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  第69弾   =イ  ラ  ク  2  題=

                                    upload 04.10.18.()                  


イ ラ ク 2 題

1.共産主義の悪とイラク戦争の悪

2.イラク国民はプライドが高いのか

                                                

                          イラク攻撃は大義なき戦争だった!

                       サダム・フセインを釈放して、元の独裁者の地位に戻そう!!!!

                                               Heil SDAM!!

               戦争犯罪人ブッシュを逮捕して、サダムの政治収容所にぶち込め!!
◆イラク2題 

 1 共産主義の悪とイラク攻撃の悪
 2  イラク人はプライドが高いのか

 

 

  
 
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が来春出版予定の自著『記憶とアイデンティティ』で、共産主義について、「この悪は世界と人類にとって必要な悪だという感覚があった。特定の状況下では、善のための機会を生み出すため、悪は役立つ」(04.10.13.『朝日』朝刊)と、その限定付き有用性を紹介しているという。

 
アメリカが、明確な確認を怠ったまま、世界の安全に対する脅威だとして、イラクの大量破壊兵器の存在を大義名分にイラクを攻撃したが、大量破壊兵器は存在しなかったという最終報告が米国調査団によって行われ、、イラク攻撃の大義名分は確かに崩れた。その針を元に戻すには、サダム・フセインを釈放して、なおかつブッシュがサダム・フセインに、大量破壊兵器がなったにも関わらず攻撃したことを謝罪して、アメリカ軍がイラクから撤退することだろう。

 だが、そうすることは
テロと言う悪質な妨害に会って、難渋しながらも先に進めつつあるイラク民主化の針を無化することとなる。ヨハネ・パウロ2世の思想を借りるなら、大義名分のない戦争「悪」だが、少なくとも独裁者サダム・フセインなる「悪」を取り除くについては、「世界と人類にとって必要な悪」であった。「特定の状況下では」、民主化という「善のための機会を生み出すため」大義名分のない戦争という「悪」だったが、「役立」ったとすべきではないだろうか。

 イラクは
独裁者サダム・フセインによって、国民は思想・言論の自由を認められず、政治批判や体制批判をする者は捕えられ、ときには拷問を受け、収容所に収監され、中には正式な民主的裁判を受ける機会も与えられずに処刑される「特定の状況下」にあった。

 そのような
「特定の状況」を取り除いて、「世界と人類」がすべて等しく平等な条件下基本的人権の自由と民主主義が保証された社会)に立てるよう、「善のための機会」を現出させるについては、有効に「役立」てたと言えるのではないだろうか。

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 テレビを見ていたら、イラク訪問の日本の政治家の通訳も務める30代前後らしき女性が、「イラク人はプライドが高いが、他国の援助受けなければやっていけないことを知っていて、(多分、そのプライドを押し殺してという意味を込めていたのだろう)どんなに小さな援助に対しても感謝を示す」といったことを言っていた。

 援助を与えるも受けるも、
利益行為であって、プライドとは関係ない。日本は黒字の貿易収支が示すように、世界に与えている利益よりも、世界から受けている利益の方が遥かに多い。儲ける一方では、世界という世間に対して体裁が保てない。儲けのほんの一部を援助という形で利用すれば、世間体が保てるだけではなく、援助が実を結んだ場合、何らかの別の利益となって戻ってくる利益行為である。何の利益も望めない捨て金に過ぎなかったなら、どこの国も援助しないだろう。大なり小なり国益を基準に行動するのは、その現われである。

 
女性通訳者が言うように、イラク人がプライドの高い国民なら、プライドの高くない国民は存在しない。なぜなら、人種・国籍に関係なく、人間は本質的には同じ穴のムジナだからである。30年近くもサダム・フセインの独裁と人権抑圧に沈黙してきたのは、イラク人のプライドの高さからからということになる。

 実際には、
人間のプライドの発揮は機会主義的であることから免れることができないでいる。人前では放つことができない屁みたいに、発揮できるときに発揮し、発揮できないときは発揮しない。いくらプライドの高い人間でも、借金で首が回らなくなって人に金銭的援助を求めるとき、プライドなどと言っていられないだろう。長い物には巻かれろとか、バカになる、とっいた日本の諺に近いアラビア語の表現だってあるはずである。だからこそ、サダム・フセインの独裁と人権抑圧に長い期間迎合できたのである。

 もしイラク人が、我々はプライドの高い国民だと言ったとしたら、人間の姿、人間の現実に無知であるというだけではなく、サダム・フセイン独裁体制下の自分たちの有り様を薄汚く誤魔化す傲慢な虚飾に過ぎない。もしイラク人の我々はプライドの高い国民だとする言説を信じる人間がいるとしたら、イラクという国に何らかの形で関わっていることからの身びいきに制約された、あるいは関わっている自分の価値を高める意図からの相手の言葉の持ち上げに過ぎない。イラク人はプライドを高く保とうとする意志すら持っていなかった。持っていたなら、アメリカの手を煩わさずに、自らの手でサダム・フセインを抹殺していただろう。

 プライドなどどうでもいい。なりふり構わずに民主化を実現させることである。イラクが民主化を果たし、政治的に自立したとき、経済的借金が少しぐらい残っていようと、そのとき初めてプライドを回復できる。

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