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        第93弾   電車の遅れが招いた大事故
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  ★政権交代ならず・・・・が意味するもの    郵貯・簡保の                  350兆円を返せ。
 
自民党が土俵で改革は可能なのか   死に神が染みついてし                     まってるわ
                                   
返せるか!!                                   

 

 以下は2003年11月10日 に「政権交代ならず・・・・が意味するもの」と題して、
メーリングリストの[kokkai2]に投稿した古い文章です。読み返したら、ちょっと面白かったものだから、時間が経過しているが、少し手を加えてHP化することにした。

 読後の私自身の感想は、現在の小泉人気と絡み合った国民の冒険しきれない受身
な姿勢からしたら、やはり政権交代は無理なのだろうかというものである。

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政権交代ならず・・・・・が意味するもの


 第43回衆議院選挙(03.11.9)で自由党と合併した新生民主党は、解散前議席の137議席を40議席上回って獲得したものの、結果としては惨敗で終わった。政権交代を前面に出し、その選択を国民に求めながら、200議席の大台に乗せることができなかったばかりか、自民の議席を9議席減らしたものの、構造改革の継続と政局安定を求めた自民党の与党連合に絶対安定多数を上回る274議席を許したからである。

 もし民主党がさらに23議席獲得して、その分自民党が議席を減らしたなら、例え213対200と13議席下回ったとしても、小泉首相責任論は間違いなく浮上し、代わる目ぼしい人材不足の自民党に与える衝撃は計り知れなかったろう。小泉辞任ということにでもなったなら、小泉の次がいないことが、 次の総選挙で止むを得ない選択として菅直人に期待を向かわせる可能性を無きにしも非ずで生じせしめるかもしれないからからである。

 200の大台を挟んでの236対177という結果は、決してプラスマイナスの問題だけではなく、さらに健闘が及んだとか及ばなかったとかいった問題だけで終わらない。一般有権者の多数意思が必然的に反映した、いわば半ば内心望んだことが巧まずしてストレートに結果に表れた自民・民主それぞれの
成果であることを見逃してはならない。

  つまり、自民党が議席を減らしたのも、決定的ダメージを与える程度のものではなく、民主党が大幅に議席を増やしたものの、200の大台に乗せ切れなかったのも、政権を左右する核となり得る位置にいる国民の政治に対する意識の総体が望んで決定した現実だということである。

 問題は、このような
成果が今回の選挙に限って現れた固有な現象ではなく、引き継がれて発揮されたパターンの繰返しであり、いわば、日本人がそのようなパターンを慣習化し、性格の一部として巣喰わせて、そこから逃れられずに継承して演じている行動様式だということである。と言うことは、深く民族性に関わった行動パターンでもあるのだろう。

 ある存在・ある事柄に優越的存在としての権威を一旦与えると、その権威を絶対視し、最大の価値観を付与して逃れられない権威主義を日本人は歴史的慣習として身につけている。東京に対する地方の人間のコンプレックスがその心理的反動として生じせしめている東京一極集中。学歴主義の頂点に位置づけ、最高学府と崇め敬う東大信仰。そこに勤める人間はすべて立派だと見なす大企業信仰等々。

 政権を託すという点に関する信頼度についても、国民の多くは常に野党に対するよりも自民党が上回った形で固定させ、それを固定観念としている点に、信仰レベルの権威主義の存在を証明して余りある。

 そのような心理意識が懲罰は与えても、政権交代は忌避する行動パターンとなって現れているのだろう。その関連から、個々の自民党議員の具体的に表に現れた不正・スキャンダルには反応しても、表に現れない 構造化した利益誘導や癒着には意外と反応しない無頓着な一般的傾向が成り立ち得る。

 このようなパターンを証明する過去の投票行動をいくつか挙げなければならない。

 1989.7.23(日曜日)投票の
参議院選挙では、消費税リクルート事件宇野首相の愛人スキャンダル、さらに中曽根の大型間接税発言コメ問題が影響して、自民党大敗、社会党大躍進の与野党逆転の風を吹かせた。

 宇野首相は選挙の責任をとって辞任している。
 
 その熱が冷め切らない翌年の
1990年の衆議院選挙では、いや、熱を冷ましてはいけないたった1年後の衆議院選挙で、社会党は136議席に躍進したにも関わらず、果たしてもいい、果たさなければならなかった与野党逆転は果たせなかった。マスコミが与野党逆転をかまびすしく騒ぎ立てたにも関わらずである。

 但し、
社会党党首土井たか子が参議院での首班指名投票で 首班に指名され、「山が動いた」と名言を吐いて、後々まで語り草となった。

 だが、現実には決して山は動きしなかった。自民党が失政やスキャンダルを起こすたびに社会党や共産党に票がシフトするが、それが政権交代可能な状況を図らずも作ってしまうと、それを忌避し、阻む揺り戻しを意図したいつものパターンが繰返されたに過ぎなかった。

 土井たか子をそれを見抜けなかった。

 各党の得票議席数は次のとおりである。自民275・社会136・公明45・共産16・民社14・社民連4・無所属22。

 選挙結果をマスコミは、与野党逆転がテーマに上ったのに反して、変化を嫌った有権者の
生活保守主義が心理的に作動したからだと分析している。

 政治の混乱が経済の混乱につながり、生活への悪影響を──自分たちの生活が現在以上に悪くなることを前以て恐れた与野党逆転に対する心理的拒絶感が各党の議席獲得に運命のいたずらのごとくに巧妙な配分を行ったというわけである。

 その構図を裏返せば、スキャンダルに関しては自民党に懲罰を与えたものの、最後の土壇場に来て、野党の社会党には政治は任せられない、自民党にしか任せられないという
自民絶対の信奉を内容とした権威主義と自己の生活を守る生活保守主義の発動があったということだろう。 

 自民党政治から直接的な利益を受ける関係にもなく、野党である社会党の支持母体の大企業の労働組合にも利害関係のない、いわば
利権政治にも、政官業癒着にも、会社幹部と組合幹部の馴れ合いにも関係のない、政治の保護から遠い距離に立つゆえに政治の影響を真っ先にこうむる、政治的に弱い立場にいるごくごく一般的な有権者の、自民党の目に余るスキャンダルには相手がいささか困惑する程度の懲罰は下すものの、決定的に打ち倒したなら、自己のささやかな生活まで犠牲にしてしまう恐れから、それを守るべく知恵を働かす習慣が、民族性としてある、強者との距離に応じて自己を表現し、自己を維持する権威主義と結びついて現れた行動パターンでもあろう。

 結果として生活保守主義とは、自民党に対するへつらいと化しているに過ぎない。ただ、そのことに気づいていないだけである。

 1993.7.18の次回衆議院選挙では、前回躍進した社会党はものの見事に敗退している。自民223・社会70・新生55・公明51・日本新35・民社15・共産15・さきがけ13・社民連4・無所属30。 社会は136議席からの70議席である。
 
 自民の議席減は、新生党・日本新党・さきがけとに分裂した結果であり、保守系という分母自体にさして変化はなく、社会党ひとりが蚊帳の外に置かれた衰退の一人相撲を演じている。

 小沢一郎に面接採用された
宮沢内閣は不信任案が可決されて、退陣、55年体制の崩壊となった。

 89年の参議院選挙は、単にスキャンダルにまみれた自民党に懲罰を下すために票を社会党に流した(一時避難させたと表現した方がふさわしいかもしれない)だけであって、それ以上は望まなかった国民の意識が、1年後の90年衆議院選挙の結果となったというわけである。

 2000年6月の第42回衆議院選挙結果でも、同じパターンを読み取ることができる。

 
小渕前首相が危篤となり、密室の謀議と言われた経緯を担って4月に発足した森内閣は、「神の国」発言で評判を落としたばかりか、選挙戦のさなか、「まだ決めていない人が、そのまま寝てしまってくれればいいのだが」と発言して、多くの国民の反撥を買うこととなった。

 マスコミの大方の選挙予測が、小選挙区・比例区共に自民党優勢とか、与党安定多数といった見方に支配されていたにも関わらず、自民党は分裂した新進党からの出戻りや保守系無所属議員を取り込んで、選挙前に271議席確保していた虎の子を38議席下回る233議席に 減らす大敗を喫した。

 選挙結果を記しておく。

自民233・民主127・公明31・自由22・共産20・社民19・保守7・無所属の会5・自連1・無所属15。

 このような結果を招いたのは、
「神の国」発言「寝てしまって」発言ばかりではなく、水産高校の実習船えひめ丸が米原潜と衝突・沈没した際、高校生の安否の確認よりもゴルフ続行を優先させた、国民の生命財産を預かる役目を担った総理大臣としてあるまじき森首相の冷淡・無神経な態度に無能を感じ取り、そのことへの反撥意識 ・懲罰意識が、自民優勢の予想によって否応もなしになおさらに駆り立てられ、優勢を阻止するべく行動した、いわばパターンの前段階としての懲らしめのメカニズムに絡めとられた自民の議席減であり、野党民主党の52議席から与野党逆転に至らない範囲内の、127議席という一見大躍進に見える議席増ではなかっただろうか。

 そして、今回の
政権交代が前面に出た衆議院選挙での、似た結果である。小泉首相は、政権交代による政局の混乱が構造改革の進展を阻み、折角回復の兆しの見えた景気回復を頓挫させ、そのことが国民の生活に悪影響することを繰返すことで国民の生活保守主義に直接的な露骨さで訴え、一方の民主党代表菅直人は、生活保守主義に直接的に影響する政権交代を、単に選択する勇気を訴えるにとどまった。

 結果として、政治の混乱を恐れる国民の生活保守主義にどちらがより多くの安心を与えたのだろうか。

 どちらかは、既に告示前の
世論調査にも現れていた。日本という国に2大政党による政権交代を伴ったビッグバン的政治体制が実現可能か否かの一大実験期に、政権交代を望まない声が常に望む声を上回っただけではなく、与野党伯仲を望む声が否定しがたく無視できないパーセントで存在したことが、結果を予測していたのである。

 
与野党伯仲とは、与野党共に政権交代の場所に最も近く位置することであり、与党は政権を失う恐れから、数の驕りを抑える・野党の意見も取り入れる──そのための役目を担わせた議席数の接近であり、そのような体勢で自民党に政権を保証しつつ、 一時的な国民懐柔策に過ぎないのだが、国民に目を向けさせようとする構造の事勿れな選択としてある政治体制であって、決して政治の世界に競争原理を導いて、適者生存の新陳代謝を厳しく促し、その先に政治の進化を期待する政治体制の選択ではない。

 
生活保守主義が最終的に勝利をものにするだろうという予感が確信に変わったのは、午前中の出足が前回の投票率を0.9パーセント下前っていると報じた投票日当日の昼過ぎのテレビ報道によってであった。もし国民の大多数が真に政権交代を望んでいたなら、逸る気持が投票所に早い時間に向かわせたであろうからである。

 民主党が真に政権交代を望むなら、例え景気が最悪の状態で悪化しても、悪化が現状維持で推移することを望む国民の如何ともし難い生活保守主義と、自民党信仰とも言える政治権威主義の殻を先ず破ることが先決問題となるだろう。
 


自民党が土俵で改革は可能なのか

 最初に結論を言うと、自民党政治は郵貯・簡保の350兆円を日本経済活性のために、国民生活向上のために有効に活用できなかった。役立ったのは、公庫・公団といった特殊法人放漫経営と天下り彼らの裕福な生活、それらが原因した赤字経営に関してのみだった。

 
バブル時代、その恩恵に与った人間の多くが接待を利用して会社のカネで銀座や赤坂といった高級クラブで毎晩のごとくに飲み歩き、会社のカネで何様を演じ、自ら演じた何様に酔い痴れた。自らを万能と思い上がったのである。このことは当時の日本の姿そのものを象徴していた。

 例え接待でなくても、自分たちがカネを気前よく使って何様を演じたいがために、接待を装っては高級クラブに出没したのも多くいた。いわば
カラ接待である。

 会計の時、馴染みの指名ホステスを使って実際の飲食代より数万円上乗せさせた領収書を発行させて、会社の支払い後、その水増し分の一部を謝礼と口止め料を兼ねてホステスに渡し、残りを懐に入れて自分の小遣いとするといったこともした。

 そればかりか、会計時に普段はバラで買うタバコをカートンで、ときには1箱ではなく、数箱買って、その代金を飲食代に含めさせるといったこす辛いことまでして、タバコ代を浮かせた。

  そういった卑しい乞食紛いの行為をやめさせたのは、殆どの場合バブルの崩壊という他力を借りてのことだった。

 だが、
官僚は、バブルが弾けた後も、郵貯・簡保年金からいくらでもカネの手当がつく構造をいいことに、性懲りもなく裏ガネでおいしい汁を吸うだけではな く、福利厚生といった巧妙な予算操作や市場原理を無視した過剰な入札金額を手口とした事業で企業とコネを結び、見返りに飲み食いの機会を与えられたり、現ナマを提供されたりして、高級クラブで飲み呆けるのに似たカネに糸目をつけないことで得ることのできる様々な何様生活に浸り続けた。

 何様を可能とした影響力を自らに備わった権力と勘違いしていたのだろうが、官僚としての地位と赤字経営でも倒産しない予算の注入が保証されていたに過ぎない。その保証の上に実際にやっていたことは、予算のいい加減な放漫運営によって、経営そのものだけではなく、国家財政をも赤字国債の形で蝕んでいただけのことである。その結果としてある、そのツケが国民の税金にまわることになる特殊法人等の、郵貯・簡保に返済不能な袋小路にまで立ち至らせた
赤字経営・赤字国債発行なのは言うまでもない。

 だからこそ、改革が必要なのだと、
小泉純一郎は言うだろう。

 だが、
官僚の放漫経営と放漫経営によって得ることのできた何様身分何様生活に政権
党たる自民党政治家が絡んでいないわけはない。バブル崩壊後の
赤字国債の大量発行・破綻寸前も含めた特殊法人の赤字経営年金制度の崩壊等々の10年以上も衰退状況を続ける国家経営は、官僚たちの無能・無責任を見過ごしてきた、あるいは共に権力の甘い蜜を吸いあった自民党政治の不作為・無能・無責任の結果であろう。

 いわば官僚と共助関係にあった自民党政治家は郵政民営化反対派のみではない。その裾野は自民党全体に幅広く広がっている。そのような無責任・無能力の官僚を育てたこと自体、あるいは官僚たちの無責任・無能力を見逃してきたこと自体、その原因は
自民党の長期政権なのである。そのことは郵貯・簡保からの財政投融資に絡んで官僚とつながり、つるんで歪んだ権力の甘い蜜を吸い合っていた郵政民営化反対を形成する郵政族に属する自民党政治家のみがなした仕業ではないのだから、郵政民営化反対派を排除したからと言って、他の政策で癒着しているその他大勢の自民党政治家を排除しないことには、改革は成り立たない道理となる。

 いわば、自民党が土俵では、いくら小泉純一郎なる政治家がシャカリキに逆立ちしても、改革は不可能だと言うことである。改革と見えたことでも、
道路公団改革医療改革
金改革
と同じく、とても抜本改革とまでいかない、小手先且つその場限りの、それらしくいじっただけの改革を迎えるだけのことだろう。

 
自民党を土俵とした改革は不可能だと言うことである。

 自民党を土俵に改革をなそうとすることは、自分たちが大量に借金をこしらえておいて、借金を減らすにはこういう方法がいいと言うのと同じ滑稽な論理を踏む提案でしかないだろう。

 借金を減らす方法を弁えていたなら、最初から借金をこしらえないだろうからである。その方策を講じたとしても、目先を誤魔化すだけで終わることになるに違いない。 破綻した会社を立て直しのに経営陣の首をすげ替えたり、管財人を入れたりするのは、別の人間によって借金を減らすためである。


 このような図式と同じように、自民党という政党を土俵として種々の改革が可能なら、日本という国・日本の社会がこのような体たらくに陥ることはなかったろう。時間と機会はいくらでもあったのである。多くは小手先の改革で、抜本的改革は先送りに先送りを重ねてきた。

 
小泉郵政改革にしても、既に前科として記録されてしかるべき小泉道路公団改革小泉医療改革と同列に位置する目先の誤魔化し改革で終わる 運命を待ち構えているだけのことだろう。

 だからこそ反対した郵政民営化反対派もいたはずである。

 
目先の改革しかできない危惧は民主党に関しても言えることだろうが、官僚共々腐りきった体質が相互影響しあって構造化させた自民党と比較して、背水の陣を構える覚悟はより期待できるのではないだろうか。少なくとも自民党と同じであるわけにはいかないだろうから。

 もしここで国民が自民党を政権党に再度選択したなら、やはり国民は最後には自民党に投票するとタカをくくらせることになるだろう。
 
 国民は自民党が
ロッキード事件とかリクルート疑惑等々、どのようなスキャンダルを引き起こそうが、また国民を失望させる政策を行おうが、最後には自民党を選択するパターンを何度となく繰返してきたのである。そのことが大方の自民党政治家と官僚にタカをくくる性格を植え付け、なおさらに族益・省益、あるいは政官財の癒着を好き勝手に繰り広げる素地と機会を提供したことは否めまい。 

 自民党政治を民主党の手に渡して、新規に時計のネジをまき直すし以外に、より公平・より公約数的な改革は期待できないのではないだろうか。一度は、政権交代という真の懲罰を与えるべきである。