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        第86弾ライブドア批判
事実誤認からの意図せざる情報操作
 

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鼻の下を伸ばしながら、 新聞・テレビ・ラジオを使った、下心ミエミエ、且つ大本営発表もどきの情報操作・洗脳が横行している。

 私の視点「堀江社長へ、放送の原点『弱者の側に』」(大山勝美・テレビ演出家・放送人の会代表幹事・4月9日朝刊)
を読んだ。大山勝美氏はテレビドラマの制作・演出で、数々の芸術選奨や文部大臣賞を受けている人物である。

主要部分を抜粋する。
 
 
「テレビやラジオは社会的な弱者への配慮がまず
求められる。特にラジオは視力の弱い人、病人、年配
者、幼児といった人たちにとっても手軽で操作も簡単、ふさぎこんだ気分を晴らし、元気を与えてくれる。各地の病院や田舎で、私はラジオの力を実感した」

 「しかし、自由且つ奔放な媒体であるインターネットは、情報量とスピードが何より優先する。競争社会を生き抜く強者のメディアと思えてならない。ひたすら己の欲を追い、利益を求めて情報を流し、求める、攻撃的な媒体。基本的に緩やかな受身の放送とは対極にあると思う」

 「放送とインターネットの融合で『企業価値を高める』と堀江氏は言う。しかし所詮はカネ儲け優先に見える。利益だけを考えると番組は類型化する」

 「だが、テレビが最強の広告媒体という認識が定着し、広告の戦術・戦略が細かく出来上がってきた。局の収入と視聴率も密着し始める。そうなると、何よりも視聴率が最優先し、内容がよくても数字の取れぬ番組は排除され、結果、各局とも、似た番組が氾濫している 」

 「放送の『企業価値』は番組の多様で豊かな輝きにこそ求められるべきである。利益優先の買収がテレビにまで及ぶなら、現在のテレビの悪しき風潮がますます強まるのではないかと憂慮する 」

 「堀江氏は時代の勝者かも知れないが、実際には勝った人よりも負けた人の方がはるかに多い。落伍者や挫折者の存在には目もくれずカネが万能、という考え方がはびこることは、人びとの心を貧しく偏らせているように思えてならない。人生にカネ以外の価値を求めようとする人たちは少なくないはずだ。ラジオはそういう大勢の人に向き合っている 」

 「グローバル化がますます勢いを増している時代に、日本はどのような人たちが暮らす共同体であるべきか。メディアはそれをイメージし、その中での役割を担う。それを担わずに利益や企業価値を最優先する人に、精神文化への影響力が大きい電波を安心して預けるわけにはいかない 」

「電波は国民のものである。ラジオは社会的弱者を励まし、慰め、癒す役割を忘れてはならない。『放送の公共性』とはそういうことを指しているはずである」

 

 ◆           ◆ ◆ 

 言っていることは、一見素晴らしい。迂闊に読み通してしまうと、大概の人間が人格の高い人間の言葉に思えるだろう。

「電波は国民のものである。ラジオは社会的弱者を励まし、慰め、癒す役割を忘れてはならない。『放送の公共性』とはそういうことを指しているはずである」

  確かにそのとおりであろう。但し、言っていることが100%体現されていたならの話という条件をつけなければならない。

 大体が、
「電波は国民のものである」とする前提自体が怪しい。厳密には、ラジオにしてもテレビにしても、営利を目的としているために営利から抜け出れない限界を背負った「公共性」であるということである。純粋な「公共性」など存在しない。

 NHKしても、民放各社が視聴率を高く確保し、NHKを見ないということになれば、受信料に影響するから、若者に迎合気味のテレビ番組を展開するようになったのだろう。迎合ではなく、若者にも発信する必要性からの若者の文化に合わせた番組の提供であって、若きから老いまでの幅広い年齢層をカバーした
「公共性」を成り立たせるための政策の一環に過ぎないと言うだろうが、営利(NHKの場合は受信料)に関係する視聴率の呪縛からは逃れられるわけではないのだから、正真正銘の迎合の否定とはならないだろう。

 逆に民放は若者主体の営利にウエイトを置いている。このことだけでも、公平な「公共性」とは言えない。

 営利から抜け出れない限界を背負った
「公共性」だからこそ、「何よりも視聴率が最優先し、内容がよくても数字の取れぬ番組は排除され、結果、各局とも、似た番組が氾濫している」状況を現在も決定的としているのであろう。

 くどくなるが、「似た番組」「氾濫」とは「公共性」を真っ向から裏切る状況なのは言うまでもない。テレビ・ラジオとも、「公共性」を、言うほどには成り立たせていないと言うことである。

 それが「公共性」の今現在の現実でありながら、言葉を変えて言うと、テレビ・ラジオの側が矛盾した現実を自ら抱えている状況下で、「放送とインターネットの融合で『企業価値を高める』と堀江氏は言う。しかし所詮はカネ儲け優先に見える。利益だけを考えると番組は類型化する」と、 堀江氏がつくり出したわけではない、テレビ・ラジオの側が自らつくり出した既成事実としてある罪を、主犯者であるゆえにその資格もないのに、他人も犯すだろうと予測する批判を展開するのは、さらなる矛盾を犯すことにならないだろうか。

堀江氏が放送事業に参入しなかったなら、堀江氏自身には無関係な「類型化」が是正されるとでも言うのだろうか。

 テレビ・ラジオが「利益だけを考え」ず、そのお陰で「番組」「類型化」することから免れているというなら、「放送とインターネットの融合で『企業価値を高める』」とする堀江氏の経営理念の先行きに不安を投げかける資格を初めて有する。決して批判する資格ではない。堀江氏の経営の先行きは、「利益だけを考えると」とする、あくまでも条件付きの仮定から始まった予測に過ぎないからである。

 テレビ・ラジオの現実は「類型化」の悪循環に陥っている。視聴したい番組ばかりではないのに、多くの人間が時間つぶしに視聴させられているといったところが実態ではないだろうか。そうであるのに、NHKには受信料を払っている 、民放は企業の広告料で運営されているが、広告料は企業の各商品・サービスに上乗せされていて、決してタダではない。にも関わらず、「類型化」に否応もなしにつき合わされている。

 
「電波は国民のものである」とか、「『放送の公共性』とはそういうことを指しているはず」だとか、事実はそうなっていないのに、そうなっているが如くに確定条件とすることは、まやかし以外の何ものでもない。特にテレビ・ラジオの仕事に関わっている人間には、偉そうに言う資格はない。

 「テレビやラジオは社会的な弱者への配慮がまず求められる。特にラジオは視力の弱い人、病人、年配者、幼児といった人たちにとっても手軽で操作も簡単、ふさぎこんだ気分を晴らし、元気を与えてくれる。各地の病院や田舎で、私はラジオの力を実感した 」

 
「放送の原点は『弱者の側に』」あるべきであると規定したかもしれない。だが、テレビに於いても、「特にラジオ」に関して、全般に亘って、規定したとおりの理想を実現させ得たのだろうか。させ得なかったなら、単なる建前・スローガンで推移したに過ぎない証明としかならない。

 確かに
「手軽で操作も簡単」ではあるが、それはラジオという機械が持つ機能性を言うに過ぎない。 その点に関しては、 パソコンであっても、機器の立ち上げからインターネットへの接続まで、現在では販売会社がサービスで行い、かなり「手軽で操作も簡単」となっている。 ノートパソコンなら、「手軽」にどこへでも持っていける。必要なのはやってみようとする姿勢だけである。

だが、「ふさぎこんだ気分を晴らし、元気を与えてくれる」といった放送内容から受ける気分は、事実言うとおりの質を与えてくれているのだろうか。

お笑いタレントのありきたりの冗談に、ついつき合わされて笑う程度の「元気」さが多いのではないのだろうか。ラジオには音楽番組が多いが、流す音楽自体は気に入っても、解説するおしゃべりが軽薄で我慢ならなくなって、スイッチを切ってしまうことが間々ある。特に若い年齢のアナウンサーの話す言葉が、さもそうすることが有能さの証明であるかのように早口過ぎたり、やたらと大声を上げたりして、内容の空疎さと相まって閉口することも多い。

 テレビ放送の世界では、スポーツや芸能の世界で活躍する人間をさも何様扱いや英雄扱いとし、これでもかと持ち上げる昔からある風潮が最近は特に顕著になった。そのような持ち上げの一方で、犯罪事件を、おどろおどろしさを演出するためだろう、わざと声を低めた大袈裟な物言いでドラマ仕立てにした解説を行い、これでもかといった具合に犯人の卑劣さを浮き彫りにしたり、その家族をさも同類扱いする報道を平気でやらかす。いわゆる過剰報道というやつである。

 罪は憎んでも、犯した人間は憎まずなどと綺麗事は言うつもりはない。犯した人間をこそ憎むべきであるが、自分が矛盾や欠点が何一つない何様な人間であることを条件として、真正な動機に立った報道であるなら、そうする資格もあろうというものだが、他人の精神・心の中にまで断りもなしに強引に土足で踏み込んで、はらわたをわし掴みに引っ掻き回すような取材をし、それをわざと声を低めるなどしてもっともらしげに報道するのは、嫌味で不純な動機しか感じない。

  犯罪ではないが、有名芸能人などの著名人の結婚となると、当たり前の祝福を超えた大騒ぎに近い持てはやしを行い、離婚となると、その原因をあれやこれやの勘繰りまで交えて洗いざらぶちまけ、原因を確定しようとするあまりに夫婦のどちらかを悪者に仕立てようとする、これも自分が何様でもないのに、何様ぶった僭越そのものの報道はラジオ・テレビの定番となっているものである。

 強い者・優秀な者、あるいは成功した者への極端な持ち上げ・美化と、犯罪や離婚といった人生の過失・失敗への情け容赦ない徹底した追及、その家族に対する同罪化といった、過剰報道がつくり出している両者間の目に余るばかりに落差のある毀誉褒貶は成功の肯定と失敗の否定を二極構造とした人間の価値評価であって、そのこと自体が既に氏の言う
「社会的な弱者への配慮」を欠いているからこそ発揮できる、「ひたすら己の欲を追い、利益を求めて情報を流し、求める、攻撃的な媒体」と化した姿であって、言うことと実際の違いに本人自らが気づいていない状況を示すものである。

 言い換えるなら、「社会的な弱者への配慮」の欠如は、テレビ・ラジオがつくり出している社会的な姿でもあると言うことである。

 「利益や企業価値を最優先する」堀江氏を待たずとも、テレビ・ラジオに、「精神文化への影響力が大きい電波を安心して預けるわけにはいかない」状態と既になっていて、これ以上悪化すること はないといった場所にまできているのである。これ以上の悪い状態は簡単には考えられまい。

 氏の言葉を借りて、「実際には勝った人よりも負けた人の方がはるかに多い。落伍者や挫折者の存在には目もくれず」、視聴率が「万能、という考え方がはびこることは、人びとの心を貧しく偏らせているように思えてならない」という言葉をそっくりそのまま返そう。

 そして多くの人間がこのような一方的で無神経、且つ無責任な毀誉褒貶のタレ流しにテレビ・ラジオを通じて、氏が言うところの
「基本的に緩やかな受身」の形で気づかないままに毒されている。

 その結果としてある社会的状況が、財産の多寡や境遇で人間の価値を決定づける差別が今の社会で表現を変えてより強く表に現れることとなった、勝ち組=E負け組み≠ニいった名称の人間に格差と優劣をつける価値観の横行であろう。

このような風潮はまさしく、既成の情報媒体自体が、氏が批判しているにも関わらず、「カネが万能、という考え方」に既に与している付和雷同の状態を示すものであろう。

 となると、「グローバル化がますます勢いを増している時代に、日本はどのような人たちが暮らす共同体であるべきか。メディアはそれをイメージし、その中での役割を担う」とする主張も 、その方向に舳先を向けていない実態を見ずに言う口先だけの綺麗事となって、いかがわしいばかりである。

 確かに、「日本はどのような人たちが暮らす共同体であるべきか」について、その実現のプロセスにマスメディアは第三の権力と言われるほどに力を有した関わりを持っている。そして関わったプロセスが、成功肯定と失敗否定の価値観――勝ち組=E負け組み℃ミ会の構築というわけである。

 いわゆるセレブなる人種の、豪邸の紹介とその豪華な生活ぶりを紹介する番組がテレビではおびただしいばかりに氾濫していることか。成功こそが、人間最大の価値であるという価値観を、ここでも一方的に植えつける形で日々公約数化しているのである。

矛盾なき社会は存在しない。社会の矛盾づくりにマスメディアはいつでも常に一枚噛んでいる。そういった意味では、まさしく「公共」的な性格を有しているといえる。だが、決して「弱者の側に」に立っているわけではない。立っているふりはするが。

 報道する側に一方的であることを許しているのは、テレビ・ラジオといった情報媒体構造(情報の伝達構造)がほぼ一方的なものだからなのは言うまでもない。視聴者参加番組等が双方向性を実現させているといっても、一方通行が優って、双方向性を無力な帳消し状態にしてしまっている。

 「ラジオは視力の弱い人」などの「弱者」に味方する情報媒体だという利点が事実だとしても、「類型化」と一方通行≠ノ制限された利便性に過ぎないのが実態だということである。

 大体がそのような利点を、さもラジオの専売特許だとすること自体が既に時代遅れである。インターネットは身体障害者であっても、四肢のうちいずれかを動かすことができれば、例えば足の親指と人差し指で箸状のスティックを挟んでキーボードを叩くことで、パソコンを操作できるし、インターネットに自由にアクセス可能となる。
「視力が弱い人間」であっても、キーボード操作で表示文字を大きくすることができる。 全身が麻痺状態にあったとしても、瞬きができれば、その動きをキャッチしたり、視力が全然なくても、音声を認識して、文字を書いたり、インターネットにアクセスして、耳で情報を伝えることも、読み取ることもできる。

 つまり、インターネットが
「競争社会を生き抜く強者のメディアと思えてならない。ひたすら己の欲を追い、利益を求めて情報を流し、求める、攻撃的な媒体」であると決めつけて、「弱者」には味方しないとするのは、視野狭窄な事実誤認、あるいは偏見でしかないと批判されても仕方がないだろう。

 何よりもインターネットはテレビ・ラジオと違って、直接的に自己の意思を意見や主張の形で直接的に表明できる場を備えている。外部の情報に関しても、自分から選択可能で、そのことによって、意識しさえすれば、「類型化」からも免れることができる。仲間をつくって、日本全国、ときには世界のどこからでも双方向的に情報のやり取りができる。日本の歴史だけではなく、世界の歴史もひも解くこともできるし、それは学校の歴史教科書のように固定化された内容ばかりではなく、様々な解釈に出合うこともできる。

 
「人生にカネ以外の価値を求めようとする人たちは少なくないはずだ」。ラジオだけではなく、ラジオ以上にインターネットも、「そういう大勢の人に向き合っている」。ラジオだけとするのも、ラジオを贔屓にするあまりに目が曇ったとしか思えない思い上がりと偏見に満ちた事実誤認でしかない。

 当然、「自由且つ奔放な媒体であるインターネットは、情報量とスピードが何より優先する」というのも、利用する側の人間を考慮に入れない偏った判断から成り立っている不当な言いがかりとも言える事実誤認であろう。

 ニュース報道は、「スピードが何より優先する」のは、新聞・テレビ・ラジオといった既存のメディアに於いても同じであろう。

だが、いくら「スピード 」「何より優先 」させたとしても、情報の受け手がその「スピード 」を必要として利用しなければ、ネコに小判である。新聞やテレビで報道されるニュースの「スピード 」は、インターネットに関しても、その速さに遜色はない。特に一旦報道された情報の内容を再度点検・閲覧したい場合、テレビは殆ど不可能に近く、新聞は家に保存してあれば、探し出すか、図書館を利用するかしなければならない。

だが、インターネットを利用する場合は、新聞に優る「スピード」で 処理することができる。しかも、それぞれに異なる複数のメディアの情報を比較し、取捨選択ができる。新聞・テレビ・ラジオのように個々の情報を与えられるだけではなく、自分で「情報量」を納得の行く形で加減できる。

このことは、悪いことだろうか。

ポータルサイトが独自に情報をつくり、独自に発信する場合もあるが、多くの情報は間接的提供者の立場から仲介する形で発しているに過ぎない。

 インターネット上には多くの個人が、
「利益を求め」ない、いわば営利を目的としない、自分が持つ経験や知識、あるいは趣味を伝えようとする情報を多く提供している。しかも、一過性ではない情報が主流となっている。それらを、ポータルサイトは 仲介し、提供しているのである。

 各新聞社はそれぞれに自分たちのホームページを持ち、期限を限って、自社の記事を無料でアクセスさせている。会費を払えば、10年20年前の記事も閲覧可能である。

テレビ会社も自社ホームページを持っているが、少なくとも記事検索に関しては新聞社のホームページほどには利用価値はないようである。

 テレビ会社は自分たちが流した社会を知る映像を、過去の時代にまで遡ってインターネットで閲覧できるようにすべきではないだろうか。会費を取れば、事業チャンスも拡大するし、「公共性」もより確かなものになる。まさしく、「放送とインターネットの融合」である。

 番組自体が全般的に陥っている「類型化」の問題にしても、インターネットの閲覧の場では、「類型化」は単なる一つの事実になりさがるし、閲覧者の取捨選択によって、「類型化」を遠ざけることも可能となる。

例え堀江氏が、「カネ儲け優先」「利益だけを考える」経営者で、その結果として「類型化」を含めた「現在のテレビの悪しき風潮がますます強ま」ったとしても、現在のテレビ・ラジオがたどっている同じ道を歩むだけのことで、堀江氏だけを批判できないことは先に述べた。

となれば、実現し得ていない、いわば幻想の状態にとどまっている、「放送の『企業価値』は番組の多様で豊かな輝きにこそ求められるべきである」とする主張にしても、堀江氏批判の材料とすることはできないはずである。
 
 事実「カネ儲け優先」であっても、堀江氏が提供する情報事業が利用者の利益となるなら、合理性に適った相互利益の成果へと姿を変える。いわば、経営の支持・不支持は利用者の決定にかかっているのである。その結果の「カネ儲け」は誰も批判できない。

 氏のように公平な目を持たないことに原因した事実誤認に基づいて、一方的に自己の利益を訴え、それ以外の利益を排除しようとする主張(=間違った情報)をマスメディアを使って伝えるのは、人を惑わす重大な情報操作――権力の濫用に当らないだろうか。 愚かにも、頭から信じる人間がたくさんいるだろうからである。

大山勝美氏はテレビドラマの製作・演出で、数々の芸術選奨や 文部大臣賞を受けていることは最初に述べた。そのような大山氏でも、業績を帳消しにしかねない事実誤認と情報操作を仕出かしてしまう。