尼崎列車脱線事故は、死者は106人だったが、入院していた重傷者の一人が加わって、107人にのぼった。
テレビ・新聞は最初の段階で、事故原因の犯人探しに躍起となった。スピードを出し過ぎた運転手なのか。出し過ぎが電車運行の遅れに対する会社側の懲罰を恐れたプレッシャーからの焦りが招いた過剰反応で、真犯人はJR西日本では
ないか。それとも、JR西日本が記者会見で明らかにした、置石の可能性なのか。
乗客の安全第一を名目に、発車が1分遅れただけでも、安全教育という名のもとに、再度失敗を犯した場合は運転業務から降ろすといった心理的圧力までかけて反省を強制する。そのように
もダイヤ厳守の運行至上主義を迫って、単なる遅れの失敗であっても、その許容範囲を常にゼロに設定する再教育(日勤教育)の非人間的圧力を、報道はこれでもかと浮かび上がらせて、JR西日本の非道を印象づけた。
確かに人間を管理・監督する組織の矛盾や不合理な点を追及する役目をマスメディアは担うが、犯人特定の域を出ていなかったために、一つの事柄への寄ってたかった偏りを生じせしめて、JR西日本の置石°L者会見と同じく、予断を
与えかねない報道内容とはなっていなかっただろうか。
例え上層部の下層部に対する管理・監督が過度に心理的プレッシャーを与えるものであったとしても、そのプレッシャーから乗客の生命を軽視してもいいという論理は成り立たないはずで、結果的にでも成り立たせたとしたら、上層部の間違いに重複する形で、下層部も同じ間違いを犯したことになる。責任の軽重は別問題として、共犯ということにならないだろうか。
犯人探しは原因調査委員会に任せるべきなのに、報道各社とも、特にワイドショーはそれぞれが犯人探しの先陣争いをしているよな勇みようだった。ウラで、日勤教育を取り上げたのは、ウチの会社が最初だなどと自画自賛していたのではないだろうか。
救助作業が終了に近づくと、犯人探しと並行させる形で、まるで返す刀のように、ドラマ仕立てで死者の人生を洗い出して、遺族や近親者の悔しさ・無念さを浮かび上がらせることに必死となり、その理不尽さを煽って、犯人に向けて増幅させようと意図するかのような別種の過熱報道へと向っていった。
報道に携わる人間がみな正義感を持ち、正義の行いをしているのだったなら、理不尽さの糾弾は、多くの理解を得ることができる。その資格もなく、糾弾が過ぎると、糾弾する者が何様であるかのような嫌味な印象を与えることとなる。
報道の公共性を言い立て、自分は給料を貰っているが、会社の利益を考えない立場から仕事をしていると宣言して恥じない人間ばかりなのだろうか。大事故・大事件ほど、報道各社にとって飯のタネとなる社会の仕組みとなっていることから免れた場所に立って仕事をすることできている人間がどれ程いるのだろう