「市民ひとりひとり」   教育を語る ひとりひとり 政治を社会語る そんな世の中になろう              

        第125弾      愚かなアラファト
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 『喜劇・総理の女』

(1)

 広間のシャンデリアがひしめく男女を華やかに映し出している。総選挙が終わったばかりだというのに民自党大物の資金集めパーティが今夜の大帝国ホテル一番のイベントである。選挙で手元のカネが底をついて落着かないから、使った分取戻そうとしているのだろうと専らの噂だ。 主賓席の馬鹿でかい金屏風が山吹色の小判みたいにキンキラキンに輝いている。

 残暑厳しい季節だが、政局は表面的には穏やかな秋の陽気で推移している。
 総選挙を大勝利で終えた国民的人気の神酒首相が官房長官と共に現れると、入り口周辺で拍手が起こった。軽く手を挙げるいつものポーズを繰返して来客の間を大物が陣取る金屏風に向かって進んでいくと、拍手が波のように纏わりついていった。大物はそっぽを向いて、あからさまに苦々しい顔を作った。


 五五歳。婦人たちが挨拶するために次々と近づいてくる。首相は笑顔で握手していく。若い女性には左手まで添えて特に愛想よくした。胸から腰までの素早い盗み見は忘れない。思いを込めたような視線を向けられて、感激のあまり顔を赤くする婦人もいた。主役は大物に取って代わっていた。


 自分の挨拶の順番が来るのを待っていたテレビで売れっ子の高柳慎次郎T大教授がその美しい怜子夫人と共に前に出て、首相と握手した。四六歳。政府の経済財政諮問会議の民間議員や首相の私的諮問会議のメンバーを務めていて、首相お気に入りの学者であった。首相と同じく細身で、スタイル抜群、妻子持ち同士でありながら、女性に人気があるところは首相と優劣がつけ難かった。

 夫人は九歳年下の三七歳女盛り。経済界の大物の娘で、良妻賢母の誉れ高かった。

「相変わらずお美しい」
 首相が夫人に真面目顔で言った。 
「嫌ですわ。総理の奥様には適いません」
「結婚するなら、少なくとも十歳前後は年下の女性とすべきだな。同じ年だと、老化競争では女の方が先を走る。その分女らしさを失って男に近づいていく。ある日隣に寝ていたのが男だと突然気づく」

 首相は自分で大笑いしたが、夫人は笑うこともできずに困った顔になった。高柳は首相が怜子に顔を向けているのをいいことに口端に冷笑を浮かべた。そして何気ないふうに遠くに視線をむけると、「ああ」と言って手を上げた。

「私の教え子が来ている。参考になるからと誘ったんです。紹介します」

 高柳の視線の方向に顔を向けた首相は驚いた表情になっていた。首相や高柳らの輪から離れてその様子を見守っていた飯尾伸介は近づいてくる教え子を見ながら、電気を走らせたなと思った。誰にも気づかれなければいいがと気遣わなければならない程に総理の口がだらしなく開いている。

 まだ若い、薄いピンクのロングドレスを無駄なく包んだ女の周囲が桜色に染まったように輝いた。背がすらっと高く、胸が政治家のパーティには不釣合いに大きかった。

「私の大学時代の教え子で、外資系金融機関に勤めている米倉ルミ君です」一緒にいた男性を紹介して、「こちらは婚約者の杉村君」

 飯尾は背後で聞いていて、高柳が男を名字だけで紹介したことに気づいた。
「いやぁ、世の中にこんな美人もいるんだ」

 飯尾は総理が冗談のように言ったが、目は真剣にルミの顔を凝視且つ品定めしているのを見逃さなかった。それが証拠に握手した手をなかなか離さない。ルミが落着かなげな様子を手に伝えて、やっと気づいて手を離した。総理の病気が始まる厭な予感がした。

「ちょっと失礼して、トイレに行ってくる」

 ルミと婚約者が輪から離れるとすぐに首相が言った。それは離れて立つ飯尾に聞かせる声の高さであった。飯尾は総理に同行するSPの後をつけた。トイレの前で一緒に入ろうとしたSPを遮って、飯島一人だけが首相と中に入った。SPは飯島が何者か知っていた 。ライフル射撃でオリンピックに出場したこともある警視庁出向の元刑事課長。四三歳。

「凄い美人じゃないか。君も見ただろ?」
「一応美人の部類には入ると思います」
「スタイルも最高。バストも最高。但し底上げなしのナマ乳だったならの話だ。あのドレスは胸を隠し過ぎている」

 飯尾が折角総理の逸る気持を抑えようと冷淡に応じたのも役に立たず、いつもの病気にインフルエンザの猛威で取り憑かれてしまったようだった。

「少し割り引いたとしてもEカップと言ったところだろう。一度はやってみたい女であることに変りはない」
「そうですか」
「男の中の男こそが、女の中の女を求める」

 隣り合って便器に向かっていた。こんなとき総理のナニがどんな逸物かちょっと覗いてみたくなる。天下の総理大臣である。さすがと思わせる一品だとは思うが、全然たいしたことがなくて失望した場合のことを考えると怖くて覗けなかった。

「婚約者がいるんですよ」
「結婚しているわけではない。あの女には不釣り合いな風采だった。まだ間に合う、ふさわしい男というものを教えてやる」

 いつものことだが、これでは村の若い女を見初めて人身御供を無理矢理命じる封建時代の領主様がこの世に現れた図だ。

「例えできちゃった結婚が間近い状況下にあろうと、大抵の男が糸目をつけないカネと高い地位を交換条件に腹の子供まで譲る」

 カネと地位の力に対するこの自信──日本国総理大臣にまで登りつめた男の言うことだから、感心するしかなかった。

「早急に二人の状況を調べてくれ。国家安全を図る上での緊急を要する重大な政府命令だと思ってくれたまえ。三日以内だ」

 女のこととなると、決まって三日以内だった。内心はまたかとしんどくなったが、首相の私的なヤバイことを受け持つ隠れ秘書官の身である。

「三日以内の緊急を要する重大な政府命令と心得て、最善の努力を尽くします」
「努力ではない。最善の結果あるのみ。国民は最善の結果しか望まない」

 これも儀式となっているやりとりだった。一度注意されないために「最善の努力」を抜かして、「最善の結果を求めるよう努力します」と言ったら、途端に厭な顔をされた。政治家の誰もが「国民」なる言葉を枕詞に好んで使う。使うチャンスを奪った飯尾の合理的に過ぎた失態だった。

「カネはいくらかかっても構わん」

 そりゃそうだ。自分の懐が痛むわけでもない内閣官房機密費から出るのだから。女のこととなったら、億のカネだって出しかねない。尤も飯尾の報酬も機密費から月々百万円ずつ出ていた。経費を水増しすれば、百五十から二百は手にすることができる。

(二)

 飯尾は会場に戻ると、内緒で米倉ルミと杉村をデジカメ写真で撮った。九時半にパーティ会場を出た二人を尾行した。男が運転するスポーツタイプのベンツMクラス。丸の内から皇居内堀通りを北上して二四六号線に入った。あまりの安全運転に距離がうまく保てなくて飯尾は苛々した。クラクションを鳴らしてもっとスピードを上げろとまくし立ててやりたくなったが、尾行している車をまくし立てるのは前代未聞のことだとこらえた。

 三軒茶屋で細い曲がりくねった路地に入り、ベンツを乗り入れるにはふさわしくない古い木造アパートの前で停まった。左右のドアが開き女と男が降りた。男はそのままアパートの外階段に向かい、女は車の後をまわって運転席に乗り込んだ。ただ送っていっただけで抱き合いもせず、手を上げ合うこともせずに無言劇のように二つの影が動いたのみで、飯尾の頭が混乱した。曙荘の看板が建物の角に取付けてあった 。

 驚いたことに、急に怒り出したみたいにベンツはスタートからして猛然と走り出した。すれ違うのが困難な狭い道を制限速度を無視して突っ走っていく。今までのノロノロ運転を一気に取戻そうとするかのようだった。飯尾が二四六号線に戻ったとき、来た方向にベンツは遙か先を走っていた。車間距離を縮めるために飯尾も滅茶苦茶な運転をしなければならなかった。猛スピードで走る車は振り切られない限り一台だけスピードが違うから、離れていても特定しやすい。

 スピード狂なのか、パーティ会場の楚々とした雰囲気からは想像もできなかったが、ますますスピードを上げ、右に左に車線を変えて前の車を追い抜いていく。渋谷駅の先で青山通りに入ると、青山一丁目の通りに面した二十数階はある大きなマンションの地下にタイヤをきしらせて入っていった。

 シルダリア青山──マンションの名前を目に記憶して、調査会社を経営している西川正義が住む目黒のマンションに向かった。訪ねることはパーティ会場を出たときに携帯で知らせてある。

 ヤバイ仕事も厭わない調査会社の経営者が正義なる漢字を下の名前にしてマサヨシと読ませいることの逆説は何を意味しているのだろうかと考えることがあった。六○になるのに、三年前に再婚した女房と別れたばかりで新宿でホステスをしている若い女と同棲していた。女が結婚を求めれば結婚して、求めなければ同棲の形で過ごす。そんな関係を大事にすればいいのに、別の女との浮気が舞台の入退場よろしく、登場人物を頻繁に入れ替えることとなっていた。

 飯尾は西川にデジカメのメモリーカードを渡して、「そこに写っている女と男の素性一切を調査してくれ。二人は婚約者同士だ」

 二人の名前を訓読みで伝え、二人が住いとしているマンションとアパートの名前と大体の住所を教えた。西川はプリンターの電源を入れて、カードをスロットに差込んだ。

「生理日も?」
「催眠術でも掛けない限り、三日じゃあ無理だろう」
「今度もまた三日以内か?何でそんなに急ぐんだ?」
「急がせる男がいるからさ」
「一度顔を見てみたい」
 ときどきテレビに出ていると言いたくなったが、勿論言わなかった。
「カネは心配するな」
「気前のいい男だってことは十分に理解できる」

 自分の懐が痛むわけではない国家予算から引き出すのだから、飯尾にしても気前よくなれた。他人のカネで気前よくなれない政治家・官僚は日本では一人としていないだろう。

 一枚余分に印刷させてジャケットの内ポケットに入れた。確かにいい女だった。知的な顔立ちで、品があった。総理が手を出さなければ、飯島が手を出したいところだった。但し車の運転の仕方と高柳教授が杉村を名字だけしか紹介しなかったことが疑問に残った。なぜか強い酒をしたたかに飲みたくなった。

(三)

 三日かからなかった。二日後の夕方七時に西川のマンションに近い恵比寿のコンビニ駐車場で待ち合わせた。西川が自分の車を降りて飯尾の車に移った。せしめたルミの写真は飯尾のマンションの居間の飾り戸棚に写真立てに入れて飾ってある。一緒に生活するのが億劫で、一度も結婚したことがなかった。多くは水商売の客となって、そこの女と付き合うといったことを繰返してきた。

「杉村和夫、奴は婚約者ではない。ちっぽけな会計事務所に会計士として勤めている」
中島が大型の封筒から調査報告書を出しながら、いきなり言った。
「女の婚約者だと紹介した」
「調査依頼があった次の日の夕方、米倉ルミの部屋に男が来て一晩泊まっていった」
「婚約者でもない杉村がか?」
「違う男だ」ニヤリとして、焦らすふうに飯尾の顔を見た。「杉村には肉体関係のあるたいした女でもないガールフレンドがいる。同じ会計事務所の事務員で、婚約しているそうだ」
「二重婚約ってこともある」
「それはない。泊っていった男はテレビによく出るT大教授で経済評論家の高柳慎次郎」
 信じることができなくて、飯尾は相手の顔をまじまじと見た。
「二人こそ似合いの不倫カップルだ。ふさわしい男と女の関係というものがある。杉村とでは月とスッポン、婚約者だなんて、あり得ない」
「じゃあなぜ高柳は婚約者だと紹介したのだろう?」
「紹介したのは高柳なのか?」
「そうか──」総理にと言いそうになって急いで飲み込んだ。「一緒に来ていた自分の女房に紹介したんだ。特定の男がいるんだよというサインだった」
「ダミーだったてことか?」
「もしかしたら気づかれているんじゃないかと疑って、自分の方から先手を打った」
「念のために十年前の卒業名簿を調べてみた。米倉ルミは高柳教授の教え子だ」
「大学生の頃からの関係だということもあり得るわけだな?」
「卒業してからということもあり得る」

 調査対象でしかないから、物でも扱うように冷静でいられるのだろう。大学生の頃からだったら、ショックのあまり顔を真っ赤にして嫉妬と怒りで猛り狂う、以前にもあった総理の様子が思い浮かんだ。二十歳前後の女子大生が教授である男にまだ瑞々しい身体を大胆に開き、快感で悶える──そんなシーンが頭に思い浮かんだ途端に、なぜか穏やかな気持でいられなくなった。居間に飾った写真を破り捨てる自分を思い描いていた。

 許せない気持も手伝って、高柳とルミの関係がいつ頃から始まったか引き続いて調査してくれと頼んで、駐車場から出て首相官邸に向かった。一ヶ月や二ヶ月前からならまだしも、女子大時代、それも二十歳前の未成年の頃からだったなら──日本の風紀はどうなってるんだ。怒りがこみ上げてきた。

(四)

 八時近かったが、前以て携帯で知らせてあった。

「あの若い男と完璧にいい関係となっているのか?」

 執務室に入った途端、総理の椅子に座ったままいきなり聞いた。もうそうと決めていて、声に怒りを含んでいた。たった二日待たせただけなのに、悶々と過ごしたのか、頬が少しこけた感じがした。もし妊娠していたなら、腹の子供まで譲り受けるといった意気込みはどこかに置き忘れてしまったらしい。

「報告書です。この二日間、米倉ルミと杉村は一度も会っていません」
「新婚初夜まで大事に取っておくという今時珍しい心がけの持主だとでも?朱鷺の姿を見かけるよりも珍しくなっているという話じゃないか」
「だとしたらいいのですが、別の男が浮かんできました。杉村はどうも婚約者ではないようです」

 報告書に目を落としていた首相が、「何だって、高柳慎次郎?なぜ高柳なんだ?俺の諮問会議のメンバーにしてやってる男じゃないか。経済財政諮問会議の民間議員にもしてやっている」

 米倉ルミの明りのついたマンションの玄関とルミの部屋に顔を俯かせてこっそりと入っていく写真と部屋から出てくる写真が各二枚ずつ、それぞれに昨日と今朝の日付と時間が入っていた。

「彼女のマンションです。大学の教授と教え子の関係にあった二人は現在愛人関係にあるようです」
「あの野郎、いい思いしてやがって──。いつからだ?大学時代からだなんて、許せない。いつからとは書いてないじゃないか」
「継続して調査するように指示しておきました」
「大学時代から手をつけていたとしたら──」怒りのあまり、すぐには次の言葉が出てこないようだった。「とんでもない話だ」

 血がのぼって、顔が心なしむくんだように膨らんだ。血圧が上がりすぎて、脳溢血でも起さなければいいがと心配になった。


「最近だったなら、許せますか?」
「俺の気が済むように報告書を偽造する気かね、君?」


 関係回数も関係年数も少ない方が許せるに決まっている。「正直に報告します」と言ったが、偽造を決め込んでいた。飯尾にしても、少ないことを祈っていた。


「一切のメンバーから外してやる」
「女絡みの解任だと分かったなら、マスコミにあることないこと詮索させることになって、ヤブヘビになりませんか?」
 両手を胸に近づけて、身体を震わしウッーと唸った。
「構わん。俺の指示だと分からんように何が何でも二人を別れさせろ。何枚も密会写真を撮って、女房に知らせ、マスコミに流せ。破滅させてやる。隠しカメラを使って、ベッドで二人がやっている写真を撮りまくれ」
「教授を破滅させることができたとしても、日本の最高学府であるT大教授でもあり、各種諮問会議メンバーでもあり、売れっ子の経済評論家でもあり、女性に人気のワイドショー番組の常連タレントでもある妻子ある高柳慎次郎と外資系金融機関の優秀な社員で大学時代の元教え子の美人で三二歳まで未婚の米倉ルミとの不倫となったなら、マスコミにとっては最高の餌食です。骨までしゃぶるためにハイエナのように纏わりついてネタ褪せしないよう時間と日数を掛けて虚実取り混ぜた噂を二人を裸にしてしまうまでに洗いざらぶちまけることになるでしょう。その間誰も、総理にしても近づくことはできません。下手に近づいて写真の一枚も撮られたなら、関係者の一人に仕立てられないとも限りません」
「一度も愉しんでいないのに、関係者の一人だと?」椅子から立ち上がってテーブルを両手でドンと叩いた「どうしたらいいんだ?」
「米倉ルミは三二歳になるのに結婚せずに不倫関係を選択した。と言うことは、もし高柳と別れたなら、他の男とも不倫関係を選択する可能性があると言うことです」
 無理にこじつけた理屈だが、総理は気づかずにぱっと目を輝かして飛びついた。
「そうだ、その通りだ」
 現金なもので、関係が確実に結べると決めてかかった顔になっていた。
「いい手があります。必ず二人を別れさせて、日本という国を動かす国家的な役目からしても、役目上のスマートさからしても、カネの有効な使い方からしても高柳教授と比べたなら二枚も三枚も上手の総理を新たな大人の恋愛対象に選択させるよう、手配します」
 さすがに「不倫相手に」とは言えなかった。

(五)

テレビでお馴染みとなっている高名な学者に飛び切りの美人、二人きりで外で酒を飲んだり食事したりするのは常に露見の危険がつき纏う。簡単に海外に出かける時代である。飯尾が出入国管理局に調べさせたら、同じ日に出国と帰国を繰返している。ほぼ定期的に月に二度隔週で、しかも週の中間の水曜と木曜の二日間が利用日だ。

 ルミはフレキシブルタイム出勤で、勤務日を自由に選ぶことができる。週末・祭日に集中する日本人観光客の目を逃れるためであり、ホテルで一晩いつもとは異なる異国の雰囲気を薬味にセックスを心ゆくまで堪能するためだろう。高柳に身体を開いている全裸のルミの姿が浮かび、飯尾はチクショーと言って急いで振り払った。総理ではないが、飯尾も許せない気持が次第に募っていた。


 西川に命じてどこの旅行会社で航空チケットを予約しているか調べさせた。二人は別々の旅行会社にインターネットで予約していた。後は簡単、カネを掴ませて次回の予約を漏洩させる。優先させるべきは常に国家機密だ。

 二人が予約したのは九月の最終週の火曜日、羽田発深夜便のタイのバンコク経由プーケット島で、ホテルの予約込みであった。行先さえ分かれば、現地のホテルで待伏せすればいい。総理に計画を話して機密費から資金を調達した。総理は何日か獲物にありつけない苛ついたライオンの目をしていた。

良家の大学生を十人アルバイトに雇った。高級外車のスポーツカーを乗り回している連中だ。親にカネを出して貰って働かなくてもいい身分を最大限に愉しいことに活用している。飯尾はそれぞれの目的に応じて利用できる大学生をリストアップして、パソコンにデーター化していた。時間に縛られていない大学生はいつでも自由にピックアップできた。

 十人には貸衣装屋から調達した揃いの衣装を着せた。同じ揃いだが、飯尾は自前のイタリア製の最高級品だ。黒のソフトに黒のスーツ、黒のシャツに黒のネクタイ、それに黒のミラーグラス。完璧にその筋スタイルだ。

 最近の日本では流行らないことは承知していたが、威しには有効なジャパニーズやくざスタイルであることに変りはなかった。

 飯尾は大学生たちと火曜日の夕方にバンコクに着き、その夜は買春で何度か利用したことのあるホテルに宿泊して、学生たちにもタイ女性の大盤振舞いをした。彼らの元気づいたこと、昔から買収・懐柔には女にカネと相場は決まっている。

 高柳とルミが現地のリゾートホテルに到着したのは朝十時近くだった。時差が二時間ある。二人共サングラスを掛け、日除け用の帽子を目深にかぶっていた。
 部屋に入ったきり、なかなか出てこない。飯尾はこういった場合の自分のケースを考えてみた。やっと二人きりになれた。当然誰憚ることなくお互いに相手を激しく求める行為に出る。そのために時間がかかっているのだ、当り前じゃないか。

 ドアを蹴破って部屋に押入り、あられもない姿を写真に撮って、威して別れれさせるシーンが頭に浮かんだが、ホテルの人間に気づかれて警察沙汰になったら、元も子もない。 一時過ぎになって、二人はルームサービスで昼食を取った。昼飯の時間も考えずに我を忘れていたのだ。気がついたら、くたくたに
疲れて、腹を空かしていた──。飯尾は大学生たちが何をそんなに苛々しているのだろうと怪訝な目を向けているが分かっていて抑えることができなかった。自分でも何でなのか理解できなかった。セックスなんて、誰でもやっていることではないか。

 食事に一時間かけたとしても、二時を過ぎても姿を見せない。きっと食後の昼寝をしているのだ。腹一杯食べて力が回復してもう一番などといったことは考えたくもなかった。

 三時を過ぎてやっと部屋を出てきた。サングラスを掛けていても、腹立たしいことに満ち足りた顔となっているのは見て取れた。

 バルコニーを降りて波打ち方向に歩いていく。二人が降りていった場所まで出て、飯尾は双眼鏡で跡を追った。高柳はアロハに白の短パン、ルミはTシャツに同じ短パン。相変わらず帽子を目深にかぶっている。胸の膨らみと言い、白い腕と言い、剥き出しになった太腿の白さと言い、目に眩し過ぎた。双眼鏡を通して飯尾の目を釘付けにしている股の間と間近に地続をなす太腿はもはや男の欲望を刺激して止まないナマの肉としか見えない。

 昨夜タイ女を散々愉しんだというのに、飯尾は我慢が効かなくなっていた。学生たちが双眼鏡を覗きたそうな顔を向けたが、「目に毒だ」と一蹴した。

 総理に計画を話したとき、演じる身の苦労も考えずに「手段を選ばない成功程喜びは大きい」だった。収穫だけ手に入れる身の気楽さがそのとき程羨ましく感じたことはなかった。

 波打ち際近くのパラソル付きの寝椅子に並んで身体を半起しに仰向かせた。周囲に人影のない場所を選んだのだろう、伸ばした手を握り合った。ルミの年齢ならまだしも、高柳がそうするにはキザに思えて思わず舌打ちが出た。それを邪魔するつもりで身体が動いたようだった。

 背後から近づく形でゆっくりと歩いていった。二人ともサングラスを外して何かにこやかに談笑している。手の感触を通してお互い の気持を高め合い部屋に戻ってもう一度――そんなことは許すもんか。総理が改革反対派に挑戦状を突きつけたときの顔が思い浮んで百倍に勇気づけられていた。

「日本の方でいらっしゃいますか?」 
 頭の方から覗いていきなり言うと、二人はビクッと顔を仰向かせた。驚いて当り前、いきなりジャパニーズやくざスタイルを見せつけられて、日本語で話しかけれたのだから。

「ええ、まあ。あなたは?」
 心なしうろたえ声になっていた。テレビに出る有名人だと知る機会の少ない人種を装うことによって親密さを期待不可能にする。高柳はルミの手をそっと離した。ルミは何者だといった様子で飯尾をまともに見上げた。高柳だけが顔を背けるふうにした。そうする理由が高柳の方により多くあるからだろう。
「私も日本の方です」わざと「方」をつけた。飯尾は大学生の一人に顎をしゃくって、手筈とおり寝椅子を持ってこさせて、二人の足許に横に置かせた。「ここに坐っても宜しいでしょうか?」
「構いませんが・・・」
 曖昧な困惑の表情となった。
「では失礼させて頂きます」

 バカ丁寧にすることで相手に未知の魂胆を感じ取らせて恐怖を植え付ける。若い十人の黒ずくめの男たちが立ったまま飯尾の背後からいやでも目に入る形で半円に囲んだ。

「こういう者です。お近づきの印に」
 名刺を差出すとすぐには受取らなかった。差出したままでいると、ためらってから手を出した。
「あなたにも一枚」
 立ち上がって、ルミの顔の前に突き出した。ルミは睨みつけるような視線を向けたままで受取った。顔の下に気の強さを隠している。そんな感じがした。

 名詞の中央上部に菱形に山鼻の文字が入った日本最大の広域暴力団山鼻組の代紋が金地で印刷してある。花田興業専務取締役古賀タロー、すべて実在だ。ちょいと拝借してきた。裏の世界ともつながっていなければ、日本の総理大臣の私的な用事を要求通りにこなすことはできない。


「至ってケチな野郎でござんす」時代劇であるまいしと思いながら、ニヤリと効果的に笑ってみせる。「で、お宅さんたちは?」
 高柳はルミにチラッと顔を向けた。
「遠い他国の空で出会ったのも何かの縁。しばし、雑談のお相手でも」
「あいにくと名詞はホテルの部屋に置きっぱなしにしてきてしまった・・・」
「あなたもですか?」ねっとりと迫るふうにルミに聞いた。飯尾の悪い癖が出た。困らせて愉しむ。
「ええ・・・」
 迷惑だといった顔を隠さなかった。
「では、自己紹介で結構です」

 名乗った河島穣治に河島啓子は既にホテルのカウンターで調査済みの名前だ。職業を聞き、「ご夫婦ですか?」と聞いて、「そうです」、つきたくもない嘘を並べさせる。どちらにお住まいです?高柳は後ろめたい身だから遮ることもできずに魔法にかかったみたいにウソの答えを重ねていった。

「仲が睦まじいようで、羨ましいですねぇ。仲睦まじければ、誰も裏切らずに済む。誰にも迷惑が掛からない。そこへいくと、あっしなんか、不倫はする、外国に行けば、外国の女を買う。女房は裏切るは、日本人の評判は落とすはで、いつかは地獄へ落とされるんだろうなぁ」

 最後は胸に手を当て、飛び切りのしみじみとした口調になってみせた。アーメン。するつもりもなかったのに、胸で十字を切っていた。真似しなければならないと思い込んだのか、学生たちが同じように十字を切った。にやにや笑っている。バカな、やっぱり人生経験が足りない。真実クリスチャンみたいな真面目腐った顔をしなければ、芝居だとバレバレではないか。

「 外国の観光地で日本人が日本人に出会うのは珍しいことでも何でもないですが、お二方の仲睦まじさを老後の参考にしたいと思います。記念写真を撮らせて戴きませんか?」
「いや、それは──」
「だめですか?」
 高柳は急いで外していたサングラスをかけた。ルミは高柳を見たが、サングラスは掛けなかった。
「何か顔を隠さなければならない理由があるのですか?」
 飯尾は首にかけていた双眼鏡を目に当て、間近から高柳の顔を覗いた。そのままじっとしていると、「理由なんかありません」

 サングラスを取ったが、開き直ったように仰向けた顔がこわばっていた。飯尾は立ち上がると、二人の顔の脇に割り込んで寝椅子の頭の部分に手を突く格好でポーズを取った。その背後にデジカメを持っている一人を覗いて、大学生の全員が横一列に並んだ。

「確か暴力団の組長と一緒に撮った写真が週刊誌に暴露掲載されて官房長官だかの椅子を棒に振った政治家がいたが、最近過去に何もなかったかのように逞しいばかりのイエスキリストの復活を成し遂げている。その筋の者との写真の一枚二枚、どうってことないですよ」

 写真を撮る段になって、高柳が頬杖を突く形で顔を隠そうとした。ルミは高柳に迷惑がかかるのを恐れてか、同じポーズで顔を隠した。写真の出来栄えなどどうでもいいのに。

「これで部屋に飾る写真を増やすことができた。自宅ではありません、組事務所に飾るんです」高柳は驚いた顔になった。「交番の窓ガラスの指名手配写真にするわけではありませんから」
 愉快そうに笑って見せると、高柳は自分も無理に笑おうとしたようだが、とても売れっ子の学者には見えない顔になっていた。

    (六)

 ルミに「そろそろ部屋に戻ろか?」
高柳がそう言って立ち上がると、ルミが続いて立ち上がった。
「一緒に戻りましょう」

 飯尾は二人の間に割り込んで、その歩調に合わせた。ルミの手を握りたくなって、何度も左手が伸びかかった。

「我々が宿泊しているホテルに何人泊っているか分からないですが、男と女連れの中で自分の妻ではなく、あるいは逆に夫ではなく、愛人関係でしかない男女がどれくらいいるのでしょうかねえ」
「ちゃんとした夫婦もいるはずです」
「愛人と秘密の関係を続けながら、世間に向けに妻を愛し、子供を愛する円満な家庭の善良な社会人を演じている男もいるはずです」
「ええ。それは・・・」
 高柳は手に持っていたサングラスを何気ないふうにかけた。
「我慢ならないんです。あっしは道徳観念のないやくざモンですから我慢して貰うとして、カタギの素人衆でありながら、妻は夫を愛し、夫は妻を愛する日本の風紀を顧みず、外国に来てまで乱す男と女が多すぎる。夫婦だと名乗っていても、愛人同士でないかと疑ってしまうんです」
「私たちは正真正銘の夫婦です。放っておいてください」
「胸を張って、そうだと誓えますか?」
「胸を張るも張らないも、正真正銘の夫婦であることに変りはないですから」

 飯尾に目の表情がサングラスに隠れて分からない顔を向けた。飯尾もミラーグラスの顔を殊更に向けた。
「よくある政治家のウソで片付けるつもりじゃないでしょうね」
「バカらしい。政治家のウソと一緒にするなんて侮辱も甚だしい。総理大臣にウソをつかれたことはあるが、私自身は一度もついたことはない」
 そんなこと言ってもいいのか。チクるぞ。尤も飯尾もウソをつかれたことがあった。
「俺が今月中旬民自党大物の資金集めパーティに会費なしの無料招待で招かれたとき、あんた方も出席していた」
 アッと言うふうにその場に立ち竦んだ。
「そこではあなた方は夫婦ではなかった。お一方はご夫人を伴い、もうお一方は婚約者だという若い男と一緒だった。調べたところ、婚約者でも何でもなかった。婚約者でもない男を婚約者だと紹介したのは、婚約者だと名乗らせる必要があったから。誰に?」
「あなた方は一体何者です?何の目的があって、我々に近づいたんです?」
「あなたの近くに見え隠れする魅力的な未婚女性には婚約者がいることをご夫人にそれとなく知らせたかった。ダミーでしかない婚約者を使って。天下のT大教授にしてテレビで売れっ子の経済評論家ともあろうお方が──」

 そして若い者に、「さっきのデジカメ、うまく撮れているか?」
「二五枚、すべてバッチシ撮れています」
 例え五枚しか撮ってなくても、前以て決めていたとおりに二五枚とハッタリをかます。
「二五枚も?何が望みなんです?」
「そう来なくては。この世は取引。取引の才能がなければ、カネを持ってたって、宝の持ち腐れだ」ニヤリと笑う。「女を愛人に口説くのも取引。愛人のままで置くのも取引」

 高柳は弱々しく首を振った。ルミは挑戦的な目を向けてきた。そしていきなり言った。
「私がそう望んだのです」
「男にそう仕向ける意識もあった──」
「そんなことはありません」
 きっぱりと否定した。あなたの言っていることは間違いだと目で言っていた。
「相手が望む状態に維持しておくのも、取引の内さ。自分の要求に反して、いつまで経っても本妻と離婚して自分と結婚してくれない男に業を煮やし、相手の男のまだ幼い二人の子供を殺してしまった女がいた。そんなことは心配する必要もなく、結構愉しんだことだろう。男にとっては都合がよかった」
「いいえ、私が望んだ関係です。庇って言っているのではなく、本当のことです」

 食ってかかりそうにさえ思えた。物凄いスピードで走っていくベンツが浮かんだ。飯尾が高柳を見ると、口許に見せていた薄笑いのような表情を何事もないような澄まし顔に取り繕うと、自分だけ歩き出して今までよりも声の調子をいやに低くした淡々とした声で話し出した。
「今回プーケットに来たのは、お別れ旅行の予定だった」
 ルミが驚いて何か抗議しようとするのを遮り、「君にはまだ言ってなかったけど、婚約者まで仕立てたのに妻を完全には騙しきれなかった。そろそろ潮時だと思っていたんだ。君の将来のこともある。自由の身でいた方が選択の幅が大きく取れる。まだ遅くはないから、君の才能を受け継ぐ子供も持つべきだ」

 飯尾は気持のよい笑い声を立て、高柳の言い逃れを褒め称えるべく拍手した。失いたくない今の境遇だからこそ、女の身よりも自分の身がかわいいというわけだ。

「分かった。私も潮時かなって思っていた。ちゃんとした結婚を考えないわけでもなかったし」
 高柳を長いこと見返してから、そのように言った。軽蔑が顔に現れていた。
「よし、決まった。お互いの平和と発展のために」
 飯尾が再び拍手すると、大学生たちが真似して続いた。
「この場逃れの猿芝居だなんてことは困るよ。高柳慎次郎さんには今日中の便で日本に帰って貰おう。米倉ルミさんは明日帰る。帰りの飛行機の中でよりを戻されたら困る」
「前から決めていたことだから、信用して貰いたい」
「これまで散々ウソを重ねてきたんだ。女房にも子供にも世間に対しても。信用しろはないだろう。家に帰って、女房に俺のこれまでの人生を信用しろと言えるのか?」

 なぜか怒りが湧いてきて身体を前に出すと、高柳は口を開けかけたまま押し黙った。

「仲直りの機会を与えないためにも、一人で帰って貰う」
 俺を甘く見るんじゃないぞと腹の中で言っていた。本物のヤクザが乗り移ってしまったようだ。
「最後に一つ教えて貰いたい。妻に頼まれて私たちを別れさせようとしたのかね?」
「守秘義務があって言えない。夫人の父親は経済界の大物だ。そっちの筋からだってこともあるし、経済財政諮問会議のメンバーがスキャンダルを抱えることになっては困ると考える筋からかもしれない。あるいは大学の名誉が傷つけられることを前以て防ごうと考えた関係者がいたということもある」

(七)

 気の強そうなところもあるからカミソリで手首を切るといったことはないだろうが、人間落ち込んだとき衝動的に予想もしない行動に出た事件を何件か扱ってきた。一人にさせて欲しいと言うのを無視して、「まあ、夕食だけでも一緒に」とルミの部屋に大学生たちと押しかけてルームサービスを取った。少しずつ飲ませて、最後は前後不覚になるまで酔わせ朝までぐっすり眠らせる作戦だ。

「いつ頃から教授と親密に?──」
 余程うまく隠していたらしく、西川がいくら調べても、探り出せないでいた。
「関係ないことです」
「二人を知っている人間が大学時代からだと証言している」最悪の場合に備えつつかましたハッタリだった。「事実に反していたなら、君の名誉を傷つける」
「彼との関係が私の名誉。大学に入ってたった三度講義を受けてからだった」
 口の端を歪めて自嘲気味に言った。
「口説きのテクニシャンだったんだ」

 あくまでも高柳を悪者にする。だがまだ瑞々しかったに違いない入学したての若い肉体をモノにしたときの高柳の有頂天を考えると、それが最悪の想像であったとしても羨ましい限りの悪者ぶりであった。

「まだ助教授だったけど、あんな男性に出会ったのは初めてだった。スマートで、セクシーで、タフだった」

 当時を思い出したのか、懐かしく振返る口調になっていた。飯尾は危険を感じて、「そう、逃げ足もスマートだった」

 怖い目で飯尾を睨みつけた。酔いでほんのりと赤くなった顔が却って生き生きした感じを与え、男の欲望をそそった。危ない、危ない。総理の苛立ち待ち焦がれる顔が浮かんだ。

「もう日本のどこかの空港に着いてるんじゃないか。逃げ足早く」
 飯尾が言うと、学生たちが一斉に笑った。
「学生時代、短距離の選手してたかも」

 学生の一人が言ってまた全員で笑った。ルミはワインのグラスを持ったまま突然俯き思い込んだように押し黙った。長年の愛人関係だったのに自分の身かわいさにいきなり別れを言い出して難を逃れていった男の身勝手さをいやでも思い出したとしたら、悪くない展開だ。それとも「スマートで、セクシーで、タフだった」面影を追ったのだろうか。ベッドでタフという意味で言ったとしたら──愛
人関係にあった男を説明するとき、それ以外の意味があるはずがない。それを思い出しているとしたら、穏やかでない気持になった。

「飲みましょう、あんな男のことは忘れて」
 ルミが無理矢理な笑顔を見せてグラスを持上げ、一息に飲み干した。飯尾も忘れて飲もうと誘いかけようとしていたから、「よし飲もう」とすぐさま応じてグラスを干し、ルミの空のグラスにワインをついだ。

 いやという程ワインを浴びて明日二日酔いで頭ががんがんすれば、少なくとも一日はあの男のことは忘れることができる。そのように努力しなければならない原因をつくった飯尾は逆にルミに済まない気持を抱いた。

 学生同士がダンスを踊り、一人がストリップショーを始めた。やくざスタイルの黒服を一枚一枚取って裸になっていくストリップは本邦初公開ではないか。本当にトランクスまで脱いでスッポンポンになり、ペニスをしごいてみせた。ルミは高柳のことを忘れたようにニヤニヤして眺め、ときどきワッと笑い声を立てて拍手したりした。

「あんな男のことは忘れちまえ。教え子のときから愛人にして十年以上も関係を続けていた女をどこの誰とも得体の知れないその筋の者と残して、自分は累が及ばないようにさっさと帰ってしまう。あの男の最後の取引だったんだ」

 焼けぼっくいに火をつけないための念押しのとどめだ。ルミはまた怖い目を見せ、反撥するように顔を背けた。

(八)

 誰もがしたたかに酔った。飯尾は酔いつぶれたルミを寝室に連れて行きベッドに横たわらせた。学生たちは床や椅子に好き勝手に寝転がって鼾をかいていた。飯尾は今まで座っていた肘掛け椅子に身体を窮屈に折り曲げて寝る姿勢を取った。

 何時間経ったろうか、身体が窮屈に感じて姿勢を変えようとした。何かを押しつけられているような圧迫を感じた。目を開けて確かめようとしたが、なかなか開かない。やっとの思いで開けると、霞がかった何か白っぽい物がすぐ目の前にあった。それと一続きの物が身体の上に乗っかっていて、全身に圧迫感を与えている正体だとは分かったが、何かは分からなかった。なおのこと圧迫感から逃れようと思うように動いてくれない身体を動かそうとしているうちに、それは徐々に輪郭をはっきりとさせていった。

 目の前にあったのは触れるばかりに近づいた耳と髪で、顔を斜めにして飯尾の頬に頬をつけているのだと分かった。ルミがガウンらしき衣装を着けたままで飯尾の身体に自分の身体を押しつけていた。

 おい、よせよと言ったが、声にならなかった。ルミの心臓の鼓動が普通ではない音と早さで伝わってきた。飯尾自身の心臓も高鳴っていた。高鳴るに任せてルミの鼓動を自分の鼓動のように受止めていると、いとおしさが湧いてきた。学生たちが近くで寝ているはずだと様子を窺おうとしたが、顔を動かせばルミに気づかれる。目を動かしたけでは何も分からなかった。前後不覚に寝込んでいるのか
、物音一つしない。中には気づいていて耳を澄ませている者もいるかも知れない。ヤバイじゃないか。

 ルミは飯尾の肩に当てていた右手をズボンのベルトに持って行った。始める気か?ダメだ、ダメだ。総理がモノにしないで、俺がモノにしてどうするんだ。
 腰を動かして拒絶の意志を示そうとしたが、口の中だけの抵抗で終わっていた。以前にもしたことがあるのか、片手だけでベルトを外してファスナーをゆっくりと降ろしていく。下着を下げて目的のモノをつまみ出すと、ルミは身体を下にずらしていき、すぼめた唇と舌を使って巧みに先端を擽った。

 よせ、よせ、ダメだ、ダメだ。俺じゃない。やはり必死な抵抗にはならなかった。口の中で呟いたに過ぎなかった。気持とは裏腹に、身体は口に含むままに任せていた。

(九)

 一度堰を切って奔った情熱はお互いに止めようがなかった。帰京後すぐさま報告に上がると総理と約束しておきながら、夜中のホテルに道草して飯尾とルミは激しく求め合った。まさしく暴走するベンツだった。スマートでセクシーでタフという褒め言葉はルミにこそ与えるべきであった。高柳はそれに応えることができた。気持の隅で総理に渡さなければならない女だと自分に言い聞かせながら、抑えることができないままに自分も応えているだろうかと必死に挑んでいた。

 ダブルベッドに裸身を並べて仰向きに横たえ、天井を見上げながら飯尾はルミの肩を抱いていた。ベッドクロースが足許に丸まさっている。ベンツを運転するルミの姿が再び浮かび、今になって猛スピードで走らせる意味を理解していた。高柳はきっと後悔するだろう。だが、もう遅い。

「酔って最悪の男と関係を持てば、忘れることができると思ってしたことだけど」

 うふふと含み笑いした。自分でも予期しない方向にハンドルを取られてしまったと言うことだろう。

「確かに俺は社会のあぶれもんで、高柳みたいにご立派な責任ある社会人でもない。最悪の男から思わぬ発見があったってわけだ?」
「ノーベル賞が取れそうな気分」
 手を股間に伸ばしてきて、改めて誘う動きでいじくり始めた。

 夜中であったが、首相公邸に向かった。
「遅いじゃないか」
 いきなり詰られた。十日程で本会議が始まる。テーブルの上に公邸にまで持ち込んだ報告書やら書類やらが堆く積んだままなのは何も手がつかなかったからだろう。
「奥様は大丈夫ですか?」
「あれは奥様だとしても、もう女じゃない」
 何度聞かされたことか。 
「うまく別れさせることができました」
「おお、そうか」目を輝かせて椅子から立ち上がった。「その格好で撃退したんだな?」

 飯尾はサングラスを外しているだけで、黒ずくめのままだった。
「君なら首尾よく成功させるだろうと最初から信じていた。そこら辺ののらりくらりと逃げの手を打つ官僚とは大違いだからな」
 失敗したら、君はいつからそこら辺の官僚に成り下がったんだと厭味を言うくせに、ケロッと忘れている。

「先ずは乾杯といこう」
 飯尾はダッシュボードからブランデーとグラスを用意した。総理の乾杯と言ってグラスを上げる手の勢いが違っていた。大きく口に含んでごくりと喉に流す勢いも違った。
「待てよ。乾杯していていいのか?折角別れさせても、あれだけの女だ。乾杯している間にも言い寄る男はいくらでもいるはずだ」

 飯尾には否定も肯定もできなかった。男が言い寄らないうちに女の方から言い寄って、抜き差しならない関係が既にでき上がってしまっている。

「肉体の寂しさから次の男を決めてしまったら、元も子もないじゃないか」
「そうですね。元も子もないですね」

 そうとしか答えようがないのに、冷たい言い方ではないかと言いたげな胡散臭い顔をされた。二人の関係を総理が知ったなら、怒り狂って、闇に葬られかねない。どんなことがあって国家機密並みの秘密厳守で通さなければならない。

「次の男がオレなら、構造改革以上の上出来と言うことになる」
「必ず総理を次の男にします」
 飯尾の次という意味だった。
「どのくらいかかる?二日待てばいいか?」 少し考えて、「一週間の余裕は下さい。焦っておかしな具合にしたら、それこそ元も子もなくなります」

 総理に渡すとしても、せめて一週間はルミとの時間を愉しみたかった。
「三日間でどうにかできんか」
 相変わらず女のこととなるとせっかちだ。
「総理以外の虫がつかないように見張っていて、邪魔します」
「本物のやくざみたいだからな。大抵の人間が怖がる。一週間は男の約束だぞ」
「男の約束です。一週間です」
「待つ身は一週間が一年に思える。頭の中で思い浮かべては愛の語らいを交わすことになるだろう。だが、思い浮かべた姿というものは不確かで、手応えがない。せめて写真に写った姿に語りかけたい」
「写真を欲しているのですか?」

 政敵を血も涙もなく蹴落とす男が急にロマンチストを装ったりして、呆れるほかなかった。

「一枚、いや、二枚は欲しいな。水着姿の写真があったなら、なおいいんだが」
「彼女の部屋に忍び込まなければ手に入れることができないものです」
「手段の一つだ」

 人に空き巣をやれと言ってるのと同じだ。「分かりました。気に入る写真が手にはいるかどうか確約はできませんが、なるべく希望にそう方向で努力します」
「ヌード写真だったら、なおいいんだが、無理だろうな」

(十)

 首相公邸からルミのマンションに直行した。離れたがらなかったルミを一時間で訪ねるからと納得させてタクシーでマンションに送り届けたのだった。

 玄関に出迎えたルミは一枚しか着ていないガウンをその場に脱ぎ捨て、素っ裸となって抱きついてきた。飯尾は自分から両手を開いて相手を受止めた。風呂に入ったばかりなのか、石鹸の匂いがした。口を貪り合いながら、飯尾が「ベッドへ」と言うと、「ここで」と首を振って両足を宙に浮かせて飯尾の腰の後ろで交錯させ、抱きつく形となった。ホテルで貪り合ったばかりだと言うのに急いでズボンと下着を降ろすと、ルミの背中を玄関の壁に押しつけ、腰を叩きつけるように猛烈に打ちつけた。ルミが負けじと腰を動かす。飯尾は圧倒されまいと犬が吠えてそうするように攻め立てた。

 ルミがシャワーを浴びにバスルームに消えた隙に飯島はリビングの本棚を漁った。下の引き出しにアルバムを見つけた。まだ若い頃のビキニの水着写真があった。胸の小さな布地から覗いたバストの膨らみが生々しい。悪いポーズではなかった。


 ヌード写真を手に入れてやったなら、総理は涎を垂らしかねない程に有頂天になるに違いない。しかし、ヌード写真はなかった。

 ルミが飯島を呼んだ。
「一緒にシャワー浴びない?」
 危なっかしい予感がした。案の定、シャワーが降り注ぐ水飛沫の下で、既に興奮しかけていたルミに蜘蛛の巣に絡め取られる蛾のように引き寄せられていった。大学教授として教壇に立ちながら、政府の経済財政諮問会議の民間議員で、総理直轄の各種諮問会議のメンバーまでこなし、テレビのワイドショーにも出演している忙しい高柳がよく身体が持ったものだと感心した。「スマートで、セクシーで、タフだった」からこそ十年も続き、さらに続くところを予期しない不測事態が別れを招いた。憎むべき相手だったが、気持に余裕ができたせいか、何となく哀れに思えた。

 朝になって何も着けない裸で胸を揺らし歩きまわっているルミをベッドに寝そべったまま目の保養に眺めているうちに、総理の目の保養にもという気持になった。

「部屋に飾っておきたいんだけど、その姿、写真に撮らせてくれないか?」
「組事務所に飾っておくの?」
 悪戯っぽい目をして、うふふと笑った。忘れていたから、ドキッとした。
「まさか、俺よりもタフな他の男に取られたくない」

 正直な感想だったが、一週間後には総理の手に渡さなければならない。写真だけだったなら、何枚でも渡してやるのに。ヘアも露骨なヌード写真では差し障りがあるだろうと、腰にバスタオルを巻いた写真を別に撮った。

(十一)

 大帝国ホテルの十階に抵抗派の頭目と目されている元総理が事務所を構えている。「引導を渡しに行ってくる」と言っていたがわざわざこちらから出向くのだから、法案を無事通すための承認を得るご機嫌伺いなのだろう。三時に終わると言っていたが、ロビーで四時まで待たされた。

「一時間も待たせやがって」
 エレベーターが開き、総理が降りてくるのを見かけて急いで駆け寄ると、いきなり吐き捨てた。現総理を待たすのはわざとに決まっているから、引導を渡すどころではない力関係が依然と続いている状況をバラすようなものだった。


 駐車場からまわした首相公用車に乗るなり、黙って手を差出した。その手に二枚の写真を載せた。運転手に聞こえるというのに「オウ、オウ」と上げてしまった声を気づいて潜めに潜めた。

「何ていう罪深い写真だ。なおさら待ち遠しくなるじゃないか」腰バスタオルで上半身ヌード写真のことを言った。水着写真には執着を見せず、バストに目を釘付けにしている。

「撮影者は高柳教授以外に考えられません」
 露見するはずもないが、飯尾自身でないことを言い開きしたい気持が働いてしまった。
「あの野郎、そのうち何もかもお払い箱にしてやる。一人いい思いしやがって」

 歯をギリギリさせかねない押殺した声で吐き捨てたあと、急に飯尾の耳に顔を近づけたから、高柳への復讐でも命じるのかと思って耳を傾けた。

「全面ヌード写真はなかったのかね?」
「残念ですが総理、全面ヌード写真はありませんでした」
 女への執着が──と言うよりもスケベ心が高柳への憎悪を長続きさせなかったようだ。
「まあ、いずれ好きなだけ見るんだ。それまでの辛抱だ」

 運転席の椅子の陰に顔を隠すように上体を屈めると、写真のバストにおもむろに口をつけた。それまでの辛抱どころではなく、右のバスト、そして左のバストと交互に何度も口をつける。どんな味がしているのだろうか。

 口づけは満足がいったのか、今度はシャツの上から、そこを我がハートと見立てたのだろう、写真を左の胸に押し当てた。

「早くホンモノにありつきたい。ありつけなかったら、気が狂ってしまうかも知れない」
 一人きりになったとき、なせか股間に押しつけそうな気がした。
「後六日だからな」
飯尾はわずかに残された死刑執行の日を待つ死刑囚のような気分にさせられた。

(十二)

 四日経ち、残された日数は二日となった。プーケット島に連れていった大学生とは別の大学生を十人集めて、その四日間をぶっ通しで作戦会議を開いた。新しい大学生は飯尾の個人的なシンクタンク要員とも言うべき存在だった。前の遊び人大学生と違って、みな頭脳抜群、未来の高柳を拾い出すことはいくらでもできた。一日二万円のアルバイト料と考案した素晴しいアイディアがうまくいった場合の一人頭十万円の成功報酬は勿論のこと官房機密費から捻出される。人を有効に使いこなす最大の武器はカネと女であるが、相手のポジション次第では女は失礼になる場合がある。脂ぎった名誉欲だけの政治家にはカネも女も有効だろうが、世間の目に立派な人と映っている人間に女を世話しようものなら、表面的にはそんな人間ではないと言うだろう。高柳教授にしたって、言うに決まっている。少なくとも最初は。 

 飯尾を加えて練り上げたプランが、山鼻組五代目組長が沖縄の石垣島で一大リゾート基地を建設する計画を立てた。その実行方を花田興業社長に指名した。山鼻組関係の組織内では花田社長は人望もあり、山鼻組次期六代目組長に嘱望されているが、現五代目組長は自分よりもあるその人気に嫉妬して花田社長の存在を苦々しく思っている。計画を任せて失敗したなら、花田社長を蹴落とすことができて、五代目は自分の地位の延長を図ることができる。成功したら成功したで、このままではどうせ六代目を継ぐことは阻止できないのだから、成功の名誉は与えて、既得権は自分のモノにして、実利を取る。

 政治家たちの権謀術数の世界からヒントを得たプランだが、いくらでも参考例があるから和気藹々と次から次へとアイデアをひねり出し過ぎて、整理するのが大変だった。

「だから花田社長から、と言っても実質は親分なんだけど、全権を委任された俺としては何が何でも成功させなければならないんだ」
 一頻り愛し合った後のベッドの中で飯尾はルミに話した。
「私も協力する。何でもする」
「沖縄本島から直行して発着できる小型プロペラ機専用の飛行場も併設する予定なんだ。一千億という巨額のカネが必要となる」
「凄い金額ね?あなたのためだったら、コンピューターで会社からおカネを引き出して、横流ししてもいい。五億や十億は引き出せると思う」

 わくわくさせて言う。暴走こそ我が命と心得ているのか、凄いことになってきたと半分呆れながら、プランが飛んでもない方向に暴発しないか心配になってきた。

「警察にとっ捕まってブタ箱に入れられたら、会いたくても会えなくなる」
「それはいや」
「やりたいこともやれなくなる」
「それもいや。我慢できっこない」

 これでとんでもないことはしないだろうとホッとする間もなく、抱きついてきた。適当に応じながら、計画の続きを話した。

「確かに一千億は大金だが、自分たちで全額調達するわけではない。民間から借入れるつもりだが、大体が政治家や官僚の世界と同じで、自分で返さなければならないカネは最大限手をつけないのがタテマエのやくざ世界だ。そこで国に予算をつけさせることにした」
「凄いアイデアね、国相手の計画だなんて」
 国相手と言うことだけで興奮が一気に高まったみたいだった。
「アイデアは凄くても、国を計画に乗せるのはそう簡単な話ではない。カネをバラ撒かなきゃならないし、ときには女を宛がう必要も生じる」

 折角話を佳境に持っていけたのに、適当にあしらうだけでは身体が言うことを聞かなくなって、中断させなければならなかった。もうルミの好きなように任せ、飯尾は最大限応えるべく努力するしかなかった。自分で楽器を調律して、自分で弾いて、自分で奏でた音色の効果を愉しむ女に翻弄される男のイメージが湧いた。

「よかった?」すっかり満足して、飯尾の脇に身体を横たえてから聞いた。
「最高だった」
「私も」

 普通は男の方から聞くセリフを女の方から聞いた。高柳とも同じだったのだろうか。

「成功させることができて親分が山鼻組六代目を継げたら、花田興業の社長の後釜に俺が横滑りできる」
「凄い。そうなったら、私は親分の愛人ね」
「みんなから姐さん、姐さんと呼ばれる身分になる」
「姐さん?奥さんがいたら、何と呼ぶの?」「奥さんも姐さんだ」
「同じ呼び方だったら、知らない人にはどっちが奥さんか愛人か区別がつかない」
「奥さんだろうと愛人だろうと、男がどっちを大事に扱っているかで大事にされ方が違ってくる。そこが一般世間と違うとこだ」
「奥さんがいなくて、他に愛人がいたとしても、一度は姐さんと呼ばれるのも面白いな」
 嬉しそうに腕にしがみついた。
「他に愛人はいない」
「別につくったっていい。私は私」と言って、相当に自信があるのかニッコとした。
「姐さんと呼ばれるようになるには、まず計画を成功させなければ」
「何か手伝うことある?」
 勿論あるともと言いかけたが、ぐっとこらえた。

「話を聞いて、俺がどんな立場に立っているか理解してくれるだけでいいんだ。何の苦労もないように見られるのは辛い」
「分かった。話して」
「国に予算をつけさせるには神酒首相にウンと言わせるのが一番手っ取り早い。財務大臣がいくら反対したって、首相の鶴の一声だ」
「どうしたら言わせることができるの?」
「首相は相当な女好きだそうだ。国民は誰一人気づいていないが。まあ、嫌いな男は一人としていないだろうけど」

 一応総理の名誉のために一言付け加えた。

「女一人目の前にぶら下げて、ヒヒーンと一声泣かせようって絵を描いたには描いたんだが、なかなかいい女が見つからないで困っている。女の趣味はうるさいということだから、下手な女を紹介しようものなら、ヤブヘビになってしまう」

 ルミが考え込むふうに押し黙った。うまくいくだろうか。うまくいったら、ルミを失うことを意味する。痛し痒しの複雑な気持となった。

「成功か不成功かで、俺が男になれるかなれないかが決まる」
「成功しなくたって十分に男よ。タフだし、スマートだし、セクシーだし」高柳に捧げた賛辞だ。「荒々しいテクニックは誰にも負けないし」

 荒々しいテクニックはルミに負ける。

「俺がタフでいられる源は今ある俺だ。成功したら、山鼻組でもいい位置につける。もしかしたら七代目山鼻組組長も夢ではない。そう考えただけで力が湧いてくる。俺はなおさらにタフになれる」
 ウワッと感心する顔になって、わくわくしたのか、身体を震わした。

「山鼻組組長と言えば、裏世界の総理大臣だ。一介の政治家が総理大臣になっていくら力を持ったとしても、タフな野獣にはなれまい。もし失敗したらたいしたことないと蔑まれ、自信を失ってタフな男でいられなくなる。多分これまでのように女を力強く愛することもできなくなるだろう」

 まるでそうなると決まったかのようにしみじみとした口調で言ってみせた。
「そんなふうにはさせない。タフでないあなたなんか考えられない」
「一度失った自信を簡単に回復させることはできない。今の自信だって、築き上げるにはそれなりの月日を必要とした。失うときはほんの短い時間さえあればいい」
「あなたが許してくれるなら、私が首相にウンと言わせる人身御供になってもいい。この間の資金集めのパーテイで、首相は私と握手したとき、私の手をなかなか離さなかった。もういいでしょうと言う具合に私が手を動かさなかったら、私の胸の膨らみにチラチラ視線を向けながら何時間でも握ってたと思う」

 そこまで気づいていたなら話は早いが、一国の総理大臣がそこまで見抜かれていたとしたら形無しだ。

「ダメだ、ダメだ。バカなこと言わないでくれ。そりゃあルミ以外にこの世に最高の女はいない。首相がウンと言わないはずはないと分かってはいる」
 それは保証付きだった。
「他に適当な女が見つからなければ──」
「俺がウンとは言わない。いや、言えない。ルミを他の男に渡す俺の気持を考えてくれ」
「でも失敗して、今のあなたを失いたくない。タフでなくなったあなたなんか、想像するのもいや。私ならきっと成功する。首相の女になったとしても、鎖に繋がれていつも傍に置いておかれるわけではないでしょ?成功してタフな野獣になったあなたに会いにいく」

 飯尾はそこまでは自分に都合がいいように計画していなかった。総理を裏切ることになるが、既に裏切っているのだから、裏切りついでで片付ける。露見しない裏切りは裏切りを隠す。露見しない不倫が不倫を隠すように。永田町では露見しない裏切りが政治家の頭数の倍は蠢いているはずだ。隠し通すことによって、裏切りでなくする。そう考えているうちに飯尾は予期もせず、タフな野獣へと力を漲らせていった。

「ルミ」

 一言声を掛け、ルミの身体に覆いかぶさり、乱暴に口を吸い出した。ルミが飯尾の口の中に一言喘ぎ声を洩らしてから下腹部を押しつけながら足を腰に絡めてきた。

(十三)

 約束の一週間が開けた日の午後三時に首相官邸にお邪魔した。

「やっとのことで総理と二人切りのディナーを承知させることができました」
「オオー。どのようにして?解決が難しい問題だったはずだ。次の構造改革の参考にしたい」

 構造改革の参考になろうはずはなかったが、「総理が政府の経済財政諮問会議の民間議員である高柳の任命者だと言ってやると、高柳とは比べものにならない総理の偉さが分かったようです」
「そうだろう。俺が任命者だ。総理大臣でなければ、誰も任命はできない。馘にだってできる」

 高柳教授は女の恨みで馘になる経済財政諮問会議の最初の民間議員になるだろうが、偉い偉くないよりも、問題はタフであるかどうかだ。高柳みたいにタフになれるかなぁと心配になった。いや、タフでない方がルミは俺が恋しくなる。俺よりタフだったら、ルミは俺のことなんか忘れてしまうかも知れない。その方が心配となった。

「夜が待ち遠しい。最高のスタミナ料理を用意させよう」天にも昇るような嬉しそうな顔をして、そわそわし出した。「写真ではない、やっとホンモノのバストに出会うことができる。下半身をバスタオルで隠すようなことはさせん」

 余っ程バスタオルが憎らしかったようだ。親の敵ぐらいに思っていたのかも知れない。

 予定の夕方六時まで執務にもう手がつかなくなった。総理の椅子にちょっと座ったと思ったら、立ち上がって、部屋をぐるぐる歩きまわる。喉が渇いたと言って、スタミナドリンクを四本も飲んだ。

「こんなもの効かなくてもいい。俺には隠し兵器がある。北朝鮮の核兵器の比ではない」

 飯尾が前に頼まれたバイアグラだなとはすぐに察しがついた。

 職員が戸口に立ち、「米倉ルミ様がお見えになりました」と伝えた。部屋をぐるぐる歩きまわっていた総理は立ち止まって、おおーと声を上げた。「お連れして宜しいでしょうか?」
「お連れしてくれ。彼女は日本で最初の女性総理大臣になるかも知れない大事な人材だ。日本の将来と世界情勢について話し合う。粗相のないようにお連れしてくれ」

 総理大臣の椅子まで譲ってしまうのだろうかと疑った。飯尾は声を低くして、
「いいですか。口裏をうまく合わせてくださいよ。石垣島の一千億円のリゾート建設です。国の予算をまわすと約束してくださいよ」
 最後の念を押した。
「分かった、分かった」
 うるさそうに答えた。心ここにあらずだ。「失敗したら、彼女を失うことになります」
「誰が失うもんか。総理の椅子と交換してでも必ず手に入れてやる」
 やっぱしと思った。

 ルミが現れた。ここに来る前に一度見ている姿だが、思わず声を洩らしそうになった程の美しさだった。身体にぴったりとした清楚に仕上げた純白のイブニングドレス。背が高いから似合った。盛り上った眩しいまでに白い胸が胸元からV字型に覗いていた。

「おおー」 
 思わずのように声を上げたはいいが、神酒総理の口許は早くも緩んでいた。ルミは近づきながら飯尾には分かるサインを込めた熱い視線を向けて飯尾を冷やっとさせたと思うと、その影も残さずに親しみを込めた笑みを総理に向けた。女は怖いと思った。

「総理をお願いします」ルミに声を掛けてから、「では総理。私はここで失礼させて戴きます」

 丁寧に頭を下げ、退出すべく踵を返そうとしたとき、ルミが再び想いを込めた視線を鋭く向けてきた。表情を変えるわけにはいかない飯尾は冷静さを保ったが、応えることのできないもどかしさを抱えて部屋を出て行かなければならなかった。
 
 誰にも邪魔させないために執務室に食事が運ばれた。ベッドも運び込みたいようだったが、女と食事でベッドとなったら、バレバレだ。いくら総理でも我慢するしかなかった。

 シャンパンで日本の発展と世界平和を祈って乾杯したあと、フルコースのフォアグラ料理に舌鼓を打つ。首相のテーブル越しの視線はルミの胸元に釘付けになっていて、ナイフで肉を切る手元が疎かとなり滑らせたり、皿の音を立てたりした。ルミの方は食事の後待ち構えているベッドでの日本国総理大臣にまで登りつめた男に如何に納得のいくサービスを提供できるを考えていた。サービス次第で
タローちゃんをタフな野獣にできるかどうかがかかっている。目の前の首相よりも、タフな野獣となったタローとの行為を今までの行為と重ねて想像し、身体を熱くさせていた。

「石垣島リゾート建設には国も関心を大いに寄せていると言うことをお聞きしました」
「沖縄振興のためには是非実現させて貰いたい民間事業です。今までは殆ど官が独自に振興事業を行ってきたが、官から民へ、これからは民の時代です。是非成功して貰いたい」

 視線がルミの胸から動かなかった。
「国家予算をおつけになるお考えだということもお聞きしましたが」
「民が主体となって行う事業に官は援助を惜しみません。一千億や二千億、あなたみたいなセクシーな女性のためなら、ポケットマネーの一万円にも相当しない」

 何と大胆な。ルミは思わずにっこりとした。サービス開始を待たずに決まったようなものだった。首相が背広のポケットから小箱を取り出して中の錠剤ようのものを口に入れ、顔を仰向かせてシャンパンで飲み込んだ。

「何かお薬ですか?」
「ウン、食事の途中で服用する特別な薬でね、脳の働きを活性化させるんだ」

 バイアグラだとは口が裂けても言えない。この特別兵器でヘトヘトにさせてやる。再びルミの胸元に目を釘付けにした。何とむっちりとしてるんだ。ぎゅうっと掴んで、悲鳴を上げさせてやる。目がギラついていた。

 突然ドアが乱暴に開き、男が血相を変えてあたふたと入ってきた。テレビで見たことのある官房長官だった。

「食事中は二人きりにと言ったじゃないか」「食事どころでありません。緊急事態です」
「こっちも緊急事態を控えてるんだ」
「とんでもない事態が発生しました。二時間前にイラクのサマワ市外で自衛隊の活動中、イスラム過激派の攻撃を受け、自衛隊員二人が人質となったという知らせがつい先程入ったと、外務省から連絡してきました。緊急に閣僚を招集して、閣議を開いてください」
「よし、分かった」首相は落着いて椅子から立ち上がった。ナプキンで口許を拭いてから、「全閣僚を招集し、緊急に閣議を開こう」
「既に招集を掛けています」
「当然だ。危機管理次第で、内閣がひっくり返ることもある。心したまえ」

 官房長官が部屋を出て行ってから、「では我々も部屋を移動しよう」
「えっ、私もですか」
「当然ではないか。今日から写真相手ではないのだから」
 意味が通じなかった。
「閣議へですか?」
「まさか」
 
 口の中がカラカラになっているような乾いた笑い声を立てた。
「閣議よりも大事なことがあるときは総理は出席したことにして閣議を開く。いつもやっていることだ」

 そこへ官房長官が戸口から顔を覗かせた。「五、六人程集まりました。マスコミや国民の手前、全員を待たずに始めた方がいいと思います。ご出席をお願いします」
「閣議よりも大事なことを果たさなければならない。既にサイコロは振られた。ローマは進軍を開始したのだ。閣議の最中に薬が効いたって、シャレにもならない。議事進行は君に任せる」
「国民の命を守ることよりも大事なことがあるのかと国民の批判を受けることになります」
「俺が出席していることにすればいいじゃないか。俺と君たちは運命共同体だってことは忘れるな。俺がこけたら、君たちもこける」

 官房長官が呆れたふうに首を振った。
「身代金をはいくら払ってもいい。カネで解決したまえ。過激派を名乗ろうと何だろうと、カネには弱い」
「自衛隊の撤退を要求してきたら、どうします?」
「撤退したら、今後再び自衛隊員を人質にする機会を自分から捨てることになるが、それでいいのかと警告を発する。自衛隊派遣は日本にとっては将来的には国の商売であり、君たちは自衛隊員を人質にして身代金をせしめれば、商売となる。お互い商売を継続させようじゃないかと申し入れるんだ。双方が顔の立ついい提案だと思わんかね?」
「さすが総理です。出席していることにして、雑談しながら過激派からの連絡を待つことにします」
「くれぐれもテレビカメラを閣議室に入れてはいかん」
「テレビカメラを閣議室には決して入れません」

 首相としたらこれから来賓休憩室のベッドで繰広げる一部始終を記念にビデオ撮影して貰いたかったが、既に背広のポケットに忍ばせているデジカメで我慢するしかなかった。

「手をつなごう」
 神酒首相はルミの手を取って、外国からの賓客が休憩する部屋の一つに誘った。額に脂のような汗が滲んいた。バイアグラが効いてきたのだ。その効き目を如何に長引かせ、女のオルガスムスにうまく一致させるか、一国の総理大臣の才能がかかっていた。

 ルミに隣室に行って、用意してある衣装に着替えるように言いつけた。ルミは厭な予感がした。用意してあった衣装は紐だけでできたようなブラジャーとパンティだけで、コスチュームで勝負する趣味のないルミには厭な予感を遙かに上回る代物だった。だが、いつの日かタフな野獣を手に入れるためには我慢が肝心だと自分に言い聞かせた。

 ブラジャーとパンティを身につけると、まるで裸の身体をロープで縛られたSMショーの女みたいになった。凄い趣味があるんだなと感心しながら、首相の待つ部屋のドアを開けるなり「アッ」と叫んで立ち竦んだ。

 素っ裸でベッドの上に仁王立ちになっていた首相が部屋に入ってきたルミに向かって両手を左右に広げて背中を反らしながら腰を突き出し、「ハードシーン、ポリテシャン」と言ったと思うと、「フォー」と奇声を発した。 今売れっ子のお笑いタレントそっくりのパフォーマンスだった。

「日本を世界に立たせるために、俺は自分を立たせる」

 ナニを立たせて日本を世界に立たせることができるなら、日本の男という男が一斉に立たせれば、完璧に日本は世界に自らを立たせることができる。首相は背中を反らしたまま、年齢からは想像できない激しい動きで腰を小刻みに前後に揺すった。ルミは血管を浮き立たせて熟し柿のように赤黒く怒張した長さが確実に二〇センチには達しているナニのこうも激しくできるピストン運動を見せつけて
、特大の快楽を約束しているのだろうことだけは理解できた。

「カモン、ベビー」

 勢いを弱めずに腰を揺すり続ける。どこへカモンと要求しているのかは一目瞭然だが、それが戦う前から強さを驕る虚勢、張り子の類に過ぎないのではないかと疑わせて、タフな野獣を期待させるどころか、快楽の約束さえも怪しく感じさせた。気持はすっかり萎えていたが、国家予算を引き出すという大きな目的のために、満面に最大限のお愛想笑いを見せ、目一杯両手を広げてベッドに近づいていった。ヒールを脱ぎ、ベッドの上に立って、なお腰を振る首相の目の前に相対した。

「フォー、最高──」