日本の政治や外交の戦略性の欠如にもつながっている日本人の危機管理能力の欠如は、暗記式・詰込み型の教育と深く関係しているのではないか。スクラップを紐解いていたら、上記の考えを補強する新聞記事に出会った。現場教師の意見で、具体的であるから、全文紹介してみる。
全文を紹介するのは、自分の主張に都合がいいとこだけをツマミ食いして紹介、もしくは脚色することとなったら、一種の情報操作を犯す(ホリエモン騒動で言われている
偽計≠ノも当たる)ことになるから、そうではないことを証明するためと、人によっては異なる解釈を施す場合もあることを考慮して、その必要に応えるためにも、結果的に長文となるが、なるべく全文か、それに近い形で紹介することにしている。
相変わらず朝日新聞からの引用だが、1998年8月16日の記事である。
『自分で調べ、論じる方法 教師も教えられなかった』
和井田清司・千葉県立小金高校教諭
「日本で政治教育が定着しなかった背景には、現実の問題を率直に取上げる戦後の『社会科』という科目のやり方が、当時の教師や社会に受入れられなかった面もあった。社会
科教育の歴史に詳しい国立教育研究所の研究協力者・和井田清司さん(千葉県立小金高校教諭)に聞いた。
昭和20年代はエネルギッシュな時代だった。当時の高校新聞を見ると、生徒は高い政治意識を持ち、天皇制や再軍備といった問題を正面から論じた。ところが、大方の教師はそうした関心にこたえるだけの授業ができなかった。
無論教師は、人権や民主主義など憲法的理念は身につけていた。だが実際の授業となると、生徒に何かを教え込むという、戦前以来の伝達式授業方法が殆どだった。
政治とは、異なる価値を持つ人間が、討論を通じて合意を探る作業と言える。生徒に自分で問題を探らせ、発表や討論を通じて学習する方法が有効ははずだったが、それができなかった。当時は学校対抗の討論会が盛んでクラブ活動などではディベートが流行したが、その方法が社会科の教室での授業に採り入れられることもなかった。結果として教師の政治への見方を教えるということになりがちだった。
高校社会科の一科目である『時事問題』の盛衰が象徴的だ。『時事問題』は、1947(昭和22)年の学習指導要領に登場。教科書はつくらずに現実の時事問題の中からテーマを設定し、生徒の調査・研究・討議を通じて学習することになっていた。しかし、教え込み型の授業に傾きがちな教師には不人気だった。やがて教科書がつくられ形式化が進んだ。結局、討論学習を成立させる具体的な方法や手引きもないまま、56(昭和31)年版学習指導要領で消滅してしまった。
また、当時の高校社会科には社会的条件とのミスマッチという問題もあった。選挙違反について新聞に投書した高校生の一家が地域で村八分になったり、社会科の学習に熱心に取り組んだ生徒は就職に不利になったりするという事例すらあった。
社会的問題を探求的に学ぶ必要性は、いまの時代はますます高まっている。かつてのような社会とのミスマッチも消えつつある。戦後初期の社会科の失敗の中から教訓を汲み取り、ディベートなどを活用した政治学習が実行できる時代になってきたのではないか。」
「自分で問題を探らせ、発表や討論を通じて」「社会的問題を探求的に学ぶ」主体的な学習機会を持たないまま卒業して、大人となっていき、その循環が繰返されている。
主体的≠ニは、自覚的な意志・判断が基準となって発揮される行動性を言い、その先に創造性が関わってくる。指導力も責任遂行も、主体的≠ナあるところから生まれる。その逆の姿にある生徒を世に送り出しているということだから、政治家・官僚にしたって、同じ姿のなり代わりで、主体性も創造性も期待できないのかもしれない。
新聞記事は限られた文字数で自説を展開しなければならない限界を抱えていて、主張のすべてを言い表せるわけではないから仕方のないことだが、解説に不足と思われる箇所を補足してみる。
記者がまず質問している、「現実の問題を率直に取上げる戦後の『社会科』という科目のやり方が、当時の教師や社会に受入れられなかった面もあった」という状況は、それがアメリカの教育使節団が提言して実現させた教育内容であって、例え西洋社会にごく妥当な性格のものであっても、日本の土壌にふさわしくない作物だったということだろう。慣れないことに手を染めたわけである。
尤も土壌を改良し、作物に手を加えることで、目指すべき収穫を可能とすることができないわけではない。しかしそれができなかった。
確かに、当時の「生徒は高い政治意識を持ち、天皇制や再軍備といった問題を正面から論じた」だろう。生徒だけではなく、一般の大人の「政治意識」も高揚した時代だったはずである。神国日本のあり得べからざる完膚なきまでの徹底的な戦争敗北と国土の荒廃を受けた上、外国軍隊の日本占領、そして
GHQの大日本帝国の解体となる公職追放や警察改革、特高・内務省の解体、御真影の禁止、農地改革、教育改革、国家神道の廃止等々が続いたのである。いやでも政治意識が高まらざるを得なかっただろう。
但し、そのような「政治意識」が、その時代に横たわることとなったすべての問題を、日本人全体(=すべての自分自身)が関わってもたらした過去の反映、あるいは帰結として存在しているものであり、そのことの自覚をも含めて、自分の目・頭で把え、自分で判断し、それぞれを自分の主張として表現した政治性であったかが問題となる。
60年安保時代は高校生まで巻き込んで大学生主体の学生運動が全国的に高揚したが、彼らの演説ときたら、一般の耳には騒音にしか聞こえない独特の抑揚で、喚き散らすだけのものだった。思想そのものはレーニンや毛沢東が一度使った言葉のそっくりそのままの受け売りか、焼き直しのなぞりでしかなく、そのこと自体が既に自分自身のものではない、他人から「伝達」された思想でしかなく、後は、なぜそうなのかという説明もなく、「安保反対」とか、「アメリカ帝国主義」、あるいは「日本反動勢力」の打倒とか、実現させるだけの知力も武力も持たないからだが、口で言うだけの「世界同時共産主義革命を今こそ目指そう」といった、決まり文句を並べ立てるだけの主張展開で、果たして内容的にも「高い政治意識を持」っていたと言えるかどうかである。
「無論教師は、人権や民主主義など憲法的理念は身につけていた。だが実際の授業となると、生徒に何かを教え込むという、戦前以来の伝達式授業方法が殆どだった」という状況にしても、少なくとも教師一般は、「身につけていた」「人権や民主主義など憲法的理念」が「戦前以来の伝達式授業方法」に従って得たなぞっただけの知識で、自己化にまで至っていなかったということだろう。
思想・知識が自己化していたなら、ことさら教えるという作業をしなくても、会話を交え合いさえすれば、おのずと伝わっていくものだからである。年々のその積み重ねが、生徒自身にしても、「教え込ま」れたものではない、教師から自然と受け継いだ思想・知識を自己化していくという構図を取るはずである。
大体が「人権や民主主義など憲法的理念は身につけていた」と言っても、敗戦を境に昨日までの天皇主義・軍国主義に変わって民主主義を今日与えられたといった急場にあったのである、5年や10年で自己化に至るまで「身につ」くはずはなく、俄か仕立てされた付け焼刃に過ぎなかっただろうことは想像に難くない。今もって、人権小国といわれている日本である。5年10年どころか、敗戦後65年経過しても、「身につい」ていない始末ではないか。
日本の教育を民主化するためにアメリカの第1次教育使節団が日本にやってきたのは、1946年(昭和21)の3月初旬であり、「教育の民主的な具体案として六・三制や男女共学、PTA、教育委員会の設置などを」(『日本史広辞典』)3月30日にまでに報告書にまとめて
GHQに提出している。教育基本法案が国会に上程されたのは翌1947年(昭和22)の3月13日で、3月31日に交付されている。六・三制が発足したのは、同年4月からで、最初の学習指導要領もその前月の3月に定めている。
南原繁東京帝大総長を委員長とする日本側教育家委員会も参加してまとめた提言だと言うことだが、アメリカ教育使節団の「理念は教育の中央統制の排除、地方分権化とアメリカ型教育システムの導入であ」り、「これを受けて制定された教育基本法に依拠して新制度が実施された」(『日本史広辞典』)と言うことだから、アメリカ教育視察団の教育思想の影響をより多く受けた改革だったことが窺える。
このことは当時の学習指導要領が、「教師の参考・手引きの性格が強かった」が、「1958年の小・中学校学習指導要領全面改訂から文部省告示となり、国の基準として法的拘束力を持つとされた。以降、教育内容・教科書検定などに国の指導が強められている」(『日本史広辞典』)という経緯にも現れている。
当初の学習指導要領の「教師の参考・手引きの性格が強かった」はアメリカ
型の自由主義的傾向の強い影響を示すもので、それが「国の基準として法的拘束力を持つとされ」るに至った中央集権化は、いわば教育の日本回帰を示すものだろう。
「戦前以来の伝達式授業方法」である「生徒に何かを教え込むという」教育方法
なるものは、教師による知識と生徒の判断への支配を示すもので、国の学習指導要領を利用した中央集権化(=中央支配)と相似形をなすものである。同じ日本人のすることだから、一致して当然
の原理としてある。
だが、1958年の「全面改訂」までの11年間、学校・教師は「教師の参考・手引きの性格が強かった」状況を利用して、歴史上の一つの事件であっても、社会的な問題であっても、
生徒と共にどのような把え方があるか、どう把えるべきかをお互いに議論しあい、それぞれの考えや判断を深化させ、創造性を高めていく自由な教育ができていいはずなのにできなかった。教師自体が如何に「戦前以来の伝達式授業方法」に慣らされていたか、歴史・伝統・文化・国柄としていたか
を物語っている。
教師が他人や書物から受けたボールを同じボールのまま生徒に投げて、生徒もそのボールをボールだけのものとしてキャッチするだけの順繰りの知識「伝達」を行っていると言ったところだろう。
「1947(昭和22)年の学習指導要領に登場」した「高校社会科の一科目である『時事問題』」にしても、「56(昭和31)年版学習指導要領で消滅してしまった」のは、それが与えられた教科で、日本の文化の中に種を落とし、根付き育った作物としてあったものではなく、収穫の方法もわからなかったから
という事情があったからに違いない。
だからと言って、「討論学習を成立させる具体的な方法や手引きもない」ことが、「消滅の原因」ではないはずだ。「方法や手引き」だけでどうなるものではないことは、2002年実施の総合学習と、その前身である「ゆとり教育」で、それを具体化する教科書がないためにどのような内容の授業をしていいのか判断に迷い、学校側が文部省に指示を仰ぎ、文部省がサンプルまで示して授業内容を指示するといった、総合学習やゆとり教育を「成立させる方法や手引き」を犬に餌を与えるように目の前にぶら下げてもらいながら、サンプルをなぞることしかできなかった
ために、各学校ともその範囲内で授業が形式化し、画一化してしまったという前科が証明している。
このことは「『時事問題』」が「教科書がつくられ形式化が進んだ」状況と重なる光景であろう。学校・教師自体が、教育に携わる身でありながら、「『時事問題』」で、「自分で調べ、論じる方法」を身につけていなかったのである。総合学習で言うなら、それが目指す「自分で考え、学び、自分で解決する力」を持っていなかったのである。
そのような学校・教師に学ぶのだから、生徒の「自分で調べ、論じる」にしても、「自分で考え、学び、自分で解決する」にしても、できない姿は当然の結果としてあもの
である。その繰返しが歴史・伝統・文化・国柄となっていく。いや既になってしまった。
アメリカの教育使節団が与えた「生徒に何かを教え込むという、戦前以来の伝達式授業方法」からの脱却の機会を、さして有効化もできずに無駄にし、ゆとり教育と総合学習によって再びそのチャンスを与えられながら、暗記知識でしかない学力の低下という、枯れ尾花が正体の化け物に怯えて、早々に遠くに追いやってしまった。
要するに、「討論」する習慣が歴史的・文化的・伝統的に、いわば教育上の国柄として存在せず、代って暗記式教育習慣が存在していたに過ぎない。
江戸時代の寺小屋からして、往来物と称する見本としてある手紙の内容を書かせて、文字と同時に手紙の書き方や文例、あるいは品物の名前や姿を覚えさせたり、山城とか、相模と言った当時の国名を書かせて、漢字と同時にその場所を覚えさせたりする、機械的になぞらせて、なぞらせたなりに機械的に記憶させていく、現在と殆ど変わらない受身の知識伝達、記事で言うところの「伝達式授業方法」を教育の姿としていたのである。
大体が日本という国の成り立ちからして、律令制、その他の制度・思想・文物の中国からの移入、明治のフランス・イギリス・ドイツからの制度・思想・文物の移入。戦後民主制度・その他のアメリカからの移入。金融改革にしても、他の改革にしても、アメリカの制度を参考にするなぞりから出発している。日本の社会に――というよりも、公平であることよりも利害関係に合うように手直しして採用はしているが、だから、有効に機能することは少なく、矛盾だらけの綻びを手直しの上に手直しする繰返しが行われる。
記事は「社会的問題を探求的に学ぶ必要性は、いまの時代はますます高まっている」と言っているが、何を試みても、過去の例が証明しているとおりの、日本の歴史・文化・伝統・国柄としてある学力重視の暗記式・詰込み型の「伝達式授業方法」の循環で終わるだろう。それは日本人の行動様式としてある、上が下を従わせ、下が上に従う権威主義と重なるからである。
大山鳴動ネズミ一匹すら出てこなかった元の木阿弥の繰返しだった。まあ、経済が破綻しない限り、それが借金であっても、カネで解決する力を失わないで済むから、政治や外交に戦略性がなくても、どうにか国としての格好はつけていけないこともない。
戦略性・創造性の欠如を補うものとして、カネで解決があるのだろう。市民の福祉、質を伴った生活の構築に生かす知恵もないにも関わらず、箱物だけをつくる行政にしても、戦力性・創造性に代るカネの力というわけである。