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    第93弾   電車の遅れが招いた大事故
                                                  upload.5.10.09.(日)          


 

 

                  

 

 

 

 

  日夜の(05.10)のテレビで、学校教師が、娘のクラスが学芸会でシンデレラをやることにしたが、誰が主役のシンデレラをやるかで一部の親たちが自分の娘がと譲らなかったために紛糾して収拾がつかず、結局みなが平等に演ずることができるどうしようもない劇をやることで収まりがついた、社会に出ると競争社会と言うことで、誰もが主役を演じることができるわけではない、そのことを考えて、シンデレラができずに脇役にまわったとしても、親がどうすべきかフォローする教育力というものが必要だといったことを言って、親の教育力不足とそのような親が仕向ける悪しき平等主義を批判していた。
 
 
治家や教育評論家、そして学校教師の間に教育荒廃の主たる原因として家庭に於ける親の教育力の欠如を指摘する主張が幅を利かせて、世間から根強い支持を受けている。基本的なしつけもできない親に育てられた子供たちがしつけを受けないままに学校に送り込まれて、授業崩壊と言った混乱をもたらしていると。

 
面的に見れば、そのことは紛れもない事実であろう。 表面的とは、親の多くが基本的なしつけのできない事実が、あたかも授業崩壊の原因であるかのように上辺上見えると言うことである。だから、親を糾弾して解決する問題ではない。 大体が基本的なしつけもできない親を社会に送り込んだのは日本の学校そのものではないだろうか。日本の学校教育がそのように仕込んだのである。
 
 
ンデレラの劇を取り上げて親の教育力を問題とした学校教師の主張に即して説明するなら、誰が主役のシンデレラをやるかで紛糾して収拾がつかなかった時点で、社会に出ると競争社会と言うことで、誰もが主役を演じることができるわけではない、学芸会でシンデレラを演じることができたとしても、社会に出てからもシンデレラを演じることができる保証はない。学校社会でいつも脇役でいた生徒が社会に出て主役を演じる逆転現象もある。また主役が主役一人で成り立つわけでもなく、脇役に支えられて成り立つ関係を常に絶対条件としている。いわばどんな役柄であっても、それぞれに必要とされる相互関係を結んでいて、自分に与えられた必要とされる役柄をやり遂げることによって周囲とつながり、社会とつながるのだから、そのことの方面の努力をこそ重要な価値あることと見なすべきではないかと、なぜ学校教師は親たちを説得しなかったのだろう。説得することすら思いつかなかったのか、説得したが、納得させるだけの言葉を持ち得なかったのか、どちらかだろう。どちらであったにしても、大学にまで行って専門の教育学を受けている学校教師である、親の教育力を待つまでもなく、教師の教育力を示すべきではなかったか。

 
学校や中学校の学芸会で自薦・他薦で片付くシンデレラなど、自薦・他薦のみで片付いてくれない、社会に出てから自分で見つけ出さなければならない役柄から比べたら、たいして意味のあることではない。そのことを理解できずに自分の子供でなければならないとする親の狭い考えを改めさせることもできない。所詮、学校教師の教育力に対応した親の教育力なのである。この構図は自分たちが社会に送り込んだことなのだから、当然の関係式としてあるものだろう。政治家の程度が国民の程度に対応している関係式と重複するのは断るまでもない。

 に基本的なしつけを受けないままに学校に入ってくる。その子供が社会に出て、基本的なしつけのできない親となって、自分の子に基本的なしつけを与えることができないままに学校に入学させる。いわばしつけに関して学校を素通りした形で成長の循環が行われているのである。

 
記の構図を裏返すなら、学校教師が生徒の社会化
個人が所属する集団の成員として必要な規範・価値意識・行動様式を身つけること)や人間形成をも役柄とすべきを、そのことに必要な能力を欠如させているために、社会化や人間形成を置き去りにして、暗記知識の単なる伝達 (自分が暗記した知識を生徒に暗記させる機械的受け渡し)を役柄とすることで終わっていることを示している。

 
論このことは先ほど指摘したように、親が基本的なしつけを行うだけの能力を欠如させているために、飼い猫や飼い犬に住いを宛がって餌を与えて生かしておくのと基本的にさして変らない方式の、衣食住を与えるだけをすべてとして社会に適合させていく育て方を親の役目として完了させていることに対応した学校教師の生徒に対する存在形式と言うことができるだろう。つまり、子供に対して、親も教師も同じ穴のムジナだと言うことである。当然、親が子供に基本的なしつけができていないなどと云々する資格は学校教師にはない。

 
校は基本的なしつけまで教える場所ではないとする主張が一方にはあるが、学校は集団生活の場である。否応もなしに自他の関係を持たされる。人間関係のルールが自分たちだけに通用する形式で終わるか、社会の一般常識に通じる内容にまで高めることができるかは、教師の対人感受性
自分や他者を正しく理解する洞察力や集団の形成過程を的確に判断して状況にふさわしい行動を取れる能力)が重要なまでに関係してくる。生徒との人間関係で表現される教師の無意識の感性(対人感受性)が日常的に生徒を刺激して、生徒の他者や集団との対人感受性に見えない網を掛ける影響を少なからず与えるからである。

 
体が、「教える」と言うことを時間とテーマを設けて解説することだと勘違いしているところに日本の教育の限界がある。人間が読書するとき、文字では書いてないが、読むことで行間に隠されている意味や含蓄を感じ取るように、言葉で直接的に表現しなくても、教師の言葉の端々に滲む感性や創造性に触れることで自然と学ぶことも、「教える」うちに入る。意図せずに行われる人間性の伝達と言ってもいい。しつけ(行儀・礼儀作法)も深く人間性に関わっている行動様式である。学校教育者でありながら、生徒のしつけに関して何ら刺激を与えずに学校を素通りさせてしまう教師の人間性とはどのような逆説を言うのだろうか。

 
徒が自殺したり、殺人の対象となって殺されたりすると、命の大切さを訴えたり考えさせたりする全校集会を設けたり、作文を書かせたりの機械的な対応に終始し、行事化しているが、そういったキッカケだけで命に対する感覚や考えが短兵急に育つと考えるのは単細胞に過ぎる。日常普段から口にしている親や教師や友だちの言葉の中から命に関係する部分を感じ取って、その積み重ねで自ら育んでいくものであり、このことは文章の行間に意味や含蓄を感じ取る作業と重なる。その前提を踏んでいなければ、考えろと言われて、しっかりした思いが育つことはない。勿論、人間やその他の生きものの生死に関係した、読書を含む社会の情報も深く影響する。社会の無責任な情報を正しい方向に導くのも、社会的経験を踏んでいるはずの親や教師の日常普段の言葉が特に重要となる。単に年齢と経歴を重ねただけの社会的経験に過ぎないなら、子供の感性を育む影響は期待できないで終わる。

 
供のしつけに関わる親によってもたらされている教育状況が現在という時代の産物で、過去には存在しなかったという説が多くの人間に信じられている 。幻想ではなく、事実として存在した状況なのだろうか。つまり、「昔」と言われる時代の親は子供にしっかりとした基本的なしつけができたという説である。

 
昔」と言われる時代は個人の進路は一般的に固定化されていた。親が何か家業を行っていたなら、義務教育終了の中学を卒業すると、大体が親の家業を受け継いだ。百姓だったなら、百姓、職人だったなら、職人というふうに。親が家業を持たなくて、勉強ができなければ、工員か職人の家に弟子に入るか、あるいは商家に勤めたり奉公に入ったりする。勉強ができたとしても、親に上の学校に進学させるだけの資力がないと、中卒で工員か職人か商人の道を選んだ。いわば進路に関わる社会的慣習が一定していたから、子供たちはそれに従って自分の人生を選んでいけばよかった。

 
路に関わるそういった社会的慣習は一方で、年齢の低い内から学校は中学までだと自分の学歴を大まかに決めていた子供たちに勉強からの自由を与えていた。学校の勉強ができなくても、一通りの読み書きそろばんさえできれば、教師もうるさく言わなかったし、その程度の学力でよしと自分たちも納得していた。身体が健康で、家業や工場勤め、あるいは奉公に精を出せる体力があれば十分と見なされていた。

 
し、中卒で終える子供たちに勉強からの自由を与えられていたとしても、それは学校に行かなくてもいいという特権ではなかった。義務教育である性格上、学校に行き、教室の席に坐る義務まで免責されてはいなかった。だが、教師の授業が理解できなくても、私語席立ちといった生徒の自分勝手な行動は起きなかった。ときにはそう言ったこともあったろうが、殆どが理解できないままに授業終了の鐘かベルが鳴るまでおとなしく席に着いていた。

 
ういった光景を可能にしたのは、多くの人間が考えているように親から育まれた基本的しつけがそうさせていたのではなく、大人の持つ権威主義の威嚇性が子供たちとの間に人間関係の力学として働いていたからだった。

 
師が怖かったから、授業が理解できず退屈で仕方なくても、叱られるのを恐れて、じっと我慢して時間まで席に着いていたのである。いわば、勉強ができなくても自由であった代償に、教師が親に告げ口した場合の予想される親の怖さも手伝って、退屈という地獄に耐えたに過ぎない。

 
まり、そうと信じられている親のしつけからの自律的な行動ではなく、大人の持つ権威主義の威嚇性(大人の怖さ)が子供たちの行動を律していた他律的な行動だったのである。授業が理解できなくても、あるいは面白くなくても1時間前後じっとおとなしく静かにして席に座っている子供たちの授業風景が親の基本的なしつけからの自律的な行動だとしたなら、その自律性は人間の権利の面から言って、異常で空恐ろしい倒錯以外の何ものでもないではないか。権利意識がまだ未発達で、だからこそ有効であった威嚇性なのである。

 
威主義の持つ威嚇性時代的な情報伝達量の加速と、同じく時代的な権利意識の高まりと共に剥ぎ取られていき、大人が怖い存在でなくなると、子供たちは授業が理解できなかったり、面白くなかったりすると、「先生、授業が理解できません」、あるいは「退屈で少しも面白くありません」と言う代りに、そこまでは言えなかったからだが、私語や席立ちといった形の意思表示で授業内容に異議申し立をするようになったのが、いわゆる授業が成り立たないとする授業崩壊であって、親の基本的なしつけとは関係ない。授業が理解できて、面白ければ、それを動機として熱心に授業を受ける構図に親のしつけは無関係であるのと同じである。

 
和30年代に入って、日本が工業化への道をひた走りして、企業が多くの人間を採用するようになり、採用基準が学歴を物差しにするようになると、学歴主義が言われるようになって、家が商売をしていても、カネがあると、子供を大学までやって、卒業後親の家業を継がせるといった現象まで起きるようになった。企業の採用基準でしかない学歴を人間の価値を計る物差しとするようになったのである。その結果としてあった、中卒集団が高卒集団へと移行したに過ぎない高校の準義務教育化である。

 
が、時代がさらに進んで日本の社会が一段と工業化され、商品の大量生産・大量消費の時代に入って販売競争が激化すると、小売店といった小規模な家業はそれまでの販売価格ではやっていけなくなって、多くが成り立たなくなった。スーパーやデパート、あるいは量販店といった大型店の大量注文による大量販売がコストの低下を可能にして、営業面で優位に立つようになったからである。大工や左官の職人にしても、規模の大きい住宅建設会社が木材等の資材の大量発注によって単価を下げた受注競争を展開するようになり、自前の小規模な営業では成り立たなくなって、日給で雇われるか廃業するに迫られた。農業にしても、こういった時代の流れを受けた、三ちゃん農業といった衰退であったはずである。

 
業で細々と経営していた工場(こうば・家内工業)であっても、大企業が大量生産する製品の部品を受注する下請孫請とならなければ、経営が難しくなり、倒産や廃業に直面した工場がどれ程あったっか。そこまでいかなくても、子供が継ぐだけの価値を失い、親の代で終わりとする工場もあったはずである。よしんば下請・孫請となったとしても、生産量も部品単価も、その決定権は上位会社の元請が握り、最終的には親会社の大企業がすべてを律する。

 
供が継ぐだけの価値を失い、親の代で終わりとする点に関しては、職人の世界でも、小売商の世界でも、大して変りはなかったろう。 親が細々とやっていけると判断していても、子供の方が早く見切りをつけて会社勤めを転向してしまい、結果として個人経営の業態に限って後継者不足の嘆きが広く社会を覆うこととなった。

 業がそのように従来通りの規模で成り立たなくなれば、当然親の跡を継ぐ、あるいは工場(こうば)や商家に勤めるといった固定化されていた進路は変化を余儀なくされる。いわば社会的慣習に従って自動的に選択していればよかった進路は自分で選択しなければならない流動化の時代に入った。

 
種からして、自分で選択しなければならない。そのような進路の選択に関わる時代的な変化を学校は鈍感なまでに見過ごし、学力に関してのみテストの点数でその人間の価値を計る受験教育一点張りを自らの役目とし、スポーツの才能に逃げ場を持たない勉強ができない、あるいは嫌いな生徒を、それ以外の何らかの可能性に導く努力もせず、親が基本的なしつけができていないからだと責任転嫁するのみで、勉強ができないままに、あるいは嫌いなままに切り捨ててきた。

 ういった生徒が自らの疎外された存在であることの異議申し立てに校内暴力に走ったり、放課後盛り場に出てゲームセンターでゲームに熱中したり、ブランド物で服装を固めたり、特異な化粧で目立たせたりして勉強以外の方法で自己を活躍せしめる自己提示を行ったとしても、彼らを一概に責めることはできないはずである。学校で許されている方法でできない活躍を許されていない方法で見つけだだけの話である。 

 も切り捨てるには切り捨てるなりの事情があることは認める。例えば「切り捨て政策」がないか、少ない私立校の優位を言うが、私立の高校で言えば、大別すると大学を目指す生徒が集まった私立高校と、勉強は嫌い、あるいは勉強ができないが、高卒の資格を得るための生徒を集めた私立高校に大別することができ、前者は中高一貫校が比較的多く、後者は公立中卒者を対象とした単独校が多い状況にある。

 かし、前者も後者もそれぞれに目指す方向・目的が決まっていて、それらに応じて生徒が各々足並みを揃えている 。

  向・目的がそれぞれに違う、あるいは、方向・目的が分からない生徒を一緒くたに扱わなければならないために目指す方向・目的が統一困難である、高校だけではなく中学も含めた公立が困難を避けるために切り捨てる部分をつくり出して、そのために生徒の協力を必ずしも得られない状況を抱えていることに比較して、生徒のニーズが統一されているために対応すべきサービス(教育)を確定させた形で提供可能となり、生徒の協力を得やすい私立の状況とは、かなり違いがあることを差引かなければならない。

 からと言って、切り捨てを放置しておいていいというわけではない。切り捨てが続く限り、授業崩壊等の教育の矛盾は続くだろうからである。だったら小泉首相の十八番で「官から民」へとばかりに、公立を廃して、すべて私立へ移行したとしても、裕福でない家庭の子供がどの私立を選択するかの基準が授業料となって、そこに勉強が好きな生徒も好きでない生徒も集まる可能性が高くなるだろうから、公立が抱えた矛盾は受験教育を原型とした学校経営が続く限り、ある基準の授業料の私立にバトンタッチされるだけで終わるだろう。さらにアメリカの富裕白人が自分たちだけの居住区(コミュニティ)をつくり、敷地をフェンスで囲んで侵入者を防ぐことまでして他者を排除・区別するように、勉強ができて家にカネのある生徒が私立に逃げ出すことによって、私立 と公立の間につくり出し、顕著なまでに損なわせることとなったカネを力とした学歴格差とその先にある収入格差の問題は、今度は私立と私立の間にそのまま受け継がれるだけで終わるのではないか。
 
 
立の生徒と同じく、将来サッカー選手になるんだと、あるいは野球選手になるんだと進路を決めて運動部で活動する生徒は将来の自分に迷うことは少ないだろうが、 公立・私立含めて、大学まで行くと決めて、塾にまで通い受験勉強に励んでいる、学校が歓迎する生徒であっても、大学卒業後の「将来 は何になりたいのか分からない」という声を口にする光景が無視し難く存在するのは、学校が如何に大学まで入るに必要なテストの点数稼ぎの教育のみを自らの役目としているかの証拠であろう。  

 
れでも大学まで行くと進路を決めている生徒は授業が面白くなくても、目指す大学に入学できるだけのテストの成績を上げる目標に向けて努力しなければならないから、その点で救われる。新しい社会的慣習から、勉強の好き嫌いに関係なしに高卒までの学歴は手に入れたいとする世間体は、勉強に対する努力目標にはなりにくいばかりか、何になりたいかの将来の進路の模索に関しても何ら有効な解決策とはならない。
 
 
治家・教育評論家・学校教師は親の教育力を云々するよりも、受験勉強に自分から積極的にいそしむ生徒とは別に、勉強ができない、勉強が嫌い、だからと言ってスポーツの才能にも逃げ込めない、いわば学校が許している価値観を自己存在証明とし得ない生徒が自己存在証明とし得る何らかの可能性を見い出すことのできる制度に学校を変えていく「教育力」をこそ発揮すべきではないだろうか。