教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
月)
いつかは
何度でも繰返し言っていることだが、日本人の行動様式・思考様式が日本の社会をつくり上げている。外国、特に欧米からの生活や技術・制度と言った広い意味での文化の移入に関しても、その定着は、やはり日本人の行動様式・思考様式の影響を受けた形式・内容となる。いわば、日本の社会の姿は当然の如くに日本人自身の行動様式・思考様式の反映としてある。
例えば、5、6年後には100万人に達すると言われている、ニートと呼び習わされてる働かない若者や、200万人を超すとされるフリーターの存在などの若者の就業に関する社会現象を教育の責任だとするのは、教育と社会が断絶した関係にあると取る考えからのものだろう。 働かない若者、あるいはアルバイトに毛の生えたようなフリーター仕事を30近くになっても続けている若者が増えたのは、なくなってしまったわけではない汗にまみれ、油にまみれて労働する姿を社会が見せなくなった結果としてある風景なのではないだろうか。 若者の生き方に多大な影響を与えるテレビが見せる主人公の働く姿は殆どがサラリーマンで、それも高級レストランで高価なワインやブランデーを飲み、高価な食事をし、住いも高級マンションを根城にしている、それを可能とする高給が保証された大企業の社内地位の高い、少なくとも将来を有望視されたハイセンスな若者ばかりといっても過言ではない。 また誰もが飛び切りの活躍ができるわけでもないのに、テレビ・新聞はスポーツ・芸能等で活躍する人間を多くの時間を割き、最大限の賛辞を用いて取り上げ、結果として最も人間らしい人間としての扱いを施す。 そういった世界での現実に近い一般的な若者は影の薄い脇役でしか登場しない。いわばは 異質的存在となっている。 そのような社会につながる中間地点としての学校社会で、可能性の機会としてそれしか与えられていないテストの成績、あるいは運動能力から弾き出されることで脇役としての予備軍を形成し、そのまま現実社会に延長・転移したニートであり、フリーターなのではないだろうか。
言うまでもなく、日本人の行動様式・思考様式が権威主義を内容としているのは既知の事実である。権威主義とは、上が下を従わせる関係性(意思の制約)を言い、そこからあらゆる存在を上下=優劣の価値で関係づけるシステムが生じている。そのような文化・風土がつくり出している現象として、東京一極集中・読売巨人軍への人気の集中・東京大学に対する最高学府神話等々がある。自民党の一党独裁も、同じ文化・風土の産物であろう。
教育分野に於ける権威主義は、いじめや対教師暴力・授業崩壊等によって、教師対生徒の関係に関しては一見、綻びを見せているようにも見えるが、真面目に勉強をするおとなしい生徒に於いても同じだろうか。確実に言えることは、学歴獲得に関しては、権威主義はなお健在である。そのことは、現在も根強い東大神話を頂点とした学歴信仰に最も象徴的に現れている。
問題は日本の教育・教育方法自体が権威主義の反映であり、その感化を受けて取得した知識・思考が多くの日本人が伝統的に受け継いだ権威主義の行動様式を補強して、日本の社会を限定づけている点であろう。尤も、それをよいと見るか、見ないかによって、論理展開は違ってくる。
この構図は教師対生徒が上下=優劣の関係性を築いているからこそ可能となる方式である。いわば、権威主義の上が下を従わせる関係性(意思の制約)を前提とした場合のみの、意思伝達の必然的現象が暗記形式である。
伝達される知識・情報をなぞり、なぞったまま暗記するという知識・情報の授受は知識・情報の単なる受け渡しに過ぎない。暗記とはまさしくそう いうことであろう。ゆえに暗記は、授受の過程で、自身の考え・経験等に照らして、自己独自の解釈を行い、自己独自の意味の抽出を試行錯誤しながら、自己独自の知識・情報とする過程を省く。 その社会的成果が、一般的な日本人に冠せられた、他からの指示(知識・情報)がなければ動けない、裏返すなら、自分の判断では動けない態様を指摘する指示待ち人間・マニュアル人間・横並び人間といった社会的人種の蔓延であろう。暗記は自分の判断を必要としないからである。いや、暗記を成立させるためには、自分の判断は阻害要因となって立ちはだかる。
これは今に始まった社会的な人間態様ではない。歴史的・伝統的に受け継いできた日本人の思考様式・行動様式としてあるものである。 その和を力として、軍国主義は国民を総洗脳化できたし、戦後は農業・林業を切り捨てて偏った国の姿としながらも、工業に一極集中させる和を実現せしめて経済発展を遂げ、経済大国にもなれた。 そのようにも一つのことを全体として、そこに力を集中させる集合力にはすばらしいものがある。それをエネルギーとして、世界的に高い評価を得ている日本の誇る技術力を獲得してもきた。すべては暗記教育と、その原理を成している集団主義・権威主義の思考様式・行動様式の成果としてあるものである。
かくこのように日本の教育がどのようなものであれ、現在の対外的な成果を考えた場合、暗記という原理そのものを否定し去ったり、否定しなくても、貶めたりしなくてもいいではないか
、そんなことをしたら、日本人の存在様式そのものを歪めることになるいう議論もあるだろう。
その他にも多々ある。現在盛んに言われている地方分権というものを見てみよう。日本の政治権力構造は、地方が中央に従属する権威主義の形式を取った中央集権型であり、その下で近代化を押し進めてきた。その成果が現在ある日本の姿である。日本の中央主権は、長い期間に亘った一党独裁を経て、現在もなお政権党として君臨している自民党支配のピラミッド型権力構造と対応する関係にあるが、日本人が、上が下を従わせる権威主義を行動様式・思考様式としている関係上、当然な姿とも言える。 ではなぜ今、地方分権なのだろうか。経済大国としての日本の姿を誇るなら、従来どおりの中央集権型で、手を加える必要がないではないか。それでは時代に即さないから、いけないという。一種の否定である。 国は権限と補助金で地方を支配してきた。地方は権限のお手柔らかな遂行と補助金獲得のために接待などを通じて中央の政治家・官僚に深々と、あるいはペコペコと頭を下げることを常の役目とし、そのたびに上下=優劣の従属関係を相互に知らしめ、不動なものとしてきた。 但し、その場限りの演技でしかないかもしれないそのようなへりくだりの見返りに、地方は、自らは余り考えず、国の指示に従い、地方同士が同じことをなぞっていれば間違うことはなかった。 同じこととは、国が自らの発想能力の貧弱さによって地方への指示を全体化したから、地方の違いがなくなり、全国的に一律化したからである。国が全国的に同じことを指示し、地方同士が指示されたなりに横並びに同じことをしていれば完結したのだから、このような方式は国・地方とも、自らの間違いを見えにくくすることができたというメリットがあった。 このような国対地方の姿は、学校社会における教師対生徒の権威主義的人間関係と同種・同質の関係にあり、相互的な間柄にあるのは言うまでもない。教師は文部省が検定した教科書の内容をなぞり、その内容をなぞったなりに生徒に伝達していれば、役目を果たせた。生徒も、教師が伝える、教科書をなぞっただけの知識を同じくなぞって、頭の中になぞったなりに記憶させ、テストの設問になぞった知識を取捨選択してうまく当てはめることができれば、生徒としての役目を果たせた。 だが、国と地方、あるいは教師と生徒の、このような意思の伝達に於けるなぞり・従う暗記形式の原理的な関係性は下の意思を制約することによって、下の自律を阻害する機能を伴う。 いわば、自律なくして成り立っていた中央集権であり、日本の教育だったのである。 そのような非自律性が軍国主義を生み、地方の衰退(過疎化・農業、林業の切捨て)を生み、また教育の荒廃に影響しているのである。 但し、そのことからの地方の自立が言われ始めたわけではない。際限もなく長引く底なしの不景気による国の財政事情の悪化が国対地方の姿に止むを得ない変化をもたらした結果の自立要求に過ぎない。
いわば、これまでの補助金のバラ撒きによる地方支配が困難となったために、補助金削減を打ち出さざるを得なくなり、その埋め合わせに中央の権限の縮小化と、それに対応して地方の自由裁量を広げざるを得なくなったということである。地方も、補助金削減によって、国への依存一辺倒ではやっていけなくなった。その結果として導き出されたスローガンが、地方の被支配慣れからくる中央依存からの自立(=中央の地方支配の見直し)である。先に来るべきスローガン(政策)が後から付け足されたのである。
但しである。紆余曲折を経てのことだろうが、兎に角も権限及び税源の移譲がより公平な形で実現して、地方が国との煩わしい関わり・交渉の機会を少なくすることができたとしても、権威主義的思考様式・行動様式から自由になることができなければ、現在までの国対地方の上下関係が、今までも存在した県を頂点とした各市町村とのピラミッド型上下関係に上乗せされない保証はない。
いわば県が国に取って代わって、県単位の中央集権が以前よりも強固な形で形成される可能性である。県の役人が中央の政治家・官僚を接待してペコペコと頭を下げ、媚を売って予算獲得にあくせくしてきた厭な役目を、自分、もしくは県の
方が上だという意識から、今度は市区町村の役人に押し付けないかという恐れである。権威主義の行動様式・人間関係を放置したままでは、国から県に舞台を移して再演される主従劇となる可能性は決して少なくないだろう。
例えば、少子化。権威主義が原因としていないことはあるまい。女性の社会進出、あるいは社会的地位の向上という時代的な一里塚を無視して、妻が育児・家事を行うのは当然、夫は外で働いて、生活費を稼いでくるのが務めといった男尊女卑の名残りである権威主義が、積極的に育児・家事に参加しない夫側の固定観念を今なお顕在化させていて、妻の妊娠・出産を困難なものとしていることからの出生率の低下ということもないだろうか。 尤も、生めよ・殖やせが女の性だと、時計のネジを逆回しにできるなら、少子化の問題は解決可能となる。 但し、ネジの逆回転は、集団主義・権威主義の原理主義への回帰をも意味する。男と女を以前の男尊女卑の存在様式に戻すということである。 あくまでも可能ならの話である。社会的現象としてある、20年、30年と連れ添ったにも関わず、子供が高校・大学を卒業して社会人になるのを契機とした熟年離婚は、夫側の上が下を従わせる横暴、あるいはソフトな亭主関白行為(妻存在の無視)に対する、妻の子供が成長するまではと我慢に我慢を重ねて従った忍耐の経緯を十二分に窺わせる、夫婦間の権威主義が災いした結婚に於ける一つの結末(妻存在の主張)は、男尊女卑が相当に和らいだ時代となっているにも関わらず、そのことへの拒絶意志を示すもので、過去への回帰が世界規模のものなら、諦めを誘いもするが、日本だけの回帰は保守化との批判を受けて、逆効果しか生まないだろう。
産休や育児休暇を増やすとか、保育所待機乳幼児を減らすための保育所の整備といったことだけで片付く問題ではない。
女性と言えば、社会進出が言われて久しいが、総合職受験者数に占める採用者(内定者)の割合は、男性3・1%に対して、女性は0・9%、女性の総合職は全体の僅か3%としか占めていないそうで
(04年時点)、世界で経済大国第2位につけながら、欧米に比較した女性の幹部社員登用が格段に低いのは、男女間に権威主義の上下=優劣の力学が働いているからなのは否定できまい。
有色人種のスポーツ選手に対する身体能力が高いという評価は、頭脳の点を除いた身体性に限った評価だから差別語に当たるとする人間がいるが、これは大きな間違いである。殆どの場合、高い身体能力は優れた頭脳の裏打ちがなければ、素晴らしい記録につなげることは困難である。 彼らが文章を読む力がなくても、読む習慣を持たなかったからに過ぎない。他人の書いた文章をうまく読めなくても、自分がプレーするスポーツに関して、気のきいた、時には哲学的な言葉を口にすることができる。それは常に最良の動きを追求すべく、考えることをやめずに練習し、プレーしているからである。 例えばアテネオリンピック女子バスケットボール競技で米チームが金メダルを獲得し、アトランタ・シドニーと続いて3連覇を成し遂げたが、チームの一員である黒人女性のレスリーの金メダル獲得の感想は、「3人の子供がいれば、それぞれ性格が違うように、五輪の喜びもその時々で違う」だった。日本選手の、「最高にうれしい」「みなさんの応援のお陰です」「責任を果たせた」といった言葉から比べたら、何と含蓄に富んだ哲学的・社会的な言葉だろう。 暗記教育で育ち、暗記的思考を染み込ませたままで終わっている日本人だったなら、このような気のきいた言葉は口にすることは難しい。暗記的思考は他人がつくった言葉・思考をサンプルとしてなぞることしかできないからだ。だから、みな似たり寄ったりの言葉となる。 黒人・ヒスパニックの学校の成績(学力)が一般的に白人よりも劣るとされているのは、外で飛び回る習性を血とし、本能としているからではないか。それは親から受け継いでいると同時に、特性として種そのものから受け継いで共通化した活動性の、あくまでも違いであって、言ってみれば、生命活動の形態の問題であろう。
いわば、体質遺伝的に獲得した優れた肉体性・身体能力の自然な形として要求される優先的な躍動志向が逆に学校の教室や家の勉強部屋といった狭い空間での身体の活動を一切伴わない、じっと座ったまま頭だけを働かす、躍動感のない作業が苦痛以外の何ものでもないといったことも原因しているのではないだろうか。
だが、学校が教師対生徒の関係を上下=優劣のまま固定して、上が下を従わせる知識伝達を続けることでより確かに刷り込むこととなる権威主義を習性とした生徒を順次社会に送り出したなら、努力して浄化した水にもとの濁り水を混入するようなものだろう。
教育は強制であると考える人たちは、「日本の教育は」と条件をつけるべきだろう。勿論、教育を強制としている国は他にもあるが、強制が最も極端な方向にぶれている北朝鮮の教育を見れば、暗記=強制だと容易に理解できる。西側民主主義の思想には触れさせず、自分たちに都合のいい知識だけを植えつけるためにも、北朝鮮としては教育は強制でなければならない。
暗記が上の指示・知識を言いなりになぞらせる単純な伝達形式であることは既に言った。教科書をなぞる形で暗記させ、暗記させた知識を質問に当てはめさせて、テストでその成果を問う過程で、教科書にない指示や知識が邪魔者として侵入してくることもなく、また余分な知識を教える必要もない煩わしさのなさが、教師にとって都合がよく、暗記教育慣れさせている面がある。そのことがゆとり教育や総合学習の定着を妨げる原因となっていないことはあるまい。
総合学習には教科書がなかったから、学校は何をどうしていいのか分からず、文部省(現在の文科省)にお伺いを立て、文部省は手引書をこしらえた。手引書とは、教師たちにとっての教科書を意味する。 手引書(教科書)を必要とすること自体、自分たちが学校教育者でありながら、情けないことに独自に授業内容を、あるいは伝達知識(情報)を創造することができず、なぞる対象を必要としたということであり、自己の思考・行動を手引書(教科書)に従わせる権威主義を働かせていたことを証明している。 文部省の指導よろしきを得て、生徒にテーマを決めさせ、その多くは教師が主導して決めさせているようだが、総合学習の時間を週に何時間か決めて、地域の老人から昔の生活の話を聞いたり、近くの川に出かけて水中の生き物を観察したり、工場見学をして、何がどう完成するのか説明を聞いたりして、それら学んだことを発表させたりしているようだが、教材としての老人の話・生きもの観察の教師の説明・工場見学の工場の人間の説明を一方的に話させ、聞く方も一方的に聞くだけで、暗記教育と同じく、上が下を従わせる知識の伝達だけで終わらせてはいないと思う。 但し、全国的に総合学習授業が類似したものとなっているということである。文部省の手引書を唯一の水源として、それを学校・教師の上に従い・下に従わせる集団主義・権威主義を経過させて生徒に届けているのだから、同一化したとしても何ら不思議はない。
となると、総合学習にしても暗記形式を踏んでいる疑い濃厚だが、それが単なるあらぬ疑いだったとしても、週に何時間かの総合学習に対して、後の圧倒的に多い普通教科で生徒をして暗記形式の感性をせっせと刷り込ませていたなら、総合学習の時間で「自ら考え、主体的に判断」するという意思決定能力は満足に機能
させていただろうか。
総合学習と暗記学力は逆比例の関係にある。「自ら考え、主体的に判断」する総合学習を取り入れたなら、暗記知識でしかない学力は初期的には当然低下する。いや、週に何時間か総合学習に時間を取られたこと自体、暗記が時間をかけることで成果が得られる性質上、学力低下は予定調和としなければならなかったのだが、予知できなかった地震の発生の如くに大騒ぎした。
また、暗記は同じ知識・同じ情報を内容とする。すべての生徒が100%暗記した場合を考えるとよく分かる。違いは教科書の違いからくる暗記内容の違いだけだろう。違いと言えるものではなく、似たり寄ったりに比重が置かれる。 暗記学力を取るか、「自ら考え、主体的に判断」する思考能力を取るか、両者が二兎の関係にある以上、二者択一しかない。「自ら考え、主体的に判断」する行為こそ、自律行為に他ならない。自律は地位上の権力を必要としないゆえに、上下=優劣の権威主義性からの離脱をも意味する。 ある宗教者が、「疑いを持って問い続けることによって、人間に振りまわされない真実が明らかにされる」という親鸞の言葉を引用して、「教育に宗教心を生かす目的は考え抜く人間を育てることだ」と主張していたが、そもそも教育の目的自体が、宗教とは関係なく、「考え抜く」力を育むことを目的としているものだろう。漢字を覚えるのも、計算能力を高めるのも、そのことが直接的な目的ではなく、「考え抜く」力を育む補助としてあるものである。 ところが、漢字の習熟も計算の学習も、そのことが直接の目的となってしまっている。いや、日本の教育は歴史的・伝統的に、そのことを目的としてきた。だからこそ、中央集権でやっていけなくなったからといって、地方の自立を言い出したように、総合学習を言い出したのだろう。 言い出したものの、学校・教師の暗記教育慣れによる集団主義・権威主義離れのできないことが、総合学習を機能マヒに陥れ、加えて暗記に割くべき教科授業の時間が総合学習に取られたために、暗記学力の低下まで招く、虻蜂取らず状態に陥ってしまった。 そして、世界的なテストで日本の生徒の成績が低かったことが決定的な要因を成して、教育を本来の機能に戻す考えもなく、たちまち慌て出したように学力強化に走り出したといったところだろう。 基礎学力と言えば、聞こえはいいが、単に従わせて覚えさせる学力(暗記)が「考え抜く」力へと発展させようがない。漢字をいくらたくさん覚えたからといって、考える力につながりはしないのと同じである。社会の情報から、そこそこに考える力はつくが、その授受に関しても、単になぞり・従う形式を踏襲するだけだから、人を超えて違いを示すことは難しく、誰もが似たり寄ったりであることから免れはしない。 今の若者がいくら芸能界の話題に事欠かずに精通していたとしても、メディアが発した情報を内容を変えずに多く知っているか、多くは知っていないかの違いしか生じないのと同じである。 教育に於いても、同じ形式が生じている。と言うよりも、同じ形式で相反応しあっている。漢字の習熟や計算の学習を基本目的としてテストの成績の獲得を二次目的に据え、その先にいい高校・いい大学への入学、そしていい企業に就職してよりよい生活を手に入れることを最終目的と した教育の構造で言えば、社会の情報の多い・少ないの違いが、より上に到達するかしないかに取って代わるだけでの内容を示すものになっているだけで、到達度に応じた知識の内容はさして違い はない対応性のことである。 そのようにも教育が生活上の実利行為となっていること以外に内容空疎なものとなっているから、生徒に「何のために勉強するのか」と問われても、教師はテストの成績に応じて、社会の各階層段階に送り届けるための教育だとは正直に答えられないだろう。 逆説するなら、生徒に正直に答えられない教育を押し付けているということである。 「なぜ勉強するのか」――その他生徒に問われて保護者や教員が答えた代表的な模範解答を大学教授が集めてトランプにしたと報道にあった。教師、あるいは親がそれぞれに自分の考えで答えるべき事柄を、他人がサンプルとして提供すること自体が異常なことだが、それを異常だと、誰も、教師にしても問題にしない。それを利用する学校教師は、教育者という立場にありながら、恥ずかしくないのだろうか。 「なぜ勉強するのか」という問いに対する主なサンプル回答を見てみる。
「漢字を知っていると、本がたくさん読める」 威したりすかしたりの内容となっている。 まず第一番に確実に言えることは、 以上の答が全国標準になるだろうと言うことである。既に総合学習で、文部省が手引書を作成したことで前科を犯していることの同じ繰返しに位置したものだからである。 このことこそまさしく、下に従わせ・上に従う集団主義・権威主義の力学に力を借りた、と言って悪ければ、力学に添った指導であり、その先に控えている光景は、上(教師)が伝達される知識・情報をなぞり、なぞったまま下(生徒)に伝える、暗記教育の原理としてある機械的な意思伝達・情報伝達への誘導と、その誘導への加担の構図であろう。 次に言わなければならないことは、社会が多様な可能性を 闘わせる場となっていながら、そのことに反して学校社会がテストの成績と運動能力の二つの可能性に限定して闘わせることができないことから、その他大勢の生徒がどちらの可能性にも満足のいく内容で適応できないことが原因となって、勉強するそもそもの入口で二の足を踏んでいる、あるいは拒絶されていることを何ら考慮しない内容のサンプル回答となっているために、そのような生徒にとって、「漢字を知っていると、本がたくさん読める」と言 われようと、「将来なりたい職業に就くため」と言われようと、「苦しいことに打ち勝つ力を力をつけるため」、その他何と言われようが、 問題解決の糧とならないことが予測されると言うことである。 具体的に言うなら、自分の可能性が明瞭に把握できないながらも、テストの成績で自己実現させることではない と、あるいはテストの成績で自己実現できないと漠然と、あるいははっきりと感じている生徒に、「漢字を知っていると、本がたくさん読める」と言ったとしても、学校で指示する読書自体がテストの成績を上げる実利性に関連付けられている 内容の書物である関係から、入口で戸惑うだろうと言うことである。 大体が漢字を知って、本を読むのではなく、本を読むことを通して、漢字を知る手順を踏むのが本来的な教育の姿であり、そのようなプロセスを全うするための必要事項として、考える作業が否応もなしに介在して、その結果として考える力が身につくという経緯でなければならないのではないだろうか。 それを、何でもいいから、漢字をたくさん知って、たくさん本を読んでおけば、「将来なりたい職業に就」けるし、「個性」の「発見」に役立つと言ったとしても、学校社会がテストの成績を最優先的実利としていることと矛盾するまやかし・欺瞞の類の犯罪行為となるだけだろう。 となれば、学校はまず生徒一人一人の可能性の発見から始めなければならない。その方向に進むとしたなら、当然、権利意識が発達し、可能性が複雑多岐に交錯する今の時代・今の社会に対応して、学校社会に於いても、生徒の可能性に関して必然的に多種多様性を帯びなければならい。 と言うことは、生徒の可能性をテストの成績(=学歴の獲得)と運動能力に限って、そこに押し込めようとすること自体が、既に時代遅れだということである。権利意識がそのことを許さなくなっていることに、多くの人間が気づかないでいる。 テストの成績の底上げのために疑問もなく暗記教育のレール乗ることのできる生徒はそれはそれでいい。そういう生徒ばかりだったなら、授業崩壊も学校荒廃も起きはしないだろう。授業崩壊・学校崩壊・ 校内暴力等は、そういう生徒ばかりではないことの傍証としてあるものだろう。 そうではないその他大勢の生徒の可能性の発見は、他人のアドバイスが力となることもあるが、何よりも自己自身の力で果たさなければならない人生の務めであろう。 可能性を知るには、学校の暗記知識を記憶する作業と性質を異にして、自分について考えることをしなければならない。考えるには、考える道具としての言葉を知る必要が(決して「漢字を知」ることではない)生じてくる。 いわば、考えることを始めれば、言葉は後からついてくる。覚えた一つの漢字、あるいは一つの計算式が、考える作業に従って覚えただけの範囲に限った理解にとどまらずに、次への理解への発展(考えの広がり)を促す契機となるからである。 いくら漢字をたくさん知ったとしても、考えることを必要としない暗記教育が覚えた漢字をその読み方・書き方・理解した意味のみの範囲にとどめて、考える言葉に発展しなかっただけのことである。 考えとは、一人一人が違って然るべきである。それは人間の違いによって生じなければならない違いであろう。そのような違いがそれぞれの独自性を生む。 また、違いを成すことが創造性を意味する。ゆえに、創造性は独自性を兼ねている。 考える習慣を植えつけることによって、独自性と創造性は自然と育まれていく。その方法の一つとして、教師は生徒に、「君たちはどんな世界に生きているのか」、「どのような世界を持っているのか」を機会あるごとに問うことをし、生徒に自らの世界を常に自覚させることが有効ではないだろうか。 いやでも自分がどんな世界に生きているか、どんな世界を自分の世界としているか、考えざるを得ないからである。 「君たちが勉強したり、何か新たに経験して、何かを学んだりするのは、自分の世界を広げることである。学ぶことによって、世界は広がる。学ばなければ、世界は広がらない。学んで、広げた世界で生きるか、広げない狭い世界で生きるかは、それぞれの自由ではあるが」 「本を読んだり、映画を見たりして、映画や本の世界を仮想経験することも、自分の世界は広がる」 「いくらいい大学に入り、いい会社に就職していい給料を手に入れたとしても、自分の世界を広げることができなければ、自分の持つ世界の大きさで人に負けることになることもある」 学歴が絶対ではない教訓になるだろう。 「世界を広げる」とは、あるいは「自分がどんな世界に生きているのか」を問うことは、とりもなおさず、考える力を養うことであり、同時に、可能性を探る道ともなる。可能性の実現は、自分の生きる世界を定めることを第一歩として、初めて為し得る。 自己の世界を問い続けることによって、考え抜く力をも育むことになるだろう。 また、自分の世界≠セけではなく、 近親者等の身近な人間の世界≠ノ関心を持ったなら、それは自己認識能力に加えて、他者認識能力へと道を開く扉となり得るはずである。 学校教師も、生徒にそう問うことによって、自分も自分の生きている世界を考えずにはいられなくなる。自他の認識能力のみならず、自省心をも刺激させずに おかないだろう。自己の世界が女生徒盗撮を欲する世界だったなら、第三者の目で眺めるキッカケにならないとも限らない。 それぞれの世界≠問うと言っても、日本の教育が作文や感想文を書かせることを得意分野の一つにしているからと言って、「どんな世界を自分の世界としているか」と言ったことをテーマに作文や感想文に書かせることはしないほうがいい。書き、評価を得るために、創作という情報操作に手を染めないとも限らないし、人には知られたくない世界を抱えていることもあるからだ。あくまでも問いかけるだけで、生徒それぞれに考えさせる方法を取らなければならない。 父親との関係・母親との関係、一人親なら、両親のいる生徒とは異なった、その親との関係、兄弟・姉妹との関係、一人っ子なら、一人っ子としての親との関係、友人との関係・・・・関係する人間も異なれば、関係構成も異なる。趣味や関心対象の違い(=可能性の違い)――それぞれが人と違う自分を把えていく。自分と自分の世界を。時間と成長を経れば、当然自己も変化し、自己の変化に応じて、自己の世界 (=自己の考え)も変化していく。その変化を外側から把える。 生徒の世界≠問うことはまた、世界≠フ違いを 認知することでもある。認知することができなかったなら、問うことはできない。当然、生徒それぞれの可能性の違いも認知しなければならない。 そして、学校社会でのそのような可能性の風景を実現させるには、既に言ったように、学校がテストの成績と運動能力に限った可能性の場となっていることを改めることを絶対条件としなければならないのは言うまでもない。 学校荒廃は、可能性の多様化と言いながら、学校・教師が旧態依然として、テストの成績と運動能力の可能性しか用意していないことによるミスマッチから生じている。 いわば学校は生徒の持つありとあらゆる可能性に応え得る場とならなければならない。教育の場ではなく可能性育成の場への転換である。可能性の育成を通して、いかようにも基礎学力と言っている知識は育むことができる。その基礎学力は、暗記式の知識であることから免れた内容となるだろう。
テストの成績を自らの可能性追求の機会とする生徒 を対象として、暗記学力を捨てて、思考能力を取るとした場合の授業形式を提案してみる。勿論、テストの成績を自己の可能性とし得ないその他大勢の生徒にも役に立つはずである。 「どんな世界に生きているのか」、「どのような世界を持っているのか」の問いは、生徒の可能性に関係なしに、すべての生徒に聞くことをするのは言うまでもない。
国語の授業の場合は、何年生までに当用漢字をいくつ覚えさせるといったことはしない。予習も個人の判断に任せる。その場勝負で、その日の教科書の勉強箇所を全員に黙読させる。読めない漢字・意味不明の漢字に出会ったなら、漢字辞書で調べさせ、書き止めておきたい生徒には教科書の余白かノートに書き止めさせる。そのために全員の生徒に漢字辞書を常に机上に用意させておく。電子辞書でも構わない。
そのためには、人間の本質を問い、知らしめる内容の文学が最適の国語教材になるのではないだろうか。人間の本質を問い、知ること(人間の現実を知ること)は、では、自分はどういった人間なのだろうかと問う省察能力(自己客観視能力――「自分はどんな世界に生きているのだろうか」)の育成にもつながる。 英語教科も、同じ方法を取る。 例えば、シェークスピアの一つの作品をじっくりと1年間かけて、繰返し徹底的に分析するのも、人間の姿を問い、知る高度の勉強となるはずである。 数学は実社会で利用されている実地例に基づいて、どのような目的で、どう計算し、計算した数値をどう読み取ることによって、目的とした情報を如何により広範囲に把握するかを教える方法を取る。 GDPの統計計算でもいいし、失業率の統計計算でもいい。実際の年度に即して計算させたなら、社会の情勢や日本という国の動きを知る契機ともなる。当然のこととして、生徒それぞれの世界が広がる。 犯罪率や逮捕率の計算、貿易高の計算等々、教材に事欠かないはずである。このような数学の授業方法は、社会科との有機的な相互作用をもたらす。 特に犯罪に関する年齢別・職業別・性別といった各種の統計計算は、犯罪の種類・傾向、さらに人間の欲望といった、人間の現実の姿 をも併せ学ぶ機会を提供して、犯罪に関係した自己省察能力を高めるキッカケにならないことはないはずである。 分数や小数点の計算も、内閣支持率や政党支持率、その他の世論調査などから導き出すことができる。世の中の動きを知ることは自分の世界を広げることでもある。 一つの計算とその答が、それのみの成果を超えて、次なる関心を促さないはずはない。 様々な世の中の動きを知る過程で、自分の関心(したいこと=可能性)が見つかることもあるだろう。 幾何学の計算は校庭に植えてある樹木の高さを陰と角度から計算するとか、校舎の階段の全体の高さを一段の蹴込みの高さと踏板の奥行きから計算するとか、あるいは自分たちが住む街の橋を取り上げて、コンクリートや使用されている鉄筋の総量とそれぞれの比重から、橋自体の全重量といった計算、その逆の計算も可能である。 そのように現実社会の事物・出来事を通した勉強(人間の勉強を含む)は、社会そのものに目を向ける機会の意図的・自覚的な生徒への提供を意味し、そのような意図的・自覚的提供は、生徒がそれに応えた場合、生徒の社会に向ける視線も意図的・自覚的性格を帯びて、机上の計算では経験不可能な、対象に対する関心と対象を見る目が養われていくこともあるはずである。 勿論のこと、意図的・自覚的に目を向けるとは、対象について自分から進んで考えることを意味する。考えるとは、学ぶことである。 世界を広げることである。
このように各々が自ら進んで考え、学ぶようになったとき、もはや自立(自律)と言えるではないか。このような自律(=「何のために勉強するのか」と人に問われて、他人の教えを必要とせずに、自分で考えて的確に答を導き出すことのできる種類の主体性)こそ、日本社会の集団主義性・権威主義性を薄める役割を担う。決して不可能ではない。
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