「市民ひとりひとり」
教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る
第16弾 プロ教師に見る、相変わらずお粗末な
女性教師刺殺事件に関わる事実認識
その第2部
2000.5.30(火)アップロード
プロ教師はこれから挙げる「対応」(p80)を「黒磯事件」が与えた教訓として提示している。「その際、勘がはずれれば、暴言、暴力、場合によってはナイフということ
も覚悟しなければならず、私たちは毎日ギリギリの綱渡りをしているといっても言い。学校はもはや教師にとって安全な場ではなくなったのである」(p80)と言っているのは既に第1部で述べた。その正当性を検証してみようと思う。
「ふつうの生徒≠ェキレる」と大見出しで題して、「所持品検査の危険性」(p80)と言うよりも、「所持品検査」をしないことの「危険性」を主張している。
「九八年一月の黒磯事件は、この十年間の社会の大きな変化、家庭・学校の変化のなかで新しい子ども≠スちが登場し、私たちが新しい事態≠ノ直面していることをはっきり示した事件であった。私たち『プロ教師の会』がこの十年間言い続けてきたことが、広く認識されはじめたといって言い。神戸の連続児童殺傷事件以来
、中学生が問題視されてきたことが、この事件で一挙に一般化したわけである」(p
80〜81)
「この十年間の社会の大きな変化、家庭・学校の変化のなかで新しい子ども≠スちが登場し」たのなら、「中学生」を「問題視」するよりも、大本の変化である「社会の大きな変化、家庭・学校の変化」(=大人の変化)をこそ「問題視」すべきなのに、その逆を犯す矛盾を「十年間」も辛抱強く続けてきたというのだから、「プロ教師の会」を見事なまでにしたたかな無神経・鈍感集団だと称賛しないわけにはいかない。このことは、「このあと、ナイフを使った事件が連鎖反応のようにたてつづけに起こった。一ヶ月のうちに中学生のナイフ事件が十九件にのぼった。とくに目立ったのは、中三の男生徒が拳銃を奪う目的で警官を襲った事件と、中一の男生徒が同じ一年の男生徒を休み時間にナイフで刺し殺すという事件であった」(p81)との例示に見える、事件を表面的に並べただけで済ませている姿勢にも、「社会の大きな変化」には何ら向けられていないプロ教師の視線を窺うことができる。
プロ教師のターゲットは常に常に「子ども」なのである。常に常に「中学生」なのである。そのことは少し前のページ(p73)での、「いまだに悪いのは子どもではなく、社会なのだから、子どもたちは保護してやらなくてはならないという『お子様教』が親ばかりか教師をも広く支配している」という非難に先鋭的に表われているだけではなく
、「社会の大きな変化、家庭・学校の変化のなかで」との主張と相矛盾することにも気づいていない。
「ここに至って、マスコミも世の大人たちも右往左往し、立ち往生してしまった。 新聞は一斉に、『荒れる学校』の実態を報告した」(p81)と、さも勝ち誇ったように各新聞のその例まで挙げている。「こども」あるいは「中学生」を問題にしているから勝ち誇れるのである。「社会」や大人を問題にしたら、プロ教師自身その一人なのだから、勝ち誇るわけにはいかなくなる。
「私は二月十日の読売新聞の『対立討論』でつぎのように発言している。
黒磯事件以来、たががはずれたように中学生のナイフによる事件が相次いでいる
。文部省もこれまでの、生徒の自由・人権、個第一という方向を大きく転換し、所持品検査を容認した。私は現場の教師として次のように考えている。
学校が、人の命にかかわるとか、人がけがをするおそれがある危機的状況にあると判断したのなら、所持品検査をふくむあらゆる手段を講じなくてはならない。緊急事態と考えるなら、躊躇している場合ではない。
緊急事態に直面しているときに、所持品検査は子どもの人権を侵すことになるから反対などと主張するのは論外である。生徒や教師の命を守り、生徒を加害者にしないということが最優先されるべきだ。
所持品検査をやってもナイフが出てこないこともあり、取上げてもまた手に入れることができる。ナイフ以外にも凶器にする気なら何だってできる。つまり、無意味だという主張もある。所持品検査でナイフ事件をなくせるなどとは誰も思っていない。実際に意味がなくても、それは、学校が緊急事態であるということを知らせるサインになるし、世論に刺激を与える効果もあるだろう。やれることはなんでもやる、というのが現場の教師の立場である。
しかし現実問題として、緊急事態と考えてやろうとしてもできないのではないか
。あの黒磯の中学校でさえ、『見せたくなければいいよ』という条件でしかできなかったのである。
この十年の激しい学校たたきのなかで、生徒の自由・人権を最大限に尊重せよ、という考え方がストレートに学校に持ち込まれてきた。生徒のあいだには自分の自由を最大限に主張していいという雰囲気が強まっている。残念ながら学校の規制力は大きく低下し、教師の言うことなんか聞かなくていいという気分も広がっている
。そういうなかでの所持品検査である。当然、トラブルが生じると考えなければならない。
人権を盾に教師にくってかかる生徒、鞄をあけるのを拒否する生徒、ナイフで突っかかってくる生徒だって出てこない保証などないのだ。なかには、教育委員会に人権侵害だと抗議する親だって出てくるだろう。
長いあいだの学校たたきの過程で、文部省も教育委員会も学校を守ろうとしてこなかった。教育の論理より、生徒の自由・人権を優先し、世論におもねて教師を見捨ててきたといって言い。トラブルになれば、すべて教師の責任にされてきたのである。
そのことについてまったくふれず、急に所持品検査をやっていいと言われても、はいそうですかと動けるわけがない。トラブルが起こったとき、文部省、教育委員会はほんとうに学校を支えてくれるのかという不信感が強いのである。
結局、現場の教師としては、その学校の情況のなかで、ギリギリできることしかできないと言うしかないのだ。そして、そのことを率直に親や社会に伝えるしかないのだ。学校だけの力では、この危機的情況を乗り切ることはできない」(p82〜84)
この主張のどこにも、テストの成績を人間価値尺度として生徒の精神と行動(=可能性)を抑圧し、束縛する、より絶対的な学校価値観となっている成績主義・学歴主義への視線・言及が何一つない。
精神と行動(=可能性)に対する抑圧・束縛(=支配・強制)は、全幅的に人間であること(=人間性)への抑圧・束縛(=支配・強制)でもある。いわば学校・教師が発信する可能性の柔軟な選択を排除した硬直した学校価値観による抑圧・束縛(=支配・強制)がナイフ行動という生徒の精神と行動の歪みを生じせしめているケースもあり得ることへの考察もなく、表面だけを把えて、「問題視」するという不公平・矛盾を犯して平然としている。その無神経・鈍感さには感心させられる。
テストでいい点を取ることを勉強の唯一の目的・唯一の価値として、生徒の尻を叩く――それは戦争中、「大人になったら、お国のために戦うのだ」「お国のため、天皇陛下のために尊い命を捧げるのだ」と軍国主義を吹き込み、それを絶対的価値観として生徒の尻を叩いたのと何ら変らない同じ川の流れを引き継いだ、生徒の意志に対する権威主義的な支配・強制(抑圧と束縛)であり、戦後社会の姿は変化しても、学校・教師の姿・態度はその本質的な精神性・行動性において戦前と同じ権威主義的行動様式・思考様式をそっくりなぞっているのである。
「所持品検査」にしても、「危機的状況にあると判断したなら」「あらゆる手段を講じなければならない。緊急事態と考えるなら、躊躇してはならない」ともっともらしく聞こえる説明だが、「生徒の自我が何によってどのように傷つくかは、あらかじめ予測などできない」という情況、さらに「『ふつう』の中学校で、しかもおとなしくて目立たない生徒が相手である」とする情況のもとでは、刺し殺された「女性教師」が「危機意識がなかったとしても不思議ではない」(p79)を理の当然とするなら、「危機的状況」は「判断」不可能だという結論以外は導くことは不可能で、プロ教師の言っていることに矛盾が生じる。
さらに、「荒れた学校より、平穏に見える学校の方がより危険であると考えたほうがいい」(p79)ということで、「平穏」を理由に「所持品検査」をしたとしたら、「危機的状況」が「判断」不可能の状態での「所持品検査」ということになり、やはり矛盾が生じる。プロ教師=矛盾だらけなのである。
具体的に言い換えると、「危機的状況」は「判断」不可能な上、「緊急事態に直面している」という意識を持つに至らない状態で潜在的に蔓延化しているということになり、「所持品検査」を日常化すること以外には、「ナイフ事件」は防げないということになる。「所持品検査でナイフ事件をなくせるなどと誰も思っていない」となれば、「所持品検査」の日常化はなおのこと避けることはできなくなる。
例えそれが、「学校が緊急事態であるということを知らせるサインになるし、世論に刺激を与える効果が」あったとしても、信頼関係の破壊、もしくは排除を代償的に支払
うことにもなりかねない「サイン」ともなり得る、すべての生徒を一人ずつ疑ってかかる行為以外の何ものでもない。成績を人間価値尺度とする学校価値観のバスに乗りきれずに、その不満、あるいは怒りを既に抑圧感情化していることによって、「何によってどのように傷つくかは、あらかじめ予測などできない」臨界状態にある「生徒の自我」をいたずらに刺激し、「人権を盾に教師にくってかかる生徒、鞄をあけるのを拒否する生徒、ナイフで突っかかってくる生徒だって出てこない保証などない」爆発への橋渡しの危険性を抱える逆効果をも考慮のうちに入れる必要があるはずである。
プロ教師は「ナイフ事件」に端を発した「所持品検査」には異常なまでに熱心だが、いじめに関する学校側の一般的となっている態度は、「所持品検査」の正当性を訴えるプロ教師の主張とは裏腹のものとなっている。このことに関しては、どのような考えを持っているのだろうか。
生徒がいじめを教師に訴えても、「いじめられるのはおまえが悪いからだ」と無実の罪をなすりつけたり、親が、「ウチの子がいじめにあっているようだが、そんなことはありませんか」と学校に相談しても、「ウチの学校にはいじめはありません」とにべもなく否定したりして、生徒の「危機的情況」から無責任にも目を背ける。あるいは今年(
2000)四月の名古屋市緑区の中学校での中学生時代の5000万円恐喝事件では、教師たちは当時「恐喝の疑いがあるから警察に行ってみたらどうか」と警察任せで、自分たちは
、「事件になっていないのに、加害者と思われる生徒に強い指導はできなかった」などと逃げ腰の態度で生徒の「危機的情況」を無視して、「所持品検査を含むあらゆる手段を講」ずることもなく放置し、「最優先されるべき」事柄であるはずなのに、「生徒を加害者に」もし、被害者にもしてしまっている。
「所持品検査」は自己の教育者である一部分を削って、そこに警察官の役割を担わせることでもある。「学校が、人の命にかかわるとか、人がけがをするおそれがある危機的状況にあると判断したのなら、所持品検査をふくむあらゆる手段を講じなくてはならない」といきり立つのはいいが、教育者の役割と警察官の役割を逆転させてはならない。逆転させたなら、単にナイフを見つけるとか、見つけたなら、「なぜナイフを持っているのか」といった問い詰めに終始することになるだろう。いわば表面的な取り繕いに終わる結果となるだろうということである。
生徒がナイフを攻撃の武器とする学校情況と、そのような情況を許してしまった経緯、教師の対生徒関係の是非等をこそ「最優先」に究明すべき課題としなければならない。
確かに「学校だけの力では、この危機的情況を乗り切ることはできない」。だが、学校がテストの成績を最優先の価値とし、運動能力を従とする人間価値観を方向転換して、生徒それぞれの可能性を尊重し、そこに価値観を見い出す人間価値体系を学校社会に構築する発想の転換を「最優先」すべきで、従来の価値体系にしがみついている限り、「生徒の自我」がいじめや「ナイフ事件」――さらに第2、第3の神戸児童殺傷事件、第2、第3の「黒磯事件」に発展・暴発する可能性は否定できないだろう。
料理の好きな生徒が望むなら、その可能性だけに賭ける授業を用意するのも、生徒の価値観に応える学校システムとなり得る。料理の勉強・料理の世界を通して、普遍的な世界・地球を学ぶことも可能なのである。
次にプロ教師は、「ますます混乱をもたらす『心の教育』」(p84)と題して、世間が学校に求める「心の教育」に批判の一石を投じている。プロ教師が産経新聞の求めに応じて投稿した(99.2.3)という一文をすべて紹介してみる。
「黒磯事件を契機にして、またまた文部省や識者が『心の教育』の重視を叫んでいる。しかし現場の教師としては、ちょっと待ってくれ、という気持が強い」(p84)
その「現場の教師」というのが当てにならないのだが、「内容までふみ込んだ発言で
はないのでよくわからないのだが、仮に、『人の命を大切にしよう』とか『お年寄りを大切に』ということを言葉でわからせることだと考えているのだとしたら、首を傾げたくなる。言葉が相手に届くかどうかはそれを発する人間にかかっており、それを受け入れるかどうかは相手の問題である。すべての教師に高い人間的な影響力を求めているのだとすると、それはずいぶん乱暴な話である。特別偉大な人間が教師になるわけではないからだ。
学校が『心の教育』をやっていないように言う人がいるが、それはまちがいだ。学校は伝統的に『心の教育』をおこなってきた。ヨーロッパやアメリカの教会の役割を担ってきたのだが、それがこれまでやってこれたのは、社会と家庭の支持がしっかりあったからではないか。
ところがこの十年、それが崩れてきたのである。社会も家庭も、カネ第一、自分第一、欲望を満たすことはいいことだと考えるようになっては、『心の教育』が白々しくなるのはいたしかたないだろう。それでも教師のほうは、昔と同じように『
心の教育』に取り組んでいる。していいことと悪いこと、他人とのつきあい方、そして生活の仕方まで、学校生活の具体的な場面で一生懸命教えようとしている。しかし、支持のないところで『心の教育』などとてもできることではない。生徒とのトラブルの大きな原因はここにあるといっていい。
知識を教えることは、基本的に生徒の個体にとっては苦行である。生徒が我慢しなければとても成り立つことではない。知識を学びたいという本能などないし、誰でも学びたいはずだと考えるのも現実的ではない。最近、生徒たちは、他人を受け入れない固くて狭い自我しか持っていないようだ。教師の働きかけを我慢して受け入れることが年々むずかしくなっている。傷つき∞キレる≠アとさえ出てきた
。まして『心の教育』である。いっそうむずかしいことは明らかだろう。
このような事態を考えずに『心の教育』の強化を叫ぶのは、学校をますます混乱させることになるだろう。現場の教師としては、『心の教育』も、できることは精いっぱいやるとしか言えないのである」(p84〜85)
教師が「特別偉大な人間」だなどと思っている人間はいないだろう。断ること自体、どうかしている。但し、教師という職業を選択する過程で、親が教師だったから、自分も何となく教師になったといった例外者も、子どもの教育に携わりたいという理想と意志を持った多数派を形成しているはずの者も、両者ともに教科に関する教育方法だけではなく、児童心理学や社会心理学、その他の教育学を学び、それらの学問を通して子どもや教育に関する幅の広い感性・想像力を育み高めているはずであるばかりか、さらに教育の現場に立ち、直接的に子どもを前にして、子どもに教えられる形の発見によって自らの感性・想像力の不足分を補う新たな肉付けを日々行って、より豊かな内容へと充実させているはずで、その点が一般人と異なるところである。
また、感性・想像力を豊かなものに導き高めるための基本的な姿勢は誠意であり、誠実さを必要不可欠とする。誠意ある態度・誠実な態度で子どもの前に立たなければ、子どもから何も学ぶことはできないだろう。大学における様々な教育学の修得も、誠意・誠実さの姿勢を欠かしていたなら、表面的な知識の受容で終わる。
言い換えるなら、「言葉が相手に届くかどうか」は、誠意・誠実さに裏打ちされた
感性・想像力を土壌として育まれた「言葉」こそを必要前提条件としなければならないのであって、相互構造の批判や言葉の取捨選択への視点もない、「言葉」を「発する人間」と、「受け入れる」人間の「問題」といった単純な原理で事足りるとさせるわけにはいかない。
さらに「高い人間的な影響力」が必要とされているわけでもない。必要だとしたら、子に対する親、生徒に対する教師、男に対する女、女に対する男はすべて「高い人間的影響力」の所有者でなければ、信頼関係を結ぶに至るそれぞれの意志の疎通(コミュニケーション)は成り立たないということになる。
基本は常に子ども・生徒に対するごくごく素朴な誠意・誠実さの態度・姿勢なのである
。プロ教師に欠けているのはそのような誠意・誠実さであり、それらを成分として育むべきはずの感性・想像力なのである。
プロ教師は「昔と同じように『心の教育』に取り組んでいる。していいことと悪いこと
、他人とのつきあい方、そして生活の仕方まで、学校生活の具体的な場面で一生懸命教えようとしている」と言っているが、「昔」も現在も、単に「言葉」の形を取った形式で「わからせ」ようとしてきただけ、しているだけのことで、権威主義の力が有効に働いていた「昔」は、何事も無批判・無条件に機械的に受入れることが生徒の習性的な態度となっていたから、教師のその手の言葉であっても形式に対する形式として表面的には受入れられ、それで済んだが、現在の情報化時代の情報から得た認識や個々の体験から、様々な人間の姿を学習させられてしまっている生徒には「言葉」の形を取った形式では即座に右へならへの追随(=無批判・無定見の同調・従属)は通用しなくなっているのである。
例えば、「人の命を大切にしよう」は言葉であって、言葉ではない。「なぜ」とか、「何か」がないからである。「なぜ」を問い、「命」とは「何か」を問う言葉の闘わせが欠如しているからである。それは言葉の形を取った形式の一方的な強制でしかない
。
教師対生徒の意思の伝達、及び人間関係において、現在も集団主義・権威主義の力学に幽閉され、その制約下にあるために、「なぜ」も「何か」もない「人の命を大切にしよう」や、「お年寄りを大切に」を教えようとも、上からの命令・指示を咀嚼も泣く受入れる人間関係構造・意志伝達構造を満たすだけで、言葉は言葉として伝わらず、単なるスローガンのやり取りで終わってしまっているのである。
このように言葉自体がスローガン形式となっているから、スローガンを好む性格傾向を日本人の民族性とさせているのである。これも人間関係秩序が上から下への構造となっている集団主義・権威主義から来ているのだろう。
正しい意味でのコミュニケーション(=双方向性構造の意思伝達)とは相容(あいい)れない関係にある、本来的に強制の側面を持った集団主義的・権威主義的人間関係・意思伝達による「心の教育」に関しても、自己宿命的に形式の授受をもって完結させ得るものとなっているのである。
当り前のことだが、命とは、生命の誕生とか死といった、身体的・物理的な位相のみを言うのではなく、生きて在る状態をも言う。生きて在る状態とは、単に呼吸しているとか、生命細胞が活動しているとかではなく、その人らしくあること、いわばそれぞれが自分らしくあることを言う。物理的な、あるいは心理的な外部からの力・暴力によって「自分らしさ」を歪められたり、奪われたりしたとき、それはその人間にとって、ある意味では生命を阻害され、死の状態を強制されられていると言える。言い換えるなら、精神的な死の強制・生命に対する打撃である。
いじめから逃れられずに自殺を選んだ生徒の事件に対する反省からの校長などの全生徒への呼びかけの定番となっている「もっと命を大切にしよう」は、身体的・物理的位相に重点を置いた物言いであるだけでなく、言葉であって言葉とは異なる、言葉の形を取った形式の伝達の範囲を出ないものでしかない。いじめられている時点で、その生徒が既に生きて在る状態=自分らしくあることを歪められ、精神的に死の状態にあったことへの認識が少しでもあったなら、いじめに気づかずにそのような状態にさせてしまっていたことへの心の痛みと教育者として、学校管理者として、自分を責める気持から、「
もっと命を大切にしよう」などといった、生徒だけの問題として語り掛けることに自ら拒絶反応を示すだろう。形式に過ぎない言葉だからこそ、口にすることができるのである。誠意・誠実さに欠けるからこそ、生徒だけの問題として語り掛けることができるのである。
また、「社会や家庭」の「支持のないところで『心の教育』などとてもでき」ない教育とは何なのだろう。例え「支持」がなくても、学校は一つの社会を形成している。「支持」がなくて「『心の教育』などとてもでき」ないということは、「心の教育」に関しては生徒は学校社会を単に素通りするだけということを意味する。いわば学校社会は生徒に何ら影響も与えず、学校も教師も生徒にとっては存在しないのと同じだと言うことである。その必然的結果として、教師の存在理由が学歴獲得のためのテストの解答知識の授与のみとなっているのだろう。
「社会も家庭も、カネ第一、自分第一、欲望を満たすことはいいことだと考えるようになっ」のは、「この十年」どころではない。滅私奉公、天皇のために命を捧げる戦前にしても、大多数は自己の経済的境遇や身分を弁えて忍従の生活を送っていたが、立場や地位を利用して軍の物資や配給物資を横流ししたり、不正な役得行為、私物化といった「カネ第一、自分第一、欲望を満たすことはいいことだ」といった滅私奉公や天皇のためにを出し抜く裏切り行為が広く行われてもいたのである。それでも「心の教育」が「
白々しくな」らずに一応の体裁を維持できたのも、上の者の言うことを下の者が無条件
・無定見に同調・従属する集団主義的・権威主義的人間関係力学に助けられた形式性で自己完結できたからである。いわば、生徒が教師の言うことを形式的に、あるいは表面的に聞き入れてくれたから、教師は言うだけで済んだのである。形式的、表面的遵守だからこそ、大学教育を受けた者の中からも、その上社会的に責任ある高い地位についた者の中からも悪いことをする人間は跡を絶たないのであり、昔と現在の違いは規模の違いのみでしかない。
教師の言うことを聞く真面目な生徒にしても、形式的に言うことを聞いている者もたくさんいるだろう。それは昔も今も変らない人間模様なのである。
また、「知識を学びたいという本能」は誰にでもある。勉強の嫌いな生徒にもある。「誰でも学びたい」と思っている。だが、生徒それぞれの価値観・可能性を裏切って、学校・教師が受験教育を最優先の価値観・可能性に限定しているだけでなく、生徒それぞれの知識欲を裏切って、授業内容が画一的・形式的なため生徒の感性・想像力を刺激しないために、「苦行」となっているのである。マスメディアからのものを含めた大量の情報によって様々に異なる価値観を見せつけておきながら、学校・教師は旧態依然の限られた価値観・可能性で生徒に支配・強制の束縛を加えているからこその「苦行」なのである。
プロ教師は親に連れられた幼い子どもが、「あれは何?」「どうしてあそこにあるの?
」といった、親の知識を超えた質問をしつこくして親を困らせる、最後には親からうるさがられて、「よそ見ばかりしないで、さっさと歩きなさい」とか、「黙って歩きなさい」と質問を遮られてしまう光景を一度も見たことがないのだろうか。
もし親が面倒がらずに、「お父さん(お母さん)も、何と言う名前の木だか知らない。後で図書館に行って樹木図鑑で調べてみよう。木の写真が出ていて、名前が書いてあって、何と言う名前のどういった木なのか教えてくれる本なんだ」と子どもの質問・疑問に根気よく付合ったなら、子どもの知識欲はすくすくと育っていくはずである。
だが、このような子どもの知識欲に対する抑圧・抹殺は親子の間にのみ存在するものではない。日本の学校の教育が教師から生徒への一方通行形式の強制となっていること自体に、生徒から教師への質問・疑問・異議申立てといった意思表示を遮る構造を宿命的に内包していることから、例え知識欲があったとしても、受容の形を取った充足でしかなく、生徒から教師に向けて主体的な積極性で獲得する充足を本来的な姿としてはいないのである。そのため、納得のいく説明を求めようと繰返し質問すると、「先へ進めないじゃないか」とか、「何度説明したら分かるんだ」とかうるさがられる。いわば教師と生徒の間にもある抑圧。抹殺なのである。
行き着くところはやはり言葉の闘わせである。親子の間・教師対生徒間に言葉の闘わせがあってこそ、子ども・生徒の「知識を学びたいという本能」を刺激するだけではなく
、親・教師の知識欲をも刺激するはずである。この構造は感性・想像力を育み高める構造と重なるメカニズムなのは言うまでもない。
いわば「知識」も感性も想像力も言葉の闘わせと密接に連動しているのであって、言葉の闘わせへの視点もないままに、生徒の「知識を学びたいという本能」をとやかく言う資格はないということである。
と言うよりも、プロ教師にはどのような教育も語る資格はないと言うことである。
中学2年生の女性教師ナイフ刺殺事件を受けた「文部大臣」の「ナイフを学校に持ち込むな、命の大切さを知って欲しいという内容」の「『子どもたちへ』という緊急アピール」(p85)。その「発言に連携するかたち」の「中教審」の「警官の校内巡回
」の「容認」(p86)。「文部省協力者会議も、『学校の能力・権限の限界』を明らかにし、生徒の暴力行為について、教師が自分の身や生徒を守るための『正当防衛』
を認める方向を打ち出した。
このころから、管理を強化せよ、荒れる生徒を排除せよ、という発言が一定の支持を得るようになってくる。これまでマスコミが徹底してたたいていた考え方が、情況が深刻化するなかで表に出てきたのである」(p86)とプロ教師はさも自己正当化の勝利宣言である。
「文部大臣」の「ナイフを学校に持ち込むな、命の大切さを知って欲しいという」「緊急アピール」にしても、例の如くに単なるスローガンで始まり、スローガンで終わっているのだろう。いわば言葉の形を取った形式に仕立て上げるだけの想像力しか発揮できなかっただろうということである。
なぜなら、アピール自体に「なぜナイフを持つのか」というなぜの視点が存在しないからである。もし存在していたなら、生徒対生徒・教師対生徒・親対子どもの間で、「
なぜナイフを持つのか」という言葉の闘わせを経た解き明かしに発展したはずである。「緊急アピール」のなぜの視点の不在を受けた、生徒間・教師生徒間・親子間の解き明かしの不在なのである。
そういった手続きを踏まずに、いきなり、「学校が、人の命にかかわるとか、人がけがをするおそれがある危機的状況にあると判断したのなら、所持品検査をふくむあらゆる手段を講じなくてはならない」といった物理的対応のみしか考えられないなのである。皮肉な言い方をするなら、プロ教師の感性・想像力はその程度に粗雑にしかできていないということなのである。
「荒れる生徒」の「排除」にしても、「荒れる生徒」という情況を作り出した根本的な原因は何かの追究がどうしょうもなく不在している。それについて生徒との間に言葉の闘わせを行わずに、後追い療法に四苦八苦している。稲に根枯れ病が出てきたからと言って、根枯れた稲を引き抜いて田の外に放り投げたとしても、問題解決にはならないのと同じである。ナイフを所持する生徒は後に続くだろう。
生徒同士、あるいはそこに教師を交えて、「なぜ荒れるのか」の言葉の闘わせを徹底的に展開したなら、早急な状況の改善には役立たなくても、表面に現れずに底に澱んでいた矛盾をさらけ出すことには役立ち、何が問題なのかが自然と提起されるだろうし、少なくとも一人一人が自らへの問いかけ=自己省察の習慣を持つに至る効果は見い出せるはずである。
それを、「たしかに学校の管理を立て直し、荒れる生徒の排除も必要なことではある」(p86)と、「荒れる生徒」のみを悪者視した(=決してなくはない学校・教師の側の矛盾は棚上げにした)解決方法に、その正当性に関する言葉の闘わせも持たずに一応の支持を与えている始末である。
「しかし私たちが直面している事態はさらに深刻なのである。問題は荒れる♀w校の荒れる$カ徒ではないのだ。ふつう≠フ学校のふつう≠フ生徒、つまりすべての中学生が新しい子ども≠ニして登場していることが問題なのだ」(p86)と相変わらず学校・教師に対する自己省察もないことをもっともらしげに言い募っている
。
「新しい子ども」というが、時代や社会――いわばそれらを構成・演出しているすべての大人が作り出している人間像なのである。大人の手を離れて子どもは存在し得ない
。いくら親が子どもを甘やかすからと言っても、「新しい子ども」現象が勃発している直接の現場は小学校・中学校である。彼らと直接的な人間関係を結び、指導者の位置にいる教師の人格(人間性)・指導が影響力を発揮するだけの力を失っている、あるいは元々持っていないことを示してもいるのである。
つまり、例え「ふつう≠フ学校のふつう≠フ生徒」の「荒れ」であったとしても、その「荒れ」は生徒対生徒の行為に限られているのではなく、学校・教師に対する態度も含まれているということへの認識がプロ教師には何一つない。中には学
校で「荒れる」ことができずに、家で母親や父親に「荒れる」といった生徒もいるだろうが、その場合も対生徒態度の、あるいは対学校・教師態度の代償行為としてあるものだという認識を持つべきである。学校・教師との人間関係から離れた問題ではないのだと。
言い換えるなら、教師対生徒の人間関係・指導の無力状態、あるいは無重力性は、現在行われている学校教育と、その成果として生徒に求められている成績を人間価値尺度としている学校価値観がもはや生徒に通じなくなったことを示している。機械的な暗記勉強でしかない受験教育が知的想像力を刺激しないために、何ら悦びを感じ取ることのできないものであるにも関わらず、生徒は世の中がどうしようもなく学歴社会であることを観念して、それを受入れる抑圧を自らに強いている状態にあるのである。いわば、学校・教師と生徒との感性・想像力のズレが、「ふつうの生徒」を「ふつう」の状態にさせておかず、「変」にしている素因と言える。
「荒れる♀w校を立て直したとしても、問題の根本に迫ることは無理なのである
。ここにいたって私は現場の教師として、一方に自由・人権派、他方に管理強化派と言う二つの考え方に立ち向かわなければならなくなった。私にとっても新しい事態≠ノなったと言ってもいいだろう」(p86)
プロ教師自身、「社会的規制力」という時代錯誤の亡霊の復活を他力本願とする「管理強化派」なのに、「二つの考え方に立ち向かわなければならなくなった」とは、プロ教師十八番の図々しく、薄汚い綺麗事=自己美化に過ぎない。
「家庭が子育ての力を失っているのは事実であるし、子どもたちのやすらぎの場になつていないというのもたしかなことだろう。家庭がしつけを充分にする力を失っていることも明らかである。
しかし、たとえばしつけのマニュアルを示したり、父親の役割を強調したとしても、それで何とかなると思っているのだとしたら、ずいぶんおめでたい話である。家庭の変質は、社会の大きな変化のなかで起こったことである。そう簡単になんとかなるようなものではないのだ。子どもの問題を家庭の責任とするような圧力は、親たちをますます追い込むことになるのではないのか」(p86〜87)
「社会の大きな変化のなかで」の「家庭の変質」といった主張がプロ教師十八番の綺麗事でしかないことは既に指摘した。自らを責めることのないプロ教師の、子ども・生徒に対する「他人を受け入れない固くて狭い自我」観は、「社会の大きな変化」を一方に置く認識を欠くことによって可能となる非難でしかない。
日本の社会の変化は日本人の大人が作り出した変化なのは言うまでもない。子どもたちが独自に作り出した変化が社会全体を覆って、それを変質させることは決してない。学校社会も、家庭と言う小さな社会も日本の社会に含まれている。全体の中の一部分であると同時に、上位社会である日本社会に対して、学校・家庭は下位社会を形成しているに過ぎない。いわば全体に覆われた一部分であって、学校・家庭が全体を覆うことは決してない。
もし「新しい子どもたちが登場した」と言うなら、それは親・教師をも含めた「新しい」大人の「登場」を受けた「新しい子ども」の「登場」なのである。もし「子どもが変だ」と言うなら、大人の「変」を受けた「子どもの変」なのである。
となれば、「家庭が子育ての力を失っている」としたら、「学校」自体の「教育力を失っている」情況と連動した当然の帰結となるが、何度でも指摘しているように、今までの家庭の教育力・学校の教育力は集団主義的・権威主義的人間関係力学の有効性によって、ただ単に子ども・生徒を抑えつけていた(支配・強制していた)だけのことで、思想や哲学に裏付けされた教育力ではなかった。いわは「変化」は集団主義的・権威主義的人間関係力学の有効性に関したもので、同じ力学を人間関係の方法としていることに何ら「変化」はない。その点こそが「変化」すべきなのに、「変化」しないことが問題なのである。
多分、日本社会の少子化現象も集団主義的・権威主義的人間関係力学に代わる新しい人間関係を見い出せない混迷を受けた日本社会全体の「子育ての力を失っている」情況の反映なのだろう。働く女性が子どもを産み、育てやすい環境・体制の未整備といった問題だけではなく、受験のみの選択による集団主義的・権威主義的な人間価値決定といった程度の低い生存競争・情けない弱肉強食を含めて、生きる幅を低いところで狭めている社会的な「子育て」能力の貧困情況が産む意欲・育てる意欲を奪っているのではないのだろうか。
大人が作り出した「変化」とは情報世界のことである。大人は情報を無考え・無規則に肥大化させることによって、子どもをも巻き込んで人間の欲望を無制限に期待過剰なものに煽動してしまった。情報世界へ向けた出帆と平行して戦後受入れた民主主義と基本的人権の理念に則して、日本人の歴史的・伝統的な思考様式・行動様式となっている集団主義的・権威主義的人間関係秩序を解体し、それぞれが自ら立つことを思考・行動における社会的な基本原則としたなら、自らの判断と自らの責任で情報を取捨選択し、行動する自律性を獲得し、無制限に欲望に流される社会的に支配的な情況から免れ得たはずである。
言い換えるなら、大人が子どもの感覚・想像力を旧態依然の集団主義的・権威主義的人間関係で制約していることが、社会の多様で無制限な大量情報によって無限に肥大化傾向にある欲望世界に対する自律性を阻害して(そのことは大人の非自律性の反映でもあるが)、情報頭でっかちの情況を作り出していることが子どもの行動を歪んだものにしている主原因の一つなっているのである。
顕著な例として挙げることができるのは性の問題であろう。人格とか人間性、あるいは絆や信頼といった価値観に関わる感覚・想像力を養う情報は大人から与えられことなく
、大人自身にもある、恋人の有無や初体験年齢、性体験の量をその人間の優越した可能性・能力と見なす情報が未成年者にも引き継がれて、そのような情報への無節操な順応(その不調和・歪み)は強いもの・優勢なもの・支配的なものへの無定見・無批判な同調・従属(=横並び)を骨子とする集団主義的・権威主義的行動様式・思考様式からのもので、自律性を不在とすることによって可能となる現象なのは言うまでもない。
封建時代の昔からの、多分、大和朝廷成立以来の集団主義・権威主義の人間関係がすべてに影響しているのである。一方通行の機械的な押付け教育。生徒の感性・想像力に知的な刺激を与えない会話・・・・・・だからこその、「社会的規制力」頼みなのである
。
人間同士の争いや衝突・確執を解決するだけではなく、新たな創造を刺激するコミュニケーションの重要な手段である言葉・会話を排除した教育によって言葉・会話を持たないままに世に出された生徒が父親・母親という大人となって、伝えるべき言葉も会話もなく子どもの前に立つ。その子どもは学校社会の一員となっても、家庭での不足を学校は補うこともなく、言葉・会話を持たないままに次なる父親・母親となる同じことの循環を繰返す。
別の言い方をするなら、テスト教育は子どものテスト解答能力の育成には役立っても、人格や人間性の育成には無力だということである。無力だからこその、現在の子ども・生徒情況なのであり、プロ教師の言う、「昔と同じように取り組んでいる
」「心の教育」が如何に役立っていないか、していないと同じ情況なのを証明しているのである。
「家庭」よりも、「学校」をこそ問題としなければならないのである。それをトンチンカンにも、「家庭」だけを問題にしている。
「社会の変化」は世の中全体の大人の営みの総体として現れたものだということは既に述べた。可能性の多様化を言い、どんな生徒も何らかの可能性を秘めていると持ち上げながら、テストの成績と運動能力のみで生徒の価値付けと序列化を行い、一部生徒をエリート化する。人間排除と背中合わせの人間称賛のインチキ臭さ。合格率や運動の成績を学校の名誉とし、教育能力とする学校・教師の世間体と価値観。
社会的活躍者を大袈裟なセンセーショナリズムでヒーローと持てはやし、落伍者や落ち目の者には冷たい視線を向けるか、無視する。あるいは石もて追うが如くに批判するマスコミや世間一般の、活躍で人間を価値付け、序列化する、学校社会と同じく人間排除の上に立った人間称賛の価値観・風潮。
一定の社会的年齢と社会的経験を経た者は社会の活躍価値観から外れたとしても、自分の才能・能力を弁え、程々の居場所を自分の境遇と見定めるが、年齢や経験の浅さとは正反対に生命エネルギーに満ちた中学生・高校生にとっては限られた可能性・能力での選別は、早すぎるという理由からだけではなく、それを自分の立場と弁えろと強要する残酷な措置で、その残酷さに耐え得る生徒はそうはいないだろう。感性・想像力の貧困な、余程無知か愚鈍な生徒でなければ、耐えることはできない。
プロ教師は生徒だった頃はテストの解答技術にたけていただろうから、問題なかったろうが、まさにそのことが自分も一枚加わって行っているテスト選別を鈍感な無神経さで見過ごす、「学校」を問題としない姿勢となって現れている原因なのだろう。
いわば、学校・教師の価値観に応えることのできない「ふつうの生徒」を置き去りにした学校社会における存在様式(エリート称賛と背中合わせの人間排除様式)が彼らを居たたまれなくし、「荒れる生徒」に変身させていると考えられないだろうか。
分≠ニいうものを弁えていたのは戦前だけではない。その慣習は戦後も引きずっていた。成績のよい子に対しては、「あのウチはお金持ちだから」とか、「会社の重役の子なんだから」とか、「お父さんがいい大学を出ているから」と、親の地位や財産・職業で相手の成績のよさを納得し、同じ価値観で自分の成績の悪さを止むを得ないものと受入れた。ところが権利意識の発達を受けて、親の地位や財産・職業に関係なく、また価値観の多様化情況に応じて、勉強や運動能力に恵まれていないなら、他の何かで活躍のチャンス(自己存在証明)を与えて欲しいと願いながら、それを裏切って学校・教師はテストの成績と運動能力で生徒を選別する旧態を依然と犯し続けている。その鈍感さ・怠惰・進歩のなさが教育荒廃の主原因であって、「すべての中学生が新しい子ども
として登場していることが問題」なのではない。
最近の大学生の基礎学力の低下も、与えられた勉強・指示された勉強を与えられたなりにこなす・指示されたなりにこなす集団主義的・権威主義的一方通行構造の教育が有効性を失いつつあることの反映であり、それはそのままそのような教育が知的主体性を伴わないものであることの反映であろう。
「子どもの問題を家庭の責任とするような圧力」を自ら掛けておきながら、「親たちをますます追い込むことになるのではないのか」とは、いい気なものである。
次にプロ教師は、「日本の教育にとどめを刺した学校たたき」(p87)と題して、マスコミ批判に重点を置く。あくまでも学校・教師に罪はないということである。
「体罰、校則、管理教育、偏差値教育、受験戦争、そして今登場しているのは内申書である。教師が内申書で生徒を脅かし抑えつけているから、それが爆発したのだという主張である。
これは、生徒を抑圧することは悪であるという考えをもとにしており、抑圧を一つ一つ取りさり、生徒にとってかぎりなくやさしい学校をつくれば、問題は解決する、という主張につながる。しかし、抑圧のない社会などありはしない。問題は、抑圧に耐えたりすり抜けたりする力を持つことではないか。そのための教育が欠けていたということではないのか。内申書をなくせば問題が解決するわけではない」(p87)
表面的で粗雑な論理の展開でしかない。プロ教師に指摘されるまでもなく、「抑圧のない社会などありはしない」ことは分かっている。問題は、「抑圧」に対して異議申立て・反対・批判・疑問の正当な提示方法の学習と正当な提示機会の欠如であり、「
抑圧」が殆どの場合一方通行構造の強制となっている点である。いわば、民主主義の形を取っていない、ファシズム型の「抑圧」となっているのである。
それは勿論のこと集団主義・権威主義の人間関係から来ているもので、その力学そのままの反映としてあるものである。「抑圧」に対する異議申立て・批判といった正当な方法による正当な提示機会を与えることによって、「耐えたりすり抜けたりする力を持つこと」が可能となるのであって、そのためには。従来の主張の繰返しになるが、生徒が自らの考え・思い・主張、さらに感情を自由に述べ合う言葉の闘わせの習慣を根づかせる以外に方法はないはずである。
それともプロ教師は「耐えたりすり抜けたりする力」を育む教育を創造し得ているとでも言うのか。「内申書をなくせば問題が解決するわけではない」といった問題の単純化は行うべきではない。分かりきっていることだからである。
「さすがに、いつまでも学校だけを攻撃するのでは事態をうまく説明できないと考えたのか、最近は鉾先(ほこさき)が家庭に向いている。家庭が悪いからナイフが出るのだ、という主張である。しかし、そこには事態を冷静に見て、じっくり原因を考えていこうという姿勢はなく、安易な犯人探しは終わっていない」(p88)
何のことはない、家庭攻撃の急先鋒であるプロ教師自身の「姿勢」を言っているに過ぎない。ただ、鈍感だから、自分では気づかないだけの話である。
「たしかに家庭が問題なのは明らかだが、現在の子どもの問題は、家庭が変ればなんとかなるほど単純なものではない。しかも、社会の変化のなかで家庭はその教育力をほとんど失っており、家庭になんとかしろとハッパをかけたとしても、すでに崩れさってしまっている情況に追い打ちをかけ、混乱を拡大するだけだろう。
お子様教≠熨兜マわらず健在である。悪いのは子どもではない。社会が悪いからこうなるのだ。子どもたちを保護してやらなくてはならない。心の居場所づくりがいまいちばん必要なことだという主張である。
これは半分しか正しくない。家庭が心の居場所になっていないことを考えると、心の居場所づくりは大きな課題になるだろう。しかしそこで終わるわけにはいかないのだ。この主張には、子どもを教育するという考え方はまったくないようだ。保護しているだけでは、子どもは社会的自立などできはしない」(p88〜89)
「家庭」の「教育力」喪失が学校の「教育力」喪失の反映だとは考えないのだろうか。どこまでもオメデタイプロ教師である。「家庭が心の居場所になっていない」と言うが、学校が「心の居場所になっていない」ことを棚に上げた物言いでしかない。学校が「家庭」に代って「心の居場所」となることによって、「教育」の問題も解決するはずである。教師との人間関係・授業そのもの・生徒同士の人間関係が「心の居場所」になるということである。
「家庭」が先か、学校が先か。学校が先なのである。もはや時代にそぐわないばかりか、過去の亡霊でしかない、真の「社会的自立」教育とは無縁の集団主義・権威主義の同調・従属教育にすがっているからこその、子ども・生徒だけではない、大の大人たちの集団形成の場である企業の横並び現象や、政治家・官僚の癒着体質といった非自立性(非自律性)を生じせしめているのである。
「また教師の質が問題だという主張も強くなっている。教師ががんばればなんとかなるという主張である。・・・・・・この十年間の社会の変化・学校の変化、そしてなによりも子どもの変化をまったく無視して、いい教師ならなんとかなるはずだとというのがこの主張の特徴だ。
全国の教師のなかには『いい教師』もいることだろう。それでも事態はこうなっているのである。さらに言えば、このような質の高い教師をどうやって集めようというのか。そんな高い能力を持った人間が、今の日本のどこにいるというのか、仮にいたとして教師になろうと思うかどうか。この主張はほとんど絵空事を述べていると言っていい。それは事態を混乱させる役割しか果たさないだろう」(p89)
「事態」が「こうなっている」のは、プロ教師のような「質の高い教師」が学校社会を支配し、牛耳っているからだろう。学校教師は普通の人間でいい。但し、常に子ども・生徒に対して誠意を示し、常に誠実であることが条件となる。誠意・誠実であれば、子ども・生徒の人格や人間性を尊重する姿勢へと向かうはずである。それは子ども・生徒の意見・考えを聞くことによって可能となる姿勢である。それは言いたいことを好き勝手に言わせるのとは違う。子ども・生徒の言葉に対して、教師が言葉で応じる。集団主義・権威主義の人間関係・一方通行の意思決定を排除したそのような言葉の応酬(=言葉の闘わせ)の過程で教師は子ども・生徒の言葉の質を高める役割を果たし、子ども・生徒は教師の言葉を刺激剤に自らも言葉を高めていく。また教師自身も子ども・生徒の言葉に触発されて、自身の言葉の質を高めていく逆の作用も機能させることになるだろう。
そういった双方向の言葉の闘わせが自己表現の能力を高める。そして、その自己表現の能力こそが、「抑圧に耐えたりすり抜けたりする力」となるものなのである。プロ教師の主張について言えることは、すべてが「事態を混乱させる役割しか果たさない」と言うことである。
プロ教師の「学校崩壊」を夫婦の今日的情況に即して説明してみよう。今までは男
尊女卑の権威主義的序列に従って、夫は妻を支配し、服従させることができた。だが、戦後の民主化と個人の権利意識の発展のあおりを受けて、妻は夫の支配・強制に無批判
・無定見に(と言っても、実際には忍従と言う名の忍耐を必要としたのだが、この忍耐がプロ教師の「授業が退屈でも我慢しろ」の「我慢」と同質のものである)同調・服従することに反旗を翻し、妻の側からの結婚破棄と言う形の強硬手段で既成の夫婦概念を破壊しはじめた結果の結婚制度の混乱はまさに学校の「混乱」と同一線上にあるものと言える。
このことは若年離婚と熟年離婚の違いを検討すれば、より理解可能となる。若年男女は戦後の民主化と個人の権利意識が日本人の生活意識により濃く浸透した時代に生きてきたから、夫が集団主義・権威主義を引きずった権利意識・支配意識で妻を従わせることには躊躇のない拒絶の形を取った、世間は早すぎる離婚とか、我慢が足りないと批判する早期の結婚破棄=離婚で自己権利の主張を行う。逆に民主化と個人の権利意識が日本人の中で発展途上であった時代に生きてきた熟年女性は忍耐を優先させることしか知らず、いたずらに忍従を重ねるしかなかったが、中年、あるいは中年を過ぎてからでなければ遅すぎる権利意識への目覚めとそのことによる忍従への決別を果たせ得なかった。
いわば、既成の結婚観・結婚制度に「混乱」と無秩序をもたらしている早すぎる若年離婚者がプロ教師の言う、「新しい子ども」に当たる新人種なのである。
だが、夫の支配・強制にノーを突きつける妻にしても、母親の立場に立つと、集団主義
・権威主義を露にし、集団主義的・権威主義的支配意識・強制意識で子どもと向き合う
。ああしろ、こうしろと一方的な命令・指示で子どもの意志・行動を律する。子どもが幼いうちはそのような人間関係の力学は有効だが、小学校高学年や中学生ともなると、子どもの権利意識はより強固となり、機能しなくなるばかりか、反発や反抗を誘発しさえする。
そのような関係を離婚と言う言葉を使って表現すると、さしずめ家庭内母子離婚となる
。これは決して母親離れでも、母親からの自立とも無縁のものである。
父親にしても、その多くは子どもに対する態度を妻に対する権威主義的支配と従属の関係の延長でしかないものとしている。中学生や高校生となった子どもが父親と口をきかなくなるのは、殆どの父親が双方向の言葉の闘わせを不在とした、それとは正反対の子どもの自己表現を抑圧する命令・指示の言葉しか持たないことに対して、子どもの権利意識がそのような言葉に拒絶反応を示すほどに強まっているからに他ならない。正当な方法で提示し得る術を知らないからこその無視という形を取った自己権利主張なのである。
これは教師に対する生徒の反発と同じ本質構造を成すものである。
学校教師は学校社会の教育者であると同時に指導者でもある。そのような立場にある人間が戦後50年以上という時間の経過にも関わらず、集団主義・権威主義を引きずり、自由・平等・権利を人間関係の場・意思伝達の場で正しく表現し得なかった罪は重い。できたことは集団主義・権威主義の全般的な行動様式に添った、その範囲内の自由・平等
・権利に関する言葉の表面的で固定観念的な解釈と解釈したものに対する一方的な暗記の強要のみだったのである。
集団主義・権威主義を引きずった者が自由・平等・権利をどう口にしたとしても、特権的権利で保護されることによって一般国民の権利を侵害している特権階級者が自由・平等・権利を口にするのと同じで、不平等で口先だけの中途半端なものとなってしまう宿命を当初から抱えているのである。
プロ教師は結論として、「学校・家庭・地域の共同性」(p90)なる過去の亡霊を持ち
出している。
「戦後日本の社会は豊かさを達成し、自由・平等、個第一という理念を社会の隅々にまで行きわたらせることに成功した。つまり、日本は近代化を達成したということである。しかしそのなかで、地域共同体を壊し、それに支えられていた家庭や学校を裸にして教育力を奪ってしまった。新しい子ども≠スちはこのようななかで登場した」(p90)
「戦後日本の社会」が「達成し」た「豊かさ」とは物質的なものであり、「近代化」の「達成」は工業の発展に限られたもので、人間的価値観や行動様式、社会的諸関係においては(社会的諸関係に関しては政官財の癒着をまず第一番に挙げることができるだろう)「近代化」どころか、封建時代からの精神性を引きずってさして変化なしの状態なのである。「豊かな国の貧しい国民」という欧米の指摘は物質的には「豊かな国」だが
、精神的には「貧しい」生活を強いられている「国民」という意味なのは説明するまでもないだろう。
「地域共同体」に関して言えば、町内会で町内会長が何かの署名運動で、賛成・反対の署名を求めて各家庭をまわると、近所付き合いとか、気まずい関係となることを恐れて
、意志に反するが、相手の求める署名に応ずる行為は戦前から現在まで続いている集団主義・権威主義の行動様式に囚われたもので、「自由、平等、個第一」とは決して相いれないそのような人間関係秩序が今もって地域を支配していることと、「地域共同体」が決してバラ色一辺倒のものではないことの証明としてある光景なのである。
例え法律が「自由、平等、個第一」を高らかに謳ったとしても、その理念・精神は日本人の人間関係の場には浸透せず、あっても無きに等しい情況となっている。いわば日本人はその精神性において未だ「近代化」を果たしていないのである。プロ教師はさすがにプロの名にふさわしく、その点を見落としている。
ゆえに、「地域共同体を壊し、家庭や学校を裸にして教育力を奪ってしまった」原因は、「近代化」でもなければ、「自由、平等、個第一という理念」でもない。学校・教師・親を含めたすべての日本人の大人が歴史的に伝統的な行動様式・精神性である集団主義・権威主義を引きずったまま、「自由、平等、個第一」を口にして口先だけのものとしてしまった中途半端が子ども・生徒に歪んだ「自由、平等、個第一」を植えつけることとなり、それが「教育力」の喪失へとつながっていった原因なのである。
集団主義・権威主義の行動様式には本来的に厳密な意味での責任と義務の観念は存在しない。世間体とか近所・みんなの手前、あるいは上司の命令だからといった名目的な義務と責任は存在した。世間や集団の圧力(=プロ教師の言う「社会的規制力」)が求める義務と責任であって、自分独自の判断に従った自律的な義務と責任ではない。
このことは世間や集団の圧力の届かない場所――自己を匿名化できる場所でのカン・ビンのポイ捨て、あるいは飲んで狂態を曝すといった、誰それと分かる場所とは異なる人格の発揮に象徴的に現れている。
集団や上位権威者の意志、あるいは世間や集団の慣習、周りの雰囲気に同調・従属し、行動する構造ゆえに、義務も責任もそのような構造に添った非自律的な性格のものとなっているのである。もし上からの命令で、「責任を取れ」と圧力が掛かったなら、自殺だってする。特捜の捜査のメスが下っ端の自殺で迷宮入りとなった事件は過去にいくらでもある。それが「地域」における日本人の姿であり、過去の戦争で責任を取らなかった責任回避も、戦争を国に唆された非自律的行為と見なしたからであり、それに添う、「国に騙された」とする国家への責任転嫁だったのである。
「いちばんつらいのは子どもたちである。生活の仕方をきちんと身につけずに大きくなって、毎日ギクシャクしながら生きている。他人とうまくいっしょに生活できず、いつもビクビクしている。自分を抑えることがうまくできず、いつ爆発するか分からない自分をもてあましている。生きる自信を持っている子どもたちはほとんどいない。
子どもたちは自分から望んでそうなったわけではない。社会も親も学校も悪いことは確かである。しかし、それでも中学生になったら、そういう自分を引き受けて生きていかなければならないのである。
そのとき、私たち大人が、こういう子どもたちにひるみ、逃げ腰になっていては
、子どもたちに対する責任を果たさないことになるだろう。家庭が悪い、学校が悪い、社会が悪いと責任を転嫁して自分を救うことはもうやめなければならないと思う。私たち大人の一人ひとりが、子どもの情況と新しい事態を引き受け、できることは精いっぱいやることが必要なのではないか。そのなかで共同性を作り上げていくことが力になるだろう」(p90〜91)
思いやりに満ちた美しい言葉が書き連ねてある。だが、すべてニセモノである。「支持のないところで『心の教育』などとてもできることではない」(p85)とサジを投げておきながら、「できることは精いっぱいやることが必要」だなどと正反対のことを平気で言っている。「支持のないところで」は何もできない人間が、何をどう、「精いっぱいやる」と言うのか。具体的な提示は何一つない。
「共同性」にしても、これまでのように集団主義・権威主義を人間関係の力学・秩序とした「共同性」なら、過去の亡霊を現在の世に生き返らせるだけのことで、プロ教師の言いまわしを借りるなら、「混乱させる役割しか果たさないだろう」と言うことになる。
結論を言えば、学校・教師は、「子どもたちに対する責任」を最初から「果た」していないと言うことである。「マスコミの学校たたき」だとか、「生徒の他人を受け入れない固い自我」だとか、「地域の支持のないところで」とか言うなら、それを補う何かを創造するのが学校・教師の「責任」であるはずなのに、何も創造しなかった結果が現在の教育荒廃なのである。そうであるのに、
「戦後五十年でここまできてしまったのである。これから立て直していくには五十年はかかるという覚悟が必要だろう。私たちは未知の領域に入ったのである」(p91)と、「五十年」間は「責任」を取らないで済む状態を維持しようというのである。今までだって「できることは精いっぱいや」って来たはずで、この体たらくである。何を、どう「精いっぱいや」ったとしても、悪化の一途をたどるだけで、それ以外は何も変らないだろう。一つだけ言えることは、「責任」を「五十年」後に先延ばしする結果、プロ教師自身とプロ教師の類は「五十年」間は安泰でいられると言うことである。
今回はここまで
次回は、『学校崩壊』第3部
「何のための勉強か――中学から高校へ」
の全面批判・全面否定。
乞う、ご期待!!
6下旬アップロード予定!!
「子どもたちは自分から望んでそうなったわけではない」と言いながら、
プロ教師は第3部では徹底的に生徒を悪者視する。