教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
いつの時代でも、人間は決して美しい生きものではなかった。
だからこそ、どう生きるかが問われる。それでも、美しく生きることができない。
そのおっかけっこが人間の歴史だとも言える。
『萬晩報』(http://www.yorozubp.com/)の2005年02月28日(月)号に
『アルベルト・アインシュタインと日本』と題した、中澤英雄氏の
一文が載った。その中で、「アインシュタインの予言」なる日本民
族優越意識に満ちた文書がインターネット上に出回っていることを
教えられた。 アカンベー!!
しかし、その文書を批判する中澤氏自身のアインシュタインに関
する文章が日本民族優越意識に与する内容となっているように思え
て、批判するメールを送った。何か返事があると思っていたが、何もなく、HP化するために、引用の許可を願うメールを再度送ったが、やはり返事がないため、無断引用の挙に出ることにした。
訴えてくれて、新聞沙汰にでもなったなら、一躍時の人になれるかもしれない。ならないかもしれない。どちらでも構わない。
『引用のお願い』のメールを先に載せる。
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送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp>
件名 : 引用のお願い
日時 : 2005年3月23日 7:23
中澤英男さんへ。
3月16日 に「アインシュタインの訪日」と題してメールした手代木です。
何か返事があると思っていたのですが、取るに足らない内容だったようです。
送信内容を私のHPに載せたいと思っていますが、『萬晩報』の「アルベルト・アインシュタインと日本」を引用させてもらいたいと思っています。許可してもらえないでしょうか。
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【無断引用】アルベルト・アインシュタインと日本 2005年02月28日(月)
中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学) 今年2005年は、アインシュタインが特殊相対性理論を発表して100周年、彼の死後50周 年ということで、世界各地でアインシュタイン年の行事が催されている。 ドイツ http://www.einsteinjahr.de/
イギリス・アイルランド http://www.einsteinyear.org/
(このサイトになぜ日本語表記があるのだろう?) アインシュタインは日本と深い縁がある。E=mc2という公式で有名な特殊相対性理論は、物質がエ ネルギーに変換されうることを示した。言うまでもなく、広島・長崎に投下された原爆は、この公式 の現実化であった。 原爆開発のきっかけを作ったのもアインシュタイン自身であった。1939年8月、彼は数名の科 学者たちの代表として、アメリカ大統領ルーズヴェルトに原爆の製造を進言した。ドイツ系ユダヤ人 である彼は、ヒトラーが政権を取った1933年にナチス・ドイツを逃れてアメリカに移住していた が、ユダヤ人迫害を進めるドイツが原爆開発に着手したとの情報に接し、強い危機感をいだいたので ある。 アインシュタインはその後のマンハッタン計画にはまったくノータッチであった。原爆が完成した 時にも、彼は日本に投下することに反対した。彼は広島・長崎の惨事に直接の責任はない。しかし、 彼はこのニュースを痛恨の想いで聞いたのであった。 アインシュタインは1922年(大正11年)に来日し、大の親日家になっていたからである。 ■来日 アインシュタインは、雑誌・改造社が企画した日本講演旅行を承諾し、1922年10月8日、妻の エルザとともにマルセーユで日本郵船の北野丸に乗船した。彼がまだ香港から上海に向かう船上にいた 11月10日、1921年度のノーベル物理学賞が彼に授与された。このニュースは、相対性理論とい う神秘的な学説を樹立した世紀の天才物理学者に対する日本人の熱狂的崇拝をいやが上にも高めた。 11月17日に神戸に上陸したその瞬間から、日本中、彼が行くところ、アインシュタイン・フィー バーが巻き起こった。それは、最近のベッカム様人気やヨン様ブームどころの規模ではなかった。物珍 しいものに熱狂する日本人の国民性は、昔も今もあまり変わっていないようだ。あまりの騒動に最初は 驚きあきれ、時には殺人的なスケジュールに閉口していたアインシュタインであったが、その背後に日 本人の純粋な敬愛の念があることを知って、彼は日本と日本人を心から愛するようになった。 ここでは、日本におけるアインシュタインを詳しく描いている金子務著『アインシュタイン・ショッ ク』(1)(2)(河出書房新社、1981年)と、杉元賢治編訳『アインシュタイン日本で相対論を語る』 (講談社、2001年)を中心に、アインシュタインの日本および日本人観を紹介したい。 まず北野丸に乗船した最初の日の印象―― 「乗組員(飾り気のない日本人たち)、友好的、まったくペダンティックでなく、個性的なところはな い。日本人は疑問を持たず非個性的で、自分に与えられた社会的機能を晴れやかに尽くし、思わせぶり もなく、しかもその共同体と国家に対して誇りを持っている。その伝統的な特色をヨーロッパ的なもの の故に放棄して、その国民としての誇りを弱らせることはない。日本人は非個性的だが、実際はよく打 ち解けている。おおむね社会的存在として自己自身のためには何も所有しないかのようであり、何かを 隠したり秘密にしたりする必要はないようだ。」(金子(1)199頁) アインシュタインの日本人に対する第一印象は、その「非個性」と「共同体と国家に対する誇り」で ある。これは、欧米人と比較して日本人の特色としてあげられる集団主義に、彼が最初に違和感をいだ いたことを示している。しかし彼は、ヨーロッパ中心主義的に、それをすぐさま否定的評価につなげる ことはしなかった。彼は事実は事実として冷静に観察している。日本人と日本文化により深く接触する につれ、彼は「非個性」の背後にある純真なものに気づいていくのである。 ■脱西欧の夢 アインシュタインが日本行きを承諾した背景には、彼の東洋への憧憬があったように思われる。すで にベルリンで数名の日本人が彼の住まいを訪問していた。彼らの報告によると―― 「もともとベルリンのアパートは、東洋趣味の絵や陶製人形で飾られ、茶器も菓子器もそれで統一して いたという。《私が行きたいのは東洋だけ》と、アインシュタインは日本人の来訪客にしばしば語って いる。」(金子(1)196頁) 神戸に上陸したときの記者会見で来日の目的を聞かれて、彼はこう答えている―― 「それは2つあります。1つは、ラフカディオ・ハーンなどで読んだ美しい日本を自分の目で確かめて みたい――とくに音楽、美術、建築などをよく見聞きしてみたい――ということ、もう一つは、科学の 世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことは自分の使命であると考えることです。」(金子(1 )28頁) アインシュタインもまたハーンと同じように、脱西欧の夢を見ていたのかもしれない。 第一次世界大戦敗北後の社会的・経済的混乱の中で、ドイツでは反ユダヤ主義が高まっていた。フラ ンスとの賠償交渉をしていたユダヤ系の外務大臣ラーテナウは、1922年6月に暗殺されていた。当 時、学術で文字通り世界最高峰のベルリン大学正教授の地位にあったアインシュタインも、ユダヤ人で あることを理由に度々不快な経験を味わっていた。 日本は第一次世界大戦では戦勝国になっていたが、まだ軍国主義がそれほど濃厚にはなっておらず、 いわゆる大正デモクラシーの自由な雰囲気が残っていた。しかし、あとでも見るように、アインシュタ インは日本に忍び寄る軍国主義の気配も鋭く感じている。ともあれ、彼にとって日本旅行は、騒然とし たドイツから離れられる、心休まる解放の一時となったのである。 ■国民性、自然、芸術 来日2週間目にアインシュタインは、雑誌『改造』のために、「日本における私の印象」というエッ セイを書かされている。ここでは杉元賢治氏の訳からその一部を紹介しよう。 「もっとも気のついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。我がドイツで は、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられ ています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜 びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです。・・・
しかし日本では、それがまったく違っています。日本では、個人主義は欧米ほど確固たるものではあ りません。法的にも、個人主義をもともとそれほど保護する立場をとっておりません。しかし家族の絆 はドイツよりもたいへん固い。・・・」(杉元141頁) アインシュタインはこのように、欧米の個人主義が行き過ぎであることを指摘し、むしろ日本の家族 主義、集団主義に親しみを感じている。この文章を今日の我々が読むと、現代の日本も相当に「すさま じい個人主義」の社会になりつつあることに気づく。経過した時間の長さと社会の変化を思わずにはい られない。 彼はさらにこう続けている。 「日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれる一つの理由があります。それ は、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保と うとするといった日本特有の伝統があるのです。・・・
個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるので しょうか? 私にはそう思えません。この伝統が発達してきたのは、この国の人に特有な感情のやさし さや、ヨーロッパ人よりもずっと優れていると思われる同情心の強さゆえでありましょう。」(杉元1 42頁) 来日2週間で彼はすでに、ヨーロッパ人よりも自己主張の少ない日本人の「非個性」、感情表現の抑 制の背後に、ヨーロッパ人よりも「同情心」に富んだ繊細な魂を感じ取っている。 今日でも欧米人の中には、何年日本に住んでいても、日本の生活や文化をすべて欧米中心的な価値観 でしか判断できない人びとが大勢いる。それに比べると、これは希有な観察力、感情移入力と言わなけ ればならない。アインシュタインは、科学者として超一流であったばかりではなく、人間としても、偏 見のない豊かな感受性に恵まれた人物であった。彼は、人種や宗教や文化の違いによって他国民を軽蔑 することがなかった。 そういうアインシュタインの人間性が知られるにつれ、日本人はますますアインシュタインが好きに なり、尊敬するようになった。 アインシュタインが日本で最も強い感銘を受けたのは、日本の美しい自然と、自然と一体になった芸 術であった。やはり「日本における私の印象」から―― 「この点〔日本の芸術〕、私はとうてい、驚きと感嘆を隠せません。日本では、自然と人間は一体化し ているように見えます。・・・この国に由来するすべてのものは、愛らしく朗らかであり、自然を通じ てあたえられたものと密接に結びついています。 かわいらしいのは、小さな緑の島々、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしても っとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの 言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。」(杉元142〜3頁) ■離日 日本で数々の心あたたまる歓待を受けて、12月29日、アインシュタイン夫妻は門司港から日本郵 船の榛名丸に乗船し、帰国の途についた。 離日の前日、『大阪朝日新聞』は彼の日本国民への感謝のメッセージを掲載した。 「予が1ヶ月に余る日本滞在中、とくに感じた点は、地球上にも、また日本国民の如く爾(しか)く謙 譲にして且つ篤実の国民が存在してゐたことを自覚したことである。世界各地を歴訪して、予にとつて また斯くの如き純真な心持のよい国民に出会つたことはない。又予の接触した日本の建築絵画その他の 芸術や自然については、山水草木がことごとく美しく細かく日本家屋の構造も自然にかなひ、一種独特 の価値がある。故に予はこの点については、日本国民がむしろ欧州に感染をしないことを希望する。又 福岡では畳の上に坐つて見、味噌汁も啜つてみたが、其の一寸の経験からみて、予は日本国民の日本生 活を直ちに受け入れることの出来た一人であることを自覚した。」(金子(1)245〜6頁) ここでもアインシュタインは、日本人の国民性と芸術と自然をほめることを忘れない。翻訳や郵送の 時間を考えると、この文章は数日前に書かれたものであろう。福岡の味噌汁のことが触れられているの で、12月25日かもしれない。彼は乗船のためにそれから門司に移動した。 新聞の文章はやや社交辞令的であるが、12月26日の門司での記者会見では、彼はもう少し率直に 印象を語っている。 「日本にきて特に気になるのは、いたるところに軍人を見かけ、平和を愛し平和を祈る神社にも武器や 鎧が飾られているのは、全人類が生きていくのに不必要なことと思います。それからもう1つは、大阪 の歓迎会では会場が日本とドイツの国旗でうめつくされていて、日独親善の気持ちは感謝しますが、軍 国主義のドイツに住みたくないと思っている私には、あまりいい気持ちはしませんでした。」(中本静 暁著『関門・福岡のアインシュタイン』新日本教育図書、71頁) あらゆる日本への賛嘆にもかかわらず、平和主義者アインシュタインは日本の軍国主義を受け入れる ことができない。彼のこの言葉は、その後の日独関係を知っている私たちには、まさに予言的に響く。 彼はさらにこう続けている。 「また、いたるところで外国のものにかぶれているのは、日本および日本人のために好ましくありませ ん。着物は非常に優美だが、活動に適していないので、これからは洋装になっていくでしょう。とにか く日本の風習の中で、保存すべきものまで破壊しようとする気風には感心しません。日本の建築はすみ ずみまで手が入り込んでいて、外国の彫刻をみるようでした。一言でいえば、日本は絵の国、詩の国で あり、謙遜の美徳は、滞在中最も感銘をうけ忘れがたいものとなりました。」(同、71〜2頁) 何度も見てきたように、アインシュタインが日本で最も感銘を受けたのは、建築をはじめとする日本 の伝統的芸術であり、やさしい国民性であった。しかし、欧米化の潮流の中で、日本が伝統的な美質を 失いつつあることも、彼は鋭く見抜いている。 もちろん多少のお世辞も含まれて入るであろうが、これらのメッセージは、アインシュタインの日本 と日本人への敬愛の念を証明している。船上で日本に別れを告げるアインシュタインの目には涙が浮か んでいたという。日本は彼にとってまさにアルカディア(楽園)になったのである。ドイツに帰国後も 、アインシュタインは手紙を通じて日本人とたえず交流を続けた。 ■原爆と世界平和運動 広島に原爆が投下されたニュースを聞いたとき、アインシュタインはドイツ語で"Oh, weh!"(ああ、 なんたることだ!)という悲痛な叫びをあげたきり、沈黙したという。彼は後年、 「私は生涯において一つの重大な過ちをしました。それはルーズヴェルト大統領に原子爆弾を作るよう に勧告した時です」(金子(2)270頁) と語った。また、 「もし私がヒロシマとナガサキのことを予見していたら、1905年に発見した公式を破棄していただ ろう」(ヘルマンス『アインシュタイン、神を語る』工作舎、188頁) とさえ述べている。 アインシュタインはドイツにいた当時から断固たる平和主義者であったが、この罪意識は、晩年の彼 をいっそう強く平和運動に駆り立てた。それは世界政府建設の運動である。 アインシュタインの平和運動にも、日本人が関わっていた。 1922年の来日の時、アインシュタインの通訳として彼の身の回りの世話をしたのは、稲垣守克で あった。アインシュタインは彼を親しみを込めて「ガキ」と呼んでいた。 終戦後、財団法人「世界恒久平和研究所」に関係していた稲垣は、1947年(昭和22年)、アイ ンシュタインに協力を求める手紙を書いた。稲垣の要請によって書いたアインシュタインのメッセージ は、昭和23年の年頭に朝日新聞に発表された―― 「このような〔原爆のような大量破壊兵器の〕不幸を防ぐ道は只一つ、これらの兵器を確実に管理し、 従来戦争突発の原因となったようなあらゆる問題を解決する機関と法的権限をもつ世界政府を樹立する ことである。 こういう広範な権限をもつ世界政府の樹立は、すべての国の民衆が次のことを十分に理解した時にの み可能である。すなわち諸国民の伝統的思想と気持にこれほど適応した、そして安い道はないというこ とを。 こういう根本的変化を可能ならしめ、そしてこれを手おくれにならないうちになしとげるためには、 すべての国で教育啓発事業を熱心に辛抱強く行うことが必要である。」(金子(2)240頁) 稲垣は、アインシュタインの後押しもあって、ジュネーブの「世界連邦政府のための世界運動」と連 携を取り、日本に「世界連邦建設同盟」(世連)を作った。稲垣が理事長で、総裁に尾崎行雄、副総裁 に賀川豊彦をすえた。のちに湯川秀樹も世連にかかわるようになった。世連の組織は現在も存在してい る。 1949年にソ連が原爆実験に成功、53年にはアメリカに先んじて水爆実験にも成功した。アメリ カも54年にマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験に成功。その時、死の灰をかぶったのが第五福竜 丸であった。 世界の行く末を憂慮したアインシュタインは、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルとともに1 955年4月11日、核兵器廃絶と戦争廃止を訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した。 その2日後、彼は病に倒れ、18日に帰らぬ人となった。彼の遺言とも言えるこの宣言には、湯川秀樹 ら世界の著名な学者9名が署名に加わり、のちのパグウォッシュ会議へて発展していくことになった。 ■アインシュタインの予言? ところでインターネットの世界には、「アインシュタインの予言」という奇妙な文書が出回っている ―― 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。
一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。
私はこのような尊い国が世界に一ヶ所ぐらいなくてはならないと考えていた。
世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時が来る。
その時人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。
この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊 い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
われわれは神に感謝する。
われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。」 http://www.aiweb.or.jp/en-naka/column-5/column.htm
これは、清水馨八郎氏の『日本文明の真価』(祥伝社黄金文庫、平成14年)から取られていると いう。ほかにも、多少文言は違うが、インターネットには似たような文章があちこちにある。 清水氏の著書を参照したが、上の文書とは文言が若干異なっているが、ほぼ同じである。しかし、 清水氏の著書にもその出典が出ていない。清水氏も、何かの本から引用したのだろう。引用していく うちに、少しずつ文言が異なってしまい、色々なヴァージョンがインターネット上に出回る結果にな ったものと思われる。私も、昭和40年代後半〜50年代にこの種の文書を読んだ記憶があるが、そ の本は、書棚のどこかに紛れ込んで見つからなかった。 今回、アインシュタインと日本というテーマに関係する本を何冊か読んでみたが、このような「予 言」はどこにも掲載されていなかった。明らかに、新聞や雑誌に発表された文書ではない。それでは 個人的な私信なのであろうか? この文書はそういう趣からもほど遠い。 おそらくこれは創作(インチキ)である。その理由はこうである。 来日の時、アインシュタインは天皇あるいは天皇制にはほとんど関心を示していない。彼は赤坂離 宮での観菊御会に招待され、皇后陛下の謁見を賜わったが(大正天皇はご病気、摂政宮〔のちの昭和 天皇〕は関西での陸軍大演習のためお留守)、この日の彼の日記には、フロックコートを借りるのに 苦労したこと以外には、とくに目立った記録はない(金子(1)172頁)。 日本で彼の印象に残ったのは、いつでも自然と芸術の美しさ、そして日本人の素直な国民性であり 、日本の歴史への関心は薄かった。 彼はまた、どちらかというと社会主義的な信条の持ち主であった。彼は1930年に、彼をキリス ト教に改宗させようとしていたヘルマンスにこう語っている。 「ご存じのとおり、私は社会主義者だ。関心があるのは、すべての人の幸福と、社会主義国建設のた めに個人の知的自由を獲得する必要性を若い人たちに教えることだけだ。」(ヘルマンス27頁) そういう彼が君主制の一種である天皇制をわざわざ賛美するということは、まずありそうもない。 また、戦後の彼の世界政府構想においても、「世界的な盟主」の必要性については一度も触れられて いない。 アインシュタインの目が常に日本の一般民衆に注がれていたのに対し、上の文書は「一系の天皇」 「尊い家柄」「尊い国」を強調する、典型的に右翼的な発想である。 さらに彼は、日本が西欧化の中で伝統的な生活文化を失うことへの危惧を表明していたが、「予言 」は「近代日本の発展」を素朴に肯定している。 上の文書は、アインシュタインの思想とは相いれないのである。 古い伝統と近代的な科学技術の両立を誇ることは、いわゆる日本人論によく見られる発想である。 日本の美点を外国人の口を借りて賛美するために、外国人になりすますという手法も時々見られる( イザヤ・ベンダサン=山本七平)。ここでは、自分の個人的信念をアインシュタインの名前によって 権威づけているわけである。 このような創作は、明らかに清水氏に始まったものではなく、相当以前から行なわれている。その 最初の出どころがどこなのか、ぜひとも知りたいものである。萬晩報の読者で、何かの情報をお持ち の方は教えていただければ幸いである。 ■日本とアインシュタイン 1949年、プリンストンにアインシュタインを訪ねた稲垣は、彼を日本に再招待した。老齢でし かも健康を害していたアインシュタインは、 「いやもうどこにも行けない。こんど生まれ変わったら第一に日本を訪れよう」(金子(2)251頁) と答えたという。 大好きな国・日本――直接的責任ではないとはいえ、自分はその国に原爆を落とすきっかけを作っ てしまった。アインシュタインの心情は察するにあまりある。アインシュタインが生まれ変わったな ら、まず第一に広島・長崎を訪れようとするにちがいない。そして、慰霊碑の前に額ずき、まず「安 らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とつぶやくのではないか。 今年は相対性理論100周年、アインシュタイン死後50周年であるばかりではなく、広島・長崎 原爆60周年でもあり、第1回原水爆禁止大会開催から50周年でもある。 1954年の第五福竜丸事件をきっかけに、日本では原水爆禁止運動が高まり、翌55年に、第1 回原水爆禁止大会が広島で開かれた。しかし、この運動には当初から社会党・共産党の政治的イデオ ロギーが持ち込まれ、日本の平和運動は政治に翻弄されることになる。左翼イデオロギーが、被爆国 民・日本人の素朴な平和への願いを、反米・親ソ・親中という政治的目的に利用しようとしたことは 紛れもない事実である。 ごく最近、北朝鮮は核兵器を所有していると公言し、アメリカもまた戦場で使える小型核兵器の開 発を計画しているという。核の危機はいまだ去っていない。 「このような不幸を防ぐ道は只一つ、これらの兵器を確実に管理し、従来戦争突発の原因となった ようなあらゆる問題を解決する機関と法的権限をもつ世界政府を樹立することである」という言葉は 、今日でもますます強く妥当する。世界の現状はいまだアインシュタインの理想からほど遠い。 日本人はこの節目の時にあたり、日本の平和運動を、右翼的であれ左翼的であれ、政治的イデオロ ギーから解放し、国民の大部分が心から賛同できるものに再構築する必要があるのではなかろうか。 その時、アインシュタインの世界平和への願いと平和構想は様々な示唆を与えてくれるにちがいない 。広島・長崎で彼がどのような平和への指針を語るか、ぜひとも聞いてみたいものであるが、それは 叶わぬ夢である。 言い古されて手垢がついてしまった言葉ではあるが、核廃絶への努力は、被爆国民としての日本人 の人類に対する責務であると思う。 中澤先生にメール mailto:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp
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【批判文章】送信者: "Hiroyuki.Teshirogi"
<wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp>
件名 : アインシュタインの訪日
日時 : 2005年3月16日 7:54
中澤英男さんへ。
手代木恕之という者です。
「アルベルト・アインシュタインと私」を読んでの感想です。的外れでしたら、御容赦を。
1922(大正11)年「11月17日に神戸に上陸したその瞬間から、日本中、彼が行くところ、アインシュタイン・フィーバーが巻き起こった」ということですが、それがただ単に、「物珍しいものに熱狂する日本人の国民性は、昔も今もあまり変わっていない」という理由だけからの光景ではなく、高い地位の人間や社会的に有名になった人間に出会うと、肩書きや名声だけで盲目的に立派な人間だと決め込んで敬服する権威主義意識も影響していると思います。
例えば、東大を出たとか、医者をしていますとか紹介されるだけで、学歴や職業だけで人間は判断できない、様々に人格も人間性も異なるという人間の条件性にまで思いを至らせることができず、無考えに、「へーえ」と感心して、信用してしまう国民性のことです。
スポーツや芸能分野で活躍する人間には大袈裟なまでのヒーロー扱い・何様扱いで持てはやすのも、同じ意識からの行為でしょう。
そのような権威主義意識の対極にあるのが、人生の失敗者や犯罪者を劣る下位に位置づけて、その近親者にまで容赦ない厳しい視線や反感を示して、排除しようとする差別意識です。
現在に於けるそういった差別意識の発露は、特にマスメディアに顕著に見られる傾向となっています。有名人・著名人を過大なまでに持ち上げる一方、犯罪を犯した者には、その経歴から、生活・生い立ち、家族関係にまで情け容赦なく踏み込み、洗いざらぶちまけて、世間の目に曝すといったことを平気で行い、世間は世間で、人殺しの子とか、人殺しの家族とかの烙印を押して、一緒くたに扱おうとします。
日本人のこの手の権威主義意識は、人種分野に関しては白人を日本人よりも上に置き、有色人種やアジア人種に対しては自らを優越的位置に置く人種差別を形成しています。
ここから来ているのが、今なお公式としては残っている白人コンプレックスであり、在日韓国・朝鮮人、あるいは部落民や在日中国人にに対する差別でしょう。
公式として残っていると言うのは、例え在日韓国・朝鮮人であっても、在日中国人であっても、さらにそれが部落民であっても、社会的地位や経済的成功を獲得している人間にはそれなりの敬意を払うが、そうでない場合は公式どおりに差別意識が作動されるということです。
その象徴的な光景が、約7割が生活保護を受け、貧しい生活を強いられている、そのことを理由として劣る者と低く見る中国残留孤児に対する蔑視と、それが3世・4世の中高生にも向かって、中国人と蔑称したり、中国へ帰れとか言って排除する差別の光景でしょう。
これは中国人犯罪の多発化も影響しているでしょうが、しかし明確に区別すべき問題です。影響を受けること自体が、既に偏見に冒されていることを示します。
未成年者のホームレスに対する謂れなき暴力や攻撃も、同じ構造からの差別だと思います。
アインシュタインはユダヤ系とはいえ、白人です。日本人の白人というだけでたやすく感嘆する単純な尊敬の念と、しかも船で日本に向う途中の「11月10日、1921年度のノーベル物理学賞が彼に授与された」ばかりの高名な物理学者であるというホットな名声に感激と偉大だと感じる思いを膨らませて、自分を従順な立場に置いてしまう権威主義の従属性が働いた、アインシュタインが言うところの、日本人の「遠慮深」さと見えた従順さではなかったのではないでしょうか。
日本人が一般的に真に「遠慮深」かったなら、白人の外国人だけではなく、有色人種に対しても、また国内の朝鮮人や中国人に対しても平等に遠慮深かったはずです。
ところが、アインシュタイン訪日の1年後、関東大震災が発生して、井戸への「朝鮮人投毒」・「放火」のデマが広まり、自警団や軍隊・警察によって、謂れなき朝鮮人虐殺が繰り広げられ、数千人が虐殺されています。
これはアインシュタインが予測できなかったことですが、しかし、日本人の意識の底にアインシュタイン訪日時以前から引きずっていた朝鮮人差別が状況に応じて噴出した最も過激な姿を取ったものだったはずです。
いわば、日本人のアインシュタインに対する「遠慮深」さは在日朝鮮人や部落民、その他に見せる差別意識を隠した、特に高名な白人に向けられた「遠慮深」さと見た方が妥当ではないでしょうか。
となると、あなたの言う「来日2週間で彼はすでに、ヨーロッパ人よりも自己主張の少ない日本人の『非個性』、感情表現の抑制の背後に、ヨーロッパ人よりも『同情心』に富んだ繊細な魂を感じ取っている。」とする評価は、日本人という姿を考えた場合――と言うよりも、何人であろうとさして変わらない、国籍・民族・人種を超えた共通してある人間の姿なのですが――アインシュタイン同様に買いかぶりに過ぎないことになります。
但しアインシュタインの買いかぶりは、反ユダヤ主義が席巻していたドイツを生国とし、そこで生活者として鬱屈した日々を強いられていた影響を強く受けた、そこから解放された立場からの日本の印象ということで、無理のない事柄と言えます。
また、――「我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです」というアインシュタインの指摘を引用して、「欧米の個人主義が行き過ぎであることを指摘し、むしろ日本の家族主義、集団主義に親しみを感じている。この文章を今日の我々が読むと、現代の日本も相当に『すさまじい個人主義』の社会になりつつあることに気づく。経過した時間の長さと社会の変化を思わずにはいられない」と解説していますが、欧米の「個人主義」と比較して、当時の日本は果たしあなたが言うほどにユートピアにあったのでしょうか。
ここで言う「個人主義」を利己主義と把えて、話を進めます。
多くの学者・政治家・マスメディアの人間が、悪い風潮はすべて現在の時代・現在の社会の特許物・産物のように言いますが、そのような考えは、人間は本来的には利害の生きものであり、それゆえに「個人主義」は人間の本質的性向としてあるもので、歴史や時代を超えているという認識を持てないでいることからの狭い見解だということに気づいていないようです。
いつの時代に於いても、また如何なる社会に於いても、生きるということは利害の闘いなのだから、「個人主義」であることは当然なことです。違いは、時代に応じて過度に現れたり、抑制されたりするのみで、その結果としてある、時代を通して決してなくならない社会の矛盾なのです。
その証拠はいくらでも例示できます。但し、『日本疑獄史』(森川哲郎著・三一書房)を読書して知りえた知識ですが、読書の傾向自体、読書する人間の意識の傾向を反映した対象としてあるものです。
江戸時代から武家社会でも、談合・ワイロ(=地位・権力を利用した私利私欲行為・私腹行為=「個人主義」)は日常茶飯事としていたことが証明されています。当然明治の時代になっても、それは引き継がれないことはありません。明治政府の高官だった長州閥の山県有朋らと政商山城屋和助が結託した陸軍の高額な予備金を私的流用して、相互に私腹を肥やしたが、普仏戦争のあおりの輸出絹の暴落で大損して、陸軍の金庫に流用金を戻せなくなり、山形屋和助が割腹自殺して、山形有朋の罪はウヤムヤとなった「山城屋和助割腹事件」。
その他、『日本疑獄史』をめくってみると、明治時代だけでも、大きな疑獄事件が12件あります。その多くは政治家と財閥・政商が組んだ私利私欲犯罪ですが、明治35年の教科書の採用を有利に策すべく、当時は文部省が検定した教科書を各府県の審査会が採用決定する制度だったものだから、教科書会社が多数の県知事・教育委員・教師に芸者をあてがい、ワイロをばら撒いた「教科書疑獄」なる事件は、政治家・役人だけではなく、「個人主義」に関して教育者も同じ穴のムジナに連なっていたことが分かります。
当時の政治家・官僚・役人の殆どが前身は武士です。正真正銘の武士である当時から、ワイロ・談合の私利私欲に現を抜かしていた。その慣習を引き継いでの、明治という新時代に入ってからも繰返していた私利私欲犯罪なのですから、不思議はないといえば不思議はない。但し、武士道なるものが如何にまやかしで成り立っていたかの証明として余りあります。
武士たちがいい加減な人間だったから、武士道なる綺麗事で体裁を飾らなければならなかったのです。
大正時代に入っても、政治家・官僚の疑獄事件は跡を絶たず、ドイツの武器会社のシーメンス商会が艦船購入を巡って日本海軍将校にリベートを送った大正2年のシーメンス事件は、ロッキード事件が昭和の時代だけのものではないことを物語っています。
アインシュタインが来日した1922(大正11)年近辺では、大正10年の満州鉄道をめぐる「満鉄疑獄」、同じく大正10年の、植民地のアヘン密売に関わって汚職事件が発生した「アヘン密売事件」がありますが、関東大震災後の東京復興計画をめぐって汚職事件が発生した大正12年の「帝都復興院疑獄」や、さらに遊郭移転問題に端を発した大正14年の「松島遊郭汚職事件」などは、現在でも起こりうる類の汚職事件ではないでしょうか。
つまり、「『すさまじい個人主義』の社会」なのは「現代の日本」だけではなく、大正の時代もさして違いはないということではないでしょうか。
政治家や政商があぶく銭にありつけば、そのおこぼれにあずかろうとする人間が順次下へと連なって現れるものです。「個人主義」の連鎖です。あるいは蔓延。その一方で、あぶく銭にありつくどころか、その日の生活も事欠いて、娘を女郎に売り渡す人身売買が横行し、女郎とした娘を売春に利用して、うまい儲けにありつく「個人主義」で懐を肥やす人間がいくらでもいた。
アインシュタインは言う。
――「日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれる一つの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。・・・
個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 私にはそう思えません。この伝統が発達してきたのは、この国の人に特有な感情のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優れていると思われる同情心の強さゆえでありましょう。」
江戸時代以前から、国民の食糧の生産者であり、国民の大多数を占めていたにも関わらず、百姓の多くは<生かさず、殺さず>のギリギリの状態に置かれる封建制度によって、百姓とはそういうものだとの諦めから、「心の内にある個人みずからを抑えてしまう」習性を自分のものとした。そのような習性の上に形成された「個人の表情を抑えてしまう」
「日本特有の伝統」なのであって、日本人すべてにわたって誉めるべき「伝統」とは決してなっていないと思います。
――「この点〔日本の芸術〕、私はとうてい、驚きと感嘆を隠せません。日本では、自然と人間は一体化しているように見えます。・・・この国に由来するすべてのものは、愛らしく朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。
かわいらしいのは、小さな緑の島々、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。」
「自然」に対する感情は置かれた立場によって、人それぞれ受け止め方が違います。日常的に「自然」を美しいと感じ取れる人間は生活にそれなりの余裕がある人間でしょう。当時は国民の7、8割方が百姓を職業とし、その多くは地主に高い小作料を支払わなければならない小作農で(大正時代、小作料の減額や小作条件の緩和を求める小作争議が多発しています)、貧しい生活を強いられていた人間にとっては、自然は日照りや大雨・洪水・疫病をもたらす災厄の源であり、そう簡単には「美しい」対象とは見れなかったのではないでしょうか。山に神を祀ったのは、自然に対する自己の無力を神の力を借りて解決を図ろうとする、哀しくも他力本願から出ない慣習からのもので、そのような慣習に頼らざるを得なかった。
そういったことに関係なく、自然を「美しい」と日常的に鑑賞できる人間は幸せです。
アインシュタインは、生活者として来日したわけではありません。旅行者としての来日です。それも白人というだけで立派だと思われる上に、上流社会の人間の立場にあったために、幸か不幸か、日本のいいところだけを紹介される限界も背負わされた。日本に対する印象が偏ったものであったとしても、無理もないことです。
だが、後世の人間がアインシュタインの言葉を、言葉なりに受け止めて、その外にある日本を考えの対象に入れずに、そのごく限られた範囲内でしか日本及び日本人を解釈しないのは、別の意味での情報操作に当らないでしょうか。
「今日でも欧米人の中には、何年日本に住んでいても、日本の生活や文化をすべて欧米中心的な価値観でしか判断できない人びとが大勢いる。それに比べると、これは希有な観察力、感情移入力と言わなければならない。アインシュタインは、科学者として超一流であったばかりではなく、人間としても、偏見のない豊かな感受性に恵まれた人物であった。彼は、人種や宗教や文化の違いによって他国民を軽蔑することがなかった。
そういうアインシュタインの人間性が知られるにつれ、日本人はますますアインシュタインが好きになり、尊敬するようになった」
当時の日本人も、「人種や宗教や文化の違いによって他国民を軽蔑」していたのであり、稀釈化されているとはいえ、現在でも色濃く抱えたままでいる差別の公式は、日本人の血の中に流れていた、歴史的な伝統として大正の時代にもあった意識なのです。アインシュタインが共鳴するに値する価値観を日本人が一般的に担っていたとの思いは思い込みに過ぎないということです。
アインシュタインは「離日の前日」に「大阪朝日新聞」に掲載したという「日本国民への感謝のメッセージ」を見てみます。
――「予が1ヶ月に余る日本滞在中、とくに感じた点は、地球上にも、また日本国民の如く爾(しか)く謙譲にして且つ篤実の国民が存在してゐたことを自覚したことである。世界各地を歴訪して、予にとつてまた斯くの如き純真な心持のよい国民に出会つたことはない。又予の接触した日本の建築絵画その他の芸術や自然については、山水草木がことごとく美しく細かく日本家屋の構造も自然にかなひ、一種独特の価値がある。故に予はこの点については、日本国民がむしろ欧州に感染をしないことを希望する。又福岡では畳の上に坐つて見、味噌汁も啜つてみたが、其の一寸の経験からみて、予は日本国民の日本生活を直ちに受け入れることの出来た一人であることを自覚した。」
「ここでもアインシュタインは、日本人の国民性と芸術と自然をほめることを忘れない。」
「謙譲にして且つ篤実の国民」、「純真な心持のよい国民」――検証の篩にかけない、言葉どおりに受け止め、そのままに評価する間違った情報操作が生じせしめることとなる日本及び日本人に対する無責任な美化が、『アインシュタインの予言』といった「奇妙な文書」を「インターネットの世界」に「出回」らせる原因の一端を作っているのではないでしょうか。
なぜなら、日本及び日本人の無責任な美化と構図を同じくして『アインシュタインの予言』が成り立っているということは、その成立に力を与えていると受取れるからです。少なくとも正当性の付与に貢献することは間違いありません。都合の悪い部分は排除するといった操作はするでしょうが。
「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。
一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。
私はこのような尊い国が世界に一ヶ所ぐらいなくてはならないと考えていた。
世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時が来
る。
その時人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。
この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くて
また尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
われわれは神に感謝する。
われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。」
まさしくアインシュタインの日本及び日本人美化と、その美化をそのままに受け止める解釈を受け継いでの、それに優る、日本民族優越意識に満ち満ちた独善的な日本及び日本人美化に彩られています。
となれば、アインシュタインの訪日時の日本及び日本人に対する印象が、上流社会に生活していた、物理学者として高名な白人が招待されて来日し、旅行者として実際の日本のほんの一部分を目にして感じたごく限定的個人的な印象であることを知らしめなければならないのではないでしょうか。
また、『アインシュタインの予言』が、「日本の美点を外国人の口を借りて賛美するために、外国人になりすますという手法」を使った「自分の個人的信念をアインシュタインの名前によって権威づけ」る、いわば企みだということですが、アインシュタインの「世界政府」「樹立」への願いの延長上に核廃絶を訴えるのも、同工異曲をなすものではないでしょうか。
というのも、あなたの言う「核廃絶への努力は、被爆国民としての日本人の人類に対する責務であると思う」という考えには、「言い古されて手垢がついてしまった言葉」であろうがなかろうが、「被爆国民」となった前提部分を欠落させる、情報操作となる一種の美化が窺えるからです。
前提部分≠ニは、1945年7月26日に発表されたポツダム宣言(対日降伏勧告)が、天皇制の維持に触れないまま、日本に無条件降伏を求めたものだとして、同年7月28日、鈴木貫太郎首相が軍部の圧力で「ただ黙殺するのみである」との声明を出したのに対して、2日後の7月30日に広島、8月9日には長崎と原爆を投下され、8月14日、ポツダム宣言の受諾へと至った、国体護持(天皇制維持)への拘りがつくり出したポツダム宣言黙殺と、それに対する回答としての原爆投下という双方の対応のことであり、広島が原爆投下の場所に選定されたのは呉という軍港を抱えていたことと、長崎は三菱重工などの軍需産業が立地していたからだという事実のことです。
そういった原爆投下の前提部分≠一切排除して、「被爆国民」だと訴えるのは、日本自らが日本を一方的被害者に立たせるもので、それが意図したものではなくても、美化(=情報操作)に当らないでしょうか。
よく言われることですが、日本はさも戦争の被害者であるように装い、加害者であることを忘れていると。広島・長崎の原爆に関して、日本は果たして被害者だけの立場にあったのでしょうか。
核廃絶は重要なことですが、前提部分≠欠落させたままの訴えは、一種の誤魔化しにならないでしょうか。核投下に至ったような前提部分≠ェ跡を絶たないようでは、核は決して廃絶されることはないと思います。
例えばキム・ジョンイルの北朝鮮が類似した前提部分≠自らつくり、そのような前提部分≠フ必然として核をも持つ。これは廃絶とはまるきり正反対の方向に向う、「被爆国民としての日本人の人類に対する責務」が完璧に無力となっている動きです。
厳しいことを言うなら、日本の軍部が悲惨な結果が待っているだけの本土決戦を掲げたのに対抗する、アメリカ側からの本土決戦の省略が広島・長崎への原爆投下だったのかもしれません。いわば、軍部の本土決戦が実行されたならつくり出したであろう悲惨な結果が、アメリカの原爆投下による悲惨にすり替わったに過ぎないのかもしれません。
http://www2.wbs.ne.jp/~shiminno/
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以上。乞う、批判の俎上。