送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
件名 : 「 自民党の憲法改正『論点整理案』を読む」
日時 : 2005年3月1日 8:20
突然失礼します。手代木恕之という者です。
憲法改正に関するHPの案内です。
今後このような配信を希望しない場合は、
ご面倒でも、wbs08540@mail.wbs.ne.jp宛て、
空メールをお送りください。
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「自民党の憲法改正『論点整理案』を読む」
自民党の改憲意志には、国民に対して、上(国)に従わせようとする
支配欲求が色濃く反映している。その頂点に、元首とした天皇を置き
たいと願っている。
この上に従わせようとする意志は、日本人が行動様式としている、上
は下を従わせ・下は上に従う集団主義・権威主義から派生した、上に
位置している人間集団の下に対する支配への疼きなのは言うまでも
ない。
このような疼きは集団主義・権威主義をDNAとしている影響を受けて
、殆どの日本人が上に立つと、本能的な行動原理となって現れる。
平等を行動原理とするアメリカ人主体のGHQがつくった日本国憲法
を、国の機関に関わる日本人政治家が改正しようとするのだから、下を
従わせる構造に変えたい衝動を抱えるのは自然の流れとも言える。
すべては国民がそのような構造を疑問もなく受入れて、上に従う関係を当
然とするかどうかにかかっている。
手代木恕之
「市民ひとりひとり」
第80弾「 自民党の憲法改正『論点整理案』を読む」
http://www2.wbs.ne.jp/~shiminno/kenpou.htm
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送信者A
件名「 自民党の憲法改正『論点整理案』を読む」
日時2005年3月2日 21:31
始めまして。
Aと申すものです。憲法改正に関するご意見に接し感想を申し上げたく、返メールいたす次第です。 ご説に関し、二点ほど問題を感じました。
一点目は、「日本人」の「上は下を従わせ・下は上に従う集団主義・権威主義」の
「DNA」といったご表現に感じられるものです。まず、日本文化論として余りに粗雑で独断的であると感じられます。
しかし、それよりも、このような議論には次のような前提があると思われます。すなわち、「集団主義・権威主義」の国民性、対、「平等を行動原理とするアメリカ人主体のGHQがつくった日本国憲法」という図式です。これだと、憲法はあたかも、《放っておくと「DNA」によって権威に盲従してしまう国民に、高い政治規範を保持させ続けるためにはめられたギプス》のようなイメージですね。もう少し、自分たちの政治文化についての自信と主体性ある憲法像を持ってよいと思うのですが。
二点目は、上とも関わりますが、「憲法」についての概念理解の問題です。およそ法やルールには二種類のものがあります。一つは「統制」機能をもつもので、禁止や命令をこととし、人々の行為を統制します。たとえば刑法がその例です。
二つ目は「構成」機能をもつもので、物事を定義したり意味付けたり、人々の行為を方向付けます。たとえば野球のルールなどはその例で、ルールによって初めて野球というゲームが構成され成立しています。(以上については、たとえば
J.R.サール『言語と行為』参
照)。憲法(コンスティテュ―ション=構成)は、この二者のうち、どちらかといえば後者の種類に属するルールといってよいと思います。
つまり、日本(あるいは、どこでもよいが、たとえばフランス)の憲法なら、それは、日本(フランス)とは何か、日本(フランス)国民は何を目指すか、そのためにどういう政治機構を構成し運用するか、ということについての宣言です。
しかし、一点目で述べたように、ご説の憲法論では、憲法を、人々の行為に枠をはめる「統制」機能のルールとしてのみ理解されているのではないでしょうか。ご説のもとにある「憲法」についての概念理解に、狭さと偏りを感じます。
現在の憲法改正論議のすべての論点に私は同意するものではありませんが、しかし、
いわゆる「国柄」を盛り込んだ憲法(特に前文)であるべきだという主張には、相当の根拠があると思っております。憲法を、外からはめられた枠ではなく、自分たち自身についての定義と行動方針を宣言したものとしたい、という主体性、自律性への欲求が感じられるからです。むしろ、「アメリカ人主体のGHQがつくった」「権威」に対する健全な独立精神が感じられるといってよいと思います。
天皇に関しては、現在議論されている複数の憲法案はいずれも、その権能を現憲法以上のものにするべきだという主張にはなっていないと思われます。「元首」について
も、ドイツ(大統領制)やイギリス(君主制)では元首は国家の象徴的代表として規定あるいは理解されており、権力の最高の行使者という意味を伴いません。つまり、天皇を元首と規定したからといって、自動的に、天皇を頂点とする支配―服従の構造が意図されているというご理解は成り立ちません。
そうではなく、現憲法の「日本国民統合の象徴」という規定を踏まえ、それに対外的代表性の意味を明示的に加えるというのが、天皇・元首規定論の意図ではないでしょうか。
以上、忌憚のない感想を述べさせていただきました。表現中、失礼の段はご寛恕くだ されば幸いです。
****************
送信者: <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先:Aさん
件名 : Re: スパム警告:Re: 「 自民党の憲法改正『論点整理案』を読む」
日時 : 2005年3月4日 16:48
手代木です。
Aさんへ。
メール、ありがとうございました。少し反論させてください。
> まず、日本文化論として余りに粗
> 雑で独断的であると感じられます。
「粗雑で独断的」と言われると、返す言葉もありません。しかし、公共
の報道機関を使って、「粗雑で独断的」な意見を述べて学者でございま
す、評論家、あるいはジャーナリストでございますといった顔で情報を全
国的に垂れ流し、多くの人間に信じ込ませている連中と比較したら、豆粒
みたいな私の「粗雑で独断的」な情報の悪影響はたいしたことはないと思
っています。これも「独断」の内に入るかもしれませんが。
>「集団主義・権威主義」の国民性、対、
> 「平等を行動原理とするアメリカ人主体のGHQがつくった日本国憲法」という
> 図式です。これだと、憲法はあたかも、《放っておくと「DNA」によって権威
>に盲従してしまう国民に、高い政治規範を保持させ続けるためにはめられたギプ
>ス》のようなイメージですね。もう少し、自分たちの政治文化についての自信と
>主体性ある憲法像を持ってよいと思うのですが。
そういった意味で述べた積もりはありませんが。
憲法はどうのように内容を変えたとしても、「国民に、高い政治規範を保持
させ続けるため」の「ギプス」とはなり得ません。憲法は単なるバイブルです。
にも関わらず、逆に国民の上に従う権威性を利用して、下に従わせるべく、い
わば「ギプス」にすべく、その種の権威的な意志を働かせようとしているというこ
とを言いたかったのです。
そのことは、あくまでも個人が行動主体であるべきを、その自律性・主体性を
排除して、<家族や共同体が、「公共」の基本をなすもの>(「論点整理案」の文
章)としようとしたり、あるいは、何が利己主義なのか、どの程度までが利己主義
なのか、時代や社会の変化によってもそれぞれに異なり、人によっても判断が異
なる関係から、刑法や民法、その他の法に触れた場合に規制するしかない利己
主義化した個人主義の蔓延といったことにまで踏み込もうとしていること、あるい
は普段は愛国心で行動するわけではないのに、その規定を憲法に設けようとし
ていること(「論点整理案」内の意向)に象徴的に現れていると考えています。
> 二点目は、上とも関わりますが、「憲法」についての概念理解の問題です。お
>よそ法やルールには二種類のものがあります。一つは「統制」機能をもつもの
>で、禁止や命令をこととし、人々の行為を統制します。たとえば刑法がその
>例です。二つ目は「構成」機能をもつもので、物事を定義したり意味付けたり、
>人々の行為を方向付けます。たとえば野球のルールなどはその例で、ルールに
>よって初めて野球というゲームが構成され成立しています。(以上については、
>たとえばJ.R.サール『言語と行為』参照)。
>憲法(コンスティテュ―ション=構成)は、この二者のうち、どちらかといえ
>ば後者の種類に属するルールといってよいと思います。つまり、日本(あるいは、>どこでもよいが、たとえばフランス)の憲法なら、それは、日本(フランス)と
>は何か、日本(フランス)国民は何を目指すか、そのためにどういう政治機構を
>構成し運用するか、ということについての宣言です。しかし、一点目で述べたよ
>うに、ご説の憲法論では、憲法を、人々の行為に枠をはめる「統制」機能のルー
>ルとしてのみ理解されているのではないでしょうか。ご説のもとにある「憲法」
>についての概念理解に、狭さと偏りを感じます。
野球のルールと憲法の違いは、野球のプレーヤーは常に野球のルールに則
って行動しなければならないが、国民は必ずしも憲法の規定に則って行動する
わけではないことでしょう。先程、憲法は単なるバイブルだと形容しましたが、こ
のためです。バイブルで悪ければ、指針と形容しても構いません。
「憲法を、人々の行為に枠をはめる『統制』機能のルールとしてのみ理解
されているのではないでしょうか。」
既に上述したように、全然逆です。そのようにしか理解できないとしたら、私の言葉足らず以外の何ものでもありません。
自民党の憲法改正意志には、「人々の行為に枠をはめる『統制』機能のルール
とし」ようとする欲求・衝動が窺えるという文脈で言葉を進めているはずですが。
私自身も、憲法とは、「『構成』機能をもつもので、物事を定義したり意味付けたり、人々の行為を方向付け」るものと把えています。
特に本を読んで学んだ人間ではありませんから、「J.R.サール」がいつの時代の
人間か知りませんが、憲法は確かに国内法としてある国家存在の基本法ではあ
るが、世界がグローバル化した今日に於いては、特に先進国の資格を有すること
からも、日本が世界の一員として世界に向けてあるべき姿を規定する国際関係法
をも兼ねなければならないはずですから、世界共生の観点に立って、そのことにも
比重を置くべきで、民族の違いとか、宗教の違い、あるいは同じ宗教に属しながら、宗派の違いで武力紛争・武力衝突が絶えない世界となっていることも考慮して、日本の歴史・文化・伝統、いわゆる「国柄」を前面に押し出すべきではない、民族意識を超えた、世界共通とし得る国家存在の理念を用意すべき・創造すべきであるという主張を自分の考えとしています。
> 天皇に関しては、現在議論されている複数の憲法案はいずれも、その権能を現
>憲法以上のものにするべきだという主張にはなっていないと思われます。「元
>首」について も、ドイツ(大統領制)やイギリス(君主制)では元首は国家の象
>徴的代表として規定あるいは理解されており、権力の最高の行使者という意味を
>伴いません。つまり、天皇を元首と規定したからといって、自動的に、天皇を頂
>点とする支配―服従の構造が意図されているというご理解は成り立ちません。そ
>うではなく、現憲法の「日本国民統合の象徴」という規定を踏まえ、それに対外
>的代表性の意味を明示的に加えるというのが、天皇・元首規定論の意図ではない
>でしょうか。
私自身も、天皇を元首にしたからといって、「自動的に、天皇を頂点とする支配―服従の構造が意図されていると」いった「理解」を一度たりとも働かせたことはありません。
また、「元首」が「国家の象徴的代表として規定あるいは理解されており、権力の最高の行使者という意味を伴」わない状況を日本という国に於いて絶対とし得るなら、天皇元首でも構わいません。
但し、厳密な意味で、「天皇を頂点とする支配―服従の構造」が日本の歴史上、
一度も存在したことはありません。これからも存在することはないでしょう。豪族・貴族・武家の棟梁・薩長政府・軍部等々、彼らの権力を展開するための借着権威として、天皇は利用される存在に常に位置していた。
そしてそこから今もって抜け出れていない。対外的な「天皇のお言葉」なるものが、天皇自身の言葉ではなく、内閣と宮内庁の合作、ときには内閣の独作であって、政治的に利用してはならないとされているにも関わらず、政治的に利用している。
私は逆に、天皇はすべてにわたって自分の言葉を持ち、自分の言葉で話しべきだ
と思っています。利用される存在から脱却するためにです。当然自分の言葉に天皇
自ら責任を持たなければなりません。
日本人の無責任性が問題になるのは、自身の言動が自律的主体性に従ったもの
ではなく、国に従う・会社に従う・上に従う従属的主体性に従う性格のものだから、国に・会社に・上に従ったまでだとする責任転嫁を必然性とする構造を俎上に載せてのことだと思います。
敗戦直後の日本人が、戦争の結末を国に騙された、国に騙されたと、自分たちが騙された責任を棚に上げて、一方的に非難し、責任のすべてを押し付けたのは、その種の無責任性が最も象徴的な表れとしてあるものでしょう。
そして、今もって、戦争に関して、被害者意識は持っても、アジアの人間に対する加害者意識は持てない傾向も、無責任性の一つに入れられています。
天皇がときの政治権力の意向に従った言葉を喋らされる。そのような利用のさ
れ方と、昭和天皇が死去したとき、自粛と称して、服喪の期間中バーなどの飲食
店などが臨時休業し、音楽をかけるのを控えたり、予定していた結婚式・旅行まで
中止したのは主体的判断からではなく、何を中止した、どこの商店街が一斉休業を
決めたといったテレビ・新聞の日増しにエスカレートしていく報道に次第次第に靡いていった、同調しなかった場合の世間の目を恐れる、社会という上の権威への盲目的な従属からの自粛だったことを考えると、天皇を国民に従わせる装置に利用する政治家が現われた場合、かつてそうしてきたように、利用される存在としての天皇も従うだろうし、天皇が従えば、天皇がそうだからと、上に従う権威性に則って国民も従うことへの危惧からの、天皇元首反対なのです。
ある幼稚園で見た光景です。外に散歩に出かけていた、多分一クラス単位の園児
たちが先頭に立った、まだ若い保母の一人に引率され、最後尾をもう一人の、やはりまだ若い保母が務めて、列を成して、園舎に戻ってきました。無理もないことですが、その列はまだ幼い年齢だから、整然とした縦列を維持することができず、前の園児と後ろの園児の間が開きすぎていたりして、だらしなく伸びたゴムひものようにだらだらとつながったものでした。先頭が園舎の上り口になっている廊下に着いてから、最後尾がそこに集合するまで、少しの時間、順次待たなければなりません。その間にオバさん園長が廊下に現れ、全員が集合するまで、そこに立ち尽くして、園児たちを見降ろしていました。
全員が廊下の園長に相対する形で半円形になると、先頭に立って引率してきた
保母が、では、といった具合に、「園長先生、ただいま」と大きな声で言ったのに合わせて、園児たちは大きく声を揃えて、「園長先生、ただいまァー」と一斉に同じ言葉を発したのです。園長はそれに対して、「お帰りなさい」と全員に言い、初めて、二三の園児に、「どう楽しかった?」と聞くと、顔を向けられた園児たちはやはり同じ言葉を反復する形で、口々に「たのしかった」と答えていました。
次いで保母が、「じゃあ、みんな、手を洗い、口をうがいして、教室に入りましょう」と声をかけると、園長は奥に消え、園児たちは背後にある手洗いに行き、指示されたことを一斉に始め、二人の保母が見守る中、終わった園児から順に廊下に上がっていきました。
このような光景はほぼ寸分違わずに繰返される反復行動としてあるものでしょう。園児たちは既に赤ん坊の年齢を過ぎているのです。幼稚園に戻ってきた順に保母が指示するまでもなく、また、決まりきった会話以外、特別な会話があるわけではない、機械的な儀式に堕している園長の出迎えをわざわざ設けなくても、個々の判断に従って、手洗いで手を洗い、うがいをし、終わった順に廊下に上がり、教室に入っていく、自律的にして主体的な機動性を育む訓練をすることもせず、挨拶も手洗いもうがいも、教室に入ることも、一斉行動で律する――従わせる。
園児たちの側から言うと、従うことに慣らされる。従うことを当たり前とする。そして、このような園児の成長後の姿が、指示待ち症候群・マニュアル症候群、あるいは、横並び症候群といわれる日本の若者や大人の姿なのです。
先日、テレビで見たシーンですが、ヤクルトの古田選手がフリーバッティングしていたとき、一塁側か三塁側か分かりませんでしたが、ネット越しに幼稚園児が、「古田さーン、古田さーン」と盛んに黄色い声を張り上げて声援を送っていました。テレビ局の人間が、声援が盛んでしたよとでも言ったのでしょう、それに対して古田選手が、「後ろで先生が言え、言えって盛んに言っていた」と笑って答えていたのも、保母の指示で言われた言葉を言われたとおりに反復する従属性の表れとしてある光景です。
つまり、日本人のほぼ全体がDNAとして下を従わせ、上に従う権威性を受け継いでいるところへもってきて、幼い頃から上に従う権威的慣習を上塗りの形で刷り込まれていくのです。
大体が、国の教育政策として、<自分で考え、自分で判断して、自分で行動する>
総合学習教育を設定した事情の裏を返すと、日本人がそうなっていないから、設
定せざるを得なかったということだと思います。ところが、学力低下圧力に負けて、軌道修正に入った。
せめて憲法だけは、一部の有力な政治勢力が国民を従わせる「方向付け」では
なく、国のあるべき姿へ、と同時に世界に向けてその一員としてのあるべき姿、世
界共生のための姿へと、「人々の行為を方向付け」る役目を持たせるべきで、そう
するためには、自ら考え、自ら判断して、自分で行動する自律性・主体性を獲得で
きる「方向付け」が模索されるべきだと考えます。また、例え象徴天皇性が根付い
ているとはいえ、自律性・主体性を阻害する要因として機能しないとも限らない日
本的な権威付けに利用しされやすい天皇は元首にすべきではないと考えています。
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送信者:A
宛先: <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
件名 : Re: Re: 「 自民党の憲法改正『論点整理案』を読む」
日時 : 2005年3月9日 20:12
Aです。失礼とは思いながらお送りした意見にご丁寧なお返事を誠にありがとう
ございました。時間の関係で簡単となりますが、お返事への感想を申し述べさせていただきます。
ご主張を拝読して一番疑問に感じるのは、何故この日本に憲法が必要なのかについてのお考えが見えない点です。「世界共生の観点に立って、そのことにも
比重を置くべきで、民族の違いとか、宗教の違い、あるいは同じ宗教に属しながら、宗派の違いで武力紛争・武力衝突が絶えない世界となっていることも考慮して、日本の歴史・文化・伝統、いわゆる『国柄』を前面に押し出すべきではない、民族意識を超えた、世界共通とし得る国家存在の理念を用意すべき・創造すべきであるという主張を自分の考えとしています」と述べられておりますが、それならば、「日本国憲法」ではなく、何か普遍的な価値を宣言する「世界市民宣言」のようなものを基本法に据える方が明快であるように思います。ーーただし、その場合でも、「民主主義」「自由主義」あるいは「個人の自立」「男女の平等」などを謳うならば、それを欧米的政治伝統に偏した宣言とみる「民族の違いとか、宗教の違い」もあるわけですから、そのような宣言が真に普遍性、「世界共生」性を備えることが可能であるかは疑わしいと言えます。
憲法とは、国際社会が価値多元的であることを前提として、自分たちの国はいかなる価値を奉じるか、そのためにいかなる政治社会を構成するか、を宣言し自己規定するものであると思います(そうでない憲法の実例があったらご教示ください)。ま
た、そのような「国柄」の宣言が「世界共生」と矛盾しないことは、個人レベルにおいて個性の主張が集団を破壊しないことと同様であると思います。ただし、この例から逆に言えることですが、あまりに「個性的」(つまり手前勝手)な自己主張が集団を破壊することからも、憲法には、国柄と同時に、人類レベルでの普遍的価値への希求、共生への希求が理念として打ち出されている必要があります。要はバランスだと思います。
ご説の日本人論ーー「一斉行動」「権威的習慣」「無責任」といった「DNA」論ーーについては、そのような傾向性があるとして、それが
@日本人に固有の特徴なのか、
Aどのくらい強くその固有性が言えるのか、
についての比較文化的視点が無い点が
まず気になります。また、<自分で考え、自分で判断して、自分で行動する>とお
っしゃるときの「自分」は、(趣味などの私生活的状況以外は)社会的、集団的
文脈で生きているわけですから、常に一定の「一斉」性、「権威」の尊重、また
「責任」の分担と有限性は当然と言えるのではないでしょうか。(ご自身は、そ
ういうものに一切こだわってはおられないのでしょうか?)。私自身は、別に自
慢するわけでもありませんが、所属する組織・集団の秩序や発展や社会的使命を
考えながら<自分で考え、自分で判断して、自分で行動する>ことをしている「つ
もり」です。つまり、集団的行動が、常に主体性を欠き、集団同調的で、ゆえに
権威に利用される、といった想定は間違いだと申したいわけです。また、「日本
人の」集団的行動が、常に主体性を欠き、集団同調的で、ゆえに権威に利用され
る、という主張だとすれば、上記のようにそれは未証明です。
また、「せめて憲法だけは、(略)自ら考え、自ら判断して、自分で行動する自律性・主体性を獲得できる『方向付け』が模索されるべきだ」と述べておられますが、先回も申しましたように、憲法を、悪しき国民性を矯正・教育するための規範的統制手段として把握されていることは明白のように思われます。(先回の「ギプス」という表現は適切な比喩ではなかったかもしれませんが。)しかし一方で、上を否定する意味からか、憲法を「単なるバイブル」とも述べておられますが、(クリスチャンから見て「単なるバイブル」という表現が適切かという点は措くとして)、私は憲法は決して「単なる」理想論ではないと考えます。やはり、ご説の中の「憲法」概念にゆれと不明瞭さを感じるのです。
私は、憲法とは、何よりもまず、自分たちを定義し、奉じる価値を宣言する自己規定であると考えています。思えば、先回の「野球」という例も不適切だったかもしれません。野球にこだわれば、古田選手を現会長とするプロ野球選手会など、何かの組織や機構の設立宣言と言えばより良いでしょうか。それは、統制的でない(少なくとも、構成員への統制が主目的ではない)のはもちろん、「単なる」理想論でもないことがお分かりいただけると思います。
さて、簡単に書くつもりが、また長々としたメールとなってしまい恐縮です。提案なのですが、このやりとりは、(お書きになるとして)以上の拙文へのお返事あたりでいったん終わりにいたしたいと思いますがいかがでしょうか。また、新たな論点があれば、ぜひ議論してみたいものだと思っております。それでは失礼します。
************
送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: Aさん
件名 : 日本の歴史・文化・伝統は絶対善の姿を取るわけではありません
日時 : 2005年3月12日 11:07
手代木です。
Aさんへ。
◆<それならば、「日本国憲法」ではなく、何か普遍的な価値を宣言する「世界市民宣言」のようなものを基本法に据える方が明快であるように思います。>
日本人が日本人として生まれた以上、日本の歴史・文化・伝統、行動様式等の影響は受けますが、意識としては日本人として行動するわけではなく、一個の人間として行動するものだと考えています。あなたはいつも日本人であることを意識して行動しているでしょうか。そうではないと思います。
一個の人間として行動しながら、その行動は日本の歴史・文化・伝統等の影響を受けた日本人としての行動様式・思考様式に従います。
そういった制約下に生きているのですから、憲法に謳うまでもないのです。最近の利己主義的風潮を日本的なるものに縁のないことのように把える人間が多くいますが、利己主義も日本の歴史・文化・伝統に含まれた、その一部でしかありません。
問題は、利己主義がそうであるように、日本の歴史・文化・伝統が常に絶対善の姿を取るわけではないということです。憲法にそれらを謳うことは、絶対善だと見なすからに他なりません。そのことは日本民族優越意識が関係しています。かつての戦争を侵略戦争と素直に認めなかった態度、あるいは強制連行や従軍慰安婦問題も、自分たちからは積極的に事実解明に関与せず、資料を突きつけられて認めざるを得なくなってから、認めた、これも利己主義に入る潔くない態度は、日本民族を無誤謬としたい民族優越意識の発動によるもので、そのような意識をベースとした、憲法の条文への日本の歴史・文化・伝統の明記だと考えています。
憲法で絶対善の姿を取るわけでもない価値観を下に従わせるか、少なくとも国民にそう思わせる(意識下にそうだと植えつける)矛盾は、国際関係的にも、不誠実な詐術に映らないことはないと思います。東南アジア各国が日本的なものに警戒心を抱くのは、そういったことも理由になっていると思います。
つまり、自民党の憲法改正意志には、日本の歴史・文化・伝統等をさも絶対善であるかのように装い、意図的に日本人であることを意識させて、日本人として行動させる、あなたが言っている<統制>意志が窺えると言うことです。生理的に不自然なだけではなく、他の国々の人間と伍したとき、何らかの摩擦、あるいは衝突の種とならないとも限りません。
例を挙げるなら、戦争中の日本帝国軍人は人間として行動したのではなく、天皇の兵士であることを前面に出して行動し、優越民族の日本人として行動したから、倣岸不遜にも東アジアの人間にああも虐殺・虐待、あるいはすぐ殴るといった衝突を引き起こすことができたのでしょう。一個の人間として行動したなら、相手も一個の人間ですから、戦闘中でもないのに、度胸試しだと称して、部下に日本刀で現地人を斬り殺させるといった権威主義的な態度は取れなかったはずです。
外国の例で言えば、先頃問題になったフランスのイスラム系住人のスカーフ問題です。彼らは常にイスラム教徒であることを意識し、その制約を当たり前のこととして行動するから、あのような問題が起きるのでしょう。どのような宗教を信じようと、思想・信教の自由から問題はないのですが、人間として行動するのではなく、イスラム教徒としての形(いわば制約)を優先させて行動するから、それが同じ存在形式が流通する自国なら何ら問題はないでしょうが、異なる存在形式の社会で通りすがりの関係ではなく、密接な生活関係を結ぶ場合、その社会の存在形式から大きく外れたまま、合わせる気持ちもなく押し通す姿勢は、対立した関係を自らつくり出すことに他なりません。
イスラム教徒のスカーフは、憲法に謳おうとしている日本の歴史・文化・伝統に当ると言えなくもありません。
憲法は必要です。国際関係法を成すと同時に、国家存在の基本法を主たる目的とするるからです。
人間は個人として行動しながら、勤務者、あるいは生活者としての制約を受け、自己の所属する社会の制約を受け、国の制約を段階的あるいは同時に受けて生活します。会社会社には、その多くに社員一人一人がどう行動すべきか、社員の心得といったものが制定されています。
断るまでもなく、制約とは規範によって生じる制限であって、制約のすべてが不都合を意味しているわけではありません。すべて不都合を意味しない場合もあります。
国が国内的に最上位に位置する社会として個人を制約する一個の機関であり、その制約の内容を国民が妥当とする線で、憲法という形で規範として提示する役目を負っているのは、個人の制約を国が役目としているからに他なりません。思想・信教の自由の保障も、それを侵してはならないという制約です。国が個人を何ら制約しない存在なら、憲法以下の規範は何一つ必要なくなるでしょうが。
◆<それならば、「日本国憲法」ではなく、何か普遍的な価値を宣言する「世界市民宣言」のようなものを基本法に据える方が明快であるように思います。>
国は世界の下位に位置する社会です。下位社会では下位社会なりに、社会の段階に応じて、個人を制約する規範は必要です。必要ないとするのは、憲法があるのだから、社員の心得といったものは必要ないというのと同じです。勿論、憲法が規定する基準に抵触しない範囲の制約でなければならないのは言うまでもありません。
それと同じように国の事情が違えば、憲法の事情も違ってきますが、世界共通の価値観とすることのできる「自由と権利」といった価値観を反映させた内容にすべきだと思います。
◆<ただし、その場合でも、「民主主義」「自由主義」あるいは「個人の自立」「男女の平等」などを謳うならば、それを欧米的政治伝統に偏した宣言とみる「民族の違いとか、宗教の違い」もあるわけですから、そのような宣言が真に普遍性、「世界共生」性を備えることが可能であるかは疑わしいと言えます。>
確かに<疑わしいと言えます>。それでも、<「民主主義」「自由主義」あるいは「個人の自立」「男女の平等」>は実現させ、普遍的としなければならない価値観を備えていると思います。人間存在のルールとするに、人間の自然に近いものがあるからです。
但し、<それを欧米的政治伝統に偏した>価値観とは見ません。戦後日本がアメリカから民主主義を獲得した、と言うよりも、与えられて、民主主義国家へと変貌しましたが、それは厳密にアメリカ型民主主義そのものではありません。
どのような制度・文化の移入であっても、それまでの日本人の行動様式・思考様式の影響を受けた形式・内容となるからです。例えば、戦後アメリカナイズされたと言いますが、日本人という精神の土台の上にアメリカ文化が上塗りされただけのことで、土台そのものがアメリカ文化に取って代わられたわけではないのと同じです。
取って代わられたとしたなら、社会主義が世界で唯一成功した国は日本だと言われることはなかったと思います。これは日本人が思考と行動の基本様式としている、上に従う権威的集団性が成さしめた、アメリカ型民主主義の意図せざるつくり変えへの帰結としてある情景だと思いますが。
イスラム世界に民主主義が移入されたとしても、イスラムを土台とした民主主義になるだろうし、同じイスラムでも、国によって微妙に違う制度となり、決して<欧米的政治伝統に偏した>形態とはならないと思います。
それでもなお、同じことの繰返しになりますが、人間存在の自然に近い価値観として、<「民主主義」「自由主義」あるいは「個人の自立」「男女の平等」>は人間の存在ルールとすべきと考えています。
◆<憲法とは、国際社会が価値多元的であることを前提として、自分たちの国はいかなる価値を奉じるか、そのためにいかなる政治社会を構成するか、を宣言し自己規定するものであると思います(そうでない憲法の実例があったらご教示ください)。ま、そのような「国柄」の宣言が「世界共生」と矛盾しないことは、個人レベルにおいて個性の主張が集団を破壊しないことと同様であると思います。ただし、この例から逆に言えることですが、あまりに「個性的」(つまり手前勝手)な自己主張が集団を破壊することからも、憲法には、国柄と同時に、人類レベルでの普遍的価値への希求、共生への希求が理念として打ち出されている必要があります。要はバランスだと思います。>
<「国柄」の宣言>が、日本民族優越意識から解放されている内容なら問題はありませんが、愛国心を盛り込みたいうずうずした欲求を見ると、その延長にある<統制>意志が働いた<「国柄」の宣言>から免れていないように思えます。
戦争中、愛国心を特に示さなければならない上の立場の人間ほど、自らの地位や権力を利用して闇ルートで食糧やその他生活物資を手に入れ、困らない生活を送っていた事実(利己主義が今の社会の特許でない証拠となります)は、愛国心が見せ掛け(=ポーズ)で片付けることのできる意思表示に過ぎないことを証明しています。その程度のいくらでも便宜化できる意思表明を、憲法に盛る。下の人間に従わせようとする<統制>意志があるからこそ、できることです。
国歌斉唱にしたって、見せ掛け(=ポーズ)で片付けることのできる意思表明に過ぎないのに、その声量を大・中・小の3段階に分類して調査した学校があったというから、<統制>意志の発動以外の何ものでもなく、滑稽な限りです。この流れから推測するに、愛国心を憲法に盛り込むことができたなら、次は祭日での国旗掲揚の義務付けへと進むのではないでしょうか。
勿論国民は従うでしょう。掲揚すれば済むことですから。
◆<ご説の日本人論ーー「一斉行動」「権威的習慣」「無責任」といった「DNA」論ーーについては、そのような傾向性があるとして、それが
@日本人に固有の特徴なのか、
Aどのくらい強くその固有性が言えるのか、
についての比較文化的視点が無い点がまず気になります。
また、<自分で考え、自分で判断して、自分で行動する>とおっしゃるとき
の「自分」は、(趣味などの私生活的状況以外は)社会的、集団的文脈で生きているわけですから、常に一定の「一斉」性、「権威」の尊重、また「責任」の分担と有限性は当然と言えるのではないでしょうか。(ご自身は、そういうものに一切こだわってはおられないのでしょうか?)。>
<日本人に固有の特徴>ではありません。もともとはヒトラーのファシズムを支持したドイツ下層中産階級の社会的性格を特徴づけるものとして取り上げられたとされていますが、世界のすべての人間が、アメリカ人にしても大なり小なり抱えている行動性だと思います。私が取り上げている集団主義・権威主義はあくまでも日本的な意味合いでのものです。
<どのくらい強くその固有性が言えるのか>については、既に幼稚園の例を挙げています。他にも例を挙げることしかできません。
暗記教育も、集団主義・権威主義から生じた教育方法だと思っています。教師(上)が指示した知識を、生徒(下)が上に従う形式で、指示された知識を指示されたなりに暗記して成り立たせている教育だからです。一般的に日本の生徒は殆ど質問をしないと言われていますが、上の知識に従うこと(指示された知識を指示されたなりになぞり、暗記すること)を大勢としていることからの、質問を必要としない現象ではないでしょうか。
少ない質問の殆どは教師が単に答えを聞き、生徒が答えを言う範囲内のもので費やされ、生徒からのなぜを問う質問が少ない情景をも示していると思います。
「日本の生徒は」という条件設定は、<比較文化的視点>を含む例示に入ると思います。
それはそれでいいじゃないか、日本人は優秀だからといった反論もあるでしょうが、それでいいとするなら、「自分で考え、自分で判断して、自分で行動する」といった総合学習の時間を設けるなどとしたことをしなければいいのです。教師が暗記教育を通して日々生徒に集団主義・権威主義の思考様式・行動様式を刷り込みながら、主体的に行動しろなどと矛盾したことを言わなければ、何も問題はありません。
世界的なテストでの日本人生徒の成績を、多角的見方が劣るとか、読解力が欠けるとか批評せずに、ひたすら暗記知識の成績のみを取り上げてたなら、やはり何も問題はありません。
<社会的、集団的文脈で生きているわけですから、常に一定の「一斉」性、「権威」の尊重、また「責任」の分担と有限性は当然と言えるのではないでしょうか。>
そこに主体性が加味されていなければ、あくまでも私自身にはさして意味はないと思います。付和雷同の<「一斉」性>ではあってならないし、恐れて従うだけ、あるいは、上が言うことだからと無条件・無考えな<「権威」の尊重>であってはならないし、止む得ずする<「責任」の分担>だったなら、その場凌ぎのもので終わることになります。
堤義明とその部下の関係がいい例です。但し、日本的集団主義・権威主義をよしとするなら、堤義明が自身を神の如くに絶対とし、部下たちがその絶対性を受入れて、恐れ従った双方の行動は、何ら批判されるべき事柄ではなくなります。逆に集団主義・権威主義の最たる体現者として賞賛されるべきです。
マスコミも学者も、そして政治家もどっちつかずだから、何か言いたくなるのです。
◆<《私自身は、別に自慢するわけでもありませんが、所属する組織・集団の秩序や発展や社会的使命を考えながら<自分で考え、自分で判断して、自分で行動する》ことをしている「つもり」です。つまり、集団的行動が、常に主体性を欠き、集団同調的で、ゆえに権威に利用される、といった想定は間違いだと申したいわけです。また、「日本人の」集団的行動が、常に主体性を欠き、集団同調的で、ゆえに権威に利用される、という主張だとすれば、上記のようにそれは未証明です。>
すべてに日本人が<主体性>を欠いているとは言ってません。また、<集団的行動が、常に主体性を欠き、集団同調的で、ゆえに権威に利用される>とは言っていません。そこに権威主義が介在した場合です。三省堂の『大辞林』に、「権威を振りかざして他に臨み、また権威に対して盲目的に服従する行動様式」と出ています。
戦前の天皇を神とし、絶対とした権威主義、それを受け継いで、大日本帝国軍隊の古参兵の自己を絶対とし、新兵にいじめ・暴力を振るい、新兵が忍耐して従うままだった権威主義は社会全般に受け継がれていたもので、戦後に於いては民主主義の平等意識からかなりソフトなものに形を変えたが、官に従うままの民間の横並び主義、あるいは中央を絶対とする地方の追従等に受け継がれているものです。
大蔵省のエリートキャリアがまだ30前の若さで、単に昇進の階段に設定した地位の一つとして、地方の税務署長として赴任し、分かろうはずもないからでもあるが、実務は人任せで、接待ゴルフや接待飲食を専らとする形だけの上司である上に、数年間の勤務でしかないにも関わらず、どこでどう出世するかわからないからと、周囲の署員がペコペコと頭を下げる、決して特殊とはいえない光景も、権威主義の現われとしてあるものです。
勿論すべてがそうであったわけではないでしょうが、そういった制度を改める必要に迫られたということは、一般的だったことの証明となると思います。
◆<また、「せめて憲法だけは、(略)自ら考え、自ら判断して、自分で行動する自律性・主体性を獲得できる『方向付け』が模索されるべきだ」と述べておられますが、先回も申しましたように、憲法を、悪しき国民性を矯正・教育するための規範的統制手段として把握されていることは明白のように思われます。(先回の「ギプス」という表現は適切な比喩ではなかったかもしれませんが。)しかし一方で、上を否定する意味からか、憲法を「単なるバイブル」とも述べておられますが、(クリスチャンから見て「単なるバイブル」という表現が適切かという点は措くとして)、私は憲法は決して「単なる」理想論ではないと考えます。やはり、ご説の中の「憲法」概念にゆれと不明瞭さを感じるのです。>
<バイブル>をキリスト教の聖典として述べたわけではありません。比喩的に、守るべき教えが書かれたものとして述べたのです。
<憲法を、悪しき国民性を矯正・教育するための規範的統制手段として把握>しているのではなく、逆に<国民性を矯正・教育するための規範的統制手段>にしようとしていると把えているに過ぎません。権威主義的欲求(=<統制>意志)が窺えるということです。所詮、どう解釈するかにかかっている事柄ではありますが。
◆<私は、憲法とは、何よりもまず、自分たちを定義し、奉じる価値を宣言する自己規定であると考えています。思えば、先回の「野球」という例も不適切だったかもしれません。野球にこだわれば、古田選手を現会長とするプロ野球選手会など、何かの組織や機構の設立宣言と言えばより良いでしょうか。それは、統制的でない(少なくとも、構成員への統制が主目的ではない)のはもちろん、「単なる」理想論でもないことがお分かりいただけると思います。>
私自身の「自民党憲法改正『論点整理案』」の解釈が中途半端なもので、誤解を与えたかも知れませんが、私が集団主義・権威主義を問題にするのは、それがまさしく<統制>意志をメカニズムとしているからです。上が自らの権威で下を従わせ、下が上の権威を恐れて無考え・無条件に従うということは、上による<統制>であり、下がその<統制>に従うということです。
◆<このやりとりは、(お書きになるとして)以上の拙文へのお返事あたりでいったん終わりにいたしたいと思いますがいかがでしょうか。また、新たな論点があれば、ぜひ議論してみたいものだと思っております。>
私に異存はありません。ない頭を振り絞っているものですから、正直なかなか疲れます。一つお願いですが、これまでのやり取りを一字一句変えない形での、私のHPへの転載許可をお願いできないでしょうか。あなたの名前は出しません。こういうメールがあったとします。
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送信者: A
宛先: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
件名 : Re: 日本の歴史・文化・伝統は絶対善の姿を取るわけではありません
日時 : 2005年3月12日 17:32
Aです。早速お返事をいただき、ありがとうございます。読ませていただきまし
た。さて、ご議論に関しては、申し出ましたように、承っておき反論はしないことにいたします。また、ホームページへの掲載の件は、結構です。ぜひ、お願いしたく存じます。ここまで、お忙しい中、誠実にご対応くださったことを感謝しております。
それでは、失礼いたします。
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送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: Aさん。
件名 : Re: 日本の歴史・文化・伝統は絶対善の姿を取るわけではありません
日時 : 2005年3月12日 20:35
手代木です。
Aさんへ。
ご承知していただいて、ありがとうございます。私の方こそ、色々とご迷惑をかけたかもしれません。失礼の段、お許しください。ありがとうございました。
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乞う、批判
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