修善寺町では縄文前期(7000年以前)の遺跡が数個所発見されており、この頃には既に人間が生活を始めていたことがわかる。 修善寺温泉発祥の寺で、温泉場の中心にある。 修禅寺に隣接し、昔は修禅寺の鎮守さまであった。 温泉場より約5Km西の湯舟地区にあり、延暦10年(791年)に18歳の弘法大師が修行した所といわれている。 修禅寺に対面した鹿山の麓にある。 指月殿境内にある。 温泉場の西北側の山腹にある。 温泉場の南山にある。 修善寺の本尊、大日如来像が虫食いなどの損傷がひどくなったため、昭和59年、修復されることになった。 親家は、源頼朝の蛭ヶ小島の挙兵以来頼朝に従い、戦功を挙げた。 源頼朝が源氏旗揚げの折、平家の目代山木判官平兼隆を討ち、第一の功を上げる。 早くから頼朝に仕え、鎌倉幕府創設後は上野奉行職、三河守護などを歴任し、頼家が将軍になると老臣の一人として幕政に加わった。 大同2年(807年)に、弘法大師がこの地を訪れたとき、桂川で病みつかれた父の体を洗う少年を見つけ、その孝心に心を打たれ「川の水では冷たかろう」と、手にした独鈷杵(仏具)で川中の岩を打ち、霊泉を湧出させたという。 修善寺温泉の歴史は弘法大師が独鈷の湯を発見したという伝説から始まる。 弘法大師が独鈷の湯を湧出させたという伝説に由来して、4月21日の弘法忌に行われる。
修善寺の沿革
しかし、それ以後の弥生から奈良時代に至るまでは、多少の遺跡が発見された程度で、詳しいことは不明である。
町の記録された歴史の始まりは、平安初期に弘法大師が修禅寺を開基した頃からである。
当時は地名を桂谷と呼び、寺名を桂谷山寺といっていたが、鎌倉初期には、寺名を修禅寺というようになっており、地名も寺領だったところから修禅寺と呼んでいる。
この時代には源範頼、頼家が幽閉され暗殺されるという源氏興亡の哀史の舞台となっている。
室町後期に至り、現在呼ばれているように、寺名を修禅寺、地名を修善寺と区別するようになった。
徳川初期には、金山奉行の大久保長安が瓜生野金山を開発し、慶長小判などの金が採掘された。
また、紙谷では修善寺紙が漉かれ、これを色よし紙といって上流社会で珍重された。
徳川末期になって、下田開発と共に街道宿として、本立野宿が栄えている。
温泉場としては、明治に至るまでには既にある程度開けていたが、この頃の宿は共同浴場を利用していた。
明治になってから湯治客専用の内湯旅館が誕生し、交通機関などが整備されて、
多くの文人墨客が訪れるようになった。
大正末期には駿豆線が修善寺まで開通し、修善寺駅前周辺が整備されて急速に発展した。
このとき、修善寺は他村に先がけ、郡下最初の町制が施行された。
昭和30年代に至り、下狩野村、北狩野村と合併し今日に至っている。
修禅寺
平安初期の大同2年(807年)に弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから桂谷山寺といわれ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高い寺だった。
鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷の風致が支那の廬山に似ていることから当時は肖廬山と号した。
南北朝時代の康安元年(1361年)になって、畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1402年)には火災を蒙り、伽籃を全焼して寺は荒廃し衰退した。
その後、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が外護者として再興し、叔父の隆溪繁紹(遠州石雲院)が住して曹洞宗に改宗され山号も福地山と改められ今日に至っている。
日枝神社
境内には夫婦杉の大木や県の文化財に指定されている一位樫がある。
また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)がある。
奥の院(正覚院)
ここには馳籠の窟という岩洞があり、その岩壁には阿吽の滝と呼ばれる滝が懸っている。
滝の横には弘法大師降魔壇という修行石がある。
これは大師が禅定を修する勝境を桂谷に求め、適地としてこの地を選んだが、天魔地妖が多く修行の妨げとなり、住民をも煩わすので、天空に向かって大般若の魔事品を書いたところ、金色に輝く六書八体の経文がはっきりと空中に現れたという。
これにより魔衆はことごとく岩谷に閉じこめられてしまったといわれ、その後仏法は広まり国土は治まったと伝えられている。
現在、春季弘法忌には大師像を修禅寺より御興で運び1日安置するお上り、お下り、という行事が行われている。
指月殿(一切経堂)
修善寺温泉で暗殺された源頼家の冥福を祈って、母政子が指月殿、宋版大蔵経、釈迦三尊繍仏などを修禅寺に寄進したものである。 このとき門前の虎溪橋も架け替えたという。
指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉である。
大蔵経は仏教典籍の叢書という意味で、5〜6千巻にも及ぶものであるが、政子寄進として現存する大蔵経は、大半が散失し僅か8巻しか残っていない。
そのうち、放光般若波羅密多経の第23巻が静岡県指定文化財となっていて、終わりに「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提、尼置之」という政子の墨書がある。(修禅寺宝物館蔵)
指月殿の中央に禅宗式という珍しい形の丈六釈迦如来像が安置されているが、持物のないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴である。
指月殿の篇額の実物は、宋の名僧一山一寧の書といわれ、修禅寺本堂に掛けられている。
同僧は正執権北条貞時に間牒の疑いをかけられ、正安元年(1299年)に修禅寺に幽閉されている。
源頼家の墓
頼家は正治元年(1199年)に、父頼朝の死により家督を継いで、鎌倉二大将軍となった。
幼少から才気活発で弓馬に長じ、建久4年(1193年)の富士野の狩場で高名を挙げたこともある。
しかし家督を継いで間もなく、北条氏など元老の干渉も多く、老臣会議制を敷かれて独裁を封じられた。
さらに建仁3年(1203年)に罹病した時、相続のことが議せられて、北条時政と母政子(時政の娘)が、子の一幡と弟実朝に分譲する案を出した。
これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父、比企能員と意見が対立し、北条氏との間が次第に険悪化していった。
また、北条氏に対抗して頼家は、源氏の実権の回復に努め、能員と組んで北条氏を討とうとしたが、かえって能員と一幡は殺され、頼家は修禅寺に幽閉されてしまった。
そして翌年の元久元年(1204年)に時政の密計により、修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯で暗殺された。
このとき頼家は23歳という若さであった。
現在、7月17日には地元の町内会により頼家忌が催されている。(命日7月18日)
源範頼の墓
範頼は鎌倉初期の武将。義朝の第六子で、蒲冠者と呼ばれた。
治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立したとき、弟義経とともに義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。
その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、断ると、範頼も背くようになると疑われるようになった。
建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちのとき、鎌倉へは頼朝も殺されたと誤って伝えられ、悲しむ政子を慰さめて「範頼あるかぎりご安心下さい」といったことから、幕府横領の疑いを招いた。
範頼は百方陳弁につとめたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められて、日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている。
十三士の墓
源頼家の家臣は、頼家が殺された6日後に再起を期して謀反を企てたが、 挙兵前に発見され殺されたと伝えられ、その家臣を祭ってあるという。
この付近を御庵洞と呼び、鎌倉初期に、北条時政が隠栖した庵室跡といわれ、また、源頼家庵室跡という話もある。
謎の黒髪
この仏像は鎌倉時代初期の承元4年(1210年)に作られた高さ1.3mの寄せ木づくりの座像で、修復解体の折、運慶の高弟実慶の作と判明した。
仏像解体前、X線撮影により座像に底部に何かが入っていることが確認され、解体してみたところ3束の髪の毛と経文が発見された。
完成以来一度も解体されたことのないことから、これらは仏像製作時に納められたものであると判断され、この謎の黒髪をめぐって歴史論争が展開された。
北条政子か?源頼家か?頼家の妻辻殿か?諸説が入り乱れるなか、NHKは50分番組を組み、現代科学を取り入れ解明を図った。
その結果、所有者はO型とB型の血液型であると判明、性別についてはほぼ女性のものと断定されたことから頼家説は消え、政子か辻殿が二分されることとなった。
結局、結論のでないまま謎の黒髪は元どおり仏像の体内に納められることになった。
この修復により、仏像は半永久的に保存され、次に解体修理が必要となるには1000年以上も先のこととなるそうである。
この間、黒髪は謎を秘めたまま再び深い眠りについた。
堀藤次親家
「吾妻鏡」や「源平盛衰記」を通じ、親家の名が随所に出てくることから、頼朝、頼家に信頼され側近として活躍したことがうかがえる。
加藤景廉
以後、鎌倉幕府創設に献身努力し、頼朝から牧之郷をはじめ各所に所領を与えられ、岐阜県遠山地方の要衡岩村に城を築いた。
後に長子影朝に城を譲り、牧之郷に帰ると源平の合戦で亡くなった人たちの精霊供養のため読経三昧に明け暮れこの世を去った。
安藤藤九郎盛長
墓は梅林道入口右側にある。
独鈷の湯
そして、大師が父子に温泉治療を教えたところ、不思議なことに父の十数年来の固疾はたちまち平癒したと 伝えられ、その後この地には温泉治療が広まったという。
いわゆる修善寺温泉発祥の温泉で、伊豆最古のものといわれている。
温泉の歴史
修善寺に幽閉された源頼家は入浴中に暗殺されており、少なくとも鎌倉初期には温泉が利用されていたことがわかる。
それ以後の北条早雲や豊臣秀吉の古文書にも温泉入浴のことが出ているが どの程度の設備があったかは不明である。
しかし、徳川中期には独鈷の湯、石湯、箱湯、稚児の湯などの周囲の農家が湯治客を相手に部屋貸しを始め徐々に設備を充実していった。
いわゆる木賃宿で、湯治客は自炊を主とし、内湯はなく共同浴場に通っていた。
それから、共同浴場を貸し切る留湯という制度が始められ、農家は副業から次第に専業の旅館に変わっていったが、この頃には既に湯治場としてそうとう知られていた。
明治初年になって、湯治客専用の温泉を設備した内湯が誕生し、交通機関が整備されて、多くの文人墨客が訪れるようになった。
そして、それらの作品には、湯治場から避暑地化した様子や温泉場と呼ばれる風物が表されている。
共同浴場は独鈷の湯、稚児の湯、川原湯、箱湯、新湯、滝の湯、石湯、寺の湯、杉の湯があったが、この9湯の内、現在残っているのは独鈷の湯だけである。
その後、温泉場の住民用共同浴場として、町内会共同経営の神戸湯、南湯、源氏湯、真湯が作られ利用されている。
温泉郷は、昭和21年までは自噴泉と小規模タービン揚げ湯とが共存していたが、22年以降乱掘、増掘競争が始まり、25年には自噴泉は総て枯渇してしまった。
また、平均泉温は昭和22年までは65℃であったが、56年には56℃まで低下した。
この対策として、温泉事業協同組合では、利用可能な源泉73井の内優良な26井を集中管理することとし、昭和54年11月に着工、56年5月に完成した。
その結果、水位は集中管理前は平均で海抜15mであったが、59年10月には80mに、泉温も62℃に上昇した。
泉質は、単純泉と含芒硝石弱食塩泉で、神経痛、リューマチ、胃腸病などに効果がある。
湯汲式
源泉名の入った湯桶に独鈷の湯を汲み、露払いや稚児を従えた娘たちにより、修禅寺本堂の大師霊前へ献湯する行事。