市民」 

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第18弾  「何のための勉強か」と言う 

                 2000/6/16(金)アップロード

『学校崩壊』第3部でのプロ教師のテーマは「何のための勉強か――中学から高校」(p93)である。「何のための勉強」として生徒の前に立っているのか、是非知りた
いところである。大方の教師は進学を目的として教え、殆どの生徒が進学のために勉強する。言い換えるなら、進学に役に立つ範囲内の勉強を主体とし、役に立たない勉強は排除される傾向にある。プロ教師はプロと名乗るくらいだから、一般の教師とは異なる教育を施しているはずである。もっとも、教育が「施し」としてある間は、生徒の
創造性への発展はさして望めないだろう。

「大幅に落ちた学力」と題して、「勉強勉強と言うわりには気概がない」(p94)と小見出しで、早くも生徒批判を開始している。

「学力」はテストの成績で問われるために、テスト問題の解答技術能力によって解決され得るという性格を必然的に作り出している。学校・教師が「学力」の持つそのような性格に囚われて解答技術能力の底上げ教育のみを行った場合、一つの可能性でしかない解答技術能力ですべての生徒の可能性を律する不合理に陥ることになる。そうならないためには、解答技術能力の底上げとは無縁の教育を常に心掛けるか、「学力」をテストの成績では問わない方法を見い出すかしなければならないだろう。果たしてプロ教師はどうなのだろうか。

「ほとんどの生徒が高校に受験するために、そのうちの八割ぐらいの生徒が塾へ行っている」(p94)ということだが、のっけから中学校教育が進学を目的としていること
を暴露している。だが、その割には
「学力」は落ちているという。

「親にしてみれば、家で勉強しない子どもでも、塾へ行けば勉強すると思うのだろう。安心料ということだ」(p94)

「八割が塾に通っている」ことと、「塾へ行っていないと不安」という状況は社会(世の大人たち)が仕向けているもので、そのような社会の最前線でそれぞれの立場から直接的に生徒に圧力を掛け、追い立てているのは学校・教師・親であるはずである。それらを裏返せば、生徒の世界を学歴・「学力」(=世の大人たちの意向)が支配していることを示してもいる。さらに言えば、それぞれに異なるはずの生徒の可能性をミソもクソも一緒くたに学歴・「学力」で縛りつけ、抑圧している状況を示してもいる。戦争中の軍国少年情況に代る、現在の塾少年情況なのである。

情報が未発達か発展途上にあった時代は、世の中の学歴信仰に無定見・無批判に同調・従属して、学歴を唯一の可能性として受験勉強一辺倒に邁進していれば、自己完結できた。「いまはそんなことはまずない」が、「昔は、一年生のときに成績が三十番ぐらいだった生徒が、三年生になって急に一桁に躍り出るということもあった」(p94)ということも当然あり得ただろう。

「生徒自身も、もうちょっとはっきりとした生き方をつかんでいれば、べつに塾なんかに行かなくたっていいんだと自信をもって言えるのだが、なかなかそうはいかない。塾へ行っていないと不安なのだ」(p94)と言っているが、それが何を原因とした現象なのか検討することもせず、表面的な観察で完結させているのはプロだからなのだろう。

人間の様々な生き方・様々な結末に関するありあまる情報によって、学歴が必ずしも
万能ではないことや学歴にも差別があること
(学歴格差)、いわば学歴主義とは学歴差別主義であること、と同時に、世の中は隅々まで学歴の支配下にあり、学歴によって人間だけではなく、人生までもが選択されることを(学校・教師によって既に実行されていることなのである)いやでも学習させられている今の子どもたちは、自分の成績の程度から将来を見越してしまって、学歴獲得に熱心にもなれず、かと言って、まるきり拒絶もできず、そういった学歴に対するジレンマな状態が子どもたちの塾状況、あるいは「勉強勉強というわりには気概がない」という状況を生み出しているのではないだろうか。

大体が、中学校教育を高校進学のためとし、高校教育は大学進学のためとして、「学力
=学歴で生徒の可能性を支配し、そうでなければ運動能力との二者択一を迫るごく限定された可能性で生徒を縛りつけていながら、「もうちょっとはっきりした生き方をつかんでいれば」もないだろう。価値観の多様化・多様な可能性と口では言いながら、それが口先だけで終わっている可能性の窒息状態「生き方」の無気力状態「気概」「な」さ)や、それに対する反発としての「学級崩壊」現象、あるいはさらに進んだ反発としてのナイフ殺人とかバスジャックと言った暴発を誘発しているとは考えられないだろうか。

学歴格差という現実を突きつけられる一方で、学歴が将来の生活の保証程度や人間の価値を規定している現実は動かしがたい壁のように眼前に立ちはだかっている。学歴を無視することは、社会から取り残されることを意味する。自分がファーストクラスではなく、エコノミークラスの乗客で、最後尾の隅っこの席を占めることしかできないと分かっていても、学歴競争という同じバスに乗り遅れるわけにはいかないという仕方なしの妥協が現在の学校社会におけるその他大勢の生徒の生き方となっているとしたら、学校での勉強も、「塾」での勉強も、自助努力への姿勢は期待できないだろう。いわば、例え「八割」が十「割」となったとしても、「学力」の低下状況には何ら変化はないだろう。プロ教師の言うように単純に、「安心料」で片づけていい問題ではないのである。

プロ教師は、「地理の授業で、これは評価に入れるよ、と言ってレポートを書かせ
ている」
(p94)そうだ。ところが、「以前だったら、成績をよくしたいと思ったり、テーマそのものに興味を持って一生懸命書いてくる生徒がたくさんいたのだが・・
・・一クラス十数名が期限までに出さないのである。そんなにむずかしいレポートではないからできないわけではない。期限までに課題を達成できるかどうか、それだけの問題なのだが、それがむずかしいのである。最近ではようやく忘れるのが二
、三人になったが、ここまでくるのに一年半もかかったのである。しつこく言い、最終的には、相当きついことも言って、やっとこの状態なのである」
(p95)といったお粗末な状況だと嘆いている。

だが、ここに示しているプロ教師の態度・姿勢は「期限までに課題を達成できるかどうか、それだけ」「問題」とする生徒の教師に対する機械的同調・従属の、生徒に対する強制でしかなく、生徒の自己責任を育むのとは無縁のものである。

「期限までに課題を達成」することを主目的とした「レポート」にどれほどの意味があるだろうか。それは生徒に対しても、「期限までに課題を達成」することを目的とさせてしまうことでしかなく、そのことはそのままストレートに内容に関しても、二の次、三の次とさせてしまうことである。

教師が自主的に提出された「レポート」の中から、生徒の感性・想像力が十分に発揮できている優れた内容のものを選び、それを発表して他の生徒の鑑賞に提供すると同時に
、生徒同士で批評・検討させ、他の生徒の感性・想像力の刺激とし、参考とすることの方がより重要ではないだろうか。提出しないで終わってしまった生徒の中には、「じゃあ、今度は俺も書いてみよう」と思う者も出てこないとも限らないだろう。
「一年半もか」けて、「二、三人」を残して提出させるまでにしたなどと、それが単に機械的に応じたものなら、数だけを問題とするに過ぎず、さして意味はないだろう。

このことは既出(p25)の、プロ教師が「朝の会」でやらせているという「一分間スピーチ」なるものと内容の空疎さにおいて同次元のものである。プロ教師の授業の質を問うために、再度紹介してみよう。日替わり順番で生徒に何かしら「一分間」しゃべらせるもので、順番が来てもなかなか立ち上がらない生徒がいるばかりか、司会の生徒が名指ししても、立とうとしない生徒がいるという。そんな場合はプロ教師が、「言われているんだから前に出なさい」と指示するか、それでも従わない生徒には「少し大きい声を出して怒鳴りつけ」たり、根気合戦で、出るまで待つといったことをするという。ところが前に出たものの、「なかなかはじめない」生徒に、「うしろの黒板に書いてあることを読めばいい、今日は何月何日です。一時間目の授業は数学ですとか言えば一分で終わるよと例を示」してまで、やらせるものである。

これは順番と決めたから、やらせると言う機械的強制でしかない。人前で披露する価値があると自己判断できた「スピーチ」に限って、自主的にしゃべらせるべきだろう。しゃべりたくない、あるいはしゃべる程の内容ある話を持たない生徒への強制は一種の精神的虐待であるばかりか、「うしろの黒板に書いてあることを読めばいい」という指示に対して機械的に同調・従属した場合の「スピーチ」は決して「スピーチ」と言えないし、そのように「スピーチ」の体裁をなしていない「スピーチ」を中学生にもなる年齢の人間に強制するのは、その人間をバカ扱いする侮辱行為に当たるだけではなく、そのような黒板の文字をなぞっただけの無内容な「スピーチ」を聞かされる生徒にとっても
、無意味なことで、プロ教師は単なる時間の無駄使いを強制したに過ぎない。

このように「レポート」提出や「一分間スピーチ」から見えてくるプロ教師なる現場
教師の教育姿勢(教育哲学)なるものは、生徒に対する機械的な支配・強制と、生徒の側からの機械的同調・従属で成り立ち、それで完結させている権威主義的傾向の強い性格のものと言える。

支配・強制と同調・従属の教育は、プロ教師の言う「自立」教育に居場所を与えることは不可能である。プロ教師の言う「自立」教育が如何に綺麗事のウソっぱちに過ぎないかが分かる。プロ教師の教育とは支配・強制と同調・従属を骨子とした集団主義的
・権威主義的管理教育
以外の何ものでもない。

「過保護にやってもついてこない」(p95)

プロ教師は次に「レポート」のに関する「悪戦苦闘ぶりを紹介し」ている。勿論得意げにである。

「『こういうレポートは書きたくない。だから、十点はもらわなくていいという生徒がいても、それはそれで結構です。私はべつに文句をつけるつもりはありません
。しかし、出すつもりがありながら、ずるずる延ばして、なかなかやらないというのがいちばんよくない。まず、出すか出さないか、自分ではっきりと決めてください。
 出すと決めて、うっかりと忘れることもあるでしょう。それは次回がんばればいい。また、出すつもりでも、自分でやるだけの力がないという場合もあるでしょう
。自分で宿題のレポートをやる能力がないとすれば、そういう生徒に対してみんなと同じようなことを要求するのはかわいそうです。その場合は違うやり方でいい。たとえば、放課後に残って、私がそばについてやり方を教え、その場でそれを完成させるという方法です』
 こんなふうに言って、自分がどのやり方をとるか手を挙げさせた。まず、レポートを出さないという生徒、これはゼロ。つぎに、みんなと同じ方法は無理という生徒、これもゼロ。結局、みんな自分でやってくるというのである。
 私が見るところ、残らなければ無理だという生徒が何人かいるはずなのに、みんなと違うということを認めるのがいやなのかもしれないが、自分のことがよく分かっていないということでもある」
(p95〜96)

「自分のことがよくわかっていない」のはプロ教師自身である。「レポート」の書かせ方自体が一種の脅迫(支配・強制)になっている。書かなければ成績に関係してくるのは誰もが理解していて書かざるを得ない立場にいる生徒に、その辺の事情が分かっていながら、「書きたくな」くても、「私はべつに文句をつけるつもりはありません」とことさららしく断ることで、逆説的に強要するという厭味を発揮している。

当然、「どのやり方をとるか手を挙げさせた」としても、提出しないに挙手する生徒がいないのは最初から分かっていることで、脅迫(支配・強制)のための儀式となっている。但し生徒とプロ教師の力関係がまるっきり逆転して、学級崩壊状態となったときは
、それまでの支配・強制に対する反発から、多分挙手しない生徒の方が
「ゼロ」となるだろう。

また、「出すと決めても、うっかり忘れる」生徒への配慮も、「出すつもりでも、自分でやるだけの力がない」生徒に対する「放課後に残」らせて「完成」を手伝う配慮も、一見妥当性ある方法のように見えるが、生徒の主体性・自己責任への期待は何一つな
い、思いやりを装った恩着せがましい強制に過ぎない。主体性・自己責任の要素を欠いた教育は
「自立」教育とは無縁のものである。

教師は生徒がそのままをなぞるだけの、いわば無批判・無定見な同調・従属を誘うだけの一方的な指導(強制・支配)を排除して、何を参考にしたらいいか、どこに重点を置いたらいいかといったアドバイスにとどめて、生徒にまず自分の力を試させ、未完成であったり、内容が稚拙であったり、あるいは見当違いのものであったりした場合に限って、それら不十分な点を指摘し、教師の指摘に対する生徒の側からの問い質しや疑問に添った指導(相互的な言葉の闘わせ)を行うことで、より完成された内容に持っていく方法を採用すべきだろう。

例え「自分で宿題のレポートをやる能力がない」生徒の存在は事実だとしても、それを独力で試行錯誤させないうちから挙手によってその存在を知らしめる選別は残酷である
「例え不完全だったり、不備があったりしてもいいから、まず書いてみよう。自分の力で挑戦してみることが大切だ。最初から他人の助けを借りるようでは、自立した人間への発展は望めない」とすることによって、「残らなければ無理だという生徒」を元気づけることにもなるはずである。

「三回つづけてやってこなかった生徒は」「きみは無理だから、放課後に残ってやってくださいと言って強制的にやらせることにした」そうだが、「生徒たちはこ
ういうことをすごくいやがるのである。プライドが傷つくからだろう。なにがプライドかと聞きたいくらいだ」
(p96)とにべもない。

「いやがる」なら、それも本人の主体性・自己責任に任せればいい。その結果としての成績も当然その生徒の自己責任である。但し、教師は成績とその生徒の人間的価値を結びつけてはならないのは言うまでもない。最初は提出する予定でいたとしても、その科目が嫌いで、ずるずると先延ばしした結果、毎度、毎度提出期限に間に合わなくなってしまったという生徒もいるだろうし、レポートのテーマ自体がいつも下らないと思っていて、最後まで書き上げる意欲が湧かなかったという生徒もいるだろう。あるいは自分の目指す高校の受験に関係ない無駄なこととして、そんなことに時間を費やしてはいられないとしているために、例の如くに提出しそびれてしまったという生徒もいるはずである。例えそうであったとしても、受験・成績をすべてとさせている学校・教師にそのエゴイズムを責める資格はない。

プロ教師自身の人間性に日常普段からいかがわしさを感じていて、反発からわざとレポートの提出を遅らせたり、出さなかったりするケースもなきにしもあらずである。例えレポートを満足に書き上げたり、提出したりする能力の欠ける生徒であったとしても、人間性に信頼が置けない教師は内心の軽蔑から精神的に自己よりも下位に立たしめているものである。そのような教師の、「きみは無理だから、これからは放課後に残ってやってください」といった命令・指示だけではなく、上位者の立場に立ったどのような命令・指示も、内心に位置づけた下位者像に逆らうものとして、単に「プライドが傷つく
といった問題を通り越して、なお一層の反発と軽蔑を誘発し、承服しがたいものとなる。

例えば、女子中学生や女子高校生にいわゆる性的にいやらしい言葉をしつこくかけたり
いやらしい態度を取ったり、性的欲望の対象としてのみの扱いをして日常的に彼女たちの軽蔑と反発を買っている教師が、教育上のどのように立派な命令・指示を行ったとしても、普段からある相手の軽蔑と反発によってニセモノ・綺麗事と片づけられる宿命を食らう以外、効果的な成果は望めないのと同じである。

となれば、信頼関係がまず第一番に必要となる。ところがプロ教師の生徒に対する意識は、「自分のことがよくわかっていない」とか、「なにがプライドかと聞きたいくらいだ」といったふうに、信頼とは正反対の軽蔑・反発を主成分としている。これは生徒のプロ教師に対する軽蔑・反発に対抗した軽蔑・反発なのか、生徒を信頼しようとする姿勢の元々からの欠如が軽蔑・反発にまで発展したものなのか。少なくとも確実に言えることは、どちらから始まった軽蔑・反発であったとしても、それが相互的な対抗性を帯びたとき、際限もなくエスカレートしていくということである。

信頼とは無縁の軽蔑・反発に支配された教師対生徒関係からは、建設的で創造性に満ちた感性・想像力への相互的な如何なる刺激も期待できない。少なくとも学校教育者の位置にいる教師は例え困難を通り越して不可能と思えたとしても、信頼の確立に向けた努力だけはすべきである。

どのような方法によるかというと、やはり言葉に行き当たる。「そういう生徒に対してみんなと同じようなことを要求するのはかわいそうですは一見理解と同情に装われているが、生徒の側からしたら劣る者として挙手の形でクラスという公衆の面前に名乗りをあげさせられる差別を意図した言葉以外の何ものでもなく、プロ教師らしく無神経なまでに不用意に過ぎ、その手の言葉は一切排除しなければならないだろう。

「このような過保護なやり方は昔は必要なかった。いまこれだけ勉強勉強と言っていながら、このように自分から勉強しようというふうにはなっていないのである。みんな他人事なのだ」(p96)

「みんなと同じようなことを要求」しないとか、「放課後に残って、私がそばについてやり方を教え」るといった、最初から線引きを行う教育方法そのものが、生徒に対して「自分から勉強しようというふうに」仕向けるものではない。

レポートを書かせる場合のそのように仕向けるよりよい方法は、テーマを限定して要求するのではなく、自由として、一日なりの猶予を与えて、書きたいテーマを決めてきなさいと指示する。猶予期間が過ぎたなら、一人ずつテーマを発表させて、教師はそれをノートに書きとめておく。同じテーマの生徒がいたなら、相談し合うことも許可する。生徒自身がテーマを決めたレポートなのだから、少なくとも書く義務を自ら負うことになる。勿論、テーマを自分で決めながら、提出しない生徒も出てくるだろう。だが、そのような方法の積み重ねによって、自分で決めたことは自分でやり遂げるという姿勢の広がりは期待できるはずである。

その際必要なのは、初期の段階では書き方の善し悪しを指示するにとどめて、成績は問わないことである。点数が自ら学ぶ姿勢の加速の役目も、減速の役目も果たすからである。

プロ教師は、「昔とくらべて学力は大幅に落ちている」原因として、「勉強するということが、自分にとってだけでなく、世のため人のためでもあるのだというアナウンスが世の中からまったくなくなってしまったこと」(p97)を挙げている。

「勉強」を常に点数で計り、その目的を獲得点数に連動させて進学達成と学歴獲得に特化させておきながら、「世のため人のため」とは、綺麗事もここまでくれば学校教師と言うよりも、政治家ばりの大言壮語である。

学校社会での学習と経験のすべては一般社会に出たときの自己自身の生活上のチャンス獲得を目的としている。それは知識だけではなく、人間関係や物事に関わる感性・想像力(対人感受性や共感能力)をバランスよく必要としていて、そういった生活上のチャンス獲得能力のバランス性が結果として相互循環的な「世のため人のため」の利害
あくまでも相互性を構造としていなければならない)を生じせしめているのであって、決して最初から「世のため人のため」を目的として人間は学習と経験を重ねてはいない

ところが、現在の日本社会は学歴をチャンス獲得のより絶対的に優位な条件としているために、学校は社会のそのような在り方に無定見に応じて、戦争中軍国主義教育の率先垂範を犯したのと同質の、学歴獲得主体の教育の率先垂範の罪を犯し、そのことによる人間性に関わる教育の欠如相互循環的な「世のため人のため」の存在様式への発展を阻んでいるのである。それは犯罪者だけのものではない、政治家の危機管理の未熟さや私腹肥やしの政治、さらに警察官僚の職務怠慢・職務放棄等にも現れている「世のため人のため」ではない、それとは正反対の人命軽視・人権軽視によって如実に証明することができるもので、頻繁な少年犯罪における人命軽視・人権軽視は大人たちのそれらを学び受継いだ反映でしかない。

学力が落ちている原因は、時代的に通用しなくなった、教師の強制に対して言いなり
に同調・従属する機械的形態の授業方法にいつまでも未練がましくしがみつくばかりで
、学校・教師及び社会が新しい教育を創造し得ないことに起因しているのである。勿論新しい教育とは、教科書をなぞり、一方的に暗記させる固定価値観の強制を主体的構造とした教育ではなく、教師対生徒それぞれの自己価値観の上に立った相互的な言葉の闘わせを通して批判能力自己判断能力、さらに他者認識能力を図る教育を言う。

また、批判能力自己判断能力、さらに他者認識能力教育の欠如も、相互循環的な
世のため人のため」の存在様式への発展を阻んでいる一因ともなっていることに留意しなければならないだろう。

次にプロ教師は、「私は授業をこんなふうにやっている」(p97)と題して、「中学三年生、社会科」「授業風景をお伝え」している。「手間暇かけて」「演出」なのだそうだが、プロの「演出」なのだから、仕掛けはさぞかし凝っているのだろう。

「チャイムが鳴りはじめると、私は必要なものを持って職員室の椅子を立つ。教科書、資料集、チョークの箱、それから、授業の進み具合を記入するノートである。
 ノートには、生徒の発言回数も記録してある。それがはたして意味があるのかどうかよく分からないのだが、観点別評価が導入されて、授業中の積極性と言ったものも評価しなければならなくなったから、うろ覚えではいけないと思って記録しはじめたのである」
(p97)

ところが、プロ教師は(p29)で、「いまの学年を受持って三年目だから」「いくらかよくはなっている」が、「授業に引きずり込むのは容易ではな」く、「私の授業は、どちらかといえばシーンとしているほうである。何とか口を開かせようと悪戦苦闘しているのだが、これがなかなかうまくいかない」と告白済みだから、「生徒の発言回数」「記録してある」と言っても、限られた生徒の限られた発言といった低調な記録でしかなく
、どちらかと言えば体裁維持に主眼が置かれているのだろう。

「シーン」が、「質問しても生徒は手を挙げないし、なかなか口を開こうとしない」「
反応がな」
(p29)い状況なのは、「質問」に対する答が言葉の闘わせのプロセスを必要としない、最初から確定しているもので、種々雑多な情報に日々刺激を受けて、今日風に活性化している現在の生徒たちの感性・想像力に共感するものがないからだろう。そのような無害・無刺激な予定調和内の答を伝えるだけの「生徒の発言回数」「記録」しても、例えそれが「積極性」のあるものであっても、学歴に対するのと同様の表面的評価には役立つだろうが、自己判断能力や創造性といったことへの評価につなげるのは難しいだろう。

プロ教師が表面的評価をもっぱらとしているのは、「はたして意味があるかどうかよくわからない」にも関わらず、「授業中の積極性」「評価」のために「発言回数」「記録」するという機械的対応にも現れている。

「教室に入り、教卓のところへ行くと、生徒が『起立』と号令を掛ける。起立のつぎに『気をつけ』まで入れる。それで『礼』をする。
 『気をつけ』を入れるのは、そこで静止させ、たとえば立っていなかったり、ちゃんとこちらを向いていなかったりする場合に注意するためだ。いい加減に『礼』をしたら、もう一度やり直させる。これは一種の儀式である。休み時間と授業をはっきり分ける意味があると私は思っている」
(p98)

これは「儀式」ではなく、一種の強制である。「いい加減に『礼』をしたら、もう一度やり直させる」ことに集中的に表われている。生徒が一連の行為を強制だと受止めずに
、生徒自身の主体性・自律性に基づいた集団行動だとしていたなら(
「いい加減に『礼
』を」
することなどないものとしていたなら)、全体主義への無定見・無批判な同調・従属を意味し、恐ろしいこととなる。もしプロ教師が生徒それぞれの個人性に基づいた主体性・自律性に期待するなら、このような集団的強制は必要としないだろう。

プロ教師は「休み時間と授業をはっきり分ける意味があると」しているが、上位権威者である他人の命令・指示した動作をそのように全員で一斉に行う集団行動を経過させなければ気持の切り替えができないとしたなら、それは一人一人の意志と判断を上位権威者の意志と判断に預けることを意味している。言葉を換えて言えば、教師の主体性に自分たちの主体性を預ける自己性の放棄を意味する。これは集団意志に同調・従属し、自己意志を抑圧・抹殺する集団主義と、上位権威に無批判・無条件に同調・従属する権威主義の行動様式をそのままなぞったものである。

このことはプロ教師の言う「自立」教育が如何に口先だけのニセモノでしかないことの改めての証拠提出となるばかりではなく、授業ののっけから「起立」「礼」の集団行動のたびに生徒の集団主義・権威主義の本能、あるいは習性を新たにし、それと並行して生徒の主体性・自律性の芽を摘み取る陰謀を知らずに展開していることを意味している。

さらにプロ教師の生徒に対する「儀式」の名を借りた「起立」「礼」の強制は自民党権力の学校現場や公共機関現場等での君が代斉唱・日の丸掲揚の指導の名を借りた強制
圧力
に対応するものであろう。

逆説するなら、プロ教師は生徒に対して自らを絶対者として立たせたい常なる衝動を抱えていることを示している。もっとも、絶対者であることの有効な実現可能性は授業開始時の「起立」「礼」に限られたものだろう。また、限られているからこそ、絶対者への衝動は消えることなく内面に疼き、疼かせているはずである。そのことは生徒を言いなりにするために「社会的規制力」を期待してやまない姿勢にも表われている。根っからの集団主義者・権威主義者なのである。

プロ教師がミニ麻原彰晃だと批判する理由がここにある。

プロ教師は、「憲法学習を例にとって説明」(p98)している。その要約を列記してみる。

@「黒板に教科書の見出しを大きく書く」
A
「憲法がどういうものか生徒に説明」
B「『前文の学習』」「一回お手本で」プロ教師が「読む」
C
「なるべく大きな声を出」させて、各自に「三回読ませ」「読み終わったら手を 挙げろと」指示。
D読了後、
「全体を四つの段落に区切って」「A、B、C、Dと記号をつけ、要約に 入」る。
E各「段落で、大切だと思った」「言葉」「文章の一部」「線を引かせる」
F
「線を引いた部分を言わせ、黒板に書いていく」
G「黒板に書かれたもののうち、何がいちばん大事かということをみんなで決めて いく」
H「最終的に前文を三つにまとめ」「それぞれにタイトルをつけさせる」
I
「@は『国民主権』、Aは『平和主義』か『戦争放棄』、Bは『国際貢献』とか 『他国との関係』とな」る。
J
「前文の憲法をなるべく自分の言葉で書き直す」「宿題を出」す。
K
「日本の憲法は実際にはアメリカがつくった英文のものを翻訳したものが中心と なっているから、むずかしいのはいたしかたない。日本語の文章になっていない
 」「それを自分の言葉で分かるように書いてみることが目的である」

憲法の言葉が「むずかしいのは」「アメリカがつくった英文のものを翻訳したものが中心」だからとしたら、日本人が自ら作った他の法律文はすべてわかりやすい日本語ということになるが、現実は逆である。難しい言い回しの代表に挙げられているお役所言葉への認識すらないのだろうか。どの法律を取っても、言い回しのくどくて難しい文章ばかりであり、最近になってやっと改められるようになってきたのが現状である。

ところが、現在では辞書を開かなければ理解できないようなカタカナ表記の外来語の多用が問題になっている始末である。

1995年の刑法改正法で、「刑法の表記を現代語化して平易化する」ことが行われている
。それを
自由国民社『現代用語の基礎知識』で見てみると、「『政府ヲ顛覆シ又ハ邦土ヲ僭窃シ其他朝憲ヲ紊乱スルコト』」とあるのを「『国の統治機関を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱すること』」と改めている。その他、「『刑事被告事件』」を「『刑事事件』」、「『騒擾』」を「『騒乱』」、「『焼燬』」「『焼損』」「『薬種商』」「『医薬品販売業者』」等、例に挙げている。その項目の最後には、「刑法が以前にくらべると、少しわかりやすくなった」となっているから、まだまだ難解だということなのだろう。

プロ教師は社会科の教師でありながら、以上のようなことへの認識すらないのだから、その一事をもってしても、学校教育者の資格ナシと断言できる。

法律文を含めたお役所言葉が難解で、言い回しがくどいのは、「お上」に権威を持たせようとする権威意識からのものである。裏返して言えば、内容(仕事・実績・人間性)で自己を権威づけることができず、その埋め合わせに形式で権威づけないことには自己維持を図れないための必然的結果としてある難解さ・くどさなのである。

自己権威づけが内容(仕事・実績・人間性)ではなく、形式でしかできないことの典型的な表われは、森首相の「日本は天皇を中心とする神の国」発言に見て取ることができる。これは一人森首相だけの問題ではなく、その他総理大臣・閣僚級政治家たちの平安神宮参拝・靖国神社参拝等にも見られる自己権威づけである。

プロ教師の授業は一見すると合理性に満ちているが、すべて教科書の内容をなぞったものを命令・指示の形式を取って生徒に伝え、生徒になぞらせていくものでしかない。
黒板に書かれたもののうち、何が一番大切かということをみんなで決めていく」ことと、「最終的に前文を三つにまとめ」「それぞれにタイトルをつけさせる」は生徒自身に考えさせているようだが、「国民主権」「平和主義」「戦争放棄」「国際貢献」「
他国との関係」
憲法に関する国民一般のキーワードをそのまま引き写したものでしかなく、情報氾濫社会に生きている中学三年生である、これらのキーワードを目にしたり耳にしたりしない生徒は少ないはずである。

さらに教科書自体が国民一般のキーワードを反映させていないはずはなく、例え予習をしていなくても、与えられた考える時間に内容を解説している別のページをざっと目で追っていくだけでも、それらの言葉に突き当たるはずである。

いわば社会的に一般的となっている憲法解釈を教科書を媒介として、教師の命令・指示に従ってなぞっているに過ぎない授業内容でしかなく、生徒に考えさせているようで、実際はジグソーパズル的な当てっこをしているだけのことでしかない。

以上のことは「第二段階」「憲法九条の学習」(p100)についても言える。

「まず九条をまとめた。『戦争・武力による威嚇、武力の行使』を『永久に放棄する』ことと、そのための『陸海空軍その他の戦力』は持たないことを確認する。前文と合わせると、日本は、戦争のために軍隊を持たないということになる、とまとめる
 そして、つぎのような質問をした。『もし、現実の問題として他国に侵略されたら、どういう態度をが考えられるか』。生徒たちは近くの者同士で話し合いながら
、三つの態度を考え出した。@あきらめる。A個人で抵抗する(国の交戦権は認めないといっているが、個人の交戦権までは禁止していない)、B侵略されることなどありえない」

「自分が何派か、手を挙げさせてみると、圧倒的にAの「個人で戦う派』が多かった。@の『あきらめ派』は二、三人、Bの「信頼派』も同じくらいだった」

「Aの「個人で戦う派』は、そのために、前もって武器を持ち、訓練しておかなくてはならず、それはこの憲法のもとで可能なのか、それなら、前もって軍隊を持ったほうが有効なのではないか」

「第三段階は、圧倒的多数だったAの「個人で戦う派』をもう少し考えることにした。生徒たちは結局、前もって軍隊を持っておくか、国民が武装しておくか、どちらかが必要だという考えを出していたから、それを検討することになった」

自衛隊に関しては、「@自衛隊は憲法違反だから、自衛隊をなくす。A憲法を改正する。B解釈で切り抜ける」

「日本政府は、Aの立場を取らず、Bの立場でこれまでやってきており、それは多数の国民に支持されているということである。つまり、生徒の多数派と同じ選択をしてきたことになる

ここに薄汚い誤魔化しと狡猾な誘導がある。「日本政府」「生徒の多数派と同じ選択をしてきた」のではなく、「生徒」「日本政府」「同じ選択をし」たということである。厳密に言えば、「日本政府」「選択」をなぞったと言うことだろう。

「個人で抵抗する」「個人の交戦権までは禁止していない」としても、「他国から侵略された」場合を想定して「前もって武器を持ち、訓練してお」く形式の「国民」「武装」は、それを民兵組織だとしても、軍隊の一種であることに変りはなく、そのままストレートに「戦力」(=戦争を遂行し得る力『大辞林』)の保持に当たり、現行「憲法のもとで」は禁止事項となっているもので(国民一人一人が各自「武器を持ち」、それぞれが独自に行う「訓練」であっても、銃砲刀剣類所持等取締法に違反する)、そこからさらに進んで厳密には同じ憲法違反である正式の「軍隊を持」つに生徒の意識を持っていくためには、プロ教師からの何らかの誘導が存在しなかったなら、不可能だったはずである。

世間的な憲法解釈と意見の相違をただなぞっただけの、そこから一歩も出ていない
、いわばプロ教師の学校教育者としての想像力・哲学を濾過した独自な解釈が何一つない
「憲法九条の学習」で終わっている。

「現実の問題として他国に侵略された」ときと、侵略されていない平和な状態の現在との間の国民の態度・意識の変化に視点を置かない授業は非現実的である。侵略と自己及び家族の生命・財産の危機、もしくは喪失を想像することと、それらの現実的な進行状態との間には事実の違いだけではなく、実際的な感情自体にも大きな隔たりが生じるはずである。

死刑制度廃止論者が家族が暴力的で残虐なまでに不条理な理由で殺されたとき、殺した者への憎しみ、その不合理さから容易に死刑制度支持へ転向することもあり得るのである。

「他国との関係」にしても、対中国感情一つを取っても、天安門事件一つで対中国警戒心、あるいは反中国感情の高まりを経験している。北朝鮮のスパイ船やミサイル発射は日本国民の北朝鮮に対する認識をかなり現実的なものに変えた。

「戦争放棄」も、戦争のための「武力不行使」も、憲法に謳ってある条文であって、憲法改正を禁止しているわけではなく、政治権力の意向や国民感情によって、どのようにも変え得る。皮肉にも、一般国民の範疇にはまだ入れ難い「中学三年生」ですら、その「圧倒的多数」が、「戦争」「武力行使」「陸海空軍、その他の戦力」の保持を憲法どおりに絶対禁止の原則に立たずに「解釈で切り抜ける」憲法改正≠、例えプロ教師の誘導があったとしても、心理面では既に行っているのである。

侵略を受けた場合、あるいは受けそうな危機的時点に立った場合においても、「専守防衛」と言いつつも、領土及び国家主権の保全、国民の生命・財産の保護の立場から、国民の態度・感情次第で憲法を改正しないままの海外派兵の可能性もあり得るのである。日本は自衛隊という組織によって、既にその能力を保持しているのである。

「『個人で戦う派』はそのために前もって武器を持ち、訓練しておかなくてはならず、それはこの憲法のもとで可能なのか」という考察に関しても、戦争の切迫時点、あるいは開始後に市民が自然発生的に立ち上がり、武器を外国の援助によって調達して、実戦を訓練としながら抵抗する例は世界にいくらでもあることで、「前もって」「武器」
の保持による前もっての「訓練」といったシチュエーションは必ずしも必要としない。

怒りが武器の劣勢を補う場合もある。家族・友人が殺されていく状況の中で、「憲法のもとで可能なのか」といった議論は無意味化する可能性も大である。商法で粉飾決算が禁止されているいるにも関わらず、会社が倒産しかかっているとき、法律云々よりも、一時凌ぎにしかならないと分かっていても、粉飾決算を優先させてしまう場合があるのも、人間の自然な姿である。

それぞれの政治的立場にこだわるあまり、議論のための議論と化した一般世論の動向をなぞっただけでは、人間の現実は見えてこない。砂糖に群がるアリのように健康食品に群がる現在の日本人の健康志向心理の裏側にあるのは死への恐怖であろう。

このような日本人性に反して、戦争中の日本人は軍国教育一つでお国のために・天皇のためにバンザイを唱えて死んでいくことを当然としたのである。それが喜んで特攻、あるいは玉砕として体当たりに臨んだのかどうかは分からないが、表向きは国民の義務として、日本男児の取るべき道として、帝国軍人の姿として正々堂々とした態度で体当たりしていったことは事実である。

このようにいかようにも変るのが人間である。「他国」から「侵略された」場合のみを想定した議論は片手落ちに過ぎる。日本が再び外国を「侵略」する可能性への議論を欠いてはならないはずである。日本及び日本国民は「侵略」という悪質で重大な前科を抱えているからである。特にアジアの国々が潔い謝罪と潔い弁償を行わない日本の、それも一つの理由としている再びの「侵略」の可能性に敏感になっていることを常に敏感に認識していなければならないはずである。

「生徒たちは、この間かなり真剣に授業に取り組んだ。日ごろ、社会性のない生徒たちだと考えていた私も、いくぶん考え方を変えなくてはいけないと反省したしだいである。私も知らず知らずのうちに生徒を子どもあつかいしていたのかもしれない」(p103)と総括している。

自画自賛もここまで単純にやらかすことができるとは、さすがにプロ級の学校教師だと言える。

プロ教師の授業において、「日ごろ、社会性のない生徒たち」だったはずである。それが、「憲法九条の学習」では、「かなり真剣に」「取り組んだ」のは何が原因してのことなのか、「憲法」の授業に限ってのことなのか、そのことへの解き明かしがあって然るべきである。解き明かしもなく、「憲法」の授業態度だけで「社会性」を認めるのは短絡的に過ぎる。

あるいは「私は授業をこんなふうにやっている」と自己の授業方法・授業内容を正当とする手前、それを証明するための「社会性」の認知という疑いもある。それは生徒の
真剣」さが「かなり」の程度ぐらいで「考え方を変えなくてはいけないと反省した」安直さに否応もなしに透けて見えてしまうだけではなく、「授業をこんなふうにやっている」と世間に向けて胸を張るような自己正当化を主張するなら、生徒は「日ごろ」から「社会性」を発揮していなければならないはずで、そうではない矛盾にも透けて見える疑いである。

 

             今回はここまで
     次回は、
生徒会活動への否定・批判 
                6月下旬or7月上旬予定

 

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