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    第105弾   外交カードとなっている靖国神社参拝
                                                           upload.5.11.14.(月          


 

                       信じる者は救われる。
              報道に歪みも、間違いもない。
                  テレビを信じよ!!
 

 


 
 05年10月26日の朝日新聞朝刊に、<メディア、牙にも蜜にも 露出は「商品」次第>と題して、05年9月11日の総選挙ではテレビを見た人間程、自民党候補に投票している傾向があると結論づけた世論調査記事を載せている。

 世論調査するまでもなく、テレビの野次馬的な盛り上げ番組が相当な影響を与えただろうことは推測できたことだが、それを「男女」別の「テレビの視聴時間」と関連づけて、具体的な数字で影響の度合いを探っている。
 
 『テレビの視聴時間と総選挙の投票先』をパーセンテージで示した箇所をざっと紹介してみる。  

 調査対象をなした有権者を「全体」で見た場合、

 自民候補に投票した有権者は42%。
 民主候補に投票した有権者は27%
 

 約1.5倍強、自民党候補が上回っている。他政党への投票は省略されている。次に男女別と視聴時間別では、

 
 *「男性」
      2時間以内――自民候補・39% / 民主候補・33% 
     2〜4時間以内――自民候補・42% / 民主候補・35% 
       4時間以上――自民候補・45% / 民主候補・35% 

 *「女性」
     2時間以内 ――自民候補・40% / 民主候補・18% 
     2〜4時間以内――自民候補・45% / 民主候補・22% 
     4時間以上  ――自民候補・49% / 民主候補・23% 

 *「テレビを1日に何時間見るか」
      2時間以内――41%  自民候補票 40%
     2〜4時館 ――41%     〃  44%
      4時間以上――15%     〃   47%       
        見ない―― 2%

 「見ない」の2%がどのくらいの比率を占めて自民に投票しているかを探ることで、そこからもテレビの影響を探る参考にもなると思うのだが、記事では抜け落ちている。

 以上の関係に関する解説が次のように記述してある。

 「視聴時間は男性よりも女性の方が長めだったが、投票先との関係は男女ともほぼ同じ傾向を示した。


 また、テレビの視聴時間を年代別で見ると、高年齢層程多く、70歳以上では『4時間以上』が3割近い。調査では高年齢者や女性で自民候補への投票が多めという結果も出ている。

 テレビ報道が直接、自民候補への投票を促したとは言えないものの、視聴時間が長い、こうした層が自民党大勝を後押しした側面もうかがえる。

 一方、『小泉劇場』とも言われた今回の総選挙のメディア報道を有権者はどう見たのか。メディアが特定の政党や選挙区ばかりを取り上げている『印象を持った』と答えた人は50%で、『持たなかった』の41%を上回った。

 『印象を持った』は男性は50代以下の年齢層でやや高く、女性や高年齢層では少なめだった。70歳以上では、『印象を持った』は35%で、『持たなかった』の45%を下回った。」    

 解説の最初の部分で、「視聴時間は男性よりも女性の方が長めだったが、投票先との関係は男女ともほぼ同じ傾向を示した」と言っているが、「傾向」は「ほぼ同じ」でも、投票先の差から見た「傾向」の男女差を無視した解説となっている。


  上記の『テレビの視聴時間と総選挙の投票先』から、「投票先」の差から見た男女の「傾向」差を見てみる。

「全体」――自民候補・42% ― 民主・ 27% = ±15%
「男性」
  2時間以内――自民候補・39%―民主候補・33% =± 6%
2〜4時間以内――自民候補・42%―民主候補・35% =± 7%       
  4時間以上――自民候補・45%―民主候補・35% =±10%
 「女性」
    2時間以内――自民候補・40%―民主候補・18% =±22%
 2〜4時間以内――自民候補・45%―民主候補・22% =±23%
   4時間以上――自民候補・49%―民主候補・23% =±26%

 確かに男女とも、視聴時間が長い程、自民党に投票した確率は漸増傾向にあるが、 時間別の「自民候補」と「民主候補」に対する投票先の差引きを見てみると、上記のように、「男性」が10%以内の範囲にとどまっているのに対して、「女性」の方は「全体」で見た15%を上回る20%超の、男性の2倍から3倍前後の多さで、自民候補に集中していることが分かる。

 このことは、『男性』よりも『女性』の方が「視聴時間」と共にテレビの影響をより多く、それも遙かに強く受けていることを表わしていないだろうか。だとすると、当然女性に限って、「テレビ報道が直接、自民候補への投票を促したとは言え」るとすることができないだろうか。

 逆に『男性』の投票先に於ける自民候補と民主候補の差は、「視聴時間」の長さと連動して漸増しているものの、「女性」と比較した場合、遙かに接近していて、関連性の少なさを示している。

 刺客=A除名処分=A落下傘≠ニいった言葉が飛び交うこととなった選挙区の多くで女性対立候補者が多かったことが(「くの一」という言葉で忍者になぞらえたアナウンサーやコメンテーターもいた)、テレビの取り上げが一般の選挙区は抱き合わせ程度で、女性刺客選挙区に集中させた報道となり、そのことが女性視聴者に対する影響を大きくしたことも考えられる。

 この見方が間違っていないとすると、「メディアが特定の政党や選挙区ばかりを取り上げている『印象を持った』と答えた人は50%で、『持たなかった』の41%を上回った」とする、その差が少ないような印象を受けるが、どうだろうか。

 また、「『印象を持った』は男性は50代以下の年齢層でやや高く、女性や高年齢層では少なめだった」とする調査結果は、先に見た「投票先」から見た男女の「傾向」差が、「女性」が「男性」の倍以上「自民候補」に投票している状況と、「テレビの視聴時間」が「高年齢層程多く、70歳以上では『4時間以上』が3割近い」状況とを併せて判断すると、逆に「女性や高年齢層では」高めだったとする「傾向」が出てよさそうであるが、そうはなっていない。

 いわば報道番組だけではなく、ワイドショウ番組とそれに類似した娯楽番組でも選挙報道が集中し、その中でも郵政民営化反対議員に対立候補をぶつけた選挙区により多く時間を割き、さらにその中でも刺客≠ニかくの一≠ニ呼称した女性対立候補者により決定的に時間を割いたテレビ状況からの影響を受けて当然の因果律が生じるはずだが、逆の傾向となっている。

 これは、「女性や高年齢層」が、テレビの選挙報道の偏りを認識するだけの客観的認識能力に欠けるか、自分はテレビの影響を受けて投票したのではない、主体的な選択だとしたい自尊心からの偽りが働いた世論調査に対する不正直な回答が生じせしめた結末なのだろうか。
 だとすると、「メディアが特定の政党や選挙区ばかりを取り上げている『印象』」を「『持たなかった』の41%」が、「『印象を持った』」の「50%」に対して少ないのではないかとした印象は妥当性を持つことにもなる。

 いずれにしても、テレビの偏った報道が影響した選挙結果だとすると、逆に日本人は、特に女性は暗示にかかりやすく、誘導されやすい習性を性格としていると言える。これは主体性なる行動が「自分の意志・判断によって、自ら責任を持って行動すること」(「大辞林
」三省堂)とすると、それに反する習性と言える。

 横並び=A指示待ち≠ニいったふうに、元々日本人は上に従い、下を従わせる権威主義を伝統的な行動様式としている。自らの判断で行動するよりも、他からの指示を受けた判断に従いやすい。従来からのそのような性格傾向を受けたテレビの影響ということなのだろうか。

 となると、自民党が総選挙に大勝して、「改革が信任された」とする正当性は怪しいものとなる。

 主体性というものを考えさせる,総選挙を挟んで過去とそれ以後の二つの象徴的な光景を見てみる。

 一つは、かつての異常なまでの純ちゃん$l気である。選挙権のない女子校生を含む若い女性が小泉首相の遊説先にまで押しかけて黄色い声を張り上げ、いわゆる純ちゃんコール≠繰返してはキャーキャー騒いだ。彼女たち以外にも首相人気にあやかって、その顔を見るために演説する場所に顔を出した者が多くいたはずである。動員された支持者だけではない異常な人だかりであり、そのようなミーハー的な光景にテレビカメラのピントを合わせて撮し出し、番組で集中的に繰返し流すテレビ報道となっていた。

 いわば政策の紹介よりも、若い女性たちのエキセントリックな生態を主として取り上げた 報道姿勢であった。

 人気に惹かれて集まった者のうち、小泉首相の演説を通して、その政策を吟味し、取捨選択する態度でいた人間がどれ程いただろうか。少なくともキャーキャー騒いでいた女子校生を含む若い女性の殆どが、騒ぐことでそこにいる自分をアピールする、吟味や取捨選択といった思考作用とは正反対の態度を見せていたはずである。

 このことは先に挙げたテレビの報道姿勢と符合するものだろう。報道の公共性≠ネど、この程度の内容でしかない。

 遊説先に押しかける態度は主体的行動であっても、報道の公共性≠ニ内容は同じ程度の主体性でしかなく、政策を判断するという考察行為に関しては何ら主体性を発揮し得ず、人気に動かされ、思考作用を経ない意思決定を行っていたということではないだろうか。

 マスコミは、「視聴者が望むから報道する」と言うが、実態は相互の迎合(=非主体性)を反映させ合うことで成り立っている報道と視聴者の姿勢及び反応なのであろう。 

 もう一つの光景は正反対の景色である。総選挙から12日経過した05年9月23日の参院神奈川選挙区補選の投票率である。自民党が郵政民営化反対を問うとして解散・突入した総選挙では小選挙区・比例区共に 67.%半ばに達した高投票率が、いくら補選という状況下であろうと、当選を果たした元外相の川口順子は「小泉改革の推進」、及び「小泉構造改革の総仕上げ」を訴えていたはずであり、小泉首相、その他の主立った政治家が応援に駆けつけているにも関わらず、2週間を経ずに投票率が32.75%とダウンした熱狂の冷めようが意味するところのものである。

 総選挙が全般的に主体的に選択した有権者の政治行動なら、12日しか経過していない神奈川区補欠選挙でも、主体的な投票行動があって然るべきではないだろうか。

 32.75%とうのは2004年夏の参院選の54・48%を大きく下回る投票率だそうだが、刺客≠ニなり、役目を果たしたことで対立候補との獲得票数の差に関係なしにテレビの取り上げによって華々しい当選となった女性議員と同じ女性の立場にありながら、有権者を惹きつけることができなかった。これもテレビが果たした低投票率と言えるのだろうか。

 最初に引用した朝日の記事の≪メディア、牙にも蜜にも 露出は「商品」次第≫という趣旨を当てはめて考察してみると、総選挙ではなく参議院の、しかも補選という全国的に話題を相互反映させにくい一地域に限定された商品価値、さらに総選挙で刺客≠ニして送り込まれた佐藤ゆかりや小池百合子と比較した場合、外相を務めていたことで言動に特に華やかさがあるわけでもないことが知れ渡っている川口頼子が「商品」として地味で見栄えがしなかったこと。

 そのような商品状況に反して、当選を果たした刺客≠フその後の活動ぶり、あるいは物議発言の杉村大蔵や刺客≠ノ見事討たれた落選議員を話題に取り上げている方が話題として面白く、商品価値としてより輝いていた。

 それらが原因してテレビ報道が勢い集中とは反対の淡泊となって、いわゆる番組での「露出」が抑制されたことを受けて、視聴者の投票意欲も刺激を受けずに抑制された相互性が低投票を演出したということなら、やはりそこに投票行動に於ける主体性を問題にしないわけにはいかなくなる。

 テレビの報道が興味本位で政治を取り上げる。そのような興味本位に人間の行動が支配され、その指示で動く。まるでテレビコマーシャルが紹介する商品に購買意欲を刺激されて、その商品に走るのと同じ行動パターンと響き合う構造であろう。

 また政治の側も、広告会社を使い、政党・候補者・政策を商品のように売り込むメディアを介した選挙戦略を展開して国民の政治に対する購買意欲を都合よく刺激しようと図っている。

 テレビの都合と政治の側の都合が利害一致して、すべての面に亘って国民の政治行動を支配する。国民が権力やメディアが望む政治意識に操作可能となったとき、国民自体が政治的に商品化したということかも知れない。

 小泉首相が、杉村大蔵に多くの人間の眉を顰めさせた発言があったにも関わらず、「個性があっていい」とエールを送ったのも、マスコミが杉村大蔵に飛びついている、マスコミの側の利益価値に気がついて、それを政治の側から利用したものだろう。

 それがまたマスコミの利益に適う。テレビで、杉村大蔵を将来の首相候補に上げる発言すらあった。テレビの取り上げ次第で、その可能性は頭から否定できない。

 元々希薄な日本人の主体性をテレビがますます奪って、なおさら希薄にしていくと言うことではないだろうか。学校教育が暗記知識の取得・暗記学力の底上げに専念するばかりで、考える教育を怠っていることが主体性育成の補填となっていない、そのことも問題であろう。