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    第105弾   外交カードとなっている靖国神社参拝
                                                 upload.5.12.4.(日)          


 

                                             日本的宇宙

 

 

                                 

 

                      チルドレンたちに占拠させて幼児化した国会議事堂世界にご機嫌な王様気分――はて、さて。


 5年11月20日の朝日テレビのサンデープロジェクトで、民主党の前原代表が小泉首相のアジア外交政策の停滞を批判して、「アメリカが対日よりも対中外交を重視することになった場合の日本が孤立する危険性 」を指摘した。

 
ソコンを叩きながら聞いていたのだが、中継出演(?)の町村前外相が些か怒りもあらわに、「日本はあらゆる国から信頼されていて、孤立することなどあり得ない。私自身直接、日本を信頼していないなどと言われたことはないし、そう言う人に出会ったこともない。日本が孤立するなどと、自虐的な考えだ 」というふうに反駁した。その間、前原代表は何か言いかけてはいたが、 町村前外相の勢いに押されて、有効な反論を試みることができずに時間切れとなった。

 
前このMLで紹介した、やはりテレビ番組で、党代表として「小泉首相が横綱なら、前原氏は前頭だ」、「民主党の新代表に誰がなろうと、小泉首相はイケイケ、ドンドンだろう」といった自民党内の見下した評価をコメンテーターにぶっつけられたとき、薄笑いするだけで前原氏が何ら一矢も加えることができなかった場面を思い出した。

 
自虐的だ」という言葉はなかなか便利である。自虐意識イコール悪という公式を前提としているからだが、お笑いタレントのヒロシを見れば、自虐イコール悪の公式は無力化する。強がりだけで外交を進めて手痛い失敗した場合の、反動としての自虐こそ悪であろう。

 
本が孤立する可能性は決してゼロとは言い切れない。但し、そこに向かう可能性はゼロに近いものがあるだろう。孤立はしなくても、各国の関係が緊密化している国際的力学下で、その緊密性が特定の国家間に少しでも偏った場合、あるいは何かの問題が起きて、一部の国家間でその緊密性に障害が生じた場合は、ある国が蚊帳の外に置かれる場面が生じないとも限らない可能性の往々にしてあることは決して否定できないのではないだろうか。

 
PEC出席に先立つ日米首脳会談では息の合った緊密ぶりを演出することができて、大いに意気が上がったことだろうが、APECに出席してからの個別の各国首脳会談では、日韓首脳会談を韓国大統領の訪日要請もできないままにこなしただけで、日中首脳会談を実現させることができなかったばかりか、米中首脳会談のそれなりの成果――両首脳のそれなりの政治的な力量発揮――を、天秤に掛けるだけの自己の力量発揮を持てないままに外から眺めているだけのことしかできなかった蚊帳の外状況にあった。こういったことが積み重なれば、継続性を生じせしめ ないとも限らない。

 
量もあり、出場資格もあるアスリートがフィールドに立つのではなく。観客席から競技を眺めるようなものである。人情として、ライバルたちが何も成果を上げなければホッとするし、成果がそれなりのものであっても、上げた場合は力量発揮が一方ができて、自分ができなかった不足感や虚脱感ぐらいは小泉首相は感じたのではないだろうか。オペラや歌舞伎観劇に出かけたり、元々目立ちたりがり屋である。注目されることによって、目立ちたりがり感を満足させることができる。

 
国は中国と対抗するためには日本という同盟国を必要不可欠とするだろうが、世界で常に主導的立場に立つことを自らの使命・宿命としている国際関係の力学からすると、日本はアメリカの後ろ盾に位置しているわけではないし、後ろ盾として必要とされているわけでもない逆の関係にある。

 
わば、同盟国としての必要不可欠性は日本は駒の範囲をさして出ないだろうと言うこと。イラクへの自衛隊派遣を見れば理解できる。治安悪化からほど遠いサマワの人道支援とは、実よりもアメリカに協力という名を負ったに過ぎない役柄であろう。現役でありながら、最悪の場合、フィールドから観客席に移されるアスリートにならないとも限らない。

 
ぜあのとき前原氏は、「甘すぎるのではないか」ぐらい言ってやらなかったのだろうか。嘲笑うがごときに、「甘い、甘い」と言い立てたなら、黙らせることができたろう。

 
程の険悪な状態になかったなら、誰が面と向かって、お前を信頼していないと言う人間がいるだろうか。外交の場ともなれば、面と向かっては外交辞令としても、リップサービスとしても、信頼していると言う。それをまともに受けて、いい気にさせられ、うかうかしているような単細胞なら、ときには権謀術数を必要とする外交を有効にこなすことはできない。

 
約の可能性を考慮して、前以てそれを牽制するためや、なかなか進展させない約束事を促すために、「信頼している」という言葉を手管として使う場合もある。最も重要なことは、「信頼」が人間関係に於いても、国家関係に於いても、それらを有効に機能させる優越的な成分であるとは限らないと言うことである。

 
まり、「信頼」とは美しい言葉であるが、その表明は単に見せかけの外交手段となり得る場合もある。  

 
本が安保入りを目指して安保理拡大のための「枠組み決議案」修正案に、カンボジアのフン・セン首相は日本の常任理事国入りについては賛成を示したものの、拡大案の共同提案国になることには態度表明を避けた。常任理事国入りにいくら賛成しても、拡大案が通らなければ、賛成は意味を失う。

 
リ和平協定(91年)以降のカンボジアの復興に日本は主導的な役割を演じ、多額の経済援助を投じてきた。国連 PKO部隊として文民警察と自衛隊を派遣している。信頼されて然るべき関係にあったはずであるが、それが外交政策の実現に役立つとは限らない顕著な例だろう。

 
ン・セン首相は態度表明を避ける理由に、「いろいろな働き掛けがあり、状況を見つつ判断したい」と説明したという。「色々な働きかけ」とは、中国からの発信を言うのだろう。
 
 
国との間をベトナム・タイ・ミャンマー・ラオスに挟まれていて、直接国境を接しているわけではないのに、日本は「信頼されている」関係構築の背後で、優先順位で言えば、日本の「働きかけ」は下位に置かれたのである。

 
済を握っているのは中国系だと言うから、その影響も無視できないに違いない。アジアにおける華僑の存在も、中国の影響力を左右する重要な外交要素として、今後常に計算に入れておかなければならなくなる。

 
ンボジア以上に中国から遠い位置にあるインドネシアも最大の援助国だった日本に対する「信頼」を醸成していたはずであるのに、日本の常任理拡大案に反対している。

 
5年11月3日の朝日新聞朝刊は『近隣外交を問う』の記事で、「ジャカルタ・ポスト編集局長エンディ・バユニ氏」の言葉を次のように伝えている。

 
――
 
際、日中韓の緊張が続く中で、中国は、日本の安保理常任入りに反対するよう、インドネシア政府に様々な働きかけをしてきた。
 
び2人の友人のどちらかを選ぶような状況に追いやられたくないのが、インドネシアの本音だ。だが、仮に同じような状況が来れば、国益を最優先に考える。その結果は東京を喜ばすことはできない。中国を選ばざるを得ないからだ」

 
国益」を最優先価値に置き、「信頼」など、役に立たないことを言っている。

 
ンディ・バユニ氏は小泉首相の靖国参拝についても発言している。

 
次の2点で受入れがたい。一つは首相である以上、私人との区別はあり得ない。両親や祖父母が戦争でなくなり、その追悼のための参拝であれば、例外的に私人であると言えるだろう。その場合、メディアを避け、ひっそりと参拝すべきだ。
 もう一つは、その行動に首相の無神経さがよく表れているからだ。過去の例から参拝が中国や韓国を怒らせることが分かっている。そして中国・韓国との緊張関係がどのように広がっていくのか誰も予測できない怖さがある。

 
国もこうした状況を国際政治の場で活用していくだろう。国連安保理だけでなく、国際機関などの人事などでインドネシアを含めた他のアジアの国へ圧力を掛けることもあるだろう。そうなると、日本とインドネシアの関係に影響が出ないとも限らない」

 
国のこのような外交術に対して、日本の外交術はどれ程のものだろうか。外務大臣を務め終えたばかりの政治家が、「信頼」を外交に於ける上位的な価値観としているような単細胞な甘ちゃんでは心許ないばかりである。  

  
欧州連合の駐日欧州委員会代表部のピーター・ファンデンフーフェル商務部長」朝日新聞の取材に次のように述べている(05.11.17.朝刊)
 
 WTOに臨む日本の姿勢について、『主要国閣僚会合に出席しながら、具体的な提案をせず、黙って坐っているのは許されない』と述べ」「コメ関税率などで『具体案を示すべきだ』との考えを示した」

 
合が悪ければ、「黙って坐っている」のも一つの手だが、先進国の一員という責任ある立場に位置している以上、格好がつかないし、格好がつかないことも気づかずに「黙って坐ってい」たとしたら、自国が世界に負う役割さえも弁えることができない単細胞な政治音痴と言う他ない。

 
ピーター・ファンデンフーフェル商務部長」の批判は新聞の「取材」に答えたもので、「主要国閣僚会合」の場で直接面と向かって言わなかったのは、恥をかかせることになる儀礼上の対応からだろう。

 
信頼している」と同じで、直接的な言及の有無で相手の態度を図ることほど単純に過ぎることはない。

 
に例に出した「ジャカルタ・ポスト編集局長エンディ・バユニ氏」は日本の戦後補償についても言及している。

 
戦後、日本は東南アジアに対して十分経済的に償ってきた。大半のインドネシア人も日本の過去について、既に忘れているし、許してもいる。だからと言って日本の3年半の統治が残酷なものだったという事実は変らない。オランダの3世紀半の植民地時代よりもひどかったという人もいる。中国の言うことに耳を傾ければ、納得できることもある」

 
本軍のインドネシアに於ける残虐さが、オランダの植民地統治の残虐さを相対化して罪薄めに役立ったとしたら、オランダにとっては幸いなことだったろう。

 
じ記事の中で、シンガポール上級相のゴー・チョクトン氏も、「過去の幕引きが第一」と言っている。

 
5年11月21日の日ロ首脳会談後の記者会見で、プーチン大統領北方4島問題について、「双方に善意さえあれば、ロシアと日本の国益に合致する解決策を見出せる」と語ったという。

 
っている言葉だけ見れば、解決への期待を持たせる内容だが、実際は日本が望む4島返還は何ら進展を見なかったし、今のロシアには4島とも返す気はない。プーチンの言葉は、町 村前外相の主張に反して「信頼」が外交の基準とはならないことに対応する外交辞令としての価値しか持たない。

 
5年5月21日の朝日テレビ「TVタックル」ハマコーが、「靖国参拝で中国に譲歩したら、中国は次々と難題を吹っかけてくる」といったことを言っていたが、反中国の多くの日本人がこのような「中国陰険」 説といった主張を虎の子のように後生大事に固定観念化させている。

 
期首相候補として国民の期待値も高い安倍晋三も、「中国陰険」説の強力な論者の一人である。ハマコーと同じことをバカの一つ覚えのように何度も言っていた。  

 
が、視線を中国だけに固定せずに、他の国々も視野に入れて、物事を全体的・総合的に見れば、「中国陰険」説は荒唐無稽・単細胞な虚妄であることが分かる。

 
本とアメリカは戦後常に同盟関係にあった。その間、終始緊密な「信頼」関係で成り立ち、何も問題が起きなかっただろうか。

 
んなことはない。ときにはギクシャクした。繊維問題対米貿易黒字問題為替問題自動車輸出摩擦日本製鋼板ダンピング問題、そして、最近の継続中の牛肉輸入禁止問題等々。

 
を盛んに駆使して、日本に自国の要求を呑ませようとし、あるいは自国の政策に同調させようとし、実際に呑ませ、同調させてきたのはアメリカではなかっただろうか。石原慎太郎は余程癪に障ったのだろう、アメリカに『ノーと言える日本人』という書物まで著している。日本の政治家・官僚までが、自分たちの政策を実現させるためにアメリカの外圧に依存すらしたのは滑稽ですらある。

 
本と中国の間でも、靖国問題が解決したからと言って、それ以降一切問題が起きないと言うことは決してない。そのことは両国の国益が常に一致するとは限らない状況に対応して現れる当然の情勢としてあるものだろう。それを当然のこととすることができない。当然のこととして、問題が起きたとき、外交が処理に当たる。そのために外交は存在するのであって、外交官が高級ワインや高級シャンパンを飲み、金満生活を送るためにあるのではない。

 
かり切ったことであるのに、分かり切ったことを分かり切ったこととする頭の働きを持てずに、「中国陰険」説だけを言い立てる。何も起きなければ、外交という政治的職能は必要なくなる。要求が例え謂われのない難題であったとしても、そのことを恐れるようなら、先進国の地位を返上したほうがいい。背伸びせずに、小さな領土にふさわしい小さな国として細々と世界に生きていけばいい。

 
国の何を持ち出すかも分からない将来的な要求を問題にするよりも、日本の外交の能力を問題にすべきではないか。町 村前外相前原氏の「日本孤立化」発言にムキになったのは、自分の在任時代に重なったアジア外交の停滞を認めたくないための過剰反応でしかないだろうが、日本の外交の正当化の根拠に「信頼」を据えるとは、実力がどの辺にあるか、分かろうというものである。  

 
国参拝中止要求が謂われのない要求だとするなら、そのことを納得させる外交的な言葉を紡ぎ出すべきである。ただ「内政干渉だ、内政干渉だ」と言い立てていても、始まらない。紡ぎ出すこともできずに、毎年8月15日の参拝を公約しておきながら、1月に参拝したり、2日前だか3日前だかに前倒ししたり、8月15日はやり過ごして、秋の例大祭に私的を装って参拝するといった姑息的なことは、一貫性がなく、謂われなきこととした場合の姿勢に反する。  

 
れとも、日本の政治家と言うことなら、止むを得ない光景なのだろうか。

 
5年11月16日の日米首脳会談後の記者会見で小泉首相は、「日米関係がよければよい程、中国・韓国・アジア諸国との良好な関係が築ける」と語ったそうだ。

 
わば、日本一国が自立した立場で中国・韓国・アジア諸国と直接的に顔を向き合せるのではなく、日米関係に依存した立場から、その成果の助けを借りて、中国・韓国・アジア諸国との関係に向けた成果を築いていくということだろう。

 
配したがる者は、自己よりも力ある者に支配されたがる心理を当てはめるとしたら、小泉首相は今回の総選挙で当選した新人議員を小泉チルドレンとして自己の下に置いた支配欲求を、アメリカとの関係では自己をアメリカの下に置く逆転させた力関係で満足させたということだろう。

 
のようなアメリカとの関係こそ、「自虐」志向ではないだろうか。そう言えば、小泉首相の支配下に置かれたチルドレンたちの生き生きしていること、ブッシュとの会談で生き生きしていた小泉首相と相互に響きあう 光景ではないだろうか。

 
体がいくら初当選の新人議員であっても、国会に議席を占めた者がチルドレンの状態に置かれて何ら疑問も感じることなく、その状況にぬくぬくと浸っていること自体、異常であり、単細胞な頭をしていなけれができないことだろう。

 
米関係の緊密化は大切である。日本にとってはアメリカ抜きの世界との関係は考えられないだろう。日中関係日韓関係も日米関係と関連しあっている。だが、それぞれの国がそれぞれの国益を抱え、それらの国益が全体的に一致しない場合は、相互に対立する国益はそれぞれの国の固有の問題となって立ちはだかってくる。

 
えば北朝鮮の核問題解決は日米両国の国益に合致するが、
拉致問題は日米両国の国益に合致するとは必ずしも言い難く、あくまでも日本一国の国益に関わる北朝鮮との間の固有の問題である。最近国連で北朝鮮に対する人権非難決議が採択されたが、直接的な問題解決は日本と北朝鮮との外交の場での議論に委ねられる。いくら日米関係が良好でも、拉致解決の有力な補強材料とはなり得ない。

 
のことと同じく、靖国参拝問題は日中・日韓との間に横たわる、それぞれの国益に関係した固有の問題であろう。日米関係は日米関係として、自立した立場で中国・韓国と直接向き合う外交姿勢(=日本特有の単細胞な政治性からの脱却)こそ望まれるのではないだろうか。