教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
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――靖国神社参拝を正当化するために、ありとあらゆるレトリックを駆使したエール≠ェ盛んに交換されている。中国の反日デモが幸いした反中国感情のお陰で、その効果は国内向けにはかなりの点数を稼ぐに至っている。目出度い限りではないか。 ――邪魔者は、何だかんだと言っても、強制すれば厭々でも仕方なく従い、そのうち、抵抗感をなくしていく健忘症日本国民よりも、何と言っても中国、それに韓国だ。散々日本の援助を受けながら、有り難がってペコペコと頭を下げたのはそのときだけ。図太く、恩知らずな連中だ――。 ――連中さえ黙らせたなら、既に君が代・日の丸法案は成立させている 。次に靖国神社参拝を義務付ける靖国神社参拝法案をうまく成立させることができないものだろうか。その勝利のときを果てしなく夢見て、ウズウズ・ヤキモキしている苛立った囁きが絶えることのない内心の風のざわめきのように充満しているが、焦ることはない。 ――エールの数々を改めて振返ってみよう。常に検証が必要だ。効力を失わしめる反論を前以て想定して、それをも打ち破る理論武装が必要だ。どう贔屓目に見ても反論に打ち勝ち難いエールなら、新たなレトリックを自由自在に構築しなければならない。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 「個人の心情」、あるいは、「内政干渉」なるエール。 ――靖国神社を参拝するしないは、「個人の心情」の問題であって、他国は干渉すべきではないとするエールはかなり多くの国民に賛同票を得ている。例えば、官房長官時代の福田某は、小泉首相の靖国参拝を擁護する次のような見解を述べていて、現在ではその正当性はより幅広く支持を得ている。 「個人の立場で、自らの心情から出た行動ですから、そのことについて政府としてとやかく言うべき筋合いのものではない」 ――「内政干渉」について 流布している一般論を挙げると、 「国に殉じて亡くなられた方々をどういう形で参拝するかは、国それぞれの問題であって、日本のやり方が悪いと言うのは内政干渉に当る」 ――といった主張である。小泉某自身も、こう言っている。 「どのような追悼の仕方がいいかは他国は干渉すべきではない」 ――そう、何が何でも「個人の心情」の問題であり、そのことをとやかく言うのは、「内政干渉」に当る。このことに対する、どのような反論が考えられると言うのだ。世間にほんの少しでも流布する反論を拾い集めて、手強い文章に仕立てて見よう。論破する訓練のためにも。 反論その手始め。 「個人の心情」であることを認めよう。但し、日本人である以上、意識するとしないとに関係なしに日本が起こした戦争の歴史性から免れることはできないのだから、参拝行為は、それが「個人の心情」から発した性質のものであったとしても、単に、「国に殉じて戦死した元兵士を悼む」ことだけでは終わらない歴史性の表現行為となる。いや、常に歴史性を担った表現行為でなければならない。 例えば、歴史云々に関係なく、「お国のために戦い尊い命を国に捧げて亡くなったのだから、追悼して当たり前とする素朴な思い・個人の心情を表した参拝に過ぎない」としたとしても、そういった発言をする政治家が如何に多く、また、そういった発言に追従し、共有する日本人が如何に多くても、戦没者は靖国神社を精神的なバックアップの重要な手がかりとして、戦争を演じた主たる共演者を成す以上、その歴史性は、「お国」がつくり出した歴史に無関係とすることはできない。 いわば、靖国神社も戦没者も、さらに戦争中の「お国」も、それぞれが抱えた特殊な歴史性は戦後に時代を変えたとしても、歴史の連続性と相互関連性を失うわけではないから、決して切り捨て御免で済ますわけには行かないはずである。 ということは、歴史に無知な人間ならいざ知らず、参拝するからには、歴史性に無知であってはならないことになる。 逆説するなら、無知を動機とする以外は、誰もその歴史性からは逃れられないということである。こうも言える。歴史性を反映しない「個人の心情」だとしたら、歴史に対する無知表現でしかない。 まさか、歴史性の無知表現としてある、「個人の心情」からの参拝ではないはずである。 ――これは厭な反論だ。世の中にはひねくれた屁理屈屋が存在するものである。確かに歴史は連続している。しかし、戦前という一時期、民族の心を失ったに過ぎない。民族の心を回復したなら、過去の歴史は乗り越え可能となる。国を誇り、国を愛すること――そのことが国を正しい道に導く。過去の歴史にトラウマの如くに囚われていたなら、国を誇り、国を愛することもできない。過去を払拭した未来志向こそが、日本を世界に立たしめる。過去に足を突っ込んだ未来志向とは、二律背反でしかない。 歴史の連続性を満たし得る唯一の条件は、「過去」の「払拭」(=過去を失くしてしまうこと)ではなく、検証した過去を引き継ぎ、その上に立った「未来志向」を措いて他にないはずだが、まあ、いい だろう、「払拭」としたほうが、日本にとっては都合がいいだろうから。それが許されることだとしているところに日本人の素晴らしさがある。 では、歴史性から離れて、「参拝の形」を前面に出したレトリックによる参拝エールへの反論 。 裸の参拝だろうと、フンドシ一丁の参拝だろうと、「どういう形で参拝するかは、国それぞれの問題」である。男の裸もフンドシ一丁も見たくもないが、その通りである。よくぞ正しいことを言ってくれたと思う。 中国・韓国、その他のアジアの国々が問題にしているのは、参拝の形・方法ではなくて、靖国神社を舞台とした参拝行為そのものに対してであることは面の皮を厚くして無視しよう。昨今のマジックブームに乗っかったわけでもないだろうが、中山某の従軍慰安婦の事実よりも、「用語」の問題を上位価値に置くのとそっくり同等な見事なトリックである。マジックだったなら、目にも止まらぬ早業の拍手喝采ものだろう。 政治家はマジックができないから、トリック代わりにレトリックを使うなんてことも言わないことにしよう。 中国・韓国その他が参拝行為そのものを問題にするのは、A級戦犯を含めた先の戦没者を参拝・追悼の主たる対象としていることからだろうが、それを参拝の形・方法問題に変身第100号くらいに変貌させる誤魔化しをやらかさざるを得ないのは、「国に殉じて亡くなられた」という言葉が、「殉じ」た戦没者を主体としているのではなく、「国に殉じ」たと、「国」を主体に置いていることから分かるように、そのような主体・客体の関係性に隠し絵のようにはめ込まれていて、国家主義者の恒常的な衝動原因となっている、日本という国家を上に置き、それを絶対とする伝統的な国家絶対視 への欲求が戦没者追悼儀式によって解放される数少ない大事な機会だからであり、そうであるゆえに失うわけにはいかないからである。 国家絶対視は国民に対しては、国家を上に置かせ、それを絶対とさせる、逆の力学を持つのは当然のことである。 殉ずるなる言葉を見てみれば 、国家絶対視は理解しやすくなる。その意味するところは、「主人や恩人の死んだあと、その後を追って死ぬ」ことであったり、「任務や信念のなどのために命を投げだす」(『大辞林』・三省堂)ことであるように、命を捧げる対象への絶対視を条件として成り立つ行為である。 いわば「殉じた」とは、天皇や国家への絶対視を前提として成り立たせた命の捧げなのである。 これは天皇と国家を絶対的存在として上に置いて自己を下に置く主体・客体の関係性を示すものであろう。 国家を上に置き、それを絶対とする国家絶対視に戦前と戦後のありようを収斂させていくと、中国と直接戦い、韓国を巻き添えにして戦った内と外との戦争でありながら、「お国のために」のみ戦った日本だけの戦争と転化させることが可能となり、そのような国家絶対視 の意識のメカニズムを受けて、それと同じ文脈で、自国兵士の戦死のみを視野に入れて、 そこにどのような戦争行為があったのかを無視して、「殉じた」とすることができる。 天皇が今回サイパンを慰霊訪問したが、戦争当時のサイパン在住民間日本人が米軍の捕虜になることを拒否して、後からバンザイクリフと名づけられた崖から(中山某みたいな人間に、その当時そのような名前はなかったとケチをつけられないように気をつけなければならない)身を投じて、「尊い命」を自ら絶った。このような民間日本人の行為は、日本軍兵士の玉砕に少なからず相当しないだろうか。 軍所属の慰安所の従業員として、軍と共に行動していた従軍慰安婦が戦闘に遭遇して軍兵士と共に「尊い命」を絶たしめられたといったケースも数多くあったはずである。これも言ってみれば、玉砕に当らないことはない。「お国のために」性を提供していた 、あるいは提供させられていたのである。
だが、彼ら民間日本人及び従軍慰安婦が、「お国のために尊い命を殉じた」とされない、軍人と民間人のこの差別は、国家絶対視を端的直截に表現するには、軍人が最も分かりやすい対象であり、そのような軍人であることから外れていることと、軍人でないゆえに国家絶対視
欲求の解放舞台であり、解放聖地である靖 軍人の死にのみ「殉じた」とする名誉が与えられ、そのような名誉付与の選別を受けて、小泉以下の政治家の「お国のために」に向けた彼らの視線には、民間人戦死者は入っていない。国家絶対視の正体がどのようなものか分かろうと言うものである。民間主義ではなく、常に国家主義を下地とした国家絶対視なのである。このような民間主義の上に国家主義を置く存在様式は、戦後軍は抜けたものの、政・官を上位権威とする権威主義の中にしっかりと生き残ったまま受継がれている。 ついでに「絶対視」なる言葉の意味も付記しておこう。「他と比較せず、それだけを卓越したものとして視ること」(同『大辞林』)とある。 そう、天皇とか、大日本帝国なるお国を「他と比較せず、それだけを卓越したものとして」絶対視していた。 武家時代のお家大事の伝統を受継いでお国大事に変化した全体主義的存在様式とも言える。その意識を受継いで、戦後60年を経た現在という時代に於いてもなお「国に殉じて亡くなられた」として、戦死者の天皇と国を絶対とする 国家絶対視≠ノ向けた、その最高の表現としてある命の捧げを称賛している。 そのことは、とりもなおさず、国民を国家に限りなく集束させていく国家と国民のありようを称賛することでもあろう。彼らの意識には、「お国のために戦った」戦争であるゆえに、敗戦はなかったのである。だから、終戦とした。 終戦なる言葉に、敗戦の意味は含まれていない。勝利とすることさえ可能である。 実質的には勝利だったと。 ――そう、「お国」があってこその国民だからである。国家を上に置いて、どこが悪い。これは反論の類ではない。考え方の違いに過ぎない。ニッポン、ガンバレ、ガンバレ、ニッポン。我々愛国者は、戦後アメリカに占領された悪夢を撥ねのけて、日本人の意識や精神に戦前も戦後も何ら変わらずに、国家を上に置き、それを絶対とする国家絶対視を維持しているのである。 このことこそ長い目で見た場合の勝利ではないか。その岩のような硬い意志を称賛すべきではないか。 維持しているほんの一部の勢力の意識を、国民全般の意識とすべく画策している。外国との歴史的関係性を捨て去って日本という国のみを絶対(基準)とし、そのことを国民にも要求する国家絶対視。そのような国家と国民のありようは、それを戦前に限りなく近づける形で実現させるべく、政権与党たる自由民主党は、自らの憲法改正条文に日本の歴史・伝統・文化の優越セルことを訴えて、戦前同様の国家絶対視の切札にすべく、それらを取込む血の滲むような努力を払っている。 ――日本の歴史・伝統・文化の優越セルことは事実中の事実である。覆すことのできない民族の事実としてある。何人も否定はできない。国民は自由民主党の努力を多としなければならない。国家絶対視こそ、日本国民が国を成り立たせるアイデンティティとしてある。アイデンティティとしなければならない。 このように追悼とは国家による国家絶対視&\現の重要な機会の一つであり、 国家を上に置いて、それを絶対とする意識操作によって、中国との戦争ではなく、また韓国に対する植民地支配と呼応関係を成した戦争でもなく、日本の戦争であるとする以外、すべてが捨象可能となる。何とも便利な意識のメカニズムではないか。 ――中国・韓国等々、相手があって戦った戦争であり、日本という国のことだけを考えて、絶対とするわけにはいかないなどとするのは自虐史観病者だけである。このような病者の国内蔓延は、国民の100人に1人が糖尿病患者及びその予備軍だと言われている成人病状況よりも深刻な問題であろう。「個人の心情」問題で何が何でも切り抜けなければならない。そうしたとき、「内政干渉だ」とする抗議が生きてくる。「国に殉じた」命の捧げを称賛する追悼儀式を通して、国家絶対視≠フ思想を戦前同様に強固なものとしていくためにも。 ――また、国立追悼施設建設など、論外中の論外である。靖国神社の存在を前提にしてこそ、そこに英霊として祀られる名誉の付与という国家と国民の間の契約の成立を成さしめたのであり、その契約に基づいて命の捧げが行われ、そうすることを兵士は自らの誇りある宿命とし得たのである。そのような歴史的経緯によって、靖国神社は国家絶対視≠谺させる舞台として、両者は一体を成すことが可能となっている。両者とも戦前と戦後をつなぐ日本の伝統そのものとして存在している。それらをすべてひっくるめて靖国思想は成り立ち、平成の時代に至っている。国立追悼施設建設は、靖国という一方の伝統を失わせることによって、国家絶対視≠フ流れを戦前と戦後で断ち切って弱めかねない。靖国思想の崩壊をも意味する。その建設には断固として反対しなければならない。 ――日本人は自らの民族性から逃れることはできない。いわば、如何なる日本人も、自らの民族性をバックボーンとしなければならない。自らを立たしめる矜持として、自らの民族性を誇って、どこに誤りがあるのだろうか。民族が血とし、骨としている歴史・文化・伝統を他ノ民族ニ優越セルとして、誇りを確かなものとする。その基準に添わない不純物は排除して、優越セル成分を一層純化させる。民族の止揚・アウフヘーベンである。そのように価値付けされた国家絶対視である。他ノ民族ニ優越セル国を表現するには、追悼場所として、命を捧げた軍人・兵士が眠っている靖国神社を措いて他にあるだろうか。 国家絶対視に絶えずエネルギーを与え続け、経常的にその生命力を補強しているのは、言うまでもなく、他ノ民族ニ優越セル国∴モ識の姿を取った日本民族優越意識に他ならない。単一民族意識も、日本民族優越意識をバックボーンとして、それと相関関係を成している。ひそかにではあるが、燃え尽きることのない、何ともすさまじい、褒め称えるべき民族の血・民族の炎ではないか。 但し、誉むべき創造的才能を持たない人間ほど、家柄(血統・血)や財産を自己存在証明の道具として誇るように、政治的創造性によってそうする力がなく、その埋め合わせにカネの多寡で勝負し、それを国際社会に於ける日本の外交的な自己存在証明としている国家の創造的実質性の欠如に対応する形で、靖国神社の伝統を借りた戦没者追悼儀式が他ノ民族ニ優越セル国&\現(=国家絶対視&\現)として存在させている面が大いにある。そのことは国のありようとしては少々寂しい限りであるが、日本の政治家が胸を張って誇らかになれるのは、カネを出すときか靖国神社を参拝するときぐらいだから、大目に見るしかないのかもしれない。 ――政治・外交・科学・教育等々、すべての分野にわたって、カネが投資に力を与え、カネによって力を得た投資が政治・外交・科学・教育等々を発展させる。すべての源はカネである。国民の生活を豊かにする力もカネである。金を稼ぐ能力が日本の民族的特質だったとしても、恥ずべきことではなく、逆に大いに誇るべき事柄ではないか。 人間を、社会的な生きものとして保障されて然るべきそれぞれの社会性を過不足なく役立たせて社会に活動させるには、カネで解決できるインフラストラクチャーの構築だけでは不十分で、そのような活動を自然体で可能とする磁場を社会に用意する社会的創造性がより必要となってくる。 例えば、障害者の雇用率が大企業や官公庁で低いのは、採用しても、十分に活動できる職場を準備できていない受入れ体制不備以前の問題として、それぞれにふさわしい役目を創造して提供する、カネでは解決できない創造性の欠如が原因だろう。 靖国神社参拝の姿を借りて、国家絶対視を誇ることよりも、すべての国民が社会の生きものとして生き生きと活動できる社会を創造することの方が、やるべきこととして重要ではないだろうか。 ――日本は他の先進諸国と比較して、貧富の格差は少なく、より公平・平等な社会を築いている。それが反論に対する答のすべてである。例え障害者の社会進出率が先進国中低くても。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ かの有名な中山文科相のエールに、どんな反論が可能か、試してみよう。 「そもそも従軍慰安婦と言う言葉は、その当時なかった。なかった言葉が教科書に出ていたが、間違ったことが教科書からなくなってよかった」 これは靖国神社参拝に直接言及したエールではないが、中山某自体、正義と愛国を精神的な性愛の対象としている一派に属するのだろうが、彼らの歴史認識を貫いて音高く脈打たせている発言であるゆえに、取り上げてみる。 確かに中山某が言うとおりに、「従軍慰安婦と言う言葉は、その当時なかった」としよう。その点に関する歴史認識には鋭いものがある。正義と愛国の政治家だけのことはある。しかも国民の教育に関係する文部科学相ときている。 「言葉がなかった」とする意図性は、言葉の存在の否定のみならず、事実の存在の否定をも併せて、初めて真正な整合性を保つ。 簡単に言えば、「言葉」は「なかった」が、事実は存在するでは、何のために「言葉がなかった」と言い出したのか意味を失うし、様にもならない。日本の政治家は様にならないのがフツーの姿だと言ってしまったなら、事実その通りだとしても、実も蓋もなくなる。 但し、中山某は日本の政治家のフツーの姿を裏切って、その言葉の存在の否定は事実の存在の否定をも併せ持たせた包摂の関係をも築いていて、整合性に何ら齟齬を生じさせてはいなかったらしい。天晴れと言うしかない。中山某はレトリックだけではなく、トリックも長けている 稀有な政治家の一人に入れなければならないのかもしれない。 「教科書」にその「言葉」が載っていなければ、生徒の目に触れないことによって、生徒にはその事実は存在しない、隠すことができるという高等な二重否定の技術である。 太陽の裏側に月をいつまでも隠しておこうとするようなもので、その範囲内の限定された事実の存在の否定ではあるが、軽く見てはいけない。 事実の存在を肯定する姿勢にあるなら、言葉の存在の否定には向かわず、その言葉が表現し得る内容の全体性と事実との乖離のみを問題として、プラスマイナスいずれかの方向への言葉の修正にとどめるだろう。 いわば、「従軍慰安婦」なる言葉は、歴史上の実態を正確に伝え得ていない、実態を必要以上に残酷物語に仕立てる誇張を生じせしめている、あるいは逆に、残酷・無慈悲な実態を伝えるには、「従軍慰安婦」なる言葉は穏健に過ぎて、もっと過激な表現に代えるべきだと、 いずれかの方向への問題提起となって現れるだろう。 誇張≠ニ受止めていたなら、例えば、「従軍ソープランドガール」とか、あるいは「従軍ボランティアレディー」とかのソフトな表現に代えろと主張するだろう。 穏健≠ニ受止めているなら、「従軍性奴隷婦」とか、「従軍サディズム被害婦」とか、実態に即した過激な表現とすべきと主張した かもしれない。 中山某は、言葉の存在の否定はしたが、言葉の変更を求めなかった。言葉の存在の否定が既に事実の存在の否定を包摂していたから、求める必要がなかったのである。小中高生の目から事実を韜晦する、あるいは事実を遠ざける――正義と愛国を精神的な性愛の対象としている一派にふさわしいではないか。 「教科書」にその「言葉」が載っていないことによって、その事実を知らされない小中高生と、その後に続く小中高生が順次大人になっていき、日本の人口を占める。かくして、殆どの日本人の意識から、「従軍慰安婦」の事実は消える。何とも深慮遠謀な隠蔽計画なのだろう。 発言を新聞記者とかに追及さ れた場合、中山某としては本来なら不可能を可能とするような特別仕立てのレトリックを用いてまでして、事実否定を以って整合性を図る強い信念を示すべきではあるが、その必要すらなく、あっさりと事実を肯定した。 「そういう方々が日本人も朝鮮半島出身者の方も一杯いて、筆舌に尽くし難い苦労をされたことはよく知っている。ただそういう用語はなかったと言うことだ」
そう、あくまでも「用語」の否定にのみ拘った。 まあ、当座の我慢だと思ったのだろう。事実の存在の肯定は口先だけのことで、「用語」が「なくなって」、「従軍慰安婦」の事実を知らない日本人ばかりになるまではと。「従軍慰安婦」という言葉だけでなく、南京虐殺も人体実験も、強制連行も、いや侵略戦争という言葉そ もう一つ、中山某は目に見えない功績を残した。死んだら、英霊ものである。 言葉が実態に即しているかいないかの問題はあったとしても、「用語がなかった」からと言って、理解の的確な手がかりとして便宜的に表現したそのような「用語」が表している事実まで 、隠すことはできたとしても、「なかった」とすることは現実には不可能なのだが、そのことに反して、「従軍慰安婦」と表現した女性たちが存在していたという事実よりも、「用語はなかった」という事実の方により重要な価値を付与している人間が存在することを強烈にアピールしたことである。 だからこそできる「用語」 の隠蔽なのだが、 深慮遠謀な陰毛家にふさわしい、いや失礼、陰謀家にふさわしい中山某ならではのミラクルテクニックだったのだろう。 この「用語」の否定と見せかけた事実の隠蔽にしても、日本という国のみを基準とした国家絶対視の意識なくして駆り立てられることはなかった止むに止まれぬ欲求であったに違いない。 ――事実を肯定したときには、何だ腰抜けが、口先だけであって欲しい、それ以上は許さないぞと思ったが、そういう深慮遠謀があったのか。中山某にして、やっと腰抜けでない、腹の据わった侵略戦争否定主義者が現れたといったところだ。 教科書に載せないこと――何だか小泉某の靖国神社参拝よりも重要なことに思えてきた。都合の悪い「用語」は墨で黒く塗れる検閲を行うことができれば、誠に都合がいいのだが。テレビでは、性的な卑猥「用語」を喋ったときなどは擬音をかぶせて、何を喋ったか分からなくする。 事実とは言葉が存在させているに過ぎない。いや、映像も存在させている。しかし、我々の側にしても、我々の国家絶対視を国民の意識に浸透させるには、言葉も映像も必要とする。小泉某が靖国神社を毎年8月15日に参拝するテレビ映像を国民の目に焼き付けて、首相参拝が戦没者を追悼する日本の文化だということを刷り込まなければならない。それを、中国・韓国からちょっと文句を言われただけで、8月15日を避けやがって。 いや、「用語」が載っていない「教科書」によって教育された小中高生が日本の人口を占めるまで待ってはいられない。悠長な。既に何もかも存在しない。戦後の日本はすべてを克服した。克服し、乗り越えた。ゆえに戦後の日本に於いては、従軍慰安婦の事実も南京虐殺の事実も存在しない。軍国主義下の誤った民族的ミュータントは完全なる抹殺を経て、もはや復活することはない。そう、ミュータント――突然変異体だったのだ。外から災いするモノが現れ、軍国主義の血を注いだ。外からの災いするモノとは、欧米植民地主義なのは言うまでもない。軍国主義のミュータントと同時に欧米植民地主義の息の根も止め、他ノ民族ニ優越セル%本民族の連続性を回復した。元の姿に戻ったのだ。そう、これが反論に対して用意すべき反論である。万世一系――2000年のこの連続性は何ものも断つことはできない。連続の途中でどのような障害が現れようとも、他ノ民族ニ優越セル%本の民族の知恵がそれを克服して、連続性を回復する。いざ、行かん、若人よ。 カナダの大学院で学ぶ20代の日本女性とかが、顔を見てみたいものだが、従軍慰安婦なる言葉は、「一部の日本人が自虐的にも戦後作った言葉」であって、「戦地にある不安定な男の心をなだめ、一定の休息と秩序をもたらした存在と考えれば、プライドを持って取り組むことができる職業だったという言い方もできる」とメールに記して、 エールしてきたと中山某自身が紹介した記事が朝日新聞の夕刊(05.7.11)に出ていた。 中山某め、よほど嬉しかったらしく、「感銘を受けた」とか、「若い方は本当に真剣に考えてくれている。ありがたい」と感謝感激、「私の発言に関してはご批判もあるが、若い方々からの励ましが凄く」と強調して、「多い」と、自画自賛の自己正当化に相努めている。 感激に水を差すようだが、中山某クン、あくまで「従軍慰安婦」なる「用語」のみに拘っているところを見ると、ただそれだけのことで、「用語」を「教科書からな」くすことで、小中学生の目から事実を隠して、存在させなくするといった隠蔽の高等技術を駆使したとしたのは、ただの買いかぶりに過ぎなかったのではないだろうか。 重点を置くべきは、「用語」を「教科書からな」くすことで、 事実が存在する以上、何らかの「用語」が必要なのだから、「従軍慰安婦」なる「用語」を「戦後作」ろうが作らなかろうが、問題ではないだろうからである。いや、事実隠蔽を目的とするなら、「従軍慰安婦」と表現されようがされまいが、それまでも問題ではなくなる。 日本の政治家を、例え1人であっても、買いかぶること自体が大いなる失態だったのかもしれない。 カナダからのエールが自作自演でなければ、「教科書」から「用語」を隠すことに成功する以前から、「用語」だけの存在を否定していた「若い方々」が存在していたことを示す証拠となるもので、その事実は中山某の意図しない僥倖とも言うべき現象で、日本の将来に大いなる希望を持たせる愛国美談ではないか。 「戦地にある不安定な男の心をなだめ、一定の休息と秩序をもたらした存在と考えれば、プライドを持って取り組むことができる職業だったという言い方もできる」 その通り、そう「いう言い方もできる」。事実、カナダの大学院で学ぶ20代の女性の言葉だったなら、政治家を遥かに負かす見事なレトリックである。 日本の政治家にはかくこのような文学的表現は期待できまい。但し「戦地にある不安定な男」の側にのみ立って持論を構成し、展開できる偏った美意識的神経は、日本という国の側からのみ視線を向け、それを絶対とする国家絶対視と重なる、日本の政治家に共通する精神としてあるものだろう。20代の女性が日本の政治家と同等の倒錯心理を自分のものとしているとは、画期的な神経回路の持主と言える。だから、顔を見てみたい。 このような神経回路を持っている若い女性が日本人にいること自体が、日本の将来に大いなる希望が持てる兆候でもあろう。日本もなかなか見捨てたものではない。 確かに業者の募集に応じて、カネのために戦地にまではるばるとやってきた女性もいただろうが、自己の意志に反して、強制させられて性を提供させられた女性もいたのである。インドネシアで日本軍の捕虜となり捕虜収容所に収容されていたオランダ人女性は、未婚という制限理由から17歳や18歳の未成年女性までが、 日本軍の強制を受けて、日本兵の相手をさせられている。 既婚女性を排除したのは、夫ある身なのだからといった情け深さ ・武士の情けからなのだろうか。それとも、男の味を知っていて、面白くないと思ったのか 、モノ≠ニテクニックを比較された場合、劣ることを知っている白人コンプレックスが経験女性を忌避させたのか、大いに研究の余地はある。 応募して自らその「職業」に就いた女性であったとしても、相手の男や人数、時間の選択権は一切なく、不特定多数の男と交渉を持たせられるのである。慰めを与えてくれる男もいたかもしれないが、そんな男ばかりではないのは、現実としてある誰もが否定できない人間社会である。カネをすべてとし、それを忍耐の基準と定めていた女性も当然いたはずである。 忍耐の基準を定めるモノサシが必要であること自体が、「プライド」を殺さなければならない意識作用を伴う。伴わせなければ、モノサシは成り立たない。その「職業」に、積極的意志の介在を「持って取り組むことができ」なかったことを意味する。 ましてや強制された女性にとって、兵士にしたら、「戦地にある不安定な男の心をなだめ」る役目を果たしてくれたかもしれないが、女性の側からしたら、「プライドを持って取り組むことができる職業」などといえる代物ではなく、最後の最後まで、強姦の辱めを受けている感覚から抜け出せなかった女性もいただろうことは容易に想像できる。そんな女性にしたら、地獄そのものの屈辱的な空恐ろしい経験に過ぎなかっただろう。 強制された若い女性が性病検査を受けるために日本人軍医の目の前に定期的に股を開き、性器を曝すだけでも、辱めに重なる辱めと受止め、居たたまれなさを感じたとしても不思議ではない。 大体が、従軍慰安婦訴訟が存在すること自体が、「プライドを持って取り組むことができる職業」ではなかったことを証拠立てている。そのような「職業」だったなら、誰が裁判など起こすだろうか。 小泉共々、手をつなぎあって、靖国神社を参拝していたろう。計り知れない精神的な苦痛・屈辱を受けたと受止めているからこそ起こした裁判に違いないと考えるのが、ごくごく自然な人間の感情なのではないだろうか。 幸いにも20代の日本人女性はそのような感情装置は持っていないようだ。
そのように彼女たちが置かれた状況を全体的に把えるのではなく、「戦地にある不安定な男」の側にのみ立った一方に偏った鋭い判断力に基づいた彼女の見識・視野狭窄は、どのような感性・ その感性・感覚たるもの、やはり国家絶対視≠フ意識をベースとして、その上に仕組んだからこそ可能となった主義主張なのだろう。 その手の主義主張を有り難く承って、「感銘を受けた」とか、「若い方は本当に真剣に考えてくれている。ありがたい」、「私の発言に関してはご批判もあるが、若い方々からの励ましが凄く多い」とすることができる中山某みたいな政治家の存在もまた、まだまだ日本は見捨てたものではないとすることができる、日本の将来に幾筋もの栄光ある光を注ぐ希望ある姿を示すものだろう。ニッポン、バンザイ。 まさか、20代の日本人女性は自分が留学先のカナダで、小遣い稼ぎか、快楽追及のためか、その両方を兼ねてか、カナダ人男性を相手に、彼ら「男の心をなだめ、一定の休息と秩序をもたら」す「存在」を演じていて、そのような自分が「従軍」はさておいて、「慰安婦」という言葉に重ねられることを恐れて、その言葉に拒絶感を持ち、 「自虐的」な創作に過ぎないと断じた上で、「プライドを持って取り組むことができる職業だったという言い方もできる」という言い回しを使った「従軍慰安婦」行為の正当化に仮託して、結婚や婚約といった契約に基づいてはいない自分がしている男と女のフリーな行為をも正当化したのだろうか。 少なくとも、「プライドを持って取り組むことができる職業だったという言い方もできる」とする以上 は、20代の日本人女性は自分の就業先として、そのような「職業」を排除したり否定したりはできないはずである。誰かが用意したなら、面接を受け、検討する義務ぐらいは生じるだろう。 全身を衣服の上からジロジロと舐めまわさられながら。 東南アジアなどから人身売買されて連れてこられて、売春を強要されている日本残酷物語外国人女性にしても、その仕事が日本の「不安定な男の心をなだめ、一定の休息と秩序をもたら」す「存在と考えれば、プライドを持って取り組むことができる職業」 「という言い方もできる」とするなら、単純明快に外国人売春婦と呼ぶのは、蔑むことにならないだろうか。例えば、有料ボランティア快楽婦といったような、「プライド」を傷つけない名前を進呈すべきではないだろうか。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 次は石原慎太郎。
「内政干渉だ」という形ではなく、著名政治家がそれぞれの主張で靖国参拝にエールを送っている。浜渦武生副知事という虎の威をかぶって、それを徹底的に利用した独裁者を影武者として内に飼っていた 首相の靖国参拝に関して次のようように賜っている。 「日本人の精神と文化の本質に深く関わるものだ」 そう、石原某の言うとおり、殉死をキーワードとし、日本民族優越意識と血縁関係にある国家絶対視は「日本人の精神と文化の本質に深く関わ」っている民族性と言ってもいい精神性である。普段は抑えていなければならないそのような精神性を国民の政治的代表たる総理大臣が国民を代表する形で靖国神社を参拝し、戦没者への追悼儀式を通して高らかに解放する。 多くの我らが国家主義者は、内心次のような想いを抱えていることだろう。 「彼らはお国のために戦って、尊い命をお国に殉じた。戦後アメリカ文化に毒され、軟弱になった戦後国民は、彼ら戦没者の国家殉死の理想を見習わなければならない」 国家絶対視を訴えるのはいいが、アメリカを非難してはいけない。外交はアメリカ一辺倒で頼っているのだから、矛盾するではないか・・・と、小泉某が自分の立場を考えて、アメリカ非難では立つ瀬がなくなる自己正当化の修復に努めたかどうかは知らない。 石原某にしたら、首相の靖国参拝ですべてとすることはできないだろう。天皇の靖国参拝を待って、「日本人の精神と文化」としてある国家絶対視はこれ以上ない最高の形で心置きなく表現し尽くされる。我らが石原某は、そう願っているに違いない。いつかは実現させなければならないと。 ――「日本人の精神と文化の本質に深く関わる」以上、「日本人の精神と文化」発祥者の末裔たる天皇が「日本人の精神と文化」の結晶体の一つである靖国神社を舞台に、戦没者への追悼を通じて、「日本人の精神と文化」を戦没者と響き合わせる。勿論、その響きは、国家への命の捧げ=i=殉死)を奏でる音色を併せ持たせなければ、「日本人の精神と文化」は水を与え忘れた花のように萎んでしまう。天皇が参拝する日が1日も早くくることを祈るのは、日本人としたら当然なことだろう。うん、反論に対する見事な反論だ。自画自賛。 石原某はいつだったかテレビで、「中国は日本兵が南京虐殺で20万とか30万とか、事実でない数字を挙げて、虐殺したと日本を非難しているが、中国は文化大革命でそれどころでない人間を殺しているんですよ。ひどいもんですよ」といった趣旨のことを話していたことがあった。 文化大革命は基本的人権を無視し、特定の階層の人間を虫けら同然に扱った、物理的にも精神的にも純然たる偏狭・倒錯の独裁暴力事件で、憎むべき所業ではあったが、文化大革命で紅衛兵等が武闘や粛清で出した死者が100万人を超えるものであったとしても (中国は死者数を3万数千人としているが、実際はもっと多いとされているという)、また日本人残留孤児が日本人であることが露見すると吊るし上げられたり、職場から追放されることがあったとしても、日本に住む日本人女性を強制連行して紅衛兵相手の慰安婦に仕立てたわけではなく、また日本に住む日本人男性を力づくで強制連行して、中国で強制使役したわけでもなく、ましてや日本に住む日本人をスパイだとかの汚名を着せて虐殺したわけでもなく、人体実験に使うために殺したわけでもない。 戦争で日本軍・日本兵が行ったこととは、中国人についての上記の説明とは正反対の、中国という外国の土地で、基本的人権を無視して虐殺や人体実験を行い、あるいは中国の土地から強制連行して、慰安行為や過酷な労働に使役する偏狭・倒錯の独裁暴力行為だったのである。 文化大革命は言ってみれば、中国内の中国人同士の権力闘争・騒乱であって、中国に於ける戦前の出来事は、中国という外国の土地での日本人による外国人である中国人に対する戦争下に於ける対外暴力行為であろう。いわば、よその国の人間にしたことなのである。 文化大革命の総括は、中国人自身がなすことであり、日中戦争の総括は、中国人という相手があったことだから、中国人の納得のいく範囲で、日本人自身がなさなければならない項目であろう。そのような手続きを完遂するには、当然国家絶対視の介入は許されない。 ※05.7.21.訂正 ≪7月21日に新聞のスクラップをしていて、05.7.6の『朝日』朝刊、『中国に文革博物館』と題した記事の中の[キーワード]として「文化大革命]を解説した文中に、「死者1千万人、被害者1億人(岩波中国事典)ともいわれる」とあった。迂闊にも見落としていたが、例え事実そうであっても、中国人自身が総括しなければならない問題であることに変わりはないはずである≫ 両者が 国籍や場所の関係力学自体を大きく異にしているにも関わらず、同じレベルに置いて比較することは元々無理があるのに、石原某がそれを無視して比較したのは、日本軍・日本兵の虐殺を数の点で相対化し、罪薄めしたい欲求を抱えていたからだろう。政治家なら許されるかもしれないが、作家を職業とする人間には許されない客観的妥当性を欠いた批判だと言われても、反論できるのだろうか。 尤も、私人としての靖国参拝だとするのと同じく、政治家としての発言だとしたなら、誤魔化しを効かすことができないわけではない。 中国から、文化大革命は国内問題であって、「内政干渉だ」と言われたら、石原某はどう答えるのだろう。 大体が、文革に於ける紅衛兵等の造反行為も戦争時の日本兵の残虐行為も、 国籍や場所を除いたなら、本質的には人間の人間に対する非人権性に基づいた独裁権力行為であり、そのような本質性の共通項からしたら、紅衛兵等の造反行為は日本兵の残虐行為の時間を遅れて現れた親戚関係にある類似行為 、あるいは時間を置いて相並び立たせることのできる同質行為と言えないことはない。あまり偉そうに批判できないのではないか。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ つぎは、小泉某に次ぐ人気者、安倍の晋チャン。拉致問題で常に北朝鮮に対して勇ましい強硬姿勢を見せてはいたが、 「対話と圧力」をバカの一つ覚えのオウムみたいに繰返すだけで、他に打つ手を知らない小泉某を補って、単にポーズだけのバランスを取っていただけなのだろう。 ワシントンのシンクタンク「ブルッキングス研究所」で講演した、そのエールは次の通りのものである。 「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」 「尊敬の念」ときた。 別のときは、「尊崇の念」と言っている。もっともらしげな言葉を使うことで、参拝を勿体ぶらせることができる。 逆説すれば、参拝を勿体ぶらせるために、もっともらしげな言葉で飾る必要があると言うことだろう。 言葉は違えても、また顔は違っていても、石原某と言っていることは同じである。国家を絶対視できた人間だけが、国民としての資格を得る。絶対視して、命まで投げ出したのである。そのような国民を「尊敬の念」・「尊崇の念」で以って迎えなければ、他のどのような国民を迎えることができると言うのだろう、と言うわけである。 日の丸・君が代法案も、その目的は同じ線上にある。国家を絶対視し、精神的な意味合いの行為まで含めて、いつでも「お国のために」命の捧げをする国民をじわじわと時間をかけて飼育し、その数を増やすためである。国民を従わせようとする国家意志(=権威性)を隠し持ち、ときに応じて、その顔を露にする。既に学校という教育の場で、教師・生徒に向けて日の丸・君が代を使った国家意志に従わせる°ュ制を露にしている。生徒に対しては、若い年齢のうちから国家意志に従わせられる≠アとに慣れさせる慣習化の意味もあるだろう。 かつての戦前のように、国の号令で国民が大同団結・一丸となって一つ目的に向かう。凄い光景ではないか。今はできないが、早くできるようにして、少子化に幕を降ろそうと国家が大号令をかける。外国人を入れないためにも、日本の子供を増やすしかない。そのことが単一民族日本を守ることにもなる。男が年齢的に男性機能を既に失い、相手の女性が閉経を迎えていたとしても、国家の宿願に添おうとする姿勢だけは示そうと、「お国のための」儀式として、ベッドで腰を打ち付けあうことだけはする。それが愛国心と言うものではないか。例え心臓に負担がかかって、突然あの世に迎えられようとも、血圧が上がって、脳の血管が破裂して一瞬のうちに死の道に転落しようとも、こういったことこそが命の捧げと言うものではないか。 政治家は国民に負けじと、毎晩愛人のところに駆け込む。第三の男と鉢合わせしないように、ベッドの下を覗いてから、服を脱いだ方がいいだろう。 女子中高生が援交目的で中年男とラブホテルにしけこんでいたとしても、未成年ながらも国のためを思い、コンドームの装着を要求せずに、妊娠目的の行為に変える。それ以降、無事妊娠した援交を、できちゃった援交と言う。かくして、娘が中高生の年齢なのに、孫ができておじいちゃん・おばあちゃんとなったまだ若い父親と母親が増えました。メデタシ、メデタシ。 ――日の丸・君が代は日本という国を表す表徴である。国家は目で見て把えることはできない抽象体だが、日の丸は目で見て捉えることのできる国の姿を表し、君が代は歌うことによって心に感じ取ることのできる国の姿を表す。国を表している以上、そこに国家意志が存在するのは、人間の身体に血が備わっているのと同じである。国家とは国民の創造性を含めた意識の総体なのだから、国家は国民によってつくられる。いわば国家意志とは国民意志に対応して、その総体として存在している。国民が日の丸・君が代に表されている国家意志を読み取ろうとするのは、国家に反映された国民の総体的意志を読み取ろうとすることに他ならない。そうしようとしない人間だけが、日の丸・君が代に反対する。日の丸と君が代に国民の総体的意志ではなく、 国家が特別な意志・特別な意図を込めたのが、戦前の日本だったなどとは口が裂けても言うまい。特別な意志・特別な意図で、国民を動員してきたなどと。既に戦後の日本となった。民主主義が国家の一人歩きを許さないだろう。目に余るほどに勝手に一人歩きしている個人主義の、その一人歩き≠制限する範囲の国家意志への従わせでしかない。それも、国を愛する気持に訴えた従わせである。 例え国民が目に余るほどに勝手に個人主義を一人歩きさせているとしても、国家経営に携わる政治家・官僚・役人にしても、その大半が能力的怠慢だ、贈収賄だ、脱税だ、カラ出張だ、裏金だ、ヤミ給与だ、ヤミ手当てだと、愛国心とは裏腹の、あるいは愛国心を裏切る私利私欲の個人主義を一人歩きさせているのだから、一切の従わせなしに同じ穴のムジナでいったらどうなのか。 愛国心の要求は、要求する側が愛国心を持っていて、初めてそうする資格を得る道理を逆手にとって、自分たちがさも持っていると思わせる目くらましに国民に愛国心を要求する必要が生じるのだろう。 国家の指導的立場に立つ政治家・官僚・役人・その他が愛国心を持っていないのに、国民だけが愛国心を持っている国の姿を想像してみるがいい。空恐ろしくなるほどに滑稽ではないか。それとも、政治家・官僚・役人・その他が愛国心を持っていないから、せめて国民にだけは愛国心を持って貰いたいと、愛国心教育を始めたと言うのか。それも滑稽な話である。 ――それはないだろう。日本が他ノ民族ニ優越セル@史・文化・伝統を連続させていた民族的状況に反して、戦前の一時期、その連続性のほんの一部に手違いが生じたのと同様に、私利私欲の個人主義を一人歩きさせているのは、取るに足らないほんの一部の政治家・官僚・役人・その他に過ぎない。戦前の一時期の日本の姿で、民族の連続性を判断するように、一部の政治家・官僚・役人・その他で、全体を判断するのは愚かしいことである。反論はいくらでも用意することができる。ああ言えば、こう言う。それだけだ。 能力的怠慢は、日本の政治家・官僚・役人・その他に全般的な属性としてある欠陥ではないのか。政治三流国と言われる所以がそこにある。 また、日の丸・国旗に「国民の創造性を含めた意識の総体」としてある「国家意志」が反映されるなどと言うのは幻想に過ぎない。世界を100人の村≠ニすることと同列な無謀な抽象化・公約数化に過ぎない。精々籠めることができるのは、戦前と同様に国家の都合でどうとでも変えることができる、国家意志を端的化した政治的なスローガンぐらいのものである。スローガンは常に国家意志への従わせを固定的な性格としている。そして、国民にとって常に正しい内容とは限らない。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 次は、どんな政治家なのか、何だか輪郭がはっきりしない麻生某。 麻生総務相は自分のHPで、「戦場で亡くなられた将兵を慰霊するのは外国では国家のために尊い生命を捧げてくれた勇気を称えることだ」とエールを送っている。そんなエールを打ち破るのは朝飯前だ。 「国家のために」――そう、当時の国家は正義を意味した。国家と正義は同義語だった。朝鮮併合も、中国侵略も、南方進出も、すべて国の正義としてあった。そう信じて、誰も疑わなかった。当然、そのような「国家のために尊い命を捧げ」ることは国民にとっての正義であった。国家の正義に殉ずる国民の正義であった。 つまり麻生某は戦後の現時点に於いても、「国家のために尊い命を捧げ」ることを国民の国家に対する至高・絶対の価値観であり、正義と位置づけている。いわば国家絶対視を。 その正義は今なお生きている。いや、生かしている。抹消してしまったなら、民族性維持装置の国家絶対視 の国家正義を失うことになる。 本来なら、日本社会とその上位社会である世界に於ける政治・経済・文化、すべてに亘った機会均等の良好な人間活動を約束する、公正で公平なルール構築の政治哲学の創造によって外に誇るべき民族性を、その手の創造性に一切縁がないから、それに代わる日本国家の優秀性を誇る精神的な装置として、国家絶対視を後生大事に抱えていなければならなくなっている。戦前戦後を通じた国家絶対視 の連続性を失わしめる、敗戦を境にした正義が正義でなくなった事実は何としてでも否定し去らなければならいのだ。 このような構図は、戦争以外に外に向ける民族性を創造し得ていないから、いわば国家絶対視から抜け出れていないから、戦争で被害を受けた国々から戦後60年を経てもなお信用されないことの原因となって、外に向けようとするとき、 表面上は民族性を限りなく剥ぎ取らなければならず、その分、内向きに限った過剰なダイナミズムとなって現れているということもあるだろう。 簡単に言えば、外で見せることができない偉さ・強さを、内弁慶で充足させているといったところだろう。 戦前・戦後を通じて国家絶対視にすがっているからこそ、戦前の正義を否定して、それを犯罪とまで認定した、国家絶対視≠フ連続性を断ち切ることとなる東京裁判もサンフランシスコ条約も認めることはできないのである。意識の中では、栄光ある大日本帝国をいまだ引きずっている 。 ――国家絶対視が世界に関する政治哲学の創造性の欠如の代償価値だとするのは、ちょっとキツ過ぎないか。 ――世界に向けたカネに関して、確かにカネを出すしか能のない日本だと言われるが、カネを出せる存在も貴重だ。カネなくして、ローマは1日にして成らず。国家絶対視≠フ思想が国民を勤勉に駆り立て、世界が必要とするカネを生み出している側面も評価しなければならない。国家絶対視が下位思想として包摂している会社絶対視≠フ忠節を国民にもたらし、国民を会社人間化して、世界に冠たる経済活動を生み出している。過労自殺のことは、この際省いておこう。民族について論じているのだから。 ――天はニ物を与えずと言うが、これからの日本は、人類が平等、且つ平和に暮らせる政治哲学の創出に必ずや力を発揮するはずである。 いや既に創出している。八紘一宇。戦前は手段を間違えた。初心に還って、日本の道義による世界の統一を期すれば、成せば成る。他ノ民族ニ優越セル%本がその役目を担わないはずはない。 政治家・官僚の乞食犯罪・乞食行為を以って、道義なき日本などと言う者がいるが、八紘一宇≠フ思想が再び世に問われたなら、連中だって目を覚ますだろう。目標を与えることによって、人間は生き還る。 君臨し、君臨される関係性は本能に組み込まれているが、打ち解けた対等な関係性の不在が支配と被支配の関係を生み出すだけだろう。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ では、武部某に進もう。 ――武部勤自民党幹事長は05年5月に訪問した中国で唐家セン国務委員との会談で靖国参拝へのエールとなる次のような発言を行っているが、何かケチがつけられることがあるなら、つけてみるがいい。 「戦没者の慰霊と不戦の誓いのためであって、直接軍国主義の美化につながらない」 天橋立のように股の間から覗いたとしても、鋭い感性とは無縁に見える武部某だから、ケチのつけようがないとは思うが、一応は試してみよう。 武部某が指摘した通り、「直接軍国主義の美化につながらない」。だけど、間接的にはつながるのかと追及されたら、どうしたのだろうか。あまり利口とはいえない。利口な政治家なら、最初から、「直接的にも間接的にもつながらない」と言っただろう。しかし、参拝・追悼が国家絶対視¥ユ動の解放儀式としてあるということだけは隠しおおせた。 武部某には最初から多くを期待できないのだから、それだけで多とすべきか。その後の王家瑞中国共産党対外連絡部長との会談で、次のように賜っている。 「日本では信教の自由は保障されている。首相は時期は適切に判断するが、私的身分で参拝する」 「信教の自由」なる言葉も便利なレトリックだが、「内政干渉」と同じ線上にある似た者同士に過ぎない言葉をよくぞ使ったものだ。「信教の自由が保障されている」から、それを根拠に参拝・追悼を行うわけではないのに、それをさも基本的人権行為として参拝・追悼を行うように見せかける。さすがに幹事長に抜擢されただけのことはある。少々幼稚っぽい見せかけではあるが。 戦前、キリスト教は弾圧され、廃仏稀釈で仏教は下位に貶められた。そのように厳密な意味で「信教の自由」は存在しなかったが、そのことを制約事項とはせずに、愛国者を自任していた国民なら、誰でも靖国神社は参拝できた。靖国参拝は国民を愛国者に見定める踏絵の役目も担っていたからで、参拝することで、愛国者の資格が保証された。つまり、国民に対して米英のスパイでないこと・非国民でないこと・国賊でないことの心理的な証明書の発行をも行っていた。 靖国神社は戦前までは国家神道に則り、戦後は神社神道に則った神社である。参拝する人間が無宗教の人間であったとしても、靖国神社参拝時は、神社空間に位置する以上、少なくともその宗教的慣習の影響下に身を置かなければならない。いわば、参拝時は便宜的にではあっても、いくらかは神道信徒的でなければならない一種の制約を受ける。玉串料を支払うのはそのためだろう。払わなくても、神殿の鰐口を鳴らすだけで、神道の慣習に従うことを意味する。 しかも、一般的な神社を参拝して、家族の健康や事業が軌道に乗るよう、あるいは恋愛成就・合格祈願といった個人的利益としてのご利益を願うのではなく、遺族は、戦没した親兄弟といった特定の人間のあの世での幸せを祈るだろうが、政治家は戦没者全体を対象とした追悼を行う。それとも自分の血縁に戦没者がいて、その人間だけを対象に追悼するのだろうか。 A級戦犯を含めた戦没者全体の追悼とは、戦没者の行為自体を、尊い命を侵略戦争で無駄に死なせたとするのではなく、「国のために殉じた」とする以上、国家絶対視の観点から肯定することである。国を善と把え、「命を捧げた行為」を、善である国の要求に(実態は強制であったなどと口が裂けても言わないだろうが)準じた善なる行為だとすることである。 そうすることを以って、隠れた行為とはしているが、愛国心の発揚とされる。愛国心の発揚とは、言うまでもなく国家絶対視≠フ表明そのものを言う。 善とは、上述したような正義を指すのは言うまでもない。 と言うことは、参拝基準は決して「信教の自由」などではなく、愛国心の発揚如何を基準としているのである。そう、下手に追及されたら、簡単に崩れる「信教の自由」なのである。武部某はそこまで考えていて、確信犯的に「信教の自由」を持ち出したのだろうか。そうとは決して見えない。 ――その通り、愛国心の発揚なくして、参拝は成り立たない。非国民・国賊の行く場所ではない。武部某には最初から期待していなかったが、あの男はあの男なりに頑張ったのだろう。政権与党の幹事長という役職の手前もある。反日デモに対する中国当局の対応が国際的に批判を浴びたものだから、つい強気に出たのだろうが、まあ、尻馬に乗る才覚だけは持ち合わせていたのだから、それでよしとすべきだ。これ以上弁護する気にはならない。ここにスプーンがあったなら、ポンと投げて、自分の気持を表したいくらいだ。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 「極東国際軍事裁判」否定のエール ――森岡厚生労働政務官が小泉首相の靖国参拝に関連して、次のように発言しているが、これには反論の余地がないではないか。 「極東国際軍事裁判は平和や人道に対する罪だとかを占領軍が勝手につくった一方的裁判だ。A級戦犯の遺族には年金を貰っていただいており、日本国内ではその人たちはもう罪人ではない」 「中国に気遣いして、A級戦犯がいかにも悪い存在だという処理のされ方をしているのは残念だ。日中、日韓関係が大事だというだけで、靖国神社にA級戦犯が祀られているのは悪いが如くに言う。こういう片付け方をするのは後世に禍根を残す」 次第にはっきりと物言う政治家が出てきたのは歓迎すべき兆候ではある。大体がA級・B級という等級分けは、A級が一番優秀で、B級が二番目に優秀だと相場が決まっている。A級ライセンス・B級ライセンスとか言うではないか。 そのことから判断したら、A級戦犯は一番優秀な戦犯であって、B級戦犯は二番目に優秀な戦犯と言うことになる。一番優秀なA級戦犯を祀らずして、二番を祀ることが適うはずがない。物事には順序というものがる。言ってやれ、言ってやれ。 「A級戦犯の遺族には年金を貰っていただいており、日本国内ではその人たちはもう罪人ではない」とするなら、碌でもない政治家だって、一人前に歳費を戴いている。給料泥棒は刑法犯ではないが、倫理的には犯罪の部類に入るだろう。その人たちには歳費を「貰っていただいており」、「日本国内では」「罪人ではない」としているから、政治家・官僚・役人の給料泥棒はなくならないのだろうか。言ってやれ、言ってやれ。 だが、もっとはっきりと言う人間が出てくることを期待している。「戦前と戦後を通じて連続されるべき国家絶対視≠、『平和や人道に対する罪だとかを占領軍が勝手につくった一方的裁判』でしかない『極東国際軍事裁判』が遮断してしまった。それは日本の歴史を通して連続させるべき日本民族の魂を途中で遮断したのと同じで、一民族の魂を阻害する権利はどのような裁判にもない」と。
そう、国家絶対視は他ノ民族ニ優越セル%本民族が ――当方の再反論のレトリックを乗っ取った批判の展開だが、誤魔化されはしない。国家絶対視を肯定する振りをした、その逆説バージョンに過ぎない。いくら逆説を駆使しようとも、「A級戦犯の遺族には年金を貰っていただいており、日本国内ではその人たちはもう罪人ではない」のは正真正銘の事実としてある。碌でもない政治家・官僚・役人の例は、牽強付会に過ぎない。小泉首相ではないが、「死者に生前の罪まで着せて、死んでも許さないというのは、日本人にはあまりなじまないんじゃないか」。これが日本民族の精神としてある寛大さである。いや、日本の国だけを絶対とする国家絶対視で言っているわけではない。中国人にも韓国人にも馴染んでもらわなければ困る。馴染むことに慣れたなら、中国人にしたって、文化大革命の四人組の一人、江青にも親しみを持って馴染めるはずだ。江青に馴染めたなら、東条英機に馴染むまで、ほんの 、ほんの一息だ。 日本の戦争犯罪人は米英、その他が「極東国際軍事裁判」で裁くのではなく、日本人自身が裁くべきだったとする意見があるが、単に「極東国際軍事裁判」を否定したいがための詭弁に過ぎない。日本人が正当に裁くだけの能力を持っていたかどうか疑わしいからである。裁いたなら、 馴れ合いの猿芝居・田舎芝居の類で終わり、その滑稽さは世界から嘲笑・軽蔑の的とされたに違いない。 例えば、戦後60年経過した現在に於いても、政治三流国にふさわしく、与党にしろどの野党にしろ、組織内で政治資金法違反とか選挙違反、政策秘書問題、あるいはセクハラ・痴漢の類の犯罪を犯す国会議員が現れたとしても、身内意識の馴れ合いから庇いだては一人前にするが、満足に厳しい処置を取ることができず、厳しく処分したとしても、世論や反対政党の動静を窺って、そうせざるを得ないことからのバランスシート(損得の釣り合い)の懲罰で終わることを常套的にして常態的な組織の慣習としているのである。 いわば庇いだてできたら、庇いだてする。できなければ、周囲が求める処分をギリギリのところで行うご都合・事勿れ主義を組織に於ける日本的な処罰形式としている。 警察官の犯罪への対処方法にしても、警察組織によく見られる処罰形式である。 この種の組織優先・身内優先は、国家絶対視に対応する、類型として交互作用し合った組織絶対視としてあるものだろう。 そのように自らが率先して厳しく自浄能力を発揮する体制を取れない、周囲を窺うだけのご都合・事勿れ主義の身内優先・組織絶対視からすると、日本という国の体裁を保つための国家絶対視が優先されて、日本人による戦争犯罪人裁判の線上に正当な裁きを期待することは困難であると考えたとしても、無理はないではないか。 戦争に関わる歴史認識そのものに関しても、日本という国の体裁を保つための国家絶対視が優先されているのである。一事が万事、正当な裁判などできようがなかっただろう。戦後憲法の制定にしても、日本人だけに任されていたなら、戦前の国体護持の思想と天皇主義がもっと色濃く影を落としていたに違いない。果たせなかった未完部分を、今日自民党は憲法改正で少しでも取り戻そうとしている。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ≪堺屋太一のエール≫ ――05.6.21.朝日新聞朝刊の、『靖国問題を聞く(上)』で作家の堺屋太一が書いている参拝エールは反論のしようがないのではないか。 小淵内閣と森内閣の経済企画庁長官まで務めたことのある堺屋某が満を持して主張していることである。国民の多くが納得したはずだ。 (靖国参拝が)「宗教の問題と考えるならば、内外で論議の的となっているA級戦犯の合祀にも違った論点が見える。神道は仏教やキリスト教と違って、『地獄』という概念がない。良い人も悪い人も死ねばみな『神』になる。良い神には恩恵を求めて祈り、悪い神には祟りのないように祀る、というのが、神道の本筋だ。 ところが、明治から敗戦までの数十年間神道が国家の統治や戦略と一体化した時期があった。いわゆる『国家神道』だ。戦後、神道の中でも国家神道は否定された。靖国神社は、今では『戦没』という事由などで分類された人々を『神々』として祀る一施設だ。だから、神道を信仰し、戦没した神々を崇敬する人々が参拝するのは当然だ。 ――(中略)―― 国家が戦没者の慰霊に尽くすのであれば、宗教と関係のない施設を設けるべきだ。それができたとしても、神道信者の宗教施設としての靖国神社は、何ら変わらない。どのような役職の人も信仰は自由であり、私人として参拝することを妨げるべきではない」 中韓、その他が靖国参拝を「宗教の問題と考え」てはいないのに、日本だけが条件を違えて「考え」てしまうところが凄い。先の戦争が日本国民の存在様式をも世界に問われた戦争でありながら、一国問題で済ましてしまうのは、日本という国だけの問題として考える国家絶対視を意識の中心に据えているからだろう。だから、「良い人も悪い人も死ねばみな『神』になる」と言える。 死刑になった場合の麻原彰晃を神や聖人の類に祭り上げることができるのは、アレフと名前を変えたオウム真理教内部の人間のみで、外部の一般社会に生活する日本人には、とても祭り上げることはできない相談だろう。この違いは、麻原彰晃のみならず、彼をも含めたオウム真理教に対する内と外との認識の違いからきているのは言うまでもない。 認識の違いが存在する以上、祭り上げることができないからと言って、祭り上げるよう、一般社会に強要することはできない。 認識の違いは、存在した事実に向ける姿勢の正直さが深く関係する場合がある。 そのケースに当らないとしても、戦争と日本人戦没者に対する歴史認識がそれぞれに違う事実は抱えている。そのことを考慮に入れずに、「良い人も悪い人も死ねばみな『神』になる」思想が日本という国の中で通用したとしても、通用しているのだから、中国・韓国・その他の国も理解しろとすることは、オウム真理教が一般社会に対して麻原彰晃を祭り上げろとすることが不可能であるのと同じく、単なる強要の類に堕する 。強要とは、中国・韓国・その他の国に対して、思いやりを欠く働きを為すことを意味する。 認識行為の過程で、存在した事実に向ける姿勢が正直であったなら、結果として生じた認識の違いを無視して、自分の側にのみ通用する考えを押し付ける思いやりのなさを示すだろうか。 中山某の、歴史的事実よりも、「用語」の存否により重要な価値を持たせたり、「用語」を隠すことで事実をも隠そうとする姿勢が果たして正直だと言えるのだろうかという問題にも通じる。 戦時中の日本国内の中国人・朝鮮人強制労働者に関して、「閣議決定による契約とされており、強制だったかどうかは分からない」と、そのような事実を示す資料がないことを理由に強制の有無は不確定だと認識の違いを示していたが、と言うよりも、そのことを明確にする資料の発見に自らは努力もしなかったのだから、強制 か否かの認定から逃げていたと言った方が正確だろうが、それを証拠立てる資料が他の人間によって発見されてから、その存在を認めるに至った外務省・日本政府の姿勢についてもいえる。 このような正否を自ら明らかにしようとする姿勢の欠如も、日本人自らが戦争犯罪人裁判を行った場合、公平性を期待できない理由の一つとすることができる。
従軍慰安婦の軍の関与に関しても同じだろう。最初の間は否定 堺屋某が認識の違いを無視して日本の国はこうだから、中国・韓国・その他の国は理解しろとすることは、存在した事実と正直に相対していたなら、可能なことだろうかと言うことである。知らぬが仏で、本人はそこまで考えていないらしいから、世界一幸せ者である。これも日本の立場だけを考え、それを絶対とした国家絶対視∴モ識に毒されていることから起きている 倒錯に過ぎないのだろう。 かと言って、日本の内向きなだけの都合はさておいて、中国・韓国・その他のアジアの国々の都合を入れたら、国家絶対視を否定することになる。国家絶対視は「日本人の精神と文化の本質に深く関わる」民族性維持装置なのだから、やはり日本という「お国のために」のみ戦った戦争としか考えないことにしなければならない。 どのような戦争だったのか、どのような戦争行為があったかの後付の詮索は中国・韓国・その他のアジアの国々の都合かもしれないが、日本の都合は、偉大な堺屋某が言う通りに、「靖国神社は、今では『戦没』という事由などで分類された人々を『神々』として祀る一施設」「だから、神道を信仰し、戦没した神々を崇敬する人々が参拝するのは当然」というものにしなければならない。 堺屋某はやはり作家だけのことはある。「信教の自由」を持ち出した武部某とは比較にならない、下手な猿回し顔負けのレトリックの自由自在な使い回しである。武部某の代わりに中国へ行って、言いくるめてくるべきではなかっただろうか。役者が格段に違う。 「神道は仏教やキリスト教と違って、『地獄』という概念がない。良い人も悪い人も死ねばみな『神』になる。良い神には恩恵を求めて祈り、悪い神には祟りのないように祀る、というのが、神道の本筋だ」 よくぞ言ってくれた。言葉が見事に輝いている。 小泉某は以前に次のようなことを言って、自らの靖国参拝を正当化した。 「日本人の国民感情として亡くなるとすべて仏様になる。死者をそれほど選別しなければならないのか」 小泉某は、その発言後、仏教には悪事を働いた人間は地獄に落ちるとされる宗教観(地獄思想)があって、「亡くなるとすべて仏様になる」わけではない、侵略戦争を指揮・主導したA級戦犯の合祀に不都合が生じるから、「仏様になる」発言は控えたほうがいいと注意を受けたのかもしれない。 ならばと、代わって堺屋某が登場して、「地獄」否定の連係プレーに動いたのか。そう勘繰りたくなる小泉某の「仏様」仕立てを軌道修正することになる「地獄」否定に乗っかった堺屋式「神」仕立てだが、どのような修辞語だろうが、うまく誤魔化すことさえできれば、それがすべてであるというわけである。 神道の教えからすると、「良い人も悪い人も死ねばみな『神』になる」としても、その神は、「良い神には恩恵を求めて祈り、悪い神には祟りのないように祀る」との習わしが示しているように、「良い人」は「良い神」に、「悪い人」は「悪い神」になると、善悪の神に区別している。 いわば、「死ねばみな『神』になる」としても、みな同じ「神」になるわけではなく、生前の行為の内容に従って、「良い神」と「悪い神」に仕分けられる。 まさか、「良い人も悪い人も死ねばみな」「良い神」になるとする文脈で解説しているわけではあるまい。なるとしたら、神道に於ける「悪い神」の存在自体が矛盾することになる。「悪い神には祟りのないように祀る、というのが、神道の本筋だ」とする主張も、存在しない習わしを「本筋」とすることになる。 「良い人」は「良い神」に、「悪い人」は「悪い神」になるというのが、矛盾のない自然な摂理だろう。そうでなければ、不平等である。少なくとも、戦没したからと、等しく「良い神」になれるわけではないことを、堺屋某は、そう意図していたのか、意図していなかったのか分からないが、 区別している。 だとしたら、神道の「良い神」・「悪い神」思想は、仏教の極楽思想・地獄思想と本質的には近似値を抱えることとなる。 靖国神社に祀られている、ここで言う「悪い神」とは、さしずめA級戦犯に当るだろう。だが、一般戦没者にしても、侵略や植民地支配に加担したのである。堺屋某が「戦後、神道の中でも国家神道は否定された」と言っているが、「お国のため」という正義にしても、建前上は戦後否定された価値観だから、戦後の日本社会に於いては、罪とされる行為に定義づけなければならない。 となれば、戦没者全体が「悪い神」に分類されて然るべきではないだろうか。百歩譲って、A級戦犯のみを「悪い神」としたとしても、小泉某が「二度と戦争は起こしてはいけないという気持で参拝している」とするのは、A級戦犯を「祟り」をもたらす「悪い神」であると明確に定義づけた上で、再度の戦争という「祟りのないように」という内容を気持に込めていなければならない。 但し、そのような振舞いは、小泉某自身の「死者をそれほど選別しなければならないのか」という言葉を裏切って、「選別」する矛盾を自ら犯すことになる。悩ましい限りである。 逆に、小泉某の「死ねばみな仏様になる」と価値づけたのと同じく、A級戦犯を含めたすべての戦没者を等しく「良い神」に定義づけたとしたら、それは善・悪のうち善に価値づけたと同義語となり、参拝が「戦争の美化や正当化ではな」いと否定した小泉某の言葉や、武部某の「戦没者の慰霊と不戦の誓いのためであって、直接軍国主義の美化につながらない」は合理性を失うのではないか。 しかし現実には、小泉某の「死ねばみな仏様になる」という言葉がすべてを物語っているように、すべての参拝・追悼は「お国のために殉じた」行為を善と把え、正義と把える国家絶対視をものの見事に映し出している。 堺屋某は、「良い神には恩恵を求めて祈」ると言っているが、侵略や植民地支配といった戦争に関わる罪悪や災厄をもたらしたA級戦犯に「恩恵を求めて祈る」というのは自家撞着も甚だしく、その矛盾に都合よく気づかなかったらしい。オウム真理教信徒が、例え死刑となった後の麻原彰晃をなお尊師と崇めるだろうことと同質の歪んだ美化と正当化に匹敵する自家撞着と言える。 「恩恵を求めて祈る」参拝行為が許されるとしたら、A級戦犯・一般戦没者が、特にA級戦犯が侵略戦争や植民地支配の過程全般を通じて、一貫して善≠るいは正義≠ 体現した場合に限られるだろう。但し、前後矛盾したこの関係式に整合性を持たせるとしたら、侵略戦争・植民地支配を善=E正義≠ニ価値づける必要が生じる。 いわば、侵略戦争を侵略戦争と認めず、植民地支配を植民地支配と認めないことである。 多くの政治家がホンネの部分ではそうしているのは、そのためなのだろう。 最初からそのように公式化していた意識に自分を置いていたから、A級戦犯やその他の戦没者に相当するとの考えは最初からなく、ただ単にバランス上「悪い神」を持ち出しただけなのだろう。つまり、認識的には、戦没者に関しては、「悪い神」は存在させていなかったのである。「良い神」になるとしか、考えていなかった。 しかし、堺屋某の主張を字義とおりに厳密に解釈していくと、「靖国神社は、今では『戦没』という事由などで分類された人々を『神々』として祀る一施設だ」としても、戦没者すべてを等しく「良い神」に位置づけるのではなく、「良い神」と「悪い神」に分類し、「良い神には恩恵を求めて祈り」、「悪い神には祟りのないように祀る」区別した追悼・参拝をしなければ、神道の教えに反するという齟齬が生じることになる 。 以前小淵某と森某が堺屋某に日本の経済を任せたこと自体が既に齟齬そのものであって、日本の経済がちっともよくならなかったのも頷ける。テレビに頻繁に出て、喋りに喋りまくって、経済が良くなるような幻想を振りまいたものだが 、幻想で終わってしまった。 一度、景気後退に底打ち感が出てきたとの見方を表明したとき、その根拠を尋ねられて、「私の感だが、これまで外れたことはない」とミエを切ったそうだが、「外れたことはない」その「感」はものの見事に「外れ」て、その後も横ばい状態がズルスルと続いたということだから、ハッタリと調子に関しては足して2人前の堺屋某ということなのだろう。 ――何で堺屋某は、「良い人も悪い人も死ねばみな『良い神』になる」と言わなかったのだろう。「良い神には恩恵を求めて祈り、悪い神には祟りのないように祀る、というのが、神道の本筋だ」などと、余計なお世話だ。「二度と祟りも過ちもないよう、良い神として恩恵を求めて祈る」とすれば、A級戦犯は晴れて名誉回復を遂げることができたばかりか、「良い神」に祭り上げることさえできたのに。東条英機を「良い神」に祭り上げることに成功したなら、田中角栄にだって、金丸信にだって、「良い神」の座を提供できたはすだ。生前、安心して悪徳金権政治ができると言うものではないか。いや、つい口が滑った。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 小泉首相自身の参拝に関わる自分による自分に対する数々のエールに最大限の悪意ある反論を試みてみよう。 小泉某はインドネシアのジャカルタで行われたアジア・アフリカ会議<バンドン会議>50周年の首脳会議(05.4.22)で、次のように演説している。 「50年前、バンドンに集まったアジア・アフリカ諸国の前で、わが国は平和国家として国家発展に努める決意をした。現在も、50年前の志にいささかの揺るぎもない。 わが国はかつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた。こうした歴史の事実を謙虚に受止め、痛切なる反省と心からのお詫びの気持を常に心に刻みつつ、第2次世界大戦後一貫して軍事大国にならず、如何なる問題も、武力よらず平和的に解決するとの立場を堅持してきた。今後とも、世界の国々との信頼関係を大切にして、世界の平和と繁栄に貢献していく決意だ」 「わが国はかつて――」以下は、村山談話を引用したものだという。村山談話自体が国家絶対視≠ノ反する敗北主義談話であって、それを引用するとは、小泉某自らの靖国参拝行為を裏切る変節行為でしかない。 この非難は当っているだろうか。村山談話を引用したのは深く考えられた深慮遠謀だとしたら。いわば内と外との態度の使い分けである。国家絶対視は日本国民に向けた国民統制の武器である。国民に国家は絶対だと思わせる。戦前は中国や韓国に向けて無理矢理守備範囲を広げたが、戦後の今、日本の国だけを絶対とする国家絶対視が外国にも通用するとは考えていないだろう。武部某なら考えるかもしれないが。 態度の内と外との使い分けなのは、バンドンから帰国後の衆院予算委員会での小泉某の次のような発言が証明している。 「どの国でも戦没者への追悼を行う気持を持っている。どのような追悼の仕方がいいかは他の国が干渉すべきではない。東条英機氏のA級戦犯の話がたびたび国会でも論じられるが、『罪を憎んで人を憎まず』は中国の孔子の言葉だ。私は一個人のために靖国を参拝しているのではない。戦没者全般に敬意と感謝の誠を捧げるのけしからんと言うのは、いまだに理由が分からない」 この発言には、インドネシアのバンドンで示した、「わが国はかつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」という歴史的事実とそれに対する「痛切なる反省と心からのお詫びの気持」は一切抜け落ちている。あるのは「多大の損害と苦痛を与えた」当事者であるという事実を捨象したA級戦犯を含めた戦没者の祀られた姿と、外国に誓った決意――「痛切なる反省と心からのお詫びの気持を常に心に刻」む」こと――を伏せて参拝・追悼する政治指導者としての自己の姿のみで、明らかに内と外とでは態度を違えている。 違えていなければ、「多大の損害と苦痛を与えた」当事者たる「戦没者全般に敬意と感謝の誠を捧げる」などと 、前後の矛盾を超えて褒め称えることはできないはずである。特大のマゾヒストなら、暴力を振るって「多大の損害と苦痛を与えた」サド役に、「敬意と感謝の誠を捧げ」るとすることもできるだろう。若い女性に軍服コスチュームを着せてムチを振るわさせる中年男もいるだろうから。小泉某がそのような男でないことだけは祈っている。 このような使い分けは、小泉某一人のみに見られる傾向ではなく、他の政治家にも見受けることができる、構図化された常套的な姿勢となっている。そして、褒め称える口実として、「死ねばみな仏様になる」とか、「神道は仏教やキリスト教と違って、『地獄』という概念がない。良い人も悪い人も死ねばみな『神』になる」とか、その次は、「『罪を憎んで人を憎まず』は中国の孔子の言葉だ」とかのレトリックを駆使して何が何でも正当化を図る。小泉某の言う「誠」とは、こういうことを指すのだろう。 こういった傾向を内と外との態度の使い分けと言わずして、何と形容したらいいだろうか。内にのみ通用する、日本の国だけを考え、それを絶対とする国家絶対視の巧妙なロジックの組み立て以外の何もでもないだろう。 「中国の孔子の言葉」を正当化の口実に利用したのは、中国向けに発した、中国を納得させるためのサインだったのだろうか。中国の反対には中国の言葉でと言うわけである。 以前は、「死ねばみな仏様になる」と言っていたが、仏教の地獄思想がそれを阻むことを知ってか、今度は、「罪を憎んで人を憎まずは、中国の孔子の言葉だ」と、マシンガン並みの言葉の連射である。感心するしかないが、国家絶対視を守るためには手段を――いや、言葉を選んではいられないといったところだろうか。 中国文学者の一海知義氏は新聞で、「少なくとも信頼できる文献には見当たらない」と言っている。とすると、小泉某は正当化のために言葉を選ばない自作自演の狂言を演じたことになる。自己の靖国参拝をウソをついてまで正当化しようとしたということだろうか。 また一海知義氏は、小泉某が施政演説などで引用する中国古典は「断章取義的引用法が多い(「詩文の一部だけを切り離して、自分に都合よく解釈して使うこと」『大辞林』三省堂)」と言い、「そもそも『罪を憎んで人を憎まず』は加害者側が使う言葉なのか」と切り捨てている。何、頓着などする小泉某か。 「罪を憎んで人を憎まず」とは、罪を問題とし、 その人自身は問題としないとする解釈を持たせたものだろう。その法則を加害者側に立つ人間が適用することができるとしたなら、今以って教団から離れないオウム真理教信徒にしても、麻原彰晃がサリンで殺した被害者の家族に対して、「罪を憎んで人を憎まず」と言って、麻原彰晃を加害者の対象から外して、問題としないよう乞うことも可能となる。 小泉某とその同類はここで例に出したオウム真理教信徒に譬えることができ、麻原彰晃を加害者の対象から外して許すことができないサリン被害者の家族は戦争で被害を受けた当事者やその家族の中国人・韓国人に準えることができる。 罪を犯すのは人間である。なのに、罪と人間を切り離して、人間を問題にしないで済ますことができるのだろうか。大体が、ありとあらゆる邪な感情に無縁で、澄んだ真水のように心綺麗に生きている人間以外は、「罪を憎んで人を憎まず」とする資格はないはずである。なぜなら、「罪を憎んで人を憎まず」は、それを実行する自己 までが、「憎まず」の対象とされて初めて平等性を獲得するからである。嫉妬したり、殺意を感じたりする心理上の罪であっても、それらを含めて自分が何らかの罪を犯していながら、自分を憎むなでは、自己都合に過ぎるだろう。とすると、「罪を憎んで人を憎まず」とすることができるほどに、日本人は綺麗に生きているのだろうかと問うことができる。日本人ではくても、世界のすべての人間について言えることではある。 人間は矛盾多き存在だと言われている。例え自己にウソや虚偽を抱えていたとしても、他人をそれぞれの罪に応じて裁く。感情を殺すこともできない。罪を問題とし、 その人自身は問題としないと したなら、だだでさえ矛盾している上に、いくらでも放恣・放縦となれる人間は、自らが抱えている罪を犯す生きものとしての側面を制御の効かない無秩序とする恐れがある。例え矛盾していたとしても、「罪も憎み、人も憎む」のが無理のない人間の自然な姿であるし、社会の秩序維持の上で、必要なプロセスで はないだろうか。「罪を憎んで、人は憎まず」といった清廉潔白さ・高潔さ、あるいは無欲恬淡は、現実の世界には存在しないゆえに専売特許とすることができる聖人・君子の徳としてあるものではないだろうか。いわば幻の徳というわけである。それを持ち出したのだから、その権謀術数に於いて、マキャベリか小泉かと言ったところだろう。もう1人、石原某を加えてもいいが。 大体が、衆議院本会議で郵政民営化法案に反対票を投じた自党議員に自民党首脳が懲罰を振りかざすこと自体が、「罪を憎んで、人は憎まず」のキャッチフレーズに反する、言っていることとすることの不一致を示すものではないだろうか。「人は憎まず」だったなら、反対議員と肩を叩き合って、お互いの姿勢に向けて健闘を称え合うべきである。「頑張って、反対を貫けよ」と。
特に政治家・官僚の犯罪行為・乞食行為に関しては、罪を憎む 「罪を憎んで人を憎まず」が小泉某の確固たるポリシーだとしても、罪を犯した人間の、なぜそのような罪を犯すに至ったのかといった動機や背景、そのときの人間性、いわば場面上の人間の姿は検証の対象としなければならない。特にその罪が個人の行為の問題から離れて、国家の意志を代弁する形でか、あるいは国家の意志を代弁する者の強要を受ける形で発生した現象であるなら、個人のレベルにとどめてはならず、国家対個人の関係をも対象とした、その関係性の力学をも検証が行わなければならない。 つまり、こういうことである。 「罪を憎んで人を憎まず」で終わらせることが許されるとしたなら、なぜ当時の日本国民が軍国主義に唯々諾々と従ったばかりか、なぜ積極的に同調して軍部共々自らの行為を絶対化し、絶対化の究極の表現である権力行使としてあった強制売春・裁判を経ない殺人行為としての虐殺・本人の意志を抑圧・無視した強制連行や強制使役をなし得たのか、その動機と人間性が国家権力、あるいは国家意志との間にどのような力学が働き、どう作用して醸成され、発揮されたのか、それらを問わなくても許されることになる。 あるいは、当時のマスコミが軍部の威嚇と権力に屈した挙句、軍部に対しては全面的に阿諛追従の立場を取り、国民に対しては軍国主義を積極的に煽って、戦争に駆り立てていった経緯が、そこにどのようなメカニズムが働いて彼らの人間性を変質せしめて成り立たせ得たのか、 日本人に特有な存在様式なのか、あるいは日本人に特に強く現れる傾向性なのか、人間の姿なるものを後世の教訓とするための、国家と個人の存在形式を問う検証を行わなくてもいいということになる。 さらに、現在の社会に於いても、少女を監禁して、性的暴行を加えたり、小学生女児を誘拐し、性的行為に及んで殺害したりする性犯罪者や、小学校同級生でありながら、インターネットの書き込みの言葉を動機として、無人の教室に連込み、カッターナイフで殺害することで大人並みの方法で憎しみを晴らした小学校6年生の女児の、その当時どのような動機や背景のもとで、どのような人間性が働いたのかも、「罪を憎んで、人は憎まず」の法則に従って、人間を問題としない検証で済ませることができることになる。 池田小の宅間守も、サリンの麻原彰晃も、その「罪を憎んで人を憎まず」で済ませるとしたなら、靖国神社の戦没者並みに、小泉某が主張するが如くに、「敬意と感謝の念をこめて誠を捧げる」追悼を受ける資格を有することにならないだろうか。そう、小泉某が次のようにも言っているように、「死者に生前の罪まで着せて、死んでも許さないというのは、日本人にはあまりなじまない」だろうから。 小泉某は言う。 「戦没者に対する敬意と感謝の念をこめて、二度と戦争を起こし てはならないという気持ちで、靖国神社を毎年参拝している」 当然、それぞれが軍を成した兵士の一人一人として関わった軍全体の罪を憎んで、関わった一人一人は憎まず・問題とせずと、逆にお国のために戦って尊い命を落としたのだから、「敬意と感謝の念をこめて」その魂への追悼を当然の努めとすることをすべてとし、軍部独裁の精神に抑圧されつつ加担していき、軍部共々抑圧する側に立って、アジアの人間を抑圧するに至った人間性の集大成としてあった当時の日本人の姿は「罪を憎んで、人は憎ます」で問題としないこととする。 それを、「死ねばみな仏になると言うのが日本の文化」だとか、「罪を憎んで、人を憎まず」とか、戦死者を含めた当時の日本人の姿を検証せずに、「お国のために戦って、尊い命を犠牲にした」と単純化して追悼するのは、戦争肯定・戦争美化そのものと言われても仕方がない。
そもそもからして、「お国のため」とは、「お国」が目指した侵略戦争のためであって、軍部による強制売春も虐待・虐殺 そのような「お国のために」が許されるべくもなく、そうであるにも関わらず、「お国のために」と、それが正しい目的であるかのように装い、その上に「殉じた」とすることで、兵士の行為も正当化することが、戦争の肯定、あるいは戦争美化以外の何ものでもないだろう。 「人は憎まず」が正当化されるとしたなら、喜ぶ人間の中にキム・ジョンイルを入れることができるかもしれない。日本人拉致行為も、その罪を問うことができたとしても、「人を憎まず」で、憎しみを向ける対象から外して、許さなければならない。証拠隠滅を図るために、生存していた拉致被害者をまとめて殺害していたとしてもである。小泉某は、生存している拉致被害者を証拠隠滅のために抹消したとしたら、我々は許さないだろう、と牽制することすらしない。 ――日本人は日本国内では、日本の文化で生きている。中国には中国の文化があり、韓国には韓国の文化がある。我々は、中国・韓国に対して、日本の文化を理解して欲しいと言っているに過ぎない。日本の文化とは、例えどのような戦争であったとしても、とにかくも国を純粋無私の気持で信じて戦い、尊い命を犠牲にした。そのようなに無心に生き、無心に戦い、国を思って死んでいった戦死者をご苦労様とねぎらい、祀るというものである。 ――勿論中国や韓国、その他のアジアの国々に対しては、被害を与えた事実を正直に認めて、謝罪し、反省しなければならない。内に於ける日本の文化に従って日本人が取る態度も、外に対して示さなければならない態度も、道徳的必然としてあるもので、両者が違っているからと言って、そのことがそのまま態度の使い分けになるとは限らない。道徳的必然に従っていくと、内にあるときと外にあるときとで、態度に違いが生じるのはよくあることである。 ――つまり、中国・韓国に対して向けなければならない戦争に関わる道徳的必然としてある日本の文化が、村山談話の踏襲であり、国内問題としてある靖国神社の戦没者に向けなければならない日本の文化が、「敬意と感謝の念をこめて誠を捧げる」追悼なのである。 ――そうだろうじゃないか。家の中で所構わずに屁を屁りまわったとしても、外に出たら、人前でやたらと屁を屁ることはできない。内と外とでは従うべき道徳的必然が自ずと異なってくる。道徳的必然としての内の文化・外の文化がそれぞれに存在することになる。 ――若い愛人のいる男が、そのことが露見しないように、本妻との夜の営みで、如何にお前1人を愛しているか示す証拠として、濃厚なサービスに努める。但し、そのような濃厚なサービスも1週間に1度か、2週間に1度に抑えて、精力を温存して、温存した精力を若い愛人に欲求不満となって逃げられないように回数も多く、時間も長く我武者羅に注ぎ込む。男の本妻に向ける態度にしても、愛人に対する態度にしても、両方ともそれぞれにそうせざるを得ない道徳的必然としてあるもので、いわば必然としてあるその違いを態度の使い分けと非難しても始まらないのと同じである。今後とも、内と外とに即応した道徳的必然は守らなければならないし、守っていくことになるだろう。外に対しては謝罪と反省、内に対しては、靖国神社参拝と追悼の国家絶対視。「これ以上謝罪しなければならないのか」という意見もあるが、謝罪打ち切りは内側の文化として成り立たせることができたとしても、 今のところ外向けの文化に発展させることは難しいだろう。早いとこ打ち切りたい気持で一杯だが。 ――靖国神社参拝を擁護するレトリックにどのように反論しようが、それを即座に否定し、葬り去る新たなレトリックの構築はいつでも用意できる。所詮、ケチをつけただけで終わるだろう。中国も韓国も、日本の内と外の文化を認めなければならない日がくる。中国にしても韓国にしても、それぞれに内と外の文化があるだろうから。何が何でも国家絶対視だ。他ノ民族ニ優越セル国日本だ。万世一系の2000年の歴史がそのことを証明している。 国賊め、くたばれ。
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