己正当化に囚われている自民党
    政治家同様、日本の教師は厳密には
「子どもの個性を尊重し人格を大切に」する「方向に道が
    開け」
ることはないだろう。
  
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
安野功文部省初等中等教育局小学校課教科調査官に聞く「大胆な発想の転換、校長も現場も必要」
 ●――今なぜ総合的学習なのか。その狙いと込められた期待は何か
  「子どもたちが学校で学んだことが日常生活の中で生かされ、その経験が学習を豊かにするとい
   う相互作用が失われつつある。自然や地域、人との触れ合いなどから培われる感性や心の豊かさ
   を取戻すために、知識の詰め込みではない新しい発想の時間が必要。多種多様な体験を通して学
   び、自分の頭で考える、それが総合学習の狙い。学校で学んだことが子どもたちの生活に結びつ
   いて、子どもたちが主体的に生きいきと生活してほしいとの願いが込められている」
 ≪考察≫
    ◆
子どもたちが学校で学んだことが日常生活の中で生かされ、その経験が学習を豊かにする
    という相互作用が失われつつある
」と言うが、かつて「相互作用」が働いていた時代があった
    と言うのか。日本の教育は歴史的伝統的に画一的・機械的暗記教育だったのである。そのよう
    な教育を今まで許していた大きな理由は社会の非情報性と人権意識の希薄性を挙げることがで
    きる。しかし戦後急速に社会は情報化と権利意識化に進んだ。ところが人権や権利に関しては
    タテマエ、あるいはスローガンの役目しか果たさなかった。日本人は集団主義・権威主義の行
    動様式・思考様式から抜け出ることができず、実質的には大人は管理という名の支配原理で子
    どもたちの人権・人格・意志・考え・主張を無視・抑圧している。いわば・情報が与える人権
    と現実社会の人権の実態との乖離が、子どもたちに反撥・反逆の正当な告発の方法を教えられ
    ていないために、私語・席立ち・授業放棄といった歪んだ形を取った問題行動となって表れ、
    現在の教育矛盾を生じせしめているのである。ゆえに、子どもへの管理≠やめ、教師対生
    徒が対等の人間関係、対等の意志伝達関係・対等の知識授受関係を確立できたなら、何も「

    合学習
」など持出すまでもないことなのである。持出さなければならなかったのは、教師対生
    徒の関係が精神的・心理的に対等の人間関係、対等の意志伝達関係・対等の知識授受関係にな
    かったからに過ぎない。さらに言えば、「
総合学習」を大仰に持出したとしても、教師対生徒
    の関係が従来どおりなら、絵に描いたモチに終わるだろう。
 ●――総合的学習ではテーマの選択から、指導方法まで、各学校に一任されていることに戸惑い
    や混乱があるようだが。

  「テーマ捜しの手順を示している都県もある。最初は各学校での話合い。まず各学校の教育目標
   を見直す、言い換えれば、
「どういう子どもに育てたいか」を再確認する。その上で、実際の子
   どもはどうなのかを考えてみる。さらに保護者や地域の願いは何か、地域の特色は何かなどを話
   し合う――そういう中から見つけていって欲しいです」
 ≪考察≫
    ◆
「どういう子どもに育てたいか」は、大人の子どもに対する支配・強制を示すものである。
    子どもの自律(自立)・主体性を言いながら、それは単なる言葉にとどまり、子どもの個性や
    可能性・人格を無視した、飼い馴らし思想に則った子ども観でしかない。これは従来の暗記教
    育が教師から子どもへの一方通行を原理としてきたのと同じ構造を成すもので、暗記教育が成
    り立ってきた以上、当然の成り行きとしてあるものである。
     どういう子どもになるか=\―と言うよりも、
どういう人間になるかは、子どもそれ
    ぞれが
「自分で考え学」んで、自分で決めることで、それか「生きる力」と言うものである。
    大人ができること・すべきことは、
「自分で考え学」ぶ判断力・認識力を育める環境を準備し
    、育む道筋をつけること以外はないはずであるし、そのことのみを行うべきなのである。いわ
    ば、決して、「上から与えたもの」、「上から押しつけたもの」の類ではあってはならない。
     「自分で考え学」ぶ判断力・認識力は当然、批判精神を重要な因子としなければならない。
    言うまでもなく、批判精神なき判断力・認識力は自己矛盾を侵すもので、認めることはできな
    い。また、自分の言葉を持たない、あるいは自分の言葉をつくらない批判精神というものも存
    在しない。いわば
「自分で考え学ぶ」とは、自分の言葉をつくり、持つことである。今までの
    ように生徒それぞれの言葉を無視・抑圧した一方通行形式の管理型教育からは
「自分で考え学
    ぶ力」
は育たない。当然、教師・大人がそのような教育意志から離れることができなければ、
    総合学習≠セといくら大騒ぎしようと、どういじくりまわそうとも、大山鳴動という運命に
    至るのではないか。
 ●――学習指導要領に「国際理解」「情報」「環境」「福祉・健康」を例示したり、全国の研究
   指定校で実践された「事例集」を発表した経緯は、学校や教師がそれに縛られる恐れはな
    いでしょうか。

  「総合的学習は各学校が作り上げるものであり、学習指導要領に示しているのは、あくまで例示
   です。事例集は単元開発の方法や手段などのヒントにしてほしいと思う。『環境』などは例示だ
   から、例えば空きカン拾いの活動から地域について新しい発見があり、そこから子どもが自らの
   問題を見い出す、そうしたことを大切にしたい。そんな子どもが自らを追求する中で、地域の自
   然とどう関わっていったらよいのかなど、自己の生き方を考えてほしい。
 ≪考察≫
    ◆
意図はそれなりに立派なものを含んでいるが、学校・教師が例え「例示」に過ぎなかったと
    しても、
「事例集」を必要とするのでは、子どもに教えるべき「自分で考え学ぶ力」を自らは
    身につけていないことを示す。
「総合学習」の中心課題が「自分で考え学ぶ力」の育成なら、
    それをキーワードに各学校それぞれに独力で、何をなすべきかを創造するのが、学校・教師の
    創造力と言うものであり、学校教育者である以上、本来的に備えていなければならない能力の
    はずである。現実は大違いだからこそ、今さらながらに
「自分で考え学ぶ力」の教育を日本の
    教育に持込まざるを得ないのである。
     となれば、子ども・生徒の
「自分で考え学ぶ力」の育成以前に、教師の「自分で考え学ぶ力
    」
の育成に取組むべきであろう。
     
「事例集」を与え、それを必要とする文部省対学校・教師の関係と、授業が教科書の内容を
    ほぼそのままの形でなぞって伝え、それをほぼそのままの形で暗記する教師対生徒の関係は、
    相互に対応するものであろう。事は生徒や学校や教師や文部省の問題ではなく、日本人全体の
    問題、日本人全体の人間関係・意志伝達関係の問題なのである。政府や省庁と、銀行を含めた
    企業との関係、国と地方自治体の関係――すべてが対等の関係ではなく、下は上の指示に従う
    上下関係で成り立ち、そのために、下の上からの指示に従う同調・従属が
「自分で考え学ぶ力
    」
を奪っている、あるいは必要としないでいるのである。戦前の全人口総軍国主義化も、同じ
    原理から生じたものである。人間における尻尾は生存上必要としなくなったために退化したも
    のだが、日本人における
「自分で考え学ぶ力」は最初から存在しなかったもので、存在しない
    ままに現在に至っているのである。
     日本人の人間関係から上下関係をなくして対等のものとし、批判すべきは批判し、異議申立
    てすべきは異議申立てをする。そのような関係を相互のものとすることによって、初めて
「自
    分で考え学ぶ力」
は育つのである。例え、「空きカン拾いの活動から地域について新しい発見
    があり、そこから子どもが自らの問題を見い出す、そうしたことを大切にし」
「そんな子ど
    もが自らを追求する中で、地域の自然とどう関わっていったらよいのかなど、自己の生き方を
    考えてほしい」
と願ったとしても、教師と生徒の間に下は上の指示に従う上下関係の力学が働
    いたままなら、大方の生徒は
「自分で考え学ぶ」ことはせず、言われたことをするだけにとど
    まる確率は高いと言わざるを得ない。
 ●――総合的学習が「ウチは率先してやっています」という、校長先生の「実績づくり」になっ
   ているという声も、現場では聞かれます。

  「校長のリーダーシップは、『どういう子どもに育てたいか』という議論を教師たちと深め、教
   師と総合的学習の調和の取れた特色ある教育課程を実現するために発揮されるべきです。学校が
   一つになって新しい学校づくりという課題に取組み、学校を創意工夫に満ちた学びの場にしてい
   かないと、子どもも変っていかないでしょう」
 ≪考察≫
    ◆
「校長のリーダーシップは」、どうプログラムしたら、生徒の「自分で考え学ぶ力」を育め
    るだろうか、
「議論を教師たちと深め」ることに発揮されるべきものだろう。その最良のプロ
    グラムについて。
     そのような理想を実現させるためには、やはり教師対生徒の関係を精神的・心理的に対等の
    ものとすることを出発点としなければならない。勿論対等とするには、校長対教師の関係、先
    輩教師と後輩教師の関係が精神的・心理的に対等であることが前提となる。対等となることに
    よって、上からの押しつけ・おぜん立てではなくなり、下は自分で考え、自分で決めなければ
    ならなくなる。「総合学習は、校長の実績作りのためにあるのではないのですよ」ということ
    も面と向かって言えるようになる。そのようなプロセスを踏めてこそ、教師の
「自分で考え学
    ぶ」
自己認識・自己判断・自己決定の意志と意識(いわば態度、あるいは行動様式)は自然と
    生徒に伝わり、生徒自身の
「自分で考え学ぶ力」の獲得につながり、当然それは「生きる力」
    へと高まっていくはずである。
 ●――総合的学習には、五段階評価が適用されないために評価が難しく、保護者にもその評価が
   伝わりにくい。学力低下が問題になっている今こそ、教科に力を注ぐべきではないかとい
    う声も上がっている。

  「子どものやる気や考える力なども大切な学力。豊かな人間性も大切。知識や技能も含め、子ど
   もひとりひとりの個性や成長をトータルにとらえることが必要。その意味で、『総合的学習は調
   和ある人間を育てるのに役立つ』と胸を張って言える。
    総合的な学習の時間が充実するには、まず各教科の授業を充実することが大切。教科で学んだ
   ことが、総合的な学習に生かされ、それがまた教科の学習に生かされる。この相互関連を計るこ
   とがポイント。総合的学習はその内容や手法、評価に至るまで、発想の大きな転換が必要なので
   す」
 ≪考察≫
    ◆
今までの教育、教科授業が機械的で画一的な暗記教育を専門とし、「子どものやる気や考え
    る力」
「人間性」、さらに「ひとりひとりの個性や成長をトータルにとらえる」必要性等々
    に対する視点を欠如させていたということ――いわば、
「調和ある人間を育てるのに」何ら
    役立」っていなかったこと、言い換えるなら、「人間性」育成に何ら「役立」っていなかった
    ことを暴露する主張である。一般の教科授業でそれらの資質を育めない――逆説すれば、機械
    的・画一的暗記教育のみを資質とする教師の感性・想像力からは、
「総合学習」が何を課題と
    しようと、
「各教科の授業」「充実」を説いたとしても、たいしたことは望めはしないと言
    うことである。
     くどいばかりの繰返しになるが、
「総合的学習は調和ある人間を育てる」ことを目的とする
    なら、今までの教育はそのことを目的としていなかったということになる。何という失態だろ
    う。そのくせ、日本人は優秀だなどとウヌボレてきたのである。今も多くの日本人がウヌボレ
    ている。だからこそ、碌でもない雁首を何様ヅラで揃えた政治家・役人ばかりということにな
    るのだろう。
  
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
小佐野正樹足立区立花保小教諭・科学教育研究協議会委員長に聞く「まずは基礎学力の充実を」
   「現場では既に画一化が始まっている。例えば地域のお店の人や職人をゲストティーチャーに招
   いたり、子どもを自然の中に連れ出し『自分たちが調べたいことを考えなさい』と突き放したり
   ・・・・。
    私は総合的な学習という方法に問題があると思います。『創意工夫をもとに』『多教科にわた
   って横断的に』といっても、力がなければ、上っ面だけのイベントに終わってしまう。子どもは
   喜ぶだろうが、そのプロセスに対処する教師の負担は大変なものだ。各教科の学習でも総合的な
   視点から取組んだ授業なら子どもは目を丸くするし、基礎ができていれば自分の力で総合的な考
   え方ができるようになる。でも、教師が総合的な学習にエネルギーを奪われれば、教科は二の次
   になる。新しい学習指導要領では、教科時間が三割も削減され、教科書の内容も、『人の体の学
   習』や『食物連鎖』など大切な事柄が削除され、他の範囲も大幅に限定されるなど、ますます中
   身がやせ細っているのです。反撥が起こっているのも当然のことです。
    加えて、特色づくりが学校間の競争にならないか、校長と教師の間にずれが生じないか、など
   という声も聞かれます。小中学校では、一時間たりとも教科の時間をおろそかにしない覚悟で、
   学びの原点である基礎学力の充実に心を砕くべきです」
 ≪考察≫
    ◆
下らない。「画一化」は別に驚くに当たらない。文部省の指導要領をなぞるだけの教師一丸
    となった総画一教育は、従来どおりのことだからである。そればかりか、
97年導入の「ゆと
    りの時間」
でも、既に犯している戦争犯罪なのである。所詮、文部省(文部科学省)から受取
    ったままに一方通行の意思表示・一方通行の命令・指示の形を取った教育しかできないのだろ
    う。当然の
「画一化」なのである。「各教科の学習でも総合的な視点から取組んだ授業なら子
    どもは目を丸くするし、基礎ができていれば自分の力で総合的な考え方ができるようになる」
    なら、「画一化」に流されずに最初からそのような授業を展開していたなら、文部省にしても
    、この場に来て
「自分で考え学ぶ力」などと言い出す必要はなかったはずだし、「総合的学習
    」
を設ける必要も生じない。当然、「総合的な学習にエネルギーを奪われ」ることもなければ
    、
「教科は二の次になる」こともない。してもいないこと、出来もしないことを、さも出来る
    ように言うのは詐欺であり、欺瞞を犯すことになる。
     
「教科時間が三割も削減され」「ますます中身がやせ細」るというなら、そのような内容
    を充実するのは教師の才覚と想像力にかかっている。
「『人の体の学習』や『食物連鎖』など
    大切な事柄が削除され」
ると言うが、「人間は悲しくなると、涙を流す。うれしいときも感極
    まって泣くときもある。脳のどこかを刺激されると、涙が出る仕組みになっているのだろう
    が、どこを刺激されると、そうなるのだろうか。人間の体はその他にも様々な働きをする。怒
    ったり、わめいたり、胃や腸はそうして欲しいと望みもしないのに、自分の方から消化と吸収
    の働きをしてくれたり。人間の体の仕組みは不思議なものだと思わないか』といった言葉を必
    要に応じてかけるだけで、子どもたちの感性や想像力を刺激するものである。ところが、教科
    書を機械的になぞるだけだから、何も起こらない。1+1=2式に機械的に暗記するだけだか
    ら、知識は原形のままとどまるだけで、そこから一歩も変化も発展もしない。暗記に対する刺
    激だけ働いて、知識や考えを膨らまし、発展させる方向には何も働かない結果に終わる。
「特
    色づくり」
云々も、いくら「特色」をつくっても、生徒の「自分で考え学ぶ力」の育みに役立
    たなければ何もならない。「
一時間たりとも教科の時間をおろそかにしない覚悟で、学びの原
    点である基礎学力の充実に心を砕」
いたとしても、それが「上から与えられたもの」をそのま
    まの形で暗記する学力なら、さして意味はない。
現在、内外から問われているのは、日本人の
    想像力(創造力)の問題なのである。暗記能力と想像力(創造力)とは相反する方向にある、
    相反する可能性なのは言うまでもない。想像力(創造力)を問われているということは、暗記
    教育を問われているということなのである。
日本人の想像力の欠如が10年経っても景気を回
    復できない政治家の無為・無策につながっているのである。

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