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       第82弾  日本の教育・暗記学力か創造性か

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                                      持とう!! 


 なぜ日本は暗記教育なのか

  度でも繰返し言っていることだが、日本人の行動様式・思考様式が日本の社会をつくり上げている。外国、特に欧米からの生活や技術・制度と言った広い意味での文化の移入に関しても、その定着は、やはり日本人の行動様式・思考様式の影響を受けた形式・内容となる。いわば、日本の社会の姿は当然の如くに日本人自身の行動様式・思考様式の反映としてある。
 
 
のような反映は勿論、日本の教育にも言える。日本の教育の形式・内容は日本人の行動様式・思考様式の反映そのものとして存在し、そのような反映の拡大相似形として、日本の社会が形作られている。例えてみれば、日本人の行動様式・思考様式と日本の教育の姿とは背中合わせの一体型として存在し、両者は日本の社会の姿を決定する重要、且つ大きな動因となっていると言える。

 
の言い方をするなら、教育と社会は相互に補強 し合う相関関係(相互補強の関係)にあると言える。それは当然の因果関係なのだが、多くの人間が教育が社会に影響を及ぼすが、社会は教育に影響を及ぼさない、断絶した関係にあると思い込んでいる。

 えば、5、6年後には100万人に達すると言われている、ニートと呼び習わされてる働かない若者や、200万人を超すとされるフリーターの存在などの若者の就業に関する社会現象を教育の責任だとするのは、教育と社会が断絶した関係にあると取る考えからのものだろう。

 かない若者、あるいはアルバイトに毛の生えたようなフリーター仕事を30近くになっても続けている若者が増えたのは、なくなってしまったわけではない汗にまみれ、油にまみれて労働する姿を社会が見せなくなった結果としてある風景なのではないだろうか。

 者の生き方に多大な影響を与えるテレビが見せる主人公の働く姿は殆どがサラリーマンで、それも高級レストランで高価なワインやブランデーを飲み、高価な食事をし、住いも高級マンションを根城にしている、それを可能とする高給が保証された大企業の社内地位の高い、少なくとも将来を有望視されたハイセンスな若者ばかりといっても過言ではない。

 た誰もが飛び切りの活躍ができるわけでもないのに、テレビ・新聞はスポーツ・芸能等で活躍する人間を多くの時間を割き、最大限の賛辞を用いて取り上げ、結果として最も人間らしい人間としての扱いを施す。

 ういった世界での現実に近い一般的な若者は影の薄い脇役でしか登場しない。いわばは 異質的存在となっている。

 のような社会につながる中間地点としての学校社会で、可能性の機会としてそれしか与えられていないテストの成績、あるいは運動能力から弾き出されることで脇役としての予備軍を形成し、そのまま現実社会に延長・転移したニートであり、フリーターなのではないだろうか。

 うまでもなく、日本人の行動様式・思考様式が権威主義を内容としているのは既知の事実である。権威主義とは、上が下を従わせる関係性(意思の制約)を言い、そこからあらゆる存在を上下=優劣の価値で関係づけるシステムが生じている。そのような文化・風土がつくり出している現象として、東京一極集中・読売巨人軍への人気の集中・東京大学に対する最高学府神話等々がある。自民党の一党独裁も、同じ文化・風土の産物であろう。
 
 
央役人と地方役人に於ける上下=優劣関係、国会議員と地方議員との上下=優劣関係、学問の府に於ける徒弟制度といわれる、教授と助教授以下学生に至る上下=優劣関係、医者と患者との上下=優劣関係等々──すべて権威主義を土壌とした日本人の行動様式・思考様式が生み出した関係性なのは言うまでもない。

 育分野に於ける権威主義は、いじめや対教師暴力・授業崩壊等によって、教師対生徒の関係に関しては一見、綻びを見せているようにも見えるが、真面目に勉強をするおとなしい生徒に於いても同じだろうか。確実に言えることは、学歴獲得に関しては、権威主義はなお健在である。そのことは、現在も根強い東大神話を頂点とした学歴信仰に最も象徴的に現れている。  

 
歴に於ける権威主義とは、言うまでもなく学歴の上下で人間の価値を優劣で決定する関係づけを言う。受験戦争、あるいは受験競争とは、学歴獲得のためにある言葉であろう。意味抽出を行って、自己独自の知識・文化を獲得し、蓄積するためでは決してない。そのことは知識の授受に関して、今なお暗記教育を主流としていることからも証明し得る。後で述べるが、暗記教育は権威主義があって初めて成り立つ教育形式だからである。

 題は日本の教育・教育方法自体が権威主義の反映であり、その感化を受けて取得した知識・思考が多くの日本人が伝統的に受け継いだ権威主義の行動様式を補強して、日本の社会を限定づけている点であろう。尤も、それをよいと見るか、見ないかによって、論理展開は違ってくる。

 
本の教育が本質的に暗記教育なのは論を待たない。教師が教科書の内容をなぞる形で黒板に書いたり、言葉で伝えたりして解説し、生徒がその解説をなぞる形でノートに書き写す。そのようになぞった知識をなぞったなりに可能な限り機械的に暗記するのが暗記教育である。

 の構図は教師対生徒が上下=優劣の関係性を築いているからこそ可能となる方式である。いわば、権威主義の上が下を従わせる関係性(意思の制約)を前提とした場合のみの、意思伝達の必然的現象が暗記形式である。

 
威主義の上下=優劣を、上下=優劣=正誤と置き換えると理解しやすい。先生の言っていること、解説することは正しいという前提に立っているからこそ、暗記は成り立つ。正しくないという判断のもとでは、誰も暗記しないだろう。

 達される知識・情報をなぞり、なぞったまま暗記するという知識・情報の授受は知識・情報の単なる受け渡しに過ぎない。暗記とはまさしくそう いうことであろう。ゆえに暗記は、授受の過程で、自身の考え・経験等に照らして、自己独自の解釈を行い、自己独自の意味の抽出を試行錯誤しながら、自己独自の知識・情報とする過程を省く。

 の社会的成果が、一般的な日本人に冠せられた、他からの指示(知識・情報)がなければ動けない、裏返すなら、自分の判断では動けない態様を指摘する指示待ち人間・マニュアル人間・横並び人間といった社会的人種の蔓延であろう。暗記は自分の判断を必要としないからである。いや、暗記を成立させるためには、自分の判断は阻害要因となって立ちはだかる。

 れは今に始まった社会的な人間態様ではない。歴史的・伝統的に受け継いできた日本人の思考様式・行動様式としてあるものである。

 
統的に日本人は上が下を従わせる権威主義を血としてきた。そのことに加えて、学校世界が下(=生徒)に上(=教師)をなぞらせる(従わせる)暗記教育によって、権威主義の行動様式・思考様式を日々刷り込み、その血をより確かなものとしてきた。尤も、日本の社会は、上が下になぞらせ、従わせることによって、和(従い・合わすこと)を保ってきた。

 の和を力として、軍国主義は国民を総洗脳化できたし、戦後は農業・林業を切り捨てて偏った国の姿としながらも、工業に一極集中させる和を実現せしめて経済発展を遂げ、経済大国にもなれた。

 のようにも一つのことを全体として、そこに力を集中させる集合力にはすばらしいものがある。それをエネルギーとして、世界的に高い評価を得ている日本の誇る技術力を獲得してもきた。すべては暗記教育と、その原理を成している集団主義・権威主義の思考様式・行動様式の成果としてあるものである。

 くこのように日本の教育がどのようなものであれ、現在の対外的な成果を考えた場合、暗記という原理そのものを否定し去ったり、否定しなくても、貶めたりしなくてもいいではないか 、そんなことをしたら、日本人の存在様式そのものを歪めることになるいう議論もあるだろう。
 
 
がである。軍国主義も、農業・林業等の切捨て(=地方の切捨て)とその成果としてある農産物・木材の輸入大国なる日本の姿も、日本人の思考様式・行動様式のマイナス点として表れたものである。プラス・マイナスを議論の材料にしなければならないのではないだろうか。

 の他にも多々ある。現在盛んに言われている地方分権というものを見てみよう。日本の政治権力構造は、地方が中央に従属する権威主義の形式を取った中央集権型であり、その下で近代化を押し進めてきた。その成果が現在ある日本の姿である。日本の中央主権は、長い期間に亘った一党独裁を経て、現在もなお政権党として君臨している自民党支配のピラミッド型権力構造と対応する関係にあるが、日本人が、上が下を従わせる権威主義を行動様式・思考様式としている関係上、当然な姿とも言える。

 はなぜ今、地方分権なのだろうか。経済大国としての日本の姿を誇るなら、従来どおりの中央集権型で、手を加える必要がないではないか。それでは時代に即さないから、いけないという。一種の否定である。

 は権限と補助金で地方を支配してきた。地方は権限のお手柔らかな遂行と補助金獲得のために接待などを通じて中央の政治家・官僚に深々と、あるいはペコペコと頭を下げることを常の役目とし、そのたびに上下=優劣の従属関係を相互に知らしめ、不動なものとしてきた。

 し、その場限りの演技でしかないかもしれないそのようなへりくだりの見返りに、地方は、自らは余り考えず、国の指示に従い、地方同士が同じことをなぞっていれば間違うことはなかった。

 じこととは、国が自らの発想能力の貧弱さによって地方への指示を全体化したから、地方の違いがなくなり、全国的に一律化したからである。国が全国的に同じことを指示し、地方同士が指示されたなりに横並びに同じことをしていれば完結したのだから、このような方式は国・地方とも、自らの間違いを見えにくくすることができたというメリットがあった。

 のような国対地方の姿は、学校社会における教師対生徒の権威主義的人間関係と同種・同質の関係にあり、相互的な間柄にあるのは言うまでもない。教師は文部省が検定した教科書の内容をなぞり、その内容をなぞったなりに生徒に伝達していれば、役目を果たせた。生徒も、教師が伝える、教科書をなぞっただけの知識を同じくなぞって、頭の中になぞったなりに記憶させ、テストの設問になぞった知識を取捨選択してうまく当てはめることができれば、生徒としての役目を果たせた。

 だが、国と地方、あるいは教師と生徒の、このような意思の伝達に於けるなぞり・従う暗記形式の原理的な関係性は下の意思を制約することによって、下の自律を阻害する機能を伴う。

 わば、自律なくして成り立っていた中央集権であり、日本の教育だったのである。

 のような非自律性が軍国主義を生み、地方の衰退(過疎化・農業、林業の切捨て)を生み、また教育の荒廃に影響しているのである。

 し、そのことからの地方の自立が言われ始めたわけではない。際限もなく長引く底なしの不景気による国の財政事情の悪化が国対地方の姿に止むを得ない変化をもたらした結果の自立要求に過ぎない。

 わば、これまでの補助金のバラ撒きによる地方支配が困難となったために、補助金削減を打ち出さざるを得なくなり、その埋め合わせに中央の権限の縮小化と、それに対応して地方の自由裁量を広げざるを得なくなったということである。地方も、補助金削減によって、国への依存一辺倒ではやっていけなくなった。その結果として導き出されたスローガンが、地方の被支配慣れからくる中央依存からの自立(=中央の地方支配の見直し)である。先に来るべきスローガン(政策)が後から付け足されたのである。

 
みに地方分権推進法が制定されたのは、1995年5月で、地方分権一括法が成立したのは1999年7月。これを早いと見るか、遅い、または遅すぎると見るかで、見解は異なってくる。だが今以て、税源移譲の規模を何兆円にするか、補助金の削減及び地方交付税をどの程度の規模にするか、意見集約ができていない有様である。

 
立(自律)とは、国と地方が対等の関係となることを言う。それは当然、力関係に於いても、意思の伝達においても、上が下を従わせる権威主義からの脱却を意味しなければならない。

 しである。紆余曲折を経てのことだろうが、兎に角も権限及び税源の移譲がより公平な形で実現して、地方が国との煩わしい関わり・交渉の機会を少なくすることができたとしても、権威主義的思考様式・行動様式から自由になることができなければ、現在までの国対地方の上下関係が、今までも存在した県を頂点とした各市町村とのピラミッド型上下関係に上乗せされない保証はない。

 わば県が国に取って代わって、県単位の中央集権が以前よりも強固な形で形成される可能性である。県の役人が中央の政治家・官僚を接待してペコペコと頭を下げ、媚を売って予算獲得にあくせくしてきた厭な役目を、自分、もしくは県の 方が上だという意識から、今度は市区町村の役人に押し付けないかという恐れである。権威主義の行動様式・人間関係を放置したままでは、国から県に舞台を移して再演される主従劇となる可能性は決して少なくないだろう。

 
論、そのような悪弊は権限及び税源の移譲を県からさらに市区町村へと行えば回避できないこともないが、そのことが権威主義の打破に直結するかといえば、民族の血としてきているのである、非常に悲観的である。大体が権威主義的悪弊は何も政治や教育の世界に限った問題ではなく、日本社会のあらゆる現象に亘っているのである。

社会に見る集団主義・権威主義の思考様式・行動様式

 えば、少子化。権威主義が原因としていないことはあるまい。女性の社会進出、あるいは社会的地位の向上という時代的な一里塚を無視して、妻が育児・家事を行うのは当然、夫は外で働いて、生活費を稼いでくるのが務めといった男尊女卑の名残りである権威主義が、積極的に育児・家事に参加しない夫側の固定観念を今なお顕在化させていて、妻の妊娠・出産を困難なものとしていることからの出生率の低下ということもないだろうか。

 も、生めよ・殖やせが女の性だと、時計のネジを逆回しにできるなら、少子化の問題は解決可能となる。

 し、ネジの逆回転は、集団主義・権威主義の原理主義への回帰をも意味する。男と女を以前の男尊女卑の存在様式に戻すということである。

 くまでも可能ならの話である。社会的現象としてある、20年、30年と連れ添ったにも関わず、子供が高校・大学を卒業して社会人になるのを契機とした熟年離婚は、夫側の上が下を従わせる横暴、あるいはソフトな亭主関白行為(妻存在の無視)に対する、妻の子供が成長するまではと我慢に我慢を重ねて従った忍耐の経緯を十二分に窺わせる、夫婦間の権威主義が災いした結婚に於ける一つの結末(妻存在の主張)は、男尊女卑が相当に和らいだ時代となっているにも関わらず、そのことへの拒絶意志を示すもので、過去への回帰が世界規模のものなら、諦めを誘いもするが、日本だけの回帰は保守化との批判を受けて、逆効果しか生まないだろう。

 休や育児休暇を増やすとか、保育所待機乳幼児を減らすための保育所の整備といったことだけで片付く問題ではない。

 
じ家庭内の権威主義の行き過ぎた例として、家庭内暴力を挙げることができる。勿論、これは日本だけの現象ではなく、全世界が抱える問題ではあるが、女性を対等な存在と認めていない権威主義 (女性存在の否定)の力学が働いているのは否定できない。女性の幼児虐待にしても、犯行理由が夫、もしくは愛人の男性に「嫌われたくなかったから」が多く占めていることから判断すると、男の側から女性への上が下を従がわせる権威主義の理不尽な域にまで達した圧力を女性が吸収しきれずに、より弱い存在であるゆえに容易に取りやすい暴力という形に変えて子供にまで伝えてしまうケースも無視できない。

 性と言えば、社会進出が言われて久しいが、総合職受験者数に占める採用者(内定者)の割合は、男性3・1%に対して、女性は0・9%、女性の総合職は全体の僅か3%としか占めていないそうで (04年時点)、世界で経済大国第2位につけながら、欧米に比較した女性の幹部社員登用が格段に低いのは、男女間に権威主義の上下=優劣の力学が働いているからなのは否定できまい。

 
れとも、女性を産む性に閉じ込めて、女性の共同参画だのやめて、女性の就労を禁止するかでである。但し、たちまち労働力不足が生じ、男性賃金の上昇を招くこととなり、日本経済は打撃を受けることになるだろう。

 
善されているとは言え、外国に進出した日本企業が現地社員を能力が優秀でも幹部社員として取り立てる機会が少ない慣習は、日本人と外国人、特に有色人種との間に民族優越の権威主義意識を働かせていることから生じている差別であろう。このことは他民族排除──少なくとも自民族優先の意思を成分とした日本人の単一民族意識と密接に関わっている。

 
本の政治家が時折り人種差別的な失言をして批判を浴びるが、と言うよりも、マスコミに叩かれるが、 これも上下=優劣の権威主義意識が他人種を下位に置く民族優越の姿をとって現れた差別発言なのは言うまでもない。

 
人やヒスパニックは優秀なスポーツ選手を輩出している。かつてアメリカでは黒人野手の大リーガーは存在していたが、頭を使うピッチャーや監督は黒人には向かないと、そう信じ込まれて、投手も監督も存在しなかった。だから、黒人にとって、大リーグのピッチャー、次いで監督は最後に進出できた白人の砦であった。このことは外国に進出した少なくない日本の企業が幹部社員へのポストを現地社員に用意していない、時代を遅らせて現れた現在の姿と重なる。

 色人種のスポーツ選手に対する身体能力が高いという評価は、頭脳の点を除いた身体性に限った評価だから差別語に当たるとする人間がいるが、これは大きな間違いである。殆どの場合、高い身体能力は優れた頭脳の裏打ちがなければ、素晴らしい記録につなげることは困難である。

 
つ一つのプレーに対応すべき自己の最良の動きをイメージする想像力、そしてイメージした動きを瞬時に具体的な動作に移す緊急な臨機応変の判断力と順応性、そして瞬発力、そういった総合的な技術がなければ、記録を伴った優れたスポーツ選手とはなり得ない。

 らが文章を読む力がなくても、読む習慣を持たなかったからに過ぎない。他人の書いた文章をうまく読めなくても、自分がプレーするスポーツに関して、気のきいた、時には哲学的な言葉を口にすることができる。それは常に最良の動きを追求すべく、考えることをやめずに練習し、プレーしているからである。

 えばアテネオリンピック女子バスケットボール競技で米チームが金メダルを獲得し、アトランタ・シドニーと続いて3連覇を成し遂げたが、チームの一員である黒人女性のレスリーの金メダル獲得の感想は、「3人の子供がいれば、それぞれ性格が違うように、五輪の喜びもその時々で違う」だった。日本選手の、「最高にうれしい」「みなさんの応援のお陰です」「責任を果たせた」といった言葉から比べたら、何と含蓄に富んだ哲学的・社会的な言葉だろう。

 記教育で育ち、暗記的思考を染み込ませたままで終わっている日本人だったなら、このような気のきいた言葉は口にすることは難しい。暗記的思考は他人がつくった言葉・思考をサンプルとしてなぞることしかできないからだ。だから、みな似たり寄ったりの言葉となる。

 人・ヒスパニックの学校の成績(学力)が一般的に白人よりも劣るとされているのは、外で飛び回る習性を血とし、本能としているからではないか。それは親から受け継いでいると同時に、特性として種そのものから受け継いで共通化した活動性の、あくまでも違いであって、言ってみれば、生命活動の形態の問題であろう。

 わば、体質遺伝的に獲得した優れた肉体性・身体能力の自然な形として要求される優先的な躍動志向が逆に学校の教室や家の勉強部屋といった狭い空間での身体の活動を一切伴わない、じっと座ったまま頭だけを働かす、躍動感のない作業が苦痛以外の何ものでもないといったことも原因しているのではないだろうか。

 
人、もしくはヒスパニックの子供がたまたま金持ちの家に生まれ、外で誰もサッカーも野球もしていない高級住宅街で育ち、親の求めるままにピアノを習ったり、書物を買い与えられて読書をするような生活を幼い頃から送っていたなら、学校の授業によりよく順応し、成績優秀な白人の子供同様によりよい成績を残すだろう。環境も、人間形成の重要な条件となり得るからである。

 
くかように上下=優劣の権威主義意識が日本の社会に蔓延し、それは民族的上下=優劣意識となって、外にまで向かっている。近代化を遂げ、世界有数の工業国家・経済大国となりながら、欧米と比較したこの異質さは世界に於ける普通の国の条件となり得ているのだろうか。同じ日本人でありながら、地位・学歴・財産・家柄等によって、上下=優劣が決定する。そのような価値観が外国人に対する判断基準ともなっている。

 
方の中央からの自立と主体的な自主運営、女性の総合職への採用、現地社員の幹部登用、障害者の企業就職、外国人の日本への受け入れ、少子化や家庭内暴力──等々、時間をかけて少しずつだが、これまで以上の歩みで改善されていくのは間違いない。

 が、学校が教師対生徒の関係を上下=優劣のまま固定して、上が下を従わせる知識伝達を続けることでより確かに刷り込むこととなる権威主義を習性とした生徒を順次社会に送り出したなら、努力して浄化した水にもとの濁り水を混入するようなものだろう。

 
師の生徒に対する上位意識・優位意識を一朝一夕に是正することは難しい。だが、上が下を従わせる知識伝達に従った暗記教育は制度を変えることによって、是正不可能ではない。但し、教育は強制であると考える人たちにとっては、暗記制度の改革は不可能となる。なぜなら、何度でも言うように、上が下を従わせる強制によって暗記教育は成り立つのであって、強制と暗記は一体のものとして存在するゆえに、切り離し不可能だからである。

  育は強制であると考える人たちは、「日本の教育は」と条件をつけるべきだろう。勿論、教育を強制としている国は他にもあるが、強制が最も極端な方向にぶれている北朝鮮の教育を見れば、暗記=強制だと容易に理解できる。西側民主主義の思想には触れさせず、自分たちに都合のいい知識だけを植えつけるためにも、北朝鮮としては教育は強制でなければならない。

創造性は暗記教育からの解脱

  記が上の指示・知識を言いなりになぞらせる単純な伝達形式であることは既に言った。教科書をなぞる形で暗記させ、暗記させた知識を質問に当てはめさせて、テストでその成果を問う過程で、教科書にない指示や知識が邪魔者として侵入してくることもなく、また余分な知識を教える必要もない煩わしさのなさが、教師にとって都合がよく、暗記教育慣れさせている面がある。そのことがゆとり教育や総合学習の定着を妨げる原因となっていないことはあるまい。

 
記教育を改めて、上が下を従わせる知識の授受に別れを告げさせ、日本人が民族の血としている権威主義の意識を少しでも削ぐためには、教育は強制ではなく、主体的選択としなければならない。総合学習の精神こそ、主体的学びの構造を体現している。根付かせることによって、上が下を従わせる権威主義の上下=優劣の意識からの少しずつの解脱が可能となる。

 
合学習の趣旨とは、「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」ということだそうだ。まさしくいいこと尽くめである。

 合学習には教科書がなかったから、学校は何をどうしていいのか分からず、文部省(現在の文科省)にお伺いを立て、文部省は手引書をこしらえた。手引書とは、教師たちにとっての教科書を意味する。

 引書(教科書)を必要とすること自体、自分たちが学校教育者でありながら、情けないことに独自に授業内容を、あるいは伝達知識(情報)を創造することができず、なぞる対象を必要としたということであり、自己の思考・行動を手引書(教科書)に従わせる権威主義を働かせていたことを証明している。

 部省の指導よろしきを得て、生徒にテーマを決めさせ、その多くは教師が主導して決めさせているようだが、総合学習の時間を週に何時間か決めて、地域の老人から昔の生活の話を聞いたり、近くの川に出かけて水中の生き物を観察したり、工場見学をして、何がどう完成するのか説明を聞いたりして、それら学んだことを発表させたりしているようだが、教材としての老人の話・生きもの観察の教師の説明・工場見学の工場の人間の説明を一方的に話させ、聞く方も一方的に聞くだけで、暗記教育と同じく、上が下を従わせる知識の伝達だけで終わらせてはいないと思う。

 し、全国的に総合学習授業が類似したものとなっているということである。文部省の手引書を唯一の水源として、それを学校・教師の上に従い・下に従わせる集団主義・権威主義を経過させて生徒に届けているのだから、同一化したとしても何ら不思議はない。

 なると、総合学習にしても暗記形式を踏んでいる疑い濃厚だが、それが単なるあらぬ疑いだったとしても、週に何時間かの総合学習に対して、後の圧倒的に多い普通教科で生徒をして暗記形式の感性をせっせと刷り込ませていたなら、総合学習の時間で「自ら考え、主体的に判断」するという意思決定能力は満足に機能 させていただろうか。
 
 
の唯一の解決方法は、普通教科そのものを総合学習化する以外に道はない。だが、総合学習導入以降の学力低下現象が社会的な問題となると、文科省は基礎学力の向上の名のもと、教科授業強化(=暗記教育の強化)の方向に事実上軌道修正した。

 合学習と暗記学力は逆比例の関係にある。「自ら考え、主体的に判断」する総合学習を取り入れたなら、暗記知識でしかない学力は初期的には当然低下する。いや、週に何時間か総合学習に時間を取られたこと自体、暗記が時間をかけることで成果が得られる性質上、学力低下は予定調和としなければならなかったのだが、予知できなかった地震の発生の如くに大騒ぎした。

 
記で得た学力は丸呑みした知識に過ぎない。丸呑みとは、変化も発展も与えない、そのままの受け止めを言う。ゆえに暗記学力は記号に近い。そのテストの解答は記号を当てはめることによって解決する。このことは、日本の生徒の数学技術を国際的に比較した場合、「計算技術は得意だが、物事を多角的に把えて考える能力に欠ける」という一般化した評価が証拠となる。

 た、暗記は同じ知識・同じ情報を内容とする。すべての生徒が100%暗記した場合を考えるとよく分かる。違いは教科書の違いからくる暗記内容の違いだけだろう。違いと言えるものではなく、似たり寄ったりに比重が置かれる。

 
なると、実際には内容自体はさして変りのない、暗記の知識量・情報量の多い、少ないの違いしか生じない。

 記学力を取るか、「自ら考え、主体的に判断」する思考能力を取るか、両者が二兎の関係にある以上、二者択一しかない。「自ら考え、主体的に判断」する行為こそ、自律行為に他ならない。自律は地位上の権力を必要としないゆえに、上下=優劣の権威主義性からの離脱をも意味する。

 る宗教者が、「疑いを持って問い続けることによって、人間に振りまわされない真実が明らかにされる」という親鸞の言葉を引用して、「教育に宗教心を生かす目的は考え抜く人間を育てることだ」と主張していたが、そもそも教育の目的自体が、宗教とは関係なく、「考え抜く」力を育むことを目的としているものだろう。漢字を覚えるのも、計算能力を高めるのも、そのことが直接的な目的ではなく、「考え抜く」力を育む補助としてあるものである。

 ころが、漢字の習熟も計算の学習も、そのことが直接の目的となってしまっている。いや、日本の教育は歴史的・伝統的に、そのことを目的としてきた。だからこそ、中央集権でやっていけなくなったからといって、地方の自立を言い出したように、総合学習を言い出したのだろう。

 い出したものの、学校・教師の暗記教育慣れによる集団主義・権威主義離れのできないことが、総合学習を機能マヒに陥れ、加えて暗記に割くべき教科授業の時間が総合学習に取られたために、暗記学力の低下まで招く、虻蜂取らず状態に陥ってしまった。

 して、世界的なテストで日本の生徒の成績が低かったことが決定的な要因を成して、教育を本来の機能に戻す考えもなく、たちまち慌て出したように学力強化に走り出したといったところだろう。

 礎学力と言えば、聞こえはいいが、単に従わせて覚えさせる学力(暗記)が「考え抜く」力へと発展させようがない。漢字をいくらたくさん覚えたからといって、考える力につながりはしないのと同じである。社会の情報から、そこそこに考える力はつくが、その授受に関しても、単になぞり・従う形式を踏襲するだけだから、人を超えて違いを示すことは難しく、誰もが似たり寄ったりであることから免れはしない。

 の若者がいくら芸能界の話題に事欠かずに精通していたとしても、メディアが発した情報を内容を変えずに多く知っているか、多くは知っていないかの違いしか生じないのと同じである。

 育に於いても、同じ形式が生じている。と言うよりも、同じ形式で相反応しあっている。漢字の習熟や計算の学習を基本目的としてテストの成績の獲得を二次目的に据え、その先にいい高校・いい大学への入学、そしていい企業に就職してよりよい生活を手に入れることを最終目的と した教育の構造で言えば、社会の情報の多い・少ないの違いが、より上に到達するかしないかに取って代わるだけでの内容を示すものになっているだけで、到達度に応じた知識の内容はさして違い はない対応性のことである。

 のようにも教育が生活上の実利行為となっていること以外に内容空疎なものとなっているから、生徒に「何のために勉強するのか」と問われても、教師はテストの成績に応じて、社会の各階層段階に送り届けるための教育だとは正直に答えられないだろう。

 説するなら、生徒に正直に答えられない教育を押し付けているということである。

 なぜ勉強するのか」――その他生徒に問われて保護者や教員が答えた代表的な模範解答を大学教授が集めてトランプにしたと報道にあった。教師、あるいは親がそれぞれに自分の考えで答えるべき事柄を、他人がサンプルとして提供すること自体が異常なことだが、それを異常だと、誰も、教師にしても問題にしない。それを利用する学校教師は、教育者という立場にありながら、恥ずかしくないのだろうか。

 なぜ勉強するのか」という問いに対する主なサンプル回答を見てみる。

「漢字を知っていると、本がたくさん読める」
「将来なりたい職業に就くため」
「苦しいことに打ち勝つ力を力をつけるため」
「勉強しないと頭の成長が止まってしまう」
「学んで体験して、個性を発見するため」
「もっとよい社会にするため」

 したりすかしたりの内容となっている。

 ず第一番に確実に言えることは、 以上の答が全国標準になるだろうと言うことである。既に総合学習で、文部省が手引書を作成したことで前科を犯していることの同じ繰返しに位置したものだからである。

 のことこそまさしく、下に従わせ・上に従う集団主義・権威主義の力学に力を借りた、と言って悪ければ、力学に添った指導であり、その先に控えている光景は、上(教師)が伝達される知識・情報をなぞり、なぞったまま下(生徒)に伝える、暗記教育の原理としてある機械的な意思伝達・情報伝達への誘導と、その誘導への加担の構図であろう。

 に言わなければならないことは、社会が多様な可能性を 闘わせる場となっていながら、そのことに反して学校社会がテストの成績と運動能力の二つの可能性に限定して闘わせることができないことから、その他大勢の生徒がどちらの可能性にも満足のいく内容で適応できないことが原因となって、勉強するそもそもの入口で二の足を踏んでいる、あるいは拒絶されていることを何ら考慮しない内容のサンプル回答となっているために、そのような生徒にとって、「漢字を知っていると、本がたくさん読める」と言 われようと、「将来なりたい職業に就くため」と言われようと、「苦しいことに打ち勝つ力を力をつけるため」、その他何と言われようが、 問題解決の糧とならないことが予測されると言うことである。

 体的に言うなら、自分の可能性が明瞭に把握できないながらも、テストの成績で自己実現させることではない と、あるいはテストの成績で自己実現できないと漠然と、あるいははっきりと感じている生徒に、「漢字を知っていると、本がたくさん読める」と言ったとしても、学校で指示する読書自体がテストの成績を上げる実利性に関連付けられている 内容の書物である関係から、入口で戸惑うだろうと言うことである。

 体が漢字を知って、本を読むのではなく、本を読むことを通して、漢字を知る手順を踏むのが本来的な教育の姿であり、そのようなプロセスを全うするための必要事項として、考える作業が否応もなしに介在して、その結果として考える力が身につくという経緯でなければならないのではないだろうか。

 れを、何でもいいから、漢字をたくさん知って、たくさん本を読んでおけば、「将来なりたい職業に就」けるし、「個性」の「発見」に役立つと言ったとしても、学校社会がテストの成績を最優先的実利としていることと矛盾するまやかし・欺瞞の類の犯罪行為となるだけだろう。

 なれば、学校はまず生徒一人一人の可能性の発見から始めなければならない。その方向に進むとしたなら、当然、権利意識が発達し、可能性が複雑多岐に交錯する今の時代・今の社会に対応して、学校社会に於いても、生徒の可能性に関して必然的に多種多様性を帯びなければならい。

 言うことは、生徒の可能性をテストの成績(=学歴の獲得)と運動能力に限って、そこに押し込めようとすること自体が、既に時代遅れだということである。権利意識がそのことを許さなくなっていることに、多くの人間が気づかないでいる。

 ストの成績の底上げのために疑問もなく暗記教育のレール乗ることのできる生徒はそれはそれでいい。そういう生徒ばかりだったなら、授業崩壊も学校荒廃も起きはしないだろう。授業崩壊・学校崩壊・ 校内暴力等は、そういう生徒ばかりではないことの傍証としてあるものだろう。

 うではないその他大勢の生徒の可能性の発見は、他人のアドバイスが力となることもあるが、何よりも自己自身の力で果たさなければならない人生の務めであろう。

 能性を知るには、学校の暗記知識を記憶する作業と性質を異にして、自分について考えることをしなければならない。考えるには、考える道具としての言葉を知る必要が(決して「漢字を知」ることではない)生じてくる。

 わば、考えることを始めれば、言葉は後からついてくる。覚えた一つの漢字、あるいは一つの計算式が、考える作業に従って覚えただけの範囲に限った理解にとどまらずに、次への理解への発展(考えの広がり)を促す契機となるからである。 いくら漢字をたくさん知ったとしても、考えることを必要としない暗記教育が覚えた漢字をその読み方・書き方・理解した意味のみの範囲にとどめて、考える言葉に発展しなかっただけのことである。

 えとは、一人一人が違って然るべきである。それは人間の違いによって生じなければならない違いであろう。そのような違いがそれぞれの独自性を生む。

 た、違いを成すことが創造性を意味する。ゆえに、創造性は独自性を兼ねている。

 える習慣を植えつけることによって、独自性と創造性は自然と育まれていく。その方法の一つとして、教師は生徒に、「君たちはどんな世界に生きているのか」、「どのような世界を持っているのか」を機会あるごとに問うことをし、生徒に自らの世界を常に自覚させることが有効ではないだろうか。

 やでも自分がどんな世界に生きているか、どんな世界を自分の世界としているか、考えざるを得ないからである。

 君たちが勉強したり、何か新たに経験して、何かを学んだりするのは、自分の世界を広げることである。学ぶことによって、世界は広がる。学ばなければ、世界は広がらない。学んで、広げた世界で生きるか、広げない狭い世界で生きるかは、それぞれの自由ではあるが」

 本を読んだり、映画を見たりして、映画や本の世界を仮想経験することも、自分の世界は広がる」

 いくらいい大学に入り、いい会社に就職していい給料を手に入れたとしても、自分の世界を広げることができなければ、自分の持つ世界の大きさで人に負けることになることもある」

 歴が絶対ではない教訓になるだろう。

 世界を広げる」とは、あるいは「自分がどんな世界に生きているのか」を問うことは、とりもなおさず、考える力を養うことであり、同時に、可能性を探る道ともなる。可能性の実現は、自分の生きる世界を定めることを第一歩として、初めて為し得る。

 自己の世界を問い続けることによって、考え抜く力をも育むことになるだろう。

 た、自分の世界≠セけではなく、 近親者等の身近な人間の世界≠ノ関心を持ったなら、それは自己認識能力に加えて、他者認識能力へと道を開く扉となり得るはずである。

 校教師も、生徒にそう問うことによって、自分も自分の生きている世界を考えずにはいられなくなる。自他の認識能力のみならず、自省心をも刺激させずに おかないだろう。自己の世界が女生徒盗撮を欲する世界だったなら、第三者の目で眺めるキッカケにならないとも限らない。

 れぞれの世界≠問うと言っても、日本の教育が作文や感想文を書かせることを得意分野の一つにしているからと言って、「どんな世界を自分の世界としているか」と言ったことをテーマに作文や感想文に書かせることはしないほうがいい。書き、評価を得るために、創作という情報操作に手を染めないとも限らないし、人には知られたくない世界を抱えていることもあるからだ。あくまでも問いかけるだけで、生徒それぞれに考えさせる方法を取らなければならない。

 親との関係・母親との関係、一人親なら、両親のいる生徒とは異なった、その親との関係、兄弟・姉妹との関係、一人っ子なら、一人っ子としての親との関係、友人との関係・・・・関係する人間も異なれば、関係構成も異なる。趣味や関心対象の違い(=可能性の違い)――それぞれが人と違う自分を把えていく。自分と自分の世界を。時間と成長を経れば、当然自己も変化し、自己の変化に応じて、自己の世界 (=自己の考え)も変化していく。その変化を外側から把える。

 徒の世界≠問うことはまた、世界≠フ違いを 認知することでもある。認知することができなかったなら、問うことはできない。当然、生徒それぞれの可能性の違いも認知しなければならない。

 して、学校社会でのそのような可能性の風景を実現させるには、既に言ったように、学校がテストの成績と運動能力に限った可能性の場となっていることを改めることを絶対条件としなければならないのは言うまでもない。

 校荒廃は、可能性の多様化と言いながら、学校・教師が旧態依然として、テストの成績と運動能力の可能性しか用意していないことによるミスマッチから生じている。

 わば学校は生徒の持つありとあらゆる可能性に応え得る場とならなければならない。教育の場ではなく可能性育成の場への転換である。可能性の育成を通して、いかようにも基礎学力と言っている知識は育むことができる。その基礎学力は、暗記式の知識であることから免れた内容となるだろう。

授業形式の提案

  ストの成績を自らの可能性追求の機会とする生徒 を対象として、暗記学力を捨てて、思考能力を取るとした場合の授業形式を提案してみる。勿論、テストの成績を自己の可能性とし得ないその他大勢の生徒にも役に立つはずである。

 どんな世界に生きているのか」、「どのような世界を持っているのか」の問いは、生徒の可能性に関係なしに、すべての生徒に聞くことをするのは言うまでもない。

  語の授業の場合は、何年生までに当用漢字をいくつ覚えさせるといったことはしない。予習も個人の判断に任せる。その場勝負で、その日の教科書の勉強箇所を全員に黙読させる。読めない漢字・意味不明の漢字に出会ったなら、漢字辞書で調べさせ、書き止めておきたい生徒には教科書の余白かノートに書き止めさせる。そのために全員の生徒に漢字辞書を常に机上に用意させておく。電子辞書でも構わない。

 
読を終えたら、教師が何を言おうとした文章なのか、作者はどのような考えの人間なのかといったことを任意に指差した複数の生徒に質問し、それぞれの回答を他の生徒に検討させることを繰返して、生徒それぞれの考え・判断を深めていく。教師は、「君はどう思う?」といった具合になるべく全員に質問する。誘導と訓練次第で、討論により多くの生徒が加わるだろう。討論とは、生徒に考える機会を提供することを意味する。考えることによって、考え (=世界)が広がる。

 そのためには、人間の本質を問い、知らしめる内容の文学が最適の国語教材になるのではないだろうか。人間の本質を問い、知ること(人間の現実を知ること)は、では、自分はどういった人間なのだろうかと問う省察能力(自己客観視能力――「自分はどんな世界に生きているのだろうか」)の育成にもつながる。

 語教科も、同じ方法を取る。 例えば、シェークスピアの一つの作品をじっくりと1年間かけて、繰返し徹底的に分析するのも、人間の姿を問い、知る高度の勉強となるはずである。

 学は実社会で利用されている実地例に基づいて、どのような目的で、どう計算し、計算した数値をどう読み取ることによって、目的とした情報を如何により広範囲に把握するかを教える方法を取る。

 DPの統計計算でもいいし、失業率の統計計算でもいい。実際の年度に即して計算させたなら、社会の情勢や日本という国の動きを知る契機ともなる。当然のこととして、生徒それぞれの世界が広がる。

 罪率や逮捕率の計算、貿易高の計算等々、教材に事欠かないはずである。このような数学の授業方法は、社会科との有機的な相互作用をもたらす。

 に犯罪に関する年齢別・職業別・性別といった各種の統計計算は、犯罪の種類・傾向、さらに人間の欲望といった、人間の現実の姿 をも併せ学ぶ機会を提供して、犯罪に関係した自己省察能力を高めるキッカケにならないことはないはずである。

 数や小数点の計算も、内閣支持率や政党支持率、その他の世論調査などから導き出すことができる。世の中の動きを知ることは自分の世界を広げることでもある。 一つの計算とその答が、それのみの成果を超えて、次なる関心を促さないはずはない。

 々な世の中の動きを知る過程で、自分の関心(したいこと=可能性)が見つかることもあるだろう。

 何学の計算は校庭に植えてある樹木の高さを陰と角度から計算するとか、校舎の階段の全体の高さを一段の蹴込みの高さと踏板の奥行きから計算するとか、あるいは自分たちが住む街の橋を取り上げて、コンクリートや使用されている鉄筋の総量とそれぞれの比重から、橋自体の全重量といった計算、その逆の計算も可能である。

 のように現実社会の事物・出来事を通した勉強(人間の勉強を含む)は、社会そのものに目を向ける機会の意図的・自覚的な生徒への提供を意味し、そのような意図的・自覚的提供は、生徒がそれに応えた場合、生徒の社会に向ける視線も意図的・自覚的性格を帯びて、机上の計算では経験不可能な、対象に対する関心と対象を見る目が養われていくこともあるはずである。

  論のこと、意図的・自覚的に目を向けるとは、対象について自分から進んで考えることを意味する。考えるとは、学ぶことである。 世界を広げることである。

 のように各々が自ら進んで考え、学ぶようになったとき、もはや自立(自律)と言えるではないか。このような自律(=「何のために勉強するのか」と人に問われて、他人の教えを必要とせずに、自分で考えて的確に答を導き出すことのできる種類の主体性)こそ、日本社会の集団主義性・権威主義性を薄める役割を担う。決して不可能ではない。
 

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