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    第112弾   外交カードとなっている靖国神社参拝
                                                 upload.5.12.20.(火)          


 

                                        

                                            
                                                境遇は違えても、
                                                みんな一つの家=一宇
                         住んでいる兄弟です。
                                                国のために身を捧げて斃れ、
                         ホームレスとなった者たち。
                                                    但し、靖国神社に
                            祀られることはありません。


 

 

 

 戦争中、「一億総玉砕「お国のため、天皇陛下のために命を捧げろ」と言っていた軍部幹部の多くが敗戦と同時に軍の隠匿物資にハイエナの如くに群がり、私腹して、食うや食わずの国民の窮乏をよそに戦後のどさくさ社会をうまく泳ぎ渡った。

 そのような軍幹部の無節操で利己主義な行動は敗戦の異常な時代だから起こったことなの か、それとも現在の政治家・官僚の似たような利己主義的で放恣な私利・私欲行為の蔓延から見て、日本人の性格としてあるものなのかの質問に出会った。

 果たして軍幹部たちの私腹行為は、「敗戦の異常な時代だから起こった」ことなのか、または日本人の性格としてある薄汚い利己主義行動なのだろうか。

  日本の国だけではなく、世界中見渡してみて、政治家・官僚、あるいは企業幹部たちのみならず、ありとあらゆる種類のすべての人間の生態から判断できることは、人間は人種・民族・国籍に関係なしに、過去・現在・未来、如何なる場面に於いても本質的には違いはなく、時代の性格や社会の状況に影響されるものの、時と場合に於いていくらでも矛盾行為(それが行き過ぎた場合は犯罪)を犯す生きものとしか受取れない。

 とすると、ある民族が他の民族以上に優れているとする民族優越意識は独善的で思い上がった幻想に過ぎないことにな る。技術が優れているとするのは、単に技術開発が先行していることの結果に過ぎないだろう。

 コンピューターと情報伝達の時代的な加速化が技術開発の時間的速度を従来以上に遙かに高めている。日本の高い技術が到達に要した時間とは比較にならない少ない時間で、経済後発国は技術取得へと突き進み、先行≠相対化し、無化するのは時間の問題だろう。

 技術で人種・民族の優越性を競うのは愚かしいだけのことである。

 
技術とかに関係なく、人類史上、如何なる国家の如何なる時代も矛盾のない社会は存在しなかった。その社会の矛盾たるや人間がつくり出しているもの だから、人間が総体的に正常な姿を保った時代はなかったと言える。

 日本では中国共産党幹部の汚職のはびこりを取り上げ、社会の後れと人間の劣りようを姦しく非難する傾向が一部にはあるが、日本の政治家・官僚の談合・天下り・ヤミ手当・裏金等は形を変えた汚職と言え るから、中国の汚職を以て日本人の方が優れていると把えるのは根拠がなく、人種・民族・国籍に関係なく人間は同じだとする考えの傍証となり得る。

 逆に民主主義の先輩国として、意味もない社会の発展と言うことになりかねない。
自由と権利がカネの力に偏った方向に進んでいる。

 かつては旧ソ連の特権階級の汚職や役得行為をやり玉に挙げたものだが、日本の社会にはそのような現象は存在しないという意識を前提とした見下しだった。現在の日本の政治家・官僚はまさに旧ソ連のテクノクラート同様の特権階級を長期に亘って形づくってきた存在であると言えない だろうか。

 敗戦直後の軍人の無責任行為は一見して敗戦による秩序の乱れが生じせしめたように見えるが、戦争中の軍の規律が守られていた情況下に於いても無責任な役得行為は存在していたの だから、同じ人間が関わっていたことではなかったとしても、全体としては状況に応じた結果の違いがあるのみで、それぞれの姿は本質的には変らない 一貫性の内にあったと言える。

 江戸時代の武士や戦争中の軍人の犯罪の例示は、過去の日本人を無誤謬・無瑕疵(=矛盾無存在)であるかのように扱う武士道礼賛日本民族優越礼賛、あるいは日本人性善説に対するアンチテーゼとして取り上げる場合で ある。侵略戦争否定は日本民族無誤謬説への止みがたい衝動からの主張であろう。

 武士社会にだって、様々な矛盾が存在した。それを武士は全体として武士道に則って行動していた道徳的に立派な存在であるかの如くに言う。そのような
矛盾無存在説(無誤謬・無瑕疵説)が正しいとするなら、100年もしたら昔のことは忘れて言われることになるかも知れない、戦後昭和と平成の日本の官僚は官僚道に則った行い正しき存在だったとする矛盾無存在説も正しいこととして罷り通ることになる 。

 なぜ人間は犯罪を犯すかというと、人間がいつの時代に於いても
自己利害の生きものだからであり、そこから逃れられないから であろう。

 つまり、人間は自分にとって
損か得かで行動する生きものであると言うこと だが、その損か得かの利害を時代時代の道徳とか倫理以上に優先させ、法律を超えた場合の行為が犯罪となる。

 損か得かは、物質的利害のみを基準として判断されるわけではなく、
精神的利害も行動基準となって、人間を律 する。失恋の腹癒せに相手の女を殺してしまうといった犯罪は精神的利害(いわゆる男としてのメンツ等)が大きく影響した犯罪であろう。

 相手の女性が金持の女で、うまくモノにした場合の豊かな生活を考えていたとしたら、夢と消える物質的利害も強く作用した犯罪と言うことになる。

 自分の置かれた状況・立場の違いによって、
利害行為の可能性は異なって くる。戦後の物資窮乏時代の一般庶民は,それができたなら、無断使用となる他人の土地であっても、農作物を植え、その細々とした収穫で食糧の足しにしたり、残された僅かな家財道具を持ち出して、それを売って食料に変える買い出しを行ってささやかながらの生活防衛に当たった。しかし軍人の立場にあった者は、残っていた軍の物資を、それが少しの物であっても、収奪して、衣食住に利用できる性格の物資なら、直接利用したり、あるいは闇市に流して換金したりして、より優位に生活に役立てた。

 勤めていた工場の備品等を無断で持ち出して売りさばいた人間もいたことだろう。

 いずれも
立場が可能とした利害行為、あるいは立場上の制約を受けた利害行為で ある。ということは、買い出しか、細々とした農作物の収穫で生活防衛を行った一般庶民にしても、自分が軍人の立場にあったなら、軍の物質を誤魔化す利害行為に走った可能性は否定できない。背に腹は代えられないと。

 
官僚の役得行為を批判している我々にしても、官僚の立場に立ったなら、飲み食いのために裏ガネづくりに励んだり、天下りで稼げるだけ稼いで、いい生活をするといったことをするかも知れないと言え る。

 一頃、
外国人犯罪の凶悪化がしきりに騒がれたが、彼らが置かれた立場や状況に従って1度の犯罪で1度に利益を上げる効率を求めるとしたなら、強力犯の形を取って勢い凶悪化するのは自然の流れとしてあ った傾向であろう。彼らがもし日本の政治家・官僚に立場を変えたなら、政治家・官僚の役得行為は少ないコストと労力で効率よく金銭を私服できるゆえに凶悪な強力犯罪に走る必要もなく、紳士の仮面をかぶったままうまい汁にありついた だろう。いわば、表面に現れた姿を除いたなら、外国人の犯罪も日本の政治家・官僚の犯罪もたいした違いはないと言える。

 人間が犯した罪に対して
重罰化で臨んだとしても、人間から犯罪を取り上げることは不可能 だろうが、平等の観念からしても、被害者の不利益に倍する不利益を加害者に与えないことにはバランスが取れない。少年犯罪強力犯に対する重罰化だけが進んでい るが、政治家・官僚等の犯罪は一見凶悪には見えないが、地位・立場が凶悪さを免れさせているだけのことで、質(タチ)の悪さに於いて変りはなく、いや、強力犯以上かも知れず、強力犯以上に重罰化が進まないことには平等とは言え ない。

 特に社会の上層に位置し、責任ある立場にいながら、
社会の矛盾の主たる作り手となっていることからしても、重罰化は当然と言え る。社会の矛盾に面と向かってそれを改めなければならない立場に立ちながら、逆に新たに矛盾をつくり出したり、現在ある矛盾をより強めたりしている。その罪は当然重いものがあ る。

 さらに言えば、官庁に長く勤めて、莫大な退職金を手にした上で天下りし、天下り先で高給を取って、2年程務めて、また莫大な退職金を手にして、次の天下り官僚に席を譲るといった役得行為を一種の盗人(ぬすっと)行為として犯罪の列に加えて、重罰に科することも必要になって くる。そのような盗人行為によって、自由と権利を人一倍に手に入れているからである。

 今ある社会をどうするかは、詰まるところ、その時代その時代の日本人の全体的な在りよう(日本社会の姿)を我々一人一人がどう受け止めるか、その認識にかかっているのではない だろうか。

 日本人は総体としては、これまでの社会を許してきた。自民党政権がロッキードといったスキャンダルを仕出かすと、選挙で懲罰として野党に票を入れるが、次の選挙ではけろっと忘れる健忘症と、野党に政権が移ったなら、日本の経済がおかしくなって自分たちの生活がヤバくなるのではないかという自己利害にのみ立った冒険ができない意気地のなさが、今の日本 ・今の社会をつくってきた――つまり、我々日本人全体でつくり上げてきた偉大な日本社会だと言うことである。

 
日本の政治家・官僚が日本人は優秀である、あるいは日本の歴史と文化・伝統は比類ないものであるとするのは、例え本人たちが直接的に意識していなくても、結果として、それらの優越的価値が自分たちの下劣さ・下劣な行為・下劣な根性をカモフラージュする隠れ蓑とすることができるから だろう。日本人は優秀であるとするとき、日本の政治家・官僚は下劣であるとするのは自己矛盾そのものであり、二律背反をなすことになる。つまり、日本人は優秀の中に、意識するとしないとに限らず、自分たちも入れて 、その下劣性を隠すと言うわけである。

 変身第1号と言ったところだろう。

 
愛国心を声高に言うのも、自分たちは国を思う気持に溢れている人間――つまり不正のない人間だとすることができるから に違いない。
 
 
天皇の存在にしても、神話の時代からその皇統を受け継いで万世一系を成していることを日本民族優越性の重要な根拠としていることから、やはり自分たちの下劣さを隠す隠れ蓑となるからこそ、価値ある存在と なっているのだろう。

 日本民族優越意識にしても、天皇にしても、日の丸・君が代にしても、愛国心の高揚にしても、人間は善・聖なる存在ではないから、善・聖とする儀式・象徴が必要となるというわけで ある。靖国参拝にしても、そういった意味合いが濃い儀式ではないか。