≪物言う中国の労働者≫
――05年11月3日、朝日新聞朝刊に載った記事の見出しである。『スト多発し賃金上昇 日本企業 戦略見直しも』と見出しが続く。
記事の内容を要約すると、「7億人もの人口を抱える農村から出稼ぎに行く労働者が不足してきたのに加えて権利意識の高まりが背景にある」状況からの出来事らしい。
「多発」「スト」の背景はというと、「反日色は薄く、要求は賃上げと食事改善」が主で、「こうした争議は日系企業だけではなく、むしろ中小の国内企業や台湾・香港企業などに多い」と解説している。
対策として「中国政府は各地の最低賃金を引き上げると共に、失業保険に入る権利を認めるなど、出稼ぎ労働者の待遇改善に乗り出した」とのこと。
過去1年間で法定最低賃金を上げた都市を三つ程拾ってみると、
上海――690元――直近の上昇率 8.7%
深せん(特区)――690元――直近の上昇率 13.1%
北京――580元――直近の上昇率 6.4%
となっている。1元は約14円。
これはあくまで最低賃金で、労働者の平均月収は700〜800元だという。これよりも3割高だという上海の平均賃金を計算すると、1000〜1150元となる。日本円で14000円〜16100円の月収である。日本からしたら、中国様々の人件費の安さと言える。
「内陸部で確実に仕事が増えている」ことと、「農村の若年層に一人っ子が増え」たことが労働者の「売り手市場化」した原因という。
「04年に26万件の労働争議があり、76万人が参加。5年前に比べ、件数は約2倍、人数は6割増えた」との解説記事は、中国人の「権利意識」の拡大と進展が相当の勢いで現出していることを示している。権利意識
の発露とは、言いなりになっていない人間状況の言い替えであろう。
「物言う」中国人は労働条件改善要求のストに限って現れているものなのか、調べてみた。
2000年11月4日朝日朝刊に、「国民のネット熱」に「頭痛い中国政府」という記事は、 見出しからして「物言う」中国人の姿を示している。
「中国でインターネットの利用者が急増し、中国政府も無視できなくなってきた。香港メディアなどの情報が直接、市民に届き、『論壇』と呼ばれるインターネットの掲示板で議論が沸騰する。論壇は匿名性が高いだけに、比較的自由な論争が繰広げられ、ときには指導部批判も飛び出す。中国内の情報も外部に簡単に伝えられるようになってきた」
「香港・九龍地区マンション屋上に増設された小さな部屋。中国の民主化運動や人権問題の情報を香港から発信する『中国人権民主化運動情報センター』代表盧四清氏は(中略)1994年のセンター設立以来、『国家権力』を向こうに回すことになった。(中略)無料でアドレスを取得できるため、中国当局に知られていない十数個のアドレスを常時確保。連絡してきた相手に教えるという。盧氏は、今米国にある民主化基金に資金援助を要請している。認められれば、中国内の協力者にデジタルカメラを配る計画だ。写真があれば、国際世論に訴える力は格段に増す。
実際、7月に発信した江蘇省で起きた住民と公安当局の衝突事件では、メールで入手した写真をサイト上に掲載。香港紙がそれを転載し反響を呼んだ。コンピューターに詳しい盧氏は『メールの発信元は特定しきれない。政府が規制するのは不可能だ』と力を込める」
「江蘇省で起きた住民と公安当局の衝突事件」にしても、「物言う」中国人の姿を伝えている。
中国政府はこのようなインターネット状況を規制する方策を取っている。
2005年6月15日朝日朝刊の記事は、「米マイクロソフト」が「ブログ検閲」で中国政府に「協力」しているという内容である。
「米マイクロソフト(MS)がインターネット上で日記形式で情報発信できるブログ解説の窓口となる中国語のサイト『MSNスペース』で特定の言葉を使った書込みを禁止していることが分かった。AP通信は13日、MSが中国政府に協力して検閲していると明らかにした、と報じた。中国政府がウエブサイトを検閲していることは知られているが、MSのような有名企業が協力を認めたのは珍しい。
このサイトで『民主主義』『自由』『台湾独立』などの言葉を入力すると、『禁止されている言葉です。消去してください』と表示される。
MSNスペースは検索サイト『MSN中国』から接続できる。同サイトは中国政府が出資している企業とMSの合弁企業が運営している。今年5月26日にサービスを始め、約500万件のブログが開設されたという。
(中略)
中国は『インターネットニュース管理規則』で国家の安全に危害を加え、政権の転覆を謀ったり、民族の団結を破壊したりするニュースを制作、流布することを禁じている。こうした法律に基づき措置が取られているものと思われる。
中国のネット人口は約1億人に上る。中国政府は目に見えない情報網を警戒しており、検閲やサイト閉鎖などを通じて情報管理を強めている(後略)」
これらのことを裏返せば、取締を強化しなければならない程に「物言う」中国人の反体制的言動が横行している状況を示していると言えないだろうか。体制からの思想・言論の抑圧に対するに国民の側からの「物言う」抵抗が無視できない存在を形づくっているからこその「規制」であり、国民のすべてが自らを無力状態に置いているわけではないこと示していると言うことができる。
2001年6月7日の朝日新聞朝刊の≪鷲と竜 第2部 米国人の中国観≫を見てみる。
「9億人を超える人が住む中国農村部。その村長らを住民が直接選ぶ制度が導入されて10年あまり経ち、ようやく全土に浸透してきた。カーター元米大統領が主宰する非営利組織『カーター・センター』(ジョージア州アトランタ)は選挙ノウハウを伝えることで普及を支援している。チャールズ・コステロ氏はプロジェクトの統括責任者だ。
『公約を掲げて競う直接選挙を村人たちは歓迎している。これまで彼らは要求や不満があっても持って行き場がなかった。草の根の利害を如何に民主的な手段で調整するのか。選挙はその一歩だ』
『候補者の公約は農道の整備や水道工事、新技術導入などありきたりだが、身近で切実だ』
(中略)
『地方の党幹部らの一部に選挙実施に抵抗があるらしいが、既得権を失いかねないからだが、若い選挙担当者は熱心だ』
選挙の実施は米国人にどう見えるか。
『候補者の絞込み過程が不透明だったり、秘密投票の原則が十分守られていなかったり、満足とは言えない。だが当初に比べれば、多くの候補者が認められるようになってきた。これまで選択肢がないに等しい社会生活に慣れてきた草の根層が「選挙」という形で選択肢を獲得したインパクトは大きいと思う』」
民主的な選挙制度とは、国民が「物言う」制度でもある。その選挙制度が不十分、あるいは未発達な状態ではあっても、政治指導者が極端な時代的逆行を強行しない限り、同じところにとどまらずに発展していくものである。日本のようにテレビの情報に盲目的に従っているだけだとしたら、「物言う」制度は有効に活用されているとは言えず、未発達な選挙制度にあることと状況は何ら変らないことになる。
「村レベルの『民主化』には都市部中心の発展から取り残された農村部の不満を吸収する狙いもある。村の選挙が浸透すれば、次は町や市に進み、最終的には国家レベルの公選制につながっていくのか。
「極めて微妙な問題だ。村より人口の多い郷・鎮の選挙も一部で始まったが、省や中央レベルとなると、有権者と候補者は直接知り得る関係ではなくなる。それぞれ政策を掲げた政党間で競い合う選挙形態へのニーズが出てこよう』
『ただ共産党の一党支配を中国が放棄するとは当面思えない』
とすれば、全面的な民主化への道は遠い?
『これだけは言える。中国の指導者層の多くは文化大革命から教訓を得た。特定の個人の指導や判断に国家が従属する愚かさを身を以て体験したから、「法治」の必要性を、諸制度の近代化の重要性を深く認識している』
『変革の速度を速めるべきか、社会体制の安定を優先すべきかで意見は分かれるが、指導層内部には今後のあり方をめぐって驚く程率直な論争がある』
中国はどこへ向かうと見ているのか。
『私たちは中国に米国流の民主主義を押しつけるつもりはない。押しつけが成功するとも思っていないが、中国の当局者が選挙という政治に直接関わる問題で私たちのアドバイスに耳を傾けてくれている事実は重要だと思う。但し、何を受入れて、何を拒否するのか。結局は相手側の選択の問題だと思う』」
「これだけは言える」――中国がもし満足のいく形で民主化したなら、日本は中国に対する非難の矛先を失い、すべての点で中国の下に立つことになるだろうと言うことである。
例えそうなったとしても、日本の中国に対する政治・外交が中国のあら探しに終始するだけで、有効な形を取り得ない結末としてある日中関係でしかないだろう。
石原慎太郎は05年11月13日日曜日のテレビの報道番組で、「中国は自分では何もつくれない。マネしかできない」といったことを言っていたが、2001年6月19日の朝日新聞朝刊、≪鷲と竜 第2部 米国の中国観≫の記事で、アメリカ人の「共同研究中のピーター・レーベン氏」は、「『中国が豊かになればなるほど科学への投資も増え、在外の中国人研究者を呼び戻す効果を上げるだろう。研究者の潜在能力が高い中国が科学技術分野で、この先米国や日本の競争相手になってくることは間違いない』」と、石原慎太郎の発言とは真っ向から対立することを言っている。
05年11月4日の朝日新聞朝刊によると、石原慎太郎は「ワシントンの米戦略国際問題研究所(CSI)で講演し、『市民社会を持つ米国は戦争で中国に勝てない』と指摘した上で、『中国に対抗する手段は経済による封じ込めだ』と主張した」という。
さらに次のようにも言っている。
「『戦争は生命の消耗戦。生命に対する価値観が全くない中国は憂いもなしに戦争を始める。私たちは米ソが対立していた冷戦構造よりも遙かに危険度の高い緊張の中に置かれている』」
全く以て「生命に対する価値観が全くない」とは、恐ろしく中国を見くびったものである。
石原慎太郎はそう遠くない将来、中国が国力で日本を逆転することを予想していて、それを恐れ、認めたくないあまりの裏返しの意識が中国敵視、あるいは中国に対する言葉の攻撃となって現れているのではないだろうか。日本民族優越意識から、中国に負けることなど許されないと。
2003年6月28日朝日新聞朝刊の見出しを並べてみる。
≪歴史ドラマ 中国で波紋 国民に『民主』教育 『政治体制』論争も 『大胆』史観が話題≫
概要は次のように解説している。
「最近、中国で一つの連続ドラマが波紋を広げている。清末の激動の時代を描いた『共和(民主)への道』というテレビ番組。『専制と民主』がテーマのこのドラマは歴史論争に発展、国民への民主教育の役割も果たしたとされる。江沢民氏から胡錦涛氏への権力移譲の中で政治体制改革を求める声が高まり、胡政権は対応に苦慮している」
放映による具体的な状況の解説は、「番組はSARS感染を恐れて市民が家に閉じこもった時期と重なって高視聴率を記録。上海の市営企業家は『訪米した清国外交官に米大統領が三権分立と議会の仕組みについて延々と説明するなど、中央テレビが黄金時間に放映する内容としては非常に大胆だ』と驚」いていたと、その様子を伝えている。
但し、テレビ放映を受けて「政治体制論争」や「大胆史観」に対する歴史解釈論争が「新聞やネットで加熱」したため、中国「当局は再放送計画を凍結し、論争の中止を指示した」という。
だが、いくら当局が規制しても、中国国民が自らの胎内に民主化への胎動を孕んでいたからこその現象であり、歴史の流れに添うのは胎動そのものであって、決して規制ではない。規制が歴史の流れに逆らって抑圧化、もしくは弾圧化したとき、それは一時的な現象にとどまり、時と場合によっては体制は社会の停滞や暴動といった火傷を負う危険を覚悟しなければならない。
また、民主主義≠竍自由≠フ概念には、人権≠竍生命≠ニいった、それ自体が相互に重なる価値観を含む。例え政治体制が独裁であったとしても、民主主義≠竍自由≠フ概念と、そこに含まれる人権≠竍生命≠フ価値観は独裁に対立する項目として、抑えられた状態ながらも、常に国民の中に存在し、生きている。人間の本質をなす普遍的な価値観としてあるものだからである。「直接選挙」が実施される前の村住民の「持って行き場がなかった」「要求や不満」を衝動させていたエネルギーがそれに当たる。
石原慎太郎が言う「生命に対する価値観が全くない」とは、人間存在そのものを否定する愚かしいイイガカリでしかないだろう。
決してささやかとは言えない「物言う」抵抗を見せた中国人の姿を、04年11月16日の朝日新聞朝刊は伝えている。
≪中国・広東で数万人暴動 香港紙伝える 橋通行料支払い発端≫
「中国南部の広東省掲陽市で、橋の通行料の支払いをめぐって地元当局と住民が衝突し、料金所が焼き打ちされるなど 数万人規模の騒動に発展した。(中略)地方役人の腐敗に対する住民の潜在的な不満の高まりが背景にあるとみられる」
「橋は、農民が市中心部に野菜などを売りに行くために日常的に通るもので、往復4元(1元は12円)の通行料への不満が高まっていた。領収書が発行されず、料金がどう処理されているのか疑問が絶えなかったうえ、通行料の徴収も10月で終了とされたはずだったと言う。
全国各地でも、一般道で当局が法外な通行料を徴収するケースが多く、江蘇省では料金所の職員の月収が、農民の平均月収の約27倍の8千元にのぼることが判明するなど問題化している。
広東省でも、農地の立退きや工場の出稼ぎ農民への給料不払いなどをめぐって抗議行動が続発。汚職も深刻で、地元メディアによると、昨年1月〜今年7月までに検察当局が汚職容疑で取り調べた案件は同省内の県長以上の役人が250人、うち省局長クラス以上は19人に及ぶという」
「物言」わず、黙していたなら、不正や汚職を増長させるのみである。例えそれが「暴動」という形であっても、「物言う」ことは、公平さ=i=平等)への要求であり、そのことは民主主義への道のりを示すものであろう。
05年1月20日の朝日新聞夕刊は、カネボウ化粧品の中国現地法人の女性従業員が職場放棄した事件を伝えている。≪監査強化に反発か≫と見出しをつけているが、「同社によると、18日の職場放棄は北京、上海の計70店舗の大半で起きた。店頭販売の美容員を中心に百数十人に広がった模様だ。余波は19日も続き、上海市内にある現地法人事務所では中国人従業員は殆ど出社しなかった。
(中略)
職場放棄の原因について『人事上のトラブル』『人権侵害』との憶測も流れる。同社は産業再生機構の支援を受けて再建中のため、各社が激戦の上海市場を重視する中でセールス活動の費用を十分に捻出できず、現場の不満を募らせた可能性があるという。
同社は昨年末からコンプライアンス(法令遵守)を強化するとして各店舗への特別監査を強化してきた。18日に発表した輸入化粧品販売をめぐる法令違反を見つけるなど監査の成果もあった。
だが、各店の美容員の業務内用にまで調査が進んだことから、『自分が何かを疑われていると強い圧力を感じた従業員も多かった』と明かす社員もいる。
同社は『早急に原因究明を進めたい』としている」
「職場放棄」が正当な行為であったかどうかは、記事からは明確には判断できない。だが「物言う」こと自体が、それが間違っていたとしても、人権行為を目指したものであり、経営者側との話合い・調整によって、人権行為はより的確性を獲得していくのではないだろうか。
05年3月4日の朝日新聞朝刊は、中国農民が共産党地方幹部の罷免を求めた事件を伝えている。
「中国各地で昨年以降、行政による土地開発で耕地を失った農民による地方の共産党幹部らの罷免を求める『リコール』運動が相次いで起きていたことが分かった。署名簿が没収されるなどでいずれも失敗に終わったが、社会主義国の中国で市民が党幹部の罷免を求める運動を起すのは異例。広がる経済格差や役人の腐敗などへの不満の高まりとともに、住民意識の変化を示している(後略)」
「中国のリコール」を「キーワード」として解説している。
「中国の農村部では、末端レベルの自治組織『村民委員会』の主任(村長)らが唯一、住民の直接選挙で選ばれている。
現行法では、自治組織のトップである村長に対する住民のリコール権は規定されたが、県、郷、鎮の行政首長については明確な規定はない。
議会にあたる人民代表大会の代表(議員)に対するリコ−ル権は規定されている。
ただ住民によるリコ−ル権は直接選挙で選ばれる郷鎮とその上の県レベルまでにとどまり、間接的に選ばれる県レベル以上の場合、議会閉会中は人代常務委員会に委ねられている。
近年、住民が村長へのリコール運動を起し、村長が罷免されるケースも少なくないが、人代代表への実際の運用状況は明確ではない」
村単位の普通選挙は、「カーター元米大統領が主宰する非営利組織『カーター・センター』」が直接選挙の「普及を支援している」状況に対応するものであろう。
「地方の共産党幹部」らに対する「リコール」の形を取った「物言う」「運動」は民主主義体制へのうねりが、それがまだ小規模のものであっても、現に存在していることを示している。波がうねりにまで躍動せず、凪ぎ、澱んでいないことを物語っている。
05年9月19日朝日新聞朝刊の記事も、上記の物語に連なる出来事であろう。本文の一部を紹介してみる。
≪人民の力 村長解任≫
「舞台になった広州市の番禺(バンユイ)区魚窩頭(ユイウオトウ)鎮の太石(タイシー)村。人口約2千人で、企業進出が続く工業地帯だ。広州の『南方都市報』や香港紙によると、『陳進生(チェンチンション)村長が帳簿外で村の土地使用権を売り、不正経理している』という疑惑が広がり、7月末、村民委員会組織法に従って、約400人の村民が署名簿を添えて解雇請求を上級官庁の区と鎮の政府に提出した。
8月末、区政府は一旦、『コピーは無効で受取れない』と回答した。これに対し村民は9月5日、新たに800人余りの署名を集め提出した。この結果、『罷免に必要な全有権者の5分の1に達した』との鎮政府の公告(9日付)が11日に掲示され、村長解任が決まった」
「人民日報の論評は『理性の基礎の上に形成され、合法手続きに基づいた民主の糸口』と評価』」と出ているが、このようなリコールが末端国民の不満解消装置として権力側から利用されない危険はなきにしもあらずだが、例えそうであっても、いつまでも権力側に都合のよい働きを持たせた装置としておく程愚かではないだろう。人間は進化・発展しなければならない。権威主義に囚われている限り、従うことを自らの属性とし続ける。
記事は「村民委員会組織法」なるものを解説している。
「農村の住民自治を保障し、草の根民主主義を育てるために、約10年の試行を経て98年に成立。村は末端住民の自治組織で、全国に68万(93年時点)あり、民主的な選挙、政策決定、管理、監督を実施するとされる。村民が直接選挙で主任(村長)、副主任、委員の計3〜7人を選ぶ。太石村のように村長を選ぶ選挙人を選ぶ方法も認められている。任期は3年。選挙権、被選挙権は満18歳以上」
中国は動いている。良くも悪くも、その両要素を取り混ぜて、巨大なエネルギーを怒濤の如くに渦巻かせ、激動の真っ只中にある。その中で国民は激動に翻弄されたままで終わらずに、「物言う」状況を徐々につくり出している。このことは国家権力の国民に対する支配を完全な形としていない姿を示しているのは言うまでもない。
激動の時代を通過したとき、歴史は往々にして新しい体制を約束する。決して侮ってはいけない。