市民」 

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第17弾

政治編 森首相「神の国」釈明と青少年有害環境対策基本法案(素案)
                     
2000.6.4.()アップロード

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    その1 森首相「神の国」釈明(00/5/26) 
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      ハトは平和の象徴であるが、
      ハトが平和をつくりだすわけではない。

天皇日本国及び国民統合象徴だが、天皇日本国及び国民の統合をつくりだしているわけではない。

国民の側から言えば、戦前は天皇のために戦ったが、戦後は天皇のためにを形成し、国民統合を成し遂げているわけではない。

国民国の政治を政治家に委託し、政治家を通して日本国及び国民統合を維持しているのであって、日本国及び国民統合の主体は天皇でもなければ、政治家でもなく、日本国民自身である。

即ち、日本国の中心は国民であり、国民以外の何ものでもない。それが主権在民と言うことなのである。

◆象徴とは、単なる名目に過ぎない。「実体を表していない、形式だけの名」(『大辞林』三省堂)ということである。あるいは形式的印(しるし)としての意味を付与されているに過ぎない。

また、戦前においても天皇の実体は象徴に過ぎなかった。国民支配の道具として象徴させられた。侵略戦争遂行の象徴として、軍部及び政治権力に利用され、軍服姿で大元帥として白馬にも跨(
またが)った。
八紘一宇(世界を一つの家にすること=世界支配)の実現を担う象徴でもあった。歴史的に常に実体は象徴以上のものであった試しはないのに、現在においても、多くの日本人は心の中で、天皇象徴以上のものに位置づけたい矛盾した衝動を抱えている。

同じ象徴であっても、天皇神という絶対性を象徴させ、その反転現象として、その天皇が中心である日本国及び国民の絶対性を暗示しようとする、戦前的意味づけへの衝動である。

としての天皇のもとにある日本国及び日本国民特殊な優越国家特殊な優越国民特殊な優越民族だとしたい戦前的日本民族優越証明意識への回帰である。

いわば天皇におけるとは、日本民族の優越性、あるいは絶対性を確固たるものとする証明装置なのである。

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釈明に対する検証◆◆
「日本は天皇を中心とする神の国」釈明との整合性を問う
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言葉にしても文章にしても、前後の文節は整合性・首尾一貫性を前提として、それぞれが響き合い、相呼応して言わんとする全体像が描き出される。裏返して言えば、「日本は天皇を中心とする神の国」とするとき、「日本は天皇を中心とする」という言葉と、「神の国」とする言葉は決してそれぞれに切り離して解釈することはできないし、切り離したなら、整合性・首尾一貫性を破る矛盾を自ら犯すことになる。

ところが、森首相はそのような矛盾を自ら犯したのである。なぜなら、釈明が誤魔化しでしかなかったからである。

「天皇を中心とする」という言葉を、「私も国民も、天皇といえば象徴と認めている。だから日本の中心であると理解している」とし、「神の国」「特定の宗教について述べたものではない。わが国には、昔からその土地の山や川や海などの自然の中に、人間を超えるものを見るという考え方があったことを申し上げた。・・・・
・・決して天皇を神と結びつけようという趣旨で発言したものではない」
(「朝日」朝刊2000/5/27)とする前後の釈明をつなげてみると、
象徴である天皇は日本の中心であり、わが国には、昔からその土地の山や川や海などの自然の中に、人間を超えるものを見るという考え方があった」という整合性・首尾一貫性を失った解釈不明のものとなる。

無理やり整合性・首尾一貫性を与えるとなると、「天皇は象徴であるが、わが国には、昔からその土地の山や川や海などの自然の中に、人間を超えるものを見るという考え方があり、天皇も人間を超える存在(=神)で、ゆえに日本の中心である」という解釈にならざるを得ない。いわば日本国及び国民統合象徴であることを否定して、への象徴となり、やはり釈明の前半部分はウソとなる。

「自然の中に、人間を超えるものを見るという考え方」は何も日本人に限った自然観・宗教観ではなく、世界各地に見られる現象であって、そのように特殊とは言えない自然観・宗教観を日本という国に限定して国家の形態・国家観にまで発展させて、だから「神の国」であると国家そのものに特殊性を持たせた場合、そのこと自体に矛盾が生じるばかりか、「日本は天皇を中心とする」という前置きとの整合性はなお一層のこと見い出すことは不可能となる。

言い換えるなら、「日本は天皇を中心とする神の国」は決して切り離すことのできない、一つにつながった意識表明として解釈すべきであり、森首相天皇観国家観のストレートな表明以外の何ものでもないと見なすべきなのである。

切り離すことのできない言葉を無理やりに切り離したからこそできた釈明で、切り離した時点ですでに誤魔化しを含んでいたのである。

アメリカのクリントン大統領はロシアのプーチン新大統領との初の首脳会談を前にして、『「ロシアが自らの大国の証(あかし)を過去の基準に求めるのか、未来の言葉で語るのか、見極めないといけない」と語っていた』(「朝日」朝刊2000/6/5)そうだが、その言葉を「神の国」発言に当てはめてみると、森首相は「日本が大国であることの証を過去の基準に求めている」種類の政治家なのは説明するまでもなく、それゆえに語るべき「未来の言葉」を持てないでいる情けない有り様をさらしてもいるのである。また、それゆえに、
国体」などという言葉を無神経なまでにさらりと口にすることができるのである。

森首相は戦後の民主国家の内閣総理大臣でありながら、戦前を引きずったまま戦後を生きているエセ民主主義者なのである。そのような人間が総理大臣となっている。我々は許すことができるだろうか。

 

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    その2    青少年有害環境対策基本法案(素案) 
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 自民党が法律化を目指している「青少年有害環境対策基本法案」は、大人向けの出版物(アダルトビデオ・ヘアーヌード雑誌等)から青少年を守ることを趣旨とし、そのような出版物の販売規制を行おうとするもので、これは憲法が保障する基本的人権としての思想・言論・表現の自由を歪め、抑圧するものであってはならないのは当然のことであるが、この手の法律は見てはならないものを見ようとする子どもの目を親が手でふさいでやり、聞いてはならないものを聞こうとする子どもの耳を親が手でふさいでやろうとする構造を宿命的に抱えている。

いわば情報の選別は親任せ・社会任せとし、子ども自身の主体性は排除することでその目的を達成しようとする内容の法律なのである。

だが、どう規制しようとも、規制された情報は入手困難となるだけで、入手不可能な情況を作り出せるわけではない。規制によって付加価値のついたワイセツ情報で一儲けしようとする人間は跡を絶たないばかりか、入手困難なことが犯罪温床の引き金となる可能性もある。市場原理を反映しない高額さが万引きや家のカネの誤魔化し、友達からの恐喝を誘発する危険性は否定できまい。

私自身の考えで言えば、女性器・男性器は猥褻概念から除外すべきだと思っている
どのような情報を選択するか、どのような情報を鑑賞するかはすべて子ども自身も含めた個人の責任に任せるべきで、そのためには知的・美的・宗教的・道徳的情操の育成を前提としなければならない。

その方法は既に『2000年時代の小学校授業改革』で述べたが、人間が性的刺激のみを目的とした欲求から、いわゆるワイセツとされている映像・出版物等を鑑賞・堪能するのは決して悪ではないし、それを完全規制することは不可能である。そのことは思想・信条の自由とした上で、学校がを生理学からの追究だけではなく、映像ドラマや書物を利用して人間生命の一環としてあるもの、生き存在していく上での重要な営みの一つとしてあるもの、あるいは人間の生活上の喜怒哀楽の営み・葛藤の一つとしてあるものとして、セックスシーンを含めた性情報・性知識の学習の機会を幼稚園児(保育園児)の頃から提供することによって、性に関する情操意識を育み、ワイセツ志向とのバランス感覚を養わせるべきだろう。

具体的には、人間が生きるということはどういうことかを学ばせる、生きる上での行為の一つとしてあるセックスシーンだったなら、子どもの目から隠すべきではなく、逆に積極的に目に触れさせて、例え正確に解釈できなくても、性をも含めた生き存在に関わる感性・想像力の養分とし、知的・美的・宗教的・道徳的情操の芽へとつなげていく
。そうしなければ、必要に応じた
性情報の選択へのプロセス・必要に応じた性鑑賞欲求へのプロセスもなく、ワイセツ志向のみの性選択・性鑑賞に傾いた人間を育み育てることになるだろう。

少年法にしても、否定的と把えた人間行為を抑える方向に重点を置いた法律である性格上、子どもたちの自律性「他からの支配や助力を受けず、自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること」『大辞林』三省堂)そのものを育む方向への意識を欠く傾向にあり、それを補う何らかの配慮(教育)を連動させなかったなら、法律内容は厳しくしなければならない方向にのみ向かうことになるだろう。

ここ十年、(性)犯罪を含めた少年行為の低年齢化が言われているが、実際は(性)犯罪を含めた大人行為からの学習の延長であって、低年齢化というよりも、大人化、あるいは大人年齢化と表現したほうが実体を正確に把えていると言える。

ゆえに、厳しく罰すべきは大人の犯罪であろう。特に社会的責任を大きく負っているにも関わらず、法を逃れて、あるいは法すれすれの犯罪行為を犯しながら、高収入に支えられてぬくぬくした生活を送り続ける政治家や高級官僚、あるいは事業家への嫉妬と羨望を引き金とした、あいつらが許されるなら、俺たちだって許されるはずだといった自己免罪と、自分たちもいい思いをといった追随心理からの犯罪もあるとなると(これは上の連中はうまいことばっかやっている、下っ端だけが大変な思いをさせられているといった心理機制によって誘発される、上乱れれば、下乱れるの原理に重なるものだろう)、政治家・官僚・企業の贈収賄・職権乱用・不正接待といった職務犯罪は、その社会的責任の大きさと犯罪の程度に応じて死刑をも含む重い罰を科すべく、知能犯罪に関わる法律をこそ改正すべきだろう。

 

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