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05年2月18日の朝日新聞朝刊が、坂本弁護士
一家殺人と同僚信徒殺害容疑で一、二審で死刑判
決を受けて、最高裁に上告中の元オウム信徒岡崎
一明被告の拘置所内の近況を伝えている。
記事の題名となっている、『禅と墨絵の日々』
だそうだ。記事は伝えている。「岡崎被告の描い
た水墨画が最高裁に提出された」
弁護人は提出した理由をこう説明している。「
『内面に向き合ってここまでの絵を描けるように
なった。更生の可能性を示す証拠としたかった』」
記事に掲載されている墨絵は、池の水面左上に
ほのぼんやりと満月が映え、その右側に黒味と淡い紫が微妙な調和を見せた大きな鯉が尾びれを月方向に向け、月と平行に体をゆったりと湾曲させて横たわっている。その周りに八手の葉なのか、何枚か浮いていて、そのうちの二枚ほどが鯉の尾びれに近い背にかかった配置となっている。
全体の印象としては、満月も八手とおぼしき葉もこの世のものとも思えないまでにどこまでも淡く描かれているが、それに反して、鯉自体は突出して色濃く浮かび上がって見える。そこに生(なま)の膏さえ感じる。決して枯れていない。
服役囚が、特に死刑囚が社会にいたときには経験したこともない絵や彫刻・短歌や詩に親しみ、きわめて優れた作品をつくり出すのはよく見られる例となっている。それは拘置所とか刑務所とかの特殊な閉鎖世界で特殊な精神状態に置かれた極限性が人間を原姿の状態で裸にして、誰でもが大なり小なり生まれながらに持っている芸術性を剥き出しにすることから可能となる成果ではないだろうか。
いわば、拘置所とか刑務所とかの特殊な環境を得て、初めて発揮できたと言うことである。罪を犯し、捕らえられて、収容されなければ、発揮できなかったとも言える。
また、そういった環境を得たとしても、すべての者がその芸術性に己を含めた人間の姿への鋭い洞察性を反映できるとは限らない。そこでの芸術活動とは、罪を犯した自己を通して人間なる存在を思索する一環としてあるものだろうが、優れた芸術作品のすべてが思索の成果としてあるものだとは必ずしも断言できないからだ。
もし現実社会に戻ることができて、前科者の烙印を背負い、生活の糧を得ることに追われる日々を送らなければならなくなったとき、そのような煩雑な環境で、以前のような原姿の状態になって絵や彫刻に親しむことができるだろうか。親しみ、研ぎ澄まされた作品に仕上げることができるだろうか。
できたとき、芸術性に関係なしに、人間として初めて自己と向き合えたと言えるのではないだろうか。シャバと言われている現実社会でこそ、人間は自らの価値を問わなければならない 。人間にとって、衣食住、特に食を得る活動は生の大きな部分を占めているからでもあるが、刑務所・拘置所ではそれらは保証されていて、与えられるものとなっている。それに、死の不安を抱えて生きなければならない人間は刑務所だけではなく、現実社会にもゴロゴロといる。
死刑囚に関していえば、そのような実験を求めることはできない。
としても、岡崎一明は拘置所内での思索の一環としての『禅と墨絵の日々』を通して、人間への洞察力にまで高めることができたのだろうか。
岡崎一明はオウム信徒時代、麻原彰晃を絶対権威として崇め尊び、その指示を絶対正義と疑わずに無条件、且つ有り難がく承って履行する権威主義を自らの行動様式としてきた。そうでなかったなら、坂本弁護士一家殺害も同僚信者殺しも教えに従った行いとすることはできなかったろう。
記事は岡崎の言葉を伝えている。
「『どれくらい時間が残っているか分からないが、浅原の過ち、オウムの過ちを指摘し、まだいる教団の信徒を目覚めさせたい。それが私の償いだ』」
「『真理を探究する多くの者が、偽者とは気づかずに別の足跡を追って道を踏み外し、最悪の場合、人生を棒に振ることもある』」
「『大切なのは宗旨や教義ではない。トップやリーダーの人間性だ』」
弁護士が、「内面に向き合ってここまでの絵を描けるようになった」と言っている墨絵の巧緻さに反して、実際の岡崎は信徒時代とさして変わっていないようだ。変わっている点は、麻原彰晃が「偽者」であり、それに従った自分が「人生を棒に振」ったことに気づいたことぐらいだろう。
岡崎の心境をごく簡潔に代弁すると、「悪いのは浅原だ」と言っているのである。それが一、二審で死刑判決という精神的な極限環境下で『禅と墨絵の日々』を糧に彼なりに体系化し得た思想であろう。一言で言えば、自分を省いている。
一見して、「偽者とは気づかずに別の足跡を追って道を踏み外し」と、自分及び他の信者のことを言っているようだが、後に続けた「最悪の場合、人生を棒に振ることもある」とした言葉から判断すると、決して自己を原因としているわけではなく、罪を浅原に預けている。
いわば、麻原彰晃が人間性素晴らし指導者(「トップ」あるいは「リーダー」)だったなら、その僥倖に助けられて、自分たちも善き行いを繰広げることができた、岡崎以下、信者の誰一人罪を犯さずに済んだ、その逆だったから、運悪く「別の足跡を追って道を踏み外し、最悪」にも「人生を棒に振」ってしまったと言うことであろう。
これは、自己の行動基準に「大切」なこととして、今なお「トップやリーダーの人間性」を置いていることから起きている自己正当化の錯誤であろう。
岡崎は信徒時代と何ら変わることなく、自己に置くべき行動基準を自己に置かずに、現在もなお「トップやリーダーの人間性」に置いているということである。
そうすることは、善き行いも悪しき行いも、「トップやリーダーの人間性」次第と言うことになり、他者の偶然性に頼ることを意味する。偶然に救われるか、偶然に災いされるか、相手の人間性がすべてだと言うことである。
行為の主体はあくまでも自己であるのに、行為の決定権を相手に譲り渡すのは、上に従う権威主義に引き続いて侵されていることから起きる。相手の指示をどう判断し、どういう行動を取るか、行為の決定権を自己のものとしたとき、初めて 上に従う権威主義から自由になれる。
人間性だって、演技でいかようにも見せることができる。麻原彰晃は演技で素晴らしい指導者と見せていたはずである。他者は基準とはならない。自己の判断・自己の人間性を基準とし、すべてを自己の問題としなければならない。自己の問題として行動することである。
岡崎が、「大切なのは宗旨や教義ではない。トップやリーダーの人間性」を見抜く目だと自分自身の問題とし得たとき、最大の罪は自分たちが浅原という人間を見抜けなかったことだとし得たとき、心境のその変化をこそ、弁護人は「更生の可能性を示す証拠」とし得るのではないだろうか。
才能と人格は別のものだと誰か偉い人が言ったそうだ。絵や彫刻は時間的要素に左右される技術の積重ねである程度の高さにまで到達可能である。そのような技術の成果を以って、人間性の尺度とするのは早計に過ぎることを肝に銘じておくべきだろう。
この世から悪人という存在はなくならない。その悪人に積極的に同調して、同じ悪を自覚的に行う人間もいるが、多くは悪だと気づかずに無考えに同調して行う場合の方が多いのではないのか。
マルチ商法で騙された人間の殆どが、マルチ商法だとは気づかずに当初は利益を得る側に立つのも、その例の一つだろうし、省庁や役所を横断して行われている、国の予算を誤魔化して、自分たちの飲み食いに使う流用も、単に職業上の慣習的な役得行為だと思って同調している部分が大きいのではないか。
同調者が為す悪が、悪人が働く悪を上回って、社会をより多く歪める原因となっていないだろうか。偽札作りも、パソコンとプリンターがあれば簡単に作れるからと、一人がつくると、 興味本位で多くがまねをする同調行為。振込め詐欺にしても、簡単に成功して、警察に捕まりにくいからと、多くがマネをする。少女たちの売春行為も、 簡単に小遣い銭が稼げるからを理由とした同調行為だろう。
戦前の軍国主義にしても、国民の多くが正義と信じて同調したからこそ、あそこまで猖獗を極めることができた。敗戦によって、それが悪だと気づいたが、国民は信じて同調した自分の罪は問わずに、自分たちを被害者に位置づけて、国に騙されたと責任転嫁して責めた。
当時の日本国民の多くが、新聞が近況を伝えている岡崎一明だったとも言える。
逆説するなら、岡崎一明は敗戦から60年という時間の経過を経験していながら、 当時の日本人が犯したのとそっくりな責任転嫁の二の舞を演じていると言える。勿論、本人はそのことには気づいていない。