張騫 ちょうけん (?~前114)
中国・前漢時代、武帝配下の冒険家。 匈奴撃退の方策を求め西方に旅立つ。
行きと帰りで匈奴の捕虜となりながらも、脱出し、無事帰還。
帰ってきたのは出発の15年後だった。 西方の月氏との同盟には失敗したが、
彼の持ち帰った西域の情報は後の中国に大きく貢献することに。出身は漢帝国の故郷・漢中。 若くして武帝の側近になっていることから、彼の生まれが良かったか、早くか
ら彼の才気が世に知られていたかと思われる。 性格は史記にも「騫、人と為り彊力、寛大にして人を信ず」
とある。彊力とは「精神力が強い」こと。
また、「蛮夷も之を愛す」と書かれるほど人好きのする容貌で、まさに外交官向けの人物だった。
武帝が募集した月氏との軍事同盟のための使者に志願し、100人の兵士を率き連れて長安を出発。
しかしすぐに匈奴の捕虜に。 10年後脱出し、月氏に到達。 交渉には失敗。 帰り道でも匈奴に捕ま
るが、再び脱出し、出発15年にして長安に帰還。 任務には出発したものの、武帝には歓迎された。
その後、匈奴討伐軍の指揮官となるが、名将・李広とともに出撃した戦いで大敗。 位を奪われる。
のち武帝によって名誉を回復され、外交官として活躍した。 武帝から与えられた”博望侯”の称号は周辺
民族から厚い信頼を受け、張騫ののちも漢の正使は博望侯を名乗った。
安世高 あんせいこう (2世紀)
中国仏教の開基者とされる人物。その諸伝には伝説的色彩が強い。鳩摩羅什 くまらじゅう クマーラジーヴァ (344~413)西域の安息国(パルティア)の皇子であったが、出家してから中国へ帰化した。 元の姓名は不明であるが中国へやってきた年代は、後漢末の桓帝の建和2年(148年)であるという説が強い(異説もあり)。
帰化してから生国によって「安」の姓を与えられ、洛陽で「大安般守意経」など30部37巻を漢訳、とくに「阿毘曇経」に精通し、この勤行と実践によって禅の基を開いたという。 彼の伝訳した教典には小乗系が多く、大正新修の「蔵経」に収載されている。彼以前に仏典を翻訳した人物の記録が無いので、彼をもって中国で仏教が開基されたとされている。
彼が江南まで布教したという伝説もあるが、根拠は薄弱。 その他にも方術的おもむきのある伝説が数多く残っているという。
のちに北魏時代に伐誅された安原は、安世高の子孫だとされていた。
西域、クチャ(亀慈)出身の僧。 父はインド人。 後秦に招かれ、401年に長安に来て、仏教
の布教につとめた。 多数(74部384巻)のサンスクリットの仏典を漢字に翻訳。 また大乗
論などの講学を通じて、中国での初期の仏教の発展に、おおきな役割を果たした。鳩摩羅什生誕の伝説
北インドにとても聡明な王がいて、その息子に鳩摩羅炎という王子が生まれた。 この王子は父王を凌ぐぐらい
聡明に育ち、父も国民たちも、この王子はさぞかし立派な国王になるだろうと、とても大きな期待を抱くようになっ
たが、この王子は自分が将来国王になることを望まず、ある日国を飛び出して行方不明になってしまった。
一方、西域の亀慈の国王に、ある妹がいたが、その女性には体に赤いアザがあり、その当時のその地方では、
それは将来聡明な男の子を産むよい印であると思われていた。 しかし、彼女は男が嫌いで自分が結婚する気
などまったくなく、兄王を困らせていた。 兄はたいそう心配して、いろいろな男性を見つけてきて娶せようとする
ものの、彼女はいつも首を横に振って受け入れようとしない。 国王もそれ以上無理強いすることもできず、半ば
あきらめかけていた。
そんなところへ、ひとつの噂が届いてきた。
インドからパミールの難所を越えて、東へ向かっている一人の王子がいるというのである。 亀慈王も以前に北
インドの流浪の王子・鳩摩羅炎の話を耳にしたことがあり、同じ王族として、彼に会ってみたくなった。 国王は
王子に敬意を表するためにみずから国境まで出迎えに向かい、丁重に王宮に迎えた。
連れられてきたこの王子の姿を見て、一番心を動かされたのが、これまで男の姿には全く見向きもしなかった国
王の妹だった。 兄である国王に「あの人となら」と言ったのである。 やがて二人は結婚し、ほどなく妻は子を身
籠もった。
すると、突然彼女は以前にもまして理知的になり、たとえば寺で行われる説法を聞きにいけば、聞いたこともない
サンスクリット語を理解してしまうほどであった。 人々は、彼女のことを「舎利弗の母」の生まれ変わりと噂した。
まもなく男児が生まれ、クマーラジーヴァと名付けられて大切に育てられた。 クマーラジーヴァが8歳のとき、母
は息子を連れて父親の生地であるガンダーラへ赴き、息子に仏教を学ばせた。
仏図澄 ぶっとちょう (?~348)
西域、クチャ(亀慈)出身の僧。 4世紀初めに洛陽に来た。 五胡十六国時代に、後趙
であつい扱いを受け、華北を中心に布教を。 門下に道安、道安の弟子に慧遠。
阿羅本 あらほん (7世紀)
唐の時代に中国にキリスト教(ネストリウス派)を伝えたペルシャ人の僧。ペルシャ名は伝わっていない。唐の太宗の時代の貞観9年(635年)に伝道団のリーダーとして長安へ来る。
太宗は宰相の房玄齢と魏徴に命じて丁重に迎えさせ、宮殿に召して教義に関する審問をおこない、持参した教典の漢訳をおこなわせた。そして、その説くところを善しであるとして、貞観12年(638年)に布教を許可し、長安市内の義寧坊に寺院を建立させ、教義を学習する僧21人を用意した上、皇帝の肖像を下賜して寺院の壁に掲げさせた。
高宗は彼を崇めて鎮国大僧正の称号を与えたという。
阿羅本の元の名前は分からないが、阿羅本というのも元の名を反映したものではなくもシリア語で「教会の長老」を意味する「Rabban」に当て字をしたものであろう、と言うのが通説である。 日本語の本では「オロポン」と記している物もある。
王玄策 おうげんさく (7世紀)
唐の時代の戦う外交官。コロンブス、クリストファー(クリストヴァル・コロン)(1446ごろ~1506)641年に北インドの王ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が中国の唐に、使いを送った。 その使者の帰国を送るために、唐の太宗は李義表を正使とする一団を送ったが、このとき副使として王玄策は同行し、643年にマガダ国(摩伽陀)に到着した。 さらに47年には王玄策が正使となり、副使蒋師仁とともにふたたびインドに赴いた。
しかしこの2度目の渡印のとき、すでに戒日王が死去していたのみならず、混乱した北インド情勢の中でいち早くマガダに侵攻して王位を簒奪した北方の小国(ティラプクテイ国、帝那伏帝)の王、アージュナ(阿羅那順)が、軍隊を動員してこの唐の使節団の行く手を阻んだので、王玄策は素早く手を回して当時、唐の公女・文成公主の輿入れで唐と同盟関係があったチベット、ならびにヒマラヤ山麓に一大独立国を成していたネパールから兵
を引き入れ、インド軍を破ってアージュナ王を捕虜とすることに成功した。 捕虜となった敵王を連れて彼は中国へ帰り、この功績で朝散大夫に抜擢された。
さらに10年後の658年、唐の高宗からの命を受けて3度目のインド訪問を行い、ヴリジ(婆栗闍)にまで至っている。彼の著書『中天竺行記』は散逸しているが、『法苑珠林』や『釈迦方志』などにその断片が伝わっている。
新世界を「発見」したジェノヴァ出身の、イタリア人。ヴェスプッチ、アメリゴ (1454~1512)
フィレンツェの地理学者トスカネリの地球球体説を信じて、西回り航路でインド到達を企て、
苦労のすえ、スペイン女王イザベラの援助を得てサンタマリア号以下3隻に乗り、二月半の航
海を経て、バハマ諸島のサンサルバドルに到着。 キューバ・ハイチの島々も次々と探検し、
スペイン領とした。 その後3回の航海を行ったが、晩年はスペイン宮廷内の政争に巻き込まれ、
また彼自身の性格が災いして、不遇に過ごし、失意のうちに死去。「コロンブス=ユダヤ人説」って、なんなのあれ?
アメリカ大陸を「発見」した、なぞの航海者。コルテス、エルナン (1485~1547)イタリアの出身。 フィレンツェに生まれ、メディチ家の銀行員として働いていたころに、たまたま取引のために
セヴィリヤへ行き、出航準備中のコロンブスと知り合った。
のちに航海士となり、99年にスペインの探検隊に加わって南アメリカ大陸沿岸を巡り、1501年からはポルトガル
の探検隊をみずから率いて再びブラジルの東岸を航海中、南十字星の観測結果からここがアジアではなく、
まだ知られていない新しい大陸であるとの認識に至った。
メディチ家の支配者であるロレンツォ・デ・メディチに宛てた彼の書簡が1503年に公開されると、ドイツの地理学
者のマルティン・ヴァルトゼーミュラーは世界地図を作成した際に、ヴェスプッチにちなんでこの新大陸を「アメ
リカ」と命名した。
しかし、ヴェスプッチの書簡集は大きな反響を呼んだにもかかわらずの記載された内容に不明瞭な部分も多く、
偽書説もしばしば話題となった。
大航海時代、メキシコのアステカ帝国を征服した征服者(コンキスタドール)。ウィンスロップ、ジョン (1588~1649.3.26)
。エヴリヤ・チェレビー Evliya Celebi (1611~?(1684以降))彼
オスマン朝を代表する旅行家。彼のこの名前は筆名で、本名は不明。
イスタンブールの宮廷の宝石細工師長の子として生まれ、スルタンの近くに仕えたあと、騎士(スィパーヒー)
となった。
30歳の頃から約40年の期間にわたり、オスマン帝国の外交使節の一員として中東から、中欧・東欧にいたる
広い地域を、旅行した。
彼の著になる『旅行記(セヤーハト・ナーメ)』は、オスマン時代最大の紀行文学作品であり、虚構や誇張も少なく
ないが、当時の社会・民俗・地理に関する情報の宝庫である。
フェルビースト、フェルディナンド(南懐仁)(1623~1688)
イエズス会士で、清朝初期の中国で布教。 ベルギー人。初め陜西省で布教に当たったが、まもなく北京に呼ばれてアダム・シャール(湯若望)を助けて欽天監(=天文台)
で活躍した。
讒言を受けて一時期投獄されたりもしたが、出獄を許されると、ヨーロッパの天文学による暦計算法を導入し、
欽天監監正の地位についた。 西洋式天文観測機器の製作、その解説書『霊台儀象志』の著述、そして世界
地図『坤輿図説』の作成にも関わった。
ラ・サール、ロベール・キャヴァリエ・デ (1643~1687)
フランスの探検家。 五大湖からミシシッピ川河口までを探検。ペン、ウィリアム William Pen (1644~1718)23歳のときにイエズス会士としての地位を離れてカナダに渡航し、五大湖一帯を探検した。
さらにイリノイ河からミシシッピ川にいたり、河口一帯をルイ14世にちなんで「ルイジアナ」と命名し、国王に
献上した。
しかし、その地の植民地総督と敵対したためにいったん帰国し、あらたな植民計画を立ててふたたびこの地に
赴いたが、計画は失敗し、彼は部下に殺害された。
アメリカ開拓期の、クェーカー教徒の指導者。 ペンシルヴァニア植民地を建設した。オックスフォードを中退し、クェーカー教徒となって、最初執筆と説教活動をしていた。
1681年、海軍提督だった父が死去すると、彼が国王から新大陸のペンシルヴァニア植民地の領主権を認め
られた。 彼はこの地を宗教的平等と自由の実践の地とすることを決意し、翌年、イギリス人ばかりでなくドイ
ツ、オランダ、スコット&アイリッシュ系移民などを引き連れて、「神聖なる実験」と称してペンシルヴァニア植
民地を建設した。
彼が信奉したのはクェーカー主義であり、教徒は階級や職業に関わらず平等であり、信徒はお互いを「友 (F
riend)」と呼び合って聖職者を持たなかった。彼らは学識は評価せず、聖書と「内なる光 (Inner Light または
Christ Within', Light Withinなど)」にもとづく信仰を尊重した。牧師の権威を否定し、女性に説教をさせるなど、
教義の違いから、ニューイングランドでは清教徒の迫害に遭っていた。
新天地でのクェーカー教徒らは、インディアンと友好を結び、フィラデルフィア市建設などを計画したりしたが、
本国での名誉革命勃発を機にペンの領主権は没収され、また周辺の他植民都市との仲が悪化するなど、晩
年は非常に苦労した。
ペンの著作に、開拓直後に著した報告書『ウィリアム・ペンからの手紙』(1683年)がある。
イエズス会士で、中期清朝の中国で布教。 フランス人。 康煕帝に幾何学を教える。ルイ14世が派遣した宣教師団の一人として、32歳の時に北京に入り、布教に当たった。
そのうちに学識が認められて清朝の英王・康煕帝にユークリッド幾何学、解剖学などを進講するようになっ
た。 一旦帰国をした一時期を除いて、その後はずっと北京で生涯を過ごし、とくに皇帝に命ぜられた『皇輿
全覧図』の作成に当たっては、モンゴルおよび万里の長城一帯の測量を担当した。
彼の著した『康煕帝伝』は、清朝史の貴重な資料となっている。
リヴィンクストン、ディヴィッド (1813~1873)
コンゴの密林で行方不明。スタンリー、ヘンリー・モートン (1841~1904)スコットランド生まれの宣教師。
医学と神学をきわめたのち、28歳のとき宣教師として西アフリカに渡る。
1849~56年までカラハリ砂漠、ザンベジ川流域とコンゴ盆地を探検。
1858~64年にかけてふたたびザンベジ川流域を探索し、この間にンガミ湖、ヴィクトリアの滝、ニアサ湖を発見
する。 1866年にナイル川水源確認の旅に出発するが途中で消息を絶ち、彼を捜し出すという使命を受けた
若き新聞記者スタンリーによって1871年に発見された。
著書に『アフリカ探検記』(1857)
また彼は、一貫して奴隷貿易の廃止を主張していた。
消息不明のリヴィングストンを探し出して名声を得た新聞記者。ヘディン、スウェン (1865~1952)イギリス生まれの新聞記者で探検家。
アフリカで行方不明になっていたリヴィングストンの捜索に乗り出し、1871年タンガニーカ湖畔のウジジの町で
彼を発見。その顛末を記した『リヴィングストン発見記』(1873年発表)で一躍有名になる。
その後、1874~77年にかけてアフリカ東海岸からコンゴ川を下ってアフリカ西岸に出る、という大横断計画を
完遂した。
さらに、1979~84年に再度コンゴ川を探検、87~89年にはエミン・パシャの救出に赴き、アルバート湖にまで
達している。
スウェーデンの探検家。 少年の頃に「極地を探検したい」という夢を持ち、研究と訓練南極のスコット、ロバート・ファルコン (1868~1912)
を重ねた。とうとう28歳のとき、第1回「死のタクラマカン砂漠横断」を決行。
厳しい旅のすえ、かろうじて生還。
第2回探検で、伝説のロブ・ノールと楼蘭の古都を発見。
全4回の探検旅行で、中国奥地、中央アジア、チベット、トランス・ヒマラヤ、北インドの、
おおくの未知の地の解明に業績を残す。
代表的著書は『さまよえる湖』。
イギリス海軍軍人。 クックが「永遠に探検されることはない」と記した前人未踏の南極大アムンセン、ロアルド (1872~1928)
陸への一番乗りを目指す。 しかし、ノルウェーのアムンセンと競争になり、ようやく辿り
着いた南極点で、アムンセンのほうが一足早かったことを知る。 失意の帰路で、力つ
きて死す。
彼の敗因は、極地での経験不足と準備不足だが、 こんな彼でもむかしからイギリスで
は英雄扱い。
ノルウェーの探検家。 最初北極点を目指したが、アメリカのペアリー中佐に先を越され
てしまったため、目標を南極点初到達に変える。 南極についたのは半月ぐらい?後だ
ったが、天候に(比較的)恵まれ、スコットよりも半月はやく南極点に到達する。