05.8.17.『朝日』朝刊に、「郵政民営化法案の衆院本会議で欠席・棄権した中で立候補予定の12人のうち、古賀誠元幹事長ら11人を公認した」とする内容の、≪欠席・棄権組11人に公認 自民『3次』計21人≫と題した記事が載った。
「欠席・棄権組」に対する「党公認」の代償は、同じ日付の同じ新聞に、≪
踏み絵迫られた『転向組』の悲哀≫の関連記事中に記されている。
「武部幹事長は欠席・棄権組に対し、『公認』との引き替えに『郵政民営化
と小泉構造改革に賛成する』旨の文書を提出するよう迫っ」たという内容である
。それも、小泉首相の意向が働いての「踏み絵」なる大時代的な仕掛けの出
現なのだそうだ。
記事はドラマ仕立てに解説している。
「元々武部氏ら党執行部は反対票を投じた37人と、棄権・欠席の14人への
対応にはかなりの差をつけるつもりだった。反対派を公認から外すのは当然
だが、欠席・棄権組には弁明書の提出は求めず、武部氏の幹事長権限で比較
的軽い処分にすることにしていた。
温情処分の余地を与えなかったのは、小泉首相だ。9日、党幹部にこう伝
えた。
『棄権・欠席組と言っても、みんな一緒じゃない。誘われて棄権した人も
いれば、誘った人もいる』
党内に衝撃が走った。
『古賀さんでさえ、公認されないかも知れない』。そんな見方まで流れた。
執行部も一転、首相への忠誠を誓う『踏み絵』の文書を欠席・棄権組に突きつ
ける方針へと転換した」
新選組は「誠」と記した旗を掲げて、自らの行動を「誠」の感情から発した人
事だと宣伝してはいたが、同じ「誠」を名前につけている自民党フィクサーの
一人古賀誠元幹事長も、名は体を表すで「誠」の感情から「『公認』との引き
替えに『郵政民営化と小泉構造改革に賛成する』旨の文書を提出」して、欠席行為を平にご容赦願ったのだろうか。
自分が古賀氏と同じような立場に立たされたなら、喜び勇んで宗旨替えした
だろうし、それだけでは飽きたらずに靴で地面に何度も何度もこすりつけてボ
ロボロにした「踏み絵」のそのボロボロ状態を忠誠度の証明としたことだろう。
自分がそうだからと言うわけではないが、キリシタン禁制時の踏み絵を踏む
ことを強要されたキリシタンが味わったであろう程には、現在の自民党棄権・欠
席派キリシタンが悲痛と屈辱を味わったのだろうか、いささか疑わしい。最初
は反撥もしただろうが、長続きさせもせず、当選して議員の地位を守るために
はエンヤコラサ程度ではなかったろうか。
しかし、法案に反対したからと言って、公認しないとか、欠席・棄権したからと言って、「『公認』との引き替えに『郵政民営化と小泉構造改革に賛成する』旨の文書を提出するよう迫」るといった排除・誘導は、思想・信条の自由を制限する危険行為
に当たらないだろうか。
同じ党に所属するから、同じ考えでなければならないとするのは、戦前の軍
国主義・国体に馴染まない国民を、国賊・非国民・アカ・アメリカのスパイと排除・弾圧したのと構造的に同じ思想統制に
準じないわけはない。
集団・組織なるものが公約数的に利害を同じくする人間の集まりを構造とし
ているに過ぎない事実を踏まえるなら、さらにその中のそれぞれに異なる個々の約数部分を同じくする協調関係に向かい、集束するのは、利害の生きものとしての人間の自然な相互依存性として認めなければならないだろう。
そこから同じ集団・組織内でも、約数の重要度や違いによって利害を異にす
る立場が生じる。
政治で言えば、政党内の各派閥が個々の約数部分に当たる。殆どの政治家
が一つの政党に所属していながら、各派閥に所属する二重の集団性を属性と
している。小泉首相にしても、自分が所属している派閥の立場や考えに立ち、
その恩恵を受けもし、利用もしたはずである。首相派閥・反首相派閥といった、
各派閥を超えた利害集団も存在するだろう。
例え一つの組織・集団に属していたとしたとしても、基本のところでは考え・利害を異にしていたとしても、何ら不都合はないはずである。
小泉曰く「私を総裁に選んでおきながら、党の公約として決めた郵政民営化に反対するのはおかしい」
いくら総裁に選んだ人間が主導して党の公約と決めた政策であっても、具
体的な成果として現れた政策(法案)の中身が賛否の基準となるのであって、
中身を具体的に決定する前の政策は単に目的として掲げた体裁、あるいは
器の意味しか持たない。いわば小泉首相はまだ体裁、あるいは器の段階で
しかなかった政策の方向性で支持を取付けただけの話で、具体的な中身で
支持を取付けたわけではない。だからこそ、基本のところでは考え・利害を異
にする、いわゆる反対派の立場を取った人間たちに中身をあれこれと変える
妥協や譲歩を重ねて、彼らにも受入れやすくする経緯を踏まなければならな
かったのだろう。大体が改革といった変更は、常にそういったプロセスを踏む
宿命を抱えている。
改革が不十分・中途半端で、新たに改革する余地の方が大きい道路公団改革・国/地方税財政の三位一体改革・「三方一両損」と誇称した医療改革等々を見れば、一目瞭然である。
これらは法案が纏まって賛成多数で議会を通過し、法律として制定されながら、結果的中身が国民の期待を裏切る妥協の産物のザル法といった否定的な評
価でしか迎えられず、国民の支持を受けられない例としてあるもので、当初は期待したが、結果的に落胆する、あるいは最初から期待していなかったが、その通りになったといったケースであ
ろう。あるいは一部の階層や業種に利益とはなるが、他の者には利益とならない、不公平是正と名付けられることとなる改革もあり、法律の改正もある。
それらを一切無視して、政権政党として国民が選んだ政党の賛成で成立した
政策・法案だから、受入れないのは「おかしい」とするわけにはいかないだろう。いかないから、その延長線上に常に改革が待ち構えることとなる。
小泉自民党は昨年04年7月の参院選挙で、年金制度改革で国民の賛成多
数の支持を受けられずに、民主党を下回る改選議席しか獲得できず、痛い目
にあった経験を忘れてしまったらしい。そのときの痛い目が、今回の参議院で
の郵政民営化法案の否決という、さらなる痛い目につながっている部分もある
はずである。
このことは改革は常に絶対ではなく、それ故にこそ、批判は受けるべきであることを示唆している。
そのような図式は政策の異なる別の政党の批判を指すとは限らない。例え同じ組織・集団に所属していても、そのこと自体が一つの制約条件となっていたとしても、
立場や考えに応じてそれぞれに利害を違えていることが避けられない以上、基本的には支持・不支持は個人の思想・信条の自由の領域に属する意思表示
なのだから、そうである以上、支持を訴えることはできても、強制はできないと言うことである。
このことはごくごく当たり前のことだろうが、日本という国では政党に於いては党議拘束、一般社会に於いても、所属集団の圧力で大勢順応の姿勢を取らせる強制がごく当たり前な日本標準となっている。
小泉首相にしても然り、郵政民営化法案では、世界の民主主義国家では禁じ
手となっている日本標準でしかない支持の強制を行ったのである。アメリカの新
国連大使となったボルトンの議会指名では、共和党の中に反対する議員もいた
。民主党政権であっても、共和党員を閣僚に迎えることもある。
郵政民営化反対派の亀井も綿貫も、小泉のやり方は独裁者だ、ヒトラーだと
犬の遠吠え程度に喚いているが、自分たちも散々してきた支持の強制なのであ
る。単に立場が逆転した風景の中に逆風を受けて佇んでいるに過ぎない。
ことさらに言うまでもなく、政治家個人に対する支持率は常に変動的なもので、個々の政策に関しても、それぞれの利害に応じた個別の判断を受けるゆえに、常に一定の支持を受けるとは限らない。「私を総裁に選んでおきながら、党の公約として決めた郵政民営化に反対するのはおかしい」とするなら、小泉首相の支持率が国民の半数を超える賛成多数を占めているから、彼の政策はすべて国民の賛成多数を占めているはずで、国民の信託を受けて政治活動している、少なくとも同じ党に所属する議員は賛成多数を形成しなければならないとすることも許されることになる。
また、政策の方向性で支持、あるいは賛否が決定されるなら、乱暴な話となる
が、妥協や譲歩だけではなく、批判・反対なる行為性は人間行為から取り上げ、排除しなければならなくなる。国家は絶対である、だから国家に従えといった戦前には通用した強制も、現代に於いては常識からしたら暴力的とも言えるそのような恣意性をも受入れなければならないだろう。
小泉首相が最終的にOKを出した郵政民営化法案は、それほどにも絶対的な
内容・中身を国民に約束していたのだろうか。尤も反対派の意見をすべて受入
れていたなら、もっとボロボロになっていたかも知れない。
例えそうなることが確実と見られていたとしても、「『公認』との引き替えに『郵政民営化と小泉構造改革に賛成する』」との確約を迫って、受入れさせた図式には、その改革が例え不備だらけでも、矛盾を抱えていても、無条件に「賛成」しなければならない、同時進行の制約を含んでいる。
無条件・無考えの追従を強制し、それを受入れさせたと言うことである。譬えるなら、11人の「棄権・欠席組」は戦前の軍国主義に言いなりとなった従順な日本国民と同じ立場に自らを貶めたのである。
かつての国家主義者が自らを絶対善として国民を統制した例を持ち出すまで
もなく、小泉首相自身も自らの構造改革すべてが絶対善で、間違い一つないと
しているからこそできる統制だろうが、そのような統制も、その統制に従うことも、多くの人間がその強権の程度に気づいていないようだが、どちらも空恐ろしいことではないだろうか。
疑わしきは罰せず。冤罪を生じせしめないための刑事訴訟法の大前提である。例えその改革が国民にとって比較善であったとしても、民主主義の多数決の原理に則って否決されたなら、否決票を投じた反対議員を説得できなかった、もしくは納得させ得なかった自らの非力をこそ咎めるべきだろう。否決票を投じた反対派議員を懲罰するかどうかは、国民が選挙を通して決めることである。国民がそういった能力を持っていないとするなら、そのような国民の資質に助けられての、現在ある政界地図の成り立ちであろう。その成果としてある国際的に見た政治的な地位の低さなのだから、何も言うことはなくなる。
いわば、日本という国だけに限ったお山の大将としてある、日本の政治と言うことになる。お山の大将の中の現在のお山の大将が小泉純一郎というわけである。
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既に読んだ人もいるでしょうが、参考までに「踏み絵」に関する「朝日」の記事全
文を記載しておきます。
◆05.8.17.『朝日』朝刊
≪踏み絵迫られた『転向組』の悲哀≫
<小渕氏『もう持たない・・・・』>
「13日、小渕優子前衆院議員は、知人に電話でこう洩らした。
『もう、きょう1日しか持ちこたえられないかもしれない』
小渕氏は、7月5日の郵政民営化法案の衆院採決で棄権を選んだ。武部幹
事長は欠席・棄権組に対し、『公認』との引き替えに『郵政民営化と小泉構造
改革に賛成する』旨の文書を提出するよう迫っていた。
小渕氏は当初、文書の提出を拒んだ。父親の故小渕元首相は郵政族の一
人。棄権にとどめたものの、気持は反対票を投ずるに等しかった。ここで文書
を出してしまえば、公認されなかった人の応援にも行けなくなる――。
だが、10日、党本部から『書類を出していないのはあなただけだ』と迫られた。地元の後援会からも、党本部の求めに応じよと圧力がかかる。
『父親だって、党のおかげで首相になれたのに』
そんな声が大勢だった。
ついに小渕氏も折れた。建部氏が記者会見で『棄権・欠席の全員に署名を
いただいた』と誇らしげに語ったのが15日だった。
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元々武部氏ら党執行部は反対票を投じた37人と、棄権・欠席の14人への
対応にはかなりの差をつけるつもりだった。反対派を公認からはずすのは当
然だが、欠席・棄権組には弁明書の提出は求めず、建部氏の幹事長権限で
比較的軽い処分にすることにしていた。
温情処分の余地を与えなかったのは、小泉首相だ。9日、党幹部にこう伝え
た。
「棄権・欠席組と言っても、みんな一緒じゃない。誘われて棄権した人もいれ
ば、誘った人もいる』
党内に衝撃が走った。
『古賀さんでさえ、公認されないかも知れない』。そんな見方まで流れた。執
行部も一転、首相への忠誠を誓う『踏み絵』の文書を欠席・棄権組に突きつけ
る方針へと転換した。
『服従』の代りに、引退する前議員らを除く11人が16日に公認された。小
渕氏は同夜、『郵政民営化をはじめとした改革の必要性は十分認識している。
今後とも自らの信念に基づき地域の声を国政に反映すべく党内論議に取組
む』とのコメントを地元・群馬の事務所を通じて発表しただけだった。
■ ■
服従を嫌い、政界を去る人間もいる。
当選8回、通産相も務めた佐藤信二前衆院議員は棄権組。総選挙不出馬
を表明した9日の記者会見で、「反対の意思表示を示した法案に賛成するの
は私自身の哲学に反する」と強気だった。だが、記者会見の終わり頃、こうも
語った。『こんなに早く総選挙になるとは思わなかった』」