村上ファンドの社長が阪神電鉄株を買い占めて
筆頭株主となり、傘下の阪神球団の上場を申し出た後、楽天がTBSの筆頭株主となって
TBSとの持ち株会社方式の経営統合を提案する展開の中で、村上ファンドもTBS株を7%前後買い占めていることが明らかとなり、TBS問題でも渦中の人となってインタビュー攻勢を受けることとなった。
テレビでやっていたインタビューの一つにこんなのがあった。男性インタビュアー
だったが、村上社長にマイクを突きつけて、まるで頭から悪者と決めつけるかのようなヒステリックな怒鳴りつけるに近い語調で、
「報道の公共性をあなたは理解しているのですか。所詮、あなたはカネ儲けに過ぎない」
自分を何様と思い上がっている態度にしか見えなかった。
どこのテレビ局か新聞社か分からなかったが、ライブドアがニッポン放送の株を買い占めたとき、ニッポン放送の社員も系列のフジテレビの社員もかなり感情的な拒絶反応を示していたから、
TBSの社員ということもあり得る。そうでなかったとしても、株売買でカネ儲けして悪いという法律もなければ、社会的常識がそうなっているわけでもないのだから、「カネ儲けに過ぎな」くたって、誰も非難できないし、恥じることもないわけで、そのくらいのことも理解できないジャーナリストが、ジャーナリストでございますとのさばっている
らしい。
また株を買い占めた会社を乗っ取って、その人間が経営者として乗込み、その経営姿勢がカネ儲け主義であることから、カネ儲けに偏った番組編成と番組放送が行われたとしても、その会社の事業形態が変わらなければ、報道会社としての「公共性」自体は視聴対象を少し変えるだけで、「公共性」という性格そのものに変化は起こらないし、起すこともできないはずなのに、件のインタビュアーは報道に携わる人間でありながら全然気づいていないよう
だ。
例えば、公共施設と言っても、それがスイミング施設だとすると、泳げず利用しない人間にとってその「公共性」は無価値・無縁のものである
だろうが、だからと言って「公共性」を失うわけではなく、タテマエ上はその「公共性」は社会全体に開かれていて、「公共性」自体に変化があるわけでないことと同じで
あろう。
いわば「公共性」と言っても、実態としてはそれぞれの部分を対象に成り立っているに過ぎず、それらの部分が社会に大きく占めるか占めないかの違いと占める対象の違いがあるだけ
である。
それと同じように、視聴料で成り立っている公共放送のNHKでも大衆の嗜好を取り入れなければ経営が維持できず、それ以上に大衆の嗜好を取り入れさるを得ない、企業をスポンサーとして、そのスポンサー料というカネに支配され、成り立たせている民間放送にとって、「報道」の幅は広く、カネ儲けを最終目的としたスポンサー迎合のための報道も存在させているのだから、実態的にはその程度の「公共性」でしかなく、そのような番組が少し増えたとしても、あるいは支配的になったとしても、報道して事業を成り立たせる以上、「報道の公共性」――社会に開かれているという義務性――から逃れることができるわけではなく、常について回
る。
乗っ取ったテレビ会社をサラ金の方が儲かるからとサラ金会社に事業形態を変えるといったことをしたら非現実的で、既存の投資を無にすることとなり、却って損失をつくり出すことになる
だろうが、例えそうしたことをしたとしても、利用対象や利用目的を変えてサラ金会社としての「公共性」を担うことになり、経営者の姿勢一つで「公共性」なるものから逃れられるわけでは
ない。
あるいは、「報道の公共性」を、テレビ局や新聞社が流す「報道」自体が社会の所有物だという意味で言っていたとしても、社会の人間が報道のすべてを等しく所有するわけではなく、番組や記事の種類や内容に対する関心の度合いに応じた選別をつけて所有するだけだから、公共施設の譬と同じところに落着くこととなり、さも全体的な所有物であるとするような物言いは思い上がりに過ぎなくな
る。
「折角ここまで築き上げた会社だ。他人が土足で上がり込んできて、引っかき回すようなことはされたくない」という声をライブドア騒動のときによく耳にしたが、新しい経営者の娯楽寄り、あるいはその他の経営姿勢が従来の経営方針に合わないと言うことなら、やめて他の会社に再就職するか、生活のために我慢して止むを得ずその経営姿勢を受入れるか、それぞれの選択にかかっていることで、「公共性」とは関係ない事柄であ
ろう。
それを「報道の公共性を理解していない」と言うのは、経営方針が変ることによって会社での決まっていた自分の役目を失いたくない、あるいは崩されたくない自己保身からの発想でしかなく、「報道の公共性」と混同しているか、「報道の公共性」を盾に自らの保守性、あるいは自己保身性を正当化するキレイゴトの類のものでしかないように思える。
大体が尤もらしく口にする「報道の公共性」にしても、現実の新聞・テレビに照らしてみると、錦の御旗にして高々と掲げて自慢できる程の「公共性」を発揮しているかというと、やらせがあったり、情報提供者にカネを渡してこちらに都合がいい話をさせたり、記事内容を捏造したり、他人の記事を盗用したり、どうしようもない番組や記事を流したり載せたり、センセーショナルに騒ぎまくったり、犯罪者や犯罪被害者の近親者や周辺住民への過剰な取材攻勢は当り前、社会的強者や有名人に対する追従・持上げ、弱者に対しては見下す態度を自らの生態とし、自らの立場を利用して女を騙したり、そういったことも含んだ「報道の公共性」で、それを「公共性」に添う報道事項だとしているのだから、報道関係者自らが「公共性」を言うのは口幅ったく、自分を何様に捉えているか弁えるべき
だろう。
TBSはかつて「報道特集」番組でサブリミナル手法を用いて、映像の中に関係のない映像を挿入して問題となり、記者会見で謝罪している。効果は証明されていないが、挿入された映像を気づかぬまま見ても、見た人間の潜在意識に残ると言われているそうで、例え効果がゼロであ
ったとしても、関係のない映像の混入を意図的に行ったこと自体が人間の脳を操作しようと図ったことを意味
する。独裁者が体制批判者の洗脳を図るのと構図的には同じことをしたの
である。これも「公共性」から行ったの
だろうあから、「公共性」の何たるかは推して知るべしで
ある。
確か最近でも日本テレビがサブリミナルを使って問題になったと記憶して
いる。
特に民法テレビ局は、孫悟空の空を飛ぶ能力がお釈迦様に対してはその手のひらの中を限界としていたように、視聴率の制限を受けた公共性を限界としていることを自ら悟るべき
だろう。下らない番組でも視聴率が稼げれば、スポンサーがついて、スポンサー料をはたいてくれる。その逆であったなら、経営に支障を来すとして、簡単に番組打ち切りに出る。その程度の「公共性」
でしかない。
つまり、「報道の公共性」を振りまわす報道人こそ、「報道の公共性」を理解しているのだろうかと疑わしくな
る。いくらサッカーが国民的娯楽の仲間入りを果たしていると言っても、プロ野球が一大娯楽であることに変りはないのに、セリーグで阪神が一位を確保してマジックを減らしているのに巨人相手でなければ全国規模のテレビ放送はなく、優勝決定の試合がテレビ報道されたのは、相手が巨人だからと言うのは、「報道の公共性」から言えば異常なことだが、それを異常としていない「報道の公共性」がのさばっている現実を報道人は知るべきで
ある。
パリーグのプレーオフにしても、東京テレビという関東地方とその周辺の電波が届く地域に限って番組を見ることができるテレビ局しか放送せず、全国的に視聴できるテレビ局が中継しなかったのは、一般的な関心に応える「報道の公共性」よりも、視聴率の関係――スポンサー料の関係からだろうから、このようなことに関しても、キレイゴトに過ぎない「報道の公共性」だと言える。政治家が国民のみなさんのための政治と言うのと同じレベルにある、中身のないキレイゴトであろう。