栃木県今市市では、05年12月1日の小1女児誘拐殺害事件を受けて、児童に大声で「助けてー」と叫ばせる発声訓練をさせたり、輪番制で保護者が帰宅児童を出迎えるシステムを発動し、さらに青色灯を取付けた公用の軽ワゴン車を使った午後2時〜4
時の下校時間帯に15分程度の学校職員による巡回パトロールを開始したという。
発声訓練は、「助けてー」と叫ばれたために狼狽した犯人が過剰反応して黙らせるために口を塞ぎ、首を絞めてしまう危険性も考え合わせた性格のものなのだろうか。物品狙いで住宅に侵入した強盗犯が家人に気づかれて騒がれ、慌てて殺してしまうといった悲喜劇はよくあるケースである。尤も最初から殺す目的の児童誘拐なら、死が早い時間帯か遅い時間帯かの違いしか生じないから、万が一の救出の可能性に掛けた「助けてー」訓練といういうこともある。
全国初だという学校職員の巡回パトロ−ルは、「不審者対策
の一環として今夏から準備していた」ということだが、その夏が過ぎ、秋も過ぎて、冬に入った12月初旬、それも事件が発生してから開始というのは、泥棒を捕まえてから縄をなう泥縄式の辻褄合わせの感がしないでもない。
今市市は保護者のボランティアらが学校周辺をパトロールする「スクールガード」を市内の4小学校で試験的に開始していたが、被害女児が通っていた大沢小学校区は不審者情報が少ないということから初年度の実施対象から外していたという。
こういったことは区域を選別して試験的に行うことなのだろうか。しかも不審者情報の多寡を基準として、巡回地域の選定を行った。不審者はあくまでも不審者であって、すべてが犯罪予備軍とは限らない。例え犯罪予備軍だったとしても、不審者として目撃された場所で犯罪を犯すとは限らない。試験的であろうとなかろうと、教育委員会が責任を負うべき全地域を最初から対象とすべきだったろう。
発声訓練のにわか仕立てと言い、青色灯巡回パトロールの辻褄合わせと言い、安全対策が個別的に見ても、相互的な関連性から見ても、統一性を備えていたとは思えない。
爆弾は1度落ちた場所には2度と落ちないと言われる。別人が1度犯罪を犯したために警戒対策が施され、警戒心が高まった同じ場所で、誰が同じ種類の犯罪を犯すだろうか。事後手当では遅すぎる。事前手当こそが、緊要であろう。
05年12月3日の朝日朝刊が伝えている記事も、対策が辻褄合わせの性格を出ないものだろう。
「今市市では1昨年から市立小学校の新1年生全員に防犯ブザーを持たせていた。しかし、自宅に忘れてきたり、電池が切れて鳴らなかったりする例が目立っていた。
このため市教委は広島市で女児が殺害された事件の後、校長会を開き、ブザーを必ず持たせるように指示した。大沢小学校では1年生の2クラスで担任が子どもたちに直接指導。今週に入って全員がブザーを持参したことが確認できたという」
よその土地で起きた事件に合わせて急いで準備万端を図ったとしても、あくまでも対策上のことで、狙われるのは力の弱い児童である。その対策が実際の場で生きて役立たせるには、持たせただけで終わるはずはなく、危険意識をすべての児童に常時持たせておくことを絶対条件としなければならない。
学校・教師がそう仕向ける努力を怠っていたから、「自宅に忘れてきたり、電池が切れて鳴らなかったりする」事態が生じていたのだろう。生徒だけではなく、教師までが、「持たせ」たことで役目を終え、危機意識を長続きさせずにいたから、再度所持を徹底させたとしても、所持させ・所持することによりウエイトを置いた形式となっていたのではないだろうか。
普段の練習を怠けている野球選手が、本番の試合で活躍することはたまにはあるだろうが、いつも活躍できる程に甘くはない。常日頃の備えが必要なのに、今市市の市教委も学校も、そうとは考えなかったようだ。万全を期していたとしても、対策は対策でしかなく、そうであるからこそ、常にそのことを頭に入れて警戒に努めなければならない。
新聞が、「各地の学校、厳戒態勢」と報じているが、全国的に小学校では保護者や学校職員を付き添いとした集団登下校を心掛けることにしているようだが、人間はいくらでも巧妙になり得る。官僚・企業の談合の手口、公金私服や天下りの手口をざっと見ただけで、その千変万化ぶりは理解できる。集団登下校時は避けるだろうし、巡回パトロールにしても、曜日ごとに巡回時間に変化を持たせたとしても、その日の場所場所の大体の巡回時間を推し量って、パトロールをやり過ごしてから犯行に及ぶぐらいの知恵は働かすだろう。
警察が白バイ・パトカー、あるいは交番の巡査による自転車及び歩行巡回でいくらパトロールをしても、犯罪の殆どを防ぎ得ないのだから、学校関係者の巡回パトロールの有効性を過信して、それでよしとしない方がいい。何もやらなければ格好がつかないからやっているということだけで終わる危険性もある。
世間の警戒によって犯行が困難になったことへの焦燥感が、犯罪者をして逆に犯行への憎しみの籠もった執念を高めると言ったこともあるかも知れない。
また、集団登下校によって性犯罪は防げたとしても、児童の集団に暴走車が突っ込み、多くの児童を死傷させる事故が時折起きていることだから、頭に入れておかなければならない。例え交通量が多くても、人通りの少ない道路から多い道路に帰路を変更させて、交通安全よりも犯罪対策を優先させると言うことだから、なおさら神経を使
わなければならない。
何よりも集団登下校・パトロール等で警戒したとしても、一
定期間犯罪が起きなかった場合、それらは否応もなしに自己目的化し、単に形式的に消化するための儀式に陥らない保証はない。特に今市市の場合、当分の間同種の事件が再度起きる可能性の少なさから考えて、新たな不審人物の目撃がなかった場合、儀式化への道のりは短いのではないだろうか。
一旦儀式に陥ると、決められたとおりの行動に縛られて、自由な判断と行動が取りにくくなる。
そもそもからして日本人は上が決めたこと、組織が決めたことを決めたとおりになぞることに関しては実行力を発揮するが、決めてないことが起って自分で判断しなければならない事態に関しては、上に従うことに慣らされていることと、従わずに失敗して責任を取らされることを恐れるあまり、ケースバイケースで臨機に処理する機能性に欠ける傾向にある。そこへ持ってきて、判断行為が儀式化したなら、儀式に添った硬直性しか期待できない。
発育の遅れが他人に迷惑を掛けるからとの理由で娘を生後18年間も自宅に閉じ込めたままで、小学校も中学校も1日も通学させなかったという40歳の母親の事件で新聞記事(05年12月6日『朝日』朝刊)が書いている学校の対応は、日本人の儀式化した判断行為を如実に伝えている。
教育委員会
は就学義務を学校の対応にのみ任せ、学校の担任は月1回のペースで家庭訪問するだけで、その度に娘との面会を両親に断られて、その間1度も面会を果たせず、一言も口を利いたこともなく、当り前のことだが、そのため「様子が分からなかった」と弁解している。
担任は月1回のペースで両親に面会を断られるために学校と家庭を往復する儀式を小学校・中学校の9年間・合計108回続けたのである(テレビ報道は小学校では頻繁に、中学校では月1回のペースで3年間33回の訪問と伝えていた――責任を果たしたことを伝えるために、訪問日を記録しておいたのではないか)。
その娘に対する教師としての責任と学校の責任を、その往復だけの儀式でよしとし、完結させていた。空恐ろしくなるくらいの責任感とエネルギーではないか。その間おかしいとも思わず、だから福祉事務所や児童相談所にも警察にも相談せず、行ったり来たりだけを繰返した。行きたくもなかったが、それが仕事だからと無理矢理自分を納得させていたのだろう。
娘の「様子が分からなかった」としても、小学校で6年間、中学校で3年間も面会を断り続ける母親の「様子」に、少なくともおかしいと思わなかったのだろうか。それとも日本の教師はおかしいと思わない方が正常な判断能力の持主と言うことになるのだろうか。
巡回ボランティアにしても、頼まれたから断れなくて仕方なく参加しているという人間もいるだろう。そういった人間は最初は熱心でも、すぐに儀式にしてしまう。
「00年11月の児童虐待防止法施行以降2年半の間に厚生労働省が確認した125件の死亡事件のうち、7割は児童相談所や保健所が関わっていて子供を救える可能性があったことが厚生省の調べでわかっている」(04年10月13日「朝日」朝刊)
同じ記事は栃木県小山市で起きた事件に関して、「警察から兄弟を引き渡された相談所は、父親から引き渡しを求められて、十分な調査もせずに翌日には兄弟を帰している。顔のアザは見ていても、服の下は調べず、体のアザを見落としていた」
虐待の主は覚醒剤中毒の父親から殴打などの扱いを受けていた、同じく覚醒剤中毒者の後輩に当たる男で、子供への虐待は先輩である父親への仕返しであったが、それがエスカレートして、殺人という形にまで発展させてしまった。
04年度の児童虐待死49件のうち、12件が児童相談所や警察などの関係機関が事前に問題が起きていることを把握していたという。その多くが規則の形式的な解釈に従った、その範囲内の対応に終始し、場合場合に必要とされるそれぞれの判断に従った一歩踏み込んだ対応を怠った結果の惨事というわけだろう。
児童の保護を専門的な役目の一つとしている重要機関でありながら、ケースに応じて違えていく積極的で柔軟な判断と常に最悪の場合を想定して、それを防ぐべく事に当たる危機管理意識が基本的に欠如していることからの規則から離れられない形式への拘りなのであろう。
そのような日本人の行動性からすると、大人付添いの集団登下校や巡回パトロールを始めたからといって、必ずしも目標通り
の成果が期待できるとは限らない。
特に何事も起こらずに2年も3年も経過したとき、最初の警戒心を維持できるかどうかである。慣れてしまって、地震対策と同じで、手抜きが生じ、すっかり形式化する。そしてどこかで類似事件が起きてから、再び、やれ対策だと気持を入れ替えるが、長続きせず、再び形式化する。その繰返しとなると、犯罪が起きない偶然に頼るしか対策は生きてこないのではないだろうか。
別の問題として、外に働きに出ていて付き添えない保護者に対する不満や、付添えない保護者自身の負い目もストレスとして溜まっていくということもあるのではないだろうか。そういう状況が生じた場合、夫共々外でバリバリに働いていて、生活に余裕のある女性は付添えないことの精神的な苦痛を避けるためにますます公立校を避け、例え少しぐらい授業料が高くても、スクールバスで送り迎えしてくれる私立へと子供を入学させる傾向を強めていくということもある。
最も公立校でも、新潟県加茂市では安全対策としてスクールバスを走らせているという。すべての地区をカバーするためには、現在でも24台で5300万円かかる年間運営費をどう工面するか、問題は簡単でないために通学路に危険があると判断した地区に住む生徒のみを対象に送り迎えしているそうだが、今市市同様、対象外の地域で犯罪が起きない保証はどこにもない。スクールバスを走らせている地域にしても、家の玄関まで送り迎えするわけではないというから、夫婦共稼ぎで、家に祖父母もいないカギっ子の場合は、玄関前で襲われるといったこともなきにしもあらずだろう。
05年12月6日の朝日新聞朝刊に小泉首相が「こういう問題は起こると続く。断ち切るために全力を挙げて取組んで欲しい」と国家公安委員長に指示したと出ていた。「指示を受けて、政府は同日、警察庁や文科省など関係省庁局長級の連絡会議を開催。『これまでの取組みを総点検し、有効な事例を強化する』などの点を確認した」と言うことだが、首相が出した指示を受ける形を取って「連絡会議を開催」するというのも、泥縄式の辻褄合わせに入らないだろうか。
「有効な事例を強化する」としているが、学校関係者の巡回パトロールや大人が付添う集団登下校は誰の目にもつき、犯罪者にとっては危険ゾーンを意味して、近寄らないように心掛けるだけのことだから、それだけに頼らない有効と思える方策を複数考え出して、お互いを補う相乗作用によって、より効果をあらしめることが必要となる。
そこで、いくつかの方法を考えてみた。無責任のようだが、頭の中で考えたことで、実際に役に立つかどうかは分からない。地域の協力ということをよく言うが、色々なアイディアを出し合うのも、協力のうちに入ると思う。
@「危機管理」とはどういうことなのかの意識を高める
こと
と、不審人物目撃の情報化。
先程も書いたが、危機管理とは最悪の事態を想定して、それを防ぐべく備えることをいう。最悪の事態への備えを前提とするゆえに、想定した疑いが杞憂だった場合、過剰反応となるが、被害が生じなかったことを絶対善として、過剰反応は問題としない。
広島小1女児殺害では、犯人の自宅アパート前で犯人が操作していた携帯電話を覗き込んでいた被害少女を2人程が目撃しているし、栃木県今市市の小1女児殺害でも、不審人物が目撃されていた。テレビで顔を映さない状態の女性が「不審な白いワゴン車がゆっくりと走っているのを見かけた。男の人が一人乗っていた」と言い、新聞では、30歳の男性が車で通りかかったとき、「中年の男が自転車から降りて、女の子に話しかけていた」。車を止めて、「何しているんだ」と声を掛けると、「何もしていない」と言って、立ち去ったという。一緒にいた女の子は、殺害された子かどうか分からなかったという。
今市市で目撃された不審人物が犯人かどうかは不明と言うことだが、不審人物の目撃が前々からあり、注意を促し合っていたというから、目撃のたびに携帯電話等で直ちに警察に通報し、通報を受けた警察が面倒臭がらずにパトカーを直ちに目撃現場に向かわせ、付近を捜索するということを繰返し、そのことをテレビや新聞が地方ニュースで報道していたなら、犯人は警戒して、下手に動けなくさせた可能性は排除できないのではないだろうか。
不審人物の目撃情報を警察は希望者にメール配信しているようだが、その情報を知るのは目撃された地域内の目撃した者自身とメールを受けた者、さらに両者に口コミで伝えられた者など、ごく限られた範囲の人間のみと言うことになる。
新聞・テレビが、どこそこで不審人物が目撃されたと報道したなら、地域全体で知ることになり、そのことが犯行への牽制にならないだろうか。
大阪市浪速区で19歳の妹と27の姉の姉妹がマンション自宅で殺され、部屋を放火された事件でも、姉妹の部屋から出火した11月17日未明直前の16日午後10時頃、隣接のビルの壁に男がしがみついていたのが目撃されている。警察は男をそのビルに対する建造物侵入の疑いで逮捕し、男が姉妹と同じマンションに住む知人宅に数ヶ月同居していたと言うことで、姉妹殺しとの関連を取り調べていると新聞報道にあった。
いずれの事件でも、怪しい人間の目撃が役に立っていない。特にマンションとごく狭い空間を挟んで隣り合っているビルの壁に深夜であるのにしがみついていた男を目撃していながら、警察に通報していない。殺人・放火事件が起きてから、もしやと思って情報を伝えたのだろう。
殺人事件や児童誘拐殺人の不審人物の目撃の放置と児童虐待に於ける事前把握した情報の放置は、自己を関係外に置くという点で共通している。関係者でありながら、関係外に置く児童相談所といった関係機関の方がより無責任ではあるが。
6日の朝のテレビで、「事件が起きてから、事後情報で実はと申し出る。警察には関わりたくないといった気持も働く」といったことを、元警視庁刑事だとかがコメントしていた。殺人事件が起きてから、テレビのインタビューに答えて、女性の悲鳴が聞こえたといった近隣生活者の証言を聞くことがよくある。
危機に備えた情報の伝達が例え結果的に間違った過剰反応であっても、事件や事故が起きなかった、あるいは少なく済んだことを幸いとし、そのことを絶対的優先価値として、思い過ごしから余分な煩わしい手間と出費を警察等に掛けさせたとしても、そのことを非難しない、あるいは問題としないということを原則的な思想とし、そのことを社会に広めて、危機管理に於ける一般的な社会的常識とする。そうすることで、警察への通報に対する抵抗感を和らげる。「間違っていてもいいから、おかしいなと思ったら、通報して欲しい」と。
あるいは、「間違っていたとしても、恥だと思わないで欲しい。何もなかったのはよかったことだと思って欲しい」と。
通報を受けた警察は直ちに報告のあった場所にパトカーを派遣し、単に付近を不審人物を探してパトロ−ルするだけではなく、マイクを使って、「この付近で不審人物を見かけたという110番通報がありました。犯罪を起す可能性があります。訪問者があった場合、相手をよく確かめてから、ドアを開けるよう、注意してください。念のために部屋が既に侵入されている痕跡がないか、確かめてください」といったことをアナウンスして、警戒を求める。
このことは付近住民に恐怖を与えることになるが、パトカーが付近にいる間は犯行に及ぶことは少ないだろし、その予想に反して、パトカーの呼びかけにカッとなり、その存在に関係なく前後の見境を失い、犯罪対象にいきなり襲いかかったとしても、そのような場合は物音を立てずに犯行に及ぶというのは難しく、隣近所の者が何らかの異常な物音を聞いて騒ぎ出したり、警察に通報したりすれば、近くのパトカーが迅速に対応するだろうから、被害は最小限に食い止めることができるのではないだろうか。
またパトカーの呼び掛けに、隣近所の住民同士が電話でか、あるいは直接声を掛け合ったりして、お互いの安全を確かめ合うといったことをしたなら、犯罪者が近くに隠れ潜んでいたとしても、犯行に及ぶことを難しくするのではないだろうか。
A罰則の強化と罰則の表示
無力・無抵抗な児童(女児・男児)を目的は何であれ、殺害した場合は原則として
死刑に処すとする刑法改正を行い、「児童殺害は刑法××条により、死刑となります」と要約した文字を家に閉じこもっている人間であっても、いやでも1日に一度は目にするよう、日本で発行しているすべての新聞の朝夕刊の1面のどこかに、欄外の日付の横でもいいから、目につく形でカラー印刷する、すべてのテレビ局は朝・昼・夜のすべてのニュースの時間に、その文字をテロップの形で画面に流す。学校の門か塀、そして町の掲示板、要所要所の電柱、工場の塀に、「交通ルールは守りましょう」とか、「町はきれいに」といった役にも立たない標語の代りに書き付けておく。
中には死刑を覚悟してまで犯罪を犯す異常者もいるだろうが、一般的な傾向としてある犯罪を犯してから持つ反省や悔い改めの機会を、犯罪を犯す前に心理的に意識させることとする。
B大人は15歳以下の子どもに町中で声をかけてはいけないこ
ととする。
従来は子どもに対してだけ、知らない人に声をかけられても、車に乗ったりしてはいけないと注意していたが、大人に対しても、道を尋ねたい場合でも、子供には聞いてはいけない、呼び止めてもいけないということを知らしめて、そのことを社会常識化する。いわば、子供を呼び止めただけでも、その大人は異常行動者と見なされることにする。
但し、叔父・姪とかの親戚関係にある場合は、道で出会った場合、車で送るといったことがあるが、そういった場合は子どもの認識に任せるしかない。
子供の側も、見知らぬ他人は道を訊ねたい場合でも、子供を呼び止めはしないものだということを常識とするように教育して、そのことを子どもにとっても大人と同様の社会的な常識であることとする。話しかけただけで、その人間はおかしいと見なして、警戒するようになれば、話しかけに警戒もなく近づいたり、一緒に車に乗った場合は、目撃した者は親戚か知合いだと見なす。
実際は親戚でも知合いでもなかった場合は、その子の責任とし、責任となることを親も学校も教える。
近所の知り合いは、挨拶のみをかけることを許す。知り合いの男が近所の顔見知りの児童に強制わいせつを働くこともあるからだ。子供に、近所の知り合いは挨拶の声しかかけないことを教えておく。
目撃者がどうしても不審に思えた場合は、@の対応に従って、直ちに警察に通報する。あとで叔父とかだと分かったとしても、何も起こらなかったことを優先的価値とする。
間違えられた側は、腹を立てない。目撃に関わる危機管理が機能していることの方を評価する。
C逮捕された性犯罪者に対する矯正プログラムと出所者情報の
有効化
刑務所とかの施設で性犯罪者に対して、どのような矯正プログラムに従って更正を図っているか知らないが、日本人の遣り方からして、社会復帰してからの就職に困らないための必要な技術を一通り覚えさせることと、殺人ということの罪の重さ、一旦失った命は二度と戻らないこと、被害者の家族の怒りと悲しみ等を訴えて、自分が何をしたか、それが飛んでもない取り返しのつかないことだと罪の意識を自覚させる心理療法といったところではないだろうか。
罪を自覚して、自分を恥じ、しおらしい気持になったとしても、社会に出て、前科者に特別に冷たい社会の吹きっさらしに一旦見舞われたなら、罪の意識など、風と共にどこかに吹き飛んでしまう。刑務所内の更正など当てにしない方がいい。施設に閉じ込められた孤立無援の状態で、罪を意識しろ、意識しろと仕向けるから、その気になるだけの罪の自覚が殆どだと思った方がいい。
また、人間は身体の自由を失った状態では、相手の希望を仕方なく受入れて、望ましいとする人間像を演じるケースも多い。性犯罪者に限らず、再犯者が少なくないのは、施設内の更正の多くが施設内に限った更正で、社会に出てから役に立たない性格のもの
へと変質してしまうからだろう。
小人閑居して不善を為す。これは一種の真理である。
つまり、社会に復帰してから、閑居しない方法を教えることを目的とした矯正プログラムで更正を図る。閑居しなければ、小人であっても、不善をなさい。あるいは世間の風が冷たく当たっても、閑居せずに、自分の時間をどうにか維持できるはずである。
当然、一人で時間を過ごせる方法のプログラムに重点を置いた更正を図ることをしなければならない。職業訓練よりも、ずっと重要であろう。
例え出所して友だちができなくても、仕事から帰って一人になったときの時間を充実させて有効に過ごせるような訓練を施す。パソコンを使って、絵はがきの作り方を教えるとか、自分で撮影した写真を様々に画像処理する方法を教えるとか、将棋や碁を教えるとか。あるいは絵や彫刻、その他の何か一人でできる楽しんで「創る趣味」を身につけさせる。
あるいは、楽器演奏や手品といった「演じる趣味」を身につけさせて、老人ホーム等で腕を披露させる。老人が喜んだり楽しんだりするのを見れば、自分は社会に少なからず役立っているという存在意義に浸れるのではないだろうか。
となれば、歌がうまければ、レッスンして、出所後、老人ホームや刑務所を回らせて歌わせるのも一つのアイディアであろう。
特に友達を作るのが不得手な人間には、より多くの時間を割いて、そのような教育を施す。
将棋や碁の楽しみを知ったなら、保護司の誘導で将棋会所や碁会所に出入りするようになれば、友だちもできるようになるかも知れない。一人の時間を有効に使うことができるようになる。
もし一人の時間を有効に過ごす手立てを得ずに出所した場合は、出所者情報にそのことを加えて、保護司に対して、有効に時間を使っているか、特に一人の時間が多いか少ないか、少ないとしたら、その時間をどのように過ごしているか、私的な時間に一緒に過ごす友だちがいるかどうか、いるとしたら、友だちとどのように過ごしているか、調べて警察に報告させる。
一人の時間をただ漫然とテレビを見て過ごすだけで、時折スナック等に飲みに出かけ、飲みに行ったスナック等で友だちもできず、一人鬱々と呑むだけといった場合は要注意だろう。不善を為す危険性高いと見るべきである。警察はそのような出所者を重点的にマークする必要がある。
人間は貧乏であっても、どうにか過ごせる。就職できなければ、生活保護を受けるしかない。その辺の手当は、保護司が受け持たなければならない。しかし、一人の時間を充実させた形で有効に過ごすことができず、退屈であること程苦痛なことはない。一人の時間を充実させることができれば、仕事への意欲も湧き、困難であっても、我慢強く就職活動に励むだろう。
D売春防止法
の廃止。
子供相手の性犯罪者は子供を犯罪の対象とする理由として、「子供なら言うことを聞くと思って、誘った」というケースが意外と多い。強制ワイセツ行為のみで、殺害までしなかったが、「小学生なら抵抗されないのでやった」という25歳の会社員もいた。
その意味するところは金銭的か、心理的に、あるいはその両方から、大人の女性と対等、もしくは優越的な性関係を結べない男が、相手が無力・無防御であるゆえに金銭的にも心理的にも優越的立場に立てる子供を性的支配の対象とするコンプレックス行為ということだろう。
あるいは、社会や世の大人に対する憎悪を彼らに向かっては晴らせない代償行為として、自分よりも力が弱い子どもに攻撃の形で向かうということもある。
前者の範疇に入る性犯罪者に限って、子供を性欲処理の便宜的対象から解き放つためには、売春の容認と、容認による売春単価の引下げが必要条件となる。いわば少ないカネで、性欲処理ができるようにする。
売春防止法は既に形骸化し、公認状態になっているが、公式的には非公認であるゆえに、売春単価が高く、性犯罪者の多くがカネがなく、結果として強姦に走るか、幼児相手の性犯罪に走るかの傾向を生じさせている。カネのある人間は海外に行ってまで、買春を通して性を謳歌しているのに反して。
但し、個人営業による売春のみを登録制として許可する。もしヒモと言われる存在や暴力団等が女性の自由を縛り、その稼ぎを搾取するようなことをしたら、重罪に処す。性病の定期検査を義務づける。個人が得た利益はその個人に確実に獲得できるようにして、単価の引下げにつなげる。従来の売春方式は中間搾取が単価を上げていた。
領収書の発行と正確な納税を義務づける。
ソープランドは禁止する。但し、複数の女性たちがビルを共同所有、もしくは共同賃借して、各女性が各部屋の所有者もしくは管理者となって売春を行い、その利益の中から建物維持費を均等に負担する形式の売春は許可する。政府もしくは自治体は、そのための低利融資を行う。
さらに労働ビザを取得し、本人が希望する外国人女性にも、売春許可を与える。人件費の安い国から来た女性を市場参入させることが、単価の引下げにつながるであろうし、売春目的の人身売買を防ぐこともできる。
このような売春が従軍慰安婦制度と違う点は、あくまでも本人の希望による個人営業であることである。
人間社会は綺麗事で動いているわけではない。政治の世界も官僚の世界も、企業経営の世界も、どこかウラがあり、誤魔化しがある。犯罪も、人間という存在の綺麗事ではない部分として現れている。売春にしても、提供者・利用者双方共に綺麗事とは無縁の生態としてあるものだろう。売春の安価な提供で幼い子供が一人でも救えるなら、その市場化も悪くはないのはないだろうか。どちらの悪を取るかである。
売春容認がインターネットのポルノ氾濫と法外な代金請求の抑制要因になる可能性もある。インターネットのポルノ情報が暴力団と関わっている場合は、暴力団の資金源の枯渇化にもつながる。
以上の複数の対策と従来の対策を並行させることで、お互いの不足を補い合うと同時に、それぞれの効果的な部分を複合させることで、相乗効果を狙う。