1967


JOHN MAYALL&THE BLUESBREAKERS

9月

CRUSADE
LP:(Decca LK 4890).
日本盤 :POCD-1853 デラムレコード(ポリドール)

Oh, Pretty Woman (A.C. Williams)
Stand Back Baby (John Mayall)
My Time After Awhile (Robert Geddins/Ronald Badger)
Snowy Wood (Mick Taylor/John Mayall)
Man Of Stone (Eddie Kirkland)
Tears In My Eyes (John Mayall)
Driving Sideways (Freddie King/Sonny Thompson/Bridge)
The Death Of J.B. Lenoir (John Mayall)
I Can’t Quit You Baby (Willie Dixon)
Streamline (John Mayall)
Me And My Woman (Gene Barge)
Checking Up On My Baby (Sonny Boy Williamson)

Producer Mike Vernon. Sound engineer: Gus Dudgeon.

Line-up:
Mick Taylor (g)
John Mayall (voc, org, p, harm, g)
John McVie (bass)
Keef Hartley (dr)
Chris Mercer (tsax)
Rip Kant (bsax)

 ジョン・メイオールは1993年11月23日にチェシャー州マックスフィールドで生まれる。
父親はセミプロのミュージシャンでジャズレコードのコレクターだったという。
しかし両親が離婚した為に、メイオールは3歳の時にマンチェスターの祖父に頭けられ、
その前後からピアノやギターを習い始め、ブルースに傾倒していく
ことになった。マンチェスターのジュニア・アート・スクールを15歳で卒業後は、
デパートのディスプレイ係として働くが、その後、兵役に就き、
国連軍の一員として韓国に赴任、その休暇中に日本を訪れ、日本製のギターを買って帰り、のちに
9弦ギターに改造して使用したというエピソードも残されている。2年間の兵役後にマンチェスターの
ザ・レジオナル・カレッジ・オヴ・アート (1955〜59)に進学したメイオールは、学友たちとザ・パワーハウス・フォーというバンドを組み、
ブルースを演奏していたという。カレッジを卒業 後は広告デザイナーとして働く一方、セミプロとして、ザ・ブルース・シンジケートというバンド
を組み、地元マンチェスターのツイステッド・ホイール・クラブで演奏活動を行なっていた。この
クラブによくやって来ていたのが、ロンドンのアレクシス・コーナーのブルース・インコーポレイテッドで、
コーナーはメイオールにロンドンに出て来るように進言することになった。しかし、バンドのメンバーはプロになることに難色を示した
為に、メイオールは1963年に単身でロンドンへ行くことになった。メイオールが29歳の時だった。
メイオールは昼間は製図の仕事をしながら、コーナーに紹介されたデイヴィー・グラハム(g)らと
演奏を始めるようになり、何人ものミユージシャンらとギグやリハーサルを行なったのである。
その中からジョン・マクヴィー(b)を含む初代ブルース・プレイカーズが生まれたのであった。
そして、ローリング・ストーンズ、ヤードバーズ、マンフレッド・マンなどのブルース・ロック・バンドが台頭する中、
ジョン・メイオールのブルース・プレイカーズも1964年の初めにデッカ・レコードとの短期契約に成功し、
メイオール(vo′ harp′kbd)マクヴィー(b)、バーニー・ワトソン(g)、マーティンハート(ds)という第3期ブルース・プレイカーズにより、
64年4月にデビュー・シングル "crawling Up A Hill/Mr.James" を発表している。
しかし、臨時参加のドラマーなど不安定な状態が続いた為に、マンチェスター時代の
ブルース・シンジケートのドラマー、ヒユーイ・フリントを呼び、ギターもロジャー・ディーンに交替し、
65年2月に2枚日のシングル‘crocodile Walk/Blues CIty Shakedown’と、65年3月にデビュー・アルバムとしてロンドンの
ウエスト・ハムステッドのクラブ、クルークス・クリークでライヴ録音した
"John Mayall PlaysJohn Mayal"を発表している。
ところが、カントリー指向の強かったロジャー・ディーンは、短期間でブルース・ブレイカーズを去ることになり、
また、デッカとの契約も延長されないことになってしまったのである。
メイオールは、残ったブルース・プレイカーズのメンバー、ジョン・マクヴィー(b)とヒューイ・フリント(ds)に
1枚のシングルを聴かせたのである。それは発売されたばかりのヤードバーズの
「フォー・ユア・ラヴ」のB面に収録されていたインスト・ナンバー「ゴット・トゥ・ハリー」だった。
この曲でのエリック・クラプトンのプレイに注目したメイオールは、丁度その頃にクラプトンが
ヤードバーズを脱退したという話を聞き、クラプトンにアプローチをすることになった。
こうして、クラプトンを獲得したブルース・ブレイカーズは、よリピュアなブルースに接近した
独自のブリティッシュ・ブルースをやり始めることになるが、それは正にメイオールとクラブトン
ばかりでなく、のちのブリティッシュ・ブルース・ブームへと繋がるエポック・メイキングな出来事となったのである



         


<Crusade>
 ●原磐番号:Decca LK4890
 ●発売年月:1967年9月
 ●チャート:UK6位
          US136位
 ●メンバーl:ジョン・メイオールくVo.Harp.K.G)
       ミック・テイラー(g)
       ジョン・マクヴィー(b)
       キーフ・ハートリー(ds)
       クリス・マーサー(ts)
       リップ・カント(bs)

1967年5月、ブルース・プレイカーズからピーター・グリーン(g)とミック・フリートウッド(ds)が脱退し、
フリートウッド・マックを結成することになった。当初はマックの結成に誘われたジョン・マクヴィー(b)は、
ジョン・メイオールの下に残り、ブルース・プレイカーズの体勢を立て直すこととなった。
新しいドラマーは、すぐにキーフ・ハートリーに決まった。ハートリーは1944年ランカシャー州プレストンに生まれ、
62年頃からリヴァプールの音楽シーンで活動を始め、ビートルズに加入したリンゴ・スターの後任ドラマーとして
ローリー・ストーム&ザ・ハリケーンズに参加していたこともあった。のちに
ロンドンに出て、R&Bバンドのアートウッズ
(ロン・ウッドの兄、アート・ウッドやジョン・ロードが在籍)で64〜67年にかけて活動していた。
アートウッズはデッカ・レコードと契約していたこともあり、本作のプロデューサーでもある
マイク・ヴァーノンが契約したアメリカの黒人ブルースマンのチャンピオン・ジャック・デュブリーの
セッションに呼ばれハートリー(ds)とマルコム・プール(b)のリズム隊はレコーディングに参加している。
その時にゲスト参加していたのが、ジョン・メイオール(harp)とエリック・クラプトン(g)という当時のブルース・ブレイカーズ
の面々で、その時からの知り合いどうしだった。ハートリーはメイオールからの誘いを受け、
ブルース・ブレイカーズに加わることになった。
ピーター・グリーンに代わるギタリストとして、メイオールはひとりの若者の存在を思い浮かべていた。
それは以前、ハートフォードシャーのウェルウィン・ガーデン・シティでギグを行なった時に、
ギタリストのエリック・クラプトンが到着せず、その代役として急拠飛び入り出演してプレイした若者のことであった。
彼はブルース・ブレイカーズのレパートリーをほぼ完璧にマスターする程のメイオールの大ファンだったのである。
その若者の名はミック・テイラーといった。テイラーは1948年l月17日、ウェルウィン・ガーデン・シティ生まれで、
65年からゴッズというバンドを率いていた。このバンドにはケン・ヘンズリー(kbd、のちユーライア・ヒープ)や
ブライアンとジョンのグラスコック兄弟(ds、b、後者はジェスロ・タルなどで活動)が在籍していた。
テイラー在籍時のゴッズはシングルを一枚だけ発表しているが、テイラーの脱退時に一度解散し、
その後、へンズリーを中心に再結成し、それから2枚のアルバムを発表している。
メイオールはメロディ・メイカー誌にテイラーを探す広告を出し、彼を見つけ出すが、
その間にテリー・エドモンズというリズム・ギタリストも見つけ、最初の1ヶ月はふたり
のギタリストという編成だったこともある。
また、以前のアルバムではブラス・プレイヤーにはセッション・ミユージシャンを使って
いたが、新生ブルース・ブレイカーズには正式メンバーとして、クリス・マーサー(ts)とリップ・カント(bs)も加わることとなった。
こうして、6人(67年6月だけはエドモンズが加わった7人)編成となったブルース・ブレイカーズは、7月11日と12日にロンドン
のウエスト・ハンプステッドのデッカ・スタジオで、本作「クルセード』のレコーディング・セッションを行なったのである。
プロデュースには、デビュー以来のつき合いとなるマイク・ヴァーノンが当たっている。
収録曲12曲中、オリジナルが5曲、ブルースのカヴァーが7曲]と、2作目の「ウィズ・
エリック・クラプトン』に続いて、よりブルース色の濃い内容となっている。カヴァーの
出典を記しておくと、「オー、プリティ・ウーマン」がアルバート・キング(先頃、ゲイリー・ムーアがアルバート・キングをゲストにカヴァーした曲。)
(因みにそのムーアのアルバム スティル・ゴット・ザ・ブルースのジャケットにはブルース・ブレイカーズのアルバム ハード・ロードが写っている)、
実は本作のレコーディングの約2ヶ月前に、メイオールはデッカ傘下のレーベル、エース・オブ・クラブに、ヴァーノンとの共同プロデュース作品 The Blues Alone を録音
していたのである。そのアルバムはメイオールのオリジナル楽曲のみをひとりで;演奏・歌唱したもので、
数曲でハートリー(ds)の助けを受けただけのワンマン・アルバムであった。おそらく、
その作品でオリジナル曲を多く使用してしまったことから、『クルセード』ではブルースのカヴァーを多く収録したというのが、真相ではないだろうか。
また、当時19歳という ミック・テイラーのブルース狂振りを反映した選曲という見方もできるかもしれない。
本作「クルセード」は、イギリスでは前々作の6位、前作の10位に続いて、アルバム・チャートの8位まで上昇するヒットとなり、
ブリティッシュ・ブルース・ブームの確立を成し遂げたのである。そして、ブルース・ブレイカーズは、1968年1月になると
初のアメリカ・ツアーをニューヨークのカフェ・オ・ゴー・ゴーからスタートきせ、その反響を受け「クルセード』は初めてビルボード誌の
トップ200にチャート・イン、136位のヒットとなったのである。


※この文章は日本盤CDのライナー赤岩和美氏 筆を転載したものです。

 Having written all く赤岩和美/Kaz Akaiwa〉


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