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 第74弾 追っかけを自己の世界とする女たちとその出生
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                                                                                                           ヨン様・神さま・仏様!!

                     来年こそいいことがありますように!!

                      ヨン様アー・神さまアー・仏様アーアー!!

                        お疲れ様アーアーアー!!
                                                                              

                         

 

 

   <追っかけを自己の世界とする女たちとその出生>

 

韓国のテレビ・映画が大ブームである。その火付け役となった韓国美男若手俳優ペ・ヨンジュをヨン様と呼んで、その再来日には日本の女性が空港ロビーから宿泊ホテルにまで大挙押しかけて大歓迎騒動を演じた。日本の新聞・テレビのみならず、外国のマスメディアも大々的に報道する社会現象となっている。中心は40代の女性で、中には50代、60代の女性もいるそうだ。世間的な言い方をすればいい年をした女たちがキャーキャー黄色い声を張り上げ、ヨン様、ヨン様と連呼する。中には泣き出す女性もいた。テレビリポーターからマイクを向けられて、「冥土の土産に一目見たくて」と言っていたオバサンもいたが、華やかであるべき風景にふさわしくない、何ともチグハグな切羽詰り過ぎている言葉に聞こえた。もう少し気の利いた言葉が言えなかったのだろうか。

 

新聞もテレビも、若い頃にアイドルの追っかけを経験した世代の懐古趣味からの現象だと解説していたが、古きを懐かしむ「懐古」は大体は行為対象もも含める。いわば自分の現在の姿から遡って追っかけた対象共々当時を懐かしみ思い出して、相手も同じくした当時の状況をそのまま再現するという構図を持つのが一般的だろう。

 

そうではなく、過去と現在と連続性のない全然別人の、しかもヨン様が何歳か知らないが、10歳から20歳年下の人気俳優に一斉に熱を上げたというのは、追っかけを行った若い頃の自分のみを懐かしんで、追っかけた相手のことは忘却の彼方に沈めてしまい、他の男に心変わりしたことを示す。彼女たちの若い頃とは20年前30年前を指すのだから、心変わりするには十分に許される年数ではあるが、逆に言うと、そのような年数を経てまで再度追っかけを演じる。真に懐古趣味が原因だとしても、それだけで完結させていいものだろうか。

 

40代以上という彼女たちに関した一般的な経歴は、若い頃に追っかけを経験し、その熱が冷めて世間並みに結婚して子供をもうけ、子供の養育から手が離れたか、離れつつある世代であろう。追っかけは自己を熱くさせた出来事だったであろうことは容易に想像できる。その後結婚・育児とそれなりに充実した生活を送ってきた。中には勤めに出ながら家事・育児をこなしてきた者もいたろう。少なくとも、それらによって時間を埋めることができた。だが、そういった生活から解放されたか、解放されつつある彼女たちが再び追っかけを開始したと言うのは、時間を埋め、生活を充実させる糧を現在持たないことの裏返しではないだろうか。いわば熱くなれない自己があり、そのような自己を熱くさせるべく過去に自分を熱くさせた追っかけという行為そのものに再度飛びついたということではないだろうか。幸か不幸か知らないが、過去の経験が役に立ったということであろう。追っかけの熱狂性と追っかけを演ずる人物の日常生活の充実性は反比例しているという公式を導き出せないことはない。

 

韓流ブームに火をつけた当初のヨン様追っかけは、中年女性も混じってはいたものの、ほんのちらほらで、殆どは若い女性だったはずである。それが40代が中心となった。そのように入れ替わった事実と過去に経験した追っかけという行為だけを重要視して、当時の追っかけの対象を捨象した経緯を重ね合わせてみると、自らに特有な追っかけの対象を新規につくり出す意図は誰も持たず、簡単便利に既成の対象に便乗したという構図が浮かび上がってこないだろうか。新規につくり出し、世間やマスコミから注目されるまでには時間がかかる。手っ取り早く注目されるには、既にブームとなっていて注目されている既成の追っかけに乗るのが一番というわけである。つまり騒げれる相手であれば、誰でもよかった。それがたまたまヨン様だった ということではなかったか。

 

中心だった若い女性はどこへ行ってしまったのだろうか。追っかけは必ずしも若い女性の特許ではない。中年若年の女性が小泉首相を共々追っかけの対象とした事実や中年女性にしても、若い世代にも向かう事実から判断すると、その対象に年齢で仕切りを設けているわけではない。今回のヨン様の再来日には若い女性も相当数混じっていてもいいわけであるが、テレビで見る限りでは、中年女性の独壇場と化していた。オバサンが割り込んできたから、一緒じゃやっていけないよと引いてしまったのだろうか。その辺のところは分からない。

 

それにしてもテレビに映し出される中年女性の誰をとってもと言ってもいいくらいに中年太りが顔にまで影響してたるんだ顔となっていた。興奮して涙まで流す中年女性がいたが、いくら必死な顔を見せても、いくら恍惚感を演じようとも、それが輝きを発するまでに美しく変化する表情に残念ながら出くわさなかった。たるんだ顔から判断するに、彼女たちを裸にしたら、胴体も腰も太腿もなおさら脂肪だるみしていて、醜いばかりに体型が崩れていることだろう。このことは彼女たちの日常生活の無意味さが生み出した体型の崩れなのだろうか。どう贔屓目に見ても、彼女たちは美しくなかった。

 

このことが意図的な中傷ではなく、妥当性ある印象であることを証明しなければならない。

 

当初主役だった日本の若い女性はヨン様以下、様≠ノ祭上げた来日する韓国人男優に大挙して近づき大騒ぎするだけにとどまらなかった。様≠スちを間近に感じるべく韓国にまで出かけて、様≠スちと同じ空気を吸う、同じ空の下に立つ、あるいは韓国人の生活を垣間見て様≠スちの日常を想像する、果ては日本人の男は厭だ、結婚するなら韓国人男性だと決めて、結婚相手を探しにいく。今回の中年女性に主役を変えたヨン様の再来日では、日本の空港で一目見るだけでは飽き足らずに、日本から韓国への帰国に合わせて韓国の空港でも一目見るべく大挙して韓国に飛び、日本の空港でのように一騒ぎを演じている。

 

これはまさに昔風に言うなら、血道を上げていると言うにふさわしい現象である。「血道」とは血の通う道、血脈を言い、「血道を上げる」とは、異性や道楽にのぼせることを言う。因みに、「血の道」となると、女性の生理時や更年期などに現れる、自律神経失調が原因とされる目まい・のぼせ・頭痛・肩こり・疲労感などの諸症状のことだそうだ。この手の集団騒動は特に女性が専門としている上に、目まい(失神)・のぼせが基礎的な身体反応として現れるから、女性の血が関係して いて、リビドーとして働いているのだろうか。

 学校も仕事もほったらかしにして、時間・距離・カネをいとわずに、空港ロビーとか、ホテルの玄関前とか、いい場所を取って確実に一目見ようと早くから駆けつけて隙間もなく一帯を埋め尽くしてしまう。待ちに待って様≠スちが姿を見せるや、まずは、手を上げたり、飛び上がったりしてキャッーと黄色い金切り声を上げ、続いて、何々様、何々様と自分の方に顔を向けさせようと必死に呼びかける。様≠スちが声の方にちょっとでも振り向こうものなら、一帯の女性が前よりも甲高く、前よりも語尾を延ばして、一斉にキャァァー、キャァァー、と声の限りに絶叫する。もはやのぼせ(興奮)状態である。中には目に涙まで浮かべて、泣き出し顔に恍惚とした表情を見せる者、握りしめた両手を胸の所で震わせて、感極まった様子となる者。お互いの興奮が興奮を呼び、伝染しあって、群集全体が金切り声で埋まった興奮の坩堝と化す。テレビのマイクが向けられると、「前の人に邪魔されて、よく見えなかった」と悔しさを隠さない女性。あるいは、「私の方を見てくれた」とさも意義あることを成し遂げたかのように興奮冷めやらぬ顔で言う女性。「見れたけど、遠すぎた。もっと間近で見たかった」と残念がる女性。

 

以上の光景は中年女性・若年女性に関係なく、共通項としてある姿であるが、若い女性に関して言えば、彼女たちは若さに助けられて、体型が崩れているわけではなく、それゆえにたるんだ顔をしているわけではなく、それなりに見られた。彼女たちも若さから離れて中年となったなら、どう熱狂しようが、それなりの美しさを演出できなくなるのだろうか。

 

初来日のヨン様騒動から遡ったそっくりな光景というと、ほんの2年前、2002年の日本と韓国が共同開催国となったサッカーのワールドカップのときに経験している。若者言葉で言うと、いわゆるイケメンのイギリスチームの名ストライカーベッカムを日本の若い女性は、言葉は悪いがバカでもチョンでもといった具合に、ベッカム様、ベッカム様と呼び慣わして追っかけと化し、今回同様に興奮して黄色い金切り声をキャーキャーと我先に張り上げ、規則もない狂ったような一大合唱状態を見せた。

 

その熱狂状態の一部始終をテレビカメラが収める。「ちょっとしか見えなかった」、「私の方に手を振ってくれた」、「もう最高。死んでもいい」と感想を述べる興奮状況も、有名人に群がってブームをつくり出すときの一続きの似た風景としてあるものである。

 

その前は、前述した現在の日本の首相である小泉純一郎の就任後の純ちゃんブーム≠ナある。小泉首相が街頭演説などで繁華街の駅前にでも現れようものなら、前以て情報を仕入れていた、と言うことは、その種の情報に常に監視カメラ並みの注意を払っていたということだが、若い女性が中年女性に混じって、まだ選挙権のない女子高生まで含めて、大挙殺到し、純ちゃんコールを始め、小泉首相の視線を自分の方に振り向けるジェスチャーとして、手を激しく振り、キャーキャーと黄色い声を口々に張り上げる一大狂乱状態を呈し、それは小泉首相が街中に現れる先々で展開されたのだった。

 

純ちゃん以前にも、様々なブームがあったろう。どのブームに於いても、お互いに張り合って周りの女性よりも大きな声を上げ、激しく手を振って、自分の方に視線を向けさせようと競い合い、向けさせるとそれを自らの手柄、あるいは成果とし、うまく向けさせられないと、重大な失敗を犯したように悔しかる。そのように有名人に対する群集なだれまがいの殺到と、相手に見られるだけの大騒ぎは一続きの自己顕示としてあるもので、その成功の度合いが自己活躍の度合いとなる。自己活躍とは自己実現の方法である。いわば追っかけによって、自己実現を図り、重要な自己の世界としている。

 

低いレベルの可能性の追求(自己活躍­=自己実現)だと言ってしまえば、身も蓋もない。引き続く社会的現象となっているのである。純ちゃん以前から純ちゃん、純ちゃんからベッカム様、ベッカム様からヨン様と他の韓国の様≠スち。中年女性はいざ知らず、若い女性は何年かのちに自らの活躍・自らの自己実現を新たなものとするために、次なるベッカム様、次なるヨン様をつくり出さないではおかないだろう。そのたびに日本の男性は情けない思いをしなければならない。中には夫ある人妻の身でありながら、子供を夫に預けることまでして、しっかりと世間のブームに乗って熱狂し、そのような自己顕示の時間埋めを自らの活躍として自己実現を図る若い女性も少なくない。

 

テレビが放映することも、重要な力となっているだろうことは疑い得ない。「テレビでやっていたでしょ?あの中に私、いたの」という具合に、活躍の価値を高めてくれるからである。テレビは彼女たちの自己顕示の、ひいては自己活躍・自己実現の価値ある証言者なのである。誰も騒がず、注目もしなければ、一人相撲で終わりかねない。

 

なぜこのように有名人の活躍と名声にあやかって、それも相手の姿を見、相手からほんの少し見られるだけの、おすそ分け程度の幸運に熱狂する自己活躍を自己実現の方法とし、それを自分の世界とすることが群集パターンの一つとなって現れるのだろうか。

 

殺到しない女性を考えてみよう。そのような自己顕示を必要としない女性。何らかの才能発揮とはとても言えない、その種の自己顕示を自己活躍の方法としない女性。そのような自己実現を自らの生活の中に必要としない女性。

 

スポーツ競技や音楽演奏など、他人の優れた才能が優れた状態で発揮される活躍を見たり聞いたりして愉しむ人間は多い。才能を発揮した活躍がモノとしての形を取った絵画や彫刻、小説・映画等に感動する人間も少なくない。その場合、自己はあくまでも鑑賞者であって、才能ある他人と自己の間に何らかの距離を置いている。そこでは解釈と言う才能以外の活躍はない。自己顕示もなければ、自己実現を目的ともしていない。スポーツ観戦の場合は観客の応援が選手に元気を与えると言うこともあるが、 才能といえる程のものではない、ただ騒ぐだけで成り立たすことのできるその種の応援を自己の職業としているなら自己の活躍とし、自己実現の一つとするのは構わない。職業としていなければ、それを上回る自分自身の職業上での活躍がなければ、それだけで終わっていることとなり、あまりにも哀しい活躍と言わざるを得ない。「あの野郎、仕事はぜんぜん駄目だが、野球の応援となると三人前ぐらい活躍する」といった評価は決して褒め言葉ではない。

 

要するに人間は自己の職業か、少なくとも自己自身が持っている自己に特有な何らかの才能の発揮によって自己を活躍させ、自らの世界を築くことこそが価値ある自己実現といえる。

 

有名人の活躍と名声にあやかった大騒ぎを活躍とし、自己実現とする──その程度の結びつきでは、どう転んでも(ベッドで転べば、相手が例え女の肉体目的のお遊びであっても、行為自体を手柄とし、手柄は勲章となり、宝となって、他人に語り広めて誇りとすることも可能だが)、自己の価値を高めようがないのに、そこには高めた自分がいる。高めることを可能とした契機とは、自分を持たない自分だからだろう。自分を持っている自分なら、自分を高めるエネルギーは自分のうちにこそあるからだ。

 

特別な才能ではなくても、手に入る一般的な才能を手に入れて、それを自己の活躍を表現する元手とし、そのプロセスと結果に価値を見い出して、それを自己実現の糧とする。いわば自分を持っているということは、自分に社会生活的な内容があるということであろう。

 

他人にエネルギーをもらうと言うことがあるが、自己に内容があってこそ、それを高める、あるいは発展させる化学反応を可能とする触媒、もしくは刺激剤の役目を持ち得る。内容がなければ、化学反応は起きようがない。 起きたとしてもその場限りの短い寿命で終わるだろう。有名人に関わるブームをつくり出す一人になるということは、テレビが取り上げたり、新聞が書き立てたりすることから、ブームが装う見せ掛けの社会性を自分が持ってはいない社会生活的な内容に纏わせて、さもあるかのように外見を飾ることではないだろうか。

 

結婚や育児、仕事は才能とは無関係に慣習で凌ぐことができる。慣習で凌ぐ結婚や育児、仕事は単なる時間埋めには役に立つが、自己を発展させる契機とは決してならない。結婚や育児、仕事を通して自己を発展させることができなかったからこそ、いい年をした中年になって再度追っかけという他人の活躍と人気に便乗した自己活躍と自己実現を図り、それを自己の世界としなければならなかったのだろう。いわば自分を持たない状態が若いときから中年になるまで続いていることが、何をしても美しさを与えてくれないのである。何ら成長していない自己のさらけ出しに過ぎないからこそ、美しくないのである。

 

多様な可能性の時代、可能性の多様化、などと言われて既に久しい。性別により、または学歴により、何がしかの差別が社会的な制約としてまだまだ色濃く残ってはいるが、日本の社会は 様々な可能性が才能や職業の形を取って活躍できる場を少なくとも用意している。

 

例えば女性の総合職は性差別の影響を受けて、例え能力があっても、今なお狭き門となっているが、完璧に閉ざされているわけではない。能力さえあれば、土木や鉄筋工といった、今まで男だけだった力仕事の世界も女性に開かれている。学歴の上下で人間の価値を計る慣習は残るものの、日本の社会が広く大衆化した結果、職業間の尊卑・貴賎の壁はかなり取り払われた状態となっている。女性の進出と活躍が広い分野に亘っていることも、そのことに貢献している部分もあるに違いない。まさに多様な可能性の時代を、あるいは可能性の多様化を社会は相当部分体現していると言っても過言ではない。

 

多くの人間が、人間は誰でも可能性を秘めていると言う。その言葉が正しいとすると、一方で自分を持たない人間が相当数いるということは、自身の可能性に気づいていないか、見つけることができないでいるということであろう。自身の可能性に気づいていながら、それを才能や職業の形にできないでいるというのは、そのプロセスに於いて、既に自分を持っていることを意味していて、単に実現できるか否かの問題が残るだけである。

 

自身の可能性に満足できないという人間もいるだろう。満足できないからといって、人気ある有名人を追っかけ、そのこと自体を自己の活躍行為とし充足するとしたら、それは自分が自分として存在することの放棄でしかない。自身の可能性を他人の可能性に預けて、他人の可能性で自己を表現するところが、やはり哀しいではないか。

 

「あんたには関係ないでしょ!私のことなんだから」と言われれば、それまでだが、自分を持たないということは、その空虚を埋めるために、他からの影響を待つか、あるいは自分から進んで受け入れることで目的を果たす。いわば他からの影響を受けやすい素地を自らつくり出すことでもある。その影響が刺激的で新奇な要素を持ち、単に自分を埋める以上に自己の価値を高める外的可能性と見なした場合、有名人の人気に便乗して自己の価値を高めること自体を、見せかけでしかないが、自己の可能性とするように、積極的に自己を預け、その可能性を利用して、自己の見せかけの可能性を開花させようとする。

 

戦前の日本人の殆どは軍国主義に否応もなしに支配された。自分を持っていても、国家権力の威しに屈して、自らの言葉を閉ざし、軍国主義の言葉を自らの言葉とした。そんな中にあっても、自分の立場を強め、心理的なものだけであっても、人の上に立つために、あるいは自己を利するために意図的に軍国主義を受入れ、利用して、自己の活躍手段とし、そのことを以って自己実現の有利な方法とした人間もいた。ましてや自己を持たない人間ほど、協力しさえすれば自己の価値を高める大歓迎の勲章となったのだから、軍国主義の何たるかを疑いもせずに、積極的に自己実現の動機としたのではないだろうか。

 

そのように自ら進んで軍国主義に協力し、軍国主義を自己可能性の活躍手段とした人間は、その活躍によって自己実現を図りはしたものの、軍国主義の何たるかを疑いもしなかった、まさにその無知こそが長い物には巻かれろ式に否応もなしに軍国主義の言いなりになっていた人間を、同じ日本人ながら、精神的に圧迫する武器となったのである。

 

自分を持たない人間が芸能人やスポーツ選手の人気と活躍に便乗して、その範囲で自己実現を図るのはいい。しかし自己活躍・自己実現のために手段を選ばないその手の便乗は、戦前の軍国主義が日本全国を覆ったように、国家権力、あるいはそれに相当する社会的勢力が社会の性格を一つの方向に向けるようとする力を見せ始めたとき、その大勢に乗じて自己実現を図ろうとする人間の積極的な出現にも力を発揮する。ヒトラーの有力な支持層の一つがドイツ人女性によって占められていたと言う事実は、極めて象徴的である。日本でもそれまでは平凡な一主婦でしかなかったような女性が大日本国防婦人会等の要職につくや国家権力を虎の威に力を得て、戦争遂行に名を借りた権力の振り回しを自己活躍とし、他人の心にまで土足で踏み込む侵害を自己実現とし得たのは、自分を持たないゆえの無知が力となったのは言うまでもないだろう。

 

尤も自分を持たない人間は手段選ばずの自己実現が単なる愚かさの発揮で終わろうと、あるいは他人をどう圧迫しようと、そんなことは気にもかけないかもしれない。但し、日本が多様な可能性を受け入れる社会となっているにも関わらず、そのことに反して自分(=自らの可能性)を持たない人間がこうも出現するミスマッチが目に余る以上、その原因だけでも探らなければならない。

 

東京の渋谷などの繁華街では、昼間から夜遅くまで女子中学生や女子高生が集まり、歩道際の花壇や植込みの縁石に腰掛けて、目の前を人がぞろぞろ通るのも気にかけずに携帯電話でメールのやり取りをして時間をつぶすことが一つの風景となっているらしい。かなりの数が家出少女で、地方から出てきた者もいるということだ。家出少女だけではなく、カネに困った者は自分の方から中年男性を物色するか、声をかけてきた中年男性と、相手が欲することと自分の応諾可能な事柄が一致した場合、その取引きによってカネを得て、当座の生活を凌ぐらしい。例えば一致物件が少女の尿や穿いているパンツだった場合、値段の交渉が成立すると、相手と一緒に喫茶店に行き、テーブルの下で相手が渡したビンにパンツを下げて放尿したり、穿いていたパンツをその場で脱いで渡して、成立した額のカネと引き換えに渡す。尿は出したばかり、パンツは脱いだばかりであることが、少女の体臭と体温、恥部の感覚を生々しく感じさせて、価値が高いそうだ。勿論少女の肉体の売り買いが一致事項ということになったなら、ホテル等で肉体とカネとの交換を成立せしめるのは言うまでもない。

 

日本がまだ貧しかった頃、貧乏学生や低賃金労働者は血を売って生活費や小遣いの足しにしたものだが、現在では女子中高生の尿や下着がホットな商品となる。時代の違いと言ってしまえば、それまでだが、切実さの点に隔世の感がないでもない。

 

彼女たちはここまでは許すという自己規制を自らつくり、それを堅く守っているそうだが、もし緊急でより纏まったカネの必要が生じたとしたら、規制を越えない保証はないだろう。上半身裸の写真をプリクラで撮り、自宅に郵送してきたカネと引換えに写真を送って、小遣にしている女子中学生のことをテレビでやっていた。「罪の意識は感じないのか」と言うテレビ局の質問に、「身体を売るわけではないから、やましくはない」と言っていた。精神的には裸を売っている。それが身体的に裸を売ることに変わるまで、飛び越えるに困難な距離ではないだろう。尤もそのような少女のすべてが、身体を売るようになるというのではない。売ると決めたら、たいした躊躇は必要とせずに簡単に飛び越せるだろうと言うことである。例え上半身だけであっても、どうせ裸の写真を売っていたのだからと、そのことが正当化の理由になるだろうから。

 

尤も世の中、売春婦も必要である。彼女たちはその予備軍に位置しているのだから、それなりに存在理由を有していると言うことになる。そう心配することではないかもしれない。

 

繁華街に出没する女子中高生、半裸のプリクラ写真を売って商売とする女子中学生、あるいは、アイドル歌手の追っかけとなって、公演に殺到する少女たち──こう見てくると、彼女たちは学校を可能性の場(可能性の追求と発見の場・可能性の育みの場)としていないことに気づく。そういった彼女たちでも、「学校はつまらないけど、友達がいるから、学校へは行く」という者もいるが、学校は社交場としての役目を自らが目的としている可能性のうちには入れていない。学校は学力と運動能力に限って、可能性追求の場としている。生徒はその範囲内で自己呈示を行い、自らの価値を高める自己活躍を図り、そのことによって自己実現を果たさなければならない。教師たちは世間に同調して、口では多様な可能性の時代・可能性の多様化と盛んに言うが、学力と運動能力の二つに限った可能性でしか生徒の価値を認めない誤魔化しをやらかしている。殆どの教師が、「子供たちが分からない」、「何を考えているのか分からない」などと生徒をこそ悪者にしているが、自分たちの誤魔化しには気づかない鈍感さに助けられてのことだろう。

 

そして家に於いても、殆どの親が学校同様に学力と運動能力の可能性しか認めない。学力と運動能力の可能性から外れた生徒は、可能性を持たないまま、学校と家を可能性追求の居場所とすることができずに、ただそれだけの理由で学校と家に背を向けて、一般社会(繁華街)にさまよい出て行く。男の子はゲームセンターとかコンビニとか。そこにはたくさんの同類がいて、ほっとするからということもあるだろう。権利意識の発達した現在に於いては、権利意識の発達していない時代のように、勉強のできない子が理解不能な授業を理解できないままに、その時間中おとなしくしているためにだけじっと我慢して席に座っているといった無為・無活躍は我慢できなくなっている。誰もがみんな活躍したいと思っている。学校で学力と運動能力を活躍の原資とし得ない生徒こそが活躍に飢えるのは、人間として自然なことだろう。他の生徒が活躍しているのに、自分は活躍するものがない。学校はそういった生徒を見殺しにしている。

 

学校だけではなく、世の中も、新聞・テレビがいつも活躍を大々的に報道し、活躍する人間をこれでもかと持ち上げて、活躍こそ最大の価値であると宣伝している。若い女性から中年女性までが有名人の追っかけを活躍と誤解するのも無理はない。少なくともマスコミは追っかけが活躍となる彩を添えている。

 

学校も家庭も一般社会から孤立した社会ではない。一般社会が曲がりなりにも多様な可能性獲得の場を実現させている以上、下位社会に属する学校が同じように多様な可能性追求の場としなければ、学力と運動能力といった可能性から排除された生徒は、当然そのような場(一般社会)に学校を省いて、学力と運動能力以外の自分の可能性の発見を期待して足を踏み入れるのは何の不思議もない流れだろう。

 

尿を売ったり、パンツを売ったり、上半身裸のプリクラ写真を売ったり、身体を売ったり、有名人のあとを追っかけたり──、そういったことが社会生活的な内容に反してはいても、例え程度の低い可能性だったとしても、それぞれが見つけた可能性であり、そこに自己価値を置き、そのことを自己活躍とした自己実現を兎に角も成就させている姿なのである。

 

但し、但しである。そのような姿に心の底から満足しているのだろうか。追っかけは満足しているかもしれない。特に中年女性は追っかけを自らの可能性の追求として大満足しているかもしれない。でも、尿を売ったり、パンツを売ったり、身体を売ったりの、可能性がそれしか許されていない学力と運動能力で満たすことができなかった学校に於ける自己に代わる一般社会での自己の姿に彼女たちは果たして心底から満足しているのだろうか。

 

満たすことができなかったのは本人の責任だと言うのは、性同一性障害者に身体的性と心の性の違いは本人の責任だとするのとさして変わらない。学力と運動能力に対する忌避はあくまでも能力と可能性の問題だからである。身体の性と心の性が一致しない状態を性同一性障害と言うなら、学力と運動能力に馴染めない性向を、可能性同一性障害と言えるのではないだろうか。

 

いずれにしても、学校の外で自分を見つけようとしている少年少女をつくり出しているのは、間違いなく学校である。学校の役目は従来的に学力と運動能力に限った可能性追求の場であって、それを変える必要はないとするなら、子供たちの外の姿は必要悪と見なして、止むを得ないことと無視すべきだろう。その場合は、都道府県は尿を売ったり、パンツを売ったりといった厳密には犯罪と言えない経済行為を規制するような青少年犯罪防止条例といった法令を制定して、外の子供たちの活躍を規制すべきではない。それが真に自分のためだけの経済行為なら、援助交際も許すべきではないか。学校を居場所とする可能性追求の機会を用意せず、学校の外に追いやって、そこでの可能性追求の機会まで奪うのは、酷に過ぎる。外に追いやった以上、例え中学生でも、大人として扱うべきではないか。大人と扱われたなら、彼らは逞しく生きていくだろう。

 

以上のことが許せないと言うなら、学校は学力と運動能力以外に、一般社会と同様に、多様な可能性を用意すべきである。自分を持たない人間を数多く外の世界に垂れ流さないためにも。垂れ流しが止んだとき、追っかけの風景も従来とは違った状況を示すのではないだろうか。

 

 


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