が大鵬に次ぐ2人目の6場所連続優勝を成し遂げた。その大鵬の「朝青龍に贈る言葉」が新聞に出ている。
「これから7連覇へと続いていくんだからさらに精進して、手本になるようにして欲しい。苦しい稽古をして努力すること。努力しないでいい目を見ようとしたってダメなんだ」
記事の前段は、6連覇がかかっている「朝青龍が積極的に20番の申し合い」をしたと、場所前の調整の意気込みを伝えたが、当時の大鵬の「1日40番は下らなかった」、それも
かつての「玉乃島に琴桜」といった錚々たる面々が相手だった申し合いと比較されて「先輩の記者」に叱られたイキサツを引き合いに、「部屋の十両や幕下とじゃれあう」程度の申し合いを「順調な調整ぶり」と記事にした自らの生半可知識を恥じて、「身はうつむくよりしかたない」と反省する内容となっている。
その反省と大鵬の言葉と併せて、記事は朝青龍の稽古嫌いとまでいかなくても、少なくとも稽古量の少なさを指摘している。
四股・股割り・鉄砲以外の申し合い稽古が、時間を掛けて、ただ我武者羅に身体と身体をぶっつけあうのが主流だった40年も前の大鵬の時代と比べて、相撲に限ったことではないが、稽古はウエイトトレーニングやストレッチ、あるいはランニングを取り入れたり、学問的知識を応用したりして、合理的・科学的となっている。
いわば、申し合いが何番だとかで稽古のすべてが決まるわけではない。「先輩記者」がそう言ったからと、時代を見ずに単純比較するのはあまりにも短絡的・単細胞な情緒的反応に過ぎないのではないだろうか。
大体が強さは稽古だけで片付くものではない。どうしようもなく本質的な素質が関わってくる。運動に関わる身体的な反射神経と心の動きまで含めた相手の動きを考え、反応する知覚的反射神経(頭脳)が優れていないと、継続的な強さは発揮できない。その2つの素質を基本的な土台として、それを十分に発揮できる稽古で鍛えた身体を必要とする。決して稽古で鍛えた身体がそもそもの土台ではない。いくら肉体を稽古で鍛えても、そこそこに強くなれるが、決定的に大関・横綱になれない力士がいくらでもいることがその証拠であろう。
この際、身体の大小は関係ない。小兵ながら、横綱を張った力士は何人もいる。
逆説するなら、両反射神経がなまらない範囲の身体づくりで稽古は十分であると言える。下手に稽古量を増やして、疲労過剰となると、両神経を鈍らせて、急激な運動能力低下を招くことは科学的にも立証されている。古くから言われていることだが、疲労大敵と言われる所以である。
尤も望みが叶わないのは信心が足りないからだと、すべてを信心の問題に片付けてしまう宗教と同じように、地位が上がらない理由のすべてを稽古不足にまとめてしまう人間は多い。
例え朝青龍の稽古量の少なさが稽古嫌いに起因した性格のものであったとしても、それでもなお圧倒的な強さを誇っている、あるいは誇っていられる成果としてある6場所連続優勝なのである。それを7連続優勝につなげることができるかどうかは、本人の問題だけでは済まない。それを許してしまうかどうかの周囲の力士の姿勢が大きく関わっている。6場所連続優勝が、「部屋の十両や幕下とじゃれあう」程度の稽古しかしない横綱を最強の横綱として崇めたてまつるしか能のない大関陣の不甲斐なさが与えた成果でもあるのだから、一人
朝青龍の稽古を云々しても始まらない。横綱も大関陣ももう大の大人なのだから、それぞれに任せるべき、あるいは任せなければならない自覚の問題であろう。
ウサギとカメの寓話ではないが、身体的反射神経も知覚的反射神経もなまってしまうくらいに途中でひと眠りもふた眠りもするくらいの稽古不足を逆に期待した方がいいくらいではないか。情けない話ではあるが。
大体が日本人は上の者が下の者に干渉し過ぎる。だから、練習の成果や試合の成績がちょっとでも気に入らないと、グランドを裸で走らせるといった体罰(不当管理
・過剰管理)を起すことになる。何が何でもの勝利主義が災いしていることもあるのだろうが、高校野球で指導者の暴力が04年度は20件だったが、今年度(05年度)は4月から31件にのぼっていると9月29日の新聞に出ていた。暴力で言うことを聞かそうとするのは、究極の管理主義であろう。その横行は管理主義
の一般的な横行が土台となっているからこそ可能な現象であるはずである。
稽古も練習も、成果・成績も、自己管理・自己責任で決定させるべきである。昔と違って、今の時代は管理に管理を重ねて得た強さなど、長続きはしない。管理に対して自分から応じるのではなく、人に動かされるままに育んでいく強さだからである。
だが、自分から応じた強さであっても、管理を必要とせずに、自分の考えで自ら育んでいく強さには勝てないだろう。自律という点で、少なくとも後者にこそ価値はある。
ゼニを稼ぐ、稼がないのも自分の心がけ(姿勢)次第だ、横砂・大関に上がるのも上がらないのも、それぞれの心がけ次第だと一人一人に任せればいい。稽古次第だと言ったなら、ウソになる。ところが、一人一人に任せる自己管理・自己責任とすることができない。どうしようもなく干渉し、管
したがる日本人性から逃れられない。
今シーズンから大リーグに行った井口が日米の練習を比較して、日本のプロ野球は球団が決めた時間に一斉に練習するが、大リーグでは銘々が決められた時間よりも早く出てきて、率先して練習するといったことを言っていた。競争が激しくて、ウカウカしていられない事情がそうさせていたとしても、しかしそこに働いている力学は、誰に指示されたものではない、自分で自分に指示する自己管理・自己責任の意識作用であろう。いわば、チームの練習ではなく、自分の練習となっている。自分で自分に課したメニューを消化する自己責任の完遂が練習を自分の練習とする。
日本の選手が例え練習時間内に濃密な激しい練習をこなしたとしても、時間とメニューに管理された、いわば他者に指示された、その範囲内の、全面的ではない自己管理・自己責任でしかない。しかも練習中に監督やコーチにああしろ、こうしろと指示されて、指示されたとおりに動く他者管理を常に受け、常日頃から他者管理に慣らされる。そのことは元々少ない自己管理の余地をなおさらに狭める行為に他ならない
のではないか。
ときには居残り特訓といった練習もするが、あくまでもスランプなどを原因とした例外であって、日常普段から自己管理・自己責任意識を働かせていて、その作用からの自発行為ではなく、単に立場上の必要に迫られた受身的自発行為――他者からの暗黙の要請、若しくは暗黙の強制を受けた単に慣習としてある一定行為に過ぎないのではないか。
若貴ブームが去ってから大相撲の不人気が言われているが、ああしろ、こうしろとうるさく管理して解決する問題なら、とっくの昔に不人気を抜け出していただろう。管理が役に立たないことにそろそろ気づくべきである。
権利意識の時代的な発達が理由で、社会全体が管理の効く時代ではなくなっている。だからと言って、歴史も浅く、習性として根づいていないために自己管理・自己責任の姿勢で行動するだけの意識は持てないでいる。上の者が下の者に接するとき、管理の意識から抜け出せないことも、相互に自己管理・自己責任意識が育たない理由の一つとなっているということもあるに違いない。
だが、管理では解決できない時代であることを悟って、大相撲を面白くするのも面白くしないのも、すべて自分の問題とする自己管理・自己責任に任せる意識改革を行うしか道はないのではないか。少なくとも、相撲に限ったことではなく、時代の要請は自己管理・自己責任の方向に向けた行動様式となっている。