「市民ひとりひとり」
教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
第54弾政治家・官僚たちの乞食行為2
(『政治家・官僚たちの事件簿』を改名)
2002.7.15(月曜日) アップロード
<政治家・官僚たちの乞食行為2>を準備している間にも、日本の外交政策を自己の影響力拡大と政治資金獲得に悪用した鈴木宗男自民党議員、政策秘書の名義貸し問題で議員辞職した山本譲司元民主党議員と辻元清美社民党議員、収賄容疑で逮捕された井上元参議院議長や徳島県知事etc.etc.――政治家・官僚の乞食行為が跡を絶たない。その種の乞食行為は、ドラキュラの如く永遠の命を獲得しているかのようで、感心さえさせられる。
自民党のドン・野中の言葉。「日本の官僚は自律していない」
なら、日本の政治家は自律していると思っているのだろうか。人間は誰しも自分自身のことは気づかないという欠点を抱えがちである。日本の政治家が自律していたなら、建設的な相互刺激が働いて、自ずと官僚も自律の方向に進むものである。逆もまた真なり。官僚が自律していたなら、政治家も自律せざるを得ない暗黙の強制を受けるものである。相互性から生じている、それぞれの非自律性なのである。
ドンと称される存在自体が、非自律の証明。ドンは自律の力学とは正反対の支配・被支配の人間関係に縛られた子分という存在を必要不可欠とし、両者の依存関係を力の源泉として初めて成り立ち得る。ドンとか派閥とかが存在する限り、日本の政治家の非自律性の証明となり続ける。
石原慎太郎が言っているように、日本の社会で多発している悪質な中国人犯罪を民族的DNAから出た行為だとするのが正しいとすると、日本の政治家・官僚、あるいは企業幹部等の乞食行為は日本人の民族的DNAから出ている卑しい犯罪だとしなければならない。となると、中国人と同様に、日本人も救いがたい民族に位置づけなければならなくなる。最低なる民族だと。
中国人のピッキング強盗・貴金属店襲撃・高級自動車盗などの犯罪と日本人の政治家・官僚・企業幹部の乞食行為と比較して、果たしてどちらに救いがたさの軍配を上げなければならないだろうか。中国人の犯罪はアジア人種や黒人種を日本人が日本の社会にスムーズに受入れない人種的排他性が影響しているだろうし、日本の政治家・官僚、あるいは企業幹部等の乞食行為は、個人として行動していない非自律性と関係しているはずである。いわば民族を素因としているのではなく、民族を超えた人間という生きものに普遍的なものとして犯罪は存在するゆえに、あくまでも個人性に関わる、その範囲内の問題であろう。今回は日本の警察の犯罪・不祥事を扱ってみる。
【犯罪不祥事】・【犯罪不祥事】・【犯罪不祥事】
【犯罪不祥事@】警視庁神奈川県警
★「釈明一転・二転・・・三転/神奈川県警不祥事」
(1999.9.6.「朝日」朝刊)
内容は、「神奈川県警相模原南署の巡査長が派遣先の多摩署の自転車盗捜査本部で押収品のネガフィルムを無許可で持出」し、「ネガに写っていた女子大生と東京都内で接触、ネガの買い取りや交際を要求。ネガを焼却」した職務違反行為を処罰して「県警が巡査長を懲戒免職処分し、警察庁に報告」したにも関わらず、県警幹部は、「元巡査長の退職は自己都合。持ち出したのはメモ帳」で、「返却した」と「虚偽の発表を繰返した」ことと、神奈川県警「厚木集団警ら隊の分隊長」その他が「千葉県の宿舎で新隊員の下着を下げ、体毛にライターで火をつけ」るふざけを超えた暴力行為や、同「宿舎で同じ」新隊員の「巡査のみけんに実弾5発入りの短銃を突きつけ」る威嚇行為、あるいは「静岡県の宿舎で新隊員の巡査に後ろ手錠をかける」拘束行為、さらに暴力を加えたりした「集団暴行が発覚」、県警幹部は「殴る蹴るの暴行があったことは認めたが、短銃を突きつけたり、後ろ手錠を掛けたりした事実を否定」。後にその「事実を認め」るという、可能な限り警察内部の醜態を矮小化し、警察組織(=県警上層部)の責任を回避する意志を露骨に曝した、一般警察官に優る醜態を批判するものとなっている。多分、地位に準じた醜態規模なのだろう。
新聞は深山健男神奈川県警本部長の記者会見での釈明を次のように紹介している。「元巡査長の行為を刑事事件として取扱わないことについては『女性は恐怖を覚えたが、実質的な被害はなかった。被害者から「内密に」と求められた。そういった総合判断だ』と話した。
『同じような脅迫行為があっても、犯人を逮捕しないということか』と聞かれると、『それは言い過ぎだ』と、顔を紅潮させた」
「女性」が「恐怖を覚えた」精神的苦痛は「実質的な被害」に当たらないのだろうか。法の番人であるはずなのに自ら法を犯した警察官を目の当たりに経験して、被害「女性」が否応もなしに植えつけられたかもしれない警察不信にしても、「実質的な被害」とは言えないだろうか。そうでないとする姿勢だからこそ、警察が今もって抱え込んでいる犯罪被害者の心の問題として残る精神的後遺症に対する疎さ・無神経さも実際のものとして説明可能となる。それはストーカー被害者・強姦被害者、あるいは家庭内暴力被害者に対して最も顕著に現れている疎さ・無神経さである。
さらに途絶えることなく連続して勃発する警察・警察官の犯罪不祥事に一般世間者がまたもかと呆れる警察不信は、警察組織にとって「実質的な被害」のはずだし、そのことがひいては外国人から見た日本人の精神的な質・精神の程度の評価に関わる「実質的な被害」とならないとも限らない。「被害者から『内密に』と求められ」たとしても、問題を起こした警察官に対する人事考課の欠陥、あるいは職務管理の欠陥が招いた犯罪不祥事なのは否定できない事実なのだから、警察不信の払拭はひとえに警察権力を個人的権力と勘違いした独善的・倒錯的権力発揮を戒めると同時に、それを野放しした直属上司、あるいは上層部の管理責任を問うことで解決点を見い出し、組織の建て直しを図る以外に道はないのだから、実態解明に厳しい明確な態度で臨むべきだったろう。
そしてそれをもって発展的組織防衛とすべきを、虚偽報告を繰返すことで矛盾と欠陥を隠す、臭いものに蓋の薄汚い誤魔化しでしかない組織防衛への衝動のみが常に目立つ。いわば警察の威信・誇りといった表面的体裁に拘った、徹底的にウミを出さない組織防衛は矛盾や欠陥の温存を図るだけではなく、上層部の責任を不問に付す自己保身を保障するだけのことで、そのような残されたウミが再度の不祥事・犯罪を約束する火種となったのは、現実にも起こった警察官の懲りない犯罪不祥事・職務怠慢の再発・再々発が証拠立てている。
そのことは次の記事が証明している。
【不祥事A】神奈川県警
★「神奈川県警 覚醒剤事件/『一切捜査するな』と指示」
(1999.11.6.「朝日」朝刊)
内容は、「神奈川県警外事課の元警部補、酒寄美久(さかより よしひさ)容疑者(37)が覚醒剤取締法違反(使用)で逮捕された事件で、警察官の不正を監視する県警監察官室が3年前に初めて酒寄容疑者の覚醒剤使用をつかんだ際、『捜査を一切するな』と外事課に指示していた」というものである。
そのイキサツは次の通りである。「酒寄元警部補は1996年12月12日午後10時ごろ、『警視庁の警官に尾行されている』と、幻覚症状が原因と見られる意味不明の電話を外事課にかけてきた。
翌13日、観察室の調べに対して、『尾行されていたので、覚醒剤をJR駅のベンチ付近に隠した』と供述。同日、外事課員らが供述通りの場所で、覚醒剤と見られる少量の白い粉を発見したが、監察官室幹部が『捨てろ』と指示し、廃棄されたという。
監察官室幹部はさらに、『一切捜査するな』と外事課に指示。元警部補の調査を一切取らなかったとされる。
監察官室は、薬物対策課が属している生活安全部の幹部から、『尿検査が陰性なら立件されない』との助言を受けて、13日から外事課の同僚警部補と酒寄元警部補をホテルに同宿させ、連日尿検査を実施させていた。17日に元警部補が諭旨免職となった際、外事課が薬物対策課に問題を引き継ごうとしたが、監察官室などからストップがかかったという。
この時点ではまだ尿検査で陽性反応が出続けていたものとみられる。
結局、尿検査とホテル泊は、反応が陰性に転ずる20日まで続けられ、この時点で始めて薬物対策課が捜査を開始している。
朝日新聞社の取材に対して、外事課の当時の幹部は『おかしいと思ったが、上司から言われて仕方なくやった』と話した」
要するに、警察官の規律に対する表面的な対処療法でしかない、いわば根を絶つ原因療法を怠った「3年前」のウヤムヤな誤魔化しの体質がそのまま尾を引いて、「相模原南署の巡査長」の女子大生に対する脅迫や、「厚木集団警ら隊の分隊長」その他の「新隊員」に対する暴行事件への再燃となったのだろう。
組織の評判を落とすことと責任の波及を恐れるその場しのぎの誤魔化し・ウヤムヤは、内部の犯罪不祥事・怠慢を内々に解決し、秘密裏に事を済ませなければならない関係上、不都合な情報は必要最小限の人間にしか洩らすわけにはいかなくなり、全体に対して規律の確立を厳格・綿密に要求することを行なわない誤魔化し・ウヤムヤと連動させなければならなくなる。逆に厳しい処分と上司が監督責任を進んで自らに引受ける厳しい態度――誤魔化しとウヤムヤの排除こそが、全体に対する否応もなしの実質的な戒めとなり、そのことが際限もない犯罪不祥事の繰返しを防止する予防策となるはずである。
なお、覚醒剤事件当時(1996年)の渡辺泉朗(もとお・56)県警本部長は報告を受けながら、警察の威信が失墜するのを恐れてもみ消しを図ったとして、他の4人の幹部と共に犯人隠避罪に問われ、彼自身は懲役1年6ヶ月執行猶予3年の判決を受けている。警察の威信の失墜というよりも、監督責任下にある者の不行跡が発覚することによって最高責任者として在任中の管理能力、あるいは職務能力が問われることを恐れた自己保身が深く関わった責任回避意識からの隠蔽だろう。
執行猶予が3年ついた懲役1年6ヶ月とは軽すぎる刑である。10年の実刑に問われてもいい国民に対する背信行為ではないだろうか。日本人にとって、責任とは自ら取るものではなく、取らされるものとなっているからこそ、最高職の自己保身に汲々とした責任遂行という逆説を犯すのであって、その手の逆説の犯しほど、滑稽なものはない。
ネガ持出しや警ら隊のいじめ・暴行不祥事の虚偽報告を事前に了承していた上で発表させていた深山健男神奈川県警本部長の虚偽報告(情報操作行為)も、同列の倒錯した責任遂行に入る。県警組織を単位とした犯罪であって、個人的に犯罪を犯した警察官以上に立場上の責任は重く、厳しく罰せられるべきであるが、現実は上に甘く、下に厳しい処方箋となっている。
次は警察官自身による調書改竄の犯罪行為である。
【不祥事B】埼玉県警上尾署
「<桶川刺殺事件>告訴示した調書改ざんの疑い」
(1999.4.4.MainichiINTERACTIVE)
埼玉県桶川市で昨年10月に刺殺された跡見学園女子大2年、猪野詩織さん(当時21歳)が同県警上尾署に告訴していた名誉棄損事件に絡み、捜査員が告訴の取り下げを要請したとされる問題で、猪野さんが告訴の意思を示した調書が改ざんされていた疑いの強いことが県警の調べで4日分かった。県警は、改ざんに関与したとみられる捜査員らから文書偽造容疑で事情を聴いている。県警は、監督する立場の幹部らを含め、週内にも処分に踏み切るとみられる。
猪野さんは、元交際相手(当時27歳)=名誉棄損容疑で指名手配中に遺体で発見=から嫌がらせを受けるようになり、昨年7月には自宅周辺に中傷文書をばらまかれたため、同月末に容疑者不詳のまま名誉棄損容疑で告訴した。
ところが、同9月末に同署巡査長が猪野さんの自宅を訪ね、母親に告訴を取り下げるように要請したとされる問題が先月、国会や県議会で取り上げられたため、県警は検証チームを作り、事実関係の調査に乗り出していた。その結果、捜査員らが猪野さんの告訴に関する調書を被害届と取れる内容の調書に書き換えていた可能性が高くなった。県警は、こうした調書の改ざんが告訴の取り下げ要請に関連しているとみている。
警察が告訴を受理した場合、検察に関係書類を送ることになっており、捜査員が名誉棄損事件の立件に消極的だったことが改ざんの動機になった可能性があるとみて、県警は調べを進めている。
県警は、刺殺事件直後の会見で、告訴取り下げ要請問題について『全くない』と全面的に否定していたが、先月の県議会などでは『(遺族側に)告訴の取り下げを求められたと誤解を与えかねない言動があった』と説明を変えた。これに対し、遺族側は会見などで『取り下げ要請はあった』と反発を強めていた」
関連記事を見てみよう。
★「<埼玉県警>桶川ストーカー事件/調書改ざんで3人送検 」
(1999.4.6.MainichiINTERACTIVE)
埼玉県桶川市で刺殺された跡見学園女子大2年、猪野詩織さん(当時21歳)が生前に県警上尾署に告訴した名誉棄損事件に絡み、同署員3人が調書を改ざんしていたことなどの監督責任を問い、国家公安委員会は6日午前、西村浩司本部長を1カ月の減給100分の10、横内泉刑事部長を同減給100分の5とする処分を決めた。県警も同日、署員3人を虚偽公文書作成・同行使容疑で浦和地検に書類送検するとともに、懲戒免職処分とした。さらに上司の渡部兼光・上尾署長(55)を2カ月の減給100分の10などとする幹部ら計7人の処分を発表した。
送検されたのは、元同署刑事2課長の片桐敏男警部(48)▽元同課第1係長の古田裕一警部補(54)▽元同課の本多剛巡査長(40)――の3人。
調べでは、本多元巡査長は昨年9月7日、昨年7月29日と8月3日に猪野さんの供述を元に作成した供述調書を、当時、同署で受理していた告訴を当初から受理していなかったことにするため、「告訴」を「届け出」に変え、さらに、「としか考えられません」との供述を「のだと思いました」などと書き変えるなどして、虚偽の供述調書を作成した疑い。また、片桐元刑事2課長ら3人は、昨年7月13日に猪野さん宅周辺に中傷ビラがまかれた事件で、実況検分を行った際、立会人となった猪野さんの母親にビラを廃棄させて、押収していなかったことをごまかすために、今年1月10日などに、本多元巡査長がビラ8枚を押収した後に廃棄処分にしたとする虚偽の調書や捜査報告書を作成するなどした疑い。
改ざんについては、告訴事件を受理した場合、県警本部に報告する義務と速やかに事件処理をする義務が生じるため、送検された片桐元刑事2課長が「こういう場合は、告訴でなく被害届けでいい」と本多元巡査長に指示したとされる。昨年9月に母親に対して、本多元巡査長が行った告訴の取り下げ要請は、つじつまを合わせるための工作だったとみられる。
警察上層部の微々たる「減給」処分に対する下層クラスの厳しい「懲戒免職処分」。上に甘く、下に厳しい「処分」=上の責任回避が生み出す下のアホらしくて、まともには仕事できないという心理形成が生み出す上に対する不信と軽蔑・反撥等こそが、下の規律に対する緊張感の欠如を常習化させる基本的原因となっているのではないだろうか。いわば、上の責任回避と下の規律に対する緊張感の欠如は相対的関係にあると言えないだろうか。
「改ざんについては、告訴事件を受理した場合、県警本部に報告する義務と速やかに事件処理をする義務」を回避するために行なったとしているが、勘繰るなら、女子大生にストーカー行為を働いた容疑者は警察の許認可管轄下にある風俗店経営者である。女の接待を受けたとか、季節季節にカネ目のものを受取ったとかの恩義、あるいは借りが「受理」を回避させた直接の原因という可能性も考えられる。
次の「ミンナ、ミンナ、ツナガッテイル」 は、HP「市民ひとりひとり」の中の一ページに、≪人権意識なき日本の政治家・日本の官僚≫と題して2000年4月12日にアップロードしたものだが、責任回避を素因とした組織上層部の人権意識の欠如を訴える内容のもので、キーワードが同じであるために、参考に再度掲示してみる。
ミンナ、ミンナ、ツナガッテイル
阪神大震災発生時点の日本国総理大臣村山富市クンののほほん振りとその政府
の鈍感な危機管理も、同じく自衛隊の出動遅れも、新潟県警の少女誘拐事件の
ときの接待マージャンと虚偽報告も、首相在任当時の小渕恵三クンのブッチホ
ンも、彼の入院隠し・政府の虚偽発表も、ストーカーの中傷ビラに対する埼玉
県警・上尾署の名誉毀損告訴調書改ざん・告訴取下げ要請も、ミンナ、ミンナ
、ツナガッテイル。
何によってつながっているかと言うと、そりゃあ、決まっているじゃないか。
人間が人間らしく生きて在(あ)る生存条件の整備・維持に向けた人権意識・
人権思想=人間の命というものへの想いの欠如という名のロープでツナガッテ
イル。
どういうふうにツナガッテイルか、これからじっくりと御披露に及ぼう。
阪神大震災のときは、みんな、みんなご存知のように政治家も官僚も、そりゃ
あ、ひどかった。村山富市クンは首相官邸でテレビが流す地震のニュース画面
から相当な地震だと受止めていたはずなのに、そこら辺に転がっているオッサ
ンみたいにただ驚くだけが精一杯だったらしく、具体的な災害の規模・被害状
況・人命への影響などの情報収集の指示も出さず、救援活動状況の詳細な報告
も求めず、緊急に閣議の招集も図らず、ただ、ただ画面に釘付け状態になって
いたその状況は、日本の政治家らしいと言えばらしいが、政治を痴呆症状にお
としれていた偉大なる歴史的瞬間だったとも言えるじゃないか。
もっとも口の悪い人間に言わせれば、日本の政治家が政治を痴呆症状におとし
いれていなかったことがあるかいということになるがね・・・・。
一国の総理大臣がそこら辺に転がっているオッサンであることは許されるはず
もないのに、そこら辺に転がっているオッサンであることを自らに許した、そ
の頭の中がどうなっていたのか、フツーの国民だったら、覗いてみたい衝動に
駆られるだろうね。
テレビに見入るあまり、自分が一国の総理大臣であることも、首相官邸にいる
ことも、その瞬間には忘れていたとしたら、政治家としての本能とか、嗅覚と
いったものが麻痺していたと言うよりも、もともとそんな本能・嗅覚などなか
ったから、できたことだろうな。
村山富市クンがテレビに見入って総理大臣としての役目を怠け者していた間に
、どれくらいの被災者が息を引き取っていったか、緊急に指示・展開すべき救
援活動の遅滞によって、その後の人命喪失にどれくらいつながっていったか、
計り知れないものがあるだろうじゃないか。全死者数のうち、どのくらいの死
者がその影響によると、統計学的に推計してみる統計学者はいないものだろう
かね。
言ってみりゃあ、村山富市クンの阪神大震災テレビ観戦は、まあ、朝っぱらか
らビールのグラスを片手にということはまずなかったろうが、殺人幇助に当た
るとは思わないかね。村山富市クンを殺人幇助罪で訴える者が誰もいなかった
のは村山富市クンにとっては幸せなことだったろうと思うよ。一国の総理大臣
には無自覚は許されないのだから、無自覚なものだったと言う弁解は成り立つ
はずもないが、愚かしくも無自覚なまま犯した内閣機能不全、あるいは政治機
能不全に対する責任も何一つ取らず、結果として政治家としての経歴にキズを
つけることなく、惜しまれて御引退に及ばれた。それを悪運強くと形容したら
、失礼に当たるだろうか。
倒壊した建物の下敷きとなって、喉の渇きと飢えと肉体的苦痛で、徐々に命を
失っていく者、地獄の苦しみを味わいながら、生きたまま炎に焼かれていく者
。どちらも最後まで救出の瞬間を頭に思い描き、祈りながら、それも虚しく、
絶望を道連れに息絶えていく。――人間の数知れないそのような光景を一瞬た
りとも想像しただろうか。想像し得たなら、居ても立ってもいられない気持に
駆られて、矢継ぎ早に的確な指示を与えただろう。
村山富市クンには国政に携わる政治家なら特に誰もが自覚していなければなら
ない人間が人間らしく生きて在(あ)る生存条件の整備・維持に向けた人権意
識・人権思想=人間の命というものへの想いが、所詮、意識として根づいてい
なかったのだろう。政治家としての体裁を整える必要に迫られたときは、国民
の生命・財産を口にはするだろうが。
口先だけで政治家を成り立たせているゴマンといる政治家の一人に過ぎなかっ
たということだったのさ。村山富市クンが総理大臣の椅子を棚からボタモチし
たての頃、「ありゃあ、どこか山奥の小さな村の村長さんにこそふさわしい政
治家だ」と頭の禿げた町のオッサンが言っていたが、そのオッサンの方が人を
見通す目があったというものじゃあないか。
もっとも、山奥の小さな村の村長さんに言わせれば、「奴と同列に扱うような
ことはしないでくれ」と、暗に俺の方が上だと言わんばかりにお咎めを食うこ
とになるかもしれない。
阪神大震災では、兵庫県知事と自衛隊も、村山富市クンに劣らず、ひどいもん
だったね。地震発生が1月17日5時46分、その4時間後の10時前後に県知事の派
遣要請が自衛隊に出されたと言うのだから、その4時間の間に、救出可能な人
間まで何人ぐらい殺してしまったことか、県知事以下、県の役人たちは考えた
ことも、反省したこともなかったのではないか。連中にしたって、何一つ責任
を取らなかったのだから、それがその証拠さ。
自衛隊も自衛隊だぁね。大規模災害の場合の派遣の特例として防衛庁長官の命
令により派遣可能としていながら、兵庫県知事からの要請にこだわり、多分イ
ライラしながらだろうが待ち続けて4時間も無駄にした、その杓子定規・規則
尽くめは日本の官僚だからできる神業とも言うべきものだろうな。偵察で飛ば
したヘリコプターから刻々と被害の甚大さの報告を受取っていながら、それを
建設的な生きた情報とすることができなかった無能と併せて、それら素晴らし
い才能に対する国民栄誉賞を村山富市クンと兵庫県知事、さらに自衛隊の上級
幹部一同に与えるべきだったろうよ。
自衛隊の杓子定規・規則尽くめの要請待ちが兵庫県知事の4時間遅れの派遣要
請による人命加害(人命被害ではなく、明らかに加害である)を側面援助した
というわけなのだ。官官の癒着は飲み食い・カネだけではなく、人命軽視・人
権無視でも同一歩調を取っていたというわけなのだ。
連中の頭にあったのは規則・法律・前例と自己保身のみで、被害住民の被害に
よって崩壊寸前となった人間が人間らしく生きて在(あ)る生存条件の回復に
向けた人権意識=人間の命というものへの想いなど、さらさら頭にのぼらせる
こともなかったろう。
連中の自己保身とは規則・法律・前例の陰に自分の身を置き、そこから一歩も
出ないことによってそれらに自分を守らせる構造のもので、責任回避への衝動
を常に表裏一体としている。
外国からの救援チームに対して、「当初『日本の医師免許を持っていない』こ
とを理由に医師活動を制限」(「朝日」95.1/25)したことによって、あるい
はスイス隊の救助犬を検疫を受けていないからと一週間程度上陸を許可しなか
ったことによって何人かは人命救助できた可能性の抹殺も、前例や規則に囚わ
れただけの問題ではなく、人権に対する=人間の命に対する重大な犯罪に当た
る問題と把えるべきだろうじゃないか。
前例と言えば、阪神大震災後の通常国会で述べた天皇の地震に関する言及が、
一部閣僚から、「踏込んだ発言」を求められながら、伊勢湾台風のときの言葉
を前例に、その兼ね合いから、「今次の地震による被害はきわめて甚大であり
、その速やかな救済と復興は現下の急務であります」と決定した経緯には、人
間が人間らしく生きて在(あ)る生存条件の整備・維持に向けた人権意識・人
権思想=人間の命というものへの想いが影形もなく、表に現れなくても、政治
家・官僚たちの職業病的な責任回避と自己保身の習性をベースとした、そこか
らの意思表示以外の何ものでもないと思わないかね。
大体が、天皇の「言葉」なるものが、天皇自身の想いが作り出したものではな
く、元々人権意識・人権思想=人間の命というものへの想いを欠如させた政治
家・官僚たる内閣と宮内庁が合成し、閣議に諮ったものを天皇が自らの「言葉
」として国民に伝える、国民をバカにした、あるいは国民を欺くもので、そう
いった構造上、「言葉」自体に魂を宿しているはずもなく、月並みで、手応え
も刺激もないものとなる宿命を最初から抱えているんだな、これ。
ギリシア神話に出てくる、自分の言葉を持たず、相手の言葉をなぞることしか
できないニンフのエコー(こだま)は美貌の青年ナルシスに恋焦がれるが、ナ
ルシスの問いかけに、その言葉をそっくりなぞって言い返すばかりで、軽蔑さ
れ、絶望のあまり姿形を失って他人の言葉をなぞる声だけとなってしまうが、
人間の命というものへの想い=人権意識・人権思想の欠けた欠陥人間はどう逆
立ちしたって、自分の言葉を、政治家なら、自分独自の政治思想・政策を持つ
ことはないだろうよ。その逆もまた真なりで、自分の言葉を満足に形成するこ
とのできない人間・政治家・官僚は、人間の命というものへの想い=人権意識
・人権思想を自分のものとすることは不可能だろう。
自分の言葉を紡(つむ)ぎ出すことのできない、今まであった言葉・他人の言
葉をなぞるだけの政治家・官僚が如何に多いことか、歴史的に日本の伝統とさ
えなっている。だからこそ、顔のない日本人とか、カネは出すが、政策のない
日本の政治家と言うアリガターイ値札を首からぶら下げられることになるのだ
ろうさ。結構なことじゃないか。
海外の地震報道は、予想した米ロサンゼルス地震のときのような略奪や争いは
見られず、食糧や水は先を争うこともなく、長い行列をつくっておとなしく順
番を待って求める平静さを常に保った被災市民の沈着な態度・秩序だった行動
を驚きや称賛の言葉で伝えた。
だが、そのような「沈着な態度・秩序だった行動」が政府の危機管理対応のも
たつき・自衛隊の杓子定規な姿勢による出動の遅れによって、救える人命をど
れ程失ったか、それら一連の人間の命に対する重大な非人権的犯罪に対して抗
議の声を何一つ上げず、抗議の行動を何一つ取らない「沈着さ・秩序正しさ」
にもつながっていることを考えると、驚きや称賛をありがたがってばかりはい
られないだろうとは思わないかね。
政府・自衛隊の対応を、非人権的犯罪のレベルで把えてのことではなかったが
、批判の一人相撲を取ったのはマスコミのみであった。まさしくご苦労さんで
ある。
戦争中、「世の中は星に碇(いかり)に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」(
『昭和史』金原左門・竹前栄治編・有斐閣)と、自嘲なのか、批判なのか、戯
れ言(ざれごと)が流行(はや)ったと言う。「星と碇は陸海軍の軍人を、顔
は隣組長、町内会・部落会の役員、配給の末端機構を担う商人や地域の小商人
・小地主・中小企業主・貸地貸家主・医者・官吏などをさす。彼らにより、戦
争遂行の奉仕者として役得行為を半ば公然とおこなう不正が横行した。『一部
の軍人の家庭をはじめ特定の人々は多くの物資を確保し、一般人と異なった生
活を送ることも行われた』(矢本昭雄『生活経済史』大正昭和編)という有り
様」(同『昭和史』)に対して、一般住民は抗議の声を何一つ上げず、抗議の
行動を何一つ取らない「沈着な態度・秩序だった行動」でおとなしく「馬鹿」
を見続けたのである。
阪神大震災で死んだ人間、家や財産を失った人間はまったくもって「馬鹿」を
見ただけで片づけられてしまったのである。
政府・自衛隊は自分たちのお粗末な危機管理を弁解でかわし、誰一人として責
任を取らなかったのだから、それは被災市民の終始一貫した「沈着な態度・秩
序だった行動」に助けられてのことだったのだろう。そうは思わないかね。
次は警察官僚の限りなくゼロに近い人権意識・人権思想の欠如を情け容赦なく
俎板(まないた)に載せてみようじゃないか。9歳の少女が行方不明となって
9年2ヶ月振りに保護されたことの報告を受けた新潟県警本部長は、特別監査
に訪れた後の監査点数を甘くしてもらう目的の慰労会だか、接待だか知らない
が、温泉ホテルでの監査担当の関東管区警察局長との飲酒とマージャンの継続
を優先させて、報告を報告のままで終わらせた、その神経の繊細さは、さすが
県警本部長、さすがキャリア組と称賛に値する。このことは決して不祥事と片
づけていいものではなく、人間の人間に対する人権犯罪である。
9歳の少女が奥深い山中でハンターかハイカーによって白骨状態で発見された
と言うならまだしも、第三者に支えてもらわなければ満足に歩けない生存状態
で発見されたということは(実際の発見者たる保健所職員と医者から受けた報
告をそのまま伝達されて知っていたはずで、伝達を受けてもいない、自らも訊
ねはしなかったということなら、怠慢では済まされない救いがたいまでの人権
意識の欠如を示すもので、それだけでも警察官としての資格と言うよりも、人
間としての資格を失うだろう)、9年2ヶ月も警察の役目と責任を果たさなか
ったばかりか、果たさなかったことによって、同じ期間、少女の人間が人間ら
しく生きて在(あ)るべき人間生命の尊厳と人権の一切を見殺しにし、その状
態をさらに今後とも尾を引かせる人権と人間生命の尊厳に対する罪を結果的に
犯したということでもあり、新潟県警本部長にそのことへの想いが毛ほどもあ
ったなら、何を置いても捜索本部に駆けつけただろし、さも警察自身が発見し
たかのような虚偽の記者会見を思いつくことも、認めることもなかったろう。
そうはせずに虚偽の記者会見を認め、酒とマージャンを続けたのは、さすが日
本の警察である。
連中の頭にあったのは警察のメンツと責任回避と自己保身のみである。少女の
人間が人間らしく生きて在(あ)るべき人間生命の尊厳と人権の回復に向けた
警察の無能力・責任の不履行は少女の在(あ)るべき人間らしさを間接的に破
壊したのと同じであり、間接的なものであっても、誘拐犯に優るとも劣らない
悪質な精神的殺人罪として、誘拐犯と同等に裁くべきだろうじゃないか。
ところが、国家公安委員会と警察庁は新潟県警本部長を1ヶ月の懲戒処分とし
、おあとは新潟県警本部長と関東管区警察局長の引責辞任で一件落着の幕を引
いてしまった。
国家公安委員の東大出だとか言う六十格好の男が二人の辞任を、「自分から辞
めると言うのは腹を切るということだ。並みの人間にはできないことであり、
サムライである、武士道だ」といった趣旨のことをテレビで放言していたが、
二人がサムライで、武士道に則った人間の中の人間だと言うなら、少女の無残
にも破壊された人間らしくあるべき姿への無神経な鈍感さも、酒とマージャン
を優先させた恥知らずな図々しさも、警察のメンツと責任回避と自己保身への
薄汚い執着もサムライ精神の表れ、武士道的感性の表れとしなければならなく
なる。
東大と言うところは人間をバカに教育するところなのだろうか。もともとバカ
が入学するところなのだろうか、誰かこの疑問を解いてくれる人間はいないだ
ろうか。
新潟県警本部長と関東管区警察局長のマージャン発覚に関して、小渕恵三クン
の、「俗っぽく言えば運が悪かったと言うことで済まそうとするだろうが、運
が悪かったでは過ごせない問題だ」とか、「天網恢恢疎にして洩らさず」とい
った発言は、二人のマージャン行為の結果性のみを問題とするもので、それは
警察の無能が原因した少女の9年2ヶ月という長い年月と、さらにこれからも
長い期間置かれるであろう人間らしさを損なわされた結果性への視線は一切な
しで、これも政治家の人権意識・人権思想の欠如を如実に物語るものであろう
よ。
小渕恵三クンと言えば、自分で命名したかの有名なブッチホンである。手帳に
は電話番号がびっしりと書き込まれていて、政治家・財界人だけではなく、芸
能界の有名人にまで電話を掛けまくっていたという。気配りと情報収集が目的
だそうだが、一国の総理大臣に必要とされる肝心要の政治に関して無能だから
、その埋め合わせに電話を自己活躍の方法としていただけのことで、ブッチホ
ンなどと称して、それで自己満足していたのだから、政治家としての達成度・
成熟度は限りなく低く、村山富市クンと同様、総理大臣と言うよりも、「どこ
か山奥の小さな村の村長さんにこそふさわしい政治家」だったのだろう。
現在の総理大臣に必要とされているのは、長引く不景気の影響で働き盛りの年
齢でリストラに会い、生活の縮小を迫られたり、ローン途中の家を手放したり
、父親の失業による家計の苦しさから大学進学を断念したり、あるいは将来に
不安を抱えたりといった、政治家にもその責任と罪はあるはずの、人間が人間
らしく生きて在(あ)る生存条件を国民から奪い、損なっている現在の社会情
況の一刻も早い解決であり、そこにこそ政治家としての想像力・政治思想のす
べてを傾けるべきで、有名人相手の電話に時間とエネルギーを割いている暇な
どないはずである。
それを首相官邸から、「もしもし小渕です、恵三です」と予告もなく電話して
、最初はイタズラだと思わせて、本物だと分からせたところで相手を恐縮させ
、小渕恵三クン御本人はしてやったりと御満悦する。何のことはない、気配り
と情報収集どころか、それは態のいい口実で、ビックリ箱を御本人自らが演じ
る遊びに過ぎないだけのことじゃないか。その手のものは、国民に対する人権
意識・人権思想、人間生命への尊厳意識が欠如しているからこそできる芸当だ
ろうじゃないか。
小渕恵三クンの今回の入院隠し・政府の虚偽発表も、政権維持のみを視野に入
れたケチ臭い自己保身からのもので、国の政治が国民の代表たる国会議員によっ
て行われるものである以上、政治は常に国民に対して説明可能範囲のものでなけれ
ばならない。いわば、政治は国民に正直でなければならない。政治家はこれを不変
の真理とする責任を負う。それを逸脱した説明不可能な馴れ合い・秘密主義・虚
偽行為は国民の人権に対する重大な犯罪の一つに入れなければならないだろう
。その手の犯罪を一つ犯しただけでも、政権の座についている資格はないね。
小渕恵三クンに関する巷で聞いたブラックユーモアを紹介しよう。
「小渕首相をこのまま死なせてしまったんじゃ、残念でならない。一刻も早い
病気からの回復を願っている。あんたはもうお呼びではないよと知らしめるた
めにね。最初からお呼びではない政治家だったけど」
2000.4/10の衆院本会議での、かの偉大なる自民党野中広務幹事長の発言。
「小渕前首相が粉骨砕身の努力を重ね、身も心もボロボロになったことは、誠
に残念至極だ。先ほど鳩山氏からお見舞いの言葉を頂いたが、小渕前首相の心
と身をボロボロにした原因のいくつかが鳩山氏の発言にあったことを思うと、
あまりにも白々しい発言だ」(4/11「朝日」朝刊)
その発言に対する鳩山氏の抗議に対して、偉大なる野中幹事長は、「(NTT
ドコモ株疑惑に関して)小渕前首相は唇をかみしめ、涙を浮かべて、党首討論
のたびに鳩山氏は私を犯人扱いにしたと言っていた。私はその悔しさを知る人
間として、言葉を返しておきたかった」(同「朝日」)と感情丸出しの弁明を
御披露している。
小渕クンがNTTドコモ株疑惑で自分は間違ったことはしていない、自分はど
こまでも正しいということなら、あくまでも毅然と構えていればいいことじゃ
ないかね、野中クン。濡れ衣を着せられただけで病気になってしまうようなヤ
ワな精神の持主なら、最初から政治家になどならなければよかっただけの話で
済ませようよ、野中クン。例え政治家になったとしても、陣笠を自分の頂点と
分を弁えるべきだったと思うよ、野中クン。どっちへ転んだとしても、所詮小
渕クンは「最初からお呼びではない政治家だった」ということじゃないか。そ
の「お呼びではない政治家」が日本という国では総理大臣になれる逆説は見事
だけど。
埼玉県警・上尾署の名誉毀損告訴調書改ざん・告訴取下げ要請も単なる怠慢・
責任回避で済ますべきではないだろうな。ストーカー行為に会い、中傷ビラを
まかれ、人間が人間らしく生きて在る生存条件を精神的にも物理的にも損なわ
れていたことを無視・疎外する人権に対する警察の犯罪であり、人間生命の尊
厳に対する重大な罪として扱うべきだろうとは思わないかね。
どのような利益があって、調書改ざん・取下げ要請を行ったのだろう。単に仕
事をふやしたくない怠慢からの仕業なのか、それとも相手は風俗店経営者であ
る。警察官が利用していた店なのか、それとも風俗店関係者との情報交換を口
実の会合で飲ませてもらったり、食べさせてもらっていたりの関係上、お目こ
ぼしを必要としたのか、警察のこれまでの突つけばいくらでも出てくる怠慢行
為・責任回避行為・虚偽報告を考えると、いくら勘繰っても、勘繰り足りない
と思うよ。
いずれにしても、ミンナ、ミンナ、ツナガッテイル。これ程見事にミンナ、ミ
ンナ、ツナガッテイルのも、素晴らしい話と言うものだね。人権意識なき日本
の政治家・日本の官僚だからこそ、スハルト時代のインドネシアにインドネシ
ア国民の人権を無視した、スハルト一族のネポティズム(縁故主義)をのさば
らせる経済援助が可能となったのだろうさ。
他国民の人権を無視する政治家が、自国民の人権を無視しないはずがない。た
だ巧妙に隠しているだけの話で、無能な危機管理は人の命への想いの欠如が原
因なのを忘れてはならない。
<ミンナ、ミンナ、ツナガッテイル>にも取上げているが、新潟県警の少女監禁事件に対する無能・無為無策・薄汚い責任回避は記録し、記憶にとどめて置かなければならない最たる警察不祥事の一つだろう。特に第一発見者を警察官だとしたハレンチな虚偽行為は特筆に価する。
【犯罪不祥事C】新潟県警
★「『うそ発表』と警察庁が報告/新潟女性監禁事件」
(2000.2.24.「朝日」)
「新潟県柏崎市での女性監禁事件をめぐって警察庁は、24日開かれた国家公安委員会(委員長保利耕輔自治相)に、同県警の初動捜査ミスや女性を保護した後の報道陣への虚偽の発表問題などの調査結果を報告した。これを踏まえ、同公安と警察庁は、小林浩二本部長ら県警幹部の処分について検討に入る。
報告によると、被害の女性が保護された1月28日の記者会見で県警は、実際には容疑者の自宅で保健所職員らが女性を発見したにもかかわらず、『病院で警察官が発見した』などとうその発表をしていた。発表は小林本部長が了承していたという。
最初の発見者に迷惑がかかることを配慮したほか、保健所に報道陣から取材されることで、被害者やその家族の精神的苦痛を防ごうとしたという」
薄汚いまでの巧妙な弁解に過ぎない。「被害者やその家族の精神的苦痛を防ごうとしたという」なら、発見者の保健所職員の名前を本人の了承を得て伏せ、保健所に対しても、報道陣が殺到しても、すべて警察に話してあるから、警察に聞いてくれと応対するよう申し入れてから発表したなら、意図した目的は達成されたはずである。「精神的苦痛」を持ち出したのは、体裁を整えるための単なる利用でしかないだろう。
★「警察庁が県警聴取/捜査ミス・虚偽発表 リスト漏れなど点検」
(2000.2.21.「朝日」朝刊) 「新潟県柏崎市での女性監禁事件をめぐり、同県警が初動捜査でミスしたり、女性(19)を保護した後の記者会見で報道陣に虚偽の発表をしたりした問題で、警察庁は20日、捜査状況などを調査する特別調査チームを派遣し、小林幸二県警本部長から事情を聴くと共に、捜査記録などを点検した。
――(中略)――
県警によると、調査チームは@1990年の事件発生当時の捜査状況と逮捕監禁致傷などの容疑で逮捕された佐藤宣行容疑者(37)のデータが前歴者リストに登録されなかった経緯A先月28日に女性を発見・保護した保健所から出動要請を受けた際の、柏崎署の対応B女性が発見された日の報道発表内容C96年に佐藤容疑者の母親が同署に相談した内容――などについて詳しく事情を聴いた。
――(中略)――
「発見者秘匿に『そうだな』」
トップ自らが了承して虚偽の内容を発表していた新潟県警。先月28日、同県柏崎市の民家で監禁されていた女性が保護された際、第一発見者は県の柏崎保健所職員だったのに、県警は当日の記者会見で柏崎署員だったと偽って発表した。県から事実関係が明らかにされ、3週間後に県警は虚偽発表を認める事態に追い込まれた。
県警幹部の説明を総合すると、経緯は次の通りだった。
先月28日、午後9時頃、出張先の小林幸二本部長のもとに百田春夫刑事部長から電話が入った。『第一発見者を公表すると、取材や問い合わせが保健所に殺到して多大な迷惑をかけかねない。これを伏せたい』と提案し、小林本部長は『そうだな』と応じた。報道陣に配る発表文と記者会見での想定問答もファクスで送られていた。
約30分後、三条署で行なわれた会見で、吉沢恒夫捜査一課長は『柏崎市内の病院でAさん(佐藤宣行容疑者)が暴れているとの通報があった。一緒にいたのが(行方不明になっていた)女性だったので保護した』と説明した。
実際には、保健所職員らが容疑者宅にいた女性を発見した。柏崎署に出動を求めたが断られ、女性の身元が分かってから署員が病院に駆け付けていた。
捜査幹部は『保健所の職員とわかると取材が殺到し、監禁時の悲惨な状況が外に漏れてしまう。被害者や家族の心情を考えると、絶対に出してはいけないと思った。だから、第一発見者は絶対に隠さなければならないと思った』と説明する。
今月16日、地元紙が『保健所からの出動要請を断った経緯を隠そうと、意図的に虚偽の記者会見をした』と報じた。小林本部長が百田刑事部長に確認すると、『(発表内容は)事実とは違っている』と答えた。翌日、百田刑事部長が会見で、虚偽発表だったことを認めた。
小林本部長は18日、朝日新聞の取材に対して『出動要請を隠そうとしたとは考えられない。第一発見者の名前を伏せたことで、つじつまを合わせるため、ああいう言い方になったと思う』と話した」
第一発見者が誰であろうと、事実は明らかにされなければならない。報道陣が殺到することと、事実が明らかにされることとは別問題である。被害者が事実を隠したいと思ったとしても、事件が知っておくべき社会の諸相の一つであり、人間存在の一つの姿を表すものであるならば、すべての人間が自らも人間存在の内にあり、その何たるかを学ぶ必要上、それらは記憶されるべき情報として提供されなければならない。9歳の少女を誘拐・拉致して、その人格・人間性を否定・抹殺した状態で、9年2ヶ月も支配・所有していた人間行為もさることながら、それを可能とした要因が警察の捜査上の怠慢・ミスだという事実も、それを隠して責任を回避しようとした薄汚い体面維持も、オマケや付帯事項としてではなく、人間存在の否定しがたい主たるありようの一つとして、厳しくその事実は明らかにされ、記憶されるべきだろう。
「佐藤宣行容疑者(37)のデータが前歴者リストに登録されなかった経緯」とは、2000.2.11.の「朝日」夕刊で見ると、
「女性監禁に前年、別件で逮捕/前歴者リストに入れず/新潟県警ミス」
「新潟県三条市の女性(19)が9年間にわたって同県柏崎市の無職男性(37)宅に監禁されていた事件で、新潟県警の小林幸二本部長は10日の記者会見で、女性が行方不明になる1年5ヶ月前に男性を別の事件で逮捕していたにもかかわらず、作成を義務づけられている前歴者リストに入れていなかったことを明らかにした。小林本部長は『登録漏れがあったのは事実で、捜査の遅れの一因になった』として、捜査にミスがあったことを公式に認めた。これまでの捜査を検証した上で、警察庁に報告する。
県警によると、国家公安委員会規則により、各警察署は殺人や強盗、誘拐などの8種類の犯罪に付いて、事件を処理した際に被疑者名や犯行の手口などを1件ごとに『犯罪手口資料』にまとめて、県警本部に送るよう義務づけられている。これを県警本部の捜査一課がコンピューターの前歴者リストに入力し、反復継続する恐れのある犯罪の捜査に役立てている。
男性は1989年6月、柏崎市内の小学校付近で、下校中の女児を連れ去ろうとして柏崎署に逮捕され、有罪判決を受けた。この事件も犯罪手口資料を作り、前歴者リストに登録すべき事件だったが、県警のリストには先月28日に女性が男性宅で発見、保護されるまで、登録されていなかった。女性の連れ去り事件は、男性の執行猶予中の90年10月に起きた。(中略)
小林本部長は『全力で捜査したが、結果として男性を浮上させることができず、長期間にわたり少女を救出することができなかったことのついて重く受け止めている』と述べ、女性や家族への対応について、『適切な時期に警察としての立場を示したい』として、謝罪を検討していることを明らかにした」
「謝罪」で追いつくと思っているのだろうか。救えるものを救えなかった警察の職務怠慢・責任放棄なのである。真に断罪されるべきは、佐藤容疑者以上に、職務怠慢・責任不履行を犯した警察部署と監督責任を全うできなかった上層部であろう。女性が9年2ヶ月にわたって受けたのと同じ状況の人間否定を同じ期間、地位と責任が重い順により多く分担して味わわせる罪を担わせてもいいくらいである。
以上取上げた警察の犯罪にも等しい不祥事は浜の真砂のほんの数粒に当たるに過ぎない。情報として社会の表面に現れない不祥事もあるだろう。多分、その方が多いかもしれない。警察官、あるいは警察官僚と言えども犯罪を犯し、自らの責任を放置する。そのことを絶対真理だとして記憶し、監視を怠らないこと、責任の放棄・未遂に対しては、担うべき社会的責任の重大さに比例した罰則の強化を図る刑法に改め、それらをもって防止策とする以外に方法はないのではないか。懲戒免職に処したとしても、陰でそれ相応の再就職を手当てして、帳消しにしてしまう。組織に保護される人間関係の構造が、政治家・官僚・企業人から自己責任意識を捨象し、自己保身を保障する構図となっているのである。