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    第118弾    小泉首相の「心の問題」
                                                 upload.6.01.15.(日          


 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 06年1月12日のNHKの朝のニュースで、小泉首相は訪問先のトルコで、総裁選で靖国問題を争点にすべきではない。人に行けとか、行くなと言われるべきことではなく、心の問題だと語った」といったことを伝えていた。

 最近、小泉クンは盛んに「心の問題」靖国参拝正当化理由に挙げる。「死ねばみんな仏になる」、「罪を憎んで人を憎まずは中国の孔子の言葉だ」「参拝は内政問題で、中韓の批判は内政干渉に当たる」が影を潜め、完全にシフトしたようだ。余っ程気に入っているのだろう。

 「心の問題に他人が干渉すべきじゃない。ましてや外国政府が戦没者に哀悼の誠をささげるのを『いけない』とか言う問題じゃない」――

 さすがに国民的人気を博した小泉クンだけのことはある。その言葉の才能たるや、次から次へと新しいギャグを連発して笑いを取る売れっ子のお笑いタレントに劣らない 頭のキレである。

 確かに「心の問題」である。世界に冠たる経済大国日本国総理大臣である。言うことに間違いがあるはずはない。

 但し、行為となって現れる「心」が正常な色合いのものなのか、病んでいる情況のものなのかは別問題である。そこまでは考えていないのは、単細胞人間の小泉クンらしい。

 最近は見かけないが、ひところ前は他人の身体の不具合や、心身面の未発育からくる動作のぎこちなさを笑いのネタにしていたタレントをしばしば見かけたが、お笑いタレントだからと言って、何でも笑いの対象にしていいというわけのものではない。笑いを取ることをすべてとして、節度を弁えずになりふりかまずに他人の劣る部分をけなして何とも思わないのは、どころか、笑いを取れば、してやったりと得意になる意識の発動は、間違いなくその人間の「心」に属する問題であろうが、だからと言って、心の領域に関することはすべて正しいとすることはできない。

 ★警察や官僚が諸経費から裏ガネを捻出・プールして飲み食いに使うことを日常的な役目として何の疑問も感じないとか、政治家不法政治献金でオイシい思いをして恥じることを知らないとか、それぞれは「心の問題」に入る。それを「心の問題に他人が干渉すべきじゃない」とすることができるだろうか。実際にはしているから、いつまでたってもなくならない光景となっているのだが。

 ★無力・無防備な女児を力ずくでその自由を奪い、自分の性的欲望を満たした罪で服役した男が出所して、また同じ犯罪を犯す。「幼い女の子でなければ、性的興奮が起きない。例え卑劣だと言われようと、これは俺の心の問題だ。犯罪なのは分かっているが、心の仕組がそうなってしまっているのだから、俺自身にはどう解決もつかないことなのだ。裁くのはいいが、心の問題に他人はあれこれ干渉しないでくれ」などと、犯罪と「心の問題」は別々に扱ってくれと主張したとしたら、その主張は許されるだろうか。許されるとしたら、その累犯性と残忍性を問えなくなる。

 人はそのような精神的嗜好を異常な病気だとするだろう。警察や官僚・政治家の例も、それぞれの責任ある立場に当たり前とされる倫理観に照らした場合、異常な病気に仕分けることができる振舞いであろう。いわば、「心の問題」だからと言って、常に正しい精神の発動からの行為だとは限らないし、すべての人間に受容される行為となるとも限らない。

 小泉首相としたら、靖国参拝女児暴行を一緒にするなと言うだろうが、「心の問題」が常に正しいとすることができるどうかの傍証例とはなりうる。

 小泉首相は年頭の記者会見で、次のように言っている。

 「一国の首相が、一政治家として、一国民として戦没者に感謝と敬意を捧げる。精神の自由、心の問題について、政治が関与することを嫌う言論人、知識人が批判することは理解できない。まして外国政府が介入して、外交問題にしようとする姿勢も理解できない」

 女児を暴行し、あるいは暴行の上首を絞めて殺してしまう犯罪者の中には、暴行の瞬間、あるいは首を絞める瞬間、手応えある確かさと思いのままの力を発揮する強い自分が現れて、すべてから解放される「精神の自由」を味わう者もいるのではないだろうか。そのことのためにだけ、再び同じ犯罪を犯す。 

 「感謝と敬意を捧げる」という「心」の発動が常に正しい発動であるとは限らず、その判断は発動主体及び発動対象、それぞれの行為性に従う。発動対象について言えば、日本の戦没者が自由とか民主主義といった正義のために戦い、正義に殉じて戦死したというなら、「感謝と敬意を捧げる」対象となり得る。その戦争を戦うことが戦前は国家の正義とされていたとしても、その正義は戦後否定された思想なのだから、戦後に行う「感謝と敬意を捧げる」は否定された思想を肯定する皮肉な逆説行為、もしくは倒錯行為となる。

 例え「死ねばみんな仏になる」としても、国の命令とは言え、同調して結果的に不正義となった行為を犯した末の死である。一般戦没者に対して、君たちも犠牲者だったといたわりや慰めを与えることはできても、国の命令を自らの使命、あるいは運命として一身に担った彼ら自身の行為と考えが、不正義と解釈されるに至った戦争へのエネルギーとなったことを考慮すると、そのことゆえにやはり「感謝と敬意」の対象とはなり得ない。特にA級戦犯に対してはなおさらであろう。

 戦前の正義のまま、戦後否定していないというなら話は別である。このことは発動主体の問題に関わってくる。

 ★小泉首相にしても、「感謝と敬意」「心の問題」として許されるとしているのは、戦前からの思想――日本の戦争を正義とし、正義の戦争で死んだ者を正義ある英霊と祭上げる靖国神社的正義(=国家主義的正義)を戦後の現在も、自らも受入れ、同調している主体となっているからこそ可能なのである。口で言うのとは裏腹なしに戦後の否定を厳密に介在させた参拝行為であるなら、「感謝」とか「敬意」といった感情表現は表出不可能のメカニズムとしてあるものだろう。

 それとは逆に、現在の日本の政治指導者として、戦前の日本の誤った政治指導者に代わって、ニセモノの正義を押し付けたこと、そのために無意味・無価値でしかなかった死を無残にも与えたことを謝罪するというなら、「二度と戦争を起こさないために」という自分の言葉に矛盾しない整合性を獲得することができる。

 小泉首相は「感謝と敬意を捧げる」たびに、否定の否定となる戦後否定の踏み絵を踏んでいたのである。