教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
鼻の下を伸ばしながら、 新聞・テレビ・ラジオを使った、下心ミエミエ、且つ大本営発表もどきの情報操作・洗脳が横行している。
私の視点「堀江社長へ、放送の原点『弱者の側に』」(大山勝美・テレビ演出家・放送人の会代表幹事・4月9日朝刊)
主要部分を抜粋する。
「しかし、自由且つ奔放な媒体であるインターネットは、情報量とスピードが何より優先する。競争社会を生き抜く強者のメディアと思えてならない。ひたすら己の欲を追い、利益を求めて情報を流し、求める、攻撃的な媒体。基本的に緩やかな受身の放送とは対極にあると思う」 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 言っていることは、一見素晴らしい。迂闊に読み通してしまうと、大概の人間が人格の高い人間の言葉に思えるだろう。
「電波は国民のものである。ラジオは社会的弱者を励まし、慰め、癒す役割を忘れてはならない。『放送の公共性』とはそういうことを指しているはずである」
逆に民放は若者主体の営利にウエイトを置いている。このことだけでも、公平な「公共性」とは言えない。 くどくなるが、「似た番組」の「氾濫」とは「公共性」を真っ向から裏切る状況なのは言うまでもない。テレビ・ラジオとも、「公共性」を、言うほどには成り立たせていないと言うことである。 それが「公共性」の今現在の現実でありながら、言葉を変えて言うと、テレビ・ラジオの側が矛盾した現実を自ら抱えている状況下で、「放送とインターネットの融合で『企業価値を高める』と堀江氏は言う。しかし所詮はカネ儲け優先に見える。利益だけを考えると番組は類型化する」と、 堀江氏がつくり出したわけではない、テレビ・ラジオの側が自らつくり出した既成事実としてある罪を、主犯者であるゆえにその資格もないのに、他人も犯すだろうと予測する批判を展開するのは、さらなる矛盾を犯すことにならないだろうか。 堀江氏が放送事業に参入しなかったなら、堀江氏自身には無関係な「類型化」が是正されるとでも言うのだろうか。 テレビ・ラジオが「利益だけを考え」ず、そのお陰で「番組」が「類型化」することから免れているというなら、「放送とインターネットの融合で『企業価値を高める』」とする堀江氏の経営理念の先行きに不安を投げかける資格を初めて有する。決して批判する資格ではない。堀江氏の経営の先行きは、「利益だけを考えると」とする、あくまでも条件付きの仮定から始まった予測に過ぎないからである。
テレビ・ラジオの現実は「類型化」の悪循環に陥っている。視聴したい番組ばかりではないのに、多くの人間が時間つぶしに視聴させられているといったところが実態ではないだろうか。そうであるのに、NHKには受信料を払っている
、民放は企業の広告料で運営されているが、広告料は企業の各商品・サービスに上乗せされていて、決してタダではない。にも関わらず、「類型化」に否応もなしにつき合わされている。 だが、「ふさぎこんだ気分を晴らし、元気を与えてくれる」といった放送内容から受ける気分は、事実言うとおりの質を与えてくれているのだろうか。 お笑いタレントのありきたりの冗談に、ついつき合わされて笑う程度の「元気」さが多いのではないのだろうか。ラジオには音楽番組が多いが、流す音楽自体は気に入っても、解説するおしゃべりが軽薄で我慢ならなくなって、スイッチを切ってしまうことが間々ある。特に若い年齢のアナウンサーの話す言葉が、さもそうすることが有能さの証明であるかのように早口過ぎたり、やたらと大声を上げたりして、内容の空疎さと相まって閉口することも多い。 テレビ放送の世界では、スポーツや芸能の世界で活躍する人間をさも何様扱いや英雄扱いとし、これでもかと持ち上げる昔からある風潮が最近は特に顕著になった。そのような持ち上げの一方で、犯罪事件を、おどろおどろしさを演出するためだろう、わざと声を低めた大袈裟な物言いでドラマ仕立てにした解説を行い、これでもかといった具合に犯人の卑劣さを浮き彫りにしたり、その家族をさも同類扱いする報道を平気でやらかす。いわゆる過剰報道というやつである。
罪は憎んでも、犯した人間は憎まずなどと綺麗事は言うつもりはない。犯した人間をこそ憎むべきであるが、自分が矛盾や欠点が何一つない何様な人間であることを条件として、真正な動機に立った報道であるなら、そうする資格もあろうというものだが、他人の精神・心の中にまで断りもなしに強引に土足で踏み込んで、はらわたをわし掴みに引っ掻き回すような取材をし、それをわざと声を低めるなどしてもっともらしげに報道するのは、嫌味で不純な動機しか感じない。 言い換えるなら、「社会的な弱者への配慮」の欠如は、テレビ・ラジオがつくり出している社会的な姿でもあると言うことである。 「利益や企業価値を最優先する」堀江氏を待たずとも、テレビ・ラジオに、「精神文化への影響力が大きい電波を安心して預けるわけにはいかない」状態と既になっていて、これ以上悪化すること はないといった場所にまできているのである。これ以上の悪い状態は簡単には考えられまい。
氏の言葉を借りて、「実際には勝った人よりも負けた人の方がはるかに多い。落伍者や挫折者の存在には目もくれず」、視聴率が「万能、という考え方がはびこることは、人びとの心を貧しく偏らせているように思えてならない」という言葉をそっくりそのまま返そう。 その結果としてある社会的状況が、財産の多寡や境遇で人間の価値を決定づける差別が今の社会で表現を変えてより強く表に現れることとなった、勝ち組=E負け組み≠ニいった名称の人間に格差と優劣をつける価値観の横行であろう。 このような風潮はまさしく、既成の情報媒体自体が、氏が批判しているにも関わらず、「カネが万能、という考え方」に既に与している付和雷同の状態を示すものであろう。 となると、「グローバル化がますます勢いを増している時代に、日本はどのような人たちが暮らす共同体であるべきか。メディアはそれをイメージし、その中での役割を担う」とする主張も 、その方向に舳先を向けていない実態を見ずに言う口先だけの綺麗事となって、いかがわしいばかりである。 確かに、「日本はどのような人たちが暮らす共同体であるべきか」について、その実現のプロセスにマスメディアは第三の権力と言われるほどに力を有した関わりを持っている。そして関わったプロセスが、成功肯定と失敗否定の価値観――勝ち組=E負け組み℃ミ会の構築というわけである。 いわゆるセレブなる人種の、豪邸の紹介とその豪華な生活ぶりを紹介する番組がテレビではおびただしいばかりに氾濫していることか。成功こそが、人間最大の価値であるという価値観を、ここでも一方的に植えつける形で日々公約数化しているのである。 矛盾なき社会は存在しない。社会の矛盾づくりにマスメディアはいつでも常に一枚噛んでいる。そういった意味では、まさしく「公共」的な性格を有しているといえる。だが、決して「弱者の側に」に立っているわけではない。立っているふりはするが。 報道する側に一方的であることを許しているのは、テレビ・ラジオといった情報媒体構造(情報の伝達構造)がほぼ一方的なものだからなのは言うまでもない。視聴者参加番組等が双方向性を実現させているといっても、一方通行が優って、双方向性を無力な帳消し状態にしてしまっている。
「ラジオは視力の弱い人」などの「弱者」に味方する情報媒体だという利点が事実だとしても、「類型化」と一方通行≠ノ制限された利便性に過ぎないのが実態だということである。
何よりもインターネットはテレビ・ラジオと違って、直接的に自己の意思を意見や主張の形で直接的に表明できる場を備えている。外部の情報に関しても、自分から選択可能で、そのことによって、意識しさえすれば、「類型化」からも免れることができる。仲間をつくって、日本全国、ときには世界のどこからでも双方向的に情報のやり取りができる。日本の歴史だけではなく、世界の歴史もひも解くこともできるし、それは学校の歴史教科書のように固定化された内容ばかりではなく、様々な解釈に出合うこともできる。 当然、「自由且つ奔放な媒体であるインターネットは、情報量とスピードが何より優先する」というのも、利用する側の人間を考慮に入れない偏った判断から成り立っている不当な言いがかりとも言える事実誤認であろう。 ニュース報道は、「スピードが何より優先する」のは、新聞・テレビ・ラジオといった既存のメディアに於いても同じであろう。 だが、いくら「スピード 」を「何より優先 」させたとしても、情報の受け手がその「スピード 」を必要として利用しなければ、ネコに小判である。新聞やテレビで報道されるニュースの「スピード 」は、インターネットに関しても、その速さに遜色はない。特に一旦報道された情報の内容を再度点検・閲覧したい場合、テレビは殆ど不可能に近く、新聞は家に保存してあれば、探し出すか、図書館を利用するかしなければならない。 だが、インターネットを利用する場合は、新聞に優る「スピード」で 処理することができる。しかも、それぞれに異なる複数のメディアの情報を比較し、取捨選択ができる。新聞・テレビ・ラジオのように個々の情報を与えられるだけではなく、自分で「情報量」を納得の行く形で加減できる。 このことは、悪いことだろうか。
ポータルサイトが独自に情報をつくり、独自に発信する場合もあるが、多くの情報は間接的提供者の立場から仲介する形で発しているに過ぎない。 各新聞社はそれぞれに自分たちのホームページを持ち、期限を限って、自社の記事を無料でアクセスさせている。会費を払えば、10年20年前の記事も閲覧可能である。 テレビ会社も自社ホームページを持っているが、少なくとも記事検索に関しては新聞社のホームページほどには利用価値はないようである。 テレビ会社は自分たちが流した社会を知る映像を、過去の時代にまで遡ってインターネットで閲覧できるようにすべきではないだろうか。会費を取れば、事業チャンスも拡大するし、「公共性」もより確かなものになる。まさしく、「放送とインターネットの融合」である。 番組自体が全般的に陥っている「類型化」の問題にしても、インターネットの閲覧の場では、「類型化」は単なる一つの事実になりさがるし、閲覧者の取捨選択によって、「類型化」を遠ざけることも可能となる。 例え堀江氏が、「カネ儲け優先」、「利益だけを考える」経営者で、その結果として「類型化」を含めた「現在のテレビの悪しき風潮がますます強ま」ったとしても、現在のテレビ・ラジオがたどっている同じ道を歩むだけのことで、堀江氏だけを批判できないことは先に述べた。
となれば、実現し得ていない、いわば幻想の状態にとどまっている、「放送の『企業価値』は番組の多様で豊かな輝きにこそ求められるべきである」とする主張にしても、堀江氏批判の材料とすることはできないはずである。 氏のように公平な目を持たないことに原因した事実誤認に基づいて、一方的に自己の利益を訴え、それ以外の利益を排除しようとする主張(=間違った情報)をマスメディアを使って伝えるのは、人を惑わす重大な情報操作――権力の濫用に当らないだろうか。 愚かにも、頭から信じる人間がたくさんいるだろうからである。 大山勝美氏はテレビドラマの製作・演出で、数々の芸術選奨や 文部大臣賞を受けていることは最初に述べた。そのような大山氏でも、業績を帳消しにしかねない事実誤認と情報操作を仕出かしてしまう。 |