郵政民営化よりも、官僚支配体制をぶっ壊せと威勢よく
主張する声が溢れている。小泉がいくら自民党をぶっ壊しても、官の肥大化・省益・天下りを国民のための成果としているような官僚支配体制をぶっ壊さなければ、どんな改革も始まらないと。
だが、どうしたらそのような日本の誇る官僚支配体制をぶっ壊せるか、叫ぶばかりで、具体的な方法は誰も示せないようだ。それとも下手にぶっ壊しでもしたら、日本が誇る伝統が一つ姿を消すことになるから、大事に取っておいてあるのだろうか。まあ、古き良きものは、なるべくいじくらずに、あるがままに後世に伝えるべきでもある。経済的格差の拡大が言われている昨今でもあるし、官僚たちは富める側の代表者の一人でもあるから。
日本の官僚と政治家の関係は、政治家と国民との関係に相互的に照応し合っているのではないだろうか。政治家は官僚任せ、国民は政治家任せという相似的な重層風景を為しているのではないかというである。
つまり、官僚の現在の在りようを許しているのは政治家であり、政治家の現在の在りようを許しているのは国民だということ。政治家は選挙という方法で変えることはできても、国民は直接的には官僚を入れ替える方法を持っていない。国民は政治家に誰を選ぶかは「選択の自由」を与えられているが、官僚に誰を選ぶかの「選択の自由」は与えられていない
。
そのような制度に変えればいいという意見が出てくる
だろうが、立法・行政とも、政治家に所属する権限であり、官僚はその補佐役に過ぎない関係からすると、やはり官僚の問題と言うよりも、政治家の官僚任せが問題となってくる。政策に関して政治家がリーダーシップを取らずに、補佐役の官僚がリーダーシップを握っている逆転現象にあるということである。
例え国民が官僚を選択する権利を持ったとしても、政治家が官僚任せから抜け出せなければ、何も変らない。官僚にとってはその方が都合がいいだろうが。また、それ以前の問題として、国民が政治家を「選択する自由」を与えられていながら、その権利を有効に活用できずに政治家の官僚任せを許していること自体を問題にしなければならないのではないか。
尤も、政治家にとって
も、問題にしてくれない方が都合いいだろうし、現在までは都合がいい状態が続いていることだけは確かである。
今後とも続けさせるかどうか。それもこれも最終的には国民の問題だということになる。つまり、我々の問題だということである。
政治家は地位上の権威主義からしたら、官僚の上に位置しながら、政策的には自己を官僚に従属した場所に置いている。それが官僚支配体制というものだろう。政治家が権威主義的な上下関係の力は発揮し得ても、政治家としての地位に伴う能力を発揮し得ていない状況がつくり出している美しい絵柄なのは言うまでのない。官僚を使うのではなく、官僚に使われている。そのくせ、官僚よりも威張っている。
喜ぶべきことに、権威だけで己の地位を保っている政治家が多いと言うことである。
よくある日本の風景だが、先輩だということだけで威張っている会社員や部活部員、あるいは芸能界のタレントみたいに。
官僚の側からしたら、政治家に面と向かっては慇懃なまでの丁寧な態度を取るが、陰では、その無能を嘲笑う面従腹背を習慣としているといったところだろう。政治を動かしているのは俺たちであって、お前らではないと。だから、相手の無能をいいことに、好き勝手なことができる。
地位の点のみではなく、政策的にも自分を上に置いた例が、
己の品のなさを隠すためか、調子よすぎるくらいに如才のない、あの愛すべき超ミニヒトラーの鈴木宗男と外務官僚との関係であろう。但し、恫喝で可能とした自己利益・地元利益優先の政策であって、正しい見本となる関係ではなかった。こういった関係を築いている政治家は他にもいるはずです。
鈴木宗男はあっせん収賄罪に問われて議員辞職し、公判中の身だが、<新党大地>なる政党を立ち上げて、05年9月11日投票の第44回衆議院選挙に比例区北海道ブロックから立候補し、見事当選を果たしている。人間、いくら悪事を働いても、これくらい逞しくなければ、この過酷な社会を生き抜いてはいけない。逞しさを表現する
譬えとして、「見習うべきは鈴木宗男」という諺をつくってもいいくらいだ。
民主党の岡田
克也代表がアメリカが政権交代時に行うような官僚の任用制を主張しているが、政策的なアイディアの構築に創造的な相互的関与をつくり得なっかったなら、何も変ららず、官僚にとって都合のいい官僚任せが続くことになるだろう。だからと言って、政治家に都合のいいイエスマン
ばかりを配置したなら、意見を闘わせることによって可能となる政策の創造的な向上・発展が期待できなくなる。
あくまでも官僚問題は政治家と官僚との関係に現れている政治家本人の姿勢で把えるべきではないだろうか。官僚ではなく、女房の口出しで政策を決める政治家だっているだろうから。あとはそれらを国民がどう判断するかだ。最終決定権者は国民であって、それ以外の何者でもない。そのことを国民が明確に自覚しているのか、そのことも問題となるが。
国民が政策と、そこから窺える政治家の姿勢をもっと勉強して、官僚問題も、政策の結果として表れている国地方合わせた1000兆円を超える借金も、政治家・官僚の止まらない無駄遣いも、政官業が絡んだ談合も、年金を放漫経営で破綻状態に追い込んだ官僚たちの怠慢・放埒も、すべて国民の問題と受止めなければならないと言うことだろう。
首相が小泉さんだからとか、人柄が良さそうだからといった淡い期待だけでは、沈みゆく日本が置かれている苦境は解決しない。
それとも
、政治に期待していたのでは埒が明かないからと誰かさんが言っていたが、「革命」を日本を変える唯一の有効な手段としなければならないのだろうか。自分では気づかないままに、基本のところでは集団主義・権威主義に絡め取られていて主体的選択を意識要因としていないために本格的な政権交代さえなし得ない日本人には、その「革命」が主体的選択を厳密に要求する性格のものなら、「革命」を起こすどころか、それを思い描く地点にすら到達不可能なのではないだろうか。
人に従うことに慣らされている日本人に、自ら率先して「革命」を有効且つ実現可能な内容でデザインして、その達成に向けて相互に主体的に激しく行動できるかということである。
そういうことができたなら、とっくの昔に選挙を通して政治にイエス・ノーを明確にした意思表示を
突きつけていただろう。日通事件・ロッキード事件・佐川急便事件・リクルート事件・ゼネコン汚職等々、戦後の政治家やときには官僚も絡んだ数々の犯罪をその場・その時だけの不正とせずに、政治家・官僚の構造的な問題と把えて、その構造自体を断ち切る行動に出たことだろう。勿論、唯一許されている選挙を手段として。
ところが、国民はいつでも健忘症を発揮して、政治家・官僚の不正・犯罪をその場・その時限りのものにしてきた。そのような健忘症の継続性が今以て政治家の族益・官僚の省益をのさばらせている原因となっている。何度でも言わなければならないが、すべては我々国民の問題なのである。
大勢順応型の革命志向なら、可能かも知れない。時流に乗る形で既成の支配勢力に阿諛追従して集団を成し、言いなりに動く行動性は、集団主義・権威主義が逆に幸いするからだ。但し、大勢順応は自己を従属的下位に置くことを意味するから、一歩間違えると、戦前の国家と国民の関係のような支配と被支配の関係を招きかねない。
60年代の反体制運動にしても、大学生・高校生の若者が世界的な流行に大勢順応的に乗っかってつくり出したブームに過ぎな
だろう。彼らの革命理論なるものが、自分自身の言葉を話すのではなく、誰かが言ったことをそっくりそのまま繰返す従属性(大勢順応)に侵されていたことと(そう言えば文化大革命時の紅衛兵は、誰もが胸ポケットから毛沢東語録を出して、毛主席はこう言われたと、バカの一つ覚えのように同じ言葉を繰返していた)、国家権力に抑えられると、資本主義を否定しておきながら、多くが何もなかったかのように簡単に会社人間化していったことがその証明で
ある。大学の解体を叫んでいた大学生が大学に戻ったりといったこともあった。
理論の同じ繰返しも会社人間も、理論及び会社を絶対的権威として、それらの権威に自己を従属させる大勢順応を契機として成り立たせることができる姿であって、反体制運動が大勢順応を構造としていたからこそ可能となった連続性であろう。
「民衆の自由な連合」を行動主体とした「革命」との主張
もあったが、自民党を支持する各集団・各個人は必ずしも相互に連絡しあって支持を決定しているわけではなく、またすべてが同じ利害で統一されているわけでもなく、自民党政治の維持、あるいは小泉改革の支持という一点で「自由な連合」を形成していると言え
る。
支配層に属さない自民党支持者に関しては「民衆」と位置づけることができると思
うが、必ずしもそうとは言えないという意見を考慮しても、その多くは「民衆」と言える部類に入れることができるだろう。いわば「民衆」の立場からの自民党支持の選択も無視できない確率で介在している「自由な連合」であり、そのような「民衆の自由な連合」が変革ではなく、政治体制の現状維持を志向している。
「選択の自由」が保障されている選挙を通した「民衆の自由な連合」であろうと、「革命」を意図した「民衆の自由な連合」であろうと、やはり最終的には国民の意識・姿勢が問われることに違いがなく、ここでも問題点は国民の意識・姿勢に集約される。
問題とすべきは国民の意識・姿勢ではあるが、こちらに都合がいい方向に顔を向けるのを待っていたなら、それでは埒が明かないからと「革命」を問題としたとき、そこに何らかの強制力を働かせなければ、早期に顔を向けさせることは不可能で
あろう。強制力が働いた途端に、その「革命」は支配と従属の力関係を内包することとなり、その時点で「民衆の自由な連合」は崩れます。支配と従属を通した「革命」の殆どの行く末が独裁政治であることに留意しなければならない
。
いわば、「選択の自由」が保障された社会で、行動主体が何であろうと、「革命」を持ってくること自体が論理的な二律背反を侵すものであって、民主主義と相容れない考えでしかない
のではないか。
「選択の自由」によって導き出された結果がどのように愚かしい「選択」であっても、それは他者の判断でしかなく、選択主体にとっては常に正しい判断なのだから、それが愚かしいからと否定したり、排除したりするのは、ヒトラーやスターリンと同じく、絶対化し得るはずもない自己を絶対化する傲慢な独裁性の表れを証明するものであるだけでなく、「革命」を唯一正当な選択の手段に限定することに他ならない。
つまり、「革命」によって自分たちに都合のいい「選択」を果たしたとしても、その「選択」は次なる「革命」によって覆されることも正当化しなければならないと言うこと
である。悲しいことに、そこからは一部の人間の判断に従うプロセスしか見え
ない。
衰退著しい社民党や党勢の伸張に伸び悩んでいる共産党が、「革命」しか手段が残されていないからと何らかの行動を起したなら、今の日本では何とも滑稽・無様な姿に映るだろうか。
気の遠くなるような長いスタンスで考えた場合、現在の暗記教育を変えたなら、それが下支えしている学歴主義の主脈である権威主義そのものの変革を促して、政治家と官僚との間に、権威主義的な地位の力関係からではなく、対等な
立場で忌憚なく意見を闘わせる関係を生じせしめたなら、これまでのような両者の関係を変えることが可能になるかも知れない。
このことは政治家対政治家の関係にも言えるし、官僚対官僚の関係にも言え
る。当選回数と在任期間、あるいは大臣の経験回数を権威とした上下関係を政治の世界につくり出したり、官僚の場合は勤続年数と出身大学のグレード
等を権威としたりして、下位と見なした政治家・官僚の主張を封殺するような関係(例えば1年生議員などに、当選したてのヒヨコの癖にシャシャリ出るなといった抑圧、あるいは入省したての省員の意見を軽視する抑圧)が過去のものとなることを意味
するだろうから。
また、「民」が「官」に権威主義の面から自己を下に置いて頭を下げる慣習もなくなることを意味
する。残念なことに、現在の日本は過去から引き継いだ厳然たる階級社会
のままにとどまっている。