「市民ひとりひとり」
教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
第65弾 政治的余裕と緊張
ドイツ首相の養子
問題とイラクサッカーチームの活躍
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共著者の1人手代木琢磨(てしろぎ・たくま)は私の弟です。
懐に余裕のある人は試しに購入して読書してみてください。
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著者:手代木琢磨/勝田悟|出版社:中央経済社|発行年月:2004年 05月 |
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洋の東西を問わず、政治家は人気取りのパフォーマンスが好きである。まさかドイツ首相の養子問題までがパフォーマンスなんかではないだろう。
04/8/ 23の『朝日』朝刊に次のような記事が出ていた。
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「ドイツの
ゲアハルト・シュレーダー首相(60)夫妻がこのほど、ロシア人の3歳の女児を養子にした。ロシアのプーチン大統領とは20回以上の首脳会談をこなし、互いに夫妻で私邸に招き合うほど仲がいい。独ロの蜜月振りを象徴する出来事と独メディアは伝えている。
独首相府は『私事に関すること』と詳細を明らかにしていないが、報道によると、女児は、プーチン大統領の故郷サンクトペテルブルグの施設にいた。シュレーダー氏はサンクトペテルブルグを何度か訪ねており、そのときに知り合ったのではないかと推測されている。数週間前から首相の自宅で暮らしているという。
シュレーダー氏は3度の離婚の後、現夫人のドリスさん(41)、ドリスさんの前夫との間の娘(13)と3人で暮らしている。
養子縁組は、恵まれない子供や若者の支援活動をするドリスさんの希望と見られている。」
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シュレーダー氏とドリス夫人との間に子供はいるのだろうか。恵まれず、今後とも恵まれないだろうと予想しているとしたなら、自分たちの間の子供に代わる子供として養子にした可能性もある。だとしたなら、ごくプライベートな問題でしかない。
それとも、恵まれない子供を1人でも救おうとした慈善行動だったのだろうか。
一方で赤の他人の幼い子供を養子といった形で救う人間もいれば、その一方で、子供を捨てたり、養えずに孤児院に預けたりする親がいる。確実に言えることは、親の愛情を知らずに孤児院で育つ子供の数の方が、養子縁組の幸運に恵まれる子供の数よりも圧倒的に多いと言うことである。 あるいは親がついていながら、愚かな政治権力者がつくり出した内乱や独裁の犠牲となって、飢餓や病気で死んでいく子供のほうが圧倒的に多いだろう。
たった1人であっても、子供を救うことは意味ある大切なことであるが、問題は、シュレーダー氏は一国の首相であることである。それも、世界からより多く利益を得ていて、利益に比例した 応分の責任を担わなければならない立場にいる経済大国のトップに位置している。ドイツが戦争の荒廃から立ち直り、経済発展期に入って経済大国への道を歩み始めた時期、生活が豊かになったドイツ人が嫌った道路清掃、ゴミ収集などの最下層の 、いわゆる汚い、きつい労働を担わせるべく移民させたトルコ人に対する、現在の経済不況期に於ける民族的差別 排他意識、そして今以て少なくないドイツ人が根強く引きずっているネオナチズムと称するドイツ民族優越意識(=反ユダヤ意識)からのドイツ系ユダヤ人に対する 人種的差別排他意識を絶対悪とし、それを人間対人間を基本とした自然な形の民族共存(=抽象的な意味での民族間の兄弟縁組)へと転換させる言葉を創り出して、その言葉・思いをドイツ国内のすべてのドイツ人、すべての外国人の生きる当然の基準とさせる道を、例え絶対的に極めて困難な壁として立ちはだかるであろうと分かっていたとしても、選択することを、養子縁組よりも先に行うべきではなかっただろうか。
政治指導者でありながら、現状の民族の差別・軋轢に傍観者として佇むばかりで、それらを氷解させる言葉の創出に無能力なため、 その埋め合わせ・誤魔化しに個人の問題から出ない3歳のロシア女児の養子縁組に限っての民族・国籍を問わない、いわば近親的同化でしかない平等性の選出だったとしたら、まさに政治的パフォーマンスの範囲を出ないだろう。
尤もドイツの首相が養子を可能とする状況とは、人種差別や民族差別を含めた諸々の差別が病気の治療が受けられなかったり、餓死が理由で死なせてしまうといった子供を出すまでに至っていない経済性が上回っていることからの政治的余裕を恩恵としている状況を言うのではないだろうか。
ゲアハルト・シュレーダー首相はそのことに気づいているのだろうか。気づいて、感謝しているのだろうか。
04.8.23『朝日』朝刊
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「イラク、初ベスト4
男子は準々決勝4試合があり、イラクが1−0で豪州を破り、初の4強入りを果たした。優勝候補のアルゼンチンはコスタリカに4−0で快勝。イタリアは延長戦の末に1−0でマリを退け、アフリカ勢の3大会連続制覇はなくなった。韓国はパラグアイに2−3で敗れた。
24日の男子準決勝はイタリア─アルゼンチン、イラク─パラグアイの顔合わせとなった。」−−−−−−−−−−−−−
イラクのサッカーチームがオーストラリアを1−0で破り、初の4強入りが決定すると、テレビが映し出したバグダッド市民は花火を打ち上げたり、車のクラクションを鳴らしたり、拳を天に突き出して路上で躍り上がったり、歓喜し、大騒ぎした。
「イラクは優勝する、金メダルを取る」
「これが民主主義の始まりだ。自由の始まりだ」
と口々に大声を上げる。
テレビカメラに向かって言ったのである。
「これが民主主義の始まりだ。自由の始まりだ」と。
きっと、こいつはアメリカの廻し者だろう。
廻し者でなければ、奇妙な食い違いが生じてくる。日本の新聞はテロをアメリカの占領に対する民衆蜂起(インティファイダー)だとしている。いわばイラク国民の絶対多数が反米で意思を通わせている国民状況にあることを伝えているのである。マスメディアの報道に間違いはないだろうから、そのことに矛盾する言動 であり、アメリカの廻し者でなければならない。
彼がアメリカの廻し者などではなく、イラク国民の絶対多数が反米で意思を統一した状況下で、心の底からそう叫んだ、そう宣言したのだとしたら、テレビカメラが去った後、反米で凝り固まったその他大勢のイラク人に袋叩きに合ったことは間違いない。例えアテネにいる間は無事だったとしても、イラクに帰国後、反米で一致した全体的イラク国民に、かつて国際試合で活躍しなかった選手がサダム・フセインの息子のウダイに身体的懲罰を加えられたように、何らかの暴力を振るわれたに違いない。
いや、それ以前に、そんなことを宣言したら身の危険だと、口にしたい思いを抑えたことだろう。それが人間の自然な姿と言うものだから。
裏返すなら、安全だという認識があったから、いわば、自分以外の人間も思いを同じをしていると受け止めていたからこその叫びだったことになる。一体、どちらなのだろう。
04.8.24.『朝日』夕刊の記事。
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「米はイラクで負けた 9条あるのに日本なぜ関与
米国がいかに好戦的かを漫画で風刺した『戦争中毒』(合同出版)の著者で、米ジョンズ・ホプキンス大のジョエル・アンドレアス助教授(47)が日本各地で講演し、先月末に離日した。
『米国はイラクの戦争に既に負けている』
大量破壊兵器がなかったとか、テロを抑えられないといったことだけではない。米国がこの戦争で達成しようとした目標──イラクに親米政権を作り、石油利権獲得の特権的地位を固めるということに、戦略的に失敗しているからだという。
『もともと開戦は危険な賭けだった』とも。体制転覆は簡単だったが、押し付けられた体制にこんなにも多くの民衆が抵抗するとは、米国内タカ派は予想できなかった。
日本に対する一番の疑問は『憲法9条という武器がありながら、何でこんなリスキーな戦争に関わるのか』だった。帰米直前に語ったうれしくない予測は、『将来のイラク政権は、確実に今より反米・反日になるだろう』」−−−−−−−−
米国のイラク攻撃の目的がイラクの石油を支配することだとは、開戦前後にまことしやかに流布した言説である。帝国主義が世界を席巻して、大国が小国を武力で殖民地支配した時代ならいざ知らず、21世紀の民主主義と自由の時代に於いて、公正な競争原理に則ることなく他国の石油を支配することも、
「石油利権獲得の特権的地位を固める」ことも不可能である。もしもそんなことを許したなら、それはイラク人自身の理性と信念に関わる問題である。かつてアメリカを敵とした中国もベトナムも、市場経済発展のためにその敵対関係の修復を必要とした。経済発展を実現させつつある現在、中国もベトナムも、アメリカに対する親近感を示している。中国は人件費の安さを武器に世界から企業の進出を呼び寄せているが、全資本を外国企業が投資する外国独資企業も存在するが、重要産業においては外国企業の資本参加比率を50%以下に抑えた中国企業との合弁の形を取らせることで、外国資本の独占支配を防ぎ、 資金と技術・機械設備は外国資本持ち、その一方で、技術移転といういいとこ取りを狙う方法を取っている。イラクにしても、政策次第ではないか。いわば、イラク人自身の理性と信念が描き出す政治的想像力次第にかかっていると言うことができる。
100歩譲って、事実アメリカの意志が確かにそこにあったとしよう。しかし、その「失敗」はイラクとイラク国民だけではなく、世界の民主主義と自由のために歓迎すべきことではないか。他に何を目的とした反米だというのだろう。アメリカ軍を含めた全外国軍の完全撤退なのか。
戦前の日本は植民地解放を旗印に、自国領土化の目的を隠して侵略戦争を拡大していった。その過程で被植民地国の民族独立の気運を刺激し、日本の敗戦後、結果としてその多くの国が独立を獲得していった。侵略という動機は悪そのものだったが、それが意図しないキッカケとなったことは否めない。「石油利権獲得の特権的地位」獲得が動機だったとしても、それを克服する方法が、アメリカ軍から民間イラク人やイラクの施設に標的 の重点を移しながら、武力闘争にのみ限定したものであるのは、イスラエルとパレスチナ同様に、泥沼化を誘発するだけで終わるのは間違いない。
宗派や民族の利害に関わる問題を抱えているだけではなく、停戦交渉に応じてアリ廟から撤退したものの、移動の自由と一般市民としての権利を与えられ、マフディ軍団と共に民主化のプロセスに加える条件を獲得したことで、サドルみたいな軍事的独裁志向の人間が政治に関わることになるのである。アメリカが治安の回復を待たずに、またイラクの政治が曲がりなりにも機能するのを見ずに撤退したなら、サドルは自己の私兵集団でしかない「マフディ軍団」を、反米闘争の役目を終えたとして、イラク国軍への編入を認めたとしても、自己権力の温存・強化のために彼らの意志をサドル自身への忠節で統一し、軍隊の中の軍隊としてその集団性を維持し、その力を背景に自らの発言力を高めようとするに違いない。そして間違いなく、軍隊の中の軍隊を背景としたサドルは自己の政治意志・権力意志を実現させるために独裁者の道を少なくとも探り、機会さえあったなら、それを実行に移そうと行動を開始する可能性は高い。
その証拠となる犯罪行為の形跡が暴露された。サドルとその私兵集団である「マフディ軍団」が撤退した跡のアリ廟から、処刑されたと見られる25人の遺体が発見されたというものである。「拘束した市民や警察官の処刑死体」だというイラク警察の主張に対して、サドル側は、遺体に処刑されたと見られる損壊の跡があるにも関わらず、「米軍の攻撃で死亡した仲間の遺体」と反論しているという。しかし、サドルとその一派がポルノビデオや酒の販売をした市民に宗教裁判を行い、鞭打ちなどの刑罰を実行していたことが明らかとなっている。
その権限もないのに、宗教裁判を行っていた。──自らとその一派を国家と見なしていたからこそできた裁判行為──いわば権限がないゆえに「マフディ軍団」共々の自己を絶対とする独裁意志の発露でしかない国家の体現を、宗教裁判という最も象徴的な形でアリ廟なる閉鎖的なごく狭い空間で行い得たのである。
イラク人の反米感情は独裁者サダム・フセインに吹き込まれたものであろう。それは30年近い独裁政治に対する支持の重要な道具であった。いわば反米を叫ぶことがサダム支持を証明し、その二つをイラク人であることの自己存在証明としてきた。反米を叫ばなかったなら、サダム支持の証明とはならなかったし、イラク人であることの証明ともならなかった。
ゆえに反米の歴史はサダム支持の歴史でもある。皮肉にも不倶戴天の敵であるはずのアメリカによってサダムの呪縛から逃れられたという事実──自分たちの力によってサダムを倒したのではないというプライドの打ち砕けからの負い目──が、宗派対立や民族対立、米軍に対する攻撃による治安悪化といった、取り巻く政治的緊張の影響もあって、逆に残された一方の自己存在証明手段である反米感情を維持し、掲げることで、打ち砕かれたプライドの修復と保守のための道具にしているといった側面を抱えていないだろうか。言ってみれば、反米はイスラムの名前と同じく、自己優越維持の装置となっているのである。
民間の日本人がイラクで武装集団に拉致・誘拐されたとき、「イスラムは民間人を人質に取らない」と断言したのはイラク市民だけではなく、イスラムの聖職者も同じ発言をしていたが、武装集団によるトルコ人、フランス人、イタリア人、フィリッピン人と、民間人を人質とする拉致・誘拐が跡を絶たない現象は、イスラムに備わっていると誇る価値、あるいは倫理的規律が如何に当てにならないかを示唆している。
サダムの独裁体制崩壊後間もない間に、ポルノ鑑賞やアルコールに親しむ少なくないイラク人が現れたことも、やはり、イスラムを絶対的とする言動が如何にいかがわしいものか証明して余りある。
イラク人は、民間人を拉致・誘拐しているのはイラク人ではなく、外国から入ってきたテロ集団だと反論するだろうが、正規の裁判手続きを踏まずに拘引・拘束して宗教裁判にかけるサドルの行為は、人質を取るのとどれ程の違いがあるのだろうか。謂れなき拉致・誘拐そのものではないか。謂れなきことを独断・独裁で謂れあることとしていた。サドルを同じイラク人ではないとでも言うのだろうか。但し、反米を口実とすれば、現在のイラクではすべてが許される。
以前書いたことだが、ハンドバックを開けて爆弾探知犬の検査を受けるよう米軍女性兵士に求められたイラク人中年女性が、それを拒否したことから騒ぎとなり、100人近くのイラク人が集まって、不穏な状況となったが、米軍側が威嚇発砲して、群集を散開させたということがあった。イラク人中年女性は、拒否の理由として、ハンドバックの中にコーランを持っていて、神聖なコーランをイスラムでは不浄とされている犬に嗅がせることはできなかったからだと、憤り声で激しくまくし立てていた。
例えコーランにどのように立派な教えが書き込まれていようが、単なる印刷物に過ぎない。その教えを自己の行為として可能な限り表現すべく努力することに意味があるのであって、教えと自己行為にいささかでも乖離があったなら、コーランは単なる体裁、あるいは飾り物に過ぎない。例え、どこに行くにも常に持ち歩いている大切なコーランだと、価値観を置いていたとしてもである。
コーラン・聖書の類を体裁・飾り物としている人間程、体裁・飾り物でしかないことを否定する必要上、それらをもっともらしげに神聖化する。中にはそれだけで終わらず、始末の悪いことに神聖化することで、自らもその神聖性に同一化した神聖な人間だとする立ち居振舞いに及ぶ。実際には他人の人気・活躍のおこぼれに 与っているだけなのに、人気芸能人の一挙手一投足に大騒ぎすることで、それを自己の活躍とし、自己をさもたいした人間であるかのように思い込み、振舞うようにである。
真に誠実で正直な人間だったなら、コーランや聖書の教えに己を恥じない人間がいるだろうか。人間は如何に努力しようと、本来的に持つ猥雑さから逃れることができず、到底神聖な存在にはなれないからである。大体が、犬や豚といった生きものを不浄とすること自体、おこがましい。犬・豚とも、人類にどれ程の利益を与えてきただろうか、計り知れないではないか。イスラム教徒しか人類に入れていないと言うなら、話は別である。
確かにテロは 反米≠フ具体化として繰り広げられている。しかし、いくら反米だからといって、駐留アメリカ軍を直接の標的とするのではなく、民間人を含めたイラク人をテロの標的とするのは、憎いのは親だが、親を直接攻撃するのは困難だからと、その子供に危害を加えるようなもので、卑劣極まりない。
現在、子供として襲撃のターゲットとなっているのは、大学教授や医師たちである。復興の妨害を狙ってのことだろうが、サダム・フセイン時代に、フセインが必要とすべき方面に廻すべき国家の予算を私服し、その結果として治療薬の不足、治療設備の不備・旧式化で満足に治療が受けられずに死に追いやられる犠牲者、特に多くの子供がいた不正義があったことを知りなら、内乱に等しい武装攻撃の応酬で民間の大人から子供まで死者・負傷者を出していて、医者を必要としているときに、その医者を暗殺したり、国外脱出の威しをかけたりして、必要な治療の妨害を行う、フセイン時代とさして変わらない不正義を当然の如くに繰り広げている。かくかように、イラク人自身の犠牲を問題としないイラクのテロはその程度の冷酷で下劣極まりない性格のものでしかない。
「将来のイラク政権は、確実に今より反米・反日になる」という予測は洞察力優れたものであるが、実際には、今後のイラクの経済状況次第ではないか。経済の発展は治安の安定・政治の安定が必要な要素となってくる。イラクにはシーア派・スンニ派・地域・民族といった様々な利害の対立がある。それぞれの利害代表者の、地位や利権の獲得を手段とした他に優越しようとする自己存在証明闘争が、逆に政治的対立や政治・社会の閉塞状況を高めた場合、彼ら利害代表者自身が 自己擁護から自分たちの愚かな政治から目を背けさせる目的で、イラク人の中に条件反射として巣食っている反米感情を利用し、そのことによって国民の連帯感・国家との一体感を演出する、こすからい手段を取らないとも限らない。ヒトラーが国内のユダヤ人を劣る人種として抹殺すべき敵と定め、そうすることで優越する民族としてのドイツ人の連帯感・闘争心を燃え立たせ、 煽った構図同様にである。
もしイラクが政治の安定と社会の安定に恵まれて国の経済が回復していったなら、いわば政治的余裕の道を歩み始めたなら、経済の回復はアメリカの関与を絶対的に必要とすることからも、経済回復による余剰資金がアメリカの映画や音楽、その他の文化の鑑賞に向けられるのは間違いない。それは日本がかつて経験した、中国もベトナムも経験しつつある文化・社会のアメリカナイズである。
大体がサダムの独裁体制崩壊後、依然として政治的緊張状態にありながら、早々に解禁されたポルノ映画館に市民が殺到した事実は、ポルノが欧米文化の大きな柱の一つであることから判断すると、反米の本音がどこにあるのか疑わせる現象といえる。
テレビで報じていたことだが、記者団にアテネオリンピックのことを尋ねられたブッシュ大統領が、「イラクのサッカーとアフガニスタンの旗手が好きだ」と答えたことに対して、アテネオリンピックに出場中のイラクサッカーチームの選手が、ブッシュ大統領の大統領選挙への利用だと反撥して、「サッカーの試合に出ていなければ、反米闘争に参加していただろう」と語ったことが新聞に出ていた。
これに対して、イラクチームの監督が、「我々にとって、サッカーも政治も生活の一部なのです」と、反米闘争参加の言動を擁護している。大統領選挙への利用は迷惑だと。
そう、試合に負ければ、その懲罰としてサダムの息子ウダイに体罰を加えられるサッカーを生活の一部にしてきたし、サダムの独裁政治も自由と人権を抑圧された状態で、生活の一部にしてきたのである。そして現在も生活の一部にしなければならない。しかし、「民間人の人質を取ることは許」さないという言葉と同様に、公に口にする言葉が言葉どおりの中身を抱えている保証はどこにもない。
つまり、「サッカーも政治も生活の一部」が事実だったとしても、だからと言って、その姿勢が普遍的正当性を常に備えているとは限らない。例えブッシュがイラクのサッカーを大統領選挙に利用しようがしまいが、イラク自身が問題にしなければならないのは、イラクの今後であろう。それぞれの集団が陰で主導権争いを演じ、醜く対立していながら、表向き反米を唱えることで、立場の一致を演じているとしたら、 反米はダシでしかない。反米よりも、自分たち自身の内なる問題をこそ解決すべきだろう。よりよく解決できないからこそ、解決するだけの意志と政治的創造力を発揮し得ないからこそ、外なる反米≠対立軸とした自己存在証明としなければならない。
アメリカという外に対するだけではなく、内なる対立と対立が生み出す混乱が問題をややこしくしている。アメリカに対する外なる対立は後回しにして、先ずは内なる対立を解決することで政治的緊張を解くべきだろう。そうしてこそ、アメリカに対する真の主体的位置を獲得する第一歩となるはずである。