まえがき
<ゆとり教育>の多分、完成段階として目標設定したものだろう、
ゆとり教育の時間が文部省(現文部科学省)の学習要領に盛り込まれて、2002年の4月から実施の運びとなったが、計画された時点から、そのような新しい教育方法の導入が科目教育の時間を奪うことによるなお一層の学力の低下の懸念が提起された。その主張が無視し難い大勢を占めるに至って、文部科学省は遠山文部科学相の名で、補習授業や宿題を課すことで学力の低下を補う内容の「学びのすすめ」を発表して、<ゆとり教育>の事実上の軌道修正に踏み切った。
授業時間が減ることによって低下する学力とは、それが暗記(詰め込み)に依存した知識となっているからに他ならない。それに対して<総合学習>とは、自分で課題を見つけ、それを自分の力で考え、解決する能力の育みを目標とした教育のはずである。いわば、学んだ範囲を超えて、学ばないところまで自分から進んで学ぶ学習能力の獲得を意図したものであろう。教えられたことを記憶(=暗記)していく暗記教育と<総合学習>とは最初から相対立する正反対の位置にあるのである。問題はどちらを取るかである。
小泉首相の構造改革の痛みではないが、学力低下を当然と引受けなければならない過度的な痛みと把えて、<総合学習>教育を全面的に選択することによって、自分から学ぶ姿勢を土台とした学力の確保まで待つか、あるいは従来どおりの暗記(詰め込み)授業による学力の維持にウエイトを置いた教育を推し進めるか、意識的な二者択一こそが求められなければならないはずだったが、現実には表面的で即物的、なお且つ目先だけのことを把えた教育観が支配的となり、文部科学省の軌道修正となって現れた。
但し、それだけで終わらなかった。教育関係者が学力低下を強調するあまり、そのことへの強迫意識が教師・親・生徒に補習授業や塾の必要性を今まで以上に印象づける結果をも招いたのである。そのことは間接的に一層の学歴至上主義を煽ったことを意味すると同時に、<総合学習>の価値を貶め、従の位置に押し込めたことをも意味する。<総合学習>は入試に直接的には役に立たない形式的な授業に位置づけられる
に違いない。それも、当初から。そのように運命づけたのは、暗記教育主義者なのは言うまでもない。
誰も自分では暗記教育主義者だとは思ってもいないだろうが。
自分で課題を見つけ、それを自分の力で考え、解決する主体的学習能力の獲得を従とする教育とは、どのようなパラドックスによって成り立った教育なのだろうか。
つまり学力優先は高校・大学入学試験への対応、あるいは進学してからの学力状況への先読みから発した低次元の選択でしかなかった。
学校教育がテストの点を取るため、入試突破のための学力獲得を支配的な目的としているからこそ、暗記(詰め込み)授業となっているのであって、目的を果たして進学すると、勉強しなくなる状況が生じるのである。学びに関するそのような存在
形式はそのまま自分から学ぶ姿勢の裏返しを示すもので、だからこそ、その反省から、<総合学習>が論議されたはずである。
勿論、例え入試という目的を達したなら、それ以上発展しないまま推移・完結する学力であったとしても、従来どおりの暗記(詰め込み)教育に力を借りてその維持に万全を期すのも一つの選択ではあるが、自分で課題を見つけ、自分で解決する学習能力
の欠如、いわゆる想像性(創造性)の欠如は何も子どもだけに限った問題ではないことを肝に銘じなければならない。日本の政治家は個別的政策は掲げるが、それらの政策がどのように絡み合って社会の変化をもたらし、国民の利益に結びついていくかといった
全体的な将来的ビジョンを有機的に描く能力に欠けると言われているのも、また外交面においても、日本をアジアに対してどのように位置づけようとしているのか、あるいは世界に対するあるべき日本の姿をデザインして提示する戦略性に欠けると言われているのも、それらが原因して、対米関係においても、
想像的(創造的)発展に向けた能力を発揮できずに従属的な追随外交に終始している現状も、自分で考え、自分で解決する主体的で総合的な想像性(創造性)の欠如からきているもので、大人のありようを受けた子どもの自分で考え、自分で解決する能力の欠如であることに決定的に留意する必要がある。
いわばテストの点を取るだけ、入試突破だけを目的とした暗記学力の維持に腐心する教育は、世界から経済力を基礎としたカネの力は期待されても、政治的には信頼も期待もされない現状のままの想像性(創造性)を欠いた日本の姿を将来にわたって手当てし、保証する踏絵であり続けるだろうことは確実である。いや、世界第2位の経済力も、経済のグローバル化によって、アジアにおいてアメリカの後追いをする国が日本一国でなくなった現在、その地位は永久に保証されるものではなくなっている。ましてや失われた10年≠ゥらいつまでも抜け出せずに場当たりを演じるだけの
想像性(創造性)の欠如を披露するだけとあっては、なおさらに危うい地位となっていることを認識しなければならないだろう。
1.日本人に於ける人間関係式としての集団主義・権威主義
最初に日本人の人間関係から入ろう。日本の教育問題に深く関わっているからである。日本の社会は集団主義と権威主義を人間関係の秩序としている。集団主義とは自己の意志を抑圧、ときには抹殺して、集団や組織の意志に同調・従属させることを言う。いわば常に集団の意志を優先させ、自己を集団に従属させる。
権威主義に関しては、人間を上下に格付けして、上位は下位を従わせようとする意志を働かせ、下位は上位に同調・従属意志を働かせる行動性を言う。
一般的には上下関係は固定された関係ではなく、相対的関係であるゆえに権威主義的性格は一人の人間の中に支配と従属の両方向性を同時に抱え込んでいて、相手権威の強弱、あるいは上下
の地位に応じて使い分ける。例えて言えば、地位・序列・役割等の力関係の段階に従って、食物連鎖ならぬ支配と従属の連鎖に絡めとられている。多分、このような心理と行動両面にわたる支配と従属の構造は先天的な反射を土台に日常的な無条件反射の蓄積によって身についた習性が恒常化したものなのだろう。
恒常化したものであるからこそ、従属がときには従属者の忍耐を超えたとしても、一般的には直接的な批判や拒絶は伴わず、あくまでも怒りや反撥を自己規制して、表面上の支配と従属の連鎖を維持することになる。もっともこのような自己規制による忍耐は往々にして従属の反対給付としての支配の場で、反動、もしくはカタルシスの形で破綻し、そうすることによって精神のバランスを保つ。こういった精神面、行動面にわたる相対的双方向性の構造こそ、権威主義の最たる傾向と言える。
日本人における自己規制と破綻の一般的な好例として、会社で上司に叱られたり、面白くないことがあると、不愉快の発散を会社ではじっと我慢して、家に帰って妻や子どもに向ける八つ当たりがある。あるいは上司の正しいとは言えない命令・指示を面と向かっては反論一つせずに内心の不承不承を隠して引受けておきながら、同僚たちと陰で上司をバカ呼ばわりなどして自分たちよりも下の者に貶め、面白くない感情の鬱憤晴らしを図る。いわば権威主義における比較上位者に対する服従や従属が日本人の性格にある種の面従腹背性を生じせしめている。面従腹背のための自己抑圧が比較下位者に対する強い態度・尊大な態度を反動として誘発するのである。
他人を自己に従属させる。いわば支配する。それは快感である。支配の絶対化方向に進むほど、快感は増す。このような快感志向は日本人だけではなく、世界中のありとあらゆる人間が衝動として抱えているものであろう。
権威主義を簡単に言えば、「強きに弱く、弱きに強い」態度である。上の者に言いなりに接し、下の者を言いなりにする姿勢を指す。部下に傲慢な態度を取る上司、一般市民への何様態度の役人。あるいは逆に上司に卑屈な態度でペコペコする部下、中央官僚・政治家におもねる地方役人や企業上層部――すべてが集団主義・権威主義を血とし、原理として、その範囲内で行動している。だが、一般的な日常性においては権威主義は日本人にはもっと穏やかな形、ソフトな装いとして取り憑いている。
集団主義と権威主義は微妙に絡みあっている。権威主義における上位者・強者への無批判・無定見な同調・従属は集団主義における集団意志(あるいは集団を代表する者として集団上位者の意志)を優先させるために集団成員が自己意志を抑圧、ときには抹殺する心理構造と重なる。権威主義における下位者に対する従属要求、ときには暴君的支配衝動は集団主義における上位者の下位者に対する自己意志の抑圧要求、あるいは抹殺要求の構造と重なる。いわば、集団や組織に個人を従属させる集団主義が個人的人間関係のレベルにおいても影響して、権威主義を構成し、その逆の相互関係をも形成している。集団と個人を規定する集団主義と個人と個人の関係を規定する権威主義とが相互影響し合う構造となっているということである。ゆえに、強弱の個人差はあるものの、日本人の行動様式における集団主義と権威主義は表裏一体をなしていると言える。
日本の社会は地位や学歴、職業等の違いを人間価値と結びつけ、そこに価値の上下=優劣を作り出して、上下=優劣に連動させた権威主義的身分関係・力関係を生じせしめている。これは過去の封建社会が人間の価値を身分で秩序づけていた封建主義的慣習が日本人の血となり、精神となって、今に伝えているものであろう。要約すれば、日本人は封建主義の時代からもともと集団主義・権威主義を思考様式・行動様式とし、本質的には時代の発展に応じた見るべき程の精神的成長(自我・主体性の確立)を果たすことなく、それらを今もって申し子としていると言える。
厳しい言い方をするなら、市民としての成長を見ないまま21世紀を迎えてしまったということだろう。
地位・学歴・職業等を人間価値と結びつけ、そこに優劣をつける階級観・差別観の端的な例を上げてみる。上流階級婦人でもある教育ママが走行中の自家用車の中から道路工事をしている、いわゆる土方(土木作業員)を指して、小学生の子どもに諭した、「一生懸命お勉強しないと、ああいう人間になってしまうのよ」というよく知られた譬え話は日本社会にはびこる階級観・差別観の最も基本的な原風景を示している。
戦後、制度としての身分差別はなくなり、すべての国民の自由・平等が謳われてはいるが、人間を優劣で見る階級観・差別観は日本人の心の核に確かな火種をこびりつかせたままである。それは集団主義・権威主義と結びついているものであり、それらの表現の重要な柱となっている。
人間を優劣で計る――その究極なものとしてあるのが日本民族優越意識であり、その反動として現れている、今以て引きずっている白色人種以外に対する人種差別であろう。日本人同士に関するものとしては特別な存在
と見る天皇崇拝であり、その反対の極に同じ人間でありながら、人間とは認めていない部落民差別や障害者差別によって優劣を完成させている。
但し部落民や障害者、あるいは人種的被差別者が社会的地位や財産(親や自己の地位・財産)等で庇護されている場合は、少なくとも表面的にはそれ相応の信頼や尊敬を獲ち取ることができる。社会的地位や財産が人間価値尺度としての権威を獲得しているからであり、その種の権威に対しては日本人の抱える権威主義性が同調・従属の本能的な保護色を反射的に作動させるからである。
信頼や尊敬が権威の表現主体にだけではなく、近親者や濃密な関係者にまで及ぶのは権威主義が今なお血(血統・血族)や家柄までをも人間価値尺度としていることからの発展形態としてあるものだろう。例えば代議士本人だけではなく、その夫人や子どもにまで恭(うやうや)しくへり下る態度は同じ原理による。あるいは有力政治家の第一秘書等が虎の威を借りるキツネよろしく主人に劣らない権勢を誇り、口利き政治に力を発揮できるのも、人間関係に関わる権威主義性が第一秘書等を有力政治家の分身と把える意識からきているものだろう。そのような比較上位者に対する権威主義的な畏怖の裏返しとしてある顕著な例が、自分より劣る者としての犯罪者の家族に対する、犯罪には無関係なのに、「人殺しの子」「盗人の子」といった非難・排斥である。
さらに言えば、オウム真理教徒の子どもに対する就学拒否や住民登録拒否も同じ線上の人権否定、あるいは人間否定に当たる行為であろう。
日本の国籍法が出生地主義ではなく、血統主義を採用しているのも、血や家柄を人間価値尺度としていることの延長にある意思表現としてある。だからこそ、「一生懸命お勉強しないと、ああいう人間になってしまう」という意識の発現が存在するのであり、小学生の低学年の頃から塾に通い、あるいは家庭教師をつけてテストの成績への一喜一憂を通して高学歴の獲得に誰もが血眼になることが社会現象として存在する
ことになるのである。
それは高学歴の成果である高い地位と高い収入、それらを担保とした豊かな生活を人間価値を輪郭づけるものとして位置づけているからであり、その背後で無学歴であること・低学歴であることを排除する心理を生じせしめていると同時に、
前者・後者が相互的に作用・反作用を引き起こしている。そしてこのような受入れと排斥の意識構造こそが、相手の地位や職業、さらには家柄や財産に応じて、その人間への対応・姿勢(従属か支配か)を決定する権威主義的存在様式を条件化しているのである。
日本人が常に他人との比較で自己を成り立たせている点に関しても、集団主義・権威主義が常に相互的な連鎖を構造としているからであろう。学歴・地位・役割・職業等に優劣をつけ、その優劣に従って人間を価値づける関係上、その上下のどの辺に自分が位置しているか、いわば他者との比較によって自己の価値が決定するからである。このことはこれまで学校での成績評価の基準となっていた相対評価≠ノも関連している。
集団主義・権威主義は当然の姿として政治家自身も体現している。それは派閥という形に最も端的に現れている。派閥はその領袖(ボス)を最高位の上位権威者とし、主として当選回数別の序列に従って段階的に位置づけた所属議員を比較下位権威者とする集団で構成されている。その態様は次の通りなのは周知の事実となっている。派閥ボスは所属議員の選挙活動から政治活動に関わる精神的・金銭的支援を与え、その見返りにボスの政治活動に対する忠実な同調・従属行為を求める。所属議員は精神的・金銭的支援という庇護のもと、派閥のルールや慣習を踏み外さない範囲内で自らの政治活動を積み重ね、庇護の見返りにボスの政治活動に無条件の支持を与える。一見、持ちつ持たれつ(ギブアンドテーク)の関係に見えるが、実質的には派閥優先=ボス意志優先を土台に据えた集団主義と権威主義の依存関係でしかない。国会における政治活動においても、所属する党の政策に従った行動に見えても、派閥を単位とした集団行動を基本に置いている。
このような上位権威者の下位権威者に対する忠実な同調・従属行為の要求と、下位権威者の上位権威者に対する無条件・無定見な支持は集団主義・権威主義の原理をそのままになぞったものとしてあるのは言うまでもない。また、それぞれの行動を集団と権威(上下関係)が規定する点において、派閥ボスと所属議員の関係は暴力団の親分・子分の関係と、幾分ソフトな装いを纏わせているものの、同質のものと言える。
こういった擬似関係は集団主義・権威主義が日本の社会全体を覆ったものとしてあることの必然の帰結としてあるものである。社会的責任ある企業集団の上層部が暴力団・右翼・総会屋等を恐れて、不正利益供与行為を働くのも、集団主義・権威主義を濃い血としていることからの是非の排除からきている。比較下位権威者の比較上位権威者に対する従属・服従における無批判性・無条件性を突きつめていくと、「長い物には巻かれろ」となり、自己正当化の方向に突きつめていった場合は「背に腹は代えられない」の行動様式となる。
金権政治非難に対する自己正当化理由として、「政治はカネがかかる」としていることも、単なる体裁を取り繕う弁解でしかない。自己意志を抑圧して上位意志(ボス意志・あるいは派閥意志)に同調・従属するだけの集団主義・権威主義のメカニズムが必然化させている、それぞれが自分(独自性)を持たない無思想・無定見がカネの力と頭数でしか政治を行いえなくしているだけの話なのである。裏返して言えば、頭数(派閥)とカネなくして、政治力を発揮できないお粗末な政治家状況にあると言える。日本に政治家は存在せず、政治屋ばかりだと言われる所以がここにあり、その具体例はKSD疑惑の小山議員・村上議員、さらに外務省に対して僭越行為を犯した鈴木宗男議員等を例に挙げるだけで十分だろう。
彼らが有力議員であることが、日本の政治における政治屋状況を強力に代弁している。
対外経済援助にしても、その土地の文化や生活意識を考慮に入れない、あるいは国民ではなく、政治権力者を利するだけといったカネやモノの大盤振舞いがかつて支配的だったのも、カネの力を政治の力とする
権威主義性が政治的精神となって外に向かって現れた成果でしかない。人道や貧困に対する援助は権力上層部を利するだけの援助とのバランスを計るためか、国際世論の批判をかわす目くらましなのが殆どで、本質的な理念からのものは皆無に近いのではないか。日本の政治家・官僚が真に人道的な理念を自己のものとしていたなら、外交機密費の流用などはまず起こりはしなかっただろう。
学校も一つの社会であり、そこでも集団主義・権威主義の力学が働き、教師と生徒の思考様式・行動様式を否応もなしに律している。
2.学校現場における集団主義・権威主義
いじめられて自殺した生徒がいるとする。学校は殆どの場合、自殺の原因がいじめを許していた、あるいはいじめを知らずにいた学校管理の問題に行きつくことを恐れて、真相究明に及び腰になる。中には、「いじめ的行為はあったかもしれないが、それが原因だとは考えられない」といった鉄面皮な弁解を平気で口にする。「生徒の自殺はどのような場合もあってはならないし、特にいじめが原因の自殺は間接的な殺人に当たり、絶対にあってはならないものである。原因究明に全力を尽くし、学校側に落ち度がなかったか、その責任を明らかにしたい」とする学校はまず存在しない。
学校教育に携わっている人間たちのこの潔さの欠如はどこからきているのだろうか。
「いじめの事実はなかったと思う」とか、「いじめの事実は聞いていない」とかの釈明を最初に持ってくること自体、真相隠し、あるいは責任回避への第一歩である。校長以下の教師の目の届かない場所でのいじめの可能性の検討さえも最初から抹殺するものだからである。特に学校経営責任者としての学校管理能力とそれまでの経歴にキズがつくことを恐れる自己保身意識・体面意識がいじめはなかったとしたい衝動を誘い、事実から目を逸らした真相の隠蔽を意図
させてしまう。教職員への箝口令、マスコミへの取材拒否、例え生徒同士でも誤解されるようなことは話さないようにといった生徒の言論に対する規制等々。
このような上位権威者たる校長の意図の延長上にその他の教師や生徒・父母の態度がある。校長へ右へならえの責任回避に走る教師。マスコミの取材殺到に対して、原因究明よりも子どもの(受験)勉強の妨げになるとエゴを剥き出しにする父母。自分が在校する学校がいじめ自殺のあった学校だという評判が立つ不名誉、あるいは将来、そのような学校の卒業生になる不名誉、さらにいじめ生徒と同類と見られる不名誉を恐れて、自ら口をつむぐ生徒。あるいはいじめがあったという最初の証言を、担任教師の説得によって翻す生徒。集団の一員・仲間であったとしても、そのときの情況が要求する集団の暗黙のルール(担うべき名誉・平穏・評価・行動様式等)に反したとき、少なくとも気持の上では成員の一人とは認められなくなる、いわばシカト(無視)を恐れての態度変化なのである。誰もが集団・権威に縛られ、自分として行動できない。
自殺は今ある集団の秩序、あるいは今ある権威主義的支配と従属の秩序を脅かす、あってはならない最悪の掟破りなのである。学校・校長といった上位権威、あるいは校長から教師・生徒までを含めた学校という集団・組織を絶対としたいために、自殺した生徒のありようがどうであったかの真相を排除し、抹殺しようとする意志は、いくら坐る主のいなくなった席に花を飾ろうとも、その生徒のかつて在ったはずの存在そのものまでも排除・抹殺することを意味する。あるいは校長の意志を学校の意志とする一方的な押しつけに対して、教師・生徒たちが例え面従腹背のものであったとしても、表面上は無批判・無条件に、あるいは反意志的に従う。これも集団主義・権威主義の人間関係の力学原理がそのまま罷り通っていることの現れとしてある。
真相の排除・抹殺による生徒の存在そのものの排除・抹殺はいじめ自殺した生徒に対する精神的な新たな殺人行為と言えなくもない。封建時代、町中で不名誉な死を遂げた藩士の遺体引取を藩邸に申し出ても、藩は藩の名誉を優先させ、藩に関わりなき者として遺体の引取を拒否する習わしがあったという。どんなに不名誉な死を遂げようとも、成員の一人であったはずである。自殺した生徒への不徹底な原因究明という存在無視は封建時代の遺体引取拒否による存在無視・存在排除と同じレベルにある、あるいはそっくりそのままを引きついだ所業と言える。いや、人権意識の発達した今日においては、時代に逆行したはるかに劣る仕打ちでしかない。学校教育の現場において、このような時代錯誤が慣習化した態度として認知されている。
明治維新から今日まで130年間も成長も変化も見ない、封建時代そのままの精神構造を抱えているのはどういうことなのだろうか。自己の経歴にキズがつくことを恐れる――いわば無傷を装う責任回避は個人と国家の規模の違いはあっても、日本のアジアに対する侵略戦争を日本民族優越意識から、二千年の日本の歴史に関しても優秀だとする一貫性を与えたいがために欧米植民地からのアジア解放の戦争だったとする歪曲と対応している。
これも国民という成員の一人一人がどうあったかよりも、国家を第一の権威に位置づけ、国家という集団・組織を絶対とする集団主義・権威主義から出た精神性に他ならない。
幼稚園や小学校においても、集団主義・権威主義は色濃く影を落としている。現在でもそうなのかどうか、運動会での走り競技では園児や生徒が自信を失ったり、劣等感に陥らないように、体力や記録の近い者同士を走らせてなるべく差が出ないように取り計らう傾向にあったと言うことだが、それはテストの成績で人間の価値までも決めてしまう権威主義的な非人間的差別状況が背後にあって、身体能力に関してはそれを補おうとする見せかけの平等主義であろう。走り競技だけを把えて、悪しき平等主義だと批判しても、何も解決にならない。
いわぱ前提としてある、地位・職業等を人間価値と結びつける集団主義的・権威主義的優劣観に連なる、速く走れる子は優秀、遅い子は劣るとし、それをも人間価値の尺度としている精神文化を単にカモフラージュしただけの幼稚園・小学校での身体能力の格差の否定であって、日本人の精神の底にあるそのような悪しき優劣観ををまず問題としなければならない。それを問題としない見せかけの平等主義は、地位・職業・能力等を人間価値尺度とする価値観(優劣観・差別観)を根本的な解決の方向に向かわせるものではなく、そのような価値観に呪縛された状態でのその場だけを取り繕う誤魔化しを行っているにすぎない。なぜなら、どのように優劣なく走らせたとしても、そのことを仕向けているのが能力を人間価値尺度とする価値意識である以上、そのような価値観の存在を許していることになるからである。
なすべきことは能力で人間の価値を決める精神性(社会的土壌)の払拭であるのに、運動能力に違いがあるという否定することのできない厳然たる事実を誤魔化す作為を犯してまで優劣なく走らせることによって、そのような価値基準を一時的に見えにくくしているに過ぎない。
幼稚園・小学校でいくら子供たちを横一列に並べようとも、横一列に並べてあなたは劣っていない、みんなと同じだと思い込ませたとしても(そうすること自体が人間を優劣の価値観で見ていることの裏返し行為でしかないのだが)、中学校に行けばテストの獲得点数による成績の序列化と、その先に高校入試という過酷な差別化が待ち構えている。幼稚園・小学校の横一列主義は中学校、さらには高校という次なる社会を見ない、一時的な滞在社会でのみ有効な小手先、気休めの弥縫策、あるいは自分たちだけうまくやりさえすればいいという責任回避以外の何ものでもない。
早く走ることは一つの能力であり、一つの可能性だが、早く走ることのできる人間にとってはその可能性がすべてだとしても、その他大勢の人間にとっての可能性のすべてではない。みなそれぞれに人とは違った何らかの能力と可能性を秘め、それぞれに別個の人間であるということ、それゆえに単に能力や可能性の優劣・違いを人間価値の優劣・違いに結びつけてはならないということを親や教師が子供に教え伝える想像力・感性を持たないことからくるその場にのみ通用する右往左往でしかない。
運動能力に違いがあって、例え能力差が出たとしても、競うのは人間の本能としてあるというだけではなく、自己可能性の確認作業の一つでもあり、そのような機会までも圧殺する人為的な横一列化は人間生命に対する愚かしい僣越行為であるばかりか、子どもの自由な精神と生命本能を支配下に置くものであり、それを可能としているものは日本人が精神的体質としている個人の意志を抑圧・抹殺させて集団意志に同調・追従させる集団主義と上位権威の支配・強制に下位権威を同調・従属させる権威主義の行動様式なのは言うまでもない。そしてそのような関係の強要は子どもに対する集団主義・権威主義のさらなる刷り込みでしかない。いわば子どもたちを大人たちの愚かな考えに言いなりに従わせているからである。
能力はゆくゆくは金銭的価値によって計られるが、人間的な価値は能力の違いや金銭的価値の違いによって計られるものではないということ、能力の競い合いとその結果に対してはもっとおおらかであるべきであるということ――そういったことの精神的土壌の育成こそ、学校教育者が教育的想像力を働かすべき目標とすべきであろう。
学校管理における校長・教頭からの、あるいは先輩教師から後輩教師への職員間の上意下達式の一方通行の意志の強要、さらに授業における教師から生徒への一方的な教え、あるいは教科書の範囲を出ないなぞるだけの知識の強要、さらに学校生活における校則の一方的な押しつけ、それらに対する最下位権威者である生徒の上位権威に対する横一列の従属と受容の関係はまさしく集団主義・権威主義のメカニズムにキッカリと組み込まれた、そこから一歩も出れない関係を示している。
生徒同士の間でも集団主義・権威主義は幅を利かせている。最も顕著な形で現れているのが部活での先輩・後輩の関係だろう。先輩は後輩に対してほぼ絶対者(ときには完璧な絶対者)として君臨し、後輩は無力な、あるいは積極的な言いなりの存在として振舞う。後輩が旨とするのは無批判・無条件の同調と従属のみである。これは戦前の日本軍の上官と部下の上下関係における階級性とその精神性をそのまま引きずっているとも言える。
このような階級性と精神性は往々にして部活顧問と部員との人間関係にも見られる。自分の練習方法を絶対とし、部員からの批判を決して許さない態度。試合や練習でプレーに失敗した部員に対する口汚い罵倒や懲罰のための体罰。あるいは部員の年齢的な体力を超えるハードトレーニングの一方的な強要。試合に臨んで緊張したり、アガったりしないための度胸づけだと称して、女子部員の服を脱がせ、裸にして問題となった
自己を絶対的存在とした男性顧問もいた。「人前で裸になる恥ずかしさに耐えることができたなら、どんな緊張にも耐えられる」ということなのだろうが、それを体のいい口実にまだ若いながら発達した女の裸を鑑賞して、性的な欲望を満たしたというわけなのだろう。
但しそれを可能としたのは上位権威者を絶対とする権威主義である。
顧問対部員のこういった関係は教師対生徒の一般的な集団主義的・権威主義的人間関係が極端な支配と服従の関係にまで高まって現れた形態と言える。いわば顧問は常に絶対者の位置にあり、部員は盲目的な絶対的服従を常なる慣行とすることによって可能となる形態である。これは単なる集団主義的・権威主義的人間関係を超えてファシズム的人間関係にまで進んだ関係現象と言える。このような現象がある種の先輩・後輩の関係と二重写しの構造となるのは単なる符合ではあるまい。顧問対部員の関係が先輩・後輩の生徒同士の関係にまで波及していると受止めることほうが納得がいく。
民主主義社会の学校において、ファシズム的人間関係が罷り通っている。特に度胸づけと称して女子部員を裸にした男性顧問の行為と、敵捕虜を「度胸試し」と称して新兵に日本刀や銃剣で斬り殺させた旧日本軍の上官の行為は、善悪を排除した絶対的命令と絶対的服従の関係性において何ら違いはない。残虐さの程度に違いはあっても、その本質性に関しては人間の人間に対するファシズム行為(人権無視・人格無視)の強要と受容そのものである。戦後五十年以上経過していながら、直接的な疑問や拒絶、あるいは抗議といった意思表示を介在させることのない同じ関係性を、しかも教育の現場である学校社会に引きずっているというのは驚きである。
日本の社会は自由と平等の民主主義と人権擁護の時代にありながら、地位や役割に応じてあらゆる人間関係に暗黙的な相対的連鎖で上位権威と下位権威に階級化が施され、上位権威者と下位権威者は常に精神的、あるいは心理的な支配と服従の関係にある。封建時代の士・農・工・商の身分制度は明治維新後、公・侯・伯・子・男爵の華族を特権階級の頂点として
以下平民に再編されて存続したが、戦後の日本国憲法の施行に伴って廃止されたものの、それはあくまでも制度上・法律上のことで、民主主義の門を潜りながらも、地位や職業・収入・学歴等の優劣で人間を価値づける差別構造へと表向きの姿をほんの少し変えただけのことで、日本人の精神に遺伝子として今もって根づき残っているのである。
学校社会における集団主義的・権威主義的な身分秩序は校長・教頭・学校主任・一般教師・生徒といったふうに縦の人間関係で段階を踏むが、年齢や学年で横一列の立場で仲間を形成している、横の人間関係を主体とした生徒同士においては、横一列であることが(裏返して言えば年功序列や先輩・後輩、役職といった社会的慣習による身分差が固定化していないために、そのことに保護されていないことが)逆に災いして、ときとしてそれが少人数のごく親しい仲間集団であっても、集団内の自己の地位をより高め、他の地位をより低める牽制と排除の力学が縦の人間関係の場以上に働き、その結果として縦の人間関=上下関係への形成へと向かう緊張関係を常に孕むことになる。それは集団主義・権威主義が集団のどこに位置しているかによって自己を確立させる構造であるための必然的な宿命であると同時に、大人たちの存在様式を受けた、それに対応する子供たちの存在様式でもある。
集団内の位置決定の学校社会における正統性を持った最右翼の証明は、勿論テストの成績である。正統的なものではないとして、腕力の強さや威嚇を挙げることができる。
このように集団を必要とし、集団のどこに自分は位置しているのかを自己存在証明とする自己確立を逆説的に証明する一例は、成績表を廃止した学校において、自分の子供の成績がクラスや学年でどの辺に位置しているのか分からずに不安に駆られる母親の状況
に見ることができる。成績表廃止は自己確立に集団とそこでの自己位置の確認を必要とする集団主義的・権威主義的関係性をかえって強迫観念化する皮肉な役目を果たしているとも言える。
高校生から中学生・小学生にまでそれぞれに低年齢化したファッションの画一性に関わる日本人の横並び意識も集団を必要とし、集団内の位置によって自己評価を下す意識の表れとしてある。みんな(集団)と同じであることに安心し、みんな(集団)から外れている人間に優越感を感じたり、逆に外れ
ること、外れていることに不安や劣等感に駆られたりする。
ブランド性やマスコミ報道などによって優越的位置を獲得した集団内の優勢なファッションを纏うことで、自己が集団の一員であることを確認する。その結果の画一化。あるいは集団内で優越的位置にある者が纏ったファッションをその優越性ゆえに権威あるものと見なして、その他大勢の成員が見習い、それぞれが自らの立場をも高めようとする。あるいは逆にまだ誰もが手をつけていないファッションを他にさきがけて取入れ、自己を他よりも優れているとする文脈での他者との差別化――いわば精神的に自己を上位権威者に持っていこうとする集団主義的・権威主義的精神性の発現。画一化に
対して、それに反する集団主義的・権威主義的自己優越化。あるいは先駆者であることによる集団主義的・権威主義的自己優越化――いずれも集団内行為であり、権威主義性に囚われた行為であるために、独自行為に見えたとしても、同調を誘う範囲のものでしかなく、画一・横並びから抜け出れない。
要するに他人を基準とした、あるいは他人を必要とした自己評価となっている。大人から子供まで集団主義・権威主義のメカニズムに呪縛されてはいるものの、表面に現れる現象は同世代とか、同じ組織内・集団内といった身内的な狭い世界に限っての同質性・異質性を土台とした社会的な広がりでしかない。範囲の狭さは独善性を必然化する。日本人の精神性が島国根性と言われるのも、その同一性・画一性、あるいはその逆の異質性の領域が、いわば日本人が権威とする基準、及び精神性の波及範囲が世界規模の普遍性を持たない、日本という狭い一国か、それぞれの狭い社会に限られる場合が多いからだろう。
3.教育の現状
新聞記事で読んだことだが、小学校6年担当の64歳になる女性教師が英語指導で生徒たちに「私の宝物」「私の夢」を一人ずつ語らせたところ、活発さが見られなかったという。その教師はそのような状況の原因を、「6年生だと、みんなの前で話をするのに抵抗がある」からだとしている。
6年生になると、なぜそうなるのだろうか。学校教育者であるなら、まず第一番にそのことを解明すべきであるし、世の親もそれを知りたいに違いない。
女性教師の観察を年長方向に当てはめていくと、中学生・高校生はなおさらのこと、「みんなの前で話をするのに抵抗がある」ことになる。70・80なっても政治家であることにしがみついている人間ともなると、人前では一言もしゃべれないことになるが、実際は
他人の目・批判を気にもせずに内容空疎なことを平気でペラペラとしゃべるし、「今度の総選挙はいつだ」とかいった類の観測気球を
さも凄い情報であるかのように人前で得々と打ち上げて忘れられがちな自己存在を知らしめるオハコとしている政治家もいる。
新聞記事だけでは英語でどの程度の内容を語らせたのか不明だが、
英語・日本語に関係なく、笑われたりバカにされたりしないか恐れる他人の目を意識した萎縮からの不活発だとしたら、表面的な観察が的を得ていることよりも、萎縮の由って来る原因究明を最優先させるべきであろう。
萎縮の原因の一つが今の6年生ともなると、過剰なまでの情報社会の情報を受けて、夢というのものがそう簡単には実現しないこと、夢破れる人間の方が多いことを知ってしまっていて、人前で話して夢破れた場合はウソをついたことになることを恐れてのことということもあるかもしれない。
その辺の事情を考慮できずに一種儀式化している夢の発表を儀式のままに強いること自体に無理があり、英語力の問題と合わせて活発な語りとならなかった原因ではなかったろうか。このような
形式的で一律的な要求・指示は日本の学校教育における知識伝達が教師から生徒への一方通行で成り立っていることの短絡的な反映でしかない。
一方通行とは言葉の闘わせ(疑問の応酬と言ってもいい)の不在を意味する。低学年の生徒なら言葉の訓練を経なくても無邪気に人前で話すことは許されるが、6年生ともなると、それなりに訓練を経た言葉でしゃべることが要求される。英語でしゃべるとなれば、相当以上の英語力が試されることになる。
いわば英語力が他人の目に曝される。
他人の目を意識した萎縮が原因だとしたら、自分は自分であるという自律意識・主体性意識を欠如させた姿を生徒は纏っていることを示している。いわば他人の評価・判断を基準とした他者との関係で自己を把え、自己を存在させる集団主義と権威主義の従属性を生徒は自らの行動性としていると言うことだろう。
女性教師が、「僕は将来プロのサッカー選手になりたいと思います」程度以上の内容を英語でしゃべらせたいと期待していたなら、形の上では期待できるだけの英語力を教育済みということになる。だが、結果として全体的に期待を裏切られたなら、単に教科書の英文を文章どおりに訳させる類の従属教育を施しただけで、生徒の集団主義と権威主義の従属性を補強することには役立ったとしても、それを薄めることには役立たなかったことを証明している。
間違ったことを言ったり、失敗しても他人の目を意識せずに済ますには言葉の闘わせを頻繁に行うことで、間違いや失敗に慣れさせることだろう。
それをしないで、「6年生だと、みんなの前で話をするのに抵抗がある」で終わらせるのは、日本の学校教師にはふさわしい表面的観察と言うことになるのだろうか。
日本語において言葉の訓練(言葉の闘わせの訓練)ができていたなら、英会話においても、例え年齢相応に限られた語彙が原因して自己の思いを忠実に英訳できなかったり、英訳可能な範囲でまとめようとして説明が矮小化したり、未消化のものとなったりすることはあったとしても、表現の正しい・間違いに関係なく
、いわば他人の目を意識せずに語ろうとする意志は活発に見せることができたに違いない。話したくないのに順番だから仕方なく話すといった無意味な同調を招くこともなく、
他人に語りくない夢であったなら、例え間違った英語表現であっても、自分の夢は秘密にしておきたいから、みんなの前で話すわけにはいきませんと断るだけの意思表示も示すことができたろう。
言葉の闘わせという言葉の訓練を通して自分の言葉(=自分なりの考え・自分なりの思想)を獲得させること自体が自律性・主体性の獲得(=集団主義的・権威主義的従属性からの脱却)と重なるのであって、そういった思想が日本の教育に存在せず、集団主義・権威主義の従属性にとどまった教育の姿を取ったままでいる。
日本の教育は昔から将来何になりたいか夢を語らせるのが伝統となっている。卒業文集となると、決まりきってのように将来の夢を語らせる。それはもうバカの一つ覚えとなってさえいる。いじめなどが原因で生徒が自殺すると、全校生徒すべてに「命の尊さについて」といったテーマで作文を書かせる慣例も同一線上の教育行為でしかない。自殺事態が起きて初めて、「命の尊さ」が浮上する。あるのは年中行事や慣例への無定見・盲目的な従属のみで、言葉の闘わせを通して命≠ノ関わる生徒それぞれの考えを構築とまでいかないだろうが、準備させておいたなら、命≠ノついての作文など必要としないはずである。教師に指示されなくても、既に命≠ノついて準備している生徒それぞれの考え・思いに従っていじめや自殺した生徒、そして命なる把え難い力について
自分自身で想いを巡らせるだろうからである.
勿論のこと、この手の一律性・形式主義は集団主義・権威主義の力学を満たす形式的な慣習としてあるものである。いわば学校・教師の命令・指示と生徒の同調・従属の形式を満足させる儀式としての意味しか付与されていない。勿論無意図的なものではあるし、例え形式的な儀式であっても、そこには行動や意識に同調性の枠をはめ込む支配・強制が厳然と作用していることを忘れてはならない。
夢や宝物を語る場合においても、「命の尊さについて」作文を書く場合においても、それぞれの事柄に言葉の訓練を経た考えや思い準備せずに、それらが不在の場合は自律性・主体性を失った思考状態にあるために機械的な一律性でテーマを決めた一律的な指示には
個々に反応する力学が働かず、集団全体に与えられたものとしての強制力が自ずと働き、指示の受け手をして、全体に添おうとする同調意識を発動させやすい。逆説的に言えば、集団全体に対するテーマを固定した場合の一律的な指示に関しても集団主義・権威主義の力学の支配を否応もなく許してしまう。その結果、語るべき事柄や書くべき事柄がなくても、集団を納得させる事柄、あるいは指示に添った事柄を書いたり語ってしまうということが起きる。この場合、書くこと・語ることが成員の務めとなるからである。
戦前、若くして死ぬのはつまらないなと思っていても、あるいは体力に自身がなくても、将来兵隊さんになって、お国のために戦いますとか、天皇陛下のためにこの身を捧げますと語ったり、作文に書いたりしなかった生徒がいただろうか。
以上のような意図しない管理によってもたらされる同調現象は、テストの成績以外に高校入試の合格要件に加えられている活動(決められてする奉仕活動にしても)や生活態度に対して、普段は無頓着であっても、入試を控える時期になって合格要件を満たす必要に迫られると、一様に要求されている内容に添うべく積極的な姿勢を示す機械的態度にも見られるものである。
テーマを与えられた作文しか書いたことのない生徒にテーマを決めずに作文を書かせたなら、何を書いたらいいか戸惑うに違いない。これは文部省が1981年から導入実施した新しい学習指導要領の「ゆとりの時間」で、どのような内容の授業をしていいのか判断に迷い、学校側が文部省に指示を仰ぎ、文部省がサンプルを示して授業内容を指示したことからの連想である。学校が文部省の何をどう教えるかの指示をなぞるやり方で教科や授業内容を決めてきた、いわば文部省の支配・強制(=管理)に無批判・無条件に従うだけの同調行動から突然見放されたことによる戸惑いであり、お手上げだったのである。
文部省の支配から阻害された場合の学校・教師のそのような意識と態度(混乱)は、当然学校・教師の支配から阻害された場合の生徒に同じメカニズムが働いて、その意識と態度に混乱をもたらさないではおかないはずである。
文部省が学校を下位権威に、学校が文部省を上位権威にそれぞれ位置づけて、文部省の支配・強制とそれに対する学校側の無比判・無条件の同調・従属を構造とした(内心では批判していても)、集団主義・権威主義の関係に両者が縛られていて、支配・強制を拒否して同調・従属から離れ、自律的・主体的に行動することができな
かったからこそ、「ゆとりの時間」を何をどう活用したなら子供のゆとりにつながるのか、それさえ判断できなかったのである。さらに学校の文部省に対する指示要求は学校が文部省の学校に対する管理を許しているだけではなく、自らも文部省に管理を求めていることを証明しているが、学校は同時に生徒を管理し、生徒は学校の管理を離れて行動できなくなっているのである。
このような管理の体系からも、集団主義・権威主義のメカニズムを読み取ることは可能である。生徒を教育するのは現場教師のはずである。現場教師の感性・
想像力(創造力)に従うべき教育が文部省の意向と指示をなぞるだけのものとなっている。文部省は学校及び教師を自らの意向と指示に従わせるために当然権威的となる。学校・教師も生徒を自らの意向と指示に従わせるために権威的な存在と化している。実質的な関係性を排除した、そういった管理のための構造が教師が生徒に対して教科書の内容をなぞり、一方的に教える教育へと継承されている。このことも日本の教育現状の重大な一つ
の姿となっている。
4.平等主義と管理教育
平等主義が学校を殺したという意見が一部に根強く存在する。テストの成績と運動能力だけで生徒を価値づけ、優劣の格づけを行う不平等を犯しながら、平等主義云々は鉄面皮な矛盾でしかない。
誰もが教育を受ける権利を平等に有する。但し、権利は自律的・主体的な主張・行動によって権利としての体裁を整える。単なる資格とは異なる点である。
自律性・主体性は責任=i=義務)事項を付帯条件としていることを忘れてはならない。
選挙権は満20歳になればその資格を与えられるが、投票しなければ、資格のままで終わる。投票して初めて権利として生きてくる。
当然その権利は責任=i=義務)を伴わせた自律的・主体的行使でなければならないことは既に指摘した。誰に投票してもいいわけではない。誰が社会に(国家にではない)貢献できるか、その判断に対する責任を負うことが果たさなければならない義務である。社会に貢献しそうな候補者が不在な場合の積極的な棄権も権利の行使に入るだろう。
「誰もが教育を受ける権利を平等に有する」からと、数学のできない生徒をできる生徒と互角の位置にまで引き上げるべく指導に時間を費やし、かえってできる生徒をおろそかしてしまうのは、幼稚園の運動会の横一列主義の単なる延長でしかなく、教育における平等主義では決しでない。「教育を受ける権利」は生徒自らが
自律的・主体的に求めることによって成り立ち、教師がすべての生徒をすべての教科にわたって「互角の成績」という枠の中に押し込めようとすることで満たされるものではない。「互角の成績」観は学校・教師がテストの成績と運動能力だけで人間の価値を決めつけていることのカモフラージュにすぎない。
本来、成績とは生徒自らが獲ち取るべきもので、教師の指導に従わせるべきものではない。指導されても成績が向上しない生徒を劣等感と卑屈な精神状態に追い込む危険性を抱えるだけで、勉強嫌いを誘発する強制に早変わりしないとも限らない。但し、成績のみで生徒の価値を計ってはならないのは当然なことである。
問題は多様な価値観の時代と言いながら(生徒の可能性=生存機会をごく狭い範囲に限定しておきながら、多様な価値観もないものだが)、生徒が何を学びたいのか、どのような教育を受けたいのか、それを
自律的・主体的に選択する生徒自らの権利の要求と、それに応える学校側の体制が制度として存在していないことである。集団主義・権威主義のメカニズムに添った上からの押しつけが時代の変化に無頓着に何ら変わることなく延々と受け継がれているのみである。
学校における反平等主義を掲げる人間の多くは同時に「管理教育」のススメを主張している。少々古い記事からの引用となるが、その代表選手の言い分(『アエラ』98.11.25.増刊号・プロ教師の会
諏訪哲二高校教諭)を要約すると、「授業が分からなくても、自己規制をしておとなしくしていた」「昔の生徒たち」を懐かしみ、「外部から彼らをそう仕向けるような『非合理的な力』」を借りて教室の秩序を回復維持したい衝動を露骨に主張している。このことは1999年2月発刊のベストセラー『学校崩壊』の著者の、同じプロ教師の会に所属し、プロ教師を名乗る河上亮一氏にも共通する主張である。
「非合理的な力」が何を示すか具体的には明示していないが、「外部から」のものと言うのだから、教師自らのものではない(内部からのものではない、あるいは自己努力を放棄した)位置にあるものだろう。
「学んでいる生徒は学んでいる時点では学んでいることの意味は確認できない。学んだ途端にその意味を確認し、快感やスリルを味わえる生徒は例外的である。生徒にとって『学ぶこと』の意味は常に常に先送りされている。従って教室に坐っていたり授業を聞こうとする心理機制やモチーフは、個々の生徒のその時その時の納得や了解から生じるものではない。そこに必要なのは社会や学校や教師に対するトラスト(信頼)なのである」
代表選手の言う「トラスト(信頼)」とは、学校や先生に言っていることに間違いはない、例え授業が分からなくても、面白くなくても、授業時間中は黙っておとなしく座っていろ、といった戦後の一時期まで社会的に支配的だった大人たちの主張・強制のことを言うのだろう。
確かに「学んでいる時点では学んでいることの意味」――いわば自己人生や自己生活、あるいは自己の人間性に対する「学ぶこと」の動機、もしくは意義づけは「先送りされ」ないことには「確認できない」場合が多いだろう。だが、個々の知識に対する意味・解釈は「その時その時の納得や了解」が「生じ」ないことには信頼も生じない。いわばある問題の意味・解釈が理解不能なことと、「何のために学ぶんだ」、あるいは、「こんなこと学んでもしょうがないじゃないか」といった自己の才能・可能性に対する動機づけが理解不能とは別のものである。代表選手はこの点を
平気で混同している。プロ教師と言われる所以である。
集団や組織といったそれぞれの集合体に対する評価は常に個別的・流動的・相対的であり、固定化・絶対化されるものではない。欠点のない完璧な集団・組織は存在しないからである。人間自体が矛盾隊多き生きものだからである。どのような時代においても、そのことに変わりはない。封建時代の農民は武士の支配を絶対的なものとして受入れていたが、ワイロを取ったり、年貢の量を誤魔化して懐したりした年貢徴収に関わる代官所の武士集団に関しては内心は軽蔑していただろう。
戦前の軍国主義時代、国民すべてが国家を絶対的に信じていたわけではないだろう。軍国主義の勢いに押されて大勢順応を自らに強いた国民も多かったはずである。中にはアメリカと日本の国力の少なくない違いに気づいていて、勝利を確信できなかった者もいただろうし、戦前・戦中を通してアメリカとの戦争を無謀なものとして警告を発し続けた元軍人(水野広徳)もいた。
「そこに必要なのは社会や学校や教師に対するトラスト(信頼)なのである」などとして、どのような対象に関しても固定化した一つの評価を求めるのは、それが「外部から」「そう仕向けるような」ものならなおさら、集団主義・権威主義の力を振りかざした強要を超えた独裁でしかない。
代表選手は独裁願望を抱えながら、教師という立場上それを発揮できずに苛立っているのだろう。
教師に対する評価について言えば、信頼できる教師もいれば、信頼できない教師もいる。学校教師がテレクラで知り合った女子高生と相手の身分を知りながらホテルで性行為を行って逮捕されるといった事件は今や前代未聞のことではないばかりか、これからも起こりうると予想を余儀なくされるのは現在の学校教師に対する信頼とは裏腹の評価が影響しているはずである。それを「外部から彼らをそう仕向けるような『非合理的な力』」によってすべての教師を信頼させる方向に各個人の気持を本人の意志・感情に関係なく仕向けることを義務づけるとしたら、明らかに封建時代や軍国主義時代に見られた個人の精神に対する思想管理(思想ファシズム)に他ならない。
思想管理は当然、行動管理へとつながる。いわばこの種の「管理教育」(ファシズム教育)を希求し、生徒を教室におとなしく坐らせておこうとするものである。
例え教師を信頼していたとしても、「授業が分からなくても」「おとなしくしてい」るのは人間にとって精神的な美徳の範疇に入るだろうか。そこに自律性・主体性なるものが存在しないことに留意する必要がある。
代表選手の言う態様への要求は封建主義体制下の農民の位置に生徒を押し込めようと意志するものであろう。彼ら農民は過酷な年貢徴収のために満足な衣食住を保証されていなかったにも関わらず、封建支配の不合理を理不尽と認識していながら、宿命的な諦観で「おとなしく」支配を忍従するばかりであった。勿論ときには一揆や逃散といった方法でレジスタンスを試みたものの決定的なものにする意志は最初からなく、封建主義体制の認知を前提のほんのわずかな待遇改善の要求にとどまり、それが容れられると矛を収めてしまう性格のものでしかなく、お釈迦様の手のヒラから飛び出せなかった孫悟空の境遇に自らを置いていた。これは授業放棄やシンナー・覚醒剤などで反抗的態度を示す一部生徒のそれで完結
させてしまう、学校社会全体の変革につながらない行動と軌を一にするものでしかなく、全体として見た場合、どちらも忍従にウエイトが置かれている。
封建主義体制下の被支配者の自己規制による忍従は、学校社会においてはときには反抗・反乱を見せることはあっても、その殆どが時代的現象として抱えるにとどまり、全体のところでは延々と命永らえて、学校の生徒だけではなく、下位権威の位置に立たされた場合の日本人の多くに今もってつながっている自己規制
で終わっている。ゆえに反平等主義者の期待する「自己規制」欲求には本人が気づいているといないとに関わらず、自己を限りなく封建的権力者に近い上位権威者(支配者)に位置づけたい衝動を隠し持っていると言える。いわば、生徒を限りなく封建体制下の被支配者の位置に置こうとするものである。
これらのことを言い換えれば、生徒を自己規制させていた「非合理的な力」とは「社会や学校や教師に対するトラスト(信頼)」だとするのは綺麗事の歪曲でしかなく、権威主義が威嚇性を属性とし、それがまだ有効であったことによって可能であった絶対権力のことであり(親・教師はただただ恐い存在であり、子どもはその恐怖の前に自己萎縮を余儀なくされていた)、例え理解できなくても授業を教師の進めるままに任せて、生徒自身はただただ「おとなしくしてい」た忍耐・忍従は集団主義における自己意志の抑制、あるいは抹殺に当たり、権威主義における下位権威者の無批判・無条件の同調・服従によるものであった。精神的な存在様式における本質性に関して言えば、「自己規制」する生徒はまさしく封建時代の農民と何ら変わらなかったのである。
日本の社会が現在も集団主義と権威主義を人間関係の秩序としていることは冒頭に述べたが、本質のところでは戦前と戦後も変わらない行動様式を維持していながら、ではなぜ子どもたちは教室で「自己規制しておとなしく」することをやめてしまったのだろうか。
戦前(封建時代にまで遡った時代を指すが)と戦前の名残をとどめた戦後の一時期まで、集団主義・権威主義はそれぞれの時代に応じて強弱の変化はあったものの、先に触れたように、上位者と下位者の支配と服従関係における心理的な態度反応は上位者の下位者に対する威嚇と下位者の上位者に対する畏怖を感情的な成分として、日本人の行動を律してきた。上位者は例え表面に表さなくても、常に威嚇性を備えていたのである。封建時代の農・工・商にとって武士は恐れるべき存在であったように、子どもにとって大人は常に恐い存在であった。
教育者の多くは昔は子どもが悪いことをすると地域の大人が叱りつけ、善悪の価値観を植えつけたと地域の教育力を美化するが、いかなる時代のいかなる社会も矛盾に満ちていない社会は存在しないことを考えると、地域社会自体矛盾に満ちていたはずであり、その矛盾たるや、大人が
つくり出しているものだから、子どもの頃に植えつけられた善悪観は大人になって有名無実化してしまう程度のものだったことになる。
大人の正義が社会の矛盾に向かわず、子どものいたずらや悪さにのみ向かっていたとしたら、自分たちが子どもにとって恐い存在だと知っていたから、よりよく叱り得たということではないだろうか。いわば集団主義・権威主義の秩序の中途過程に位置する大人の、社会の矛盾に怒りながら、事勿れを旨として何事も受容する態度を含めた比較上位者に対する無批判の同調・服従(畏れ・卑屈さ)の反動表現として最下位権威者である力の弱い子どもに向けられた、大人の偉さを見せつけようとした権威主義的態度だった可能性もある。
戦後十年以上は教師の威嚇的な権威主義はその効果を大きな破綻もなく保つことができた。教師はその威嚇性を背景とした威厳によって教室を管理し、何ら言葉で要求しなくても、生徒に「自己規制」を強いることができた。それは世の親の子どもに対するしつけに関しても同じであった。
だが、戦後輸入された権利意識の時代の経過に伴った高まりと社会の情報化に比例して、それまでの集団主義的・権威主義的秩序における上位者の威嚇性のメッキが徐々に剥がれていくこととなった。いわば社会の過剰なまでの情報が大人がどういう生きものなのか暴露してしまい、大人が持っていた権威・威厳を見せ掛けのものとして失墜させた結果、子どもはある年齢に達すると大人が恐い存在でなくなり、それに対応して自己権利を主張するようになった。マスコミが主役を担う大人に関する情報が誠実に生きる姿よりも、いい加減に下劣に生きる姿の方がその量に関しても、報道の刺激的なやり方に関してもはるかに圧倒していたことの当然の帰結でもある。
恐いから「自己規制」していた「おとなしさ」は恐くなくなれば、馬鹿げたものとなる。学校・教師はそのことを顧慮せず、一方で民主主義や個人の権利というものを教えながら、威嚇性を失ったものの、管理主義に名前を変えた集団主義・権威主義を行動原理に生徒を支配する誤ちを犯し続けたことが災いして、学校の荒廃・授業崩壊があるのである。ゆえに、「非合理な力」への回復欲求は今ある集団主義・権威主義にかつての威嚇性(威嚇による締めつけ)を再度手繰り寄せようとするものに他ならない。威嚇性を基本態度とした集団主義・権威主義の極端な遡及先(そきゅうさき)は軍国主義であり、封建主義的絶対主義となる。
また「授業が分からなくても」「自己規制しておとなしくしてい」てほしいとする教師の対生徒関係は学校・教師の側から生徒への一方的な教えを構造とする教育を側面援助するもので、前者の対生徒関係欲求は後者の一方通行教育の強化維持を必然化する。教育と教師・生徒の人間関係が相互に双方向のものとなったなら、そのことがいまだ影を残している生徒の「自己規制」を完全に消滅させることになるのだから、何ら不都合はないのに、それを不都合とするのは、学校教師が権威主義的な方法でしか教育できないための欲求としてあるからだろう。
大体が集団主義・権威主義は上位権威者の権威・意志を下位権威者に一方的に押しつけ、下位権威者は上位権威者の意志を一方的に受容する力関係を構造としているのだから、授業が教師から生徒への一方的なものだったとしても、当然の成り行きとしてあるものなのである。生徒の側からの質問や批判・疑義申立(言葉の闘わせ)は集団主義・権威主義の人間関係における一方通行を阻害するものとして必要ないばかりか、障害とさえなる。当然、思想や哲学や
想像力(創造力)を生み出す言葉の応酬(さらに高度な言葉の闘わせ)は生み出されるわけもなく、テストの解答技術と暗記のみを領分とした教育が日本の教育として看板を掲げ続けることになる。もっともその方が国民が自らの言葉を持ち、自らの考えで行動することを恐れる国家権力にとっては都合がいいに違いない。
一人一人であることが求められる今の時代に生徒がみんなして、「授業が分からなくても」「自己規制しておとなしくしてい」る風景は想像するだけでも恐ろしい。個人の権利を高らかに謳っている現代の学校教育の場を舞台としたそのような風景の再上演は時代錯誤という名の過去の亡霊の復活にも等しい。学校・教師から必要とされない存在とみなされ、人間失格者の烙印を焼き付けられた勉強のできない生徒が、「オレにも教育を受ける権利があるはずだ」と腹いせにいじめを働いたり、その他の不良行為を犯すといった誤った権利意識に流されたとしても、考えようによっては正常な光景なのかもしれない。
教室の秩序の確立に外部からの「非合理的な力」に期待する現役高校教師は同じ文章の中で「内面への介入を拒む子どもたち」について、次のように述べている。「いまの子どもたちは、『私の内面に働きかけるな』『私の内部に価値を実現しようとするな』と半意識下で思っている。カンニングペーパーが発見されても、カンニングしようとしたことを認めないのは、彼(彼女)が嘘をつこうとしているというよりは、自分の内部の『物語』に外から介入されるのを忌避したいからである。『おやじ狩り』をする少年がテレビで『あれはジョーク、ジョーク』としゃべっていたが、これも自分の行為の犯罪性を隠そうとしているというよりも、自己の内面で位置づけていることを絶対視しているからである」
集団主義・権威主義の行動様式における人間関係が必要とする人間性は支配と従属を可能ならしめる範囲内に重点が置かれる。いわば上位権威者の権威・威嚇・命令・指示等に対して、下位権威者の服従・受容・畏怖・媚・追従・自己保身といった態度成分で構成された人間性である。思いやりや優しさといった態度成分は自己を集団や上位権威に従属させるときの溶媒となる無批判性とは相容れない。ハッタリの強い人間が出世し、気持の優しい人間が出世から見放される一般的な傾向はこのためである。あるいは気持の優しい生徒が不登校に陥るのも、
原因の一つとしているに違いない。
「授業が分からなくても」「自己規制しておとなしくしていた」生徒と教師との間に存在したのは学校・教師といった集団意志を優先させ、集団主義と学校・教師という上位権威に
自己意志を抑圧させて無批判・無条件に同調・従属する権威主義の空気のみである。いわば純粋な意味での「信頼(トラスト)」ではなく、自分を殺し、自分を無とした無意味な忍耐しか見えてこない。
では、成績優秀な生徒と教師は信頼関係で結ばれているのだろうか。鎌倉幕府は何年に成立したとか、『坊ちゃん』『三四郎』は夏目漱石の作品であるとかの項目的知識や教科書の内容をなぞったなりの解釈を加えるだけの知識を機械的・一方的に教え、咀嚼もなく原形のまま受入れるそのような知識をテストの設問に必要に応じた形で当てはめて成績に反映させる教師と生徒との人間関係に透けて見えるのは単に成績獲得を目的とした技術の授受のみで、例え信頼関係があったとしても、受験競争の遂行と学歴獲得に限定した、いわばお互いの利害の一致が生み出す信頼関係でしかないだろう。
談合を強要する官僚・役人と談合を受容する企業との信頼関係程度に過ぎない。
想像力や哲学の料理を施さずキャベツや人参といった食材をそのまま差し出すような教師からの知識は咀嚼する必要もなく原形のまま受入れざるをえないのだが、そこに生じる信頼関係は日曜日になると上司の家に庭の手入れや洗車に出掛けて御機嫌取りする部下と、そのようなおもねりを当然の如くに受入れる上司との間の信頼
関係程度のものに違いない。
学校・教師が生徒に対する態度を集団主義・権威主義の様式に則っている間は、お互いの人間性に触れ合う信頼関係は望めない。生徒の側からの質問や批判・疑義申立を許さない種類の、生徒の意志を抑圧し、学校・教師という集団意志に同調・追従させる集団主義と、学校・教師を上位権威と位置づけて、それに生徒を無条件・無批判に従属させようとする権威主義に則っただけの、思慮分別・感性・人間性による工夫を何ら凝らさないままの状態での生徒の内面への介入≠ェ生徒の生理的な鳥肌をかき立てることになるとしても不思議はない。
具体的に言えば、ここは重要な箇所だから、覚えろ、このテストで何点以上取らなければ、志望校は難しいとか、生活態度に関しては、ああしろ、こうしろ、それはしてはならない、するのはやめろといった命令・指示の言葉のみでしか生徒とコミュニケーションを図ることができないばかりか、テストの成績で生徒を価値づけ、序列化し、それに外れた生徒をして人間失格者・ダメ人間と決めつける感覚・感受性に対するいかがわしさ・うさん臭さが学校・教師に対する先行意識としてあり、生徒はホンネの深いところでは常に生理的な反撥を性格特性とさせられているといったところではないのか。
いわば、生徒はそれぞれが一人一人なのに気づいているのに、学校・教師が一律であることを押しつける――そのことへの忌避感が「『私の内面に働きかけるな』『私の内部に価値を実現しようとするな』という態度となって表れているのではないのか。
但し、言葉の闘わせを通して自分なりの考え・思いを築く訓練を受けることがなかった生徒がこれが自分の「内面」だと確実に言えるだけの精神性、あるいは「物語」だと説明できるだけのを
思想・哲学を築き上げ、それを言葉でもって表現することができるだろうか。もし築き上げていたなら、言葉で表現しなくても、そのエネルギーはより有意義な目的を見い出すだろうし、短絡的な反抗心から万引きやカンニングを行ってしまったとしても、自分から解決するだろう。解決できないような「内面」あるいは「物語」であったなら、意味もないことだからである。
生徒がカンニングやおやじ狩りに対して外からの介入を拒むのは、単純に「自分たちのやっていることを見ろよ。そんなお前たちに言われたくはないよ」という
相互の善悪の程度を問題にしてのことではないか。学校教師としての務めを満足に果たしていない人間に明らかに悪いことをして何を言えない相手の立場を利用して説教を試みられたら、それが少しのことでも腹立たしいことだからである。
教師が学校社会の秩序を構築することのできない無能力を生徒を買いかぶる言葉でかわす責任逃れの「物語」に過ぎないように思えて仕方がない。
すべての人間が厳密に正義を体現しているわけでもないのだから、他人の不正義を笑う資格はないのに、政治家が正義について説教じみた演説を長々とやらかしたなら、笑わない人間がいるだろうか。ウラを知っている支持者なら、確実に苦笑ものだろう。笑うことができるのは、善悪の比較意識からのもので、決して価値観からのものではない。
もし代表選手が言うように、カンニングやおやじ刈りが「自己の内部の物語」や「自己の内面に位置づけていること」を盾に介入を拒否することを正当と位置づけることが許されたとしても、テストの成績を自己価値を計る尺度とされることへの忌避感とは別個に(テストの成績が人格や性格と一致しない場合が多いことも知っているだろう)、テストの成績を基準に学校社会が成り立っている事実、そしてそれを基にして実社会がつながっている事実は動かしがたい壁となって立ちふさがっている関係上、テストの成績自体を拒絶することもできず、点数獲得欲求が強迫観念化したとき、カンニングに走ってしまう情況は矛盾に満ちていて悲しいが、現在の教育の現状としてあるものであり、カンニング以前に教師はそこに留意しなければならないだろう。
「おやじ狩り」は学校・社会で疎外された位置にいる人間が自分よりも比較下位者を攻撃することで、自己を比較上位者に位置づけると同時に、位置づけた比較上位者としての自己の力を証明しようとする一種の自己存在証明(=自己優越証明)であろう。いわばその種の上下の力関係を自己の優越性と人間価値の証明とする、やはり集団主義・権威主義のメカニズムに
囚われた、それだけではない、倒錯した行動に過ぎない。
当然、成功した場合は自己の勲章となる。仲間同士、「女みたいに悲鳴を上げやがった」
、「ガタガタ震えやがって、助けてくれって女みたいに泣きつきやがった」、「たった五千円だぜ、これで勘弁してくれだって、ザマねえや」とか相手をあざ笑うことで自分たちの行為の凄さ・活躍を披露しあう。そして見事成功した「おやじ狩り」は勲章として記憶され、語り継がれるのである。仕事は満足にできないがギャンブルにうつつを抜かしている人間が過去に大金を儲けた数少ない手柄話を繰返し語り継ぐのは、他のことでは示すことのできない自己人生の勲章となっているからに他ならない。
だが、学校社会から疎外された者が「おやじ狩り」を自己存在証明とするのも、学校も社会も学歴を絶対的な価値としていることの反動、もしくは逆説でしかない。学校・教師が無関係の位置にある現象では決してない。
「おやじ狩り」は相手を見る。手強そうな相手は攻撃対象から外す。酔っている人間、力のひ弱そうな人間、年齢のいった人間――巧妙に計算し、選択する。殆どの場合一人では襲わない。複数で一人の人間を襲う。常に自分たちを安全地帯に置く。いわば確実に成功が認められる場合しか実行しない。絶対的な危険は冒さないという前提のもとに「おやじ狩り」はある。相手を見る狡さの発揮――そういったことを性格特性とするところにまで追いつめている。許されるべきことではないが、学校・教師はその罪を問う種類の、相手の「内面に働きかける」資格はない。
もし見込み違いを犯して、相手の予想外の反撃に会い逃げ出したとすると、彼らは、「馬鹿力を出しやがって」とか、「本気になりゃがって、アイツ、頭がおかしいんじゃねえのか?」と相手を笑うことで襲撃の見込み違い・失敗・慌てふためいた逃走を誤魔化す。多分、「ジョーク、ジョークとしゃべる」ように。
「おやじ狩り」はだらしのない大人たち、「浮浪者狩り」は存在価値のない役立たずの人間だと否定的な対象として把えた上での行為であるから、犯罪意識よりも懲らしめるという正義意識の要素を持ちやすい行為でもある。正義の要素が占める分、自己優越証明も自己存在証明も正当化されやすい。だが、失敗は自己優越証明の否定を意味する。自己意志を抑圧し、集団意志に追従する集団主義意識のメカニズムに束縛されて、常に周囲の目、特に上位者の目を意識して行動するために、失敗した行為が誰か他人の目に触れてしまった場合、ニヤニヤ笑いや冗談化で失敗の恥ずかしさを誤魔化す。日本人が何か失敗したとき、あわてて周囲を見まわすのも同じ心理的メカニズムに添ったものである。人目に触れるのを恐れ、誰も見ている者がいなかったと確認できたとき、ホッとする。衆人環視のもとで改まった行為をするとき往々にして冗談めかした態度を装うのも、正常な姿を維持しようとする思惑に反して失敗した場合の恥ずかしさを前以て予防しておこうとするからだろいう。
例え「自己の内面で位置づけていることを絶対視している」ための「ジョーク」行為だったとしても、あるいは「おやじ」を標的とした単純な襲撃ゲームだったとしても、成功の見込みのある相手しか攻撃対象として選ばない、いわば逆襲の危険性の少ない相手のみを狙う巧妙にして狡猾な計算という不純なものの介在はジョークの正当性もゲームの正当性も失わせる。
そのような正当性を欠いたゲーム、あるいはジョークを自己優越証明の道具とし、勲章とする。いわば戦果の競い合いを得々と行い、大いなる達成感と大いなる満足を得る。何と程度の低い自己存在の「位置づけ」であり、そのような自己に対する程度の低い「絶対視」だったとしても、やはり学校・教師に
異議申立の資格はない。
5.新指導要領における「総合学習」なるもの
「新指導導要領案」は小・中学校は2002年度4月から実施され、高校では2003年度からだが、各学校の判断次第で2000年4月から前倒し実施できるそうだから、既に実施が進んでいる学校もあるだろう。新要領案が意図するところは、新聞記事を総合すると、「二十一世紀の学校の青写真を描くもの」だそうで、大風呂敷過ぎないかと心配になるくらいである。目玉である「総合学習」の「その最大の狙いは、子供たちが自分で課題を見つけ、自分で解決する『生きる力』を身につけることにある」ということだそうだ。
冷水を浴びせるようだが、文部省や学校・教師が生徒の行動と精神に有形無形の管理を施す集団主義・権威主義の行動様式・意志伝達方式を断ち切らないことには、「子供たちが自分で課題を見つけ」る自律的創造性も、「自分で解決する」主体的能力や感性の獲得も不可能に近い。
管理と自律性も主体性も衝突しあう方向性にあるからである。管理が行き過ぎると、自律性・主体性を抑えて、個人の感性や創造力(想像力)の芽を摘み取る方向、あるいは歪めてしまう方向に動く。その結果として、日本の中学生は国際的に比較した場合、「計算は得意だが、考え方や多角的な見方を記述式で試されるのは苦手」という能力傾向を招いているのである。公式を当てはめたり、数式を決められた方式に従って解くのは暗記力の応用、もしくは訓練の積み重ねによって片づくが、「多角的見方」(多角的解釈)は他人からそのままの形で受止めたものではない、その人間に独自な経験や認識・想像力と深く関わりながら思考の回路を濾過させる過程でそれらの相互的な触発を必要とする。
思考の回路を濾過させるとは自己と向き合い、自己と対話することであり、家庭では親と、教室では教師と対話する機会も訓練も与えられていない子どもたちが自己との対話の習慣を獲得できようはずがない。親が勉強しろ、早く寝ろといった命令・指示の言葉でしかしつけができず、教師が教科書の内容を機械的になぞるだけの解釈で済ませ、生徒がそれをそのままの形で受容する、あるいは暗記することで相互の関係を完結させているのであって、そこに「子供たちが自分で課題を見つけ、自分で解決する」余地は日常普段から与えられていないのに、「総合学習」の時間だけで問題解決できると思ったら、大間違いである。
親・教師ともに独自の言葉を持たない結果物としての、言葉や想像力(創造力)の道草を剥いだ形式的な伝達によって成り立たせているしつけと教育の横行が、多角的見方の未熟を生じせしめているのである。簡単に言えば、親や教師が「多角的見方」(言葉や
想像力・創造力の活用)を常のものとしていたなら、子供たちはそれを自然と受け継ぐはずである。親や教師が多角的見方をしていないことに対応する中学生の苦手なのである。
勿論このことは中学生の成長形態である高校生・大学生についても言えることである。逆説的に言い換えると、学校・教師が生徒にテストの設問に頭に暗記した知識をどうにか当てはめれば解答として成り立たせることができる程度の小手先の教育しか施していないことの成果として、「計算は得意だが、多角的見方」は
「苦手」という現象があるのである。
総合的に言えば、集団主義・権威主義が支配と従属の循環(言いなりの行動形態)のみで成り立ち、人間関係、及び社会行動に想像力(創造力)を特別に必要とせず、排除していることにつながる習性としてある「多角的見方」
(多角的解釈)の欠如なのである。
当然このことは日本人全体に言える習性である。それはモノマネ行動となって現れている。モノマネとはなぞり、あるいは従属を意味する。日本人自らの手になる発明品は少なく、外国の技術、及び思想のマネによって日本の物質文化だけではなく、精神文化をも成り立たせている。特に製造・機械レベルの技術は外国製品のマネ(なぞり・従属)から始まり、改良を加えることで外国製品を上まわる品質を作り出しているが、思想や想像性(創造性)・哲学を母とする、人間を人間たらしめる制度や文化の面での発想は十年遅れ、あるいはそれ以上の遅れで外国の後追いはするものの、外国の制度・文化を上まわる内容の充実を果たせず、常に不完全な状態で後追いに終始しているのも集団主義・権威主義が人間意識・人権意識につながる想像力(創造力)を本来的に排除させているからである。医師の患者に対する治療に関わる情報公開と患者自身の選択による治療法決定システムとしてのインフォームド・コンセントやセカンド・オピニオン、あるいはカルテ開示やホスピス、盲導犬や介助犬、臓器移植、ボランティア活動、オンブズマン、各種のカウンセリング、そして行政機関の情報公開といったそれぞれの思想と制度・・・・例を挙げたら、キリがない。すべてが欧米から輸入した思想と制度であり、欧米の充実度に比較した場合の常なる不完全な推移状態となっている。
このようなモノ作りの完璧さに対する思想・制度面での不完全・不備・後追いに四苦八苦する人権意識の未発達(人間後回し)はこの国に物質的な価値を支配的とする社会を作り出している。学校においては、物質的に豊かな生活の獲得のみを目的とした学歴獲得競争を初めとして、女子高生のブランド品志向、それが女子中学生にまで及んでいる状況。あるいは必携品と化した携帯電話――物質的なものにまで権威を付与し、そこに自己優越の根拠を置く。これも日本の教育の現状を物語っている。
企業が生産性を上げるために管理主義と名を変えた集団主義・権威主義で従業員を管理し、同調と従属を強制してロボット化するのは勝手である。しかし、教育とは知識・教養だけではなく、精神の自由を学ぴ、獲得するはずのものである。封建時代や軍国主義時代に通用した集団主義・権威主義が個人が個人として立つことを基
本原理とする自由と平等、民主主義と基本的人権の時代にも通用していることの矛盾が教育をおかしくしていることの大きな原因となっているのである。そこに「総合学習」を額縁程度にはめ込もうと言うのである。
「総合学習」が主要テーマとする「生きる力」とは、「子どもたちが自分自身で考え、問題を解決する」と新聞で言っているように、自律的・主体的に考え・決定する、極めて
自発的能力を言うはずである。このことは子どもの現状が自律的・主体的に考え・決定する自発的能力に欠け、自分で考えることも決定することもできない、他人の意見・指示に依存した思考・行動しかできない他力的状況にあることを裏返す課題として出てきたものだろう。
多分大方の解釈は、生きていく上で困難に出会っても、それに耐え、乗り超えていく力とするだろうが、「耐え、乗り超えていく」とは、自分がどうあるべきか・どう行動すべきかの判断(=考え)を前提としたその人なりの態度選択(自己決定)に関係した自己コントロール能力の発動なのである。いわば様々な思考経験の積み重ねによって獲得可能な考える能力が決定する行動形態なのである。
よく無謀な行為や、らしくない行為をすると、「考えもないことをする」と顰蹙を買うが、すべての人間行為が考え(思考・判断)を土台としていることを暗示する言葉であろう。
考える能力(思考能力・判断能力)は相互的な意見の交換(=言葉の闘わせ)による言葉の訓練を経たその人間なりの言葉の獲得によって成り立たせ得る。それは現実の人間と人間との間にだけではなく、映画や書物の登場人物との間においても構築可能なものである。登場人物の言葉そのもの、あるいは物語を通しての作者や製作者のメッセージを味わい反芻(はんすう)する過程で自己の考えや想いを織り込んでいくことによって育むことができる。
だが、何よりも人と人との意見の交換(=直接的・現実的言葉の闘わせ)による、他者を知り、同時に他者によって自己を教えられ・自己を知るプロセスが現実生活に直接的に関係する考える力(思考能力・判断能力)の育成に役立つはずである。
2000.1.26の「朝日」朝刊に日本教職員組合(日教組)教育研修全国集会(開催地金沢)での「総合学習」の実践例報告が紹介されていた。千葉の高校での「ゴルフ場の農薬使用など身近な環境問題」の調査とか、「『クワガタムシ』『お寺』など、子どもがテーマを選んで、地元の人から話しを聞く」(三重の小学校)とかである。
「子どもがテーマを選んで」と言っても、別の授業での教師対生徒の関係が教師の命令・指示と生徒の同調・従属を構造としていたなら、「総合学習」においても本質のところでは同じ構造を習性とし、教師の誘導を受けた、生徒の側から言えば、教師の誘導に依存した態度決定となることから免れることは困難で、表面的な形式にとどまることになり、生徒の自律的
・主体的な選択とはなり難い。いわば要所要所で教師の命令・指示を受けた、形式だけの「子どもがテーマを選んで」に過ぎない疑いが濃厚だということである。
言葉を変えて言えば、普段から教師が(親にしても同じだが)子ども・生徒を自律(自立)した存在として扱い得ていないのだから、「総合学習」の時間に限って、子ども・生徒を同調・従属の桎梏から解き放つことは不可能なのである。いわば学校生活全般にわたって集団主義的・権威主義的人間関係・意志伝達の慣習をまず取り外さなければ、新しい指導要領のたびに導入される、「ゆとりの時間」だ、「総合学習」だといったあの手この手の教育はこれまでと同様に効果を発揮しないままに有名無実化する歴史をたどることになるだろう。現在進んでいる学力論の前に敢えなく敗退していく状況を今後とも繰返すことになるだ
けである。
同じ新聞は教育研修全国集会での次のような指摘も載せていた。「基礎学力の低下を心配する声もある。石川県の中学校教員は、英単語の試験で問題を事前に教えても、半分以上が合格点に届かない現状を明かした。『総合学習が新設されると、基礎基本の反復練習をする時間が減ってしまわないか』」
「英単語の試験で問題を事前に教え」、全員が「合格点」どころか、100点満点を取ったとしても、「基礎学力」の向上には役立たないだろう。「問題を事前に教え」ることはいい点数となることだけが目的のその場を誤魔化す作業でしかなく、決して「基礎学力」の向上が目的となるものではない。教師自らが愚かしい矛盾を犯しながら、基礎学力の低下を心配するも何もあったものではない
。
この単語とこの単語が出るからと生徒に教え、生徒が暗記するプロセスは単に教師の命令・指示を生徒が無条件・無定見に同調・従属する教育構造の典型として現れたものに過ぎない。いい点を取ってその場をしのぐことだけが目的の場合は、そのような構造に忠実に従うだけで問題は解決するが、生徒自らの知的感受性・知的
想像力(創造力)を何ら刺激するものとはなり得ない。生徒の「基礎学力の低下を心配する」よりも前に、教科書をなぞり、それをコマ切れの知識にして生徒に伝えるだけの一方通行の授業から足を洗い、生徒の知的感受性・知的
想像力(創造力)を自律的・主体的に刺激することのできる授業に改めることが先決問題としてあるはずである。知的感受性・知的想像力(創造力)の刺激こそが、「考える力」「解決する力」を導くからである。
そのためには言葉の介在を欠かすことはできない。
「問題を事前に教えても、半分以上が合格点に届かない現状」とは、暗記するだけの基礎学力がもともと欠如しているということだけではなく、その教師の授業が退屈で、真剣に話しを聞く習慣がなかったとか、教えてもらっていい点を取ったとしても、他の教科のテストの点とのバランスで、本質的な問題解決にはつながらないことを知ってしまっているかして、いい点を取る意欲さえ失っているといった事情も含まれているに違いない。教師自体がその場しのぎのことしかできないから、そういったことを解読することさえできず、責任を生徒に転嫁して嘆くだけといったお粗末な状況を示すしかないのだろう。
99.7.30.の「朝日」には「総合学習」に関して、「2002年から本格的に始まる『総合的な学習の時間』の研修授業」の参観に立ち会った「ベテランのミサト先生」(女性教師)の感想という体裁を取った記事が載っていた。
「教科書もないし、この新しい授業は形がつかめず、先生たちにとっては悩みの種だ。この日は全員の先生と保護者が見学していた。
『町を改造しよう』という授業だった。
あるグループは、学校近くの汚れた川をどうすればきれいにできるのか、発表した。『川の水を全部ほかのところに移して、きれいにしてからもう一度入れればいい』という。
別のグループは、あまり子どもたちが遊ばなくなった空き地を『スケート場にする』といった。
『スケート靴はどうするの?入場料は?』
別の子供から質問が出た。
すると発表していた男子は、
『それは大人が決めること。僕たちは役人じゃないから・・・・』と答えた。ミサト先生は現実性がなくても発表してしまうという子供たちの姿勢に不安を持った。
『人の意見を吸収しない。わからないことは大人任せ。いまの子の短絡的な姿勢がそのままでしょ。自分たちの考えを練り上げて、社会を生き抜く力をつけるために総合学習ってあるんじゃないのかしら』」
「現実性がなくても発表してしまうという子供たちの姿勢」、及び「人の意見を吸収しない。わからないことは大人任せ。いまの子の短絡的な姿勢」とは、合理的な思考構築能力の欠如した状態が正直に反映した姿としてあるものであり、それは同時にそのような能力を獲得する習慣とすべき日常的な意見・言葉の闘わせ教育の不在の成果としてあるのであって、「子どもの姿勢」批判はお門違いと
いうものであろう。
いわば「ミサト先生」が批判する「子どもの姿勢」は日本の教育が教師対生徒・生徒対生徒の言葉の闘わせを省いた、教師から生徒(上から下)への一方通行の意志伝達によって成り立っていることの証明としてあるものである。「ベテラン」教師でありながら、そこを見抜けないのだから、「社会を生き抜く力をつけるために総合学習ってあるんじゃないのかしら」という感想も、誰かからの受け売り以上のもの
から出ないタテマエで終わる疑いが濃い。
「教科書もないし、この新しい授業は形がつかめず」という感想も、非常に象徴的である。「ゆとりの時間」も「教科書」が「な」かったから、どう対処していいか分からなくて、文部省にお伺いを立てたのである。いわば「教科書」がなければ満足に教師を維持できない――裏返せば、「教科書」に同調・従属する(依存する)姿が窺えるのみで、教師が如何に学校教育者とは名ばかりの存在なのか、このことでも分かろうというものである。
このような教師の姿は説明するまでもなく、「大人が決めること。僕たちは役人じゃないから」という子どもの態度と同じラインにある姿でもある。いわば学校教師という大人のありようを受けた子どものありようであることのさらなる証明でしかなく、教師には批判も非難もする資格はない。
言葉の闘わせの不在はこの記事の生徒同士の意見の交換が通り一遍なことからも十分に窺える。生徒の意見が「現実性」のないものなら、担任教師がより「現実性」のある方向に誘導すべきであり(ほんのちょっとしたアドバイスや疑問の提出にとどめることによって、生徒の同調・従属を強制する一方的な命令・指示から免れることは可能となる)、生徒の意見交換を通り一遍なものからより活発なものにしていたなら、「ミサト先生」の不安は最初から存在しなかっただろう。ところが担任教師はそうしなかった。教師自身が言葉の闘わせに関わる思想を持ち得ていないからである。問題は生徒よりも教師にあると言える。
「川の水を全部ほかのところに移して、きれいにしてからもう一度入れ」るという考えは必ずしも非現実的ではない。冬の渇水期にまだ汚れがなく清流の状態にある上流地点を除いて、河口方向に
要所要所に取り外しが簡単にできるように鉄板を組み立てた程度の堰(ダム)を設置し、上流部分からそれぞれのダムを浄水して、清流部分に流し、くみ上げ終わったなら川底のヘドロを処分した後、堰を外してそこまで清流を引き込むことを下流方向に順次繰返していく方法である。それには
巨額の予算と巨大な浄水機が必要となる。浄水機の設置は船に取付けるか、底が浅ければキャタピラ式の台上に取付けるかして必要に応じて移動させることとすれば、他に場所を取らなくても済む。
だが、川にゴミを捨てたり、家庭排水や工場排水を従来どおりに垂れ流し状態に放置していたなら、例え巨額な予算がついたとしても、浄化した先から汚れていくことになる。いわば一時的な効果しか生まない無駄な努力を行うことになる
。
川は自然に汚れるのではなく、ゴミの不法投棄から家庭排水・工場排水によって人間が汚すのだということ、さらに川にはそれ自体に自然な浄水能力があるが、その浄水能力を上回る人間の汚しが川の水を汚水化させているのだということ――そういったことを教えていたなら、まずは一人一人ができる方法で川の浄水機能を回復させる方向に子どもたちの意識は働くはずである。それが道草や寄り道を省いた、教師の話す言葉・黒板に書く文字をノートに書き込む方式が主体の、考える機会を与えない一方通行の意志伝達教育によるものだから、例え教えていたとしても、川の水を入れ替えるといった発表になるのである。
もし教師対生徒、生徒対生徒の意見交換・言葉の闘わせを通して考えながら学ばせるプロセスを踏んでいたなら、「それは大人が決めること」といった他人任せの言葉は口をついて出るはずもないだろう。活発な意見交換・活発な言葉の闘わせが思考能力・判断能力の訓練と獲得につながり、自分たちで解決しようとする「生きる力」の成分へと発展していく契機となるはずのものだからである。
「教科書もないし」という教師の側の戸惑いが如何に教科書頼りの教育かという証明なのは既に説明したが、さらに解釈を加えると、言葉の闘わせによって教科書から一歩も二歩も出る教育を習慣とすることで教科書を単なる参考書の位置にとどめていたなら、教科書のない授業に出くわしたとしても戸惑うことはないばかりか、「現実性がない」、「人の意見を吸収しない」、「短絡的」だといった「いまの子の」「姿勢」も存在しないだろうし、そもそもからして「総合学習」なる授業を新指導要領でわざわざ設ける必要も生じなかったろう。
言葉を言い換えて説明すれば、「子供たちが自分で課題を見つけ」、「自分自身で考え」「(問題を)自分で解決する」ことをルールとする教育はすべての教科・授業においてこそ基本とすべきもので、「生きる力」の基礎となる自律性(自立性)や主体性はその成果に呼応したものとして獲得されるのである。
当然、「中学校構造改革」は「子供たちが自分で課題を見つけ」、「自分自身で考え」「(問題を)自分で解決する」構造に添ったものとしならなければならない。
6.集団主義・権威主義の排除
本質的には荒廃した教育を改めるには学校・教師から生徒への一方通行の教育を双方向のものに作り替えなければならない。当然、個人を無視し、集団優先の集団主義的存在様式、上位権威から下位権威への一方通行な権威主義的存在様式を打破し、対等な存在様式へと持っていく必要がある。
いわば学校・教師と生徒がお互いに忌憚なく自己主張し合う関係である。勿論自己主張には相互的な批判や異議申立も含まれなければならない。アメリカからの帰国子女である女性テレビタレントがテレビで、「アメリカの教育は疑問に思ったことは必ず質問しなさい。言われたままに行動すると、後で必ず後悔しますからと教えられる」と発言していた。これは日本の教育がアメリカの教育の裏返しにあるものと意識した観察であろう。
下位権威の立場にある日本人は質問や疑問があっても、呑み殺してしまう。それは「授業が分からなくても」「自己規制しておとなしくしてい」る生徒と同じく、集団主義・権威主義の原理に絡め取られた心理機制としてある。現在の学校で言えば、「授業が分からなくても」「自己規制しておとなしくしてい」る苦痛の忍耐は権利意識とのバランスが悪く、バカらしい限りだが、正しい権利主張・正しい自己主張の方法を知らず、学校・教師側もそのような方法に道を開かないまま無頓着に放置している結果、学校・教師が生徒を支配・従属させている集団主義・権威主義の構造は本質的には変化はなく、お釈迦様のテノヒラの孫悟空のように集団主義・権威主義の支配と従属の範囲内で私語や授業中に席を立って動きまわるといった、本人にすら目的も理由も分からない反抗の形を取った権利主張・自己主張が蔓延し、それが学級崩壊となって現れているのである。
そういうことはおかしいのではないのか、間違っているのではないのかといったことを常日頃からわだかりもなく双方向から主張し合うことで心理的な抑圧を取り除く努力をしていたなら、「キレて」ナイフなどで教師を刺し殺してしまうような事件は
余程のことがない限り起きないはずである。
学校教育者なら、ナイフを突き刺すのも自己主張の一つの現れなのだということに思い至らなければならない。ナイフを突き刺す行為がどのような代償行為だったのか、その元となる自己主張を見極めなければならない。
抑圧された人間が自分にとっての正直な気持を(他人から見た場合、甘えであったり、独りよがりなものであったりすることもあるだろうが)心理浄化の表現の一つとして選んだのが、例え法律に反し、犯罪を構成する行為であったとしても、ナイフで教師を刺すという行為であったはずである。
今ある教師・生徒の人間関係を好ましい方向に持っていくためには集団の意志を優先させ、生徒個人の意志を抑圧・支配する学校・教師の集団主義・権威主義の構造はそのまま批判や
異議申立を封じ込める骨組を二重構造としているということを常に頭に入れておき、その種の人間関係・力関係を避ける努力が必要となる。
対等な存在様式とは、言うまでもなく一人一人が対等に立つことを意味する。言い換えれば、学校・教師にとって生徒は管理の対象でなくなる。教師も生徒も自らの責任において
自律的・主体的に行動しなければならない。当然権利と同時に義務と責任を付帯させなければならない。支配と従属ではなく、自己責任を行動様式の基本的原理とするのである。
教師が教科内容に自己責任を負うとは、教師自身の人となり・個性・人生上の体験が反映されたものとなることを意味する。同じ英語の文章を教えても、授業自体はそれぞれの教師の感性・想像力と響きあった、微妙に異なる内容となるはずである。生徒にしても自己責任を柱としたとき、教師の教えに受身であった状態から踏み出し、学ぶ行為に自分から飛び込んでいく姿勢を示さねばならない。
結果的に判で押したような似たりよったりの画一授業は生徒側から「自己規制」されることなく、拒絶の意思表示を正当なルールに則った明確な態度で突きつけられることになるだろうし、そのような授業しか与えることのできない教師は失格者に位置づけられることになる。
自己責任の導入が学校教育を上から下への一方的な知識の授受=管理教育であることから脱け出す重要な方法となり、羅列的に提示された項目的知識を羅列化した状態で記憶する、あるいは教科書をなぞっただけの表面的な解釈とそれに対応する表面的な理解を試すだけの機械的な設問と機械的な解答で成り立っていた教育形式は、教師自身の学問上、あるいは生活上の体験から得た思想、及び想像力を濾過させ、解釈を経た、いわば今までの単なる言葉の説明から脱して、生徒の感性・想像力を刺激する活性化された言葉へと変身を遂げ、初めて生徒は「学び」を体験することのできる形式を備えるはずであり、「学んでいる」という充実感が学校教育の双方向性をより高める歩みとなるはずである。
集団主義・権威主義の破壊による自己責任意識の培養は中学校の非義務教育化に優るショック療法はないだろう。学ぶ姿勢・学ぶ意欲を持てない生徒は当然排除される。但し、生徒にとってテストの成績と運動能力に限った可能性の場であった今までの中学校社会をありとあらゆる可能性の場に変貌させなければならない。言い換えるなら、テストの成績と運動能力のみに限られていた生存機会を可能な限り多様化して、洩れなくすべての生徒に提供することから始めなければならない。
かつて高校進学を望みながら成績の悪い中学生は職業高校に半強制的に進学させられ、そこで木工職人や大工、あるいは機械工となることを前提に木工技術や機械技術を習得させられた。デキの悪い生徒は職人や工員になるべきだという考えが社会的常識として通用していた時代であり、それは人間の価値を職業の違いで決めつける職業差別意識に根ざしていた。根ざしていたからこそ、「一生懸命お勉強しないと、ああいう人間になってしまう」という意識の芽生えが社会的に存在し、その延長上に今もって高学歴必須職業に対して3K職業を対極に置く貴賤意識=人間価値意識を根強く生じせしめているのである。
勿論成績優秀な生徒を集める工業高校は存在していたが、そこは中間的技術者の養成を目的とした学校であり、みなと同じ世間並みの高校生活と世間並みの学歴獲得を目指していて、デキの悪い生徒を収容する、勉強は方便でしかない職業学校よりも可能性の自己選択がより自由な社会であった。
中学校非義務教育化は勉強や運動能力から落ちこぼれた生徒を対象に、中学校の学歴もないのは恥ずかしいという世間体解消を目的に学歴提供を形式とする中学校をも設立する種類のものであってはならない。いわば排除を前提とするのではなく、それぞれに合った可能性・生存機会を自らの意志と責任で自由に選択できる場――「子供たちが自分で課題を見つけ」、「自分自身で考え」「(問題を)自分で解決する」場の提供を前提に、学ぶ姿勢・学ぶ意欲を持たない生徒は結果として排除するというメカニズムで運営されなければならない。それはどのような内容を備えた中学校なのか、後に詳しく述べることにする。集団主義・権威主義を外堀から埋めて、その封じ込めに向けた第一歩をどこにどのような方法で置いたらいいのか、まずは考察する必要がある。
中学校を非義務教育化したからといって、日本人が封建主義のはるか彼方の時代から思考様式・行動様式としていた集団主義・権威主義から即座に解放されるわけのものではない。幼い頃から徐々に訓練づけていくことによって、その効果は大きくなるはずである。幼少から習慣づけられている集団主義的なもの・権威主義的なものを気候が暖かくなるにつれて着ている物を一枚ずつ脱いでいくように剥いでいかなければならない。
まずは小学校の集団登下校の廃止から取り組まなければならないだろう。集団登下校とは複数の年長者が共同責任者となって、学校で決めた同じ地域に住む一定人数の年少者と指定された集合場所で落ち合い、学校まで集団で登校することを言うが、年長者と年少者が特に会話を交わすというわけでもなく、学校が決めたこと――いわば上が決めたことに形式的・機械的に従っている体裁のもので、
集団主義・権威主義の補強に役立っているが、それは同時に自己責任意識の培養から遠ざかるものである。集団の意志を優先させ、個人の意志を抑圧する集団主義の行動様式においても、上位権威者の言いなりに従う権威主義の行動様式においても、そこには自発的行為性はなく、いわば集団・上位権威に意志・意識・行為とも預ける形で自己を存在させているために、責任をも預けて、習慣的なものとすべき自己責任意識は常に欠いている状態にある。当然、自
発的活動は望むべくもない。
集団登下校は車の事故から身を守ること(現在は痴漢から守ること)を主目的としたものであろうが、どう車を避け、道路をどう横断するかは自分が決め、自分の責任とすべきである。いわば集団で守り合うのではなく、最初から自分で守るという意識を持たせることによって、身体的なものだけではなく、精神的な反射神経をも養うことができる。身体的・精神的反射神経も、「生きる力」の一部となり得るものである。
(確かに幼児に対する性犯罪の防止は難しい問題だが、集団登下校が集団主義・権威主義の日々の刷り込みになっていることも事実である。集団登下校になるべく頼らない防止法を考案すべきではないだろうか。例えば勤めを離れた高齢者が健康維持の運動にいつも決まりきった時間に決まりきったコースを散歩するケースが見受けられるが、そういった高齢者を対象にスケジュール表をつくって、ときには各高齢者
に最寄りの学校の児童が登下校する時間帯の通学路に散歩のコースと時間を交互に変えてもらうとか、あるいは警察のパトカーや地域の防犯巡回車が単に通学路をなぞって走るのではなく、「ただいま警察(あるいは地域)のパトーカーが巡回中です、不審者を見かけたとかの目撃がありましたら、パトカー(巡回車)を停めてお知らせください」とか言葉を使った音を出すことで走行中の通路だけではなく、声が届く
広い範囲にまで心理的な警戒効果がカバーできるようになるのではないだろうか。あるいは通行人がいたら時折クルマと停めて、窓からでもいいから、「何か変わったことはありませんでしたか」と声をかけるのも、通行人がたいしたことはないと思っていても、教えたことが重大な情報につながるといったことも起こり得るかもしれない
し、効果があるのではないだろうか
。あるいは下校時間帯に市の広報のスピーカーから、童謡の『浜辺の歌』や『ふるさと』のメローディーを流したなら、心を浄化を促す効果とならないだろうか)
大体が、学校が決めたとおりの道を決めたとおりに集団で登校して、歩道や道路脇を忠実に歩いていたとしても、車の方から暴走して突っ込んできた場合はどう避けようもない。集団登校の列に暴走車が突っ込んできて、何人かの死者を出した事故が実際に起きてもいるし、青信号の横断歩道を渡っていて、車にはねられることもある。もし暴走運転者が幼い頃から通学は一人か数人の親しい仲間とだけで行い、他人任せではない自らの判断で通行の激しい車を避けて信号機のない道路の横断や狭い道路の歩行の安全を確保する習慣
(=「自分で課題を見つけ、それを自分の力で考え、解決する」総合学習方式の能力)を学習していたなら、例え車を運転する立場に変わっても、歩行者の安全に配慮する反射意識が条件的に働き、運転にT・P・Oを設けるようになるのではないだろうか。
集団登校の廃止は当然、父母の交通整理の廃止につなげなければならない。かつては緑のおばさんと呼ばれ、緑色の服を着て、小学生の通学路の交通整理に当たったが、現在では生徒の父母が交代で勤めている。父母が道路の両端から黄色の旗を横断歩道を囲うように差出して車の通行を止めると、それを合図に子どもたちは一斉に道路を渡る。少し遅れて歩いてきた生徒がいると、急いで手招きして、慌てて走らせてでもついでに渡らせようとし、子どもも、その指示に言いなりに従う。子供は父母が車を止めたついでに渡りたいと思ったなら、自分から走り出すはずである。いわば手招きは本人の判断に反する意志の強要、あるいは支配でしかない。例え自分から走り出しても、手招きされるのを学習していて、条件反射的に応じたものなら、間接的な意志の強要・支配となる。
これは一見些細なことではあるが、他のことによる個人の意志の強要・支配とも併せた複合的な集団主義・権威主義習慣の積み重ねを考えると、些細では済まされなくなる。世の大人たちは知らず知らずのうちに日常的に子どもたちに集団主義・権威主義の行動様式を重ね着させているのである。
次に幼稚園から高校までの制服を廃止し、服装の自由化を図るべきである。その場合、親の側からの何を着せていいのか分からないとする意見は周囲に自分を合わせ、従うだけの同調と従属を旨としてきた集団主義的・権威主義的生き方に齟齬(そご)を来すことへの戸惑いから出たもので、前にも触れたが、「ゆとりの時間」に関しても「総合学習」の時間に関しても、どのような内容の授業をしていいのか判断することができなかった、あるいはできない学校側の困惑と近親関係にある対応であろう。
親や子ども自身が服装を競い合って、派手になると心配する向きもあるが、これは身なりで自己を他人よりも上位権威に置き、そのことで人間的価値が他人よりも優れているとする、やはり集団主義・権威主義から出た、その範囲内の差別化志向にすぎない。だが、感性や想像力(創造力)の欠如が誰もがマネ(なぞり・従属)のできるモノの力を借りた差別表現のみを可能とする結果、差別化を決定づけることができず、大方は同調行為(類型化)で安心を得る自己保身で完結させるファッションの画一性で終わっているのが現状である。少しずつ時間をかけて、服装は人間を表面的に飾る道具でしかないことを教え、何を着ようとも、自分は自分だという意識が育つのを待つしかない。
いずれにしても、何をどう着ようが、ピアスで競おうと耳たぶに何個穴を開けようが、
そのような差別化による自己優越化は哀しくも滑稽であるが、すべて本人の自己責任に任せれば済むことである。学校教師の役目は自己の想像力(創造力)・思想・哲学によって化学反応させた学校教育を通して生徒の知識向上だけではなく、想像力(創造力)・思想・哲学の芽生えと育成に刺激を与えることである。そういったことには完璧に無能で、教科書の内容をなぞるだけの知識の授受しかできないから、不登校の生徒を自宅まで迎えにいったり、学校に行かないで街に出て遊んでいる生徒を盛り場まで出掛けて探したり、あるいは服装や持物の点検といった生徒の生活態度への干渉をも役目に引受ける誤魔化しでお茶を濁しているのであり、そういった努力の結果としてあるのが現在の教育の荒廃状況そのものなのである。
自己責任意識の敷衍を考えると、朝の校門での生徒の取締り、遅刻者のチェック等も当然廃止項目に入れなければならない。遅刻者の教室への途中入室は他の生徒の迷惑を考えて禁止し、そのことによる成績の低下も自己責任とする。それを補う方法として、図書館等での自習の機会を与えればいい。
だが、何よりも全校生徒一斉のラジオ体操の禁止は重要であろう。集団ラジオ体操は集団主義・権威主義意識の刷り込みの象徴的な営みとして無視できない力を発揮している。集団、及び上位権威者の意志が下位権威者の意志を全体的・集団的に支配し、その一挙手一投足を集団行為として操る。それは穏やかな装いで仕掛けられてはいるものの、同じ行為をさせることを通して、集団意志に権威主義的に従わせる象徴として機能している。
よく見かける光景だが、集団ラジオ体操に参加している一人一人を観察すると、集団の後列方向に位置する程、ラジオ体操の音楽や周囲の動きに合わせて適当に手足を動かしているだけの人間が目につく。逆に前列の方向に向かうにつれ、それぞれの動きは正確度を増し、懸命に演じている。特に最前列に位置している、会社なら上司の地位にある者たちは正確この上ない熱心さを身体全体ににじませた体操をする。集団に位置する場所に従って熱心さに違いが出るのは集団や上位権威に対する態度決定が自己の置かれたありとあらゆる状況(精神的・心理的・物理的・序列的状況)に対応していることの正直な反映だからで、ラジオ体操は鏡の如くに集団主義・権威主義の人間関係構造そのものを映し出している
。
態度の内容が状況次第の変数であるために、忠実度も常に相対的であることを免れることはできない。普段はラジオ体操に適当につきあっている人間にしても、全体が見渡せる壇上とかの高い位置から集団・組織のトップ、あるいはそれに準ずる人間がラジオ体操の指揮を取るといった場合、体操する位置に関係なく、またその集団・組織における自己の地位や役割・立場といった序列の違いにも関係なく、さらに会社に対する印象・好感度といった心理的な距離感にも関係なく、ただ単に直接見られているという状況(その印象によって評価が決定するかも知れないという状況)によって、一人残らず熱心に規則正しいラジオ体操を行い、忠実な集団成員と化す。
学校社会に置き換えて言えば、全校集会などで生徒がだらけていると、見せしめに生贄の生徒を体罰的に締め上げて、全員の気持の引き締めを図るといった手を使うそうだが、生徒に対する教師の心理的な位置関係の知らしめによって、生徒は自己の置かれた状況を悟り、態度を変えるのも同じ線上にあるものである。決して集団主義・権威主義から離れた、
自律的・主体的自己責任行為としてある態度ではなく、学校・教師は生徒を単に集団主義・権威主義の支配下に置いているに過ぎない。
すべてが相手次第・状況次第なのは集団主義・権威主義そのものが相手との力関係に応じて心理的な距離関係を決定づける相対性を構造としているからである。同じ地位にある複数の上司それぞれに対して、それぞれの力関係や評価・期待・信用等の差異に応じて部下が微妙に異なる態度を示すのも、相手との心理的距離の違いに応じたものとなるからである。
個人を号令一下集団で同じ動作・同じ行為の枠にはめ込むのは個人がそれぞれに抱えている異なる感情・異なる心理に対する抑圧の強制を意味し、集団主義・権威主義への同調・従属を加速させるものでしかない。いわばラジオ体操の廃止は集団意志及び上位権威を優先させ、自己意志を抑圧する集団主義・権威主義に添った同調・従属(=自己保身的態度)からの部分的解放を意味する。
肉体訓練も運動も、自己責任とすればいい。但し、本人の怠惰・不摂生(不節制)を原因としない身体状況(知的障害や身体障害など)を排除するものであってはならない。
制服や運動着の名札も廃止事項に入れるべきである。問題を起こした生徒がどこの中学校に所属しているか、あるいは何年何組の誰なのか一目で把握できるというが、それを問題とするのではなく、集団主義・権威主義から解放された人間関係の世界ではどこの誰であっても構わない。その行為・意識の是非をこそ、問うべきなのである。
ところが集団主義・権威主義社会にあっては、その社会の流れに従わない者は落伍者(最悪の場合は異分子・異端者)と位置づけ、排除可能な場合は排除し、不可能な場合は集団意志・上位意志の支配下に強制的、あるいは逆になだめすかしてでも再取り込みを図り、何もなかったことに取り繕おうと集団秩序を優先させるために、「何をしたか」よりも、「誰がしたか」を問題視する。そのために同じ行為を犯しても、集団に占める位置や立場の違いによって許されるといった
矛盾も起こる。
集団主義・権威主義意識への交配を阻止する前作業を終えたなら、準備完了である。非義務教育化した中学校にふさわしい、教師の一方的な授業とそれに対応する生徒の受身の姿勢を構造とする集団主義・権威主義に即応した教育の改善に向けた検討に入らなければならない。
常識や教養として根づかない、テストが終われば雲散霧消してしまうような表面に一時的にとどまるだけの知識の伝達ではなく、洞察的な判断や推論にも応用が効き、
想像力(創造力)や思想への昇華に道を開く、集団主義・権威主義の存在様式を撥ねのけた知識の授受への革命こそが求められなければならない。それはすべて言葉の闘わせによる言葉の訓練を経た言葉の獲得――考える能力=思考能力・判断能力の獲得を構造とする教育の構築にかかっている。
7.授業改革
基本はあくまでも自己責任性を原理とする。自ら学びたい教科を学ばせ、学びたい者だけを受け入れる学校社会とすることによって自己責任性は確立可能となる。
基本的には、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性を採る。但し他教科への中途転籍を許すこととする。
自己選択による一教科を「自ら学ぶ」方式で無限な深度に向けて探究させる。いわば井戸を地球の中心に向けて可能な限り掘り下げていくように一つのことを究めさせることで、そこから全般的な教養や常識への反転照射を行わしめ、それと同時に、想像力(創造力)や思想・哲学といったより高い段階への到達を策す構造とする。
さらに譬えて言えば、月への到達を徹底研究しながら、宇宙全体を知る教科教育の構造を取る。一教科を究めていく過程で「自ら学ぶ」姿勢を自分の血肉(スタイル)としたとき、それは未知の事柄に関しても条件反射され、一般教養や社会性・社会的常識の獲得にもつながる一教科を超えた幅広い知識へのパスポートとすることが可能となるからである。
但し価値観の多様化時代に合わせた子どもの多様な価値観に応えるために、入学は無試験とした上で、従来の教科の種類に限定せず、ありとあらゆる可能性(生存機会)の試行錯誤に対応する教科の採用を行い、すべての生徒に自らが選択する
可能性(生存機会)に対してチャレンジの機会を与えるものとする。ここが肝心である。
例えばマンガを読んだり描いたりするのが好きな生徒のために、マンガ科を設けたり、土いじりの好きな生徒が望んだなら、陶芸科を用意する。
中学校の非義務教育化と同時に学区制を廃止することで、希望者少数の科目は例え遠隔地となろうとも、通学可能な範囲内で一つの中学校に集めることで一つの纏まったクラスに編成し、協同して勉強に取り組ませることが可能となる。例え通学に時間がかかろうとも、
好きな勉強に打ち込めることと差し引きしたなら、どれほどの苦痛となるだろうか。好きなアイドル歌手の公演にはるか地方から電車や飛行機を乗り継いで駆けつける追っかけファンにとっては、それがどれほどに距離と時間がかかろうとも苦痛ではなく、逆に悦びであるに違いないのと同じである。
それでも頭数が少ないときは、学年を超えたクラス編成とすればいい。早い時期からの異年齢による形式的ではない集団生活は社会に出てから役立つはずである。教室が不足なら、一つの教室を衝立で区切ればいい。自分で選んだ教科に同じ教科を選んだ仲間と協同して、一人一人が自分から取り組むのである。私語の暇もないはずだし、衝立を通して聞こえる他のクラスの声も気にならないはずである。
勉強嫌いな生徒が木工細工が得意だからといって、大工や木工職人の養成を目的とした木工技術の習得を強制する、かつての職業高校の体裁を採用してはならない。どのような職業を選択するか、どのような道に進むかは本人が決めることである。今とりあえず何がしたいか、したいことを学ばせることとする。
木工を教科の一つとして採用したとしても、単にその技術を学ばせるのではなく、世界中の伝統工芸、あるいは現代工芸、伝統的と現代的木造建築物等に関してその構造を学ぶよう仕向けると同時に、それぞれの製品に込められた時代的感性や思想・哲学をも書物や実技を通して学び、そこから社会に生きていく上での教養や常識を身につけることで社会性の獲得ばかりか、木工が人間の生活上の営みであったり、芸術的営みであったり、あるいは思想上の営みであったりすることから、それぞれの営みに携わったそれぞれの人間とその営みを学ぶことを通して自らの思想・哲学へと発展可能な知識の授受を内容としなければならない。
但し、自ら学ぶ自己責任性から言って、教師が一方的に教えるのではなく、生徒が何人かずつグループに分かれて、自分たちでテーマを決めて、図書館の書物やパソコンのインターネットを利用して協同作業で勉強し、その成果をグループごとに発表し、その発表された内容に関してそれぞれのグループが疑問点などの質疑応答を繰返すことで不足分を補い、優れた点は吸収し合う。生徒はその過程で討論術(言葉の闘わせを通した言葉の訓練による言葉の獲得)と、その発展形である考える能力(思考能力・判断能力)=「生きる力」を我がものとしていく形を採る。
ときには学年全体・学校全体の発表会も必要だろう。例え自己の選択教科に関係しない研究発表であっても、「自ら学ぶ」姿勢が興味と関心の守備範囲を広げる役目を果たしてくれるはずである。そのような授業形態において、教師は役目の一つとしてまずは助言者に位置づけられる。
マンガ科においても、ただ単にマンガのストーリーと絵の描き方を学ぶだけではなく、世界各国のマンガの歴史とその伝統性、現代のマンガ状況、それぞれの国における外国のマンガの影響、マンガ表現に現れたそれぞれの民族性、あるいは国民性、文化、さらにマンガに関する数々の評論。――それはマンガ科に限ったことではない、人間
や社会を知るプロセスでもある。人間を知り、社会を知り、それぞれの営みを知ることで、生徒はそれぞれに世界を広げていく。
マンガ一つに限っても、学ぶことのできる範囲と量は無限に近い。ここでも一つを深く究めることで、マンガを超えた全体を知る構造(普遍性の獲得)を採ることとする。これはすべての教科に該当させるべき原則とする。
上級学校を目指す生徒は試験科目に対応する教科を勉強しなければならないだろうが、一つを深く究める構造はすべての教科に共通としなければならない。進学科と一つに纏め、必要な科目を学ばせる。
国語の授業を例に取ると、一年生当時はクラスを何人かずつに分けたすべての班に、夏目漱石の『坊ちゃん』なり、『三四郎』なりをテーマに生徒主体の自由研究を課す。与えられたテーマをどう料理するかは班の希望や意見を基に担任教師の助言が必要となる。その助言がすべての班に同じ内容を押しつけるものであってはならないのは当然のことである。各班は研究成果を発表し合い、それぞれの内容の違い・見解の違いを討論する中で各人の不足分を補い、優れた点を吸収していく方向性に関しては他教科と同じ方法を目指すこととする。違いを突きつめることがそれぞれの
想像力(創造力)・感性への刺激材となり、それが各人独自の思想・哲学への形成につながっていくはずであり、それらすべてに考える能力(思考能力・判断能力)が関わってくる。
二年生・三年生となったなら、同じ夏目漱石研究でも、研究テーマに据える著作物は各班の自由選択とさせ、一年をかけて研究させる。その著作物の内容を研究するだけではなく、執筆の背景となった時代状況、著作者が影響を受けた思想、その思想が著作者自身の思想を濾過して、どのように発展・変化したか――研究の範囲は無限であるのに対して研究には一年という時間は短すぎるだろう。
研究発表は研究途中であっても、一定の期限を区切って、し終えた研究までを発表させることとする。
日本史授業は日本の歴史を各時代に分けて、各班に同じ時代をテーマに研究させる方法と、それぞれに違う時代をテーマとする方法とがある。最初は前者の方法を採用し、班ごとの考え方や物事の把え方の違い・発想の違いを学ぶべきだろう。それぞれの違いに対して、教師は、「同じ対象を学習しながら、理解に違いが出たのはなぜなのだろう?」と疑問を投げかけ、各班のメンバーのそれぞれの家庭環境・発育環境・友人環境等に目を向けさせ、それらの環境からの影響、及び班の成員の一員として協同研究に携わった人間関係からの影響等を加味した班ごとの総合的な認識傾向を導き出すのも、人それぞれの考え方の違いと違いの正当性の学習に役立つ。
日本の歴史を学ぶに当たって注意しなければならないのはNHKの大河ドラマの如くに
日本の歴史が武士階級の英雄によってのみ作られたと錯覚を持たせるものではなく、士・
農・工・商すべての階層が国のありように意図的・無意図的にそれぞれに課せられたプラス・マイナスの役目を果たし、その総合として日本の歴史があるとしなければならない。
英語の授業は現在必要とされている英会話能力の取得だけではなく、また英文書物の解釈だけではなく、書物に描かれた時代や思想・風俗・人間意識、さらに著者の生きた時代、その国の歴史をも学習範囲に入れるものとする。いわば一冊を徹底研究するスタイルを採った総合的な学習を通して、それを普遍的な知識へと転換させていく。例えばシェークスピアの戯曲の一つを教科書にした場合、彼が生きた時代・生きた国をも学ぶことによって、その当時のイギリスの歴史・ヨーロッパの歴史を学ぶことにもなる。それがキッカケとなって、西洋の歴史全体への興味をわかす生徒も出てくるだろう。どう発展させるかは、「自ら学ぶ」姿勢をどのくらい自分のものにでき
るかにかかってくる。
最初はどのような書物から取っ掛かったらいいか、教師の助言が必要になるだろう。だが、二年生・三年生となったら、グループごとに成員同士が相談し合って、自分たちで選択させることとする。
数学の授業は、新聞に小学生の問題として、「生徒に時計の読み方を教えても理解してもらえない」といった記事が載っていたが、機械的な教えだから、興味も湧かず、理解する努力も起きないのだろう。時計の読み方や時間の計算といった内容を教える前に、時計の歴史――日時計や砂時計から始めて、各国特有の時計、変わり種の時計、歴史上の人物と時計との関わり、時計に関係したエピソードといったことにまで範囲を広げ、まず時計というものに興味を持たせた上で、時計の読み方に入るべきである。中学校の数学もこの方法で進めることによって、その過程で、数学の勉強でありながら、文字や歴史、あるいはそれぞれの国情の一端、各国の国民性まで学ぶことができる。それらの学習が他の
授業と同様に、生徒各人の世間的常識や教養の獲得に道を開くだろうし、さらに
想像力(創造力)や思想への発展につながっていくものへと高めていく。
どのような授業・科目をただ一つ勉強しようとも、自律的・主体的に一つのことを深く究めることで世界を広げる方法こそ、日本人に欠けている複眼的視野の啓発と洞察的想像力の育成に役立つはずである。
スポーツ好きの生徒に対しては運動学部を設けて、野球科・サッカー科・テニス科といった科目コースを設定して一教科選択性のクラス編成を行い、それぞれのスポーツを学ぶことで実技の向上と、自己選択したスポーツに関する歴史と科学的な運動理論、さらに他のスポーツに関係する理論(これも生徒自身の選択に任せる)を最低一つまで学ばせる。それらを自己理論に転化させた論文を発表させて他者の批評にさらす言葉の闘わせを行わせ、考える能力(思考能力・判断能力)をさらに高める状態に持っていく。それが生徒たちの「自分で課題を見つけ」、「自分自身で考え」「(問題を)自分で解決する」、「生きる力」を獲得していくプロセスそのものとならなければならないのは、他の教科と同じでなければならない。そうすることで、スポーツに関する世界と視野を広げると同時に、それらを超えた内容が獲得可能となる。
運動部の生徒が自分が専門とするスポーツを通して広範囲な知識を獲得したとき、高校入試はその知識を問う試験で対応し、入学資格者を決定すべきであろう。
野球科とサッカー科がサッカーや野球の試合を交互に行うといったふうに、異なる科同士がそれぞれの種目を交換試合して交流を深めるのもいいだろう。
野球科に所属した生徒は大リーグの歴史と現在を学ぶだけでも、大いなる視野と世界を獲得できるに違いない。大リーグの歴史をひもといていけば、黒人リーグやその他の黒人問題にも必ず突き当たる。あるいは大リーグを扱ったハリウッド映画の探究などは、恰好の興味深い研究材料となるだろう。黒人が人種偏見のヤジを受けつつ白人に混じって大リーグのプレーに参加していく過程、さらにドミニカ・ハイチからの加入、それらはアメリカという国や周辺国家の勉強にもつながっていくはずである。
英会話学習は、世界規模で情報と向き合わなければならないインターネット時代に日本語の情報のみに自己満足して、情報の島国、あるいは情報の孤島に取り残されないようにするための必要不可欠な要件としてであることを、強く認識しなければならない。
放課後サークルの形で勉強の機会を設けて、自由参加としたらどうだろうか。自分から学ぶ姿勢を自らのものとしたなら、必要と
する者は積極的に参加するに違いない。情報の島国・情報の孤島からの脱出は複眼的視野の獲得の道ともなる。
社会に出てから自分が学んだ分野とは異なる業態の会社に就職することになっても、それまでに身につけた「自ら学ぶ」姿勢・「自ら学ぶ」スタイルが自然な条件反射作用を作動
させて自律的・主体的な取組みを可能とし、自律性と主体性に含まれている責任意識と積極性が未知の障害を乗り越える力(「生きる力」)へと転化するはずである。いわば一旦自分のものとしたスタイルは擬似的な本能と化して、どのような場面・状況においても自然な動作として反復される。
健康も運動も自己責任性としたが、肉体運動を通した交流――それもかなりハードな、
躍動したという充実感を実感させるものが必要である。体育祭といった類のものは廃止し、生徒の身体の安全管理を保証できないという理由と、安全管理の責任を問われた場合の金銭的な賠償が高額すぎることを理由に忌避することになった棒倒し・騎馬戦といった競技を復活させ、
棒倒しだけ、騎馬戦だけに限った競技を全校単位で1年に1度は行うこととする。それは生徒の体力の向上・俊敏性の育成だけではなく、生徒間の力関係の固定化の打破をも目的とするもの
とする。
一度力関係が決定すると、権威主義の力関係が働いて、力が上の者は常に上に立ち、下の者は常に下に立つ上下関係の固定化へと進みがちとなる。棒倒し・騎馬戦は勝ち負けが体力だけではなく、偶然の要素が無視しがたく作用して力の下の者が上の者に勝つ場合も生じて、固定化しがちな力関係の流動化に役立つ。ときには女子生徒を男子生徒に混じって参加させれば、男子生徒は手加減しなければならず、力関係の流動化にとりわけ貢献することになるだろう。
勿論普段は力が上の者として君臨していた人間が競技に負けて、逆恨みしたり、妬んだりして、陰湿な仕返しに出ることがあるかもしれない。そういった事態の予防措置として、教師は前以て釘を刺しておくべきである。
「これは競技である。勝つこともあり、負けることもある。勝ってばかりで負ける経験を学んでおかないと、社会に出て何かで負けたとき、うろたえることになる。今のうちにたくさん負けて、負けることに抵抗力をつけておいた方が精神的に強い人間になれる」
従来の棒倒し・騎馬戦は5・6年生とかが一斉に入り乱れて行うものだったが、トーナメント方式で優勝チーム以下、順位を決定していく方式がいいのではないのか。フィールドに登場している2チーム以外は観客に回ることになる。戦う人間の姿を客観的に観察するのも、自他のありようを知る機会の一つとなるだろう。普段はおとなしいのに、激しく戦いを挑む姿を見せられ、意外な面に気づくということもある。
競技の後で、プロ野球の試合後のようにミーティングを開いて、経過や展開を振返って、その是非を検討する(言葉の闘わせを行う)のもいいだろう。
生徒の負傷・後遺症、もしくは死亡事故に対して損害賠償を求められる事態に備えて、全国の中学生を対象に小額の保険金の徴収による強制加入を骨子とした保険制度を前以て法律化し、事故が起きた場合はその中から賠償金を支払うことで学校・教師・生徒が安心して競技を行える環境を前以て整えておく必要がある。
(既にできているかもしれない)
運動能力や体力によって常に勝ち負けが決まっているのではない、偶然の作用によって
勝者となるチャンスもある、なおかつ激しい身体動作に伴う肉体的・精神的躍動感は戦ったという充実感・動きまわったという充実感をもたらし、それはそのまま生命の躍動感に直結して、いくら体力の消耗を伴おうとも、消耗自体が戦いの証となる。勝ち負けにではなく、肉体と生命の躍動自体に意義を見い出すようになれば、しめたものである。
そのような肉体と生命の躍動と比較したなら、テレビゲームの類のスリルなどは、まさしく小手先のものに過ぎなくなるだろう。
騎馬戦では体力の劣る生徒にもチャンスを与えるために、身体の大きな生徒の騎馬とペアで組ませる方法もある。身体の大きな生徒の騎馬が体力の劣る生徒の旗手を保護しつつ戦うシステムである。あるいは身体に障害がある生徒を騎手にした騎馬を複数の騎馬――
三組か四組の騎馬が周囲を囲み、それを一チームとして、中心の騎馬を守りつつ戦う。競技の方式をこのように取ったなら、その方法は生徒同士の連帯感や協調精神を養うに違いない。
ここで注意しなければならないのは、「良心的兵役拒否」を個人の権利として認めることである。体調が悪い、風邪を引いているといった体力上の問題だけではなく、野蛮で生理的に受けつけないといった感覚的理由、平和主義者だからといった人道主義上の理由からの参加拒否を認め、その時間を観客となるのもよし、図書館で自習するのもよし、本人の選択に任せる。他人に迷惑をかけるものでなければ、人にはそれぞれの生き方があることを誰もが知る必要がある。
一教科選択性――自分が学びたい一つの教科を、考える能力(思考能力・判断能力=「生きる力」)の獲得につながる言葉の闘わせ≠骨子として、中学校の三年間を通して自らの責任で学ぶ。学びたいがゆえに、好きなだけ学べる。好きなだけ学んだところから、相互に自己を成り立たせる。そのようなプロセスは少なくとも自己と社会や世界との関わりの全体像が従来の受験・学歴・就職・将来的な快適生活であった自己中心から一歩踏み出し、普遍的な存在としての他者(いわば周囲の人間をも含めた世界全体)にも関心を向ける多角的な視野≠フ獲得につながるものとなるだろうことは確実である。
一教科選択性とは、つまるところ、週に2、3時間といったその場を取り繕うものではなく、中学校教育全体を文部省が新指導要領で示したところの「総合学習」化する方法のことである。
それにしても、週に2、3時間で「社会を生き抜く力」を養えると、本気で考えているのだろうか。2、3時間だけだったなら、学歴獲得競争の従来どおりの川の流れは何ら変化することもなく、未来永劫に同じ流れを繰返すだけだろう。既に学歴低下への強迫意識が、塾や補習授業に教師・生徒・親を走らせているのである。そしてその競争に乗り遅れた者の学校に対する反撥は崩壊≠ニいう名の災厄を現在以上にもたらすこととなるに違いない。「生きる力だって
?前と変らないじゃないか、クソッたれめ」といった具合に。
(以上)