地方が疲弊と縮小、そのダブルスパイラルの最悪局面に向かいつつある。
歴史的に見て、日本の都市と農村は大いなる矛盾の関係にあった。勿論政治がつくり出した矛盾なのは言うまでもない。
近世以前は農民は年貢を生み出す労働機械に過ぎないと看做されていた。喜怒哀楽を持った同じ人間でありながら、支配者であった武士その他はそれを考慮のうちに入れていなかった。その延長線内のこととして、江戸時代になると、代掻きや荷運搬に必要な牛馬を持たないことから生産効率が上がらない百姓に、娘を質奉公(=身売り)に出してでも持てといった、現代のアコギな借金取りに似た態度で、年貢至上主義のきつい申し渡しを課すことも可能だったのだろう。
牛馬も生きものだから、病気にもなることもあるし、年も取って、役に立たなくもなる。生かしておくために餌も与えなければならない。自分が食べるのが精一杯といった百姓が多っかた時代のその数に比例した、尻を叩かれて役に立つ一頭を維持するために、自分の食い扶持をなおさらに犠牲にしなければならない数多のケースが当然生じたに違いない。しかし武士にとっては、年貢の徴収を通して自分たちが生きること(=自分たちの喜怒哀楽の達成)をすべてとし、そのこと以外は、個々の喜怒哀楽を含めて、関知外とした。いわば武士には意識されないゆえに、喜怒哀楽を持たない存在に貶められていた。
幕府が小規模な土地持ち農民の零落防止を目的に1604(寛永20)年に田畑永代売買禁止令を出したのは、土地持ちでも、それを手放さざるを得ない自作農が無視できない数でいたことを示している。
田畑の面積に対応する予想収穫量が石高で予め決められていて、その石高に四公六民とか五公五民とかの年貢率をかけて年貢高を既定としていた制度であるから、決められている年貢高を上まわる豊作が毎年続けば、いくら小さな田畑しか持たない百姓でも年貢を納めることができたが、土地を手放す者が多く出たということは、天候に左右されるなどの理由で決められた年貢高以下の収穫の年の方が上回って多かったと言うことだろう。
もしそのような事情であるなら、いくら田畑の売買を禁止しても、年貢を納めることができない状況に変わりはないはずだから、禁止令にもかかわらず、田畑を質に入れてそれを流して他人の手に渡す形の別途売買が広く行われたというのは当然の成り行きとしてあるのものであるし、そのような情勢から窺えることは、田畑を手放した百姓は小作人に成り下がり、手に入れた百姓は手に入れるなりのメリットがあったから手に入れたことを考えると、貧しい者と富める者の一層の二極化が進んだことは容易に予想できる。このことは田畑永代売買禁止令なる政治が、二極化にのみ役立ったとも言える。
土地を持っていても、自作農としてやっていくのは容易ではない。小作人でやっていても、決められた小作料が高額の物納で、収穫が追いつかない。追いついたとしても、自分の食い扶持が満足に残らない食えない多数派を占めていた農民は妻が出産すれば、さらに余分に食い扶持がかかるのを防ぐために、農村で慣習的に行われていたという間引きで始末をつけたり、幼い子供は娘なら都会の男たちを喜ばす未来の女郎候補として売り渡し、男の子は金持ちの百姓や商人の労働力に売り渡す。それでも追いつかなければ女房まで質入れする。どんづまれば、村を捨て、走り百姓となって、都会に逃げ、隠れ人足となって肉体労働に従事するか、現在のホームレス同様に乞食となって、食いつなぐ。
花と言われる大都会江戸では、そういった無宿者があふれ、寛政期(1789〜1801)に治安の悪化を防ぐために人足寄場をこしらえて、そこに収容したり、あるいは強制的に故郷に押し返すために旧里帰農令、天保の改革で人返しの法と、続けて制定せざるを得ない状況にまでなっていた。江戸は日本一の都市だったから、現在の東京と同様に他処者を最も多くひきつけただろうが、大阪その他の都市にも流れ走っただろうことを考えると、土地に縛り付けられて我慢した者も含めて、食えない百姓がどれ程の人数だったか、押して知ることができるというものである。
寛政、天保と40年前後間を置いて同じ趣旨の法律を制定していることは、それが効果を見なかったことを示している。いわば、返されても食えないことに変わりはなく、いたちごっこの過程で農村の荒廃と都市の治安悪化が否応もなしに進んでいったに違いない。
農民の都市集中は享保期(1716〜1736)前後から進んだと言うことだが、天保は1830年から明治維新を24年遡る1844年までを言うから、徳川幕府崩壊に向かう社会混乱期に、以後はますます法律としての効力を失っていったのではないだろうか。
作付けが天候に左右されても、四公六民、五公五民に関係なしに充分にやっていけたのは、いつの時代でもそうであるように、一定以上の土地を持ち、それを馬車馬の如くに働かなければ追いつかない、搾取に近い高額の小作料を課して大勢の小作人に賃貸でき、そういった形式で大規模に経営し得た(大規模に搾取し得た、と言い直してもいい)百姓ぐらいのものではなかっただろうか。
そういった百姓こそが、今までも裕福であり、さらに裕福となっていく。制度として、そもそもから格差拡大の方向にセットされた二極が用意されていたのである。
食えない百姓にとっては、百姓を続けていても地獄、走って都会に出ても地獄、一般的な農民の実態的地位はそのような奴隷に近い悲惨なレベルにあったが、封建社会の経済的基盤を成す年貢生産の重要な担い手であるゆえに、江戸時代では公式の身分制では武士の下に置かれるもてなしを受けていた。
このこと自体も、大いなる逆説であり、大いなる倒錯であろう。
百姓が食えない時代は明治に入っても続いた。農村に於ける間引きや人身売買の江戸時代に続いての横行がそのことを物語っている。旱魃や大雨・洪水、あるいは冷害などによる飢饉の影響もあっただろうが、政治が農村の恒常的な窮乏・格差を救済どころか、和らげるだけの力も発揮できなかったからだろう。明治の文明開化の時代に入っても、文明開化とは名ばかりで、農民が国民の8割の絶対多数を占めている現実を無視して、地主と小作人の権利関係に関して、江戸時代のそれを引き継いで地主をより有利に保護し、小作人の法的保護を無視した民法の制定(明治29年に公布、明治31年からの施行)に流れている、日本の歴史に伝統的な力ある者優先の思想の具体化を何よりも国の政策の優先事項として選択した結果であろう。
この思想を今の時代のキーワードに翻訳すれば、企業優先・国民無視、あるいは金持ち優先・低所得者無視ということになる。
戦後、敗戦による国土の荒廃と社会混乱が国民の多くを窮乏に陥れたが、朝鮮戦争特需によって日本の経済が奇跡的に息を吹き返した後も、農村が食えない状況は続いた。朝鮮戦争が勃発したのは、1950(昭和25年)。政府が「人身売買対策要綱」を発表したのは、朝鮮戦争勃発翌年の1951(昭和26)年であり、列車を仕立てた集団就職の波が農村から都市に向けてひた走っていったのが朝鮮戦争以降であったのは、朝鮮戦争特需で日本の経済が活気を呈してきたにもかかわらず、その恩恵を授かったのは都市のみだったことを証明している。
尤も駐留米軍が基地としたキャンプ・フジ演習場近辺の農村では、東京やその他の街から流れてきた売春婦(いわゆるパンパン)に住いの一室を間借りさせて、米兵相手の売春の用に供し、それは朝鮮戦争当時が最盛期(バブル期)だったというし、他の米軍基地所在地近辺でもあったことだろうから、一部農村でも、恩恵を受けていたことになる。
現在の住宅と違って、当時の家は襖で部屋を仕切っていたから、米兵と女が営むあからさまな声を襖越しに子供まで聞いていて、教育上よろしくないと問題となったと言うことだが、小学校の校長だとかまでが生活のための臨時収入を目的に背に腹は変えられないと女に部屋を貸していたと言うから、いつの時代に於いても、人間にとっては生活(=カネ)こそが教育にも何ものにも優る優先事項であることに変わりはないということなのだろう。
あるいは犯罪を取締る立場にありながら、裏ガネづくり・カラ出張等をやらかして臨時収入相当としている今の警察と仲良し関係となる同列行為に過ぎないと考えれば、頷くことができない有様でもなくなる。
「人身売買」は、工場や商家での労働力提供のための売買も含まれるが、その対象性別は圧倒的に女性が多く、そのうち売春関係に占める割合が絶対多数であったということで、そのことと、集団就職は朝鮮戦争特需を発端とした都市の膨張していく景気を底支えする低賃金の労働力を農村から補強するまさしく「金の卵」が実態だったことの、この二つの現象が都市と比較した農村の変わらない貧しさを証明している。子供は集団就職、父親は冬の農閑期に入ると都会に出稼ぎが農村の実態となっていた。
小泉首相は「戦後の日本の発展は戦没者の礎の上に築かれた」と言っているが、そんなのは真っ赤な嘘っぱちである。死んだ者は経済活動を行い得ない。国全体が経済活動できる何らかの遺産でも遺していたなら、それを元手に仕切り直しも可能だが、遺したものは国土の荒廃と産業の壊滅、大日本帝国軍隊とその兵士の悪名のみであったし、彼らが体現していた精神も、「天皇陛下のため、お国のため」をすべてとする天皇と軍国主義国家を絶対とし、個人を否定する思想だったから、民主主義の時代には「礎」として受け継ぐべき精神とはなり得ない。小泉首相が参拝するのは、受け継ごうとしているからだろう。だとしたら、参拝は民主義に対する逆説と倒錯を意味することとなる。
朝鮮戦争が経済回復と、その後の発展のキッカケを与えたのであり、農村からの低賃金の「金の卵」がそれを下支えした。「金の卵」現象は、中国の驚異的な速度での経済発展が、中国人の人件費の安さが大きな要因の一つとなっていることと符合する原理をなす。
さらに言えば、農村の貧しさゆえに人身売買を経て売春に身を落とした女たちも、ある意味では経済発展に大きく寄与したに違いない。「金の卵」と彼女らこそ、亡くなったなら、経済発展のために「お国に殉じた」戦没者として、靖国神社に祀られるべきだろう。そのような戦没者には、誰が参拝しようと、誰も文句は言うまい。
政治は日本の工業の発展のみに目を向け、農村から都市に向けて人の流れるに任せ、何ら有効となる政治的な手を打たなかった。農村の過疎化であり、三ちゃん農業の出現である。
当時、誰もが工業発展の力を借りて、幸せになることを考えた。その延長に結婚するなら、サラリーマンとする、農業は食えないという意識もあったろう、食えなくしたのは政治なのだが、きつくて汚いからいやだという農業否定の思想が生まれた。最大公約数の国民が政治共々、あるいは政治の尻馬に乗っかって、こぞって地方の荒廃を招いたともいえる。
政治が農業に打った手は、所得保障としかならなかった食糧管理制度を初め、農協に農業生産に関わる肥料の販売・撒布時期の指示から始まって、農産物の販売・流通の独占支配を許して、そのことがコスト高要因となったこと、さらに補助金をバラ撒き、補助金漬けにして、日本の農業をひ弱にするといったことだけであった。明治初年には農産物の輸出額が総輸出額の8割を占めていたそうだが(輸出できる工業製品をこれといって持たなかったからでもあるが)、そうであったにも関わらず、現在では農産物輸入大国と化しているのだから、如何に政治が農業政策に無能であったか、証明して余りある。
但し、補助金のバラまきと幹部がその土地の有力者であり、自民党政治家と官僚が企業と癒着していたように、自民党政治家とも癒着していたことから容易とした農協の農業支配
(=農業に関する諸規制の成果)とが、農村を政権党自民党の大票田としたのだから、この逆説と倒錯も,見事と言う他ない。工業発展と引き換えにつくり出した農村の荒廃であり、さらに農村の荒廃と引き換えに手に入れた票田とも言える。
農村は今もって自民党の大票田であり続けている。昨年の総選挙では都市部でも支持を受けて、自民党単独の絶対多数獲得の圧勝をもたらしたが、農村の票田の上に築かれた底上げであったはずである。直接的な利益を享受できる農業保護政策が(まったく以って保護するだけの過保護で、自立を促し、世界の農業に対抗させる政策ではなかった)基本であって、都市住民の多くは間接の間接にしか政治の利益は受けていないのだから、決してその逆ではない。
工業生品のみで、農産物の輸出国となり得ていない先進国は、部分的な製品に関してはそうではなくても、全体として見た場合、日本だけではないのか。世界第2位の経済大国と言いながら、先進国の中で農産物自給率が100%をはるかに下回って20%前後という日本にのみ当てはまるこの逆説と倒錯も、やはり歴史的に伝統としている日本の政治がつくり出している逆説と倒錯の延長にある見事な光景なのだろ。
さらに言うなら、自民党政治家の多くが「日本の歴史・伝統・文化に根ざしたわが国固有の価値(=国柄)」を有すると考える自己民族優越思想は、少なくとも優れているとする思想は、現実の日本の歴史とそれぞれの社会のありのままの姿・実体を詳細に眺めた場合、それらに対する悪い冗談では済まされない、最大・最悪の逆説と倒錯となる自己美化に過ぎないことが分かる。
尤も効用はある。「日本の歴史・伝統・文化に根ざしたわが国固有の価値(=国柄)」とする自己民族優越の呪文を唱えるだけで、民族の不始末・犯罪だけではなく、政治家・官僚の低劣な人格性をもカモフラージュする
、意図せざる装置となり得るからである。
以上のように日本に否定的なことを書くと、「日本人の癖に日本の
悪口を言う」と批判を受けそうだが、日本の現状を過去にまで遡って冷静・冷酷に客観的に分析し、さらけ出した事実を教訓、あるいは逆の反面教師とすることでしか、有効な政治は生み出せない。そうしないから、同じことの繰返しを続ける。チッソ水俣病で政治の企業優先の姿勢が多くの人間の生命と精神を破壊・損傷しながら、カネ(財政)で尻拭いした過去のヘマ・無能を忘れて、喉元通れば熱さ忘れるで、再び企業優先のヘマ・無能をやらかして、アスベストの人間への被害を野放し・拡大させ、その補償をカネ(財政)で始末するしかない同じことの繰返しに愚かしくも自らを追い込んでいる。しかも自らは責任を一切取らず
に。
そして今度は耐震偽装問題である。この問題では、政治は悪事を直接的につくり出した会社や個人のみに責任をおっかぶせ、政治自らは責任回避しようと躍起となっているが、実態は過去に明るみとなった不法建築を十分に参考にし得ず制定した法律内の建築確認制度と検査制度の不備(役に立たない法律をつくった怠慢・無能)が基本にあって、そのことが悪事を容易にすり抜けさせる間接的要因をなしていた政治の責任にウエイトを置くべき事柄であろう。
政治に於けるこれらのヘマ・無能は、過去――特に負の過去を記憶にとどめて、そのことを謙虚な気持で参考にし、そこから何かを学び返すというプロセスを踏まないことからの過失・失態であろう。当然、ヘマ・無能を繰返さないためには、逆のプロセスを踏まなければならない。批判なくして、進歩なしである。
今の自民党は、安保理常任入り失敗でも、拉致問題解決の停滞に関しても、お互いを庇いあって、なあなあでやり過ごしている。こういった馴れ合いと責任回避が、「日本の歴史・伝統・文化に根ざしたわが国固有の価値(=国柄)」としてあるものということなのだろうか。そうでなければ、辻褄が合わない。
参考文献
『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館)
『売春』(神崎清著・現代史出版会)
『日本の農地改革』(大和田啓氣著・日本経済新聞社)
『日本史広辞典』(山川出版社)