教育を語る・政治を・社会を語る《市民ひとりひとり》
第2弾 《生徒の変化・その1》
「ごく基本的な生活動作ができなくなった」(p11)とプロ教師は言う。
何を基準の証明かというと、
「その切り口は『社会的自立』である。学校の役割は、子どもが社会に出て、一人前の社会人として生きていくのに必要な基礎的な力を身につけさせることにある。その『社会的自立』という目標から見て」の指摘だそうだ。
綺麗事の展開はプロ教師の最も得意とする分野であるらしい。綺麗事で飾らなければならないのは学校教師としての自らの行為性が実際は空虚・無内容だからだろう。それを誤魔化し、隠そうとする無意識の自己防衛心理が奇麗事を操る結果を招いているのである。
日本の学校が「社会的自立」教育を主たる役割の一つとしえた事実は一度たりともない
。もしそれが事実としたら、会社人間なる存在は戦後社会に支配的な状況で登場することはなかったろう。会社人間とは自分を殺して、会社のために生きる、いわば自立とは正反対の自己意志を抑圧・抹殺して会社という集団・組織の一方的な支配・強制に無定見・無抵抗に同調・従属する集団主義と権威主義の行動様式に縛られた人間のことを言い、戦前間違ったお国のために自己を犠牲にした軍国主義的集団主義・権威主義の存在形式を対象を国家という組織から会社(企業)という組織に変えてそのまま戦後社会に持ち込んだものである。学校・教師は自分たちは「社会的自立」教育を行っていると思い込んでいるとしても、口先だけの形式に始まり、形式に終わっていることの最大・明瞭の証拠物件としてあるのが会社人間なのである。
日本の教育は生徒それぞれの進路に必要な学力を「身につけさせること」を目標とし、それを実績としてきたに過ぎない。そのような教育は生徒それぞれの年齢に応じた、いかに生きるべきか、人間はどうあるべきかといった思想・哲学(「社会的自立」意識)を欠落させた場所でこそ成立する。いわば教師を学校教育者と呼ぶのは名ばかりで、学力を「身につけさせる」技術者で終わっているのである。その学力もテストの問題に正解を当てはめる技術(暗記力)を教え込むことを目先の目標とした結果物として授かるものでしかない。そのような日本の教育の姿が工業製品などの機械的な技術(それも1+1=2を基本とした積み重ねによって獲得することのできる改良・発展の技術)に関しては優れた才能を発揮するが、0や1から2とか3を生み出す発明や思想・哲学の創造に関しては殆ど見るべき才能を発揮し得ない日本人の姿につながっているのである。
それもこれも日本の学校教師が教科書(マニュアル)をなぞるだけの教育、その範囲を出ない教育しかしてこなかったことの成果なのである。もっともマニュアルロボットなのは一人学校教師だけではなく、政治家を筆頭に役人・会社人間――すべてに該当する問題ではあるが、学校教師は創造力を試されるべき場所に位置している人間集団であり
、責任は人一倍重いと言える。いわばそうあるべき学校教師が学力提供技術者といったところで教師という職業を誤魔化してきたからこそ、内申書を操作してまで、何人の生徒を有名進学高校に合格させたとか、落第者を何人しか出さずに済んだとか、テストの成績の底上げと合格率に汲々とし、その成果を自らの手柄・勲章としなければならないのである。このような姿は自分たちの立場・責任・使命を省察する努力もせず、そのときどきの社会の状況に主体性も創造性もなく流される、あるいは流されるだけではなく
、自ら進んで身を任せる同調・従属のみを生き方として続けていることから派生したものである。戦前の学校・教師が生徒を自律的な(ということは主体的なということである)存在へと導くのではなく、それとは正反対の全体的同調者に仕立てて侵略戦争の戦場に駆立てることを使命とすることができたのも、当時の社会全体を覆っていた軍国主義の最前線への率先垂範した同調・従属があってこそ可能となった状況であり、生徒を学歴主義の同調者に仕立てて学歴獲得の戦場に駆立てることを自らの役割としているのも、学歴主義という現在の支配的な社会状況への積極的な加担(同調・従属)でしか自己能力を示すことができないからである。いわば学校・教師は戦前生徒に犯した権威主義的な支配・強制による同調・従属要求を戦後においても本質的にはそっくり同じ形式を引きずったまま、ただ単に内容を変えて性懲りもなく繰返すという罪を演じているのである。それと言うのも、昔も今も学校・教師自体が自立的(自律的)存在であった試しはなく、そのときどきの社会全体とその風潮に対して何ら抵抗もなく、自らも無定見な同調者・従属者として存在し続けてきたからである。そのことは学校教師が社会全体と生徒との間にあって一切の自律性・主体性を排した本能化した権威主義的な同調意識
・従属意識を比較下位者である生徒に強制する段階的な権威構造の中途に考えもなく位置し続けてきたことを意味する。自律的(主体的)存在であった試しはない学校・教師がどう逆立ちしても、どう足掻いたとしても、「社会的自立」教育などできようもはずはない。だから綺麗事だと言うのである。
もしプロ教師の言う「一人前の社会人として生きていくのに必要な基礎的な力」が単に職業に従事し、そこから得た収入で社会人として生計を立てていくのに必要な「基礎的な」学力・「基礎的な」知識を意味し、その活用によって自己を生活者として成り立たせることが「社会的自立」とするなら、日本の学校は十二分にその役割を果たしてきたことになる。だが、自律性・主体性を伴わない「社会的自立」は真の社会的自立とは言えない。学校・教師は、ああしなさい、こうしなさいといった権威主義的な強制・支配による命令・指示を基本とした生活指導とテスト教育を通じて「社会的自立」