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        2000.8.1火曜日


第24弾

「子どもを、学校をだめにする母親パワー」批判

ここでの「母親性悪説」の最初のターゲットは「卒業式での勝手な振る舞い」(p118)である。

「親たちがずいぶん変ってきたなと感じはじめたのは、いまから七、八年前のことである。
 親はいつも学校へ来ているわけではなく、家庭訪問のときも、一対一で対するので、極端におかしな姿は見せない。ところが、卒業式や入学式のように大勢の親が集まるときになると、とたんに地が出てくるようである。
 私が最初にびっくりしたのは、卒業式のときだった。
 卒業式は、学校の一番大きな行事で、ふつう体育館でやる。・・・・二時間近くはじっと座っているので、最近の生徒たちにして見ればたいへんなことである。そこで、三年生には『最後の大切な儀式だから、気合いを入れてやるんだよ』と言い、一、二年生には『三年生を送るんだから、集中してやろう』などと、相当なプレッシャーをかけながら準備することになる」
(p118〜119)

最初から矛盾の大盤振舞いのバラまきである。何度でも言うように、集団主義・権威主義が有効に働いていた時代は教師や親が怖くて、校長や来賓のつまらない話にもじっと我慢して聞いていた。ところが校長や来賓といった立場にいる人間は当人が変っても、話の退屈さ・つまらなさを永遠の命さながらに延々と受継いだままだから、「二時間近くじっと座っている」のは、「最近の生徒たちにしてみればたいへんなこと」なのであって、生徒の感性・想像力を豊かに有効に刺激するような話なら、「時間」を忘れて何時間でも座っていられるだろう。

プロ教師はただ単純に「卒業式」「三年生には『最後の大切な儀式』」だとしているが、三年間という時間に何をなしたか、やり残したことはないか、その充実度を振返る大切な機会であって、さらにやり残したことを埋め合わせることと併せて、これから何をなすべきかの目的意識を持つべき新たな出発点ともすべきものだろろう。

三年間の生徒それぞれの学校生活の内容を問題とせずに、「卒業式」だけを問題とするのは、だらしのない一生を送っておきながら、そのような一生を誤魔化すために葬式だけは豪華なものとするようなものだろう。あるいは散々に親不孝を働いておきながら、その親が死んだとなると、カネをかけた豪勢な葬式で親不幸を帳消しにするようなもので、プロ教師がいかに形式のみを誇る空疎な形式主義者であることの証明ともなろう。

大体が、「相当なプレッシャーをかけながら準備」しなければならないとは、「生徒が自分たちで考え、決め、実行していく」(p104)というプロ教師自らが提唱している自立」教育(自律教育)を自ら裏切る矛盾行為であるばかりか、それが口先だけの綺麗事でしかないことを自ら暴露するものであろう。

学校・教師の側から「相当なプレッシャーをかけ」られなければ、「気合いを入れてやる」ことも、「集中してや」ることもできないというのは、生徒が自律的に行動できない、学校・教師に管理(支配・強制)された存在であることを示すものである。

「一人ひとりの生徒には、式のなかでやることがそうあるわけではない。ほとんどの生徒は座っていることが仕事になる。
 ところが、生徒がちゃんと座っているのに、卒業生の親のほうが座っていられないのである」
(p119)と、その生態を槍玉に挙げている。「生徒はトイレにいくことはしない」のに、「式の最中にかわるがわるトイレへ行く」「立て付けが悪いためめ、開けたときドアがバターンと大きな音を立てる」「トイレは生理的な問題なので、ある程度しかたないと思っていたが、びっくりしたのは、写真撮影である。(中略)これでいままで抑えていたものが切れたのか、立ち上がってビデオを撮る親や、自分の席から歩き出し、前のほうへ行って撮るというようなことを平気でやる親も出てきたのである」(p119〜120)

「そこで、翌年から学校側も対策を講じることにした。
 まず、机を並べてトイレを閉鎖した。そして、式がはじまる前に、『立ち上がったり、席を離れて写真を撮らないでください。トイレについては、基本的に我慢して下さい。生徒は二時間我慢して、緊張して座っているんですから、それを考えてやってください』と注意した。大人に対してこんなことを言うのは、まったく情けないことである」
(p120)

「もう一つ、式の最中におしゃべりする母親が出てきたことである。大きな声ではないが、ヒソヒソしゃべる。まわりはシーンとしているのでひどく気になる。大人に対してこのようなことをいちいち注意しなくてはいけない時代になったのだ」(p120)

「生徒は座っていることが仕事」だとするところに偉大なるプロ教師の偉大なる教育思想・教育哲学が露骨に現れている。これは「学校へ行って授業を受けるのはたとえつまらなくてもやらなければいけないのだ」「しかたないから我慢してやろう」(p30)という姿勢要求の延長にある考え方だろう。

そのような姿勢要求は、例え授業が退屈でつまらないものであっても、「我慢して」じっと「座っている」ことによって、いわばその場その場を取り繕いさえすれば解決させることのできる性格のものである。言い換えるなら、生徒の知識形成・人格形成に役立つかどうかよりも、形だけ授業を受けていれば、それでよしとする形式優先を土台としたものであり、知識の授受がテストの問題の解答に役立たせることで終わっている形式的教育に対応するものであろう。

校長や教師、あるいは来賓の送る言葉・卒業後のこうあって欲しいとするあるべき姿や生きる姿勢を伝える言葉に耳を傾け、その中から自分の生き方の糧とすることのできる言葉の断片を記憶にとどめ、心に刻む。あるいは自分は中学生として十分に生きたであろうかとこれまでの三年間を振返って、満足のいく点・心残りな点を探り、それらを教訓や反省点としてこれからの生き方・人生を思い巡らす。

あるいは卒業生なら、同じように卒業していく仲間の、下級生なら、学校を去っていく上級生の卒業証書を受取るために自分の席と壇上を行き来する姿から――自信に満ちて背筋をピンと伸ばしている生徒に始まって、何となく元気のなさそうな生徒まで――受験に失敗したのだろうか、思うような高校に進学できなかったのだろうか、中には三年間いじめられ通しの生徒もいるかもしれない、自分も含めたそれぞれの発展途上の人生を想い、同じ卒業生なら、運命の皮肉や過酷さ、下級生なら、自分が卒業する身となったとき、どのような人生の岐路に立たされているだろうか思い巡らすのも、それぞれの人間を深め、社会性を獲得していくための精神作業となるもので、ただ「座っていることが仕事」と見なすのは、「特別擁護老人ホーム」への「ボランティア活動」「河川敷の大掃除」で見せたプロ教師の数や形式だけを誇る姿勢につながる形式主義からのものだろう。

あるいは、「座っていることが仕事」だとする物事を表面的にしか把握できない皮相な観察は、プロ教師の無意識下で、卒業式が授業と同じく退屈で、生徒に苦行を強いるものだと気づいていることの反映とし現れた認識ではないかという見方も成り立つ。

校長、その他の教師、さらに来賓の、毎年毎年似たり寄ったりの繰返しでしかない、何ら感動を誘わない平板な、ありきたりのスピーチは卒業式を単なる形式的な儀式に貶(おとし)めていて、結果的に「座っていることが仕事」だというふうに生徒の役目を狭めているのは確かであるが、何とも情けない情景としか言いようがない。

以上のことを勘案するなら、親の勝手なと映る数々の振舞いを問題とするよりも、卒業式のつまらなさをこそ問題とすべきだろう。耳を傾けるべき感動を誘う内容のあるスピーチなら、少々の尿意は忘れさせてくれるが、卒業式用にもっともらしく言葉を並べ立てただけのスピーチなら、一旦尿意を催したなら、その方にだけ気を取られて、自分から尿意を高めてしまうということもある。

親の中には時間をやっとのことで遣り繰りして、トイレに行く暇もなくギリギリの時間に駆けつけたといった者もいるだろう。校長やその他のスピーチに価値が見い出せない卒業式なら、親としたら、せめて自分の子どもの姿だけは記念に写真なり、ビデオなりに焼きつけておきたくなったとしても、無理はない。

本来なら、人生の重要な節目の「卒業式」に親が自分と共にあった子どもが来し方をどのように振返り、行く末にどのような想いを馳せているか、あるいは現時点が子どもにとってどのような中間地点なのかといったことをしみじみと思い巡らせるべきなのだが、そのようなことはさて置いて、「立ち上が」ってだけではなく、「自分の席から歩き出し、前のほうへ行って」「写真」「ビデオ」で卒業式における表面的な姿を撮り、それを形あるものとしてアルバムにとどめる行為はプロ教師の形式主義と同列のもので、その点からもプロ教師には親を批判する資格はさらさらない。

次は、「子どもをかばうことに執心」(p120)と題した「母親性悪説」である。

「保護者会の全体会」で、「教師がしゃべっているときにガムを平気で噛んでいる」母親。「そういうことに気づきはじめたのはやはり七、八年前のことだった」(p120)と言っている。

国会審議中に居眠りしている国会議員の怠慢さから比較したら、まだかわいいものである。昔からある学校教師の女子教え子や未成年女子に対する破廉恥行為と比較してもいい。次から次という連続性に、一般人の意識には学校教師の性犯罪はこれからも繰返し起こり得る永遠性を持ったものとして植えつけられてしまったところまできている。

取り立てて教育思想と言えるものも持たず、「学力だけで評価することはやめる」などと口先だけの綺麗事と形式を武器にすることでしか教師することができないプロ教師と比較しても、ガムなどは無邪気なうちに入る。

「生徒が問題を起こし」ても、子どもの言葉だけを信じて、認めない傾向にあると、喫煙を例にして解説している。

「生徒本人に事実を確認して親を呼んだとしても、家に帰って、生徒が『先生から脅かされて、しかたなく喫ったと言った』と言いはじめれば、もうこれでおしまいである。他の生徒が見たということがあったとしても、『本人が喫っていないと言うのだから、先生はそれ以上疑うことはないでしょう。証拠があるんですか』ということになる」(p121)

「もうこれでおしまい」だとは情けない。既に何度でも言ったことだが、改めて何のための学校教育者なのかと言いたい。この例は、プロ教師が形だけの学校教師であることの顕著な証明の一つでもある。

――「先生に威されてウソをついてしまうような信念の無い人間だとは困りものですね」と母親になぜ反論できないのだろう。33年間も学校教師をしていながらである。

――「喫煙問題よりも、信念のないことの方が問題です。二十歳を過ぎれば、喫煙は法律で許されますが、信念のなさは何歳になっても周囲の人間は許さないでしょう。結果的に類は友を呼ぶで、信念のない人間だけが集まって、社会の除け者状態で生きるしかないということになるかもしれませんよ」

――「学校としては他人に威されて自分の信念を曲げるような人間として社会に出ていって欲しくはないですから、そうならないような指導に心掛けますが、お母さんもご家庭で、彼が信念のある人間に成長できるよう、指導してください」

生徒自身には、――「君はお母さんに先生から威されて、仕方なく喫ったと言ったそうだが、威されてウソをつくとは意気地のない話ではないか。例え威されようと何されようと、喫っていなければ、喫っていないと、自分の潔白を押し通すのが信念と言うものだろう。そうは思わないか?」

――「君がお母さんに喫っていないと言ったことを信じよう。二十歳になるまで、法律を守る積もりでいるのだろう?途中で破れば、君はウソをつくことになる。信念を曲げることでもある。君にウソつきにも、信念のない人間にもなって欲しくはない。それだけを期待したい。勉強の方はあまり期待できないようだから。ないない尽くしの人間になったら、つまらないだろう」

例え陰にまわってから、ペロッと舌を出されてもいい。少なくとも、「もうこれでおしまい」だと無条件にサジを投げる無能をさらけ出すだけで終わったわけではないのだから。少なくとも、何もしないよりは、心理的にプレッシャーを掛けたことによって、再度の喫煙時に、あるいは新たに何かウソをつくとき、何かしら心の引っ掛かり(後ろめたさやその逆の腹立たしさ)を持たせることになるだろうから。

もっともすべての人間にそのような期待が持てるわけではない。何の心の引っ掛かりもなしに続けてタバコを喫い、平気でウソをつき続ける人間もいる。それは既知事項として、機会を見つけてはクラス全員の前で、特定の個人を指すのではなく、一般論として、世の中にはこういった人間もいるが、そのような人間にはならないようにしよう、社会で必要な人間として生きていくには信頼が大切であるといった言葉の網を掛ける。あとはそれぞれの自覚(=自己責任)に恃(たの)むしかないだろう。

もっとも、恃むには恃むなりの、「もうこれでおしまい」だといった努力放棄とは正反対の、人間はどうあるべきかの言葉の闘わせが教師と生徒の間に、あるいは生徒同士の間で入学当初から日常普段的な習慣性で展開されていなければならない。

自分の悪事や不始末を否定したい衝動は子どもだけではなく、大人にもある意識である。学校社会におけるよくある例として、親や生徒の側からのいじめの指摘を「うちの学校にはいじめは存在しない」とか、「いじめられていたという事実は聞いていない」、あるいは「いじめられるのはあなたが(お前が)悪いからだ」といった類の、省くべきではない事実確認を最初から省くという責任回避衝動を挙げることができる。いわば親の子を庇(かば)う精神構造は教師の学校の評判・世間体、あるいは教師としての自己の能力を守ろうとする精神性(=自己保身)に対応するものであり、学校のそのような責任回避体質(自己保身体質)がなくならない間は、プロ教師だけではなく、学校教師の地位にある人間はすべて親を非難する資格はないと言える。

「先生がうちの子だけを悪く見て差別しているのだと、親のほうが居直ってしまうことが多くなってきたのだ
 これが校内暴力の時代だったら、親のほうも、自分の子どもが何をやっているかだいたいわかっていた。親もお手上げだったから、先生、なんとかならないですかねというふうになったものである」
(p121)

「学校というのは警察とはちがうのだから、証拠を集めて、それを生徒や親に突きつけ、認めさせるということはできない。だから、教師のほうは、生徒がやったことを生徒自身の口からなんとか聞き出して、それをきっかけにして、これからしっかりやっていくように指導してきた。こういうやり方が教育だというふうに考えてやってきた
 ところが証拠を出せということになってきて、それが通用しなくなってきたのである」
(p121)

親の居直りは今に始まったことではない。「うちの子に限って、そんなことをするはずはありません」という自分の子どもに対する盲信は歴史的に伝統的な精神性としてあるものである。子どもが親に対していい子を演じるのも、子どもがこの世に存在して以来のものだろう。いい子が演技でしかなくても、コロッと騙されてしまうのは、そうあって欲しいという願望や、自分の子育ては間違っていないとしたい自己肯定真理が身びいきを誘発して、正確な判断を狂わせてしまうからで、それは「うちの学校に限って」、あるいは「うちの先生に限って」といったふうに学校側にもある居直りであり、一面的には人間の自然な一つの傾向としてあるものと言えなくはない。

問題はそうあって欲しいという願望自己肯定真理が働いたとしても、例え自分の子どもであっても、疑ってみる姿勢が持てるかどうかにかかっているだろ。目で把えている子どもと、目の届かないところでの子どもの姿が一致するのかどうか、親としてはときには確かめてみる必要がある。子どもを疑うということは、自分を疑うということでもある。子どもを見る自分の目の正確さを問うことだからである。

いずれにしても、親の居直りを取り立てて非難しても何の解決にもならない。教師は直接的には親とではなく、生徒と対峙(たいじ)しているのである。しかも警察官ではなく、学校教育者の位置にいる。教育者の武器である言葉(=思想・哲学)で生徒に直接的に人格的な影響を及ぼす努力をすべきであろう。

勿論、生徒によっては人格的影響に限界がある場合もあるだろうが、それでも警察官にはなれないのだから、上下の力関係を人間関係の構造として上からの一方的な命令・支持の言葉で規律を求めるのではなく、双方向の意志の疎通をベースとした対等な人間関係に立って、人間として如何に生きるべきか、どうあるべきかを内容とする言葉の闘わせを相互の武器としてそれぞれのありようを高めていく。例え限界を感じたとしても、その生徒が卒業するまで力を尽くし、人格的影響の付与に努める。それが学校教育者の位置にいる人間の果たすべき仕事ではないだろうか。

「校内暴力の時代」には、「親のほうも、自分の子どもが何をやっているのかだいたいわかっていた」とするのは、現在の親をより悪者視するための過去の親の美化に過ぎない。学力だけで生徒を評価する教師に対する反発やその他からの、教師への直接的な暴力だけではなく、学力で証明できない自己存在証明のために、喫煙の見せびらかしや恐喝といった様々な凄みや開き直りを通して自分の強さ・凄さを演じ、それを自己存在証明としていたのである。父親が暴力団関係者なら、「おう、お前なかなかやるじゃないか」と褒めることはあったとしても、一般の親の気持として、「何をやっているのかだいたいわかっていた」などと澄ましていられようはずはない。

「友だちからカネを巻き上げたりした場合でも、証拠がないでしょということになる。取られたという生徒がいたとしても、『あいつがそう言っているだけじゃないですか、ぼくは取っていない』と居直るようになったのである。このような生徒が出始め、その後ろに親がついているとなれば、これはもうお手上げである」(p122)

「証拠がない」からと簡単に「居直」られるとは、教師も甘く見られているものである。生徒の「居直」りよりも、教師が甘く見られていることを問題にすべきだろう。校内暴力時代は生徒は教師に対して主として暴力を対抗軸とした。それが現在では過小評価「居直」り)へと対抗軸をシフトしたと言うわけである。

――「君はウソをついていないんだな?」
  「ウソはついていません」
――「では、友だちがウソをついたんだ?」
  「でしょうね?」
――「ウソをつくにはつくなりの理由があるものだ。何のためにウソをついたのだろ  う?」
  「僕には分かりません。彼に聞いて見て下さい」
――「考えることはできるだろう。君を悪者にするためとか」
  「さーあ」
――「君と彼とでは、力関係はどちらが上なんだ?」
  「力関係って?」
――「腕力はどちらが強いかということなんだ」
  「彼の方が上です」
――「見たところ、いつも君が命令したりしているではないか。クラスの全員に聞い  てもいいんだぞ」
  自分の方が下だと強弁を働いたとしても、
――「だったら、今度から君は彼の命令に従いたまえ。バシリを命ぜられても、おと  なしく言うことを聞くんだ。彼をここに呼び、君になんでも命令するように言う  。もし彼が怖がって命令できないようなら、自分の方が下だと言う君の言葉はウ  ソだということになる。力関係が下の者が力関係の上の者に対して、カネを取ら  れもしないのに、取られたと、ただ単に言うだけのことだとしてもできると君は  思っているのか?」
  「できます」
――「そうか。では君よりも力関係が上の誰それに君は言うだけのこととして、カネ  を取られたと言ってみたまえ。先生は彼のところに行って、君が彼にカネを取ら  れたと言っていると言ってみる」

「もう、これでおしまいだ」などと投げ出してしまうことに関しても同じだが、プロ教師が学校教育者にふさわしい言葉を持たないからに過ぎない。言葉を持っていないから、武器とすることができない。その結果、「学校というのは警察とはちがうから」と、その違いを口実に、親・生徒に証拠を盾に「居直」られたら、「もうお手上げである」降参の体裁を取った責任逃れの完全犯罪を企んでいるに過ぎない。

言葉を持たない人間が教育論を論ずる。その人間とは勿論、プロ教師のことである。この逆説を社会が許している倒錯性はどこからきているのだろう。

いずれにしても、「家庭の変質は、社会の大きな変化のなかで起こったことである」(p87)と言いつつの、「社会」を抜きにして、親・子どもを直接ターゲットとした「親・子ども性悪説」である。これもプロ教師の親・子どもにのみ責任を押しつけようとする御都合主義から出た、偉大なる矛盾の一つである。

次は、「家庭生活で見る生活の乱れ」(p122)と題して、さらなる母親批判・子ども批判の大展開である。

「生徒の親と接していると、最近思うのは、家庭が崩れつつあるということだ。
 家庭の第一の役割は、子どものありのままの姿を受けとめることだろう。安らぎの場、落ちつく場所と言ってもいい。いわば母性的な役割を担っており、その主役は母親である」
(p122)

「安らぎの場」だとか、「母性的な役割」だとか、まず絵に描いたような理想境を提示してみせる。現実との落差によって、母子のひどい状態を強調しようという魂胆なのは見え透いている。

子どもにとって家庭での人間関係は一種の習性によって成り立っている。母親も父親も、さらにそこでの生活も与えられたものとして存在する。いわば母親や父親の生活の仕方・生き方、さらに子どもへの接し方の影響を直接的に受ける。影響は良くも悪くも常に規制としての側面を持つ。特に子どもが外の世界を知り、自分独自の生活の仕方・生き方を獲得し、親と異なる立場に立つにつれ、マイナスの規制の側面が強まる場合が出てくる。その多少、強度に応じて、親子の人間関係に摩擦や軋轢、ときには反発や対立が生じる。だが、一般的にはそういった行き違いは家庭を成り立たせている習性の枠内で様々な方法によって修復可能であるが、規制は完全消滅するわけではなく、行き違いと修復の繰返しが人間関係(=生活)を貫くこととなる。

ゆえに成長とは行き違いと修復の繰返しと言える。ときには行き違いが修復不可能なものと化すこともある。典型的な例として、家庭内暴力や家出を挙げることができる。プロ教師の言うように決して、家庭が常に「安らぎの場」であり、「母性的な役割を担って」いるわけではない。当然、「子どものありのままの姿を受け止めること」「家庭の第一の役割」だとすることはできない。

そう単純には結論づけられないのである。もっとも単純に結論づけることのできるプロ教師は幸せ者だと言える。

「きちんと夕食をつく」らない母親、「家のなかが整理整頓されていない家庭」「それが子どもたちのだらしのなさにつながっているのかもしれない」(p122)

「また、小さいときから生活の仕方をきちんと教えたり、していいことと悪いことをはっきりと示すこともなくなったようだ。中学生くらいになるともうお手上げで、親の言うことなどまず聞かなくなる
 だから、言うことを聞かないからしかたないからと、自分が面倒を見てしまう。一生懸命勉強していればそれでけっこうというわけだ。
 ベッドメーキングはしない。洗濯物はそのへんに脱ぎ捨て、食べた茶碗も洗わない。身のまわりの世話をするということでいえば、母親はまさしく召し使いである」
(p122)       

プロ教師は、「お手上げ」が大好きだと見える。「子どもを、学校をだめにする母親パワー」という物言いは、教育荒廃の犯人「母親」だと露骨に名指ししたものであり、「きちんと夕食をつく」らないとか、その証拠を具体的にあげつらった内容となっている。

だが、すべての指摘は、既に何度でも繰返し証明していることだが、
「確かに家庭が問題なのは明らかだが、・・・・・社会の変化のなでその教育力をほとんど失った」(p88)
「家庭が悪い、学校が悪い、社会が悪いと責任を転嫁して自分を救うことはもうやめなければならないと思う。私たち大人の一人一人が、子どもの状況と新しい事態を引き受け、できることは精いっぱいやることが必要なのではないか。そのなかで共同性をつくりあげていくことが力になるだろう」
(p91)
といった家庭に対する情状酌量とは明らかに矛盾する。特に、「できることは精いっぱいやる」「お手上げ」とは完璧に正反対の姿勢・態度である。「子どもの状況と新しい事態」を何も「引き受け」ていないのである。

プロ教師が自らの矛盾を顧みず、如何に綺麗事を並べ立てて平然としていられるプロ級の名人であるか、ここでも証明しているのである。その平然さは破廉恥(ハレンチ)でさえある。

「家庭」「教育力をほとんど失った」と言うなら、学校が「子どもの状況と新しい事態を引き受け」れば、何かしら補えるはずだが、実際は生活の仕方に関わる教育はまるっきりの「お手上げ」で、何ら影響を及ぼすことができない体たらくをさらけ出すだけが実態となっている。その結果、「お手上げ」状態の子どもが社会に出て、親となり、似たり寄ったりの、あるいはさらに悪い「お手上げ」の子どもを再生産していく。

そのような無限循環を許している状況とは、教師が子どもに対して限りなくゼロに等しい存在、あっても無きに等しい存在でしかない状況の延長にある状況なのは言うまでもない。

ところがである。プロ教師は「保護者会」「全大会」で、「学年経営の方針」を次のように発表している。

「@義務教育の目的――一人前の社会人として、社会で生きる基礎的な力を身につけ  させること。
 A内容は基礎的学力、基本的生活習慣、集団生活のやり方(社会性)の三つであ  る」
(p111)

一方で、「お手上げ」だと言い、その一方で、「社会で生きる基礎的な力」や、「基本的生活習慣」だとかを「身につけさせる」と大層立派なことを言っている。「お手上げ」なら、学校は何々であるといった見え透いたスローガンは打ち上げるべきではないだろう。正直に、学校・教師はテストの解答知識を教える以外に、人間関係教育とか社会性教育に関しては無力・無能です。テストの解答知識教育に関しても、その学力の低下傾向を防げない情けない有り様ですと告白すべきである。「家庭」「教育力」喪失を上回る学校・教師の「教育力」喪失が「家庭生活の乱れ」の遠因となっているのである。

いわば、「子ども、学校をだめにする母親」以上に、教師が「子どもをだめに」していると言った方が正鵠(せいこく)を得たものとすることができる。

プロ教師は子どもの「親に対する口のきき方」に驚き、「親がうまく抑えられない」のだと、そのことを躾(しつけ)のだらしのなさの一つとして挙げている。

「小学生三、四年生ぐらいからとくにひどくなるようだ。・・・・私だったら、怒鳴りつけたり、ゴツンとゲンコツをくれてやるだろう。大人に対してそういう態度をとることは許されないのだということをはっきり示さなければいけないからだ。しかし、近ごろ、本気になって怒る親を見ることは少ない」(p123)

矛盾と綺麗事をバラ撒くだけのプロ教師が自らを「大人」とする資格はない。

学校教育者が、「大人に対してそういう態度をとることは許されないのだということをはっきり示」す方法として、言葉を用いるのではなく、「怒鳴りつけたり」、「ゲンコツ」を用いる。それは学校教育者であるにも関わらず、言葉の威嚇と身体的威嚇で相手を支配し、従属を求める関係欲求を示すもので、一般社会におけるその最大級の発展形が、暴力団の習性化された威嚇とそれに対する市民の条件反射化した恐怖の関係構造であろう。

いわば大人の権威・威嚇の利用という点において、暴力団の威嚇の利用と本質的には同じ方法を取ったものであり、プロ教師が集団主義・権威主義であることを自ら暴露するものである。

既に何度か指摘していることだが、プロ教師が常々口にする「社会的規制力」も、習性化された教師・大人の威嚇で生徒・子ども支配・強制し、同調・従属を求める集団主義・権威主義の人間関係秩序への希求に他ならない。

「家庭訪問したときに気になるのは、こちらがしゃべり出す前に、言いたいことを一方的にしゃべる母親である。こちらが話す余地を与えないのだ。よけいなことだが、もしこのようなパワーで夫に立ち向かっているのだとしたら、私などとても対抗できないだろう。黙って引いてしまうにちがいない。
 その話の中身といえば、たいていは子どもの愚痴である。中学三年生になったのに、いつまでもだらしがない、ひっくり返ってゴロゴロ、テレビばかり見ている。時間にもルーズだ。朝なかなか起きてこない、ちっとも自分から勉強しようとしない、何かにつけて弱い――こういった話しが延々とつづくのである」
(p123)

プロ教師は「自治活動」「ボランティア活動」では、バカの一つ覚えさながらに参加者の数を誇ることでその内容を誇ることに代えたが、ここでは「一方的にしゃべる母親」が一般的な姿としてあるのか、その逆のごく少数の傾向なのか、その数を明らかにしないままに批判する狡猾な誤魔化しを犯している。

――「御両親が知らず知らずのうちに子どもをそのようにしつけていたのです」と「話す余地」ぐらいはあるはずである。プロ教師はプロと名乗っていながら、それぐらいのことを「話す」言葉すら持っていないということなのだろう。

担任教師に「愚痴」をこぼすくらいだから、子どもには直接的にうるさいことを言っていたか、サジを投げていなかったなら、現在も言っているはずである。子どもには一度も注意せずに、担任教師にだけ「愚痴」をこぼすのは片手落ちと言うものだからである。いわば、口ではうるさいことを言っていながら、子どもの姿にその効果が現れないのは親の日常普段の姿・態度とは異なる注意だからだろう。

言い換えるなら、注意が口先だけの性格のもので、親の姿・態度を受継いだ、子どもの現在ある姿・態度だと言うことである。そのような関係性を貫いているものは親自身は気づいていない、意図しない許し、あるいは自らを省みることのない自己自身に対する無関心だろう。子どもは常に大人のヒナ型なのである。

「話を聞いていると、母親が子どものことについて、夫と話をしているのかどうか疑わしくなってくる。子どもを教育することから父親は一歩引いてしまって、母親が全責任を背負いこまなければならなくなっているのかもしれない。母親だけが悪いというのは明らかにまちがっているが、子どもにいちばん大きな影響力があるのは母親である。母親が自分の子育てについて、冷静に振り返る必要があることはたしかである」(p123)

「母親だけが悪いというのは明らかにまちがっている」という弁護は単なる体裁でしかないのはこれまでの文脈からも明々白々である。学校社会において、「子どもにいちばん大きな影響力」を発揮すべき学校教師が何ら「影響力」を発揮できていないのである。母親を批判する前に、学校教師は、その中でも特にプロ教師は、「自分の」教育「について、冷静に振り返る必要があることはたしかであ」ろう。

確かに幼児期における母親や父親との人間関係が後々にまで尾を引くことは確かであるが、幼稚園(保育園)・小学校・中学校と段階を追うごとに、クラスメート・保母・教師との関係が親との人間関係をよりよい方向にもより悪い方向にも補完したり、あるいは中和したりするものである。

だが、上の人間の下の人間に対する関係が命令・支持、あるいは強制・支配を骨組みとした、言葉の闘わせを欠如させた管理の形を取るのが日本的人間関係秩序となっているために、保母・教師との人間関係が親と子どもの人間関係の延長である場合が多く、よりよい方向への補完や中和の役目を果たせないでいる。

子どもは大人のヒナ型であると言うとき、親も教師も政治家も、すべての大人が今ある子どもたちの原形なのだということを忘れてはならない。

「いい子づくりに全力投球」(p124)

プロ教師の次の母親批判である。

「ここで、私から見た、最近の子育ての様子をまとめてみよう。
 子育ての目標は、『社会的自立』から『勉強のできるいい子』に変ってきた。
 母親はまず『いい子』づくりに全力を挙げる。そのため、ゼロ歳のときから徹底してしつけをしようと思っているようである。しつけというのは文化の押しつけだから、子どもにとってみればかなりきついことである。いやがるのは当然なことだ。
 私は、しつけは、子どもが一人前になったとき、あるいは父親も母親もいなくなったときに、一人で生きていくために必要な生活能力を身につけさせることだと思う。つまり『社会的自立』がその目標である。しかしそんなふうに考えている母親は最近少ない」
(p124)

既に何度か指摘してきたように、「子育ての目標」、あるいは日本の「教育の目標」「社会的自立」であった試しはない。プロ教師における永遠の事実誤認となっている教育論でしかない。過去も現在も、「社会的同調」を目標としてきたのである。

日本の学校教育が社会の学歴主義(=学歴差別主義)に同調・従属して学歴獲得教育になっていること自体、「社会的自立」とは無縁の「社会的同調」を規範としているのである。

その社会に既にある権威化された規範(=学歴主義)への強制・支配と、その強制に対する同調・従属の関係は社会的同調をメカニズムとしたもの以外の何ものでもない。そのような社会的同調が人々の生存の大枠を規定しているために、社会性獲得教育と見えるものも、学校においても家庭においても人間の様々な姿を学び、そこから人としてどうあるべきか、どう生きるべきかを言葉の闘わせを用いて論じ深めていく方法を採用するのではなく、それぞれの人間の内容は問題にせず、国を愛せ、親を大切にしろ、目上の者の言うことを尊重しろ、年寄りは大切にしろといったふうに、最初からそうすべき姿勢・規範を画一的に規定し、画一的になぞらせる強制・支配と同調・従属の社会的同調を構造としているのである。

内容を問題としない価値づけは形式的な権威化を意味する。国とか親とか目上の者、あるいは年寄りに対する無批判・無定見な同調・従属要求はそれらを上位権威と価値づける集団主義・権威主義の支配・強制でしかなく、集団主義・権威主義が人間関係を秩序づける社会的強制力として強力に機能していた時代はそのような教えはそれなりに通用し、それなりに受入れられたが(教えが受入れられることと、その教えを守ることとは違う次元の問題である。かつては教室ではおとなしく授業を受けるべきであるという教えを殆どの生徒は忠実に守ったが、授業が退屈な生徒にとっては表面的に守っただけなのだから、実際には受入れられていたわけではない)、現在でも基本のところでは集団主義・権威主義が人間関係の力学として作用しているものの、戦後民主主義の衣を身に纏わされたが、個人の権利意識だけが一極的に増殖したために、画一的に規定されたそうすべき姿勢は上位権威者に都合がいいばかりで、教えとして通用しなくなったのである。

いくら国を愛せと言われても、政治家が碌でなしばかりでは愛することもできないのと同じである。そうであるのに、国家権力は学校に日の丸・君が代という、国家の内容を問題としない形式の力で愛国心を植えつけようとする過ちを再び犯し始めた。それは日の丸・君が代に国家の権威を象徴させようとするもので、国家そのものに権威を持たせることのできない内容空疎を肩代わりさせる代償作用としてあるものなのだろろう。

演壇上で掲揚してある日の丸に、いわゆる社会的に偉い人が深々と頭を下げる行為がそのことを如実に象徴している。

それは学校においても同じで、社会性に関わる教育を、「親を大切にしろ」「人には親切にしろ」「朝顔を合わせたら、先生に挨拶しろ」「授業時間は私語を慎め」といった内容を問題としない形式の強制(命令・指示)で済ましているのである。生徒にとっては挨拶どころか、顔を見たくもない教師だっているだろう。

もし日本の学校が「社会的自立」教育をなし得ていたなら、子どもはそれを受継ぎ、親となってから自分の子どもに培養する再生産を継続させていくはずである。「社会的自立」教育の正体が「社会的同調」教育でしかなかったから、それが通用しなくなっての「子どものだらしのなさ」なのである。

「しつけは文化の押しつけ」と言うが、その「文化」の内容・正当性も問題としなければならない。「学力だけで生徒を評価」するのも、日本の「文化」である。例えば親がパチンコや競輪・競馬といった趣味しか持たないのも、親の文化であるが、子どもが自然にそれを受継いで自らの趣味とした場合、親の「文化」の意図しない「押しつけ」の可能性があるが、「子どもにとって」「つらいこと」とは限らないし、「いやがる」とも限らない。もし親のそのような「文化」を物心ついてから批判的に見るような子どもだったら、親への倫理的、あるいは生理的嫌悪から、親のすべてを、あるいは存在自体を受けつけない可能性も出てくる。いわば親の一切の「文化」を拒否することもあり得る。

また、親が巧まざるユーモアの持主で、その親と話すのが愉しく、自然と親のユーモアを学んで自分もユーモアある人間に育った子どもにとって、親から受継いだユーモア「文化」は決して「押しつけ」のものではなく、「つらい」とか、「いやがる」という感情とは無関係のものとなる。

又文化も教育と同じで、親の文化を伝えるとき、一方通行形式のものであってはならない。親の文化を子どもに意識的・無意識的に伝えるだけではなく、子どもの文化を親が理解し、その内容・正当性・違いに応じて学ぶべきは学び、批判や忠告、あるいは評価が必要な場合はそれらを行う、相互の文化の充実を刺激し合う双方向性の関係を築くべきだろう。

子どもの可能性を考慮せずに、ただ「勉強しろ」「今度の国語のテストは悪かったじゃないか。どうしたんだ」が親にとっての子どもに対するすべての「文化」・価値観だとしたら、まさしく「押しつけ」であり、プロ教師の「文化」「押しつけ」と見なす主張と合致するゆえ、本人は気づいていないままに「文化」の伝達メカニズムを権威主義的な一方通行形式の支配・強制を構造としたものとして捉えているのだろう。

これもプロ教師が集団主義・権威主義を自らの行動様式・価値観としていることからの派生産物なのだろろう。

「一人で生きていくために必要な生活能力」は、「経済的自立」能力を身につければ果たせることで、「社会的自立」(=社会的自律)とは異なる。「社会的自立」とは、「一人で生きてい」ける「生活能力」のみならず、それぞれの成長段階に応じて自己に与えられた社会的役割を担い(それがあくまでも正当と見なされた場合に限ってのことだが)、果たす能力を身につけなければならない。具体的には社会の一員としての権利と義務をバランスよく表現できる人間として存在することである。

例えば、自分一人の給料で親から独立した生活を送っている人間が選挙のたびに自分の選択ではなく、上司の依頼する候補者に投票することを習わしとしているなら、自分の立場や将来性をよりよい状態に保つための「生活能力」(=自己保身)を優先させたもので、決して「社会的自立」(=社会的自律)行為とは縁遠い性格のものである。

「しつけの目標は、母親にとって手のかからない『いい子』をつくることである。
 子どものほうも、はじめは一生懸命にそれに応えようと努力するのだと思う。お母さんからほめられたい、お母さんが言うようにやりたいと、小さいときから一生懸命がんばるのだが、しかしいつまでもそんなふうにはいかない。中学生になるころ、もう少し早い子は小学校三、四年ぐらいから、だんだん親の言うとおりにはならなくなる。たぶん、子どものなかにいろいろな欲望が大きくなってくることに関係するのだろう」
(p124)

これは学級崩壊にそっくりと重なる状況を表している。「母親」を「学校・教師」に置き換え、主旨を変えない範囲で少し手を加えてみる。

「学校でのしつけの目標は教師にとっては『例え授業を受けるのがつまらなくてもやらなくてはいけないのだ』(p30)という教えにおとなしく従う手のかからない『いい子』をつくることである。『子どものほうも、はじめは一生懸命にそれに応えようと努力するのだと思う』。先生から『ほめられたい』、先生の『言うようになりたいと』入学当初は『がんばるのだが、しかしいつまでもそんなふうにはいかない』。二年生ともなると、『もう少し早い子は』一学期か二学期も過ぎると『だんだん』教師の『言うとおりにはならなくなる。たぶん、子どものなかにいろいろな欲望が大きくなってくることに関係するのだろう』

子どもが「親の言うとおりに動かなくなる」のは、具体的にはどのような「欲望」「子どものなかに」「大きくなってくる」からなのだろう。ただ単にあれが欲しい、これが欲しいという物質的欲望の肥大化を言っているのだろろうか。プロ教師は、「親は子どもの欲しいものは何でも買ってやり、やりたいことはなんでも認めてしまう」(p48)と言っている。いわば子どもの物質的欲望に関しては、親の方がこどもの「言うとおりに動」いているのである。

ところが、「親は自分の理想像に子どもをはめ込むことに熱中し、幼稚園の頃から、学習塾だ、ピアノだ、スイミングだと必死に子どもの尻をたたく」が、誰もが期待に添えるわけではなく、「遅かれ早かれ挫折するのは目に見えている」(p48)とも言っている。このように子どもの現実の姿が親の「理想像」に重ならないという文脈で、「言うとおりに動かない」ということなら、子どもの欲望ではなく、親の欲望の身勝手さ・非現実性を問題とすべきだろう。

子どもが「親の言うとおりに動かなくなる」のは、生徒が教師の「言うとおりに動かなくなる」のと同じ理由によるものだろう。子どもがまだ自分自身の能力で価値判断を下すことのできない対象に関しては、自分の行為の拠り所を親の権威・命令・指示に依存し、無批判・無条件に同調・従属するが、成長に応じて身につけていく自分なりの価値観や精神性に従った主体的行為欲求――自分で判断し、行動する欲求を持つに至るが、それが親や教師の要求する価値観や精神性とズレが生じた場合、そのズレに気づかずに親や教師が従来どおりに自己の価値観・精神性を権威主義的に押しつけたとき、当然反発や対立・拒否が起こる。そのことが「言うとおりに動かな」い状況となって現れているのだろう。

プロ教師は「いろいろな欲望」とおおざっぱに表現しているが、外部からの支配や強制・管理を受けずに自分で判断して行動したいという欲求(「欲望」)は人間の成長に伴う自然な動機づけとしてあるものだが、親・教師共が権威主義的な支配・強制・管理のみに重点を置き、正当な欲求解消へと導く言葉を持たないために、子どもたちは正当と非正当との狭間で成長に伴う社会的欲求を生理的欲求(物質的欲求)で誤魔化すといった宙ぶらりんな状態に置かれているのである。

「きちんと生活したり、勉強するのは、お前が一人でいくて行くために必要なことなんだ『社会的自立』のためにはどうしても必要なんだというような目標を立てるのと、母親にとって『いい子』に育つというのとでは全然違う。
 たとえば、我慢すること一つをとっても、一人前になるために必要なんだという目標がなければ、子どものほうはだんだん、まあいいやという感じになってしまうだろう。本人が自分に必要であると思わない限り、自分からつらいことを受け入れることなどできない。『母親のため』ではとても無理なのだ」
(p124〜125)

「我慢」のすべてが、意味あるものとは限らない。ところが、すべての「我慢」を意味あるものとした文脈で解説する矛盾・誤魔化しを行っている。「社会的自立」とは積極的意志の働きかけによって可能となる行動形態である。「つまらなくてもやらなければ」(p30)>とか、「したかないから我慢してやろう」(p30)>といった受身の姿勢、あるいは意味を見い出すことのできない「我慢」からは「同調」意識は育まれても、「自立」(自律)意識は芽生えることはない。

もし教師の授業が真に退屈でつまらないものなら、授業が面白くないからと私語・席立ちを行う「学級崩壊」現象は、正当とは言えなくても、抗議のための条件反射行動と言うことができる。その場合の「我慢」は無意味・無価値である。

「結局、一般的には小学校の中学年ぐらいから母親のいうとおりにはならなくなるのだろう。もちろん、母親の言うとおりにならないことは、本人の自立ということを考えればけっこうなことことなのだが、だからといって、自分でしつけに類することを身につけようと思うわけではない。となると、そのままでは一人で生活する力はつかず、結局母親が尻ぬぐいをし、身のまわりの世話をせざるをえないということになるのだろろう。
 もしこのとき、父親が、それじゃあ一人前になれない、と子どもに強く迫ることができれば、ちがった展開になるかもしれない。しかしそういう父親は少数だろう。こうして、しつけはたいていの場合、失敗することになるのである」
(p125)

教師が、「それじゃあ一人前になれない、と」と生徒に「強く迫ることができ」ていたなら、現在の教育荒廃と「ちがった展開にな」っていただろうか。

プロ教師は「一人前」という言葉が好きらしく、盛んに使うが、何をもって「一人前」としているのかは不明である。人間は日常普段の行動を「一人前になるために必要」だとか、「自分の人生にとって必要」であることを基準にすることはまずないだろう。人間はそんなふうに常に大上段に構えて生活できる生きものにはつくられていない。上位権威者が下位権威者の尻を叩くために大上段に構えた言葉をおどろおどろしく掲げることはあるが、それがスローガンであることから免れることができないのは、どんな人間も自己自身の打算や利害から逃れることができないからである。

子どもが勉強に意義を見い出せずに、テレビゲームなどに意義を見い出すのは、親・教師が勉強を最優先の価値観と位置づけて、それを武器に子どもを支配・強制する道具としているからだろう。その正当化のスローガンが、「一人前になるために必要」だとか、「自分の人生にとって必要」、「社会的自立」なるもっともらしい綺麗事の言葉なのである。

戦国領主は敵武将の首をいくつ獲ったかに応じた論功行賞で味方武将の支配の道具としたが、現在の親・教師はテストの成績に応じた人間的価値付け、あるいは学歴への期待子ども・生徒の支配の道具としている。勉強が支配の道具としてではなく、感性や想像力を豊かに刺激し、生徒の世界を無限に広げるものとしてあったなら、親・教師がことさらに「一人前になるために必要」だとか、「自分の人生にとって必要」、「社会的自立」だといったことを言いたてなくても、あるいは「つまらなくても」とか、「したかないから我慢して」授業をうけるといったこともなく、主体的に知識の獲得にいそしむはずである。

いわば意義を見い出せるか見い出せないかにかかっているのであって、「一人前」とか、「一人前」でないとかにかかっているわけではない。学校教育がテストの解答知識を伝えるだけの暗記教育というごく狭い世界のものとなっているために、その狭さに応じてテレビゲームといった趣味の世界も程々にしか広げることができなかったとしても、そういったものに意義を見い出すしかないのである。逆に授業が彼らの世界を様々な方向に拡大・増殖していく性格のものであったなら、テレぴゲームとかバラエティ番組とかはほんの気晴らしを得るだけの地位(機会)にとどまるだろう。

「考えてみれば、社会の支えを失ってバラバラになった家庭が、自分だけでしつけをすることなどできることではないのだ」(p125)

散々母親なる存在を貶(おとし)める「母親性悪説」を並べ立てておいて、最後にもっともらしげに「社会の支え」との関連を持ち出す。プロ教師の十八番(オハコ)中の十八番(オハコ)である。

どうしつけるかは親それぞれの感性・想像力の問題である。感性・想像力が親の言葉や態度を決定する。例えば親が権威主義的な感性・想像力、即ち一方的な言動で子どもの意志を支配・強制し、様々な命令・指示で親の意志を押しつけるしつけに対して、子どもが何ら疑うことなく従順に同調・従属する対親関係を基本とするに至ったとしても、その反映として学校では教師の、社会に出てからは上司の命令・指示に言いなりに同調・従属することによって、いわば親に対してそうであったように常に「いい子」であることによってそれなりに地位を占めることもあり、そのしつけは成功ということになるだろろう。

問題は親の権威主義的な支配・強制に対して、例えそれが社会的に正当なものではなくても、子どもが独自の価値観や可能性・権利意識に目覚めて拒絶反応を示し、ノーという態度を取る場合である。

日本人が総体として集団主義・権威主義を人間関係の行動様式としていることを考えると、プロ教師の言う「社会の支えを失」い、その結果あるものとして、まさにこの種の親子関係の断絶状況を言うべきで、子どもの価値観・文化・可能性を考えない、「勉強しろ、勉強しろ」といった親の態度・価値観に特徴的に現れている子どもの意志に対する支配・強制はむしろ、「社会の」学歴主義を「支え」として、その反映としてあるものであろう。

言い直すとすると、学歴主義は日本社会全体が「支え」ているものとしてあり、その「支え」を無定見に受入れ、子どもに正義として迫っているものなのである。戦争中、軍国主義を正義として体現させようとしたようにである。

一つ現実的な例を挙げてみよう。勉強の嫌いな生徒が母親の、「お母さんの兄弟の子はみんな高校以上は出ているのよ。私の子だけが中卒では格好がつかないから、どこでもいいから高校に行ってよ」といった哀願は学歴で人間価値を判断する学歴社会という社会的慣習を「支え」とした態度であり、もし子どもが、「俺も高校ぐらい行かなければ体裁が悪いから、入れるところを探して行くよ」と答えたなら、その態度も母親同様の学歴主義という「社会の支え」にそのまま従ったものである。

もし、「お母さん、中卒だって生きて行けないわけじゃない。好きになれない勉強を無理してするよりも、何か好きになれる仕事を見つけて、頑張った方がいいと思う。友だちのお父さんは中卒で、大型トラックの運転手をしていたけど、自分で会社を起こして、トラック一台から始めて、今では二十台近い大型トラックを持った会社の社長になっている。バブルという時代に恵まれたこともあるだろうけど、中卒に可能性が全然ないわけではないよ」と答えたとしたら、親の学歴社会を従属的に反映させたしつけに対する「言うとおりに動かない」そのような拒絶態度は、親の意図に反したとしても、中学生ながら自分から既に「社会的自立」意識に目覚めていると言える。

親の躾が例え「社会的自立」を目的としない、母親のための「いい子づくり」だったとしても、子どもは自らの力で「社会的自立」を獲得して行く場合もある。但し、家庭も学校も、日本という全体社会に包み込まれた一部で、その反映・ヒナ型であることをなかなか免れることはできない。免れるには余程の自覚と対処が必要となる。例え家庭のしつけが「社会的自立」への道ではなく、親の情緒性に支配されたものであっても、学校社会において教師が生徒に対して自覚的に「社会的自立」教育を施すことができたなら、家庭での「社会的自立」教育の不足を補って、生徒に自立意識を植えつけることは可能で、そのように獲得した場合の生徒の自律意識は親に逆照射して親自身の「社会的自立」意識を促す反応剤とすることができるはずである。

ところが、子どもがその反対の状況にあるということは、学校においても、「社会的自立」教育が形式や体裁で終わっていることの証明以外の何ものでもなく、それはプロ教師の「社会的自立」なる言葉が単なるお題目でしかないことの証明でもある。学校は家庭の「社会性」「社会的自立」に関わるしつけ不在の防波堤になり得ていないのである。プロ教師は「母親性悪説」を持ち出す前に、「教師性悪説」を持ち出すべきだろう。

「しつけから勉強に目標転換」(p125)と題して、「自分の子どもが勉強できるかできないかは母親にとってプライドに関わることのようである。そういった価値をつくったのはもちろん個々の母親ではなく、世の中全体が生み出したものだが、母親は強くそれに規制されている。そのために自分の子どもが勉強ができないとなると、母親のプライドはおおいに傷つけられるのだ」(p126)

鉄面皮とはこのことを言うのだろう。テストの成績で生徒の人間的価値を決定づける点数価値観の蔓延・跋扈(ばっこ)に学校教師の力がどれほどに預かっていたか、学校教師がどれほどに率先垂範して手を貸した結果「生み出」された「世の中全体」の状況なのか、そのことを何ら省みない図々しい観察でしかない。教師自身の能力・教育力量をクラスのテストの平均点や上級学校への進学率の高低を基準に計ってきているのである。「世の中全体が生み出したもの」とする情状酌量を与えているようで、実際は体裁を飾る言葉でしかなく、母親という存在に罪をなすりつけることで学校教師の責任を曖昧にしようとする薄汚い責任転嫁そのものなのである。

「あたりまえのことだが、すべての子どもが勉強ができるようになるわけではない。努力してみたとしても、遅かれ早かれほとんどの子どもが挫折するのは目に見えている。
 こうして、生活の仕方が身につかないばかりか、勉強でも挫折し、生きる自信さえ失うことになるのである。これが最近の子どもの状況である」
(p126)

「子どもの状況と新しい事態を引き受け、できることは精いっぱいやることが必要」という提唱が100%ウソと分かる、この上なく冷たく突き放した態度である。何かと言うと、降参でしかない「お手上げ」表明ばかりで、現場教師として、何をなすべきか、何をなしたならいいのかといった自問自答がないのは、日本の教育荒廃状況に胸を痛めている様子がどこからも窺えないことに関係するのだろう。

次は、「母性にからめとられる学校」(p126)と題して、「母親性悪説」がなおも続く。

「家庭は学校とくらべると、相当にきついことを生徒に要求する。むずかしいことに挑戦して、自分の力を試さなければだめだとか、つらくても我慢しなければいけないと言う。しかしそんなとき生徒はいつも親に保護されているから、自分から勇気を出して一歩前に出ることがひじょうにむずかしくなった。
 小さいときからきついことを要求されてきたわけではない。仮に要求されても、できなければ結局母親がやってくれたから、教師の要求に応えようということにはならないのである。だから、教師はたいていの場合、母親に負けることになるだろう」
(p127)

ここでも、学校・教師が如何に無力な存在であるかをプロ教師自らが証明している。「相当にきついことを生徒に要求」していながら、「教師はたいていの場合、母親に負けることになる」のである。前節で、「父親が、それじゃあ一人前になれない、と子どもに強く迫ることができれば、ちがった展開になるかもしれない」と言いながら、教師が「きついことを生徒に要求」しても、「ちがった展開」を見い出せないとは、何のために学校教師に就くための訓練を受けてきたのだろうか。

「負けること」が分かっているなら、「子どもの状況と新しい事態を引き受け、できることは精いっぱいやることが必要」などと矛盾したことを提唱すべきではない。

生徒が「教師の要求に応えようということにはならない」のは、「むずかしいことに挑戦して、自分の力を試さなければだめだとか、つらくても我慢しなければいけない」といった言葉が相変わらず口先だけのスローガンであることから免れることができていないからだろう。教師の日常普段の言葉や態度から生徒が自らの人格や感性・想像力に優れた影響を受けていたなら、「むずかしいことに挑戦して、自分の力を試さなければだめだとか、つらくても我慢しなければいけない」といった言葉を待つもでもなく、自分から「挑戦」もし、「自分の力を試」しもするだろう。プロ教師がそのような教師でないために、どのような言葉を口にしても、通じないだけの話である。

「ひょっとすると、夫婦関係がちゃんとしていないのではないかと思ってしまう。夫と妻の関係が、大人と大人の関係として成立していれば、子どもにあんなにかまうことはことはないのではないのか。夫との間に大人の関係が成立していないために、自分の息子を代理の恋人のようにしているように思えてならない」(p127)

とんだ濡れ衣である。「大人」となっていないのは日本人全体に言えることで、夫婦だけの問題ではない。日本人が「大人」として成熟することができるだけの精神性を持ち得ていたなら、「夫と妻の関係」も、「大人と大人の関係として成立」するはずだからである。親は親だけの存在として社会に生存しているわけではない。社会人としても生存しているのである。社会人として相互に「大人と大人の関係」「成立」させることができるのに、夫と妻の関係」では、「大人と大人の関係」「成立」させることができないと言うのでは、矛盾でしかない。

 

           今回はここまで
      次回は
 「父性の力こそ学校を支える」を批判

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