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第85弾      何様な?北尾吉孝CEO

                                        upload 05.04.07 .()          


        

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                                                                                                                                                              北尾発言の横柄な考え違い
                                                                                                                                              敵対的買収は悪なのか
                                                                  「資本市場」は言う程に美しい世界なのか                                                                

北尾発言の横柄な考え違い

  フトバンク・インベストメントの北尾吉孝CEO氏の 発言に対して一言。

  分がかつて敵対的買収を行って、失敗した、相手に好まれない買収はダメだなと反省した。だからと言って、他人の敵対的買収をどうのこうのと言うのは、出過ぎではないか。

  対的買収は証券法に違反しているわけではない。反省して、変えたのはあくまでも自分の考えであって、現時点では法律化も社会的慣習化もしているわけではない個人的な持論を、と言えば聞こえはいいが、ぶちまけて言えば、自分の好みから出ない感情的な要素に支配された単に個人的な判断を他人にまで押し付け、自分の考えと同じにしようとするのは、独裁者でなければ、どのような権力者であっても、許されることではない。それとも、北尾氏は自分が気づかないままに自分を何様扱いとする独裁者根性に染まってしまっているのだろうか。

  レビが報道していた記者会見での発言を聞いていると、キム・ジョンイルであるまいし、変えた自分の考えがさも法律であるかのような押し付けがましく強気な言い方である。「朕は国家なり」とか「我こそが法律である」とか、自己を国家や法律に見立てて絶対化した独裁者がかつて存在したが、民間の立場にあるとはいえ、本質的には極めて双子の関係にあるのではないかとさえ思えてしまう。

  人とかのアドバイスができる立場にいる身近な人間に自己の経験から編み出した教訓を個人的に忠告という形で伝えるというなら分かるが、テレビカメラを前にした記者会見で、その模様が各種報道機関によって全国的に報道される状況下で、堀江氏を名指しして、「土足で他人の家に上がりこむような」と言いつつ、買収行為をそれと同等と扱ったことは著しいまでの名誉毀損に当る不遜行為ではないだろうか。

  ねがね思っていたことだが、テレビでの評論家や学者・政治家、その他の見当違いの発言に腹立たしい思いをしたことが何度もある。そのような発言に有効に抗議する方法がない。確かアメリカのテレビでは視聴中にメールで意見を送って、それが画面に映し出される方法が既に実現していると聞いた覚えがあるが、番組終了後であっても、インターネットで逐一閲覧できて、各発言を確かめた上、メールで賛否を寄せる。それをまとめて載せるページを用意するといった、テレビとインターネットとの双方向性化ができれば、賛否の意見表明が可能となるし、著名人の無責任な発言への歯止めともなる。 勿論のこと玉石の選別が必要になるだろうが、評論や自己主張を商売にしている人間の発言こそ、玉石の選別が求められなければならないだろう。  

敵対的買収は悪なのか

 北尾氏の新聞に述べた言葉である。堀江氏への批判はとどまるところを知らない。

 「フジサンケイグループに対する、相手の立場を無視するような敵対的買収や、資本市場を投機の場にしかねないような大規模な株式分割など、良識や倫理観がない。公共財として守らないといけない資本市場の清冽(せいれつ)な地下水を平気で次々と汚していくやり方は、許せない。株式公開して一人前の企業として 資金調達の道も開けるなら、後進のためにも模範となってほしい。もうければいいということではだめだ」

 業買収は目的が様々に用意された機会の一つとしてある取引き形態であろう。経営の多角化の機会とする場合もあれば、買収してから、分轄して売って、利益を上げる機会として利用される場合もある。自己の経営理念を買収した企業に反映して、理念の実現性を試す機会とする場合もある。その最短距離を狙うのが、場合によって選択される敵対的買収であろう。

  対的買収であるからには、「相手の立場を無視する」こともある。「無視」したからといって、そのことをすべてとして結果が決まるわけではない。一切の責任は敵対的買収側にある。結果を見ないうちに、「良識や倫理観がない」などと言う資格が誰にあるというのだろうか。

  論 、敵対的買収後の経営に失敗した場合は、被買収企業の従業員の生活にかかってくるが、従業員の生活を損なうすべての原因が 敵対的買収関連でのみ生じるわけではない。買収されなかった企業がこれまで経営が順調に推移してきたにも関わらず、見通しの悪さから、あるいは交代経営者の無能等が原因して収益悪化に陥り、従業員がリストラ等の「相手の立場を無視する」仕打ちを受けることもある。敵対的買収に関係のない地平で、立ちゆかなくなった日本的経営の温室性が原因して、これまで日本の企業の従業員がリストラを含めて、どれほどに「相手の立場を無視する」仕打ちを受けてきただろうか。

  争社会に生きている以上、「相手の立場」に重大に関わる異変は敵対的買収だけを原因とするわけではないということである。ときには人間営為とは無関係の、地震といった天変地異によってももたらされる。現在の環境を当たり前のこととしない覚悟をこそ求められるのではないだろうか。

「資本市場」は言う程に美しい世界なのか  

公共財として守らないといけない資本市場の清冽な地下水を平気で次々と汚していくやり方は、許せない」と言うことだが、「資本市場」にしたって、人間社会の内側にあり、生存競争の支配を受けて、当然、勝ち負けがる。

  いや、最も過酷な生存競争が存在する社会 の一つではないだろうか。

  ち負けがルールに則って決定するよう、証券法が存在する。 一般的には正当化された勝ち負けではあるが、勝ち負けは勝ち負けである。

  ち負けを考えた場合、「資本市場」「公共財」として存在していたとしても、「清冽な地下水」と喩えることは、綺麗事に過ぎはしないだろうか。勝ち組にはそう喩えることができたとしても、負け組みには縁のない言葉でしかないからだ。

  してや資本市場の勝ち負けの煽りを食って、自分はただ一生懸命働いているだけだったのに、生活の基盤を奪われる人間にしたら、資本社会の宿命だとしても、「清冽な地下水」の世界とは受取れないだろう。決して美しいばかりの世界ではないはずなのに、さも美しい世界であるかのように言う胡散臭さがある。

  取引の世界では自分がさも人格者であるかのような態度で、堀江氏を悪しざまな声高さで批判する一方、ライ ブドアとフジテレビの話し合いの状況によっては、「フジテレビ株を五年の契約期間を繰り上げて返却する」用意があるようなことを言っている。

 高な批判をムチとすると、「五年の契約期間を繰り上げて」「返却」は、アメに当る。

  わば、ムチをビシツ、ビシツと音立てて空打ちしながら、その一方でアメをちらつかせている。この場合のムチはアメの方向に追い立てる役目を担わせたものと解釈 しなければならない。

 アメが欲しかったなら、和解しろ。そしたらムチを回避することができるというサインなのだろう。

  れがフジテレビ側に対する援護射撃だとしたら、北尾氏自身が(フジテレビ側にしても)望んでいる方向に持っていきたい意図があるからだろう。和解が成り立たず、意図に反した場合の望まない 事態とは何を指すのだろうか。援護射撃が不発に終わった場合である。

  月に開催されるニッポン放送の株主総会で、ライブドア側は、SBIとニッポン放送との間に結んだ5年を期限とした貸し株契約の内容を知ることができるという。契約条件に、知られたら自分の立場が不利になる、一般的な正当性から外れた何か不都合な条文が含まれているのだろうか。

  まれていたとしたら、「公共財として守らないといけない資本市場の清冽な地下水を平気で次々と汚していくやり方は許せない」とした堀江氏への批判が、逆に自分は決してしないと宣言したことになる北尾氏の人格性を危うくして、何様の仮面を剥がすことになるかもしれない。

  の下から現れるのは、当然偽善者の顔ということになるだろう。