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    第93弾   電車の遅れが招いた大事故
                                                  upload.5.09.16.(金)          


 

 

 

                 小泉死せずして、岡田死す。
                             世界チャンピオンボクサー並みの                                                                                        
              パンチを食らわしてやった
                 と言ってます。

 

 @党首の条件
      A代表選考での小沢一郎の出処進退
         

                                                                                                                      



 所詮国民はイメージで選ぶ。戦争に負けて初めて、国に騙されたと気づく頭の血の巡りの悪さである。しかも、形を変えて今以て国に騙されている同じことの繰返しに鈍感でいられる。国の借金が700兆円を超えていると教えられても、それが何を意味するか、思い描くことすらできないのだろう。

 かつての
橋本龍太郎は顔立ちが歌舞伎俳優風だと、「龍様」の愛称を与えられて、世の婦人たちに人気があった。歌舞伎俳優ではないが、杉良太郎の「杉様」の「様」である。人気の程が窺えるというものだが、それは単に持て囃されたというのではなく、熱を上げるに近い性格のものだった。昨今の韓国人俳優ブームに似ているが、橋本龍太郎の場合は、どちらかと言うとハイソサエティ−の凝った服装の中年女性が多かったと思う。その点が、その辺のオバチャンが多い韓国人俳優騒ぎと違うところだろう。時代そのものが大衆化したと言うことだろうか。

 
小泉首相の女性人気は下は女子高生から、上はかなりの年配の女性までで、幅が広く、橋本龍太郎と違って、時代的な傾向なのか、非常に大衆化している。女子高生は選挙権が与えられていないから、彼女らにいくら人気があっても役に立たないではないかとしたら、大きな間違いだろう。多くの女子高生が「純チャーン」と黄色い声を上げ(最近はそのような光景は減っているが)、カメラ付きの携帯電話を向けてパチパチと撮る、アイドルタレントに対するのと同じ扱いのその様子にマスコミは珍奇な社会現象だと飛びついた。マスコミは女子高生を追っかけていたとしても、結果的に一対で小泉純一郎まで追っかけることになって、テレビ画面に小泉首相の姿がより頻繁に 露出することになる。

 大体がそのような社会現象をより多く取り上げるのは、事実を事実としてではなく、悲劇はより悲劇仕立てに、残酷な事件はより残酷仕立てに、面白珍しい話題はより面白珍しく大衆化してふくらますことを視聴率獲得の手段としている
ワイドショー番組やその類似番組と相場が決まっている。

 
事実の大衆化とは、勿論のこと、一般大衆の関心のレベルに事実を合わせることを意味する。合わせることで、視聴者が頭を使って考える面倒な労力を省く。イメージで政策を判断し、イメージで政治家を選ぶ人間に特有の思考の省略性に合致する作業でもあり、そのことが両者のつながりを緊密化して、彼らをワイドショー番組とその類似番組の視聴者として引き寄せている。

 選挙時、候補者がワイドショー番組等に出演依頼を受けるままに断りもせずに頻繁に顔を出すのは、大衆に受ける必要に迫られているからだろう。小泉首相はわざわざワイドショー番組に出演しなくても、女子高生が群がって騒いでくれるだけで、直接番組に出演した以上の宣伝効果を上げているのである。選挙権がないからと、バカにしたものではない。

 韓国映画を観なくても、韓国人俳優の顔を教えられてしまう人間の多くは、オバチャンたちが熱狂して群がる様子を伝えるワイドショー番組を介してだろう。

 韓国人俳優にしたらオバチャンたちが、小泉首相にしたら女子高生がこの上なくありがたい存在ではないか。小泉の純ちゃん、もしかしたら超ミニのスカートを穿いた制服姿の女子高生の写真を感謝感激の気持と恍惚感をない交ぜにして、夜な夜なこっそりと眺めているかもしれない。

 
小泉首相郵政民営化反対派に仕向けたいわゆる刺客に多くのエリートキャリアウーマンを起用したことをテレビが加熱状態で取り上げたために、同じ年齢層の女性たちが刺客女性のハイセンスで知性的なイメージに好感を感じただけで、政策抜きに投票に走ったということもあったに違いないが、大衆は刺客女性の背後に、例え見えなくても、小泉首相の影を常に感じ取っていたはずである。

 
民主党岡田代表の後任に、早期に党を立て直すためにベテランの起用を優先させるべきとして、発言に説得力のある小沢一郎や、改革のイメージを完全に失ったわけではない菅直人の就任を主張する者と、野田佳彦や前原誠司の名前を上げて、思い切った若返りを狙うべきだとする者、複数の候補者を立てて、投票で決するべきだとする者がいて、纏まらずにいるという。

 
イメージを優先させるという方向から考えると、あくまで独断的・自分勝手な私見に過ぎないが、ベテラン起用 の線で考えるなら、菅直人はそれ程悪いイメージではないが、小沢一郎となると、いくら発言に説得力があったとしても、自民党で田中派・竹下派に属して権謀術数の限りを尽くしてきた負のイメージが容貌自体のイメージと重なって、清新さや爽快さ、あるいは大衆性にほど遠く、そのことが改革に伴う明るい未来をイメージさせないマイナス面が、大衆的な人気獲得の障害とはならないだろうか。

 小沢一郎は民主党若手に
ドブ板選挙の重要性を説いていたと言うことだが、それが功を奏する場合もあるだろうが、あくまでも個々の問題とすべきで、全体としてはイメージが重要な要素となるのは、今回の小泉首相の「郵政民営化」ワンフレーズが自民圧勝の原因となったイメージ戦略を参考にするまでもなく、新自由クラブブーム日本新党ブームといった過去の例を挙げても証明し得る事柄であろう。

 多分、小沢一郎は自分自身の体型や容貌・声の質や喋り方のイメージが
大衆受けの武器にならないのを知っていて、旧態依然のドブ板選挙にこだわっているのかも知れない。都会に強いと言われていた民主党が逆に弱いとされていた自民党に都市部でも手痛い敗退を受けたのは、都市住民は全体的にはドブ板選挙といったダサイイメージを受付けないだろうから、その勝ち負けからではなく、イメージからの勝ち負けだったと考えてもいいのではないだろうか。ドブ板選挙だからと言って、高層マンションの一室一室を訪ねて訴えることなど考えられるだろうか。読まずに捨てられてしまう運命が多いと分かっていながら、せいぜい郵便受けにパンフレットを投げ込むぐらいだろう。

 小沢一郎の喋り方にしても、それがどのように正論であっても、粘着質で、聞く者に古いイメージを与えても、間髪理解させるシンプルさと明快なイメージに欠ける。無理に言うとしたら、玄人 向きなのである。

 
菅直人は強引な性格と負けん気が強いのか、相手の主張に反射神経鋭く対応して、対等に渡り合う能力はある上、安心感を与える容貌をしている。但し、主張はそれぞれが自分の言い分が正しいとして譲らないもので、平行線をたどるものと最初から見なして、説き伏せようとすることはムダな努力・ムダな抵抗と思い定めるべきであろう。肝心なことは説き伏せようとすることではなく、聞く者にどちらが説得力があったか、どちらが好印象を与えたかを判断させることであろう。となれば、相手の主張をわざと交わしたり、軽くいなしたり、あるいは鼻の先でせせら笑ったりして、さも相手の主張が下らないかと思わせる駆け引き・手管も重要なまでに必要となってくる。

 そのような点が小沢一郎はなおさらことだが、管直人に少々なり欠ける。

 そのような才能は、意図してのことか生まれつきのものかは分からないが、小泉首相にはかなり備わっている。論理的整合性など構わずに、平気で思いつきでしかないことを言う。しかしそのことが大衆に爽快感を与える。民主党幹部は要するに、生真面目すぎる。生真面目なのは小泉首相みたいに、歌舞伎鑑賞やクラッシック観賞のときだけで十分である。ときに生真面目に、ときにふざけ、ときにユーモアーを発揮する。ときに小馬鹿にし、ときに冷笑する。必要に応じて、有権者さえも小馬鹿にしたり、冷笑したりする。そのような柔軟性が大衆を引きつける。客を笑いのエサにして人気を博している綾小路キミ麿を学 ぶべきだろう。

 「ヒロシです」のヒロシとか、友近とか、青木さやかの出ているお笑い番組を観ることがあるのだろうか。観ていなければ、観るようにして、少しは勉強した方がいい。準備していないのに、相手の言葉・攻撃を臨機応変・自由自在に短い的確な言葉で跳ね返して、ユーモアたっぷりに攻撃し返す技術は見事なもので、大学を出てテレビ会社に入ってアナウンサーの技術を磨いたアナウンサーをはねのけて司会に進出しているのは、彼らがなまじっかなアナウンサーよりも数段に、面白おかしいだけではない、楽しい痛快な喋りに長けているからだろう。

 民主党幹部で、そのような
柔軟な話術に長けた者がいるのだろうか。言ってみれば、民主党幹部は、原稿を読むのに慣らされて、そのようにしか喋れない面白おかしくもないアナンサーといったところだろう。

  長期戦を戦うつもりで、
思い切った若返りを図るのも一つの手ではないか。だが候補に挙がっている野田佳彦は、その金満美食型の体型と、それが顔にまで表れている印象が押しの強さを与えても、それがかえって最初からない爽快感や親近感・大衆性を押し退けて、押しの強さだけを強調することになっている。話し方にも押しの強さが出ていて、議員同士が議論を闘わせるには効果があっても、大衆受けさせることができないのではないだろうか。背広をきちっと 着て、ネクタイをきちっと締めた姿は、まるで首を絞められているような堅苦しい印象さえ与え、酷なことを言うようだが、大衆的な印象とは程遠く、息苦しささえ感じさせかねない。

 容姿だけから判断すると、若さと爽快感がはっきりと見て取れる容貌から、女性にも好印象を与えるだろう
前原誠司が最適任に思えるが、やはり真面目一方にしか見えない。そのことが未熟さや、弱さにつながっている。 少しぐらいあっていい押しの強さ・図太い感じが些かも感じ取れないと言うことである。ユーモアのセンスと冷笑癖を如何に磨くかにかかっているのではないだろうか。

 次の総選挙で、有権者が前の選挙では自民党に票を与え過ぎた、バランス上、もっと縮めた方がいいと望んだなら、意図しない配慮が働いて、議席の接近がうまくブレーキがかからずにオーバーランして保革伯仲、あるいはさらに暴走して、保革逆転というヒョウタンからコマの状況に一足飛びしないとも限らない。選挙戦では政権交代も保革伯仲も前面に出さずに、少しでも議席を獲得して党勢の回復に努めたい、「一つでもいいから議席を伸ばさせてください」と有権者に訴えるカモフラージュに徹した方がいい結果が望めるかも知れない。

 あるいは、政権交代とはどういうものか、なぜ政権交代が必要なのか、大衆レベルで理解できる分かりやすい簡潔な言葉を紡ぎ出して、時間をかけて少しずつ彼らの頭に植え付けていく洗脳の方法を採用して、大衆を政権交代に向けて舵を切らせるように仕向けるかでであろう。

 自民党が小泉の次が
安倍晋三と決めたなら、手強い相手になる。その大衆的人気に民主党で十分に対抗できる人物がいるのだろうか。安倍は拉致問題で強硬姿勢を演じたことが得点につながった。強硬姿勢が「ウリ」の一つとなっている。強い態度が大衆受けすると知っているからだろう。但し、拉致問題に関して言えば、強硬姿勢は口先だけで終わった効果のないものだった。

 安倍の強硬姿勢を上まわる強硬姿勢を示して、安倍の強硬姿勢がたいしたものではないとせせら笑い、冷笑して、価値を貶めるのも一つの手だろう。

 *  *  *  *  *  *

代表選考での小沢一郎の出処進退   05.9.16(金)

17日(9月)に行われることが決定した
民主党代表選挙小沢一郎も立つべきだと、彼を支持する一部の若手議員が立候補を促していると言うことだが、小沢一郎自身は依然として態度を表明していないという。昨日(15日)のテレビで、こう言っていた。

 「色々の人の意見を聞いて、まだ1日あるので、明日は態度を決めなければならない」

 これって、自分が動かないことによって、逆に小沢待望論が湧き上がるのを待とうという魂胆なのだろうか。

流れが話合いから選挙に移った以上、それと同じ土俵で出処進退をかけなければならない。小沢を支持している議員としては擁立を図って、立候補すべきだと主張する動きは当然の成り行きとしてある。だが、相手がなかなか動かなければ、ヤキモキして、是が非でも立候補させるべく他の議員にも計らって、「小沢立つべし」の声の盛り上げを図るだろうことも当然の成り行きとしてある。それが「小沢でなければ」のウネリとなるのを待つ――という深慮遠謀。

大体が、「色々の人の意見を聞」かなければ動けないというのでは、情けなくはないだろうか。白紙の状態で立候補して、所信表明して、その所信に対して、賛成票という形で党内の「意見」を問うのが、企みも謀もない正々堂々としたやり方ではないだろうか。そうして当選してこそ、リーダーシップを発揮できる土壌を自ら作ることにつながらないだろうか。

多数派形成まで待って、じゃあやりますの石橋叩きでは、リーダーシップの勢いが出せるのだろうか。代表が代ったと言うだけで、現状が惰性で推移していくだけのように思える。新進党新生党の二の舞で終わらないかという心配である。

つまり、「自分は政党運営にこういう考え、理念・哲学を持っている。その方法で政権交代を実現させ、民主党の政策をこの国に反映させたい」、あるいは、「自分でなければ、この時期の民主党の代表を務めることはできないだろう」と 自信を持って自分こそ適任者だと訴えて代表への意欲を示して,賛成多数の支持を求めるのではなく、党内の動き――と言うより、自分を支持する趨勢が高まるのを待って、当選するだけの数が読めたとき、立候補表明するという、慎重と言えば慎重、巧妙と言えば巧妙な出処進退だということではないだろうか。

そうまでしなければならないのは、白紙状態で立候補して、万が一落選したなら、ベテランとして折角築き上げてきた政治経歴、その評価・評判を落として、回復不可能なダメージを受けない保証はないのだから、まあ、分からないでもない。近づき難さを演出するためなのか、ことさらなむっつり顔をいつも 見せて、何を考えているのか探れない様子を装っているが、そんなふうに気取ってなどいられなくなる。

だが、そのような出処進退は、小沢一郎の性格から出た生き方の表れそのもののようにも思える。政治才能はあったとしても、自民党最大派閥だった田中派とその後継たる竹下派の恩恵を受けて、自民党幹事長の要職まで経験し、その後不本意ながら彼の権力の培養地たる自民党を離れざるを得ず、政党を立ち上げて党首に収まり、念願の非自民連立政権を立ち上げたものの、見通しの過ちから虎の子の政権を自民に奪い返され、その後一度は自民党に出戻って連立として加わったが、かつての思いのままの力を発揮させてもらえない時代の移り変わりを味わい、最後に他人が立ち上げた民主党に遅れて参加するという、流浪の後半を最初の自民党時代の権力とは比較にならない下降線の不遇を抱えて政界を泳ぎながら、とにかくも自己を維持してきた逞しくも巧妙な処世術に連なる、今回の駆け引きではないはずはない態度不表明の出処進退だからである。

代表に選ばれるだけの多数派を形成できなかったなら、立候補者に幹事長指名を条件に支持を持ちかける駆け引きに移行するに違いない。既に移行しているかも知れない。

勿論本人自らではなく、腹心の誰かを遣わして。落選しなかったなら、常に運命を共にしてきた藤井裕久だっただろうことは間違いない。