「市民ひとりひとり」   教育を語る ひとりひとり 政治を社会語る そんな世の中になろう              

    第110弾   外交カードとなっている靖国神社参拝
                                                 upload.5.12.11.(日)          


 

                                                                                               

                                                                                           大元帥は自らを空翔る白馬に跨った神になぞらえ、                                                              
                                          ロバは偉大な主人を得て、世界一番の生きものになったと                                                     
                                                   思い込んでいたとさ
・・・・・・・・・

 

 




 マンション・ホテル等の
構造計算書偽造問題の発生後、監督官庁である国土交通省は次のようなことを言っている。

 
「これまで建築確認制度は性善説で運用してきた。今後は性悪説で制度全体を考える必要がある」

 構造計算の偽装を見抜けずに
建築確認を承認した地方公共団体及び民間の指定確認検査機関にしても、いずれも「性善説」に立って、釈明している。

 
平塚市「法令の解釈に誤りがないかどうか確かめるのが建築確認の趣旨であり、偽造しているかも知れないという前提で見ていません」

 あるいは、
「資格を持った人が設計しているわけで、名前を出してですね。全然疑いを持
っていません。きちんとできていると思い、審査しているんです」


 
伊勢崎市「こういった改竄があるとは、正直言って、夢にも思っていなかった」

 
愛知県担当者「1級建築士による偽造は想定しておらず、巧妙な手法なら見抜けない。       全部再計算するには人もカネも時間も、設計事務所並みの態勢が必要になる」
 
 松本市「建築基準法に沿った書類が出されるという前提で建築確認しており、偽造があるという前提には立っていない」

 松本市が建築確認、書類の偽造を見逃した
長野県「計算書は国の認定プログラムで作られ、審査で確認する必要のないコンピューターの計算過程で改竄されていたので、見抜けなかった」
    
 民間検査機関である
イーホームズ「建築士が書類を作ったので、改竄とは思えなかった」

 全員が全員、国家試験を合格して資格を持っている人間が計算・設計した
構造計算書なのだから、誤魔化しをするはずはないし、誤魔化しはないという「性善説」を前提に検査していた。裏を返すなら、誤魔化しはいくらでも罷り通るということになる。

 こういったことは日本人すべてがとまでいかなくても、少なくとも社会的に高度な資格を持った日本人は道徳的に誤魔化しを犯さない人格者だと卓越視することによって成り立つ認識であろう。

 選挙で国民の選択を受けて当選した国会議員及びそれ以下の政治家はすべて人格者である。選挙違反も犯さないし、不法に政治資金を取得もせず、収賄といった薄汚い犯罪はとてもとても犯すはずはない。

 東大とかの最高学府を出て、国家公務員試験T種を合格した
キャリア官僚は接待の名のもと、他人のカネで呑んだり食ったりの乞食行為といったことは絶対にしない。ましてやノーパンしゃぶしゃぶで接待に与ったことのある大蔵官僚などは日本には絶対に存在しない。

 そうでなければ、
「性善説」は、我々日本人がお互いに日本人を見る目(客観的認識能力)を持たず、いたずらに買い被ることによって成り立たせていることになって、おおいにまずい。

 
日本人は性善説で、欧米は性悪説に立っているとよく言われ、広く認知されている。契約書も、よく読まずに、というよりも、殆ど読ますに判を押すのも、契約書だから、間違いがあるはずはないという「性善説」を前提にしているのだそうだ。

 欧米は後で問題が起きないように、事細かに取り決めを交わし、交わした約束事を契約書に契約事項として明確に記して、確認してからサインすると言われている。

 
「性善説」は、人間という生きものが常に性善であることによって正当化される。欧米人は人間が常に性善ではなく(常に性悪と言うことはないだろうから)、ときに応じて性悪となることを予備知識として、社会生活に関わる自己防衛に務めているということだろう。

 そう、人間は犯罪を犯す生きものであるとの認識を常のものとしている。

 日本人が日本人のことを
性善説に立っている」と言うとき、当然そこには日本人が人種的に性善であるという暗黙の認 知が生じる。生じなければ、矛盾することになる。このことは、日本民族優越思想と重なる。

 日本の社会は
「性善説」を基本として動いている。何と素晴しいユートピア社会ではないか。

 但し、現実には日本人にも悪党は存在する。悪党の存在と
日本人「性善説」に整合性を持たせるとするなら、後者の予定調和を崩した日本人だけが、性善から離れて、性悪化するとしなければならない。いわば使い分けを用いることによって、日本人「性善説」の一般化が可能となる。だとしても、今度は何というご都合主義な日本人「性善説」なのかということになる。

 さらに言えば、
構造計算書偽装を見過ごしてしまった民間検査機関国土交通省及び自治体が自らを性善状態に置いたまま、1級建築士を含めたマンションやホテル建設に関わった者のみを日本人「性善説」を裏切った「性悪」者とする自己性善化の構図は、自らの役目不履行を自ら免罪する責任逃れの口実として利用することも可能であることを示している。

 利用したとき、そのこと自体が既に
日本人「性善説」をあやふやにする背信行為であろう。利用することはないとするなら、日本人には責任転嫁行為は存在しないことになる。

 もし日本人が必ずしも性善でないとしたなら、
日本人「性善説」はどうして生じたのかという新たな疑問が持ち上がる。

 05年11月29日に行われた
衆院国土交通委員会耐震強度偽装問題の参考人質疑テレビ中継を取っかかりとして、日本人「性善説」を考えてみた。

 なかなか見ごたえがあって面白かったと言ったら、強度不足で倒壊の恐れあるとされたマンションの購入者や営業停止に追い込まれたホテル会社に対して失礼に当たるだろうか。

 リポーターの大袈裟な語りやインタビューを駆使してあの手この手で衝撃性を持たせようと手を尽くす
ワイドショーのわざとらしい作為からは生まれない、それとは無縁の、それぞれが落ち着いてはいたものの、如何に自分には責任がないと証明するか、しぶとさと必死さを露にした生々しい人間ドラマが拝見できた。但し一言で言えば、ワイドショーを取り仕切る連中が見せる正義感と同じく、質問する側も含めて日本人「性善説」からは程遠い、それとは無縁の風景であった。

 
ワイドショーの小賢しげな正義感に立った見せ物仕立ての演出に日本人の性善を感じ取ることができる日本人がいたとしたら、お目にかかりたい。

 6人招致された参考人の中で、ただ一人胡散臭さもなく正直に責任逃れしていたのは、建築確認業務を行った民間指定確認検査機関のイーホームズの藤田東吾社長であった。

 
「今回のように偽造された構造計算書をいちいち計算するようにという明文規定はなく、適法に業務を行っ た。偽造を見抜けなかったのは当社だけではなく、多くの行政、他の民間機関も同じだ」と、同罪者を出すことで不可抗力に重点を置く責任逃れを主張した。

 
「いちいち計算するようにという明文規定はなく」ても、偽装された構造計算書を通してもいいという規定もないはずだ。

 偽装は検査して判明する。検査を経ずに判明する類の偽造をやらかす間の抜けた国家資格所有者などまず存在しない。イーホームズの社長以下、
「偽装」という思いは頭に一切なかった、一度も持ったことがなかったということだろう。誤謬なきものとして扱っていた。

 これは彼らが釈明しているように
日本人「性善説」に則って生じた認識光景なのだろうか、それとも単にお目出度い人種だから、自然熟成した認識程度と言うことなのだろうか。

 何と言っても一番の役者はマンション販売会社の
ヒューザーの小嶋進社長だろう。

「コストダウンの努力と経済設計が悪いと言うなら、コストアップの努力と不経済設計をしろと言うのですかっ」と食ってかかりさえした。委員席から「開き直るな」と言う野次が飛んだが、「政治家ではないから、開き直るといったことはしません」となぜ言い返してやらなかったのだろう。

 なぜか小嶋社長の肩を持ちたくなった。小嶋社長は次のようなことを言って、自分に責任はないとした。

 
「正常ではない建築士の偽造の計算書とそれを取り巻く設計事務所、自治体、イーホームズなどの民間確認検査機関が偽造とは知らずに許可を出した。私たちは確認済みという神聖な公文書を疑うことなく着工しただけだ。適法に確認を終え、適法に中間検査を得て、適法に販売した」

  どこが悪い、と言うわけである。マンションを安く作って、安い値段で大量に売る。安さ追求の過程で自己利益を削ることをせずに安さを維持しようとすると、建築単価を不必要に下げる選択肢しか残らない。そのような選択肢を実現するための圧力を設計士や施工業者にかけなかったか。参考人質疑ではその点を追及すべく、施工業者の
木村建設に、「鉄筋の数を減らすように姉歯設計事務所に圧力をかけなかったか」問い質したが、「そう言ったかもしれないが、あくまでも遵法の範囲内でという認識だった」と、軽くかわされてしまった。

 要は
下品で偉大なイエスマンの自民党武部幹事長が口にした、「悪者探し」に終始しただけであった。

 確かに、責任の所在を明らかにする必要はある。但し、自治体が行っていた
「建築確認」 業務を制度改正して民間にも開放したのは、行政府(内閣)と立法府(国会)の双方が関わってしたことで、民間機関に於いて「建築確認」業務が正常に行われているか検査・監督するのは地方公共団体と、行政府に連なる、民間委託後の監督機関たる国土交通大臣が管轄する国土交通省である。

 自治体と国土交通大臣を含めた国土交通省の責任問題を抜きに耐震偽装に関連した業者だけを「悪者」にして責任を問うこと自体が、参考人質疑を自己免罪を図る片手落ちのものとしていたことに自ら気づいていなかった。

 そう、自己を性善状態に置き、参考人のみの「性悪」を追及する責任転嫁を同時進行で行っていたのである、

 
耐震偽装を見抜けずに建築確認を出した地方公共団体の平塚市が参考人の一人として出席していたが、委員からの質問は見抜けなかった理由を問うだけの申し訳程度のものでしかなかった。自治体の出席者が平塚市だけというのは、単なるダミーではなかったかと疑いたくなる。

 先にも記したように、ヒューザーの
小嶋社長は「私たちは確認済みという神聖な公文書を疑うことなく着工しただけ」なのである。「確認済み」の認証は水戸の御老公の葵の印籠にも匹敵する絶対的なものだろう。例え不正に獲得した資格であっても。

 
「建築確認」を出す段階で不適格を見抜けず、その上適正に行うべき建築現場での「中間検査」でも、構造上の不適格を見落とした二重の過失責任は、業者に対する「悪者探し」以前にひとえに民間検査機関と、そのような民間組織を検査機関とした国土交通省が負うべき責任ではないだろうか。

 まずは国土交通省を管轄する国土交通相を任命した政府が被害者に対する責任として満足のいく補償を行い、その後、建設に関わった各業者に対して、その責任の多寡を問い、多寡に応じた金額を補填させる方法を取るべきだろう。

 被害者に対して言うなら、マンション販売者や施行業者にではなく、一義的には国の責任だとして、彼らに賠償請求すべきであると言うことである。

 建築に関わった者が、
「鉄筋の数が少な過ぎると思った。しかし設計図通りに仕事をするのが我々の役目だ」と疑問に感じているのである。民間検査機関は設計図の検査段階で見落としたとしても、現場検査の経験を何ら生かせずに、書類に目くら判を押しように、そこにある物をある状態でしか形式的に見たに過ぎなかった。

 適正な本数の鉄筋を配筋した場合の鉄筋の全体的な密度を本数を減らして維持するとしたら、柱や梁の太さを細くして、各鉄筋の間隔(ピッチ)を狭めなければ、維持できない。つまり、柱や梁の太さをそのままにして鉄筋の数を減らすと、減らした分、鉄筋と鉄筋の間隔 (ピッチ)が開いて、その間隔の程度と全体的な鉄筋の密度の粗さから、手抜き工事が簡単に露見してしまう。

 建築に関わった者が、
「鉄筋の数が少な過ぎる」と感じたのは、柱や梁を細くしても、それでも鉄筋が少なく感じる程に鉄筋と鉄筋の間隔が開いていたからだろう。鉄筋の密度にそれ程の違いがなければ、例え柱や梁が従来の建築物と違って細くても、地震に耐える新しい工法によるものだろうと勘違いするだろうからである。

 柱の縦筋や梁の横筋は
フープ筋と呼ばれる箍(タガ――桶の周りにはめる竹や金属の輪)の役目をする四方形に(柱が円筒形なら、円形に)折り曲げた鉄筋を外側から等間隔に何本もかませることで、鉄筋の曲がりやすい性質に強度を与えて、地震が発生した場合の破断や湾曲に備える。

 いわば、鉄筋が配筋された段階で、鉄筋の太さは勿論、その本数と密度、さらに柱や梁の太さまで判断できて、建物の高さに応じた構造を備えているか、経験のある検査 担当者なら看取できるはずである。また、経験のある検査担当者なら、各階の配筋過程での
「中間検査」で、看取しなければならないはずである。

 素人が言うようにそう簡単には見抜けるものかと思うだろうが、建築に関わった者が、
「鉄筋の数が少な過ぎる」と感じたのである。検査 担当者が見抜けなかったとしたら、怠慢以外の何ものでもないだろう。

 設計図段階でのチェック以上に現場でのチェックが重要なのは、構造計算が例え正しく行われた偽装のない設計図であっても、現場での検査が部分的箇所にとどまった場合、それ以外の場所の鉄筋の数を減らすことは可能だからである。設計図で誤魔化すか、現場で誤魔化すか、あるいは設計図でも誤魔化し、さらに現場でも誤魔化す方法が手抜き工事を可能とするパターンとしてある。当然、より機能させるべきは「中間検査」ということになる。 

 それが機能していなかった。参考人質疑では、そこには一切焦点を当てることはしなかった。ヒューザーの小嶋社長に、
「適法に確認を終え、適法に中間検査を得て、適法に販売した」と一方的に反論させるだけで、一番に問題にしなければならない「中間検査」の重要性を見過ごしていた。

 そもそもからして、建築確認を行う
民間指定検査機関が建築過程の「中間検査」をも兼任するのは、会社の会計担当の社員が同時に会計監査を兼ねるようなもので、「建築基準法」そのものがザル法と言えないだろうか。

 国家試験を受け合格した1級建築士が誤魔化しも間違うはずもないとの先入観に立った「性善説」で設計図を精査せずに建築確認を行い、自分たちが建築確認した設計図と異なる建築は建築会社が行うはずはないとの先入観に立った「性善説」「中間検査」を行っていたとしたら、設計図の確認は正しい=建築も正しいで、建築確認と同様に形式的でおざなりな「検査」しか行わなかった可能性が十分に疑える。

 建築現場で、工事担当者が鉄筋が少なすぎると感じても、「中間検査」担当者が見逃してしまった主原因はそこにあったのではないだろうか。

 元来から、建築確認業務「中間検査」業務は異なる機関が行うべく、法改正をすべきだった。それを政府も旧建設省も怠った。

 となると、国土交通省が言っていた「これまで建築確認制度は性善説で運用してきた」云々は、言ってる本人が気づいていないだけのことで、法改正に関わる自らの怠慢を棚上げした、日本人「性善説」に反する自己責任逃れの言葉に堕する。

 
「民間の指定確認検査機関の建築確認は、検査態勢の充実を目的にした建築基準法改正で99年に始まった」と新聞に出ていた。

 それまでは自治体が抱える建築主事が1人当り年間5〜600件を超す建築確認をこなしており、期間内に審査が間に合わないことから、事務処理のスピードを図る必要上の民間開放だという。
「中間検査」の導入は95年の阪神大震災で欠陥建築物の倒壊が相次いだこと受けた処置だという。

 つまり、
阪神大震災欠陥建築物の倒壊が相次いだ教訓から導入した「中間検査」制度は、有効に機能させてこそ教訓が生きてくるはずであるのに、何ら生かすことができず、欠陥建築物を次々と完成にまで至らせてしまった。当然、何のための「中間検査」制度の導入だったのだろうかと言うことになる。

 「中間検査」
の重要性を考慮し、建築確認業務「中間検査」業務を法律で異なる機関に義務づけなかった政府と国土交通省の怠慢、いわば、果たすべき責任を果たさなかった役目上の自らの「性悪」を棚に上げて、「性善説」を口実に責任逃れ、もしくは責任転嫁を図る。何という性善行為なのだろうか。

 ここに見える姿は、
日本人「性善説」と言うよりも、日本人「健忘症」、あるいは「学習無能力症」と言った方がいい。

 さらに別の姿も見える。

 予想される
東海地震首都直下型地震といった大規模地震に対する備えてとして「新耐震設計法」 が1981(昭和56)年に施行されたにも関わらず、14年後の 「阪神・淡路大震災」(1995年・平成7年1月17日)で、「新耐震設計法」の施行以後に建築された建築物の多くが設計・施工の不備・不適切、 剛性・強度の不均衡等を原因として倒壊、大破等に至ったという。

 つまり、
阪神大震災での欠陥建築物の倒壊は、設計図が適正であったにも関わらず、現場での建築段階で手抜きが行われたケースと、それまでは建築確認を専管事項としていた自治体が剛性や強度を含めた設計の適切性を十分に確認しないまま建築確認を発行し、建築させたケースとが合わさって生じた事態ということだろう。

 その延長上に、自治体の建築確認の段階で建築主事が1人当り年間5〜600件を超す建築確認をこなしていた過密性が設計の不備を見過ごしてきた原因でもあるとして、
建築確認業務の民間開放へと向かわさせたはずである。

 そのような目標を適切に具体化することができなかった。 

 
・ 民間機関による建築確認
 ・ 検査制度の創設
 ・ 建築基準への導入を始めとする単体規制の見直し、
 ・ 建築確認等の円滑化のための新たな手続き制度の整備、
 ・ 中間検査制度の創設

 等を柱とした
「建築基準法の改正」が平成10年6月12日に公布され、非常に大きな改正のため、3段階・3年に分けての施行となったということである。

 いわば、建築物の安全性の一層の確保のために念には念を入れた法律の改正を国は行ったのである。法律の改正に伴って、
建築確認と「中間検査」の精査が並行しなければ、改正の意味を失う。そして、実際に意味を失った。
 
 このことについては民間検査機関だけではなく、自治体も国も大きく責任を負っているにも関わらず、阪神大震災で
「新耐震設計法」の施行以後に建築された建築物の倒壊の責任の所在が建築士・施工業者・建て主・建築確認の自治体とそれを管轄する国のいずれにあるのか、あるいは重複した関係にあったのか、徹底的に検証せず、曖昧にしたことによって、関係者の意識を建築確認と「中間検査」の絶対的な重要性へと向かわせなかったことが改正意味の喪失をもたらしたのではないだろうか。

 もしも徹底的な検証があったなら、
建築確認と「中間検査」を最重要課題と位置づけ、疎かにすることはなかっただろうからである。

 1999年6月に
「住宅品質確保促進法」が成立、欠陥マンション や欠陥住宅の業者に対する保証期間が2年から10年に延長されたのは、手抜き工事の存在が無視できない状態であったからだろう。

 
建築確認と「中間検査」は一般家庭の木造住宅でも行われるが、二つの検査をかいくぐって、手抜きされた欠陥住宅が氾濫し、社会問題となってもいる。

 
誤魔化しもあった建築の実態とその実態に対処するための法律の改正に関係なく、日本人「性善説」を成り立たせていたこと自体が、建築確認の民間機関開放以前の自治体の建築確認と 「中間検査」、開放以後の民間検査機関の建築確認及び「中間検査」を形式にとどめていたそもそもの原因だろう。

 
「建築基準法」を改正しながら、ただ単に改正を政治家や役人の仕事にしただけで、地震等によって生じる建築物の倒壊がもたらす予想される住民の生命の危険に対する危機管理を意識の上では国も民間も真剣には受止めていなかったということである。

 公民館や図書館を建設したとしても、ただ単に政治家や役人の仕事のためにつくるだけだから、建物をつくっただけの
箱物行政に終わるのと同じである。

 このようなことを以て
日本人「性善説」が然らしめた成り行きだとするなら、エキセントリックな倒錯だと言わざるを得ない。

 なぜ
阪神大震災時の欠陥建築物の倒壊を徹底的に検証しなかったのだろう。建築確認は自治体の専管事項であったために、自治体と国の責任を暴くことになるから、倒壊は予想しない地域での地震の予想しない震度が原因だったとして、自ら検証の足を縛ったのだろうか。

 今回の
構造計算書偽装問題で、自治体と国の責任に関しては検証せず、民間業者の責任だけを問う姿勢からも疑うことができる構図である。

 だとしたら、
建築確認の民間開放は、自治体が建築確認を続けていた場合は「建築基準法」改正によって倒壊の責任を阪神大震災のような地震の規模に肩代わりできなくなった制約上、民間にも肩代わりさせるための責任転嫁を目的としたものと疑えないことはない。

 このような疑いを程度の低い下司の勘繰りだとするなら、常に性善であったわけではない建築の実態を常に客観的に認識し、把握し続けなければならないのに、そのことを無視して、民間業者の性善に頼るだけの、それがなければ有効に機能しない
民間建築確認制度「中間検査」制度を法律として何のために設けたのかと言うことになる。 
 
 となると、
国土交通省の「これまで建築確認制度は性善説で運用してきた」とすること自体、誤魔化しの自己免罪でしかないことがより明らかとなる。

 日本人は常に性善でもないのに、なぜこうも広範囲にぬけぬけと
日本人「性善説」が罷り通っているのだろうか。国政を預る政治家をざっと眺めただけで、あるいは日本の官僚の生態を一渡りするまでもなく、日本人「性善説」がマヤカシの綺麗事でしかないと分かるはずなのに、それでも日本人「性善説」はしぶとく根を張って信じられている。

 日本の政治家のいい加減さを見るだけで、
日本人「性善説」は眉唾と見ないわけにはいかないと主張すると、戦後日本人は西欧化して変ったからだという反論に出会うことがある。元々の日本人は清廉潔白だったが、戦後毒されて変ったのだと、いわば戦後罪悪説を唱える。

 現在も
学習院大学教授を務めているのかどうか知らないし、知りたくもないが、大石慎三郎なる男は、「江戸時代というのは上から下まで、儒教を使って作り上げた一種の倫理社会」だったが、「戦後の日本はまったくの無倫理社会」だと、同じように戦後罪悪説を唱えて日本人「性善説」を間接的に擁護していた。

 これは戦前は
日本人「性善説」は成り立っていたが、戦後は成り立たなくなったことを言っているはずだが、そのことに関係なしに、戦後の日本で日本人「性善説」は横行している。その不適切さを問い質したときだけ、戦後の変化を言う。これはご都合主義以外の何ものでもないが、気づきさえもしない。

 
大石慎三郎の江戸時代は「一種の倫理社会」だったという主張に反して、百姓相手の年貢徴収に関わる代官等の情け容赦のない不正 な役得行為は記録として多く残されており、また、将軍の推挙を条件としている朝廷が任ずる官位を得るために、その推挙の口添えを願って老中といった要職者にワイロを贈って覚えをよくすることが慣習化していたことなどを考えると、とても「一種の倫理社会」だとする日本人「性善説」は客観的認識能力を欠いた買いかぶりにしか思えない。

 また、日本の敗戦を受けて、
旧大日本帝国軍隊の軍関係者及び軍属による軍需物資の隠匿を見ただけでも、敗戦後西欧化されて日本人は変ったとする戦後罪悪説は怪しくなる。

 
NHKテレビ『敗戦、そのとき日本人は』と題して1998年に放送している。

 
「本土決戦に備えて蓄えられていた軍需物資はアメリカ軍の調査によれば、全部で2400億円にのぼる。敗戦と同時に放出された軍需物資をめぐる不正は内務省に報告されている。軍やその関係者が物資を隠匿・流用していた。東京の陸軍の工場では、ダイヤモンドが2億4000万円程度紛失した。滋賀県では、特攻隊員が特攻機に物資を満載し、自宅に運んだあと、機体を焼却。不正に流失した軍需物資は闇市に溢れた――」

 表面に現れた事実関係は氷山の一角に過ぎないだろう。大なり小なりの軍人・軍属が敗戦の混乱を利用して、立場上可能な
物資の隠匿・流用を働いたことは想像に難くない。

 戦争中の
「勝つまでは欲しがりません」と言っていた物資不足時代でも、お互いの生活困窮を無視して、生活物資の横流しが可能な立場にいた者はこぞって役得行為に走り、不正取得に与っていたのである。

 それにしても
天皇の兵隊として規律を重んじたはずの帝国軍人とその関係者が西欧化する暇もない敗戦と同時に行った隠匿・流用2400億円に上るとは、驚きの日本人「性善説」である。昭和20年12月時点で米10Kが6円だというから、現在5000円としても、2400億円の833倍、現在の貨幣価値に換算すると、200兆円近くのネコババである。

 かつて欧米社会で
児童虐待問題がクローズアップされたとき、日本の学者・教育者はこぞって、「日本には児童虐待は存在しない、欧米に特有の問題だ」とした。

 このことは結果的に日本の親は子育てに関して優秀だとする、
日本人「性善説」にもつながる 優越性を導き出す主張となったに違いない。しかしその主張は一時の安息を得ただけで、児童虐待が社会の表面に現れ、問題化していった。 

 日本社会に於いて、以前は
児童虐待は存在しなかったが、犯罪の欧米化・凶悪化が児童虐待にまで及んだと言うことだろうか。それとも元々存在していたが、人目につかない隠れた場所で行われていただけのことで、建築確認で構造計算書が偽造される場合もあり得ることを認識することができなかった無考えに犯されていたように、学者や教育者がその可能性を推察することができなかったと言うことだろうか。

 
児童虐待のパターンの一つとして、再婚した、あるいは同棲中の若い女の連れ子に言うことを聞かない、なつかない、あるいは泣いてばかりでうるさいと若い夫、あるいは若い男の愛人が暴力を振るい、死に至らしめる、いわば継子いじめの形を取った児童虐待が存在する。

 
継子いじめは今に始まった現象ではなく、物語の形で平安時代から存在する。とすると、両端の時代を除いて、断絶していたと取るのは不自然に過ぎ、遠い過去から現在につがっている継子いじめの風景として把えた方が、人間の姿からしても、遙かに自然であろう。

 だとしたら、学者や教育者が
「日本には児童虐待は存在しない、欧米に特有の問題だ」としたのは、人間の姿に対する客観的認識能力の欠如がもたらしたに過ぎない日本人「性善説」以外の何ものでもないということになる。

 日本人は常に性善で行動しているわけではない。社会的な肩書きに関係なしに他人種と同じく、状況に応じて、間違いも誤魔化しも、さらに犯罪も犯す生きものである。

 にも関わらず、かつて日本は
「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ユキ)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」としてきた。いわば日本民族優越意識である。その意識に乗って、勝てるはずもない戦争を仕掛け、手痛い敗北を受けた。

 
日本民族優越意識がアメリカと日本の国力の格差を客観的に認識する目をくらませたことからの無謀な戦争だったに違いない。

 敗戦によって、
日本民族優越性の化けの皮が剥がされた。客観的に認識する目を回復したはずである。

 にも関わらず、現在の日本で、人間の現実的な姿を客観的に認識し得ずに、
日本人「性善説」を罷り通らせている。かつて優越的ではないのに、優越的だとし、現在、性善でもないのに性善とする。両者はまるで客観的な認識とは無縁の独善的な自尊意識でつながった同じ人間の生まれ変わりみたいな姿を取っている。

 とすると、
日本民族優越意識が日本人の意識の底に暗流となって戦後も脈々と生きづき、よりソフトな日本人「性善説」に姿を変えて、この世に現れていると言うことだろうか。

 その上、自分の職掌に関わってくる他人の悪事を
日本人「性善説」で無化・回避して、見抜けなかった責任を自己免罪する方便にも利用する。何という巧妙さであろう。

 
日本民族優越意識からも、日本人「性善説」からも、そろそろ目を覚ます時期に来ているのではないだろうか。

 
万世一系を理由として日本の歴史と天皇を尊いとする天皇主義者には受入れ難い選択ではあろうが。