教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
天皇制は日本人の行動様式となっている権威主義と深く関わっている。ことさら説明するまでもなく、権威主義とは権威に従う行動様式を言うのであって、権威を権威としなければ、権威主義は成り立たないのは言うまでもな い。それが成り立つというのは、権威の上下を基準として、下が上に従う形式の構造的従属性が社会の上層から下層に向かって、階段状に重なり合いながら、あまねく張り巡らされた状態となっていることを示す。
また、権威主義は権威に従う行動様式だから、自分の意志・判断に
立って、自ら責任を持って行動する主体性とは
相反する精神構造を持つ。 戦前に於いては、その政治性・社会性は軍部を含めた政治権力によってコントロールされていた。 しかし、世俗的な関係性を持たないながら、日本人の 行動様式となっている下が上に従う権威主義的精神構造の行き着く先の上≠ニしての地位を与えられているゆえに、その関連から、日本人の精神に植えつけられた最上位の権威となり得ている のである。 裏返して言うなら、日本人の権威主義的精神性が必要としている最上位の権威として発明されたのが天皇であって、今以て権威主義的行動様式から抜けきれずに最上位の権威を現在も必要としていることが天皇の存在を引き続いて支えていると言える。 ≪万世一系≫とは、最上位の権威を最上位らしく特別仕立てする装置以外の何ものでもない。 権威主義の行動基準が上と下 の権威を骨組みとして成り立っていることに対応して最上位の権威を必要 不可欠とする以上、必然的に最下位の権威をも必要 不可欠とする。穢多と呼び習わされた部落民、在日韓国・朝鮮人に対する差別・蔑視はかつて程 根強く意識されないものの、今なお日本人の精神の奥深くに影を落としていいる。 外に向かっては、国内では天皇という最上位の権威を抱えていながら、白人種に対しては言いようもないコンプレックスを抱えている権威主義性は滑稽である。但し、そのコンプレックスを補って、黒人種や褐色人種を下位権威に貶め、自らをその上に立つ者として優越たらしめている権威主義 性の充足も滑稽だが、怠りなく万全を期している。
中央政治家の地方政治家に対する上位に位置した優越性、中央官庁の役人の地方役人や所管企業に対する上位的な優越性(かつての大蔵省キャリアに対する金融機関の飲食・ゴルフ接待はその現われの一つだろう)、東大以下の有名国立大学の私立大学、あるいは地方大学に対する上位価値を担わせた優越性、大企業社員の中小企業社員に対する何様的な優越性(中小企業の社長の元請の大企業の部・課長クラスの人間にぺこぺこ頭を下げる姿は日本全国ザラにある光景ではない
か)等々、すべては天皇を最上位の権威として、相互関連し合って重層的に存在している権威関係であり、それゆえに天皇も、それ以下の権威も日本の社会を成り立たせる上で必要欠くべからざる構成要素となっているのであって、そのような権威構造で以て日本社会及び人間関係は秩序立てられている。 ≪万世一系≫とは、最上位の権威を最上位らしく特別仕立てする装置以外の何ものでもないと言ったが、人間的実質――社会的活動(社会の生きものとしての活動)に発揮される人格や能力――に置くべき価値を、男系の血がつながっているという血液上の形式にのみ価値を置いて最上位の権威としている日本人の権威主義の精神性は見事と言う他ない。 尤も、権威主義的行動様式に於いては、家柄や血筋、地位や役職、財産や学歴等に人間的価値の権威を置いているのだから、その最上位に単に特異な血筋の所有者でしかない天皇を置いていたとしても、上下呼応しあっているだけのことで、何の矛盾も不思議もない。 但し、天皇を<万世一系>をキーワードに語る場合は、誰もが日本民族を(あるいは日本民族の歴史・伝統を)下地にしているわけで、<万世一系>に価値を与え、後生大事に肯定する価値観は、併せて日本民族とその歴史・伝統に価値を置き、肯定する価値観となって現れ、それら(万世一系・日本民族・その歴史・伝統)を根拠として日本民族優越性を成り立たせることになる。 「万世一系」以外に、 系統的に「世界に例がない」があり、「男系」があり、かつては「現御神」 (あきつみかみ)と いうキーワード(装置)も用意されていた。さらに日本民族の優越性が、「単一民族」維持の装置・根拠ともなってい て、両者は相互に響き合っている。優越的民族に不純物(劣る民族)を混入するわけにはいかないというわけである。
平沼元経産相の「愛子様が青い目の男性と恋に落ち、そのお子様が天皇になられることは断じてあってはならない」云々にしても、難民
や移民受入れに対するアレルギーにしても、優越民族意識と同時に、その別表現でもある単一民族意識が関わってい
ないはずはない。 アメリカと日本と比較した生産性の低さも、主体的行動の違いからきているもので はないだろうか。ブルーカラーの差はそれほどでもないが、ホワイトカラーの差が著しいと言うことを読み解くとするなら、ブルーカラーの場合は仕事が機械的に決めれれていて、そこに何をするかという自分の選択の要素は 少なく、1日の製造目標にしても決定しているという、いわば監視された状態で、いやでも働かされる他からの力が作用しているから、 要求されたノルマを要求されたとおりに、いわばマニュアルどおりに消化する力は権威主義的行動様式に依拠したまま過不足なく発揮しうるからだろう。 いわば、言われたことを言われたとおりにやりおおすことさえできれば、何の問題も起きないというわけである。 しかし、ホワイトカラー の場合は、製造現場のようにマニュアルがあって仕事が機械的に決められているというわけではなく、自分の選択や判断を介在させなければならない余地がブルカラーに比較にならない程広範囲に亘っていて、権威主義的行動様式のルールどおりに権威(この場合はマニュアルや上司の指示に)従っていれば片付くというわけにはいかない。仕事の多くが自己自身の主体性に関わる問題として降りかかって くる。いわば日常普段の権威主義的行動様式の範囲内でしか生産性が発揮できない限界が障害となって現れている日米の差ということではないだろうか。
一昔前は日米の銀行員の収益性を比較した場合、銀行自体の資本力は日本の方が上回っているが、アメリカ人銀行員1人当りの収益性は、日本人銀行員2人に相当すると言われていた
。同じ人間でありながら、いやそれ以上に「日本人が勤勉で優秀であ
る」とされながら、このような大きな差が出ていたのは、自ら行動するという主体性
(自分の意志・判断によって自ら責任を持って行動する姿勢)を抜きには考えられない。 天皇を従来どおりに最上位の権威に位置づける権威性を優先させることで、主体性や責任意識の欠如に目をつぶるか、主体的行動性を獲得する方向性を選択することによって、天皇を含めた権威なるものの呪縛を自ら解き放つか、いずれかの道を意志しなければならない。天皇をありがたがっているだけでは済まない問題である。
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