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    第114弾    期待外れの民主党前原代表
                                                 upload.5.12.25.(日          


 

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1.中国は「脅威」なのか。民主前原代表に失望
  2.防衛費対GDP比1%から読み取る「中国脅威論」

                                                                  

                                                                           前原先生、 中国本土目指して、一人特攻


  1.中国は「脅威」なのか。民主前原代表に失望

 政治ずれして駈引き行為だけが染みつき、老害化に向かいつつある、いわゆる年を食ったベテラン政治家よりも、世代交代して、若さ溢れる清新な人間が民主党の新代表に望ましいのではないかと考えて、立候補者表明者の前原誠司を支持し、その当選を歓迎した。清新なイメージは十分だが、政治的にはまだ幼稚、大人化には程遠い感じがして、期待外れの感が否めない。

 ワシントンの講演で集団的自衛権の行使を主張したのはまだしも、「中国の軍事力は現実的脅威」だとしたのは、「言うべきことは言う」がスタンスだとしても、短絡的、且つ直裁に過ぎたのではないだろうか。前原氏は「中国の軍事力は現実的脅威である」を中国に対する自らの正面切った外交カードとしたのである。そのことに気づいていたのだろうか。

 確かに中国の軍事力は増強過程にあるが、日本にとって実態的な脅威となって現れているわけではない。前原誠司は党大会後のインタビューで、中台問題や東シナ海の油田開発問題を引き合いに出して、潜在的な脅威であることに変りはないと言っていたが、後付の正当化に過ぎないのではないか。

  前原氏の態度が日本の態度ということになったなら、中国は対抗上、日本の軍事力は「現実的脅威」とする態度に出るだろう。先頃、中ロ共同軍事演習を行ったのは、日米軍事同盟に対抗する意味合いもあったはずだから、「現実的脅威」に格上げするのは造作もないに違いない。対抗上の文脈であったものが、相互の世論を刺激して、挑発に対する挑発に発展することを危惧する。

 現在のように経済発展する前の、経済的にも政治的にもまだ弱小国家だった頃の東南アジア各国は、世界有数の軍事力を維持するに至った日本がかつてのように軍国主義化しないか不安を抱え、ときにその不安を口にした。現在では殆ど聞かないが、戦争を知っている世代は依然として潜在的にその不安を消し難く抱えているかもしれない。お互いの軍事力を非難する日中の緊張が先鋭化した場合、他のアジア各国にも影響していくに違いない。

 中国の軍事力がアメリカの軍事力を凌いだとしても、日本にとって必ずしも「現実的な脅威」になるとは限らない。逆に北朝鮮が現在保有している規模の軍事力であっても、「現実的脅威」ではないとすることはできない。キム・ジョンイル体制が崩壊の危機に瀕した場合、自暴自棄になって日本に向けて無差別にミサイルは発射しない保証はないだろうからである。

 軍事力が脅威になる・ならないは国家間の関係性に従う。アメリカの巨大な軍事力が、少なくとも現在の日本とってはそうではなくても、シリアやイラン、北朝鮮といった国にとっては「現実的脅威」そのものとなっているのは、アメリカとの関係がそうならしめているからであろう。つまり、相手国との関係で、脅威にもなれば、脅威でもなくなる。

 そのような関係構図は、日本とアメリカとの関係の性格が変ることによって、アメリカの軍事力が日本にとっての「現実的脅威」になることもあり得ることを示す。

 となれば、中国の軍事力が実際に日本に向けた「現実的脅威」として実態化する危険な性格を抱えていると考るなら、その軍事力が「現実的脅威」とならない中国との関係を外交的に模索することで、その「脅威」を相対化することは可能である。いや、相対化しなければならない。

 「中国の軍事予算は突出傾向にある。その軍事力が日本及び他のアジア各国の現実的脅威にならないことを願う」といったふうにワンクッション置いた形の声明を発するだけで、その声明は「現実的脅威」を相対化する外交カードとなり得るのではないだろうか。

 あるいは、「中国の軍事力も、日本の軍事力も相手国及び近隣諸国の『現実的脅威』とならないように日中両国は近隣諸国をも交えて、相互に友好関係を確固とした状態へと築いていかなければならない」とする姿勢で、継続的な友好化政策を最重要な外交カードとすることも、中国軍事力の「現実的脅威」を相対化につなげる政策とはならないだろうか。

 真の国力というものは軍事力の規模で計られるのではなく、国民の生活の活力の程度によって計られる。大規模な軍事力を擁していても、国民が生活に活力を持てない国は砂でできた城に過ぎない。そういった国こそ、国民の不満を外に向けるための外敵を必要とし、「現実的脅威」となる危険性は高いが、国民の活力という内容を備えていない軍事力はいくら強大であっても、戦前の日本のように個々の兵器の性能のみに頼った、機能性を欠いた戦術しか展開できないに違いない。

 前原氏だけではなく、外交問題となると、靖国参拝で中国との間に緊張関係をつくり出している小泉首相も無策だから、幼稚性は日本の外交につき物としてあるのだろうか。日本の外交の戦略性の欠如は長い間言われていることである。

 また前原氏は17日まで開催されていた民主党大会で、「地域の絆、博愛とボランティア精神で『公』の役割を担う市民参画型分権社会」の実現という「新ビジョン」(05年12月18日朝日新聞朝刊社説)を掲げたという。前日の夕刊見出しは、「前原代表『公の精神』追及 提案」と出ていたが、綺麗事に過ぎるのではないか。
 
 自己利害の生きものである人間は利害に右往左往するばかりで、「地域の絆」も「博愛とボランティア」も、「市民参画」も、利害の範囲下に置かれ、利害に左右される。政治自体が支持団体の利害や自らの権益に左右されるのだから、そのことは自分たちの政治の世界を振返るだけでわかることだろう。「地域の絆、博愛とボランティア精神」で、あるいは「公の精神」で政治家の利権行為及び官僚の私利私欲行為がなくなるとでも言うのだろうか。

 特に「公の精神」は人が言う前に政治家・官僚が持っていて然るべき精神のはずである。それが「公の精神」など薬にもならない現在の体たらくなのだから、以て知るべしである。

 綺麗事からは何も生まれない。現実の人間は決して綺麗事では生きていないことを自覚すべきである。そのことを十二分に弁えた上で為すべきことは、
公平・公正なルールを社会に打ち立てることであろう。

 尤も、誰もが自分に都合がいいだけの
「公平・公正なルール」を打ち立てようと利害行為に走る。それをはねのけて、国民が全体として納得できる「公平・公正なルール」を打ち立てなければならない。それが政治家・官僚の一義的な責務のはずである。

 そのことに無能な政治家・官僚は排除する。

 納税制度に関して国民の多くが
公平・公正なルールだと納得できる制度。年金制度に関して国民の多くが公平・公正なルールだと納得できる制度。医療制度に関してより多くの国民が公平・公正なルールだと納得できる制度。政治家・官僚の収入に関して、国民の誰もが納得できる制度、あるいは政治家・官僚が国民が納得いく仕事をしているかどうか知ることのできる情報公開制度等々――政治が目指すべき方向は<国民の多くが納得可能な公平・公正なルールを備えた各制度>の確立であり、そのことは自明の要請となっている。

 要請は自明だが、人間が自己利害の生きものだからこそ、それが障害要因となって、未だに十分に納得できる実現を見ていない。一部の少数の国民にのみ有利な制度ばかりとなっている。

 
国民の多くが納得できる公平・公正なルールの厳格な実現のみが公平・公正な社会をつくる。その先に、談合や天下り、赤字をつくるだけの高速道路や保養施設、職業訓練施設といった不用な事業や好き勝手なお手盛り報酬を抑えることができる。あるいは逆に身体障害者や女性の社会参加が促進可能とする。自己利害とは無関係に「博愛とボランティア」も、少しは発揮できようというものである。自己利害とは離れた「地域の絆」も少しは期待できようというものである。
 
 特に社会の上層に位置する政治家・官僚の不正な私利私欲行為や犯罪の横行は(本人たちはカエルの面に小便で何とも思っていないだろうが)、
公平・公正なルールを打ち立て得ないことの成果としてあるものだろう。

 よく「公益」といったことが言われるが、真正な「公益」といったものは存在するのだろうか。「公益」と言っても、そこからより多くの利益を得る者と利益を受けることができない者の矛盾・格差を常に付き纏わせる。政治の利益配分にしたって、同じである。世の中は一事が万事そうなっている。

 綺麗事の言葉はいらない。国民の自明の要請をシンプルに受止めて、その実現に向けた政策をシンプルに実行する。自分の言っていることが綺麗事のスローガンでしかないことに気づかない政治家は信用できない。

  *  *  *  *  *  *  *  *

2.防衛費対GDP1%から読み取る「中国脅威論」

  アメリカという国は大変だなあと思う。世界各地に基地を構え、自国軍隊を派遣している。欧州、中東、日本を初めとするアジア、旧ソ連諸国等々――。確かイギリスにも基地を構えていたと思う。軍事的戦略エリアを全世界を対象として軍隊を展開しているのだから、アメリカの軍事費が3000億ドル超というのも当然頷ける金額なのかもしれない。

 但し核兵器の研究開発製造費はエネルギー省予算に所属していて、軍事予算に含まれていないということだから、合計したなら、相当な金額となる。

 米軍駐留各国が安全保障の肩代わりに、日本の思いやり予算みたいな方法で駐留に金額的な負担をしていたとしても、軍事費の相当額の差から見たら、僅かながらの負担に過ぎないだろうから、大変なことに変りはないと思う。

 日本の05年度の防衛費がドル換算で400億ドル程度で済んでいるのも、アメリカ軍の駐留抜きに設定した金額ではないだろう。イラクに自衛隊を派遣しているものの、人的・物的消耗の危険を冒さなければならない戦闘を目的としているわけではなく、それらの消耗が殆どない人道支援を目的としたもので、憲法上の制約があるからではあるが、日本はアメリカ政府及びアメリカ軍の協力も得て、基本的には日本1国を防衛エリアとした軍事展開となっている。

 因みに2006年度予算の財務省原案で示された防衛予算は4兆8137億円で、05年度当初予算と比べて427億円(0・9%)の減額だそうだ。これはGDPに関係なしに、政府予算の余裕のなさに迫られた選択ではないだろうか。

 日本の2003年度の防衛予算は約500億ドルという解説もあるが、400億ドル程度で済んでいると言っても、中国の484億ドルと比較して、実質額は84億ドルの差である。400億ドルという金額に相当するGDP比が1%と言うのは、確かに国民の負担の少なさを示している。国民の負担が重いよりも、軽い方がいいに決まっているが(物価の負担は中国と比較するまでもなく、アメリカと比較しても重い)、攻撃能力の程度も判別可能な1国の軍事規模に限って見る場合、そのことに注入している金額こそが基準的な指標となるのであって、GDP比の低さを以て、軍事能力に合致させることができるわけではない。

 但し経済規模に見合わない軍事予算の対GDP比が異常に高い構造の、北朝鮮のような国の場合は、政治体制の軍事力に過剰にウエイトを置く意図を嗅ぎ取ることはできる。極端に負担を強いられた一般国民の困窮をよそに経済的に優遇され名誉も与えられている、そのことのためにもキム・ジョンイルを盲目的に崇拝している精鋭部隊の戦闘能力は当然高いものがあるだろし、キム・ジョンイルが自己の独裁体制のみを守る必要上から、外国を攻めろと命令したなら、積極果敢に猛然と従わせることができるだろう。

 尤もいくら高い戦闘能力だったとしても、戦前の日本軍の「天皇陛下のために」と同じで、北朝鮮精鋭部隊の「将軍様のために」も、通用するのは緒戦だけで、長続きはしないこと目に見えている。

 つまりGDP比の高い・低いは、それが国の経済に圧迫を加える高さでない限り、1国の経済規模からから見た軍事予算分野での国民の負担の程度を示す指標でしかなく、安全保障の観点から見た国家間に脅威を与える・与えないの軍事能力の点に関して言えば、GDP比はそれが少しぐらい高かろうが低かろうが他に意味をなす指標とはならない。

 日本のGDP比1%に限って言えば、アメリカと軍事同盟を結び、アメリカ軍の駐留も仰いでいる日本の安全保障に関わる日本自体の防衛能力の維持にはGDP比1%相当で十分と考えていることからの予算上の目安の数字であって、それ以上の意味があるのだろうか。1%であっても、400億ドル相当の予算を獲得できるているのである。

 日本の自衛隊がアメリカから先端技術を装備した最新鋭の兵器で武装しているのに対して、兵器の近代化に本格的に取組む段階にある中国との軍事能力の差を比較した場合、中国の484億ドルに対する日本の400億ドルとの差である84億ドルは、「脅威」と受止める程の額だろうか。

 また国土約38万平方キロ・1億2千万の人口の日本に対して、その国土で25倍の約959万平方キロ、人口で10倍もある12億の中国を軍事的に守るに中国の484億ドルに対する日本の400億ドルの軍事予算を比較した場合、アメリカ軍の駐留という条件も加えた場合、かなり優越的な軍事費になっているとは言えないだろうか。

 問題は軍事予算の規模ではなく、意志である。全体的な国力が大人と子ども程にも差があった現実を無視してアメリカに日本は戦争を挑んだ、その意志である。何か問題が起きたとき、総合的な軍事力がほぼ均衡し、アメリカ軍が駐留している日本に中国は攻撃する意志を具体化できるだろうか。具体化したとしたら、例え日本が相当な打撃を受けたとしても、中国はかつての日本を演じるだけで終わるに違いない。そこまでバカを犯すだろうかと言うことである。

 実態的脅威が存在しないにもかかわらず、一方が「脅威」を言い立てる愚を犯せば、相手も対抗上同じ言葉を返し、両国間の現在以上の政治的緊張を高める結果しか招かない。中国原潜の日本の領海侵犯も、アメリカ軍の関係者だかがテレビで、潜水艦活動のための海底地形の探索と、相手国の探知能力を計ることを目的にアメリカ海軍もしていることだと、平然と落着いて話していた。いわば日本の身代わりにアメリカがしていることでもある。

 但し中国は日本との間のそのような政治的緊張をも絶好の機会と把え、実際に行使しなくても国力の目に見える重要な武器となる軍事力を暗黙のムチとし、他に用意した経済的なアメと組み合わせて、他のアジア各国に対して現在でもしているように日本に取って代わるアジアに於ける主導権獲得の外交的な道具立てに転換して、着々と自らのアジアに占める地歩の獲得に継続的且つ強力に推し進めていくに違いない。外交音痴の日本にはマネのできない芸当である。

 ということは、日本は中国と中国のアジアに於ける活動に外交の点から直接有効な打つ手を見い出せない無能の代償行為に「脅威」を言い立て、「靖国参拝問題が解決しても、中国は無理難題を主張し続ける」といった遠吠えを繰返しているだけのことかもしれない。

 となれば、中国の軍事費を楯に取った「脅威」云々よりも、日本は外交術を磨くことの方を先決問題としなければならないのではないか。小泉も失格、前原も失格と言ったところか。